恋を忘れた人魚の隣で忘れられた私は笑う

 冬の空は好きだ。
 遠く遥かに澄みわたる青が、大切なひとの瞳を思い出させてくれるから。
 あの人は今、どうしているだろう。

 ここではないところへ意識を向けたのは、ほんの一瞬のこと。
「ユウちゃーん!」
 最寄り駅から大学への道すがら、冷たさをはらんで吹く風の向こうから響いた呼びかけに、現実へと戻ってくる。
 顔を巡らせ視線向ければ、軽い足音とともに小柄な人物が駆け寄ってくるのがみえた。微笑んで迎える。
「トモちゃん、おはよう」
「おはよう! 空になにかあった?」
 高校生の頃からの友は、ユウの視線の先を確かめるように顔をあげたが、当然そこにはなにもない。
「ううん、何もないけど……綺麗だったから」
「そっか。いい天気だもんね。引っ越し作業しやすい日になってよかったね」
 いつも明るく元気な笑顔につられて微笑みながら、二人並んで歩き出す。
 とりとめなく他愛ない話を交わしながらも、自分自身が体験した不思議な出来事が脳裏を掠めては消えていく。
 隣にいる彼女も、両親だって信じてはくれないだろうが――私ことユウは、別の世界に迷い込んだことがある。
 しかも、おとぎ話でしか語られない魔法が実在する世界だったのだ。
 何もないところに火が燃え上がり、意思持つように風を吹かせ、どこからともなく水を呼ぶ。そして、人々は箒に跨って空を飛んでいた。
 そんな世界で出会ったのは、ひと癖もふた癖もある個性的な人たちばかり。妖精や獣人、果人魚といった空想上の存在も当たり前のようにそこにいた。
 思春期特有の少女の妄想を拗らせた結果ではない。それを証明するものは何もなく、ただ自分の頭の中に思い出があるのみだけれど、あの濃密な時間は確かに本物だった。
 そんな不思議と神秘に満ちた場所の、ナイトレイブンカレッジという学園に青い火を吹く獣とともに入学したのは、もう遠い昔のことである。
 少しばかり感傷的になりつつ、本年春に合格した大学の門を通り抜けて向かうのは、古びた校舎だ。
「ねえユウちゃん、終わったらパンケーキでも食べに行こうよ。ふっかふかのやつ!」
「そうだね。先生がアルバイト代くれるっていってたし」
「駅前にね、可愛いお店できたんだって」
「じゃあそこにしようか」
「うん!」
 波乱万丈の青春時代を過ごしたことなど知らぬ友人と無邪気な約束を交わして、レンガ造りの旧校舎へと入っていく。
「おはよう。今日はよろしく頼むね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
「がんばりまーす!」
 白髪に覆われた頭を撫でつけて柔和に微笑む教授からの指示のもと、教授の研究室に所属する先輩の下につく。運び出すものが多いため、何班かに分かれるらしい。
「じゃあついてきてね」
 旧校舎に入ることなどほとんどない。ユウは友人と一緒に、作業用のツナギ姿で気合がはいっている先輩のあとについていく。
「ひとまずここの部屋にある資料を運びだしたいの。本棚とかはあとで男子たちにやってもらう予定だからそのままでいいよ」
「わかりました」
「うわ、すごい埃~!」
 先輩の言葉に頷くユウの後ろで、室内を覗き込んだ友人が叫んでいる。
 ひょいと覗き込めば、無造作に積み上げられた資料の数々が埃に覆われていた。
「はいこれ。よかったら使って」
「わあ、ありがとう! ユウちゃん用意いいねえ」
 家から持ってきたマスクをカバンから取り出し分けてあげながら、ユウはまた昔のことを思い出す。
 ナイトレイブンカレッジに身を寄せることになったとき、学園長から与えられた住処のオンボロ具合といったら、ほんとうにひどかった。床は今にも抜けそうだったし、埃だって凄かった。あげくゴーストまで住んでいたことを思えば、ここのほうがまだマシだ。
「よし、じゃあパンケーキ目指してがんばるぞ!」
「あはは、疲れたあとならもっと美味しいだろうし、頑張ろうね」
 具体的な目標を前に気合をいれる友人に賛同しつつ、ユウもまた袖をまくった。

 高校一年生の秋、突如として迷い込んだ異世界から、また突然元の世界に戻ってきた理由はわからない。
 あちら側へいったときのように棺桶に詰め込まれるでもなく、ユウは自室のベッドに横になっていたのである。
 眠る前の記憶は確かに、オンボロ寮の軋むベッドの上であったというのに。
 当然であるが、ユウは混乱した。体を強張らせ周囲を視線だけで見回した。だって何かしらの魔法がみせた幻影かもしれないと思ったからだ。
 しばらく様子をうかがった後、危険がないことを確認してベッドから起きだし、そろりと部屋から廊下にでてみた。
 間違いなかった。そこにあったのは、引き離された懐かしい世界の、帰りたいと何度も願った景色だった。
 感情が爆発したユウは、そのまま家の中を走り、キッチンにいた母に抱きついた。
 もう二度と会えないと思っていた家族を前に、涙腺は容易く壊れてしまった。
 わんわんと泣きだしたユウを追求するでもなく、ただ抱きしめ返してくれる腕の中は、あたたかかった。
 怖い夢でもみたのね? そう言いながら幼子にするように背を撫でてくれる母にしがみついたまま、ユウは考えた。
 あれは、夢だったのだろうか。
 グリムとの出会いも、エースとデュースという友ができたことも。
 悪知恵が働いて、悪質なところがあって、でも魅力的だった先輩たちとの出来事も。
 ひとしきり泣いて落ちついたユウは、母の勧めもあってその日は学校を休むことにした。
 子の不安定な様子を慮ってくれる親を、それ以上心配させることはできなかったのだ。
 温かな朝食を空っぽのお腹におさめ、人心地ついたユウは自室に戻った。
 机に向かい、寝る前の――つい数時間前のことだ――に思いを馳せた。
 いくら考えても、あの時間は夢などではなかった。
 自分は、グリムと共にナイトレイブンカレッジの四年生となり、学園外部での研修を受けていたはず。
 あと半年ほどで論文を書き上げ、卒業試験に挑まねばならなかったのに。グリムをひとり、残してきてしまった。急な不安に襲われて、ぎゅっと手を握り締めた。
 いやいや、きっと大丈夫。それまでにあった様々な出来事で、グリムだって成長した。ひとりでも成し遂げるはずだ。そう信じるしかなかった。
 ユウはまっさらなノートを取り出すと、ナイトレイブンカレッジでの出来事を順に書き出していった。
 夢ならばいつか溶けるようにこの記憶から消えてしまうかもしれない。だから、覚えているうちに、思い出せるすべてを書き留めようとした。
 あちらの世界で目覚めたときのこと。グリムとの出会い。はじめて魔法を目にしたときのこと。友人たちのこと。各寮で起きた忘れられない出来事。その中でも、ひときわ自分の心に焼き付いた美しいひと――うつくしい人魚のことを。
 彼との出会い、彼との思い出、彼への気持ち。それすなわち、彼への恋心。
 ああ、別れの言葉さえ、言えなかった。こんなことになるのなら、想いを告げてしまえばよかった。
 こんなふうに後悔するくらいなら、当たって砕けてしまったほうがよかった。
 一年先に学園を卒業していった彼、アズール・アーシェングロットのことを思い出し、ユウは瞳から溢れる熱い滴で紙面を濡らした。
 そうして、ユウはあらためて高校生活を送ることになった。
 あちらでは四年にかかるほどの時間をすごしたというのに、こちらではほとんど時間が過ぎていないようだった。精神だけが年を重ねたようで、同級生たちがずいぶんと子供っぽくみえたものである。
 しかも、高校一年生の知識があやふやになっていた。なにしろ、昨日までは魔法に関する勉強ばかりしていたので。焦ったけれど、あの世界でアズールに教えてもらった勉強方法が役に立った。
 その後は、希望していた地元の大学に進学することができて、今に至る。

 段ボールに紙の束を丁寧に積み重ね、持ち上げる。
「よいしょっと……! うう、紙って重い~~」
「先輩、これも新校舎ですか?」
 一人一箱を抱え、廊下にいる先輩に声をかける。
「ええ。入口にトラックが来ているから、そこへ積み込んでもらってちょうだい。段差には気をつけてね」
「はーい」
 よろよろと危なっかしい足取りで、建物入口に向かう。
 荷物の積み込み担当の男性に段ボール箱を引き渡して部屋へ戻れば、あっと友人が小さな声をあげた。
「ユウちゃん、あの部屋もかな」
「古い扉だね」
 おおむね片づけた部屋の奥、大きな本棚のすぐそばに、もうひとつ扉がみえる。
 こんなところにドアがあったっけ? そんなことを考えながらノブを回してみると、思った以上に動きがよい。そのまま蝶番を軋ませながら扉をひらくと、これまたたくさんの物が詰め込まれた部屋に続いていた。
「うーわ、ちょっとこれは……」
「そういえば、民俗学の教授の物置だったっけ」
 論文を書くための資料は紙に記されているものばかりではない。当然のことながら、関係する道具のたぐいも集めたりするわけで。
 木造りの楽器とおぼしき道具、錆びた鉄製の奇妙な形をした道具、どこの宗教の神様ですかと尋ねたくなるような材質不明の像、などなど。
 古今東西ありとあらゆる分野に造詣が深く、また様々な方向に興味があったという教授の部屋らしいといえばらしいのだが。
 埃に塗れた数々の古物を前に、二人そろって途方に暮れる。本当に大事な物は、退職していった教授の手元にあるのだろうが、下手に動かして壊してしまうのも憚られた。
「私、先生にどうしたらいいかきいてくるね」
「うん。そのほうがいいと思う。お願い」
 もともとは書類や本の運び出しの手伝いという話だったから、ここは指示を仰ぐのが適切だろう。
 賛同の意を返せば、友人は軽やかな足取りで部屋を出ていった。
「とりあえず、埃くらいは落とそうかな」
 あらかじめ用意されていた掃除道具を手にして、部屋の中を見回す。と、友人と一緒にいたときには気づかなかったが、部屋の奥で何かが鈍く光っているのに気付いた。
 何の気なしに近づいて、ユウは目を大きく開く。
 それは、大きな姿見であった。
 鏡面は埃がこびりついているようで薄汚れている。ユウの姿も鈍く輪郭が映る程度だ。鏡を縁取る枠の意匠が、ずっと昔に見たことがある闇の鏡のそれによく似ていて、少しばかり懐かしくなる。
「……」
 ユウは小さく微笑んで、まずは埃を落としていく。細かな隙間までは難しいが、丁寧に壊さないように気を付けて払ったあとは、鏡面を上から下へと円を描くようにして磨いていく。
 最後に乾いた布巾で拭いてあげれば、思っていた以上に綺麗な鏡面が現れた。今度はユウの顔もよく映っている。
「うん、これでよし」
 簡単な手入れであったが、移動した先でもう一度手をかければ、もっと綺麗にできるだろう。
 ぴかぴかに磨き上げられた姿を想像してユウが微笑めば、鏡の中の自分もまた笑った。
「ユウちゃーん!」
「はーい!」
 しゃがみこんでいたユウは、隣室から響いてきた声に立ち上がる。
 この道具たちをどうしたらいいか聞いてきてくれたのだろう。
 振り返って、足を一歩踏み出したとき。
 ぽちゃん、と水が滴るような音がした。どうしてか、その水音が自分を呼んでいるように聞こえた。
 導かれるように、首を回して後ろを見遣る。
 視界の先、自分を映しているべき鏡面に、忘れられない美しい人が映っていた。
「あ、アズ、……っ!」
 無意識のうちに指先を伸ばせば、とぷりと水面をとおりぬけるように沈み込む。
 あっと声をあげる間もなく、ユウはあちら側へと落ちる。
「ユウちゃーん、ここはあとでいいって! 先生が差し入れにお菓子くれたから食べにいこ! ……って、あれ……?」
 快活な友人の声は、鏡に弾かれてユウに届くことはなかった。

 ごぼごぼと音をたてて水底に沈んでいくように、落ちていく。おちていく。
 息が出来ない。でも、不思議と苦しくはない。冷たくも温かくもない。ただ、暗くて昏くて、何もわからない。
 無限に続くかとさえ思いかけた頃、小さな光を視界にとらえる。
 目を凝らせば、無限に続くだろう闇の中、銀色の何かが近づいてくるのがわかる。
 それは、夜空に走る流星をすべて束ねたような勢いと眩さをもっていた。
 すれ違ったその尊き星は、八条の軌跡を描いて遥か彼方へと消えていく。
 いったいなんだったのか。
 ちかちかと花火の名残のような光の粒が、ユウの周囲に漂う。
 いってらっしゃい、と誰かが囁く。
 何もかも理解したような優しい声は、記憶に残るひとのそれによく似ていた。
 離れがたくて伸ばした手はどこにも辿りつくことなく、誰にとられるでもない。やわらかな光に包まれたまま、ユウはさらに沈み込んでいく。
 だが、不思議と「怖い」とは思わない。
 私は、どこへいくのだろう。だれのもとへ、いくのだろう。
 意識が、眠るように遠のいていった。

「……は?」
 口を開いた第一声は、やたらと低い。花の女子大生が発するものではなかった。
 少しばかり硬さのあるベッドを背に、いつかみたことのある石造りの天井をじっとみつめる。
 自然と眉根が寄っていく。
 いまどき、石造りの天井なんてそうそうない。というか、自分が住んでいた現代日本でそんな造りの部屋なんてまずない。
 知っている。この景色、この部屋に満ちた薬草の香り。ずっと前に、何度かお世話になったことがあるから。
「おや、目が覚めましたか、それは重畳」
「!」
 少しばかり胡散臭い、でもとても心地よい声に、勢いよく身を起こす。
 陽の落ちかけた赤い空が窓越しに見える。その傍らに立っているのは、いるのは!
「学園長?!」
「はい、お久しぶりですねえ、ユウさん」
 にっこりと仮面の奥の黄金の瞳が細くなる。まったくもって年経た様子もない年齢不詳の男――ナイトレイブンカレッジ学園長、ディア・クロウリーが笑った。
「な、なん……なんでっ……! やっぱりここ、ここは!」
「落ちついてください。大丈夫ですよ。あ、水でも飲みます?」
「お願いします……」
 混乱する幼子を相手にするように、優しく言葉をかけてきたクロウリーの提案を受け入れる。
 ぱちん、とクロウリーが指を鳴らせば、目の前にほどよく冷えた水の入ったコップが現れた。
 何もなかったはずのところに、当たり前のように浮かぶそれを驚くこともなく手に取る。感じる冷たさと、喉を滑り落ちていく心地よさが、これが現実だと教えてくれている気がした。
 飲み干して息を整え、顔をあげる。
「お久しぶりです。またお会いできて嬉しいです」
「相変わらず肝の据わった子ですねえ。懐かしいですよ」
 窓辺から移動してきたクロウリーがひとつ頷き、傍らにあった丸椅子に腰かける。
「さて、どこまで記憶がありますか?」
「ええっと……――」
 ユウは、覚えている限りのことを口にしていく。
 元の世界に帰ってから高校を卒業し、今は大学に通っていること。
 その大学で取り壊し予定の建物から、民俗学の資料を移動させる手伝いをしていたこと。
 作業中、とある部屋で大きな鏡を見つけて磨いた後、その鏡面に落っこちて真っ暗なところに入り込んでしまったこと。
 そして、そのまま意識を失ったこと。
「なるほど。何の偶然か必然か……あなた、どうやらまた世界を越えてしまったようですね。鏡の間に倒れていたんですよ。たまたま私が通りかかったからよかったようなものの、そのままだったらどうなっていたことか」
「ああ~……」
 ずきりと痛みだしたこめかみに、指先を押し当てる。
 やはりそうか。そうなのか。そんな気はしていたのだ。こんな鴉のコスプレじみた格好をする人間はいないし、こんな重厚な建物だって元の世界にはそうそうない。心当たりはひとつだけ。
 ここは、数年前に迷い込み、数年後に無慈悲に弾きだされた、ツイステッドワンダーランドなのだ。魔法に満ちた、神秘の世界。また再び訪れることになろうとは。
 そうと理解したならば、こちらからも状況の確認をしなければいけない。
「あの、ちなみにこちらはどうなっていますか?」
 そうですね、とクロウリーが大きく手を広げた。装飾のついた指先がユウの目の前で揺れる。
「あなたが元の世界に帰ってから、おおよそ五年経っていますよ」
「五年……」
 長くはない。けれど、決して短くもない時間だ。それだけあれば、人が大きく変わるほどの。
「あの頃にいた生徒たちはこの学園を卒業しました。さらに進学をした人もいますが……皆さん、おおむね立派な社会人です」
「レオナ先輩もですか?」
「ええ。しばらく遊学していたようですが、いまは帰国し、王弟としての職務を立派につとめていますよ」
 どういった経緯があったのかはわからないけれど、実家の方たちとはうまくいっているらしい。ほっと息を吐きながら、最も気にかかる黒い毛並みの相棒の名を口にする。
「グリムは? どうしていますか?」
「彼なら、学園所属の魔法士としてお仕事してもらっていますよ」
「凄い……!」
「あなたのおかげでしょうね。ちゃんと卒業しましたよ、彼。今はとある国の依頼で、地方の調査に出向いています」
「ちゃ、ちゃんと仕事してる……!」
 どんなふうに仕事をしているかぜひともみてみたい。だってあのグリムである。口をひらけば小憎たらしいことばかり言って、ツナ缶を止める間もなく平らげて食費を圧迫して。
 授業に出たと思えば寝ているし、試験はズルしようとするし。そんなグリムが、学園所属の魔法士! この事実に感動するなというほうが無理である。元の世界にもどったときの懸念は、これで払拭された。
 薄く涙を浮かべながら自分のことのように喜べば、クロウリーが微笑ましげに口元を緩めた。
「ふふ、グリムくんのことになると相変わらずのようで。それにしても、あなた綺麗になりましたねえ」
「ありがとうございます。学園長はお変わりないですね」
「ええ、変わらず素敵な大人の男でしょう?」
「はい、とっても」
 本気なのか、それともからかっているのかわからぬ言動に、くすくすと笑って返す。
「ところで、再会できたのは喜ばしいですが、帰る方法はわかっているのですか?」
「う……!」
 そうだ。そうなのだ。おそらくあの鏡のせいでこちらに来たのだろうけれど、元の世界への帰る方法はわからない。手掛かりもない。
「鏡の間に倒れていましたので鏡を通じてこちらにきたのは間違いないとは思いますが、闇の鏡は動いていませんでしたから、原因はわかりかねますねえ」
「そうですよね……。困りました」
 一度目のときは、闇の鏡の手違いだったと今でも思っている。実際そうであろう。だからこそ、学園に身を置いたのだ。しかし今回はそうじゃない。
「とはいえ、急に帰っちゃった前例もありますしね」
「そうですね、私、急にいなくなりましたもんね」
 じっとクロウリーにみつめられ、その前例であるユウは頷いた。今度も、ゴミでも捨てるように、ポイとこの世界から追い出される可能性はあるのだ。
 だってやはり、ユウという人間はこの世界との何にも誰にも、繋がりがないのだから。
「まあ帰ることができずともいいのでは? もういっそ、ここに住みましょう!」
「軽くとんでもないこといいますね。あきらめないでください」
 けろっと夕飯のメニューを思いついたというような気軽さで言うことではない。あきらめないで。
 ユウの言葉を受けて、うーんとクロウリーが腕を組む。
「実は昨日から、ウインターホリデーなんですよ」
「ああ、だから静かなんですか」
 なるほど、と頷く。この学園は名門であるが、通う生徒はみんな癖が強い。保健室に喧嘩っ早い生徒がひとりやふたり転がっているのは日常茶飯事なのだ。確かにホリデーならば、誰も担ぎ込まれないだろう。
 ちら、ちらっとクロウリーが視線を向けてくる。 
「だから、ほら、ねえ、私も予定がありますし」
「なるほど、私の処遇を早く決めて、旅行にいきたいんですね?」
 いまさらながらだが、めっちゃソワソワしてる。いつぞやみたいなアロハシャツ姿でないだけマシだったらしい。
「今年はね、熱砂の国の遺跡巡りにいこうと思っているんです! いやぁ、ずっと楽しみにしていて!」
「それは素敵ですね。とはいっても、どこに住んだらいいのか」
「悩まずとも、あるじゃないですかほら! 慣れ親しんだところが!」
「え、それって――」
 この学園で自分が慣れ親しんだところなど、ひとつしかない。
 懐かしいその名を口にしようとした瞬間。
 ピシャンと室内に雷が落ちた。
 いや、実際はそんなことないのだろうが、そうと錯覚するくらいの眩い光が花開いた。
「?!」
 目の前がチカチカする。思わず強く目を閉じると、ふわりと優しく何かが触れた。
 頬の輪郭をなぞるような動きに促され、おそるおそる瞼を開けば、目の前に艶やかな黒髪に縁取られた整った顔があった。
 その背後には、ふわふわとホタルのような淡い光が舞っている。
「久しいな人の子」
「……ツ、ツノ太郎……?」
 しっとりとした声が耳朶をくすぐる。親愛に満ちた美しい瞳が細くなる。
「おお、ほんとうにヒトの子ではないか! 息災であったか?」
「リリア先輩!」
 その横から割り込むように、ひょこりと顔を出したのは相変わらずの美少年フェイスの先輩であった。この人も本当に年齢不詳だ。
 かつてこの学園での友となった、人ではない偉大なる存在の美しい笑顔と、何度か世話になった愛くるしい先輩の笑顔が眩しくて、めまいがする。
「ど、どうして……?」
 いままで保健室には自分とクロウリーしかいなかったと思うのだが、いったいどこから現れた?
 混乱して目を丸くするしかできないユウから、するりとマレウスの手が名残惜しそうに離れていく。くふふとリリアが悪戯っぽく声を零した。
「なに、転移の魔法でひとっ飛びしてきたのじゃ。マレウスが急に出かけると言いだしたゆえ、なにが起きたのかと思うたが、おぬしがきていたとはな! 今頃シルバーとセベクは大慌てしているじゃろうが、これはいたしかたあるまい」
 リリアの言葉に、ユウと同じように目を瞬かせていたクロウリーが「おやまあ!」と声をあげた。
「あなたがた、まだ覚えているんですか?」
「忘れるわけがない。それともおまえには、そのほうが都合がよかったか?」
 マレウスの言葉に、「とんでもない!」とクロウリーが肩をすくめて笑う。
 なんだか不穏な話をしている気がしたユウは、二人を交互に見遣った。
「どういうことですか?」
 覚えている、という言葉の意味を説明するように求めれば、少しばかり思案したクロリーが口を開いた。
「うーん、まあ黙っていてもいずれはわかることですしね」
 三人の視線を一身に受け止めて、ユウはごくりと喉を鳴らした。嫌な予感がする。でも聞かなければいけないこともまた、理解していた。
「ユウさん。あなたが『監督生』であったことを覚えている者は、私を含めて三人しかいないんですよ」
「――え?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。言われた言葉を飲み込み、吸収する前に話は続いていく。
「あなたが元の世界に突如として戻ってしまった後、学園であなたにかかわった人たちから、あなたの記憶が失われてしまったんです」
「……」
 意味がわからない。
 私は、彼らのことをこんなにも覚えているのに。苦しかったときも、悲しかったときも、嬉しかったときも楽しかったときのことも。全部全部、覚えているのに。
 瞬きも忘れて、マレウスとリリアに縋るような視線を向けてしまう。
「まあ、おそらくじゃが……己の身体に内包する魔力量などが関係していのじゃろう」
「あのときの寮長クラスの者ならば、お前のことをいくばくかは覚えているかもしれぬ。だが、それだけだ。夢から覚めたあとに、己が何をみていたかはほとんど覚えていないが、なにか見たことは覚えているだろう? その程度だ」
「ほとんどの生徒は覚えていません。あなたが帰った後、こっそり調査したんです。残念ですが、エースくん、デュースくん、そしてグリムくんも覚えていませんでした」
 ひゅ、と喉の奥が鳴る。くわん、と頭の奥が揺らいだ。
 もともと存在していなかった監督生が、あるべき世界へと帰ったことで、この世界の修正力が働いたのではないか。
 本来、この世界にあるべきでなかったものに対する記憶は、ここにあるべきものたちの記憶からページを破るように、あるいは虫に喰われたように失われていき――それに抵抗できたのは世界でも屈指の魔力を有しナイトレイブンカレッジを統べるディア・クロウリー、魔法史に真の姿を残す古よりの生き証人リリア・ヴァンルージュ、そして茨の谷の王にして妖精の末裔マレウス・ドラコニアのみ。
 というのが、三人の一致した意見であるらしい。
 クロウリー的には、自分以外の二人もいずれ記憶を失うのではと思っていたらしい。
「ふん、みくびられたものだ」
「いえいえ、とんでもない。もしかしたら……ぐらいに考えていただけですよ」
 マレウスに睨みつけられて、ひょいと肩をすくめるぐらいで済ませられるのは、この世界でもそうそういない。
「さびしいか?」
 そんな二人をさておいて、幼子にするようにリリアがユウの頭を優しく撫でる。世界の迷子たる子に対する慈しみに溢れたその手を受け入れて、ユウはぎこちなく微笑んだ。
「はい。でも、みんなが元気なら私はそれでいいです」
 次に会ったとき、かつてのように笑いかけてくれなくても、彼らが彼ららしくこの世界で生きているのならばそれがいい。
「それに、みなさんは覚えていてくれたから。平気じゃないですけど、……うん、大丈夫です」
「相変わらず面白いことをいう子よな」
 最後に、くしゃりと髪を乱させるように撫で、リリアは離れていく。
 そっと瞳にかかりそうな髪を手櫛で整えていると、マレウスが覗き込んできた。
「人の子よ、いくあてはあるのか?」
「それは、ちょっとまだ決まってなくて」
 そういえば、その話をしようとしているところにマレウスたちがやってきたのだった。
「ならば茨の谷にくるか?」
「え」
 思いがけない申し出に、ユウは驚く。に、と妖しく美しくマレウスが微笑んだ。
「今は僕が治める国だ。おまえひとりくらい、どうとでもしてやろう」
「待て待て、マレウス。そうするとヒトでなくなるぞ? 魔力をもたぬものが茨の谷で暮らせばどうなるか、わかっていよう」
 何を言い出すのかと諫めてくるリリアに、マレウスがきょとんとした表情を返す。
「ヒトでなくなれば、この世界で暮らしやすくなるだろう?」
 魔法も使えるようになるだろうし、何が問題なのだといわんばかりのマレウスに、リリアが額に指先を当てて天を仰ぐ。
「それはそうじゃが……。まあ、ヒトでなくなるのはいつでもできよう。候補のひとつにいれておくとよかろうて」
 なかなか思い切った内容であるが、マレウスなりの心遣いなのはわかっている。ユウは笑って頷いた。
「それもそうですね。わかりました、覚えておきます」
 聞く者が聞けば顔を青くするような内容を笑顔で交わしていると、クロウリーが割って入ってくる。
「不穏なお話しないでくれませんかねえ!? 彼女はこれからもずーっとヒトですよ! まったくもう!」
「ははは! そう怒るでないわ。そもそも、闇の鏡で帰れるかもしれぬしな」
 クロウリーの焦った様子がツボにはいったのか、リリアがけらけらと笑いながら、ひとつ提案をしてくれた。
 ああ、そうかとユウは頷く。
「それもそうですね。あとで試させてくれますか?」
 以前は帰してくれなかった闇の鏡だが、前回とは事情が違う。可能性はあるだろう。
 おや、そのことを忘れていましたといわんばかりにクロウリーが頷いた。
「ああ、そうですねそうしましょう。むしろ今からいきましょうか。試すならはやいほうがよいでしょう」
「おっと、ならば我らはここで失礼しよう。さすがにマレウスが学園内を歩いているとなるとおおごとじゃからな」
 ユウを鏡の間へと連れ出そうとするクロウリーに、リリアが割って入る。
 だがその言葉はもっともだ。さきほどの話しぶりから考えるに、マレウスはもう茨の谷の王なのだ。
 いくら卒業した学園とはいえ、マレウスがよその国をウロウロしていると外交問題に発展するかもしれない。偉大な魔法士であることも考慮すれば、いつなんどき難癖をつけられてもおかしくないのだ。
「……どうせ、ホリデーで誰もいないだろう」
 長い時間を生きてきたという割に、どこか子供っぽいところがあるマレウスが、不満そうな顔をする。
「監視カメラに映っても面倒じゃろうが。王となった以上、なおのこと自分の存在が周囲に与える影響を考えよ」
「……」
 それでも納得のいかないまま沈黙するマレウスに、ユウはくすくすと笑った。恐れることなく手を伸ばし、マレウスの手を握る。
「!」
 ぱち、と切れ長の瞳を子どものように瞬かせたマレウスは、ヒトではないし一国の王様だけど、ちょっと可愛く見える。
「ツノ太郎。会いに来てくれてありがとう。また遊びに来てくれたら嬉しいな。そのときはお茶しようね」
 優しく諭すように、それでいてありったけの親愛を込めた笑みを向ける。
 だって、マレウスは自分のことを覚えていてくれた大切な友達だから。
 ね、とダメ押しするように首を傾げれば、マレウスが小さく笑った。
「ふ、ふふふ、この僕を呼びつけようなどとは。お前以外ではありえぬな」
「お友達とおしゃべりしたいと思うのは変かな?」
「いいや。また会おう――我が友よ」
「うん、ツノ太郎もお仕事がんばって。またね」
 やんわりと潰さない程度に握り返してくれたマレウスに、次の機会もあるのだからと言外に伝えて手を離す。
 その様子を微笑ましく見守っていたリリアが、そろそろ行こうとマレウスを促した。
「ではな、人の子よ。健やかにあれ」
「はい、リリア先輩もありがとうございました」
 そうして、茨の谷からの来訪者たちは来た時と同じように、黄緑色をした燐光をまき散らし、帰っていった。
「やれやれ、妖精族ときたら、ほんとうに自由で気まぐれですねえ」
「そうかもしれませんけど、私は嬉しかったです」
「私もちゃんと覚えてるんですけどね?」
「学園長が覚えていてくれて、とっても心強いですよ」
「ふふふ、そうでしょうそうでしょう!」
 褒めて持ち上げれば上機嫌な様子でクロウリーが胸を張る。なんだかんだと自己保身が前面にでやすい学園長だが、頼られればそれはそれで嬉しいらしい。
 二人そろって保健室をあとにして、鏡の間へ向かう。
 だがしかし、闇の鏡はなんの反応も示さなかった。元の世界に繋がる様子もなく、部屋も確認したがそれらしい痕跡もなかった。
「うーん、やっぱりだめそうですね……」
 がくり、とユウは肩を落とした。
「無反応ということは闇の鏡が招いた、ということはやはりなさそうですねえ。とはいえ、ここにあなたが現れた以上、何かしら理由はあるでしょう」
 おいおい調べてみますよ、という言葉を受け入れる以外の選択肢が、ユウにはなかった。
「あの、それで私の住む場所なんですが」
「そのことですが、学園で過ごしてください。衣食住は保証します。それから、今回は学生として籍は置けませんからそれなりに働いていただきますが、構いませんね?」
「好待遇すぎて怖いくらいですが……学園長こそ、それでいいんですか?」
 こんな身元不確かな人間をもう一度保護下に置こうなんて、面倒くさいし厄介ごとのもとでしかないだろうに。
 この学園で過ごした時間で学んだことは今も覚えている。なので、何の役にも立たないということはないだろう。だが、魔力のない魔法が使えないただの人間に変わりはない。
「ええ。私は今も昔も優しいので!」
 かつてここは何も分からぬ場所であったけれど、今は知っている場所なのだ。あのときのような迷子ではない。
 ならば逞しく生きてみせよう。空元気でも元気は元気。ユウは、ぎゅっと手をに握りしめて、クロウリーを見上げて頷いた。
「はい、よろしくお願いします!」
「いいお返事ですねえ」
 やれやれとクロウリーが胸をなでおろす。
「はー、よかったよかった。ちょうど用務員の方がご家庭の事情で急に退職されたところでしてねえ、ウインターホリデー明けまでに新しい人を探さないといけなくて。あ、私のお仕事も手伝ってくださいね」
「それ、前にもやってた雑用係では? 一瞬抱いた尊敬の念を返してもらってもいいですか?」
 やはりこの学園に携わる者の腹の内はこんなものだ。
 久しぶりに味わう感覚に、ユウは思わず真顔になった。ああ、早急にヴィランどもに対応する術を思い出さなければ。
 瞳の光を消し去ったユウに対し、クロウリーが仮面の奥で煌めく金色の瞳を悪戯っぽく眇めた。
「まあまあそうおっしゃらずに! さあ、オンボロ寮をあけましょう!」
「……! は、はい!」
 羽根のようなコートを翻し、クロウリーが笑いながら歩きだす。
 その背にしてやられたような気持ちになるが、思い出の場所にまた足を踏み入れるのだと考えれば頬が緩んだ。
 またゴーストたちには驚かされるのだろうか。自分が直した部屋はどうなっているのだろうか。もしかしたらまた掃除から始まるかもしれない。
 ユウは胸弾ませながら、クロウリーのあとを追った。

