ひゅう、と吹いた冷たい風に臆したわけではなく、皇子は歩みを止めた。
その前方にある噴水の上、氷の粒を撒き散らしながらネアキが静かな表情で浮かび上がっている。
その姿をまっすぐみつめ、ヴァルドは小さく微笑んだ。
「今宵も、愛しい者のもとへ道は開かれないのか……」
どこか芝居がかったヴァルドの言葉にわずかに眉を動かしたものの、ネアキは問答無用で手にした杖を振り上げた。しゃらしゃらと音を立て繊細な氷の結晶が集まっていく。
「だが、私はゆく」
ばさり、とマントを翻しヴァルドは皇子に相応しい凛とした空気をまとい、言い放つ。腰の剣を抜いて、構えた。
「これは、罪を犯した私が愛を得るために、与えられた試練」
「……あれは、あなたのせいじゃ……ない」
ネアキは、決してヴァルドを嫌ってはいない。クレルヴォに操られ、カレイラ王国を攻め、ティアをひどめにあわせたけれどそれは彼の意思ではない。平和を望み、疑われながらもこのカレイラ王国内を奔走できる強い意志と優しい心がある。この街の都合のいいときだけ頼ってくる人間とは違うのだ。
そして、クレルヴォの影響を色濃く受け、その記憶さえもわずかながらも持ち、精霊さえもみえるようになっているこの人間を、ネアキは憐れだと思っている。
だから、思わず慰めるようなことをいってしまったのかもしれない。
「君たちは、ほんとうに優しいな」
その言葉に、自分たち精霊だけでなくティアも含まれていると察して、ネアキはわずかに口元を綻ばせた。
彼のいうとおり、これまで預言書に選ばれた者たちの中でも、ティアはとくに優しい。だからこそ、ネアキは心の底から彼女を信頼した。
そうして、この首にあった枷が消えたときに我がことのように喜んでくれたティアが、ネアキは大好きだ。
ゆえに。
「ありがとう……。でも……いかせることはできないわ」
彼女のためにも。この場を譲ることはできないのだ。
「前からたずねたいと思っていた」
「……なに?」
氷の精霊の冷たく静かでありながら、強い想いを宿した視線を真っ向から受け止めて、ヴァルドは問う。
「なぜ、そうも彼女に近づけさせようとしないのだ。この気持ちを伝えることさえ、許されないのか」
「……」
わずかな逡巡の後、ネアキはこくりと頷いた。
「だめ……。きっと、ティアが落ち込む」
「どうしてそう思うのか、聞かせてほしい」
ヴァルドの言葉はもっともだ。ただひたすら邪魔され続けては、その理由を聴きたくもなるだろう。
それも当たり前ね、と呟いてネアキはゆっくりと降下しながら口を開いた。
「ティアは優しい、から。もし……あなたたちが、ティアに好きっていったら……気づかなかったことに、きっと悩む……」
目の前に雪よりも静かに舞い降りた精霊の姿をじっとみつめた後、ヴァルドはわずかに目を伏せた。
「どうしたら、いいのか悩んで悩んで……それでも出る答えは必ず、ひとつだから……そして、あなたたちを傷つけることに、落ち込むわ……」
重ねられるネアキの言うことも、もっともだと思ったのかもしれない。あの優しさに救われたヴァルドだから、余計にその光景が想像できるだろう。
「なにも知らないほうが、幸せなことも……ある」
ヴァルドは一度ゆっくり瞳を閉じて、数回の深い呼吸の後、その夜明け色の瞳を開いた。
「――そうか。でも、それでも私はこの想いを彼女に告げたいと願う。ほんのわずかなひとときでいい、彼女の心を独占できたら……ああ、こんな風に思うことさえ君は、許さないかもしれないが……」
「……ううん」
本当なら否定されてもおかしくない言葉を、氷の精霊は肯定した。
「それは、きっと」
ネアキは、驚くヴァルドに語りかける。そっと小さな手を胸に添えて、ほんのりと優しい笑みを浮かべて、恋する男を真正面からみつめて言う。
「恋をしたら、誰もがそう思うものなのよ……」
「そうか」
思いもかけぬ精霊の台詞に、ヴァルドはいつもよりずっと幼げであどけない笑みを浮かべた。皇子として生きている昼の間には決して表にだされない、彼の素顔だ。これを知っているのは、きっとティアとネアキだけ。
「だがそうはいっても、ここを君は通してはくれはしない。そうだろう?」
「ええ……。ごめんなさい」
「いいや、謝ることじゃない。だが、私はいつか彼女のもとへ辿り着く」
ざっとヴァルドが大きく後退する。手にした大剣を隙なく構え、静かに攻防の幕開けを告げる。
「さて、では今日も勝負といこうか。手加減はしないでくれ。この胸に宿ったティアへの愛にかけて、私は全力で君に立ち向おう」
「私はいつも……手加減なんて、してないわ」
その誠実さに、誠実さで応えるために。
ネアキを中心に、氷交じりの冷たい風が吹く。
ぴしぴしと、その寒波に噴水の水が悲鳴を上げた。
翌朝には、きっと凍りついた噴水を前にし、町の住民はまた怪奇現象が起こったと慄くことだろう。