 理由はともあれ。経緯がどうあれ。
 こうして、元監督生ことユウは、懐かしのナイトレイブンカレッジで用務員兼雑用係として働くことになったのである。

「学園は相変わらず、ですね」
 メインストリートをゆっくりと歩きながら、アズール・アーシェングロットは誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
 手入れの行き届いたグレートセブンの石像のうち、敬愛と尊敬を捧げる偉大なる海の魔女に目礼し、歩みを進める。
 この学園を卒業してからはや五年。
 モストロ・ラウンジの視察で訪れることはそれなりにあったが、こうして学園内をゆっくり歩くことはあまりなかったように思う。
 空を見れば、飛行術の授業をやっているのか、高い高い場所まで飛び上がった生徒がみえる。その動きは深く広い海を自由に泳ぐ魚にも似ていて、アズールは眩しさに目を細めた。
 自分は終ぞ、あそこまでの飛行術は会得できなかった。一時、懸命に取り組んだのは、何故だったか。誰かを乗せて飛んでみたかったような気もするが、どうだったろう? そんな人物に心当たりはないのだが。
 記憶のどこかに靄がかかったような心地がして、軽く息を吐く。
 まあ、今は箒に乗って空を飛ぶこともないほど、忙しい日々を送っている。いまさらそんなことを思い出したところで、何の意味もない。
「まったく、学園長はどこにいるんだ……」
 口調が自然と呆れたものになる。
 改めて視線を巡らせたメインストリートにあの姿はなく、かといって飛行術の授業を冷かしている様子もない。
 約束をすっぽかすなど社会人としていかがなものか。
 とはいえ、この学園はあの鴉の箱庭だ。どこにいこうとも、何をしていようとも、誰も咎める者などいない。ああ、またかと呆れられるくらいだ。今の自分のように。
 とはいえ、アズールは忙しい身である。早々に話をつけて仕事に戻らなければならない。
 校舎内の主要な場所は確認した。メインストリートにはいない。となれば、あと学園長がいくとしたら植物園あたりだろうか。
 そんなことを考えながら、磨き抜かれた革靴の先端を向ける。
 ガラス張りの植物園には、在学中にたいへん世話になった場所である。授業での材料はもとより、アズールの個人的な客の願いを叶えるための材料も調達したことが幾度もある。
 入口の扉を開いて中にはいると、濃い緑の匂いと豊かな水の気配を感じる。
 落ち着いた歩調で植物園内の通路を歩いていけば、マンドラゴラがアズールの前をトコトコ横切っていった。
「……!」
 逃げ出してきた様子ではない。やたらと落ち着いた堂々たる歩きっぷり。
 しかも、授業で使う一般的なマンドラゴラではない。育てるのが難しい希少な品種だ。まるまる市場に出荷すれば、ひと財産になるだろうほどの。
 あのマンドラゴラが咲かせた花があれば――脳内で仕事に使った場合の利益をはじき出しつつ視線でその行方を追いかけると、マンドラゴラが向かう先に小柄な人物がひとり蹲っているのがみえた。
 白衣を着ているわけでも、学生服に身を包んでいるわけでもない。細く小さな背中に、艶のある黒い髪が流れている。
 マンドラゴラはその人物の足元に辿りつくと、さわさわと葉を揺らして自分の存在を主張しだした。
「あ、おかえり。散歩はもういいの? そう。じゃあ、植木鉢に戻ってね。お水は多め? わかったよ」
 何か作業をしていた手を止め、ひょいと当たり前のようにマンドラゴラをすくいあげると、手近な植木鉢にもどした後、じょうろで水やりを始めた。
 あやすようなやわらかな声。園芸用手袋の隙間から伸びる細い腕。
 珍しい。
 このナイトレイブンカレッジに女性がいるなんて。その後ろ姿に、一瞬だけ、見も知らぬ誰かの影をみる。
「そこのあなた」
 気付けば、声をかけていた。
「――はい?」
 まさか自分に向けてのものとは思わなかったのだろうか。一拍遅れて、その人物は振り返った。
 小柄な女性である。黒い髪に黒い瞳。その色彩は熱砂の国の出身かとも思えるが、象牙のようなやや黄みを帯びた肌から考えるに、違う気がした。
「こちらに学園長はいらっしゃいますか? 本日、お会いする約束していたのですがどこにもおられなくて」
 商売にも使う余裕のある笑みを向ければ、彼女は子供のように目を丸くしたあと、へらっと笑った。
「学園長ですね。残念ながらこちらにはいらっしゃいません」
「そうですか……そうなると……ふむ」
「連絡をとってみますから、少々お待ちいただけますか?」
 アズールが頷く前に、女は身に付けているエプロンのポケットから取り出したスマホで、電話をかけはじめた。
 植物園の管理に業者が入っているのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
 学園長の連絡先を知っているなんて、一体どんな立場の人物なのか。
 とりあえず、見目は冴えない女だな、と失礼なことを考える。もちろん口には出さない。
 アズールは仕事の関係上、洗練された女性ばかりをみてきた。きらびやかな熱帯魚のような彼女たちと比べるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいの地味さだ。アズールの目を引く、艶やかな黒髪黒目はまあ、夜の海のようで悪くはないが。
 値踏みをするような視線の中、女は電話相手に「まったくもう」などと、呆れたように零している。
 そして通話を終えるとアズールに向き直り、微笑んだ。
「鏡の間にいらっしゃるみたいです。一緒にいきませんか? 私も呼び出されてしまって」
 どうやら学園長は鏡の間にいるらしかった。最初に確認をしにいった場所であるが、どうやら入れ違いになったらしい。
「……ええっと、アーシェングロットさん」
 ぎこちなく名を呼ばれ、アズールは「おや」と眉を動かした。
「僕をご存知でしたか」
「ええ、まあ」
 そうして女は、アズールに対する当たり障りのない美辞麗句に似た情報を口にした。おおかた、クロウリーからきいたことがあるのだろうという感じの、上辺だけの話ぶり。
 鏡の間へと向かう道すがら、何の役にも立たず、実にもならない会話を適当にこなして、遅くもなく速くもない歩調で学園内を歩いていく。
 ほどなくして到着した鏡の間に、探していた人物は機嫌よさそうに待っていた。
「お久しぶりですね、アーシェングロットくん!」
「学園長もおかわりなく、お元気な様子で安心いたしました」
 言外に約束を忘れて元気に飛び回りやがってこの鴉――という気持ちをこめておく。
 ここまで案内してきた女は、クロウリーと親しげに会話を交わした後、軽い会釈とともに去っていった。
 ぱたん、と鏡の間の扉が閉まったのを確認して、アズールはクロウリーに尋ねる。
「今の方は?」
「ああ、ウインターホリデー明けからこの学園で働き始めたんですよ。可愛らしくて元気な子でしょう? 私に縁のある子なんですよ」
 なるほど遠縁の身内といったところか。
 アズールは、さきほどの女の評価を少しばかりあげておく。使えるかもしれないものは、覚えておいて損はない。
「さて、ちょっと場所を移しましょうか」
 クロウリーが手にした杖で床を軽く叩いた次の瞬間、アズールは学園内にある来賓用の部屋に移動していた。
 まったくもって魔力の気配も、魔法の発動も感じさせない、見事な転移である。
 内心舌を巻く。今は起業した経営者という身であるが、学園を卒業したあとも研鑽を怠ったことはない。複雑な古代の魔法すら使いこなし、困難な錬金術も当然のように成功させられるようになった。
 だがそんなアズールよりも、この目の前の男はさらに高みにいる。そうと感じさせるだけの魔法だった。普通は、魔法発動の予備動作や魔力展開の予備振動があるものだ。だが何もわからなかった。
 ああ、忌々しい。どんなに自分が努力を重ねても、重ね分だけ実力の差を思い知らされるようで気にくわない。なまじ自分が優秀なばかりに、他の優秀さがわかるのだ。
 アズールに自分の技量をみせつけたクロウリーが、手をひらめかせる。
「さあさあ、どうぞかけてください。紅茶でよろしいですか?」
「ありがとうございます」
 促されるままソファに腰掛ければ、どこからともなく現れたティーポットとカップが、アズールの目の前で香り高い紅茶を淹れていく。
「かねがねお願いしておりました、モストロ・ラウンジの移転について、なのですが」
 ローテーブルの向こう側、真正面にクロウリーが座って落ちついたことを確認し、アズールは口を開いた。
 今日学園を訪れたのは、クロウリーとかくれんぼじみたことをするためではない。
 以前より計画していたモストロ・ラウンジを学園内のとある場所――オンボロ寮と呼ばれる建物に移転させる話をしにきたのだ。
 世間からも注目度の高いマジフト大会を数か月後に控えており、さらにはその大会でプロのマジフト選手を迎えてのエキシビジョンマッチが予定されている。優勝校とプロの試合はどれほどの集客がみこまれることか。
 さらに今年から来年にかけて、他の学園との連携行事も計画されていることは把握済みだ。
 ならば今が好機。有名校のお歴々と、これからの有望株である学生たちとのパイプを作るのにも最適である。
 手入れもされておらず、長年住む者もいなかった建物だ。改装できないほど老朽化しているならば、いっそのこと取り壊して建てなおしてもよいと考えている。
「ぜひとも、オンボロ寮及びあの土地の使用許可をいただきたく。もちろん、相応の対価はご用意いたします」
 クロウリーにも学園にも恩恵のある話である。そのまま詳しく説明をしようとしたところで、「あっ!」と学園長が声をあげた。
 たった今大事なことを思い出しましたといわんばかりの姿に、嫌な予感がした。
「すみませんねえ、アーシェングロットくん、実はオンボロ寮とあの土地は貸すことができなくなったんですよ」
「は?」
 やけに明るい調子でとんでもないことを言いだした。聞き返す声も低くなろうというもの。
 だが、それに気づいているのか気づいていないのか。いやむしろ、まるっとなかったことにしようとしている雰囲気を前面に押し出して、クロウリーが声高く言う。
「いやあ、あの子がね。あ、さっきの可愛らしいうちの子のことですよ。ユウさんっていうんですけどね、名前も可愛いでしょう? それであの子がね、ウインターホリデー中にオンボロ寮に住み始めちゃったんですよ」
「は??」
「年頃の女性を追い出すなんて真似、心優しい私にはとてもできないですし」
 だから、ねえ、と化鴉がにんまりと金色の瞳を細めて嗤う。
「ごめんなさいね」
「……っ、!!」
 まったく悪びれていない謝罪を、耳で聞いて頭で理解し、内容を吟味した瞬間、殺意が沸いた。音が鳴るほど手を握りしめ、痛くなるほど奥歯を噛みしめる。

 ――このクソカラスその羽根を全部むしりとって海魔の餌にしてやろうか……!

 だが、アズールは立派な社会人なので。
 様々な国で何店舗も経営する有名な若手実業家なので。
 怒鳴り散らかしたほうが、最終的には不利になることはわかっているので。
 にこやかな笑顔の口元をひきつらせ、心の中で口汚く罵るにとどめたのだった。

「えーと、次はマンドラゴラの生育チェック、と……」
 用務員兼雑用係としてウインターホリデー明けから正式に学園に勤めはじめたユウは、それなりに忙しい日々を送っている。
 ウインターホリデーが明けて春が来て。日に日に柔らかく温かくなっていく光の中、植物園の片隅で授業用のマンドラゴラの生育状況を確認していく。
 かつて教えを受けていた先生たちも、ユウのことは覚えていなかった。寂しくもあったが、彼らに数年間厳しく指導いただいたおかげで、彼らのやりたいこと、彼らの考えることの傾向、そのあたりを熟知していた。
 そのおかげで、細かい指示をせずとも期待通りの結果を出す雑用係として、いまやすっかり重宝されている。使い勝手のいい助手ができたとでも思っているのだろう。
 そんな中、魔法薬学で使う薬草を育てるのもユウの仕事のひとつとなった。
 もとから植物や動物を育成するのは得意であったし、エペル特製の肥しの作り方も知っている。
 先生と相談して、あの強烈な臭いを除去する魔法道具を開発してもらって以降、頼られることがさらに多くなった気がするが、まあやることがないよりよいだろう。
 先生たちが私的に生育している魔法植物や魔法動物の世話も頼まれていることから、先生方から直接お礼を貰うこともあり、実入りは悪くないのだ。
 しゃがみこみ、畑に直接植えつけているマンドラゴラの葉の状況を確認していると、視界の端で艶やかな緑の葉が揺れた。
「おかえり」
 さきほど散歩に出て行ったマンドラゴラが戻ってきたのだ。
 育てるのが難しいという希少種で、根の部分より咲かせる花のほうに効能がある品種だ。クルーウェル先生から預かった子で、なかなかどうして賢く活発なマンドラゴラである。
 自由気ままに散歩に出かけるため、泥棒などの懸念がないのかと尋ねたが、追跡魔法と防衛魔法がかかっているらしく、心配無用らしい。もしそんなことになったら、泥棒は生まれてきたことを後悔することになるだろうと、悪い顔をしていたクルーウェルを思い出す。こわいこわい。
 だが、持ち主は怖くとも、懐いてくれているマンドラゴラは可愛い。
「散歩はもういいの? そう」
 持ちあげろといわんばかりに伸びあがってくるので、手のひらに乗せてお気に入りの植木鉢へと戻してやる。そして、求められるままにたっぷりの水をかけていく。気持ち良さそうにしている姿に、笑みがこぼれる。
 と。
「そこのあなた」
 涼やかな中に甘さを含んだ声がした。
 呼びかけられたその音を、ユウは知っている。
 一瞬、くらりとした頭が傾きそうになるのを、なんとかこらえて立ち上がる。ゆっくりと振り返って、小さく熱い息を吐く。目が丸くなるのが、自分でもわかった。
 かつての面影を残しながらも、すっかり大人になったアズール・アーシェングロットが、そこにいた。
 想像したことはあったけど、自分の貧弱な考えなど及びもつかないくらい素敵な人になっている。ぱち、と目を瞬かせるが幻のように消えはしなかったので、本物だ。
「学園長はいらっしゃいますか? お約束していたのですがどちらにおられるかわからないもので」
 何年も前に見たことのある、商売の話をするとき用の、取り澄ましたその笑顔! 懐かしいったらない。
 突然の初恋の君との再会に、乙女らしく胸がときめいたが、同時にすこしばかりがっかりもする。
 もしかしたら、アズールなら「監督生さん」なんていってくれるかもと、ちょっと期待していたのだ。
 記憶がないのならこの対応で当たり前。舞い上がりそうになった心を、重たい事実がぺしゃんこに押しつぶしていく。
 勝手に期待して、勝手にがっかりするなんて、なんて我がまま。ふう、と悟られぬように息を吐く。
 自分によくよく言って聞かせる。
 顔をあわせたからといって、都合よく記憶が戻るなんてことあるはずがない。だって自分は、すべてがハッピーエンドに向かうお伽話の主人公ではないのだから。
 踊り出しそうな心臓をなんとかなだめ、ユウはへらりと笑ってみせた。
「学園長ですね。残念ながらこちらにはいらっしゃいません」
「そうですか……そうなると……ふむ」
 困ったような様子をみせるアズールをほうっておくのは憚られた。なにせ自分は学園の雑用係。お客様の対応をしないでなんとする。
「連絡をとってみますから、少々お待ちいただけますか?」
 そう言って、学園長からもらったスマホを身に着けた園芸用エプロンのポケットから取り出す。指先を滑らせて、特別ですよと言いながら登録してくれた連絡先を選び、電話を試みる。
 数コールの後、あっさりと繋がった。
『はい、私ですよ』
「学園長こんにちは。お忙しいところすみませんが、学園長にお客様がいらっしゃってますよ」
『おや?』
「忘れていましたね? いまどちらですか?」
『鏡の間ですが……あ、あ~~! アーシェングロットくんですね! おっと忘れていたわけではなく、闇の鏡の定期的な確認は学園長としての大事な業務の一環でしてね?』
 なんて疑わしい。いやきっと嘘だ。忘れていたのに違いない。ユウは思わず目を眇めた。
「はいはい。とりあえず、そこから動かないでくださいね」
『ああ、待ってください。あなたに用事があるので、一緒にきていただけますか?』
「わかりました、伺いますね」
 まったくもう、と気安く怒って、ユウはアズールに向き直る。
「鏡の間におられるようです。一緒にいきませんか。私も呼び出されてしまったので――……ええっと、アーシェングロットさん」
 変な感じだ。この世界から去る前は、アズール先輩と呼んでいたけれど、さすがにそれは口にはできない。だって、アズールには自分が後輩であったという記憶はないのだ。
「私のことをご存知とは。ありがとうございます」
「それはもちろん。ナイトレイブンカレッジで優秀な成績を修めて卒業された方で、大学に在学中に起業されて、今や経済界にもその名をとどろかせている時の人でしょう? お会いできて光栄です」
 つらつらと、学園長から教えてもらったあたりさわりのない情報を口にする。一般人と同程度か、すこしばかり毛が生えた程度の知識しかないですよ、と暗に匂わせておく。
 本当は、アズールが誰よりも努力する人で、とびきり優秀で、でも脆いところがあることを知っている。さらには、オーバーブロットした姿さえもみたことがある。
 でも、そんなことをいってもただの不審人物にしかならない。内緒の内緒だ。
 怪しまれないように微笑んで、ユウはアズールを案内するように歩き出した。
「アーシェングロットさんは、学園によくお越しに?」
「僕がはじめて持った店があるところですし、視察がてら訪れる程度には」
「なるほど」
「ぜひご利用くださいね」
「ええ」
 新進気鋭の事業家アズ―ル・アーシェングロットの原点であるモストロ・ラウンジには、賢者の島の外からも人がやってくるという。
 だが、ユウはこの世界に戻ってきてからあまり訪れたことはない。食事は美味しいし、いつの間にか提供されるようになっていたお酒も飲める年齢だけど――あそこは、思い出が多すぎた。
 アズールに会えるかもしれないという淡い期待はあったけれど、実現してみれればほらこのとおり。記憶のないアズールと一緒にいても、虚しくなるばかりだ。
 歳を重ねた分だけ成熟した大人の色気、彼によく似合うコロンの香り。服装だって一目見てわかるような、生地も縫製も一流の職人の手によるものだ。
 泥だらけでマンドラゴラの世話をし、動きやすい作業着同然の格好に園芸用のエプロンを身に付けた自分が隣にいては、申し訳ない。
 たった数年。されど数年。あのときから傍らにいたなら、なんてことはないだろう時間の経過は、今のユウにとっては分厚く高い障壁である。
 ただ、まあ、元気なところをみれてよかったな、と思う。
 他愛ない世間話を当たり障りなく交わしながら、二人は鏡の間へと到着した。
 軽くノックをすれば、中から返事があった。
「学園長、お客様をお連れしました」
「ええ、ありがとうございます」
 扉をあけて声をかければ、闇の鏡の前に美しく立っていた学園長がねぎらってくれた。
 そしてそのまま、ユウに続いてはいってきたアズールに対し、両腕を広げて来訪を喜ぶような仕草をみせた。
「お久しぶりですねえアーシェングロットくん!」
「はい、お久しぶりです。学園長もおかわりなくお元気な様子で安心いたしました」
 お互いに妙な胡散臭さを感じる笑顔を浮かべ、握手をしている。
 鴉と蛸って化かし合いをするんだったかな? などと笑顔の裏で考えつつ、ユウはクロウリーに近づく。
「それで、ご用はなんでしたか?」
 ああ、そうそうと言いながら、クロウリーが懐から小さなメモリを取り出した。
「ええと、まずこのデータをイグニハイド寮長に渡してきてください」
「はい。それから?」
 受け取りながら、他にもあるのだろうと先手をうつように続きを促す。
「サムさんがお店の棚卸があるので手伝ってほしいと」
「いってきますね」
「クルーウェル先生も明日の授業の打合せがしたいと」
「はい」
「それからバルガス先生がホウキの発注の件でお話があるとか。以上です」
「あはは、わかりました。では、失礼しますね」
 なんというか盛りだくさんの用事だった。朝から植物園にこもりきりで職員室に顔を出していなかったから、皆、学園長に伝言を頼んだろう。伝書鳩ならぬ伝書鴉。
 しれっとした顔で失礼なことを思いつつ、踵を返そうとしたところで呼び止められる。
「よかったら、明日あたり一緒に食事をいかがです?」
「わ、よろこんで! 楽しみにしてますね!」
 オンボロ寮で慎ましい生活をしているユウにとって、嬉しいお誘いだ。学園長が連れて行ってくれるところは、ユウにとっても楽しめるところが多く、かつ美味しいところばかりだから。
 飛び上がるようにして手を叩き喜んだ自分を、アズールがじっと見ている。いい歳をして落ちつかない女が珍しいのか、それとも客である自分が蚊帳の外になっている気になるのか。
 もしかしたら両方かも? ああ恥ずかしい!
「じゃあ本当にこれで失礼します」
「はい、また連絡しますよ」
 するり、アズールの横を通り抜けて、鏡の間の扉を潜り抜ける。そっと扉をしめて、ほう、と胸にこもった熱を吐き出す。
 そして、手で顔に風を送りながら、ユウは学園の廊下を早足で歩きだした。いまさらながら、アズールに会えた幸福を噛みしめる。
 学生の頃は、この廊下で、あの教室で、ときおり足を止めてアズールと話をしたものだ。
 手の施しようのない火が心に灯るような思い出は、だがもう、記憶にとどめるのはユウしかいない。アズールは、すべて覚えていない。
 さびしくはある。だが、たったひとつ。自分だけの宝物をもっているのだと思えば、我慢もできよう。
 アズール先輩にまた会えるかな? そうだといいなあ。
 そんな淡い期待を胸に大事にしまいこんでから、ユウはクルーウェルの研究室の扉を叩いた。

 再会は、思っていた以上に早かった。
「こんばんは、美しい夕暮れですね」
「あ、え、ええ……こんばんは……?」
 バルガスからの相談をうけ、来年度に新入生へと用意する箒のカタログを抱えて帰宅しようとしていたユウは、目を瞬かせた。
 ――誰そ彼。
 ユウの故郷では、そう問いかけなければ誰か判別がつかぬような時刻を、たそがれどきと呼んでいた。
 だが、「あなたはだれですか」と問いかけずとも、こんなに美しい人を間違えるわけもない。
 昼の名残が刻一刻と眠りに落ちて、夜の気配に静々と満たされていくこの学園内で、その人の白い美貌はひときわ浮かび上がっていた。
 でも、なんで?
 にっこりと上品に微笑むアズールが、目の前にいることが甚だ疑問である。なにせ、この世界でユウのことを覚えているのはたった三人だけ。
 植物園でのアズールとの再会を思い返してみても、わざわざ訪ねてくる理由はなさそうなものだけれど。
 首をひねるユウに、すすっとアズールが近寄ってくる。
「少々お時間いただけませんか?」
「え? でも、」
 帰って夕食の支度の支度をしなければいけないし、バルガス先生からの資料に目を通さなければならない。
「せっかくですし、モストロ・ラウンジへどうぞ」
「あ、あの、」
 なんとか断ろうとしてみるものの、肩に手を回されて回れ右。足先は鏡舎へと向けられる。
「美味しい紅茶とケーキをご用意いたしましょう」
「えっ!」
 足を突っ張りわずかな抵抗をみせる前に、目の前に餌をぶら下げられてしまったユウは、ぱっと顔を輝かせた。
 アズールがしてやったりというような笑顔を浮かべる。
「さあ、ご案内いたします」
「……お邪魔します」
 流されやすいというなかれ。ユウはおいしいものに覿面に弱いのである。
 そのまま鏡舎に連れ込まれ、オクタヴィネル寮への続く鏡をくぐり、海底に伸びる廊下を進めば、ラウンジの扉が開かれて、流れるように店内のソファに座らせられた。
 口を出す暇もなく、注文する隙も与えず、丁寧に供されたのは生クリームの添えられたシフォンケーキと香り高い紅茶。絶対美味しいやつである。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 すすめられるままに紅茶を飲み、一瞬目を丸くしたあと、ユウはふわりと微笑んだ。
「……この紅茶」
「お口に合いませんでしたか?」
「いいえ、とんでもない。とってもおいしくて……ふふ、懐かしい味がします」
 香り高く、渋みは少なく、温度も適温。カップも白く美しく、紅茶の水色がよく映えている。立ち上がる湯気とともに広がる香気を、もう一度胸いっぱいに楽しむ。
 どうやらジェイドがきているらしいと、ユウは目を細めながら思う。きっと彼が淹れてくれたに違いない。またこうして口にすることができる日がくるなんて。
「身近にお詳しい方でもおられたのですか」
 にこにこと紅茶を楽しむユウに、アズールが問いかける。
「そうですね、身近というほどではありませんでしたが……、よく紅茶を淹れてくださった方がいて」
 思い出す。この学園で監督生であったころ。モストロ・ラウンジを訪れてアズールと話をしていると、ジェイドがよく紅茶をだしてくれた。そのときのお菓子にあわせて、いろんなお茶を飲ませてくれたのだ。
「とても熱心にお茶の淹れ方や茶葉について勉強しておられました。ただ、熱砂の国の伝統のお茶を淹れてくださったときには、その場にいた全員が驚いてしまって……今思えばからかわれたのかなって思います」
「ほう? まあ、あれは熱砂の国の文化を知らない人間には少しばかり……ねえ」
「そうなんですよね、甘すぎて驚いちゃいますよね」
 あの甘さを知らなかったとき、しれっと「今日は熱砂の国の伝統的な作法でお淹れしました」と言われて、何の疑いもなく口にした。
 次の瞬間アズールと一緒に噴きだしてむせる姿を、ジェイドには笑われるし、フロイドには「きったねー!」と叫ばれるしで散々な目にあった。でもそれも、今となっては楽しい思い出だ。
 紅茶と一緒に出されたケーキも美味しい。ふかふかの塩シフォンケーキは、添えられた生クリームがよくあう。
 いくらでも食べられそう。頬を緩ませながら舌鼓を打っているとアズールが微笑んだ。
「ところで、学園敷地内のオンボロ寮に住んでいらっしゃるとか?」
「あ、はい。ご厚意で住まわせてもらってます」
 ここからが本題らしい。フォークをおろして、アズールに対して姿勢を正しつつ頷けば、芝居がかった仕草で頭を振られた。
「なんてことだ! あのようなところ、女性にはいささかおそろしく、そして不用心ではありませんか?」
「ゴーストのみなさんもよくしてくださいますし……それほど困ってはいませんよ」
 明るく笑いながらそう言葉にすれば、一瞬、アズールがたじろいだ。信じられないといわんばかりに目が大きくなる。
「は? 寮にゴーストが? え、ゴーストと仲がよろしいんですか……?」
「ええ、みんなとっても親切で!」
 最初は、驚かせてこようとしていた彼らだが、こちらが恐れず友好的に接しようとしていることがわかった後は、すぐに以前のように親しくなれた。
 記憶がないのは寂しいが、今はなにくれとなく気にかけてくれて嬉しい。ただいまといえば、彼らが応えてくれるのだ。こんなに嬉しいことはない。
「そ、そうですか……んんっ、ちなみにユウさんはご結婚の予定などは?」
「はい?」
 寮の話をしていたはずなのに、どこから結婚の話が生えてきた? 急な話題の転換に目を丸くすると、アズールが心配そうな表情で続ける。
「不躾な話ですみません。ですが、独身のうら若い女性があのような場所に住むなんて、ねえ?」
 どうやらこれも住んでいる場所に関わっていることらしい。まあ、いわれてみれば、男ばかりの学園の、古びた寮に住むなんて不用心かもしれない。恋人の一人でもいるならば、そしてその人物が魔法士であるならば、アズールが抱くような懸念も湧いてこないだろうが。
「もっと綺麗な場所に住みたいと思いませんか? あなたのような女性には、もっと可愛らしい家が似合いそうだ」
 そういう家に憧れがないわけではない。ユウだって元の世界では花の女子大生である。でもまあ。
「うーん、あまりそうは思わないです。住めば都じゃないですけど、慣れていますし」
 そう。慣れちゃったのだ。以前にも住んでいた場所は親しみがあるし、その頃に手直しした場所は掃除をすれば問題なく使えた。外観はひどいかもだが、内部はそれなりに快適なのである。アズールが知らないだけだ。
「……僕ならば、手ごろなマンションなど斡旋することもできますが」
 ふ、とわずかに黙り込んだあと、アズールが眼鏡のブリッジを押し上げて、口の端に笑みを浮かべる、ちょっとひきつっているように見えるのは気のせいだろうか。
「いえいえ、そんなところに住めるほどお給料がいいわけではありませんので。私は、しがない用務員兼雑用係ですから」
「まあ、そういわずに。僕がお世話してさしあげますよ」
 わ、と思わず声を出しそうになる。いつの間にか、テーブルの向こうから伸びた手が、自分の手に重ねられていた。
「僕に任せてくれませんか? 満足のいく結果をお約束します」
 びっくりして視線をあげれば、色っぽく細められた瞳に見つめられ、耳から蕩かしていくような甘い声がかけられる。
「ふわぁ……」
 ぽ、とユウは頬を染めた。アズールの笑みが一段深くなる。
 いつか予想していたとおり、いやそれ以上に、アズールはとても素敵な大人の男になっていた。感心するばかりである。
 こんな格好よくて頼りがいのあるアズールが勧める家は、それはそれは素晴らしいところなのだろう。
 だけれども、ユウにも事情はある。元の世界に戻るなら、学園から離れるのはあまりよろしくないのである。
「ありがとうございます。お気持ちは嬉しいのですが、ほんとうに困っていませんから。なにかあったら、その時にはお願いしますね」
 えへへと笑いながら、白い手袋に包まれたしなやかな指先がら、己の手を取り戻し胸元で抱きしめる。触れられた感触を忘れないように。
 虚を突かれたような表情のあと、アズールが何か言いたげに青い瞳を細くして、テーブルの上で手を握りしめる。
 そういえば、アズールのほうはどうなのか。自分ばかりが情報を吐き出すのはずるい気がした。それに、初恋を引きずってアズールを恋しいと思う自分には、気になる話題だ。今なら便乗しても、そうおかしくはないはず。
「あの、そういうそちらはどうなんですか?」
「――どう、とは?」
 低い声で問い返されて、ユウは首を傾ける。
「アーシェングロットさんは、ご結婚されているのかなーと」
「していませんね」
 にべもない。その短い言葉に、なんだかひどい疲れが混じっているように聞こえた。きっと経営者として気苦労が絶えないのだろう。
「お仕事がいそがしいから、ですか?」
「いえ」
 そもそもやり手の経営者として名を馳せるアズールなら、今はまだ仕事に集中したいのかもしれないと思ったが、どうも違うらしい。
「?」
 じゃあどうして? とばかりに見つめれば、少しばかりばつが悪そうな恥ずかしそうな顔をして、アズールがわずかに俯く。
「……恋しいひとは、います」
「わ、それは素敵ですね!」
 自分の恋をまるで苦々しいものであるように吐きだしたアズールの前で、ユウは手をあわせて微笑む。
 何かあれば絶対的な契約、何はともあれ利益優先、使えるものは何でも使え、相手の弱みは極上の美酒といわんばかりだったあのアズールが! 恋を! している!
 びっくりして奇声をあげそうになるが、なんとか飲み込む。
 そうして驚きが去った後は、寂しさやら悲しさやらがこみあげてきた。
 ああ、ああ……そっか、そうだよね。
 学園から卒業して五年。アズールだって恋のひとつやふたつ、みっつやよっつくらいするだろう。多すぎたかな? まあいい。
 ひときわ、時間の隔たりを強く感じ、ユウは睫毛を伏せてティーカップをとった。
 アズールはもう、ユウにとっては本当に遠く遥かな、手の届かない場所で輝く星のような存在になってしまったのだ。
 とはいえ、記憶があったところで、自分たちは出来のいい優秀な将来ある先輩と、魔法も使えない一般人の後輩という、その程度の関係性しかもてなかっただろう。連絡をとりあうような関係性にすら辿りつけていなかったかもしれない。
 それならばせめて、まだ少しばかり仲が良かったあの頃に、好きだと伝えられていたなら。アズールが自分のことを「監督生さん」と呼んでくれていたあの頃なら、失恋しても青春の記憶として、いつかは愛でることもできただろう。
 虚しい。なんて虚しい「たられば」か。もうそんなことはありえないのだ。
 わずかに冷めた紅茶で乾いた口内を潤して、息を吐く。
 会ったことはないし、これからも会うことなんてないだろうアズールの恋しいひとは、きっとアズールの御眼鏡にかなうだけの素敵なひとなのだろう。アズールの傍らにあっても、皆が納得するような美しさと素敵な魔法を持っているのだろう。私などとは違って。
 思えば、長い長い恋だった。
 異世界にほうりこまれ、ようやく得た住処は追われそうになり、でもそんなことをしてきた人魚に惹かれた。勢いばかりの若さゆえといえばそれまで。でも、好きだった。ほんとうに、好きだった。
 ユウは美味しい紅茶をカップのなかで揺らしながら、小さく微笑んだ。
 でもそれも終わり。まさか、再会をしたその日に、こんな静かに摘まれることになろうとは思わなかった。ひとひらの花弁さえ綻ばせることもできなかった恋を、ユウは心の奥底にしまいこむ。
 アズールに恋をしたことを後悔はしていない。だから、いつか、この花が瑞々しさを失った頃にでも、こんな気持ちを抱いていたと思いだせるように。
「アーシェングロットさんが恋をしているなんて、そのお相手は幸せな方ですね。きっとうまくいきますよ」
 あなたの恋路に幸あれ。そんな気持ちをこめてそう伝えれば、アズールが面食らった顔をして、ごにょごにょと珍しく口ごもった。
「……どうも」
 照れているのかな可愛いと思いながら、ユウは自分の恋にそっと別れを告げた。

「またのお越しをお待ちしておりますよ、ユウさん」
「ありがとうございました。失礼します」
 天然なのか、計算づくなのか。
 のらりくらりと会話をいなし、ケーキと紅茶に舌鼓を打っていた女が、振り返ることなく去っていく。微塵もこの逢瀬の終わりを惜しんでいない。なんなんだ、あの女。
 洒落たデザインの扉の向こうに、ほっそりした背が消えてからきっちり十秒後。
「……ちっ」
 どっと疲れたアズールは、苛立ちをあらわにし舌打ちをする。
 上品な仕草ではないことは承知しているが、感情を大鍋で煮込んで掻きまわされるような不快感はいかんともしがたい。
 結局、ユウとかいうあの女から、思うとおりの言葉は引き出せなかった。
 あれだけよりよい住環境の提案をしたのに、まったくもって食いついてこないとは。あんなにも欲が薄いなんて生きているのか? もしかしたらオンボロ寮に出るというゴーストなのか? 僕は化かされたのか?
 苛々としながらVIPルームへ向かおうとしたところで、すう、と近寄ってきた大きな影のうちひとつが、声を転がすように笑った。
「おやおや、さきほどの可愛らしい方はもうお帰りに? アズールに興味がありそうでしたのにどうしたことでしょう」
「嫌みかジェイド」
 話を聞いていたらしい。あれを聞いて、あの女の態度をみて、どのあたりにアズールへの興味がありそうだと判断したというのか。
 するりと外された手を思い出し、息を吐く。
 こちらが話をふったのが原因だが、結婚事情を訊ねてくるとは思っていなかった。
「あんなもの、世間話のひとつに過ぎないでしょう」
 学園長の遠縁といいながら、あんなオンボロな寮に住み込み、学園のしがない雑用係にあまんじ、引っ越しをする程度の金もない。アズールは向上心も野心もない人間が嫌いだ。
 もしかしたら己の住環境については関心がなくとも、結婚には希望があるのかもしれない。何度もしがない雑用係であると口にしていたところから、金銭的に条件のよい男を探している可能性はある。ここを利用して、寮から追い払えないだろうか。
 そんなことを考えながら、鼻を鳴らす。
「学園長の身内のようですが、あまり大きな利用価値はなさそうだ。ああ、おまえたち、気をつけなさい。気にいられて言い寄ってこられるのを追い払うのは面倒でしょうから」
 謙遜することもなく、自分とその両腕たる双子は世間一般的に、結婚相手として破格の条件を備えていると思っている。
 とはいえ、自分はあの女の範疇にないらしいとアズールは判断していた。そうでなければ、こちらの恋路を応援などしてこないだろう。連絡先を尋ねてくるでもない、別れを惜しむ様子さえなかった。
 ああ、苛々する。僕のどこが気に入らなかったというのか。
「承知しました。これからあの方とは、それなりに顔をあわせることになりますからね。さて、あとはどうやってあの寮から穏便に立ち退いていただくか」
 穏便の裏に物騒を潜ませているのが、ジェイドという男である。
 物腰やわらかに懐に入り込んできても、決して自分の内側には立ち入らせない。そうして必要なものを奪い取って、そつなく去っていくのだ。
 まあ、アズールが心配することもないだろう。
 ところで、とジェイドが声を落とし気味に囁く。
「アズールとの話をお聞きしつつ、マジカメアカウントをチェックしてみましたが、彼女自身の情報が一切みつかりません。ウインターホリデー明けから、生徒たちの投稿には頻繁にあがっているようですが」
「彼女自身が発した情報がひとつもない、と?」
 ジェイドが、ええ、と小さく頷く。
 思っていなかった情報に、アズールは長い指で己の顎を撫でる。
「あの年頃でマジカメのアカウントをひとつも持っていないなんてことはないでしょう。もっとよく探しなさい」
「かしこまりました」
 ジェイドの検索能力に間違いはない。もう少し時間をかければ必ず何かが見つかるはずだ。そう確信しつつ、アズールは近づいてからずっと黙りこんでいるジェイドの片割れに視線を向ける。
 女が出て行った扉を見つめる瞳は真剣そのものだ。珍しい。いつもこれくらい真面目なら、いうことはないのだが。
「どうしました、フロイド」
 人形のように動かない幼馴染に尋ねれば、急に命を吹き込まれたように、勢いよく顔を向けてきた。
「あのさあ、オレから近づくのはいいんだよねえ?」
「は?」
「おや」
 フロイドの口から飛び出してきた問いかけの意味がわからない。
 ジェイドと揃って首を傾ければ、フロイドが色の違う瞳を少年のようにきらきらと輝かせ、さらに言い募る。
「アズールは近づいてくるのに気をつけろっていってたじゃん? それってオレから近づくのはいいってことじゃんね?」
「ユウさんのことですか? ……まあ、そうなりますね」
 言い寄ってくる女には必ず野心があり、その手の内がわからぬ間はこちらも警戒せざるを得ないけれど、フロイドがその気になって情報を掴みにいくのならばなんら問題はないだろう。
 小さく頷けば、フロイドが無邪気に笑う。
「あは、わかったぁ。なーんか気になるからいってくんね!」
 ひょい、と帽子をかぶり直したフロイドは、自慢の靴を鳴らしモストロ・ラウンジを軽快な足取りで出ていった。
「よろしいのですか、アズール」
 まるで鉄砲水のような片割れを見送って、ジェイドが微笑む。
「かまいません。悪い手ではないでしょう。もし、フロイドに安い恋のひとつでもしてくれれば、コントロールしやくすなる」
 人間はいくらでも恋をする。見た目、金、社会的地位、そういったものに目がくらむ。そうして、それよりももっと条件がいい相手を見つければ、あっさりと離れていく。
 たとえるのなら人間の恋は、燃え上がる一時の炎。そのあとに何にもならない灰だけを残し、すぐに別の何かに身を焦がす。深く静かな海の底に沈めて捕えて離さないような、人魚の恋とは違う。
 フロイドのあの見目で、機嫌がよいときに相手をされれば情が傾く女なんて多数いる。恋人になれるかもと、自分だけは特別になれるかも、と叶わぬ夢をみるだろう。そこをうまく使うことができれば、アズールの願いはきっとかなう。
 フロイドの性格からして、興味がなくなればあっさりと距離をとることも容易い。追いすがられようとも、ウツボの凶暴さを垣間見せれば大抵の雌は恐れをなして逃げてゆくから。
 にやり、とアズールはそれはそれはあくどい笑みを浮かべた。
「恋しい男を誘うために学園の外で一人暮らしをはじめる――なんてシチュエーション、悪くないでしょう? あの寮から出るには十分な理由になりえる」
「人の恋心まで利用しようだなんて悪い人ですね」
 あの女性がお可哀そうですと嘯くジェイドもまた、アズールに負けず劣らずの顔をして笑っている。
「なんとでも。恋は金を融かしていくが、ビジネスチャンスもまた等しく生まれるのです。それが第三者のことならば僕の知ったことではありません」
 フロイドが上手くやるならばそれでよし。そうでないなら、ほかの手段を考えておかねば。
「しばらくモストロ・ラウンジに来ることが多くなります。おまえたちもそのつもりで」
「はい。フロイドにもそのように伝えておきます」
「任せましたよ」
 胸に手を当て上品に背を折るジェイドを置いて、アズールは一歩踏み出そうとして、ふと気づく。
 せわしなく働くオクタヴィネル寮生のうち幾人かが、アズールたちに不自然な視線を向けていた。
 店内の片隅で、人でなしな会話をさもあたりまえのように交わした畏怖と敬意を払うべき支配人たちを遠巻きにみている。
 にこりと笑って見せれば、肩を小さく跳ねさせて仕事に戻っていく。
 ここで聞いたこと、見たもの、すべては他言無用である。彼らは、わざわざ情報を漏らすほど愚かではない。もしアズールたちの邪魔をすればどうなるか、彼らが一番よくわかっている。何も問題は、ない。
 アズールは冷たさをたたえた青い瞳を前に向け、次の仕事に取り掛かるべくVIPルームへと向かった。

 ツイステッドワンダーランドの住人ならば誰もが知っている、人魚姫の物語。
 昔々、海の王の末姫が、陸の国の王子に恋をした。
 姫は慈悲深き海の魔女と契約を交わし、声を対価に足を得て、陸にあがった。
 やがて姫は王子と心を交わし、苦難を乗り越え、そして結ばれた。
 それは、誰もが微笑むハッピーエンド。
 だが、そうではない話を聞いたことがある。
 王子は姫を選ばず、同じ陸の国の王女と結婚すると決めた。
 声を失くし鰭も戻らず泣く姫は、かといって姉たちの助言どおりに王子を短刀で刺し殺すこともできず。
 朝日の中、泡となって消えたという。

『悲しいけど、綺麗なお話だなって私は思うんです』

 そんな悲しい物語をそう評した人。それはいったい誰だったろう。
 思い出したいのに、記憶のどこを探っても、その人のことがわからない。
 さっきまでそこにあったあたたかなものが、一瞬にして消えてしまったような悲しさと寂しさ。
 僕はきっと、その人を大事に大事に、なによりも慈しんでいたはずなのに。
 己の記憶から吸い上げられるように消えていった誰かが、恋しくてたまらない。
 恋しい。恋しい――そんな想いだけを抱えて、アズールの意識は浮上する。
 もはや何度目になるのかわからぬ、甘い悪夢の残滓を抱えた目覚めに、アズールはほろりと泣いた。
「……」
 久しぶりにみた夢だった。
 ゆっくりと寝台の上に身を起こす。まだぼんやりとしている頭を手でおさえ、細く長い息を吐く。
 悲しいかな。悲しいかな。
 僕は、恋しい人を失ったことだけを覚えている。こんな哀れな人魚がいてもいいものか。
 かつてはこの夢をどうにかしようとあがいたこともあった。だが、無駄なことだった。
 これは、アズールに忘れるなと告げているのだ。
 魂に刻まれた恋が、己が選んだ番を忘れることなど許さないと叫んでいる。
 それは己が己にかけた呪いだと、人魚の魔女に憐れまれたこともある。
 馬鹿な子だね、と。
 すでに番を失った年経た女の声がするりと心に落ちたのは、それが真実であると自分も理解したからだろう。
 番、つがい、僕の最愛。この生涯を賭して想うは、ただひとり。この心にいてもよいのは、その人だけ。
 でも、その人はどこの誰かもわからない。生きているのか死んでいるのかさえ、わからない。
 悲しい人魚に微笑みかけて、この魂を癒してくれるはずの存在は、いったいどこにいるのだろう。
 考えても辿りつけない疑問を腹の底へと沈めてから、顔をあげる。
 いつまでも泣いてなどいられない。今日も、莫大な金を稼ぐチャンスが僕を待っている。時は金なりとはよくいったものだ。
 意識を切り替えながら寝台から降りる。部屋にある大きな鏡に映る自分は、いつもよりなお白い顔をしていた。
 ふいに、昨日はじめて出会った女を思い出す。
 恋しい人がいる、なんて。
 冴えない女につい乗せられて、そんなことを口にしてしまったから、こんな夢をみたのだ。きっと。
 すべてを振り切るように、シャワールームへと向かう。
 人魚の肌にはいささか熱い滴でも身に受ければ、少しは気が晴れるだろうと思った。

「あの鴉め……」
 オンボロ寮へのモストロ・ラウンジ移転案を無下に断られてからも、アズールは諦めることなく内容を変えて幾度も計画をプレゼンしつづけている。だが、どれにもよい返事をもらえない。
 アズールは眉間に皺を寄せて、鏡舎へと足を踏み入れる。
 クロウリーは思った以上に、あの「ユウ」という女に心を砕いているようで、まったくもって交渉が進まない。どんな対価を提示しようとも、ユウの次の居住を保障すると提案しようとも、首を縦に振らない。
 のらりくらり、ユウとおなじ。何を言っても暖簾に腕押し糠に釘。まったくもって手ごたえがない。
 別の方法でアプローチをするべきかと脳内で次の手を考えていると、オクタヴィネル寮に続く鏡の前に、悩みの元凶である女が立っていた。
「こんにちは」
 アズールが声をかけるより先に、ユウが呑気に挨拶をしてくる。こちらの気もしらないで!
 ふわっと微笑まれて、一瞬、胸に熱く苦いものがこみあげた。
 本人にその自覚はないだろうが、仕事の障害たる女が笑って声をかけてきたのだから当然だと、アズールは思う。
 それにしても、どうしてここに。もしかして、うまくフロイドが釣り上げたのだろうか。
 そんなことを考えながら、にっこりと笑い返す。
「こんにちは、ユウさん。もしや、今日はラウンジをご利用いただけるのですか?」
「はい。さきほどフロイドせ、んんっ、フロイドさんに食事に誘っていただきまして。美味しいご飯に弱いものですから」
 照れたように視線を伏せる様子に、おや、と声を零しそうになる。
 やはりフロイドがうまくやったらしい。ユウは食事につられたと言うけれど、事実は違うのだろう。物欲がなくとも、やはり女は女であったか。
 フロイドに誘われてさぞ嬉しかったことでしょうね――笑いながら、心中でそんなことを思った。表情にも態度にも、おくびにもださないが。
「そうでしたか。開店までには少しばかり早いですが、フロイドに招待されたのならば問題ありませんよ。さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
 えへへ、と照れくさく笑う彼女をエスコートするように鏡へ誘う。
 鏡面を揺らして一歩踏み込めば、そこは海中に建てられたオクタヴィネルへの廊下が続く。ユウに出会った日のように、海の景色を眺めながらラウンジへと向かう。
 ユウがくることはあらかじめ連絡されていたのか、店の入口には寮生が一人立っており、二人をみると丁寧な仕草で扉を開けてくれた。
 軽い会釈をしつつ彼女が入店したと同時に、大きな声が響く。
「あ、小エビちゃん! いらっしゃーい!」
「こんにちは。お招きありがとうございます」
「じゃあこっちこっちー」
 弾むような感情を滲ませて、フロイドは満面の笑みでユウを案内していく。店内はどこも綺麗に海の様子がみられるよう設計しているが、それでも一番よい席へ連れて行った。
 アズールはフロイドがユウを呼んだときの名に、首を傾ける。
「フロイドの悪い癖がまたでたのか?」
「声をかけにいったときに、驚いて跳ねたところがエビのようだったらしいですよ」
 独り言のつもりだったが、いつのまにかやってきていたジェイドが、その問いに回答をくれた。
「小エビ、ですか。……ふん」
 ころころと思春期の少年少女のように笑い転げている二人を見遣り、アズールは鼻を鳴らした。
 フロイドは周囲にいる者にあだ名をつける癖がある。その人物をみて、なんとなく思い至った海の生物で呼ぶのだ。
 あのユウにはぴったりの名だろう。小エビ、なんて。まあどうでもいいが。
 この分なら、ユウのことはフロイドに任せればうまくいきそうだ。邪魔をしないよう、VIPルームに向かおうとして、ふと足をとめる。
 厨房のほうからいくつもの視線を感じる。なんだと顔を向けてみれば、料理を担当するスタッフたちが、困ったような助けてほしそうな目でこちらを見ていた。
 それで、ピンときた。
 フロイドが最近購入した靴の話に花を咲かせ、ユウはそれを楽しそうに聞いている。それはいい。それはいいのだが、仕事をしたのかお前は?
 アズールは眉根を寄せてフロイドに足早に近づく。
「フロイド。おまえには厨房の指導を任せていたはずですが、どうなりました?」
 立っているアズールに見下ろされながら、フロイドは唇を尖らせる。
「ええー、めんどいからもうやりたくなぁい。そもそもぉ、ここのやつら要領悪過ぎ~。この学園の生徒の質、落ちたんじゃね?」
 ああ、やはり。アズールは頬をひきつらせながらひとつ頷いてみせた。
「なるほど、途中で放り出してきたと。今日は新作の指導をするようにといっておいただろう!」
「しらね」
 ぷいっと顔をそむけて断固拒否の態度をみせるフロイドに、こめかみがひきつる。
 それが社会人の態度か! おまえは子どもか!
 そんなふうに怒鳴り散らしそうになるのを堪え、なんとか厨房にいかせる方法を模索するアズールを横目に、ユウが首を傾ける。
「あれ、まだお仕事中でしたか。私、はやく来すぎちゃいましたね。どうぞ、いってきてください」
「やだ! オレは小エビちゃんと遊びたいの!」
 やだやだ、指導なんてやりたくない、小エビちゃんとお話したいとテーブルに突っ伏して駄々をこねる長身の男など、端から見れば怖いはずなのに、ユウは恐れた様子もなく顎先に指をあてて微笑んだ。
「ん~……でも私、しっかり働いているフロイドさんの格好いいとこみてみたいです。新作メニューにも興味ありますし。あとでそのお話もしましょう? こっそり教えてください、ね?」
 フロイドさんならそれくらい、すぐにできますよね、知ってますよといわんばかりだ。
「……ちぇー……じゃあ、ちょっといってくる。まだ帰っちゃダメだからね、小エビちゃん。特別にオレが新作つくってきたげるからさ」
 渋々といった様子でフロイドが起き上がってそんなことを言う。
 いやまて、新作を提供するのはまだ先だといっておいたのに何を勝手にと思ったが、アズールが口を挟む隙もなく、ぱちん、とユウが手を鳴らした。嬉しそうに小さく体を跳ねさせ、声を上ずらせて言う。
「わ、楽しみ! 頑張ってください!」
「あは、じゃあいってくるねえ」
 なんのてらいもなく素直に応援されて、フロイドが相好を崩す。ふにゃふにゃと甘い顔で手を振って、席から離れていった。厨房に、気合のはいった声が響く。
「……」
 声を発することもないまま、そのやりとりを眺めていたアズールは、内心焦っていた。
 なんだこれは。たった、たった数日のこと。話をしたのもそれほど多い時間をかけていないはずだ。それなのに、どうしてこんなにフロイドのほうが懐いている? これでは釣り上げられたのはウツボのほうじゃないか!
 完全に予想外の展開である。あのバカフロイド。
 ふつふつと海底を湧かせる熱水噴出孔のように、腹の底が熱く煮えたぎってくる。
「ジェイド、どういうことですか」
「それが、すっかり仲良くなってしまったようでして」
 数歩下がってジェイドに小声で問えば、ふふっと口元に手を当てて楽しそうにそんなことを言う。いやいや、そういうことを聞きたいのではない。
「そんなことはみればわかる!」
 ですよね、とばかりに肩をすくめたジェイドがアズールの横をすり抜けて、今しがたまでフロイドが座っていた場所、すなわちユウの隣を陣取った。
 ジェイドが急に距離を詰めてきたのにも驚かず、ユウは「こんにちは」と危機感が欠如しているのかと疑いたくなるような無垢さで微笑む。
「こんにちは、ユウさん。フロイドと仲良くしてくださっているようで、ありがとうございます。どうやらあなたのことは、とくに気に入っているようでして。珍しいことです。今後とも、ぜひ仲良くしてやってください」
「そうですね、……ふふふっ」
 流れるような挨拶から心地よい美声を浴びせられ、目を瞬かせていたユウが、噴き出すように笑った。ころころくすくすと、何かを思い出して一人笑う幼子のようだ。
「何がおかしいところでもありましたか?」
 さきほどジェイドの言った内容は、思い出しても不審な点はない。面白いこともない。それでも何かしらユウの笑いどころに触れたのだろう。
「いえ、フロイド先輩の飽きっぽさから考えれば、今日はたまたまそういう気分だったんだろうなって。次はないように思いますが、機会があえばそうですね、またお邪魔させてください」
「……」
 ――(先輩?)
 ぽろりと零れた言葉に、アズールは妙なひっかかりを覚える。ジェイドも同じだったようで、一瞬だけ目が合う。
 ごく自然にユウは言ったが、彼女がフロイドの後輩であったことなどない。ないはずだ。でも、どうしてか、それが「当り前」のように思えてしまう。その認識の齟齬が気にかかる。
 ジェイドは胸に手を当てて、にこやかに微笑む。
「おや、なんと寂しいお言葉でしょう。フロイドが聞いたら悲しみます」
「またまた、そんなことおっしゃって。私だって、そのあたりのことがわからないわけじゃないんですよ」
「フフ、もしかして、僕のこともそんな風に思っておられるんですか? すぐに飽きてあなたのそばからいなくなると?」
 ユウの手をとったジェイドが、悲しげに微笑む。
 この母性本能をくすぐるような表情に、何人もの女が勝手に熱をあげて自滅してゆくのをみてきた。さて、この女はどうでるのか。
「先だって僕とも連絡先を交換したのに連絡のひとつもくださりませんし、冷たいお方だ」
「お仕事忙しくていらっしゃるでしょう? 遠慮しているんですよ」
 手を握られても頬を染めるでもなく、ころころと少女のように笑ったユウは、ジェイドの手からするりと逃げた。いつかアズールにしたのと同じように。その光景に、心なしかほっとする。自分だけではないのだ、と。
「まったく、お前までなにをしているんだ。僕はそんなこときいてないぞ」
「そもそもアズールに連絡先を交換したことなんて報告いります? プライベートなお話ですよ」
 美しく微笑みながら、これは仕事絡みではないことをさりげなく言うジェイドは、まったくもって優秀な方腕である。懐柔しようとするならば、警戒されないほうがやりやすい。
 とはいえ。
「お二人にはなんだかすっかり面白がられているみたいで。ジェイドさんなんて気が付いたら連絡先が登録されてたんですよね。教えてもらったことも、スマホに触られたこともないと思うんですけど」
 ユウの言葉に、それはさすがにどうかしていると思った。
「なんですかそれは! おい、ジェイド!」
 犯罪はするなとばかりにジェイドを睨みつける。それくらいで怯むわけもないウツボは、にこにこと笑ってアズールの語気強い言葉を受け流している。
 ユウもさして気にも留めていないのか、笑うだけだ。大物なのか、危機感がゼロどころかマイナスなのか。普通はもっと恐れるか怒るかするべきところである。
 どうして僕の周りにはまともな人物がいないのかと渋面になったアズールに、ユウが少しばかり気取ったような顔で微笑む。
「ちゃんとお二人の手綱、握っていてくださいね、支配人さん」
「はあ……まったく……。僕に握られるようなやつらじゃないことくらい、もうおわかりなのでは?」
 やれやれと肩をすくめて、芝居ががった仕草で頭を振れば、ユウが噴き出した。
「それもそうですね」
「……ふふ、ははは! やはりよくわかっていらっしゃる」
 アズールとユウは目をあわせたあと、声をあげて笑いあう。
 何だろう。懐かしい。こうして、他愛ない話をしていたことが、あったような気がする。
 つい先日、知り合ったばかりの、なんの価値もないこの女が、ここにいるのが当たり前のような気さえする。穏やかで、あたたかかくて。浅瀬の珊瑚礁で、まどろむような心地よさがある。
「せっかくですから、アズールも座ってください。薔薇の国の南方でとれる茶葉が手に入ったんです。お淹れしましょう」
「ええ。ではお願いします」
 どういう理由かは知らないが上機嫌になったジェイドが、立ちあがってアズールに座るように勧めてくる。
 そういえば喉が渇いたなと思ったアズールは、何も考えずにユウの隣に腰かけた。満足そうにアズールとユウを眺めたあと、ジェイドが美しい足さばきで厨房のほうへと消えていく。
 ん? と思ったのは、二人きりにされた後だった。
 どうしたものかと一瞬固まったものの、これもよい機会である。フロイドはあのとおりで、あまり役に立ちそうにないし、自分がこの女を釣り上げるのもひとつの手である。
「そういえば、ユウさんはいつもどのようなお仕事を?」
「ええっと、植物園で魔法植物のお世話をしたり、先生方の授業のお手伝いをしたり、資料の作成とか薬剤の整理もしますし……、まあ、いろいろです」
「なるほど、それは素晴らしい」
 曲者揃いである教師陣からの面倒事もそつなくこなしているらしい。なかなかできることではない。そういえば、初対面の日にもやたらと声をかけられている様子であったか。
「マンドラゴラを錬金術でたくさん使う予定があって、今はその育成をしているところです」
「ああ、植物園の。そういえばあの時の――」
 あながち嘘ではないのだろうと感じながら、アズールが質問をすればユウは明瞭に応えてくれる。
 そうこうしているうちに、ジェイドが紅茶を持ってきて話の輪に加わり、それよりしばし後にフロイドがテーブルへと戻ってきた。得意料理に、新作料理まで用意して。
「おまたせえ~、ジェイドもいるし、たくさん作ってきたよぉ」
「わ、美味しそう!」
 次から次へとテーブルに並べられる料理の数々に、ユウが歓声をあげる。
「おやおや、フロイド。それではまるで僕が大食漢のようではないですか」
「いや、実際そうだろおまえは」
 なぜ、僕はそんなに食べませんけど? みたいなフリをしたんだ。可愛こぶるな。
 アズールが呆れた目を向ければ、わざとらしくジェイドがしなをつくってユウに侍った。
「しくしく、ひどいです。ユウさん慰めてください」
「え、余裕で食べられますよね?」
「……」
 理由はわからないが自信満々にそう言われ、そのうえ期待に満ち満ちた瞳を向けられたジェイドが、言葉なく沈黙する。
 ジェイドの姿は太っているわけでも筋肉質でもなく、すらりとしていて優美そのものだ。
 しかし、本人は信じられないくらい燃費が悪く、よく食べる。満腹になるまでの食事風景を目撃したら、見ているほうが気持ち悪くなるだろう。
「ええ、まあ……そうですね……」
「じゃあ、いっぱい食べましょう!」
 珍しく口ごもるジェイドをよそに、ぺっかぺかの笑顔を浮かべたユウが手を合わせる。率直に面白い光景だ。
「いただきます」
「なぁにそれ」
 ユウと対面になる位置に着席したフロイドが、目を瞬かせる。
「私の故郷の風習ですね。食事の前には、食材と作り手に感謝するために行います。食事後は、ごちそうさま、です」
「へえ~、じゃあ、オレ今小エビちゃんに感謝されたんだ。おもしろいねえ」
「はい、大感謝です。ところで皆さんへの料理指導はうまくいきましたか?」
「それがさあ~」
 魚介たっぷりのパスタを取り分けながら、フロイドが唇を尖らせる。指導はしてきたものの、やはり手際があまりよくないらしい。
 フロイドの話をきいたところ、去年まではそうではなかったらしい。どうやら、四年生になり実習や研修のため学園外にでた生徒たちが抜けた穴が大きいようだ。
 これは、マジフト大会までの本格的な指導が必要かもしれないと、トマトサラダを食しながらアズールは考える。店舗を移転してもそれをまわせるだけの能力が従業員にないなど、本末転倒である。
「でも我慢して教えてきたオレえらいでしょ、頑張ったでしょ、だから褒めてよ小エビちゃん」
「ええ、はい。さすがです。格好いいです。とても頑張ってこられましたね」
「んふふふ」
 ほらほらと催促するフロイドに、恐れることなく手を伸ばし、ユウはその頭を撫でた。常ならば払いのけそうな他人の手を、フロイドは当たり前のように甘受している。
 ほんとうに驚きだ。どうやって、この獰猛で論外なウツボの人魚を手懐けたというのか。人心掌握のすべを学んでいるようにも見えないのに。
 アズールは、悟られないよう気をつけながらユウを観察する。
 食事をとりつつフロイドとの会話に興じ、ジェイドの食べっぷりに感動してはしゃぐ姿は、どこにでもいそうな女性にしかみえない。
 いや、違う。彼女は、どこにいてもその場にすぐに馴染んでしまえるのだ。だから、どこにでもいそうだ、などと最初は評価してしまう。
 人とのコミュニケーションが苦手であった幼少期以降、周囲を見返そうと努力して会話術や交渉術を学んできた自分とは違う種類の人間だ。緻密な計算と深い観察力を持ってして懐に入り込むことを得意とするジェイドとも、また違う。
 獰猛なウツボたちと適切な距離を保ち、推しどころ引きどころを見極めて自然に接することができている。それは、天賦の才だろう。本人がどこまで自覚しているのかは知らないが。
 ころころと子どものようにあどけなく笑い、それでいて時折、なにもかも知っているような大人びた瞳で視線を流す。話ぶりからも、頭が悪いわけではないのがみてとれる。
 飽きない女だな、と。アズールはぼんやりと考える。
 華やかさはないが、人好きのする笑顔。聞き上手で話し上手。照明の光を艶やかに返す髪が美しい。黒い瞳が柔らかに細くなる瞬間がいい。
 近づけば近づくほど、深みにはまるような気がする。
 アズールがじっと観察しているうちに、モストロ・ラウンジが賑やかになってきた。
 近くの席のサバナクロー寮生たちが、わっと声をあげて笑いあう。その様子につい目をやって、あわせて店内の様子に気づいたらしいユウが、食後の紅茶のはいったカップをソーサーに戻して微笑む。
「混んできたみたいですね。私、そろそろ失礼します」
 長居をしたというほどではないものの、食事はすでに終わっているし、これからの時間の回転率を考えればそのほうがいい。いいのだけれど。
 アズールは、この時間を惜しいと思ってしまった。もう少し、ユウをみつめていたい、そんな気持ちを自覚して動揺する。
 アズールが口を引き結び眼鏡のブリッジを押し上げているうちに、えー、とフロイドが不満の声をあげた。
「小エビちゃん、もう帰っちゃうの?」
「はい。明日も朝から植物園にいかなければいけませんし。食事、とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」
「そ、お腹いっぱい? よかったねえ」
「あの量では足りなかったのでは?」
 小さく首を傾げながら心配そうな表情を浮かべ、そんなことを口にしたのはジェイドである。
「それはジェイドだけ~」
「おまえの胃はどうなっているんだ?」
 あれだけあった料理のほとんどは、上品な仕草で食事を楽しんだジェイドの胃袋に綺麗に納まっている。ユウもそれなりに食べていたが、ジェイドにしてみればおやつにもならないだろう。比べることのほうがおかしい。
 フロイドからの突っ込みを受け、呆れたようなアズールをみて、「おやおや」とジェイドが眉を下げて微笑んだ。その顔でなんでも誤魔化せると思うな。
 三人でのやりとりを楽しそうにみていたユウが、立ちあがる。
「生徒の皆に、新作の宣伝しておきますね。もちろん先生方にも。今度はみんなとお邪魔します。今日はお忙しいのにお付き合いいただいて、ありがとうございました」
 この女、なにか勘違いしているな、とアズールは感じた。
 フロイドは何も考えずに招待しただけだろう。食事をともにしたジェイドもアズールも、モストロ・ラウンジの新作を宣伝してほしかったわけではない。偶然そうなってしまっただけだ。
 それに、本来の目的はユウにオンボロ寮からできるだけ穏便に立ち退いてもらうことである。そのためにフロイドに恋愛感情のひとつでも抱いてくれればいいとは考えていたが、肝心のフロイドがどうもあてにならないことが発覚し、少しばかり計画は狂った。まあ許容範範囲であるけれど。
 もっと丁寧に、細心の注意を払って、このユウという女を見定めたほうがいいような気がする。そうするならば、今少しお近づきになるのがよいだろう。
 では、どうするか。
「皆さんと楽しいお話ができてよかったです。それでは、」
「そういえば、『先輩』とは呼んでくださらないのですか?」
 別れの言葉を口にしようとしていたユウを遮り、アズールは食事の前に感じた違和感を口にした。
 ぎくり、と音をつけたくなるような硬質さをもってユウが動きを止めた。
「さきほどおっしゃっていたでしょう? フロイドのことを『先輩』と」
 にっこりとたたみかければ、驚きで固まっていたユウがぎこちなく笑う。
「あ、あれ~……? 私ってばそんなこといってましたか? もしそうなら、ちょっとした勢いというか勘違いしたんじゃないかなぁ、と……」
 聞取りづらい小さな声で言い訳をしながら、ユウは視線を泳がせている。後ろめたい何かが、またはそれ以上追及されたくない何かがある証左であろう。
「フロイドが先輩なら、僕も先輩では? なにせこいつとは同い年ですし」
 すっかり逃げ腰になっているユウの通り道を長い足を組んで邪魔をしながら、アズールはさらに言葉を重ねる。
「は、はあ……でも、私は学生でもありません。その言い方はちょっとどうかと……」
 ごもっともな言い分だ。自分たちだってすでに学生ではないし、ユウは自分たちの会社の後輩でもない。
 しどろもどろになっているユウをみたジェイドが、面白いことになりそうだと笑みを深くした。
「ふふ、これはいい。ぜひ僕のことも『ジェイド先輩』と呼んでください。僕たちは双子ですし、どちらだけを優遇するなんてことしませんよね?」
「ええっと……ですから、それは言葉のあやっていうか……」
 自分の左右から背の高い男に圧をかけられて、ユウが俯きがちに縮こまる。
「僕たち、可愛い後輩に恵まれたことがなくて。先輩と後輩ごっこに少しばかりお付き合いしてくださいませんか?」
 アズールが、こんなもの他愛のないお遊びでしょう? と、にっこり笑ってお願いすれば、うーうーと唸っていたユウが観念したように肩の力を抜いた。 
「……わかりました。皆さんがそれでいいのなら」
「うんうん、オレはそれでいいよぉ! じゃあ、先輩との約束ね! また遊びに来て、小エビちゃん」
「ふふ、はい」
 困惑しきりといった顔をしていたユウが、フロイドの無邪気な誘い文句に柔らかに微笑む。
 そうして、少しばかり寂しそうな哀しそうに目を細くする。いまのやりとりのどこに、そんな感情を宿すやりとりがあったのか、アズールにはわからない。でも悪くない収穫だ。これで今よりは懐に入り込みやすくなったのではないだろうか。心理的な壁の高さが低くなるのなら、ユウの内情も探りやすくなる。
「おっと、お帰りになられるんでしたね。これは失礼を」
「ありがとうございます」
 さも今思い出しましたというように微笑んで道をあければ、ユウが苦笑いしながらするりと席から離れた。
「では、これで」
「はい。ではまた」
 丁寧に会釈をして歩き出すユウを、三人そろって見送る。
 ひらひらと手を振っていたフロイドが、ユウが出て行ったのを確認して顔をあげる。
「ねえねえ、ジェイド。小エビちゃんさ、今度はいつ来てくれっかな?」
「さあ? 彼女もそれなりにお忙しいでしょうから。でもここの料理は気に入ってくださっているようですし、お誘いすれば訪れてくださるでしょう」
 楽しませてくれる玩具をみつけたといわんばかりのフロイドに、こちらもまた興味引かれる観察対象をみつけたといわんばかりのジェイドが返す。
「ふふ、それまでに腕によりをかけて一番よいキノコをご用意しなければ。ユウさん、キノコがお好きらしいですよ」
「小エビちゃん確かにそんなこといってたけどさあ、味覚ぶっ壊れてんだよあれ」
 キノコを積極的に食す者が周囲にいないためか、ジェイドが浮足立っている。それをみて、「ゲェ」とフロイドが心底嫌そうな顔をしながら長い舌を出した。
 気が狂っているといわんばかりのフロイドを、ジェイドが困り顔で見下ろす。実際、まったくもって困っていないくせに。
「そんなことはありません。そうだ、フロイドの味覚を正常に戻すために、明日のまかないはシイタケステーキにしましょうそうしましょう」
「やめろよ、ジェイドでも締めンぞ」
 獰猛なウツボの本性を滲ませて真顔で脅すフロイドに、こちらもまた凶悪な素顔を匂わせて微笑むジェイドの間に、アズールは割って入った。
「店内での揉め事はご法度ですよ。外でやりなさい」
 ギチギチと歯を鳴らしながら睨みあう双子をたしなめ、アズールはユウ攻略作戦の練り直しをはじめるのだった。

「うーん、どうしてこうなるのかな?」
 モストロ・ラウンジからの帰り道、ユウは己の行動の結果を思い出して、小さく溜息をつく。
 アズールに再開した日、夕暮れに誘われてお茶をしたあと、どうしてか追いかけてきたフロイドに連絡先を訊ねられ、断りきれなかったのが運のつきだったのかもしれない。
 幾度かの連絡のあと、食事を作るからという言葉に抗えきれなかったのもいけなかった。
 でもだって、この学園に通っていたときも、たまに気まぐれに食べさせてくれたご飯がとっても美味しくて。いまだに忘れられなかったのだ。あの誘惑には抗いがたい。
 忙しいだろう彼らの邪魔にならないようにしよう、穏便に食事をすませようと思っていたが、気づけば余計に彼らと親しくなってしまった。
 でも。
「ふふ……先輩、先輩か……」
 くすぐったそうにユウは笑う。
 白い月の光に照らされた夜道のレンガを、踊るようなステップで踏みしめる。とんとん、とん。そうすればかつてここで青春を過ごした自分に、少しだけ戻れた気がした。
「アズール先輩」
 懐かしい呼び方だ。ここにはいない誰かの名を、いつかのあの日のように口にするだけで、甘く胸の奥底が痛む。なにもなくなったはずの心のどこかが疼く。
 もう少しだけならば、あの時の思い出に浸ってもいいだろうか。だって、きっとこれも、いっときのこと。
 彼らはすでにこの学園から旅立ち、大きな潮流に乗ってどこまでも泳いでいく自由な人魚。
 とくにアズールは、世界を相手にする有能な商売人だ。こんなちっぽけな人間などいつまでも相手にしている暇などない。
 こちらとていつ元の世界に帰ってしまうかわからない、ちぎれて海に漂う海藻のようなもの。
 ならば、ちょうどいいのかもしれない。流れるにまかせて漂って、少しばかり潮の目が変わったならば、そこでお別れ。
 ふたたび別れるのは寂しいけれど、それでも離れていくのならば仕方がない。
 最初からそんな薄く脆い繋がりだと考えれば、多少気が楽になる。
 んーっと大きく伸びをして、元の世界とさして変わらぬ月に手をかざしてみる。当然、掴むことなどできやしない。
 この世界から忘れられているユウは、届かないからこそ美しく輝くものがあることを知っている。自分にとって、彼らはもうその位置にいる。自分はその下で、小さな影を落として漂う、なにものにものなれないなにかだ。
 でも、でも。もう少しだけ。
 もう少しだけ、楽しい気持ちに浸っていたい。彼のそばで笑ってみたい。
 私はあの頃のような子どもではもうないけれど、遠いところから降る光を浴びて、少しばかり夢見るくらいは許してほしかった。

 深海に似た闇が部屋の片隅でまどろむような時刻、アズールは自社の執務室でジェイドから報告を受けていた。
 簡潔にまとめられた報告書は、いつものように無駄がなく素晴らしい。しかし、その文字が伝えてくる内容はいただけない。
 アズールは美しい柳眉をひそめ、報告書を机の上におろした。
 ユウと食事をした翌日に、これだけのものを提出しているジェイドをねぎらう。
「ご苦労様でした。とはいえ、ここまで情報があがってこないなんて、逆になにかあるといっているようなものですね」
 胸に手をあてたジェイドが、目を伏せたまま頷く。
「はい。僕もそう思います」
 人間が生きていれば、自分が望む望まないに関わらず、情報は流れていく。
 ましてやネットの海ともなれば、小さなことから大きなことまで本人の意思に関わりなく、なにかしらの痕跡が残るもの。
 氾濫する情報は、瑣末なことなら誰も気にもかけないが、消えることなく無限に漂っていく。
「ユウさんがスマホを利用していることは明白です。しかしながら、僕たちとの接触をもつようになり、フロイドに迫られて作ったと考えられるアカウントしかみあたりません。そのアカウントでも、個人的な情報は意識的にあげていないように思われます」
 見せられた画面には花や空、その日の美味しかった食事のことなどしかあげられていない。ナイトレイブンカレッジで働いていることを示唆するようなことはなく、生徒たちの姿などは影さえも映りこんではいない。
 育てている魔法植物や、世話をしている魔法動物もしかり。社会人として考えれば立派なものだ。年頃の女性とすれば味気ないことこのうえもない。
「あらゆる条件や可能性を考慮し、彼女のことを探ってみましたが、これもアズールの希望にそうような情報はみつけられませんでした。そもそも、彼女に関する情報がひとつも見当たらないのです」
 それが、彼女に関することで一番おかしいことだった。
 椅子の背もたれに深く身を預け、アズールは息を吐く。
「いまだ色濃い神秘に隠匿された地の出身ならばそれもありえるかもしれませんが、そんな神域、魔境といっても差し支えないところで、魔力のない非力な女性が過ごせるとは思えませんね」
 アズールの言葉にジェイドが沈黙で応える。
 ジェイドがこれだけ時間をかけたというのに、それらしきもののカケラさえみつけられないとなると、最初から「ない」と考えるのが妥当だろう。
 その、「ない」ということが、彼女の弱みに繋がるのではないだろうか。そこを手繰れば、もっと大きなものを釣り上げられるかもしれない。
 アズールは懐から私用のスマホを取り出した。
「仕方がありません。あの人を頼るとしましょう」 
「おや、あの方もお忙しい生活をしていらっしゃるはずでは?」
 画面を滑らかに操作し、かつて部活仲間で一学年先輩であった、かの人の連絡先を選ぶ。ジェイドのいうとおりだが背に腹は代えられない。
 電話をすれば嫌がられる可能性があるため、まずは様子を伺うためのメッセージを送る。ネトゲのイベントでも開催されていたら、機嫌を損ねてしまう恐れがあるのだ。
「そうですが、彼以上の働きができる人などいませんし、魔導工学の申し子にできないことはないでしょう。ジェイドも気になるでしょう?」
 ふ、と口元をゆがめて見せれば、好奇心の塊であるジェイドもまた鋭い歯を見せて笑う。ここまでやって引き返すなど、彼にとってもありえないのだ。
「ええ。さすがアズール。よくわかっていらっしゃる」
「引き続き情報収集を。うまく利用できるものがいいですが、選り好みをしているわけにもいきません。どんな些細な内容でも報告してください。期待していますよ」
「かしこまりました」
 長身の影を引きずってジェイドが退室する。
 それを見送った後、アズールは疲れた目を労わるように瞼をおろす。
 視界を閉ざせば、自分の思考に深く沈み込んでいく。
 万華鏡のように情報が目まぐるしく入れ替わり、繋がり、姿を変える。そうしてひとつにまとまれば、それはすべて少し前まで知らなかったあの女の笑顔となった。
「はぁ……」
 熱のこもった息が自然と漏れる。
 モストロ・ラウンジをオンボロ寮の場所へと移転する目的を忘れたわけでも諦めたわけでもないけれど、優先順位がなんだか変わってしまいそうだ。
 そして、それをまんざらでもないと思う自分がいる。
 アズールは、制御できない己の感情に眉をひそめる。むむむ、と唇を引き結んだ。
 ひとまず、ユウからの情報収集も必要だ。追い出すなら、どういった町並みが好みで、どういったものが揃っている店が好きかなど、探るのも悪くないはず。
 少しばかり言い訳じみたことを考えながら、アズールは女性が好みそうな町をピックアップしようとスマホの画面を操作した。

「ユウさん、僕とデートしませんか」
「はい?」
 明日の休日にはオンボロ寮のドアでも直そうかな~、などと考えていたユウの前に現れたのは、きっちりとスーツを着こなしたアズールだ。仕事を終わらせてからすぐ来たのだろうか。
 そんな彼が、挨拶もそこそこによくわからないことを言い出したので、ユウは間の抜けた返事をした。
「ええっと……?」
 マンドラゴラの世話で土だらけになった手袋を外しながら首を傾ければ、アズールは高い背を折って微笑んだ。
「ですから、僕とデートしましょう」
「お誘いですらなくなった……?」
 決定を促す言葉尻に、ユウは戸惑いながら眉を下げる。
「せっかくですが、どこかに出かけるような服も持っていないので」
 そういうわけなのでごめんなさい、という遠まわしな日本人お得意のお断りを口にする。だが理由に嘘はない。薄給の身で、上流階級の男と出かけられる服が用意できるわけがないのだ。ちょっと考えればわかるだろうに。
 そも、アズールは恋しいと思うような誰かがいるはずだ。再会したその日に、そういっていた。ならばわざわざ私など誘うのはいかがなものか。
 しかし、相手はその程度で引き下がるような人物ではない。アズールは鼻を鳴らすように小さく笑い、馬鹿にするなといわんばかりの顔で見下ろしてきた。
「おや、それは僕に甲斐性がないといっているようなものですよ。あなたにぴったりのものご用意いたしましょう」
「どうしてそうなるんですか? そもそも私とデート、なんて。お忙しいアズール先輩に利益があるとはとても思えませんが」
 自分にとって価値のあることには努力も時間も惜しまないアズールだが、逆に言えば価値をうみださないことは目もくれないはず。
 ユウの疑問に、一拍の間をおいたアズールが口を開く。
「……学園長の御親戚なのでしょう? ならば、懇意にして損はないかと。ぜひ、学園長との昔話でもきかせてください」
「はあ」
 なるほど、私が学園長の身内だと勘違いしているのか。そのうえで、学園長の過去の弱みを探りたい、と?
 それならば、恋しい人がいたとしても、声をかける理由がある。
 ユウは頭を抱えたくなるのをこらえ、眉を下げてアズールを見上げる。
 勘違いですよ、と告げるのは簡単だ。でもそのあとに、では「ユウ」という人間はいったい何者なのか。そう問われれば答えに窮してしまう。かつてのあなたの後輩の異世界人です、なんていったところで信じてくれるはずもない。
 困り果てたユウを安心させるように、アズールが柔和に微笑む。その笑顔の裏にいろんなものが渦巻いていることを知っているユウには、あまり効果がないのだけれど。
「どこかいきたいところなどはありませんか?」
「デートするのは確定なんですね」
 まったくもってユウの意見を尊重する気配がない。ここまで強引なのは珍しいような気がする。
「でも、服の対価が払えません」
「誘ったのは僕です。そんな無粋なことはいいません。それとも僕の誘いを断るだけの理由がおありで?」
「う、うーん、ないですねえ……――では、お受けいたします」
 ここまで言われては断るのは難しい。ふは、と小さく笑って了承の意を素直に返す。
 ドアを直したいなんて、アズールのお誘いに比べたら小さなもの。対価も求められないのならばひとまずは安心。学園長には犠牲になってもらおう。
「それはよかった。ではどちらにします? 島外の町もよいですね。どこでも連れて行ってさしあげます」
 うーん、と小さく声を零しながら、ユウは考える。
 いきたいところ。私が、アズール先輩といきたいところ。そう考えればひとつしか思い浮かばなかった。
「では、珊瑚の海に連れて行ってくれませんか」
「……は?」
 想定外の場所を持ち出されたためか、伝えたときのアズールのびっくりした顔がおもしろくておもしろくて。
 ユウは植物園に軽やかな笑い声を響かせた。

 デートの申し出の翌日。
 ユウは学園の外に続く鏡へと一歩踏み出す。
 鏡面に触れる瞬間に目を閉じて、その境をこえていく。すぐに空気とは違う感覚が全身を包む。
 そうっと瞳を開けば、そこはもう、陸に生まれた者には息することさえ叶わぬ海の底。魔法薬がなければ、ユウはすぐさま死んでしまうことだろう。
 でも、下から見上げる遠い水面は光を透かして揺らぎ、色鮮やかな魚が自由に舞い踊るさまは美しく、そんなことさえ忘れさせてしまう。
「きれい」
 どこまでも続くような珊瑚の花畑に目を細めて、つぶやく。こぽり、とユウのどこかに潜んでいた空気が、ゆらゆらと立ち上っていく。
 学生の頃に数度だけ訪れた場所だが、思い出のとおり変わらぬ幻想的な景色だ。
「ありがとうございます、アズール先輩」
 振り返れば、まだ解せないというような顔をしたアズールが立っている。人魚の姿ではなく、人の身のままだ。
 いつものようなかっちりとした服装ではない。ネイビーと白を基調としたジャケットスタイルで、めずらしくノーネクタイ。スタイルがよく仕草も丁寧なこともあって、少しばかりカジュアルな装いも品よく見える。
「こんな素敵なお洋服もいただいて、嬉しいです」
 そういってユウは自分の胸に手を当てて微笑む。今朝がた迎えに来てくれたときにも伝えたが、本当に嬉しいのだ。何度伝えても足りないくらい。
 つ、と滑らかな生地を指先で撫でる。今、ユウが身にまとうのは、アズールが贈ってくれた白い襟のついた紺色のクラシカルなワンピースだ。ハイウエストで切り替えたスカートが、控えめにふわりとひろがる。服にあわせて選ばれたのだろうパンプスも、あつらえたようにぴったりだった。
 アズールはこういう清楚な感じが好みらしい。
 それにしても、ワンピースといい靴といい、どうしてサイズを知っているのか。その疑問はひとまず考えないことにしておこう。
「喜んでいただけてなによりです。さて、今日はアトランティカ記念博物館の見学をして、そのあと珊瑚の海で食事がしてみたい、でしたね。本当によろしいので? 陸にも素敵な町はたくさんあるでしょう?」
 珊瑚の海でアズールが選ぶリストランテなら間違いはないだろうと思うのだが、どうにもアズールはまだ納得しかねているように見える。
「そんなにおかしいお願いでしたでしょうか?」
「正直、物好きな方だとは思います。ほんとうに大丈夫なんですか? 人魚の食事は生のものばかりですよ」
 ああ、なるほど。
 アズールの懸念を、ユウはようやく理解できた気がした。
 ツイステットワンダーランドの食事で、生魚はあまり好まれないということを失念していた。なにせユウは生粋の日本人なので。 
「さすがにお魚を頭から丸ごと食べるのは無理ですけど、卸してあるなら食べられます」
 海産物で日本人が食べないものを探すほうが困難だろう。生魚? どんとこい。お刺身は大好物だ。
「あなた、いったいどこのご出身なんです?」
「ふふふ、さあ、どこでしょう? あててみてください」
「……」
 目を丸くしたアズールの問いかけに、悪戯っぽく笑って返す。賢者の島から極東に位置する国の一部では、日本食に似たものが食べられているという。とはいえ、ユウはそこの出身ではない。アズールが当てることはできない。
 ちょっとずるいクイズだった。小さく笑いながら、ワンピースの裾をひらめかせてユウは歩きだす。
 追及することをあきらめたのか、ユウの隣へと追いついたアズールに珊瑚の海のことを尋ねているうちに、いつかみた建物が見えてきた。
 最初に訪れた時には、フロイドとジェイドに追いかけられて大変な目にあったところだ。懐かしい。
「なぜ、珊瑚の海の博物館などを選んだのですか?」
 陸においても有名な博物館ではあるが、わざわざ魔法薬まで用意してまで妙齢の女が行きたがるような場所ではないといいたいのだろうか。
 ユウは、かつてここに連れてきてくれた男に向かって微笑んだ。はいどうぞ、と差し出された博物館への入場券を受け取って、大きな門をみあげる。
「もう一度、きてみたくて」
 ――あなたと。
 そう飛び出していこうとする言葉を飲み込む。
「以前に訪れたことがあるのですか?」
「はい。いろいろと教えてくださった方がいて、とっても楽しかったんです。もう一度遊びにきましょうね、と約束していたんですけど――、」
 そこで言葉をきる。結局、一緒にくることができなかったのはユウのせい。何一つ伝えられないまま、元の世界に帰ってしまったから。好きだった人との約束さえ、果たせなかった。
 急に口をつぐんだユウに、アズールが肩をすくめる。
「二度目はなかったと? その方は今どうしているんですか? 女性との約束を守らないなどありえないでしょう」
「……ふふ」
 紳士らしいアズールの物言いに、ユウは笑うしかない。
 二人で訪れることなんてできない場所にいってしまったのは私。
 二人で訪れる約束を忘れてしまった何も悪くないアズール先輩。
 でも、こうして約束を果たすことができた。ユウの自己満足だけど。
「いいんです。忘れちゃったものはしかたがないです。こうしてまた来られただけで、私にはじゅうぶん」
「諦めがよろしいことで」
 ひょい、とアズールが肩をすくめる。これ以上は何を言っても無駄だと思ったのかもしれない。
「諦めているわけじゃないですよ。だってほら、こうして遊びにきたでしょう」
「そういうちょっと図太いところ、好感が持てますよ」
 再び遊びにくるという目的は立派に果たしましたといわんばかりに胸を張れば、アズールが小さく笑った。
「ユウさんにご満足いただけるなら、それに過ぎたるものはありません。さあ、お手をどうぞ。この僕が、隅から隅までご案内してさしあげましょう」
「はい、よろしくお願いします!」
 差し出された大きな手に、自分の手を重ねる。
 入口ホールにそびえる偉大なる王の像。海の魔女が使っていたという大釜のレプリカ。人間に恋した人魚姫が使っていたという銀の髪すき。
 そうした有名な展示物を、もう一度みたいとずっと思っていた。アズールと一緒に、肩を並べてみてみたかった。
 ユウは、かつてのように解説してくれるアズールの横顔をみつめながら、その話、熱心に耳を傾ける。
 心地よい声で紡がれるわかりやすい内容に、気づけば別の来館者たちも聞き入っているくらいだった。
 解説料をとっても許されるのでは、と商売の気配を感じとっているアズールにユウはくすくすと笑った。
 館内をゆっくりと見てまわり有意義な時間をすごし、そろそろリストランテへと行こうかというころ。
 入口付近にまとめて飾ってある来館記念写真をみて、ユウは「あっ」と声をあげた。
「あそこの写真に映っているの、アズール先輩ですよね」
「!?」
 目を見開き言葉なく驚くアズールをよそに、ユウは細い指でとあるパネルを指さした。
「な、なぜそれを……?!」
 顔色悪く声を震わせるアズールに対して首を傾けたあと、しまったとユウは口元をおさえた。
「く……! フロイドですか? それともジェイドか?! 性悪ウツボどもめ……!」
「ええと、あは、あはは……」
 双子の兄弟の素行の悪さゆえか、アズールはフロイドとジェイドがユウに余計な吹き込んだものと思ったらしい。
 実際は違うのだが、だったらどうして知っているかということになってしまう。とりえあずユウはあいまいに笑って誤魔化すことにした。
 あとで言及されたら「学園長からタコの人魚だと伺っていたので」とでも言おう。タコの人魚の写真は、ぱっと見た限りこの一枚だけだ。なんとでも言い訳はたつだろう。
「もう十年以上も前のものです。みても楽しいことなんてひとつもない」
「そうですか? とっても可愛いのに」
 写真の中央にいるリエーレは、人魚の王子であることもあり、幼いころから洗練された美しさだ。しかし、その周囲にいる人魚の子供たちだって可愛い。とくにアズールなんて、子供らしい丸い顔が愛らしい。
「ふん、こんな太った人魚のどこが」
「そりゃあ、今の先輩はとってもお綺麗ですし格好いいですけど、子供らしい愛くるしさはこのころだけのものですよ」
 嫌悪感を滲ませた歪んだ笑顔でアズールが見下ろしてくる。冷え冷えとした雰囲気に、少しばかり肩をすくめる。
「ずいぶんと知った風な口をきく」
「そうですね、私はアズール先輩のことよく知りません。どんなことがあったのかも」
 ユウにはアズールの幼いころのことなんて、なにもわからない。知っているのは彼が皆にいじめられていたこと。それを見返すために並々ならぬ努力を重ねたこと。
「でも、尊敬しています」
 ぱち、と美しい空色の瞳が瞬く。ユウがそんな風に思っているなんて、想像したこともなかったのだろう。
「だってアズール先輩は、負けなかったひとだから。いつでもどこでも努力を続けてきて、きっとこれからもそれは変わらないだろうから」
 ナイトレイブンカレッジにいたころだってそうだった。なんでもないことのように余裕をもってことにあたり、その裏でどれだけの努力を重ねているかなんて微塵も感じさせないひとだった。
「私は、魔力がなくて魔法は使えませんけど、努力を続けることのたいへんさと大切さは、知っているつもりです」
 ユウが生まれ育った世界でもそうだった。このツイステットワンダーランドでもそうだった。
 魔力の有無でできることできないことは明確にわけられていたけれど、魔法だって万能ではないのだ。目指すところに至るまでには、それ相応の努力が必要だった。
 それを当たり前のようにできるひとは、そうそういない。誰だって、楽な方に流れていくものだから。
「アズール先輩は子供のときも学生のときも、今だってずっと努力していて、すごいなあってお会いするたびに思っているんです」
 氷の海のようだった空気は緩み、アズールは瞬きさえ忘れたようにユウをみつめている。
「憧れているんですよ。知ってました?」
 からかうような口調で本音を零せば、はっと意識を取り戻したようにアズールが肩を震わせ、ゆるりと頭を振った。
「いいえ。しかし、そうおっしゃる割には、そっけない態度ばかりではありませんか」
「そうですか?」
 顎の先に指先をあてて考えてみるが、そんなことあっただろうか。
「自覚がないとは」
 思い当たる節がないユウに対して嘆かわしいと天を仰ぐアズールが、まるで舞台俳優のようだ。
「嘘じゃないですよ」
「どうだか。さあ、そろそろいきましょう」
 ほんのりと眦を赤く染めたアズールが、早口にユウを促す。照れているのだろうか。だとしたら、大人になっても可愛いところのあるひとだ。
「はい。楽しみです!」
 満面の笑みを浮かべ軽やかな足取りで歩きだせば、アズールが何か言いたげに口元を蠢かせる。
 だが、何も伝えられることはなく、アズールはぷいっと前を向いてしまった。
 整ったその横顔が思春期の少年のようなあどけなさを帯びているようにみえて、ユウは知られぬように笑った。

 アズールが、悲しい夢にとらわれて幾年月。
 今日も、これは夢だと理解しながらも、そのおぼろげな輪郭を抱きしめる。腕の中にあるはずなのに、そこにはなにもないような、矛盾した感覚に泣きたくなる。
 胸の痛みを吐き出せば、唇が震える。自分の音にならない声が、恋しい人の名を紡ぐ。
 だがそれはアズールの耳には聞こえない。アズールが発したものなのにわからない。喉を切り裂かんばかりの悲痛な呼びかけに、応えるものはない。
 もどかしい。なにひとつ思うようにならないことに、苛立ちが募る。焦燥感が身の内を焼いていく。
 腕に力をこめる。きつく抱きしめて離したくないと願うのはいつものこと。しかし、アズールの願い虚しく、彼女は溶けるように消えていく。
 だけど、今日は。
 アズールを宥めるように柔らかな手が背に回った。
 は、として女の顔をのぞきこめば、そこに花開くような笑顔があった。
 アズールを見上げ、夜の海のようなその瞳を蕩けさせている。
 これが僕の、恋しい人。いや、でも、これは。このひとは。

『ユウ、さん』

 夢の中であげた声が、はじめて音となる。耳を通して己の脳を揺らして、曖昧だった記憶さえ呼び起こすような、新鮮な風となる。
 ぶわり、と星のような煌めきが身を寄せ合う二人の足元から吹きあがる。閉じていたものが、停滞していたなにかが、動きだす。
 驚きに目を見開き硬直するズールに、ユウが無邪気に笑いかける。

『アズール先輩』

 そう甘やかに呼びかけられて、強張っていた身も心も、一瞬でゆるんでしまった。
 半ば無理やり呼ばせることになったその名が、嬉しくてたまらない。ずっと、ずっとこうしてほしかった。いつかのように、そう呼んでほしかった。
 もう泣き虫タコちゃんと揶揄されるような年齢でもなければ、そんな可愛らしさなど遠い過去に置き去りにしてきたはずなのに、くしゃりと顔をゆがむのを止められない。
 喜びに溢れる涙と、引きつった嗚咽を癒すように、恋しい人の指先がアズールの頬を撫でる。
 やっと、やっとみつけた。
 このひとこそが、僕の、ぼくの――うっとりと目を細め、恋情が折り重なって層を成した心から、振り絞るように言葉を伝えようと唇を薄く開いた瞬間。
 突如として鳴り響いた場違いな明るい楽曲に、すべてが泡のように弾けて消えた。

「――は?」

 アズールは低く掠れた声を零した。不明瞭な世界しか映さぬ目を、何かを睨みつけるかのように細める。
 寝室に響き渡るのは、プライベート用のスマホに着信があった際、鳴るように設定した曲である。かけてきた相手が推しているアイドルグループのそれ。正直アズールには何がよいのかさっぱりわからないのだが、設定しろとうるさかったのでそうしたもの。
 のろのろと、視線を落とす。
 腕の中には夢に見続ける恋しい人も、もちろんのことだがユウだっていない。あるのはアズールの腕力で潰れた枕だけ。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。だが、すぐに理解する。
 夢をみていたのだ。いつもの夢を。ただ、今回はなぜかその人が、ユウにすり替わっていた。
 アトランティカ記念博物館に彼女といったから、こんな夢をみたのだろうか。熱心に耳を傾けてくれるユウに、あれもこれもと人魚姫と海の魔女に関する話をしたからだろうか。
 いや、それを考えるのはあとだ。
 アズールは現状を把握すると素早く身を起こした。
 ナイトテーブルに手を伸ばし、いまだ諦めることなく持ち主を呼ぶスマホを掴む。画面に浮かぶ相手の名に、自然と口の端があがった。
 スマホの傍らに置いてある時計は、夜明け前の時刻を示している。
「はい、アーシェングロット」
「おはよ、アズール氏」
 どこか疲れの滲む声に、徹夜したのだろうかと思う。今頃、彼の青い髪は少しばかり元気をなくして揺れているかもしれない。
「おはようございます、イデアさん。今日はまたずいぶんとおはやい」
「頼まれてた調査終わったからね。結果、はやく知りたいんじゃないの?」
 太陽の光が一筋さえ射さない時刻に連絡をしてくるなんて、社会人としてはマナーの範疇から逸脱している。だが、この魔導工学の申し子にそんなことをいえるものは誰もいないだろう。
 ふふ、とアズールは低く笑う。もう少しかかるものとばかり思っていたが、彼に対してそんな考えは失礼であったらしい。
「ええ、そのほうが助かります。それにしてもさすがイデアさん。いつも的確で素早い仕事ぶりに感服いたします」
「はいはい。心ないおべっかどうも。それにしても、おもしろいもの探ってるね。いつもよりずっと楽しかったよ、ヒヒッ」
「おもしろい?」
 心からの賛辞が日頃の行いのせいで通じなかったことはひとまず置いて、アズールは首を傾けた。特定の相手の素性を追いかけるという仕事に楽しいもなにもあったものだろうか。
「ま、データはいつものところに送ったから確認しといて」
「わかりました。では、僕からからの対価もいつものところへ。ゲームが一段落したころ確認してください」
 ふいに真剣さを帯びた声に、イデアの意識がすでに別のところに向かったことを察したアズールは、手短に用件をすませることにした。
「オッケー。それから、しばらくネトゲのイベントラッシュでなーんにも対応しないんで連絡しないでね」
「イデアさんそういうところ、ほんとうに変わりませんね。ええ、わかりましたよ。いずれまた。お時間ができたらボードゲームでもしましょう」
「りょ。じゃあね」
 プツ、と時間を惜しむように通話は途切れた。これからネットゲームに没頭するのだろう。さすがに大丈夫なのかと思わないでもないけれど、きっと彼の出来た弟が、健康面を管理するだろうから心配はいるまい。
 ふう、と吐息を零してスマホを置く。
 すっかり目が覚めてしまった。二度寝というのも性格的にできないアズールは、身支度を整えることにする。
 顔を洗い、歯を磨き、服を着替える。そんないつもどおりの行動は、意識的にやらずともこなせるものだ。
 自然と、目覚める前にみていた夢を思い出すことになる。
 イデアとの会話を経て、おぼろげにしか記憶に残っていないが、恋しいと思う相手がユウの姿をとったことだけは、強烈な衝撃として覚えている。
 のろのろとパジャマを脱いで、クローゼットを開く。
 たまたま、なのだろうか。先日、ユウと出かけたから。子どものときの無様な姿をみても笑うこともなく愛らしいといってのけ、あけすけもなく尊敬しているなんていわれたから。陸の馬鹿な男なら好かれていると舞い上がりそうなことを、いわれたから。
 博物館でむけられたユウの笑顔を思い出し、アズールは小さくうめいた。どうやら自分は、そんな馬鹿だったらしい。
 ああ、なんて平凡な女だろうと思っていたのに、こんなにも心をかき乱されるなんて、どうにも納得がいかない。
 つくづく不思議な女だ。脅威になるはずがないと思っていた相手なのに、気づけばアズールの心に居着いてしまった。
 博物館でのデートがよくなかったのだろうか? 女性の興味をひくような流行りの話をするでもなく、ただひたすらに海の歴史と人魚の文化について語っていたというのに、一度も退屈することなく瞳を輝かせていたユウを可愛いと思ってしまったのが悪かったのだろうか。
 いや、きっとその前からだ。
 なんともいえない溜息をつきながら、シャツに腕を通す。
 彼女と話をしているうちに、共に過ごす時間の心地よさを知ってしまった。
 やわらかな声は心地よく、あの黒い瞳にのぞきこまれれば心がざわつく。でも、それは不快なものではない。むしろもっと、と。その先を望んでしまう。
 アズールの金や地位、魔法に欲にまみれた興味を示さず、大きく持ち上げることはないけれど、自分の実力を認めてさりげなく褒めてくれる。認めてくれる。
 それは、陽光が降り注ぐ心地よい浅瀬、肌にあう海水の中でまどろむような安寧さえ感じるほど。
 自分にここまで思わせるユウとは一体何者なのか。
 その彼女の正体を突き止める切り札が、たった今、冥府の盟友から届けられた。
 シャツのボタンをすべて留め、アズールは部屋を移動する。
 イデアの手による専用回線に繋がるパソコンが乗ったテーブルの前の椅子を引き、座る。慣れた手つきで起動して、所定のフォルダからデータを取り出す。
 一瞬、目を通すことを躊躇ったが、頭を振って視線を向ける。
 読み進めていくうちに、アズールは前のめりになっていった。
 なるほど。これは、ジェイドの調査にもひっかからなかったわけである。アズールは細い顎に手を添えた。
 イデアの提供してくれたもの――学園内に記録されている画像、文書におけるユウに関するデータのすべて。痕跡ひとつなく消され、巧妙に作り上げられたもののすべてが、記されている。
 最後まで読み終えたアズールは、椅子の背もたれに体を預けた。
 朝一番に知るには刺激が強すぎた。
 でも、これならば誤魔化すことはできないだろう。
 口の端に獲物をとらえたときのような笑み浮かべ、アズールは今日の仕事を頭の中で確認していく。ナイトレイブンカレッジに行き、アズールを謀るあの化鴉の澄ました顔を崩す時間を捻出する。
 この仕事とあの仕事の合間の時間。そこなら学園にいけるだろう。むしろ他の仕事は遅らせてもよいくらいだ。
 学園長には彼の弱みの一つでもちらつかせて、会うための約束をねじ込んでやればいい。
「さて、朝一番でアポイントをとらなくては」
 アズールは不適に微笑み、いまから数時間後のやりとりに思いを馳せた。

 交渉に場に必要なものは、笑顔と礼節。そして力である。
 こちらにとって有利なほうへ。相手に譲歩をさせるときに。あるいはこちらの意見を押しとおすときに必要なもの。それが力だ。言い換えれば、人、金、物、知識、あるいは情報である。
 アズールはとっておきの情報を懐に秘めて、黒に黒を重ねた鴉のような男と対峙している。
 場所はモストロ・ラウンジの移転を正式に打診しようと尋ね、肩透かしをくらったあの部屋。
 二人の間の空気に漂うのは、コーヒーの香ばしいにおい。思考回路をすっきりとさせる苦みを口に含み、アズールはカップから唇を離した。
「いかがです?」
「ええ、以前の紅茶も素晴らしかったですが、こちらもまた美味しいです。さすがは学園長。よい豆を使っていらっしゃる」
「そうですか! それはよかった!」
 にっこりと仮面の向こうの瞳が三日月のようにしなる。手袋の先端を彩る金色の爪が、学園長の唇に添えられる。
「それで、今日はどうしましたか? 急に会いたいと連絡をいただいて、驚いてしまいましたよ」
 熱烈ですねえ、と嫌味とも揶揄いともとれる言葉を紡ぐクロウリーに対し、アズールはカップをソーサーに戻して居住まいをただした。
「ユウさんのことを、少々調べさせていただきました」
 まるで鋭い剣をふるうように、一息に切り込む。遠まわしな言い方をすれば、煙に巻かれるだろうという判断からである。
 ユウと縁のある後見人を名乗る男が、「まあ!」とわざとらしく驚いてみせる。
「うら若き乙女のことを根掘り葉掘り調べたなんて、なんていやらしい! 優秀な卒業生がストーカーに変貌したなんて、私は悲しいですよ」
 よよよ、と目元の涙を拭うような仕草に、アズールはこめかみをひくつかせる。
「茶化さないでいただきたい。こちらは真剣な話を望んでいます」
「――ふむ」
 アズールの本気を感じ取ったのか、クロウリーが手を下げる。纏う空気がわずかに張りつめる。
「彼女、何者なんですか。調べても調べても、なにもでてこない」
 アズールは乾きそうになる口内を一度閉じ、ゆったりと余裕があるようにみせながら続ける。
「生まれも、育ちも、どうやってこの学園にやってきたのかもなにひとつ。なにひとつ、わかりませんでした」
 この僕が、と言外に悔しさを滲ませれば、相対する男の薄い唇がわずかに弧を描く。愉悦、といわんばかりだ。でも、それもここまで。
「なので、学園内の防犯記録を確認させていただきました」
「おやまあ」
 クロウリーの瞳が、今度は満月のように丸くなる。
 記録閲覧の許可など得ていない以上、犯罪行為だと糾弾されてもおかしくはないが、この学園の卒業生ならばそれくらい当り前だと思っているのか、咎めるような様子はない。
「すべて消去したはずなんですがねえ……ああ! シュラウドくんに手をまわしたのですね。大変でしたでしょう」
「彼の手にかかれば記録の復元など、たやすいことですよ」
 アズールの一学年上に在籍していた天才のことにすぐ思い当たるところは、やはり学園長といったところか。生徒たちのことを彼なりに、よくみているのだ。
「対価もそれなりにかかったのでは? まあ、アーシェングロットくんにとっては端金でしょうが。……それで?」
 続きを促され、アズールは思わず手を握りしめた。
 クロウリーは情報を吐き出すつもりがないのだ。アズールの手に入れた情報をすべて開示しなければ、それ以上は何も言わないつもりだ。まるで、四苦八苦して仕上げたレポートの採点をするかのよう。
「――彼女が学園内に確認されるようになった前日、『誰も学園に出入りした形跡』がない」
 黙り込んでも進展はない。アズールは苦々しい気持ちを堪え、イデアの解析から得た情報を口にする。
「まるで急にこの場所に現れたかのように、彼女はこの学園に存在しはじめた」
 そんなこと、ありえないでしょう? と視線を向けるが、クロウリーは「ええ、ええ」と頷くだけ。
「転移の魔法で訪れたのかと思いましたが、防犯システムの魔力計測器にもそのような痕跡はありませんでした」
「そうですね、転移の魔法を使用した場合、空間を繋げる際の揺らぎはどうあっても発生しますからね。防犯の観点から必ず記録されますし、隠すのは難しい」
 全てを知っている男が優しく微笑んで、きちんとそこに目をつけたことをやんわりと褒めてくる。
「彼女を抱きかかえた学園長が保健室に向かう映像は残っており、そのあとに空間転移の発生を確認しています。だがそれでは、時系列的におかしい」
 ユウが現れてから、空間転移が起きた。すなわち、彼女はその空間転移で現れたわけではないことを示している。ならばそれ以前に何かがあったのだ。
「学園内のシステムに、彼女が映る少し前に起きていたもの。まずありえないからこそ見逃しかけた、とても珍しい揺らぎをみつけたと報告を得ています」
 本来、隣り合うだけで決して越えられぬ世界の壁。それを揺るがし越えてきた何かが残した「痕跡」。イデアの目は、巧妙に消去されたそれを見逃さなかった。
 にんまりと、クロウリーが笑う。アズールは、その視線を真正面から受け止めて、大きく深く呼吸をひとつ。
「総合的に考えて、私はあなたが異世界からの来訪者を隠匿している、と結論付けました」
 決定的な指摘をしたにも関わらず、クロウリーはうろたえることもなく肩を揺らした。
「いやあ、相変わらず君たちは素晴らしい!」
 クロウリーが手をたたいて褒め称えてくる。
「何を呑気な事を。これが世間に知られたらどうなるか、わからないわけではないでしょう?」
 異世界からの来訪者の逸話は、古今東西それなりに残っている。珍しいことではない。内容的には、時の施政者に知恵を授けたり、崩壊した国の王女に召喚されて政治の立て直しに一役買ったり。魔物に襲われ滅びかけた村にひょっこり現れた異界の魔法使いが、その大いなる魔法で魔物の群れを一掃したり。そういったものが多い。
 つまり、異界の特殊な技術や知識、魔法をもつ人物ならば、その人を初めに発見した者に莫大な富や栄光をもたらす場合があるということだ。
 ゆえに、異世界の者を保護した場合、所属する国への報告が義務付けられている。なんの力もない無力な人物ならば、そのまま手元におくことも許されるだろう。
 しかし、アズールが確認したところ、ユウに関する届け出はされていなかった。彼女は、この鴉の翼の下に隠されているのだ。
 このことが知られれば、社会的地位があり、世界有数の魔法士であるディア・クロウリーとて咎められるのは必定である。
「いやですねえ、人聞きの悪い。私は行くあてのないか弱い女性を助けたにすぎませんよ」
「世間がどうみるか、という問題です」
 クロウリーには敵が多い。彼をひきずり落そうと常々企む輩にとっては、このうえない好機となる。
「なるほど、彼女のことを公表するということですか」
 そこまではいっていないだろうと訂正する前に、クロウリーが高らかに笑う。
「はははは! それはまた、かわいそうなことをしますね。魔力がなく魔法が使えない、この世界にたった一人きりの異世界人を見世物にしようだなんて! ああ、さすがに深海の商人として名を馳せる人魚は違いますねえ。お金を儲けるためならば一人の女性の人生が世間からの好機の目に凌辱されてもよいという! ああ、かわいそうにかわいそうに。私ってば優しいですからとっても胸が痛みます」
 非情な人魚のやりそうなことだと、あからさまに嗤われてアズールの思考が沸騰する。
「話をすりかえないでいただきたい! 私はあなたの管理責任を問うているのです! そもそも、あなたが彼女をこの世界に引きずり込んだ可能性だってある!」
 異世界からこの世界に現れるには、それ相応の儀式が必要だ。あるいは、人智の及ばぬ自然の流れが幾重にも重なった末の、偶然という名の奇跡。もしくは、異世界を渡る術が「あちら側」の世界にあった場合だろうか。
「いいえ、それは違います。彼女はね、私も知らぬうちに、鏡の間に倒れていたんですよ」
 笑みをピタリと止めて、クロウリーが静かに応える。それだけは違うのだと、真実を告げる声に、アズールは前のめりになっていた姿勢を戻す。
「では学園が管理する闇の鏡の行いでは? そうなれば学園長が責任をとるべきだ」
「まさか! 闇の鏡はなにもしていません。調べればわかることです」
 闇の鏡は古より伝わる、大いなる力を持った魔法道具である。魔法道具を管理するために設立された国際組織からその使用記録の提出が義務付けられているし、そのための魔法も施されている。ここは誤魔化せるはずもない。
 さすがに闇の鏡の記録まで調べられていないアズールは、奥歯を噛みしめる。
 予定では、ユウが異世界からの来訪者だと告げ、証拠を隠滅した点を突けば、自己都合を優先するところのあるクロウリーは、アズールの欲しい情報を提供すると踏んでいたのだが。
 アズールが考えている以上に、クロウリーはユウの秘密に対して冷静な対応をしてきた。何か思うところがあるのだろうが、それが何かはわからない。
 手法を間違えたかと、ほぞをかむアズールをよそに、クロウリーが微笑んだ。
「まあ、いいでしょう。さて、そこまで調べたアーシェングロットくんには、ご褒美をあげませんとねえ」
「!」
 一癖も二癖もある人物の態度の急変に喜んで飛びつくほど、アズールは単純ではない。裏に何かがあるはずだ。訝しんで目を細めるが、クロウリーが動じる様子はない。
「何が目的ですか?」
「これは不思議なことを。目的があるのは君のほうでしょう? ささ、なんでもどうぞ。私の気が変わらないうちにね」
 その願いを口にしろ。そうすれば応えてやろう。
 化鴉からのあらがえない誘惑に、深海の人魚は喉を鳴らした。
「……ユウさんについて、知っていることすべてを話していただきたい」
 アズールの本心、今一番知りたいこと。己の事業のためでなく、ただ、ただ、知りたい。
 どうしてそう思うのか。その理由は告げずとも、クロウリーは微笑んだ。それはそれは、愉しそうに。嬉しそうに。
「いいでしょう!」
 声高らかに請け負ったクロウリーが紡ぎだした物語のはじまりは、数年前にさかのぼる。

 かつてこの世界にやってきた、異世界の少女がいた。
 魔法が使えないというのに、学園からの迎えである馬車に連れられて、やってきてしまったという無力で哀れな子。
 学園に忍び込んだ魔獣と二人一組で学園に在籍することを許された彼女は、努力を重ね、学んでいった。
 そうして、大勢の生徒たちと交流し、学園内のさまざまな行事と事件に携わっていった。
 だけれど、悲しいかな。彼女は、突然この世界からいなくなった。
 クロウリーは原因を探ろうとした。
 けれども、尋ねても訪ねても、誰も彼女のことを知らなかった。あまりにもおかしい。とはいえ、嘘をついているようにはみえなかった。
 学園長の権限を用いて、魔力計測器や時空震が示す値を解析し、やがてクロウリーは結論付けた。
 彼女が世界のきまぐれで元の世界に帰ってしまったのだと。そして、彼女と関わった者たちの記憶から、彼女は失われてしまったのだと。
 おそらく彼女の世界とこちらの世界の関係性から、世界の修正力が働いたのだろうと推測できた。
 たとえるなら、彼女の世界は物語の読み手側。こちらの世界は物語の舞台側。
 読み手は本が開いている間は、その世界を楽しみ入り込むこともできるだろうが、閉じてしまえばそれまでだ。読み手は決して、物語の一部にはなれない。だから、彼女の記憶は、こちらの世界から消されたのだ。
 だが、皆から忘れられてしまったとしても、彼女が元の世界に帰ることができたのは僥倖であった。なにせ、クロウリーが手を尽くしても、彼女を帰らせる術はみつかっていなかったのだから。
 クロウリーは、いささかの寂しさを覚えながらも、彼女のことはちょっと変わった可愛い生徒として思い出の中にしまうことにした。長い教育者人生のうち、そんな生徒が一人くらいいてもいい。
 そして数年の月日が流れ――彼女はどうしてかまた、この世界に現れた。
 ゆえに。
 力のある魔法士であり、彼女のことを覚えている者として。
 クロウリーは、彼女を保護したのである。

 ユウの過去から現在に至るまでの経緯を知ったアズールは、呼吸さえままならくなりそうな肺を、小刻みに動かした。
 にわかには信じがたい。荒唐無稽な作り話だと断じることもできた。でも、アズールの心はそれが「真実」と受け入れている。
「では、僕も……いえ私も、彼女とともに過ごしたことがある、と?」
 動揺のあまり一人称が素に戻りかけたアズールの問いに、クロウリーは頷いた。
「ええ、それはもちろん。アーシェングロットくんは、彼女と交流がありましたよ。私の記憶では、それなりに親密な関係でした」
 ぎゅうっと心臓が痛くなる。それだけではない、アズールを構成するすべての細胞が、悲鳴をあげた気がした。
「そんな、そんなこと、あるわけない……! だって、そんなこと覚えていない!」
「いったでしょう? 覚えているのはごくわずかな人物のみである、と。私のほかにはリリア・ヴァンルージュくんと、マレウス・ドラコニアくんになります」
「……!」
 二人の名、とくに最後の人物の名を耳にしたとたん、アズールの腹に湧きおこったのは、羨望と嫉妬であった。
 ああ、羨ましい妬ましい! どうして僕は、彼女のことを忘れてしまったのか!
 瞳孔を人外のものに変化させながら目の前の人物を睨みつければ、やれやれと肩を竦められた。
「こちらにそんな感情を向けられても困りますねえ。そんなもの、君の魔力が足りなかっただけのことです」
 ぐ、とアズールは小さく呻いた。
「あの頃の君に、私たちぐらいの力があれば忘れるなんてことはなかったでしょう」
 未熟者が――と、はるか高みにいる魔法士が言外に見下している。事実そのとおりであるため、何も言えない。
「世界の修正とはそれぐらいの力があるのです。なに、恥じることはありません。陸にあがったばかりの人魚一匹ごときに抗えるものではありませんでしたから」
 この鴉、とどめを刺しにきやがった。
「その口を閉じろディア・クロウリー」
「おやまあ、これ以上からかうのはやめましょうね」
 これまでにない低い声で警告すれば、あっさりとひいていく。アズールと事を構えるつもりはないのだろう。
「さて、どうします?」
 にこにこと笑いながら、クロウリーは頬に手を添える。
「ここは、あの子が本来存在するべき世界ではありません。きっと、かつてと同じように、ある日突然帰ってしまうことでしょう」
 告げられた言葉に、きっと間違いはない。クロウリーにとっては当然のことで、アズールにとっては心に深く突き刺さる一矢である。
「ああ、ああ、かわいそうに。そうしてまた、彼女は忘れられてしまうんでしょうねえ」
 以前はユウのことを国に報告していたクロウリーが、今回それをしていないのは、彼女が、ユウが、いずれまたこの世界から消えると確信しているからだ。また、誰の記憶にも残らなくなると、知っているからだ。
 そのことに気付いたアズールは、奥歯を強く噛みしめた。
 最初から、ユウの隠された情報は、クロウリーにとって取引の材料には成り得なかったのだ。知られたところで大したダメージにはならず、でも知られれば少しばかり面倒くさい。その程度のものだったのだ。
「まあ、私は忘れませんけどね。ほら、私、力のある魔法士で、とっても優しいですから!」
 アーシェングロットくんとは違うんですよと、やたらと明るい声でマウントをとられ、アズールは頬をひきつらせた。
「喧嘩を売ってくださっているのなら言い値で買いますが?」
「とんでもない! 私は応援しているんですよ。心外ですねえ」
 違う違うと手を振られるが、どう考えても見下されたようにしか感じられなかった。
 威嚇するように睨みつければ、ふ、とクロウリーの空気が緩む。黄金の瞳が、魔法士としてではなく、教育者としての眼差しでアズールをみつめる。
「アーシェングロットくん」
 やわらかな声が、嵐の海のように荒れた心を撫でていく。
「せいぜい努力することです」
 こうして真摯に相対すれば、この人物が伝統あるナイトレイブンカレッジの学園長を長年勤められている理由がわかる。
「生きているのなら死ぬまであがいて努力するがよろしい。若いのならばなおのこと。あなた、そういうのお得意でしょう?」
 欲しいものがあるのなら。欲しいものがみつかったのなら。なりふり構わず突っ走れと、背中を押されたような気がした。きっとそれこそが、この学園の卒業生にふさわしい。
「いつまでも、この学園から見守っていますよ。みんなみーんな、私にとって可愛い生徒ですから」
 大きく翼を広げるように、クロウリーは腕をひらく。
「私がいつも望むことは、君たちのハッピーエンドですよ!」
 ああ、なんて胡散臭い。アズールは鼻に皺を寄せて目を細める。
 最後の言葉は信じるに値しない。だが、彼女のことについては、一切の嘘偽りはないだろう。
 これ以上は、何も得られなさそうだ。
 アズールは深呼吸をひとつして、自分の気持ちを落ち着ける。さきほどから感情を露わにしてきたため、あまり意味はないかもしれないが、にっこりと人畜無害を装った笑みを張り付ける。
「お忙しいところ、貴重なお話をきかせてくださり、ありがとうございました。対価にはこちらを」
 ユウがクロウリーの弱みにならないならば、貸しを作らないためにも対価は重要である。念のためにと持ってきていてよかった。
 懐に収めていた子供の拳くらいの大きさの石を差し出す。
 それは、きらきらと蒼く輝く魔法石。とある古代魚の人魚の一族だけが採取することを許されているもの。当然、陸ではめったに出回らない一級品だ。
 鴉らしく、クロウリーが瞳を輝かせる。
「これは海だけで採れる貴重な魔法石ではありませんか! ……んんっ、アーシェングロットくんの厚意ですからねえ、無下にはできません。では遠慮なく」
 どうやら気に入ってもらえたようである。
 一安心したアズールは、喜色満面で石を矯めつ眇めつ眺めるクロウリーを一瞥し、ソファから立ち上がる。
「では、私はこれで」
「ええ、ええ。頑張ってくださいね、アーシェングロットくん」
 もはやすっかり興味が移ってしまったクロウリーを残し、アズールは退室した。
 長い廊下を辿りながら、考える。ユウの過去、ユウの現在、自分との関わり、これからどうしたいのか。いや、考えてもいまはうまく思考がまとまりそうにない。
 でも、確かめなければいけないことができたことは、わかる。
 アズールは前を見据えると、迷いなく目的地へと向かって歩き出した。

 ゆっくりと植物園の中を歩いていく。息を吸えば緑のにおい、肌に触れる湿度も人魚にとって心地よい。
 ここは、アズールにとって思い出の場所だ。泥だらけでマンドラゴラの世話をしていたユウがこちらに振り返ってくれたとき、すべては始まったのだから。
 この時間帯ならばいるだろうと予想したとおり、目当ての人物の声が聞こえてきて頬が緩む。
 ゆっくりと歩を進めていけば、ユウがいつも世話をしているマンドラゴラの畑付近が騒がしいことに気付く。
「ユウちゃん! マンドラゴラ逃げた! つか、元気すぎない?!」
「ちゃんと袋の口を縛っておかないからだよ? そういえば友達もやらかしてたっけ、なつかしいな」
「そんな呑気な……! ああ、ちょっと、待てって!」
 そういって追いかけっこをしていた生徒とマンドラゴラが、くるくるとユウの回りを猫とネズミのように円を描いて走りだした。それをみて、友人と思しき二人が笑っている。
 アズールのしんみりとした気分が吹き飛んだ。こめかみが勝手にひきつる。
 こちらの気も知らないで、少年たちに慕われて楽しそうに過ごしている姿に、気分が悪くなる。ユウが悪いわけではないと理解しているのに、そんな感情をとめられない。
「こんにちは、ユウさん」
「アズール先輩?」
 大きな歩幅で近づいて、簡単な魔法でマンドラゴラを浮遊させてから、努めて冷静に上品に声をかける。ユウはすぐに振り返り、少しばかり目を丸くしたあと微笑んでくれた。
「よっしゃ捕まえたぞコラ! ご協力あざーーすっ! ……って、誰?」
 すかさずマンドラゴラを捕まえた生徒が、袋に突っ込み口を縛りあげながらアズールに向かって首を傾ける。他の二人が、わあっと歓声をあげた。
「うっわ! アズール・アーシェングロット! テレビでみたことある!」
「オレ、ほんものはじめてみた! すっげー!」
「え、なになに、有名人?! サインしてくれねえかな?」
「ばっか、んなこと頼んだら対価に内臓とられるぞ!」
「ちげーよ、海でサメのエサにされるんだよ!」
「マジで? めっちゃこえーじゃん……」
 生徒たち三人は好意的な反応から一転、とても失礼なことを口にして、岩陰から大魚の動向を伺う小魚のようにユウの陰に隠れ、こちらをじっとみつめてきた。
 だが、アズールは大人である。にこやかな笑みを絶やすことなく、余裕をもって若さゆえの失態を許さねばならない。
 口を開こうとした瞬間、ユウが彼らに振り返る。めっ、と人差し指を振って言う。
「ちょっと、君たちの大先輩にたいして失礼だよ。それにそんなことしてたら、クルーウェル先生の授業に遅れちゃうでしょう?」
 ほら、とユウが指し示した植物園内に設置された時計をみて、生徒たちが顔を青くして飛び上がった。ほんとうに元気なものである。アズールは呆れたように肩の力を抜いた。
「やっべ! いくぞ!」
「じゃあね、ユウちゃん!」
「また手伝ってね!」
「うん。授業がんばって」
 おう、と元気にそれぞれ声を重ね、一年生たちは走り去っていく。なんだか、海上で吹く突風のようだった。
「元気ですよね」
 あはは、と笑うユウに溜息がこぼれる。アズールの反応に、きょとんとした黒い瞳が見上げてくる。
「あなた、もっと危機感をもったらいかがです?」
「ええ?」
「この学園に通う生徒なんて、おおむね野生動物みたいなものですよ」
 なるほど、と少しばかり思案気な顔をしたあと、ユウが悪戯っぽく笑った。
「卒業生の方がそういうと、とっても含蓄ありますね」
「口の減らない方だ」
「あはは」
 苦い魔法薬を飲んだように顔をしかめてみせれば、ユウがころころと笑う。
「それで、今日はどうされたんですか? ラウンジの開店には早いですよね?」
 作業用の手袋をはずしながら、ユウが何も知らぬ無垢な様子で問いかけてくる。
「ええ、その……少しばかりユウさんにお尋ねしたいことが、ありまして」
「はい、なんですか?」
 肩を震わせるアズールに、ユウは気づいていない。
「ええと、」
 教えてほしいことをなんと伝えたらよいものか。いつもはよく回る口が、上手く動かない。
 言い淀むアズールを辛抱強く待っているユウが、「あ」と声をあげて鼻をおさえ、天井を見上げる。つられて上に視線をむけたアズールの頬に、冷たい一滴が触れる。
「すみません。今から雨が降るみたいで……どうしましょう」
「問題ありませんよ」
 この植物園はエリア毎に人工降雨の設定がされている。その区画に植えられた植物に適した水量が、適した時間帯に降るようになっているのだ。
 植物たちを慈しむように柔らかに水が葉を濡らしていく様子をみて、そのことを思い出したアズールは、ひょいと魔法をひとつかけた。
 とたん、二人の上に降り注ぐはずだった雨が、水の粒となって浮き上がる。それ以外の場所の雨は、止まることなくあたりを濡らしていく。
「わ、すごい。おもしろいですね」
 つん、とユウが爪の先で突けば、さらに小さな粒となる。
「子ども騙しのような魔法ですよ」
「私にはとても便利で、ありがたいですよ。きれいです」
 魔力がない。魔法が使えない。身寄りは縁があるという学園長だけ。それも不確かで、あまりにも不安定にこの世界に存在するひと。遠い昔にも、ここにいたことがあるひと。若かりし頃の自分を知っているひと。もしかしたら、自分がずっと探していたかもしれないひと。
 そう思っただけで、たまらない気持ちになった。太陽が生まれたかのように、かっと体の中心が熱くなる。
「ユウさん、あちらのベンチでお話しませんか」
「はい」
 意を決して誘えば、ユウは何も気負うことなくついてきてくれた。
 濡れたベンチの水を魔法で飛ばし、並んで腰かける。アズールは気を落ち着かせるように、眼鏡のブリッジを指先で持ち上げて、知られぬように呼吸を整えた。
「あの、……人魚姫の話を、ご存じですか?」
 思ってもみない話題だったのか、ユウが不思議そうに首を傾ける。
「はい、知ってます」
「最期は泡になって消えてしまう、悲しいお姫様の話なのですが」
 ああ、と望郷の念が滲むような吐息混じりの声を零して、ユウが微笑む。
「子どもの頃、絵本をよく読んでもらいました。懐かしい」
 やはり、知っている。こちらの人魚姫の幸せな物語とは違う、悲しさと美しさに満ちた物語を。
「よろしければ、お話してくださいませんか? この魔法の対価に」
 はやる気持ちをおさえ、いつもの調子を崩さないように気をつけながら、ねだるようにユウの顔を覗き込む。
「いいですけど……笑わないでくださいね?」
「もちろんです」
 少しばかり恥ずかしそうな顔をするユウに、頬を緩ませながらアズールは頷く。ほっとした様子で胸をなでおろしたユウがその唇を開く。
「では、」
 そうして語られたのは、おぼろげに覚えている悲しい結末を迎える人魚の姫のそれと、まったく同じだった。
 陸の国の王子に恋をして、健気にその後を追った人魚姫が、だけれど報われることのなかった物語。
 アズールは、ユウの横顔から視線を外すことができない。感動で打ち震える手を握りしめることで精いっぱい。
「そして、人魚姫は眩い朝日の浴び、頬笑みながら海の泡となりました……おしまい」
 ハッピーエンドにならなかった人魚姫の最期を告げたユウは、そうそう、と付け加える。
「これには続きがあるんです。このあと、人魚姫は天国にいくための魂を授かるために善行を積むことを教えられるんです。よく読んでもらった絵本はそこまで書かれていませんでしたが……子供向けだったからでしょうね」
 ふ、とアズールは小さく微笑む。こちらの世界の常識とは違う点に、やはりユウは別の世界の人間なのだと確信を得る。
「人魚にも魂はありますよ」
「そうらしいですね。このお話をしたときに、教えていただきました。懐かしいです」
 今、目の前にいる自分ではなく、いつかの誰かを思い出す黒い瞳をみつめ、アズールは熱い息を吐く。
「……」
 それを教えたのは、僕ですか?
 思わず口に出そうになった問いかけを飲み込んで、アズールは言葉を探す。ぐるぐると魔女の大鍋で掻き混ぜられるように、気持ちが渦を巻いて安定しない。
「アズール先輩? どうしました?」
 様子がおかしいと感じたのか、ユウが少し距離を詰めてくる。心配そうにみあげられて、おさえていた何かが、堰を切ったように流れ出す。
「こたえてください」
 子どもが純粋に問いかけるような声が出た。まるで、自分のものとは思えぬそれが、目の前のユウに真っすぐに向けられる。

「――僕が恋したのは、あなたですか?」

 アズールが確かめなければいけないこと。クロウリーにはこたえられないだろうこと。ユウならばきっと、わかるはずのこと。
 こんなこと、いうつもりなんてなかった。
 でも、彼女の過去を知り、恋しいと夢で追いかけていた人の影を彼女に感じてしまったら、もうどうしようもないじゃないか。
 熱に浮かされるようにそんなことを自分がしでかしたという驚きと羞恥に、アズールは思わず喉をおさえる。
 はやく、なにかいってほしい。
 否定でも肯定でもなんでもいい。溺れそうになっている自分を、掬い上げて。とどめを刺して。
 縋るような気持ちをこめて見つめ続けていると、ユウが笑った。朗らかなその笑顔に言葉が詰まる。嫌がっているそぶりがないことが、救いだった。
「どうして、そう思うんですか?」
 疑問に疑問を返すなんてどうかと思うけれど、彼女の言葉はもっともだ。急にこんなことを言われて、戸惑わないわけがない。
「僕は、その話を知っている。昔、ツイステッドワンダーランドの人魚姫とは違う結末の、悲しい人魚姫の話を語ってくれたひとがいたんです。いたはず、なんです。でも僕は、その人のことをどうあっても思い出せなくて……」
 すぐに消える夢の中でしか会えない恋しい誰か。
「それが、あなたではないかと僕は思うのです」
 アズールは神の前で誓いをたてるような敬虔な気持ちで、言葉を重ねる。
「僕たちには、あの日、この植物園で出会ったときより以前に何かがあった。違いますか?」
 ユウが眉をさげ、少しばかり困ったように微笑んだ。
「学園長からきいたんですね、私のこと。この学園に通っていたこと。もう、私にはしゃべるなっていってたくせに」
 そうして、己の手をぎゅっと握りしめる。アズールから視線をそらし、俯いた横顔を黒い髪が隠してしまう。髪の合間からのぞく小さな耳が、薄らと赤い。
 その色が目の毒で、アズールもつられたように頬を染めると、ゆるゆると前を向いて視線を下げる。
 さあさあと降る、たおやかな雨の中、二人は揃って黙り込んだ。
「……」
「……」
 設定された雨の時間の終わりが近づいたのか、雨足が遠のいていく。催促をする勇気も持てず、このままこの時間が永遠になればいいのにと、馬鹿な思考にアズールが陥りかけたころ。
「先ほどの質問ですけど」
「は、はい」
 急にかけられた声に、アズールは情けなく肩を跳ねさせた。
 そうっと隣をみれば、ユウが凛とした顔でこちらをみていた。まぶしくて、思わず目を細める。
「私は答えをもちあわせていません。だって、私はアズール先輩ではありませんから。あなたの心は、あなただけのものです。あなたの恋もまた、あなただけのものです」
 だから、判じることはできないのだという。これが、彼女なりの誠意らしい。
 でも、それはもっともなことだ。恋なんて、本人にしかわかるはずもない。愚かなことを訊ねてしまった。
「……そう、そうですね」
 あまりの羞恥に蛸壺に逃げ込んでしまいたいとアズールが気落ちしかけたところで、ユウが立ちあがった。その行動を、目で追いかける。
「でもね、先輩。何かはあったんです。どこにも残っていなくても」
 え、と小さく零したアズールの前で、ユウは背に回して組んだ手をきゅっと握りしめて、くるりと振り向いた。
 その拍子に弾けて飛び散る水の粒が、温室のガラスを越えて降り注ぐ午後の陽光に、やわらかに煌めく。
 みるものをはっとさせるような恋する少女の顔で微笑んで、ユウが小さな唇を震わせる。それは、やけにゆっくりと、そして鮮明にアズールの網膜にやきついていく。

「私はアズール先輩のこと、好きでしたよ!」

 夏の前にひとときだけ吹く風のような爽やかさで、かつてこの学園にいた少女は残酷なことをいってのけた。
 過去の恋に別れを告げた者だけが持つ潔さがそこにはあって、アズールは何も言えなくなってしまった。
 だって、覚えていないのだ。自分にあるのは、心にあいた恋のカタチだけ。夢にみるようなおぼろげなものだけ。
「じゃあ、私はこれで。素敵な魔法をみせてくださって、ありがとうございました」
 別れの挨拶もそこそこに、ユウは駆けだした。そのまま植物園を出ていく。どこにいくのか尋ねる暇も、アズールには与えられなかった。
「……」
 取り残されたアズールは、ぼんやりと視線をほうりなげる。
 ユウの言葉でわかったことは、自分たちは過去に出会っていること、彼女が自分を好いていてくれたこと。
 いつどこで、ユウと出会ったのか。どんなふうに、彼女と時間を過ごしていたのか。肝心なことはなにもわからずじまいだ。
 でも、もう、ダメだった。
 震える手で、口元を覆う。湧きあがる歓喜に、顔が歪む。
 なんて可哀想なひとだろう。なんて迂闊なひとだろう。
 恋を探している人魚に、決定的な一言をいってしまうなんて、自分で逃げ道を塞いでしまったようなものだ。
 パチリ、と音が鳴ったような気がする。
 自分の人生というパズルの中で、唯一埋めることができなかったところに、あるべきピースがはまったような快感に打ち震える。
 確証もない、証拠もない、思い出もない。でも、間違いないと誰かが告げる。彼女こそが、僕の番だと。
 ここに来る前に会っていた学園長の言葉がよみがえる。
「ハッ……彼女がいつか帰る? そうしてまた、僕は彼女を忘れる? そんなこと、許せるわけがない!」
 一度目は自分の落ち度だ。それは認めよう。
 恋しい存在を手放すなんて人魚の名折れ。ましてや、その記憶さえ奪われたなど屈辱でしかない。たとえ相手が世界であっても、自分はあらがうべきだった。
 ゆえに、二度目はない。
 アズールの心に恋という厄介な種を植えつけて消えていった番を、ようやくみつけたのだ。今度こそ絶対に逃がさない。離さない。
 ぐずぐずと、アズール・アーシェングロットという器の中が熱で溶けて蕩けていく。
 そうして生まれたものは、純粋で美しい愛か。それとも重くて暗い化け物じみた愛か。
 人魚の恋とは、まことに厄介なものである。

 はからずとも、かつての恋心をアズールに告げてしまったユウは、思い出すたびに恥ずかしさのあまり身悶える日々を過ごしていた。
 しかし、考えてみれば二度と会うことはないはずだった初恋のひとに、終わった恋とはいえ気持ちを伝えられたのはよかったのではないだろうか。
 彼は「恋したのはあなたか」というようなことを聞いてきたけれど、この世界にいた頃にはそんなそぶりはなかった。親しくしてくれたとは思うけど。
 うっすらとかつての記憶があるらしいアズールは、その感覚に戸惑っていたようだし、きっと思い違いをしているのだろう。
 でも、かつてアズールが多少なりとも気にかけていてくれたことがわかって、嬉しかった。
 もしかしたら、この世界を再び訪れることになったのは、このためだったのかもしれない。
 願わくは、あの植物園でのやりとりが、彼の今の恋に向けて迷うことなく進んでいくための一助となりますように。
 そんなふうに考えるに至ったユウは、足取り軽く鏡舎へと入っていく。
 モストロ・ラウンジにいるはずのオクタヴィネル寮長に、学園長からの文書を届けなければいけないのだ。
 アズールと顔をあわせれば気恥しくて顔を赤くしてしまうかもしれないが、社会人が自分の個人的なことを引き合いにして、仕事をこなさないなんてあってはならない。それはそれ。これはこれ。
 鏡舎に並ぶいつくもの鏡のうち、迷うことなく目的地に続く鏡をくぐる。
 遠い水面から、ゆらゆらと午後の光を透かす海中に伸びる廊下を歩いていけば、モストロ・ラウンジがみえてきた。
 見れば、掃除の途中なのか何かを運んでいたのか、店内へと続く扉が大きく開いている。
 ひょいと店内を覗き込む。
 扉から少しばかり進んだところに、生徒が二人いる。
 寮服のジャケットを脱ぎ、シャツを腕まくりしている。たしか、寮長の補佐をしている二年生だったはず。
 休憩をしているのか、立てたモップの柄に手を置いて、世間話に興じているようだ。
「あの、」
 彼らに寮長がいるか尋ねよう。そう思って声をかけようとしたそのとき。
「そういや、オンボロ寮の雑用係、いつでてくんだ?」
「知らねえ~。まだ頑張ってんじゃないか? 立ち退き料でもつりあげてるとか?」
 思わぬ話題に、ユウはぴたりと動きをとめた。まさかこんなところで自分のことが聞こえてくると誰が思うだろう。しかも、「出ていく」とはどういうことか?
 ユウがじっと息を殺して聞き耳を立てていることなど気づきもせず、彼らは続ける。
「うまくリーチ先輩のどっちかがひっかけて、てきとーに引っ越しさせるんじゃねえかなって思ってたんだけどさあ」
「オレもそう思ってさ、フロイド先輩が勝つほうに賭けてんだよな」
 大きく伸びをしたあと首の後ろで手を組んだ生徒に、もう一人が驚いた様子をみせる。
「マジ? どっちかっつーとジェイド先輩のほうじゃね? 女がひっかかりやすそうなのはさ」
 申し訳ないが、どっちもちょっとありえないんじゃないかな? と、あの二人の物騒で論外な部分を知っているユウは思う。彼らを前にしては決して言えないけど。
「このままじゃマジフト大会までに改築間に合わなくなるだろうし、そろそろ追い込みかけてほしいよな」
「でもまあ、オレたちにはそこまで関係ないじゃん」
 呑気な言葉に、賭けをしているとのたまった生徒がくわっと口を開いた。
「よくねえよ、フロイド先輩がおとすほうに賭けてんだっつってんだろ! おお神よ! どうかフロイド先輩に女を落としたくなる気まぐれを授けたまえ!」
「あっはっは! どんな気まぐれだよ!」
 わざとらしく両の手を組んで祈りをささげるポーズをとる生徒と、その姿を指さして笑う生徒たちに気付かれぬよう、ユウはそろそろと後退する。
 そのまま、大きく開かれたままの扉から外へでる。
 数度深呼吸する。あの子たちは悪くない。だってあのくらい、ただの世間話の範疇だ。悪いのは、そんな悪だくみをきかれてしまったあの三人組。
 考えるのはあとでもできる。いまユウがするべきは学園の雑用係としての仕事である。
 んん、と喉の調子をがいつもどおりか、すこしばかり声を出してから、一歩足を踏み出す。
「こんにちはー、どなたかいらっしゃいませんかー!」
 さきほどとは違い、今度は元気よく声をあげながら、あらためてモストロ・ラウンジへと突入する。
 カツンと硬質な音が響く。ずかずかと遠慮なしに店内へと入っていけば、さきほどの二人が目を見開いてこちらをみていた。取り落とされたのだろうモップが、床の上に転がっている。
「うわ?!」
「オンボロ寮のっ……!」
「よかった、人がいて。学園長からの書類を届けにきたのですが、オクタヴィネル寮長はこちらにいらっしゃいますか?」
 あからさまにほっとした様子をみせてから、にっこりと年上らしく笑えば、生徒二人はそろって飛び上がった。
「オレ、呼んできます!」
「あ、待てよ!」
 さすがに噂話をしていたところに当の本人が現れれば、まだまだ青いところのある少年たちの動揺は大きい。
 彼らは、ばたばたと足音を立てて店の奥へと走り去っていく。そこまで怯えて逃げ出さなくともいいのに。
 かつてのアズールやリーチ兄弟は、年の割には肝が据わりすぎていたなあと、ぼんやりと考えながら彼らを見送る。
 そうして、バックヤードから出てきた寮長に学園長から預かった封筒をにこやかに手渡し、ユウはモストロ・ラウンジをあとにした。
 もちろん、彼らの噂話をきいていたことなんておくびにもださずに。
 それにしても。
「うーん、どうしよう?」
 眉をさげたユウの呟きが、誰もいない海中トンネルに響く。
 オンボロ寮から厄介な邪魔者を追い出してモストロ・ラウンジを移転させるという計画に、正直まだ諦めていなかったんだなあという感想を抱く。数年前にも同じような状況を経験しているのだ。落ちつきが違う。
 だがこれで、彼らがなんの価値もない自分のような女にわざわざ声をかけ、かまってくるのか、その理由がわかった。
 腕を組み、右手の人差し指で左肘あたりを一定のリズムで叩きながら、ユウは頭を悩ませる。
 やはりただの親切ではなかったのだ。さすがは深海の商人たちである。ちゃんと目的があり、それをユウに悟られぬようにした手腕は素晴らしい。今回は、ちょっとばかりつめが甘かったようだけど。
 大いなる納得と、変わらぬ彼らへの安心感、そしていくばくかの寂しさと悲しさ。
 だけど、ほっとした。無償の奉仕などあのひとたちには似合わないのだから。思えばデートに誘ってくれたのも、作戦の一環だったのだろう。博物館にいきたいなんて言ってしまって、申し訳なかった。
 さてさて、ほんとうにどうしよう?
 唸りつつ海中トンネルの先にある鏡をくぐる。
 鏡面を揺らして戻ってきた鏡舎で、ディアソムニア寮に続く鏡が目についた。

 ユウが夢にみる恋しい相手で、自分の番であると確信をもつに至ったアズールは、忙しい日々を送っていた。
 会社の事業は手抜かりなく進めつつ、ユウを逃がさない方法を研究し、アズールの目の届く場所に住まわせるための手段を模索せねばならなかったからだ。
 海や陸の古代魔法から現代魔法の最新理論、知人たちの手を借りるなどありとあらゆる手を尽くした結果、彼女を逃がさないための魔法を確立させることができた。さすが僕と自画自賛した。
 あとは必要な素材を集めるだけなのだが、これが難航している。ありとあらゆる伝手で探しているのだがみつからない。
 だが、必ず成し遂げるという意志が、アズールを突き動かしていた。
 残る懸念は、それを見つけるまでの間、ユウを快適な環境で過ごさせることだけだ。あんなオンボロ寮に番をひとりで住まわせるなど、とんでもない。
 しかし、仕事と研究で動けないアズールに代わり、ジェイドやフロイドを通して引っ越しを勧めているがうまくいかない。
 だが、今日こそは彼女を自分が斡旋する安全安心な住居に引っ越しすると約束させてみせる。
 研究のめどころがたったところで、タイミングよく「話があるから会いたい」とユウが連絡をくれたこの日を逃す手はない。
 今か今かと待ちながら、アズールは用意したプレゼン資料の最終チェックに勤しんでいた。
 VIPルームの扉をノックする音に、ぱっと顔をあげる。時計をみれば、ユウと約束していた時間だ。
「どうぞ」
 余計なものを手早く魔法で片づけて、アズールは立ちあがると返事をした。
 部屋の主の許しを得て、扉がひらかれる。
 ひょこ、と顔をのぞかせたのはユウと彼女をここまで案内したジェイドとフロイドである。
「こんばんは、アズール先輩」
「ようこそモストロ・ラウンジへ。さあ、どうぞ座ってください。ジェイド、紅茶を淹れてきてください」
「かしこまりました」
 一礼したジェイドが、部屋をでていく。この日のために最高級の茶葉を用意してある。ジェイドならば上手く淹れることだろう。
 アズールにすすめられ、ソファにゆっくりと腰かけたユウのとなりに、当たり前のようにフロイドが陣取る。
 その気やすさが癇に障って思わず鋭く睨みつける。しかし、にこにこと嬉しそうな笑顔を向けられて気が抜けた。気まぐれウツボの行動は、意味がありそうでないときの場合が多いのだ。
「お忙しいところすみません」
「いえいえ。紅茶の準備が整うまで、こちらをどうぞ」
 ユウさんのお話はお茶を飲みながらでもと言いつつ、ユウのためだけに作った資料を差し出す。
「わあ、すごい……マンション、だけじゃないですね。一軒家までありますよ?」
 情熱の分だけ分厚くなったそれを受け取り、ぺらぺらとめくったユウが目を丸くする。
「考えたのですが、やはりあなたのような女性があのような寮に一人住まいというのは、いかがなものかと思います」
「……」
 ユウはアズールの言葉を聞きながら、資料をめくり続けている。
「こちら、僕が厳選したおすすめの物件ばかりです。どうぞお好きなものを選んでください。契約や引っ越しの手配なども僕がいたします。安心してお任せください」
 ひととおり資料の最期まで目を通したユウが、顔をあげる。ほんのりと浮かぶ笑顔に、アズールもつられて微笑む。
「実は私、オンボロ寮から出ようと思っていて。それが今日、お話したいことだったんです」
 思ってもみない言葉に、アズールとフロイドは一瞬動きをとめて、次いで顔をみあわせた。
「え……? あ! で、ではどちらになさいますか?! それとも僕と一緒に選びますか?!」
「アズール必死すぎてウケる」
 大きな声をあげ前のめりになるアズールをみて、フロイドがけらけらと笑う。
 そこへワゴンにポットとティーカップをのせたジェイドが戻ってきた。
「おや、ずいぶんと楽しそうですね」
「ジェイドきいて~、小エビちゃんやっと引っ越しする気になったんだって」
 流れるような手つきで紅茶を淹れていくジェイドが、楽しそうに肩を揺らす。
「それはそれは、よかったですねアズール。寝ずに資料を作ったかいがあったというものです」
 揶揄する気配を隠さずににやにやと笑う二人を、アズールは一睨みで一蹴する。
 性悪ウツボに構っている暇などない。ユウの気持ちが変わらぬうちに、なんとしてでも決めなければいけないのだ。
「邪魔するな! あの、ユウさん、とくに僕がおすすめする物件は、」
「いえ。斡旋はしていただかなくても大丈夫です」
 資料の中から、もっとも住んでほしいマンションを見せるべく手を伸ばしたアズールを遮るように、ユウはテーブルの上に資料を置いた。
「え?」
 アズールが厳選した物件はお断りしますといわんばかり対応に、間の抜けた反応をしてしまう。
 拒絶された気がして、揺れる視線を縋るように向ければ、ユウが微笑んだままわずかに首を傾ける。
「アズール先輩は、モストロ・ラウンジをあの場所……ええっと、オンボロ寮に移店したいんじゃありませんか?」
 そうして静かに穏やかに落とされた言葉に、幼馴染三人組はそろって息をのんだ。
 アズールは自分の内臓が深海に落っこちていくような冷えた感覚に襲われ、ひくりと指を震わせた。
「「「……」」」
 目も合わせることもできず、この場にいる人魚たちが口を噤んでいるうちに、ユウが続ける。察しが悪くてごめんなさいといわんばかりに、眉をさげながら。
「私、オンボロ寮が皆さんに必要とされているとは思ってなくて。でもよく考えれば、それぐらいしか私に接触する理由なんてないですよね」
 最初はそうだった。学園長との交渉がうまくかず、いつの間にかオンボロ寮に住み着いていたユウを、どうにかして排除することを考えていた。
 でも、今は違う。ユウのことを心配するアズールの気持ちは本物だ。それを伝えたいのに、こちらの計画をずばり指摘された衝撃に、頭がうまく働かない。
 痛いほどの沈黙が室内を支配する。それを軽々と破ったのは、天才肌の気まぐれウツボだった。
「あーあー、ばれちゃったねえアズール」
「フロイドッ」
 こっそり計画していた悪戯がばれてしまってつまらないといわんばかりに、フロイドはソファの背もたれにその大きな体を預けて天を仰ぐ。
 まだ何とか誤魔化せそうなところだったのに、あっさりとユウの言葉を肯定する発言をされたことに、アズールは顔を青くする。
 あわあわと手を動かすアズールを尻目に、フロイドは蕩けるように微笑んだ。
「それにしても、小エビちゃんよくわかったねえ、俺たちがあの場所がほしいってこと。……――もしかして、誰かに聞いた?」
 暖流の水温から、寒流の水温へ。ひといきに変わるフロイドの声音にも、恐れることなくユウが首を振る。
「ふふ、そんなこと私に話した人なんていませんよ」
「そお? ふーん……」
 じっと色の違う瞳でユウをみつめたあと、嘘がないと判断したらしいフロイドが手をひらめかせる。
「でもお、俺は小エビちゃんと遊べて楽しいって、ほんとに思ってたよ? メシだって食べてほしいから作ってたんだし」
「ええ、その節はありがとうございました。フロイド先輩のごはん、とっても美味しかったです」
「えへ、よかったあ」
 うふうふとこれまでの会話内容から想像できないほど無邪気に笑い合う二人に、アズールは頭痛を覚えた。
 ジェイドは丸くした目をゆっくりと瞬かせ、ユウの爆弾発言で止まっていた手を動かしはじめる。彼女の前に、カップの乗ったソーサーを静かに置く。
「驚きました。ずいぶんと落ち着いていらっしゃる。ここは怒るか泣くかする場面では? 騙されたと嘆いてもおかしくはありませんのに」
 仕事で契約を結んだあと、「こんなつもりじゃなかった」「あんなにやさしくしておいて」「だますなんてひどい」などと喚く頭の悪い客たちを思い浮かべているのだろう。
「それはそうですが、昔も同じようなことがあったから、慣れているっていうか……ふふふ、懐かしいなあ」
「おや、そのお話は聞いたことがありませんね」
 いつもの調子でにっこりと笑ったジェイドが興味を示せば、ユウが応える。
「何年も前ですけど、同じように住んでいた建物がとられそうになったんです。無理な契約に、不履行になるような妨害までされて……そのとき、建物は担保になったから出ていけと寒空の下にほうりだされました」
 それを真実ならば、とんでもない目にあっている。それなのに、ユウは大切な思い出を語るようなそぶりだ。ひどい内容と優しい語り口の対比に眩暈がする。
「それはあまりにひどいお話ですね」
 おやおやそれは大変でしたねと、ジェイドが口元に手をあてて笑う。
 同情はしていない。ただそんな面白い現場に自分がいなかったことを残念に思っている、そんな声音だ。
「友人たちに助けてもらいましたから」
 ユウがそんな状況に追い込まれたことがあるという事実に、アズールはまた別の衝撃を受け、ひゅうひゅうと冬の風のような呼吸を繰り返す。
「ご安心ください! 僕はそのような非道な真似はいたしません! 僕は、ただあなたに安心できるところで暮らして欲しいだけです!」
「は、はあ……」
 困ったように、何かを堪えるように口元を引き結び、ユウはぎこちない笑みを浮かべる。信用されていないのだと、アズールは感じた。
「きちんと住むところを提供いたします! それに、できることなら、僕は――!」
「いえ、ほんとうにいいんです」
 言葉にも仕草にも焦燥露わにするアズールとはどこまでも対象的に、ユウは落ちついている。
「いくあてなら、これでも一応あるんですよ。ですから大丈夫です」
 えへん、とわざとらしく胸をはった後、ユウが睫毛を伏せる。
「今まで食事に誘ってくださって、おいしい紅茶もいれてくださって、楽しいお話もしてくださって、なにかと気にかけてくださって、嬉しかった」
 アズール、フロイド、ジェイドとそれぞれの顔を順繰りに見遣ったユウは、ほっそりとした手を胸におしあてた。大事な何かをしまいこむように。
「あなた方にあえて、私はとても楽しい時間が過ごせました」
 心からの感謝の言葉が、こんなに辛いなんてことあるだろうか。アズールはひりつくような痛みを訴える喉をひくつかせる。
「あとは学園長とお話をすすめてください。一週間後には出ていきます。それから寮に住んでいるゴーストの皆には配慮をお願いします。では、私はこれで」
 言いたいことを言えたといわんばかりの晴れやかな笑顔を浮かべ、ユウが立ちあがる。手をつけられることのなかった紅茶が寂しくテーブルに残っている。
 震える視線を向けるしかできないアズールへ、ユウはぺこりと可愛らしく一礼して歩き出す。
 それを止めることができなかったのは、これ以上かかわらないでほしいとその小さな背中が訴えているように見えたからだ。
 重厚なVIPルームの扉の向こうに、ユウが消えていくのをアズールは茫然と見送った。
「どーすんのアズール。小エビちゃん怒っちゃったのかなあ?」
「ど、どうって、どう……? どうする、とは……?」
「あはっ、ポンコツになってる~」
 今後の対応を訊ねてきたフロイドにまともな回答もできない。ぐうっと手を握りしめて喚き散らすのを耐え、なんとか頭を働かせようとするアズールの隣にジェイドが座る。
「二度も住処を追われるなんて、ああ、なんてお可哀想なユウさん。アズールのような悪辣な人間に追い立てられた過去は、さぞかし大きな心の傷となっているのでしょうね」
 心から同情申し上げますとばかりに、眉をさげたジェイドがのたまう。なんてわざとらしい。
「お、おまっ……! ジェイド、おまえがそれをいうのか……?!」
 これまでにもっと悪辣な行為を平然としてきた海のギャングの言葉に、アズールは思わず叫んだ。
 とはいえ、アズールだって人のことをとやかく言えるような清廉潔白な存在ではない。商売とはそんな生易しい世界ではない。
 考えうるすべての想定を経て、ありとあらゆる可能性に対する提案を!
 双方向に利益という建前の影で、自分にとって最大限の利益を!
 それがアズールの商売に対する姿勢である。
 だけど、今回ばかりはそんな信条をかなぐり捨てた。自分は、ただ、ユウによい暮らしをしてほしかっただけだ。それだけだった。そこには好意と厚意だけがあったのに。
 ユウにとって悪いことはひとつもなかったはずだ。それなのにどうして。
 どうしてこうなった!
「う、ぅ……!」
 アズールは頭を抱えた。それ以外にできることが、見当たらなかった。
 ぎゅっと目を閉じれば、ぽろぽろと涙溢れる。閉じた瞼の裏側に、去っていくユウの背中が映る。
 自分の行為の何もかもが裏目に出てしまった現実を受け止めきれないアズールの意識が、遠のいていく。
「ひとまず追いかけたほうがよくない? 小エビちゃんのいっていたことは間違いじゃねーけど、過去のことじゃん。今はそんなこと思ってないでしょ」
「フロイドのいうとおりかと。アズールの意図するところはまったくもって、これっぽっちもユウさんに伝わっていないとお見受けしました。せめて弁明をしたほうがよろしいかと」
 フロイドとジェイドのもっともな助言も、耳に入るがぜんぜん内容がわからない。わかりたくない。蛸壺、僕の蛸壺はどこだ?
「アズールきいてる? ねーってば! 小エビちゃん追っかけなって!」
「おやおや、もしかして泣きながら意識を失っています? 器用ですね」
 詰め寄ってきたジェイドとフロイドが左右で騒いでいるが、その音さえも遠ざかっていく。

 その後、痺れを切らしたウツボ二匹に、モストロ・ラウンジの大水槽に放り込まれるまで、アズールの意識が現実逃避という名の深淵から戻ってくることはなかった。

 澄んだ鈴の音が目に映るのならば、きっとこんなふうにみえるのだろう。
 宵闇の中、ひっそりと建つオンボロ寮の庭で、いくつもの光が響き合うように舞っている光景に、ユウは目を瞬かせならそんなことを思った。
 幻想的なこの光景を、数年前にもみたことがある。目を凝らせばその中心に、予想通り背の高い人物がたっているのがみえた。
 モストロ・ラウンジでアズールたちに立ち退きの件を伝え、緊張の糸が切れてちょっと疲れを覚えていたユウは、顔を綻ばせて駆け出した。
 いつかのようにガーゴイルを眺めている姿が懐かしい。
「ツノ太郎!」
 自分とは違う時間を生きるひとではない存在だけど、自分を助けてくれた彼はとても大切な友人である。その名を呼べば、闇を引きずるように黒い髪をなびかせて、マレウスが振り返る。
「よい夜だな、人の子。僕との約束を覚えているか?」
 彼の傍まで駆け寄って高い位置にあるその顔をみあげれば、美しい笑みとともに挨拶してくれた。
「もちろん!」
 この世界で再会したときにユウがお茶に誘ったことを覚えていて、やってきてくれたことが嬉しい。茨の谷の主として日々忙しいだろうに、なんて優しいひとだろう。
「茨の谷は大丈夫?」
「リリアを置いてきたからな」
「じゃあ、なんとかなるのかな?」
「ああ」
 ふふ、と笑いあったあと、ユウはオンボロ寮に足を向け直す。
「美味しい紅茶の茶葉があるから、それ淹れるね」
 マレウスがいつきてもいいようにと、サムの店で取り寄せてもらったものだ。王族であるマレウスの口にあえばよいのだけれど。
 熱砂の国の大富豪であるカリムは、食べるものに細心の注意を払っていた。そういえばマレウスは王族だけどそのあたりは気にしないのだろうか。
「ケーキもあるけど……たべられる?」
 妙な尋ねかたになってしまったが、マレウスはユウの言いたいことがわかったのか小さく頷いた。
「問題ない。馳走になるとしよう」
「うん!」
 ぱっと顔を輝かせたユウに優しく微笑み、マレウスは顔をあげる。その視線の先には、研究会をたちあげたくらい興味をもつガーゴイルの像がある。
「用意をしてくるといい。ここにいる」
「少しだけ待っててね」
 久しぶりにみられて嬉しいのかな? ユウは小さく笑ってそっとオンボロ寮にはいった。
 キッチンでお湯を沸かしつつカップとティーポット、それから茶葉の入った缶を取り出す。沸騰するまで待つ間に、パウンドケーキを切り分ける。
 ジェイドほどの腕前はないけれど、マレウスに喜んでもらいたいという気持ちをこめて、丁寧に紅茶を淹れていく。
「ツノ太郎、おまたせ」
 すべての準備を終え、トレイにカップとケーキを乗せて庭に戻ると、ガーゴイルが見える位置にテーブルセットが設えられていた。周囲には、ふわふわと光の球が浮いて辺りを優しく照らしている。
 マレウスは茨がからみついたような意匠の椅子に腰を落ち着け、ユウを待っていた。
「これ魔法?」
「ああ、夜の茶会というのもよいだろう?」
「うん。素敵だね。ありがとう」
 するするとテーブルから黒い蔓が伸びてきて、ユウが持っているトレイを受け取ってくれる。便利だなあ、なんて呑気に考えながら、マレウスの前にカップとケーキを置いた。
 誰もいないのに椅子がひかれる。魔法の椅子はみずから座る人間を招くらしい。
 ユウは少し緊張しながらそこに腰かけた。硬質そうな見た目だが、思っていた以上に座り心地がよい。マレウスの心遣いに、自然と笑みが浮かぶ。
「これ薔薇の国の紅茶なんだよ。ケーキは私の手作りだけど、よかったら召し上がれ」
「いただこう」
 マレウスがカップを持ち上げ口をつけたのを確認してから、ユウも自分のお茶に手をつける。ふんわりと鼻腔を通り抜ける香りはユウのお気に入りだ。
「よい香りだ」
 もっとよいお茶を普段から飲んでいるだろうに、そういってくれて嬉しくなる。
「よかった! そういえば、ツノ太郎は今もガーゴイル研究やってるの?」
 オンボロ寮のガーゴイルへの熱心な視線を思い出し尋ねてみれば、マレウスが頷く。
「学生のころほどではないがな」
「茨の谷をこっそり抜け出してたりする?」
 今日みたいに。からかうようにそう言ってみれば、どことなく拗ねたような表情を向けられた。
「谷にも興味深いガーゴイルはいくつかある。ただ、城から出るとセベクがひどく心配するので困っている」
「あはは、なんか想像できる」
 きっとあの大きな声で名を呼びながら、城の中を走り回ってマレウスを探しているに違いない。生徒であったころのセベクを思い出し、ユウは笑った。
 そうして、懐かしい思い出話に花を咲かせ、二杯目のお茶を飲み終わったころ。 
「ところで」
 ケーキをもうひとつすすめようかどうしようかとユウが考えていると、マレウスが首を傾けて言う。
「さきほど元気がないようにみえたが、どうかしたのか」
「!」
 思わず肩を跳ねさせ目を見張ったユウの仕草を、マレウスが見逃すはずもない。
「海の気配がするな。オクタヴィネルの人魚たちに何かされたか?」
「えっと、その、」
 なんでわかったのか不思議だ。マレウスのところまで走ったときには笑顔であったと思うし、いまだって楽しくおしゃべりしていたはずなのに。
 口ごもったユウを促すように、マレウスは明るい橄欖石色をしたその瞳を静かに向けている。
 ユウがしゃべりたいと思うまで、待っていてくれるつもりらしい。
「実は――」
 本を読むような穏やかな速度で、ユウは言葉を紡ぐ。
 こちらの世界にきてから、再びアズールたちと会ったこと。
 彼らには記憶がなかったが、あの頃のように親しくしてくれたこと。
 だけど、それは目的があったからこその行いであったと、最近知った。
 どうやら、あの頃と同じくこのオンボロ寮の土地と建物が欲しいらしい。
「なるほど。それで、近々オンボロ寮から出る心づもりだと告げてきたばかりだった、と」
「……うん」
 素直に頷くと、マレウスが目を細めた。
「前に僕はおまえに言ったな? 行くあてがないなら、茨の谷にくるといい、と」
「……」
 行くあてがないわけじゃない――そうアズールたちに告げた自分の言葉を思い出す。
 実のところ、その心当たりとは茨の谷のことだった。
 だって、ユウのことを覚えているのは学園長とリリア、そして今、目の前にいるマレウスだけ。友として手を差し伸べてくれるは、マレウスしか思い当たらなかったのだ。
 どうやって連絡をとろうかと思っていたところの訪問は、ユウにとって渡りに船である。これもまた縁なのだろう。
「でも人間じゃなくなるっていうのは、ちょっと困るかなって」
「住み始めてすぐにヒトでなくなるわけではないぞ。ある程度の年数をかけて、作り変わっていくのだ。まあ、心配ならば僕の加護を授けてもよい」
 リリアの口ぶりから、すぐに得体のしれない何かになってしまうのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「そうなんだ? そんなことできるなんて、ツノ太郎すごい」
 子供のような拙い賛辞だったが、マレウスの心には響いたらしい。ふ、と少年のような得意げな表情が浮かぶ。
「おまえならば、谷での暮らしにもすぐに慣れよう。シルバーやセベクとまた友となることもできよう」
「そうかな? また、仲良くできるかな?」
「ああ、きっとな」
 マレウスが、瞳を煌めかせて妖しく微笑む。
 くらり、とその美しさに意識が揺さぶられる。このまま、彼の優しい誘いにのったなら、きっとなにもかもうまくいく。そんな気がした。
 自分は住む場所を得て、アズールたちは利益を得ることができる。学園長だって、ユウが事情を話せば許してくれるだろう。
 少しばかり痺れるような感覚のある思考で、そんなことを考える。
 世界に名を轟かせる魔法士にして、妖精たちを束ねる竜の王が、その笑みを一段深くする。魅入られたように、視線が逸らせない。
 ユウは花に止まった蝶のように、ゆったりとしたまたたきを繰り返す。
「茨の谷にくる心積もりはできたか?」
 甘い蜜のような声音が、こちらの決定を引き出そうとしている。
「……ツノ太郎、私……」
 茨の谷にいく、と続けようとした言葉が、途切れる。
 風を切る轟音と土を抉る衝撃音に掻き消されていく。
 ユウは自分とマレウスの間を疾走していった何かの気配に、声なく驚くしかない。
「ひ、ひぇ……」
「……」
 ようやく震える声を出して、そろそろと庭の隅に目をやれば、隕石でも落ちたのかと思うくらい、地面が抉れていた。中央には小さな水たまりができている。当たっていたならただではすまなかっただろう。
 マレウスの無事を確認しようと視線を向ければ、あからさまに気分を害したといわんばかりに柳眉を寄せている。
 怒りか驚きかはわからないが、燐光を灯したようにその瞳がなにかを睨みつけている。
 その視線の先を追いかけるように同じ方向に顔を向ければ、そこには杖を携えた男がいた。蛸を模した銀の杖が、剣呑に光を弾いている。
「許しませんよ、そんなこと……!」
 地獄の底から響いてくるような声に、一瞬別の人物かと思いかけたがそんなわけない。
「えっ? ア、アズール先輩?」
 戸惑いながらもよくよくみれば、アズールはなぜかびしょ濡れである。綺麗にセットされていた髪は額や頬にはりつき、高価なブランド物だろう靴の先まで濡れている。
 今宵は無数の星浮かぶ穏やかな夜である。雨も降っていないのに、どうして?
 疑問符ばかりを頭の上に浮かべるユウは、この事態にまったくついていけない。
「久しいな、アーシェングロット。あいかわらず金回りのことばかり気にかけているのか?」
 不愉快そうな表情を消したマレウスが、余裕綽々といったように微笑む。鷹揚な言葉と態度は、まさに王のそれだ。
「マレウス・ドラコニア……!」
「ふふ、何をそんなに怒っている? 僕と人の子が親しくしていたところで、お前には関係あるまい。そも、僕の名を呼ぶことを許してなどいないが?」
 今にも殺しそうな眼力でアズールが吼えれば、極寒の地に吹く風を思わせる冷たさでマレウスが応える。
「ユウさんから離れろ!」
 まったくもってこちらの話を聞こうとしないアズールは、すっかり頭に血が上っているようにみえる。
「妖精の王に命令するか。番のこととなると見境がなくなるのが人魚の悪いところだな。まあよい。すこしばかり遊んでやろう」
 一方、冷静さを取り戻したように思えたマレウスも、血気盛んなことを言い出した。
「ツノ太郎?!」
 なにをするつもりなのかは知らないが、まずい事態になっているということだけはわかる。
 慌てて制止しようとするが、マレウスはあっという間に上空に浮き上がってしまった。
 ふ、と笑ったマレウスが腕を振れば、いずこからか杖が喚び出される。糸紡ぎを模した黒いそれは、するりと彼の手の内におさまり、淡い光をまとう。
「ほうら、これをくれてやろう」
「……!」
 鋭い何かが弾けるような音とともに、マレウスの周りに雷が迸る。それはあっという間に増えていき、やがて複数の槍と化した。ライムグリーンの切先が、アズールを狙う。
「なめるな!」
 杖の石突で大地を鋭く叩いたアズールの背後で、ぐにゃりと何かが鎌首をもたげる。
 どう、と空気を重く震えさせる音とともに敵を刺し殺さんと放たれた槍が、アズールに迫る。
 一撃でも受ければ焼け焦げてしまいそうな雷と、鋭く上空のマレウスを睨みつけるアズールの間に、素早く何かが割って入る。
 それは、オンボロ寮がある土地をぐるりと取り囲む鉄の柵で形作られた、蛸であった。おそらくアズールが魔力で動かしているのだろうけれど、あまりの出来事にユウは頬をひきつらせるしかできない。
 古びた鉄柵でできた八本ある足のうち七本が大地を穿つ。残りの一本が天を指す。
「アズ、っ……!」
 逃げてという言葉も言葉にならない。
 アズールを狙う雷の槍が集束する。ユウが確認できたのはそこまでだ。
 自分ではいかんともできない事象が起きることを察したユウの体が、本能的に目を閉じさせ耳を塞がせた
 形容しがたい大きな音と振動に、ユウは身をすくませる。
 ひ、と息を吐き出しながら薄く瞼をひらけば、無傷のアズールとマレウスが見えた。どちらも怪我をした様子はない。
「ほう。鉄を避雷針にして雷を大地へと逃がしたか。同時に人の子には防御魔法……ふふ、すこしはできるようになったか」
「……防御魔法をかけたのはそちらもでしょう」
「当然だ。人の子は友であり、この寮には興味深いガーゴイルがある。それに、僕にとってはそれくらい造作もないことだ」
「……くそっ」
 かつて授業で習ったことを思い出す。
 魔法を同時に複数発動させることは、よほどの魔力と技術がないとできることではないのだと。
 アズールは鉄の柵を操ると同時に防御魔法をかけてくれたようだが、マレウスは浮遊魔法に攻撃魔法、そして自分とオンボロ寮への防御魔法の三種類を使いこなしたことになる。
 高度な魔法を使うもの同士でしか理解できない会話を繰り広げながら、杖を構えなおす彼らの間に、ユウは慌てて割って入る。そんなことができる実力者同士がこれ以上争えば、ただでは済まない。
「先輩やめてください! どうしてこんなこと……!」
 ユウはアズールの前に飛び出した。
 大きな声で呼びかければ、びくりとアズールが体を揺らした。マレウスに向けていた殺気が霧散し、急にひとまわりしぼんだような気がした。
 おろ、と視線がさ迷う。まるで悪事がばれた子供が親に叱られているかのよう。
「だ、だって……あ、あなた、が……」
「はい、私が?」
 聞いたこともないくらい弱弱しい声だ。
 ユウは「怒っていませんよ」と伝えるように微笑みながら、ゆっくりとアズールに歩み寄る。
「いってしまうと、思って……」
「はい?」
 ただ、言われた内容がちょっと理解できない。どういうことかと首を傾ければ、それがアズールの心を再度かき乱したらしい。
「あなたは僕の番になるべきひとなのに……!」
「!」
 上ずった声とともに伸びてきた手が、ユウの両肩を強く押さえつける。
 驚きに目を丸くして固まったユウを潤んだ瞳に映したあと、アズールはマレウスを睨みつける。
「あの男が! 奪おうとするから!」
「そんなことないです。私と世間話をしていただけですよ」
 子供を宥めるように優しく言って聞かせてみるが、アズールの興奮はなかなか治まらない。
「だって、茨の谷にいく心づもりはできたのかと、あのトカゲが! しかも魅了の魔法まで使って!」
 そんなもの、かけられていただろうか? 魔法の使えないユウにはわからない。でも、マレウスがそんなことをする必要などないはずだ。
「ツノ太郎はそんなことしません」
 きっぱりはっきり否定すると、アズールがひゅうと息を飲み込み、唇を震わせた。
「そんなことありません! あ、ほら、目、逸らしましたよアイツ! ちゃんとみてください! ほら!」
「……」
 すう、と空から地上へと戻ってきたマレウスは、沈黙したまま顔を逸らしている。かといって、それが魔法を使っていた証拠にはなるまい。
「アズール先輩いい加減にしてください」
 うぅ~! と子供のように悔しそうな声を零しながらマレウスを睨んでいるアズールを、めっと叱る。
「な、なんなんです?! アイツに対するその信頼は! ずるいじゃないですか! 僕のことは信じてくれないくせに! 妖精っていうのは可愛くもなければそんな優しいものじゃないんです!」
「ツノ太郎は私の今後を気遣ってくれただけです。お話を中途半端に聞くから勘違いするんですよ。今度からはちゃんと確かめましょうね」
 ぐぐぐ、と唸ったアズールが顔を赤くする。
「……なんであなたにお説教されてるんです、僕?」
「いや、自分のしでかしたことよく考えましょう?」
 あたりをぐるりと見回す。
 クレーターがひとつ。鉄の柵が抜かれてボロボロになった土地の境目。その鉄の柵でできた蛸のオブジェは真っ黒こげで動く気配なし。
 言い訳のしようもあるまい。
「……」
「むくれてそっぽむいてもだめです」
 涙目で頬を膨らませ、プイと顔を横にむけたアズールは、小学生のようである。
「……ふ、ふふふ、あっはっはっは!」
 それまで言葉を発してこなかったマレウスが、これ以上は耐えかねるというように笑いだした。
「ツノ太郎もそんなふうに笑うんだね」
 口を開いて声をあげ、額に手をあてて爆笑する妖精王。これは貴重な場面だろう。セベクがこの場にいたら、あまりのことに意識を宇宙に飛ばしかねない。
「僕を笑わせたお前に褒美だ。王の祝福を授けよう」
 しばらく笑って気が済んだのか、近づいてきたマレウスが懐を探る。
 そうして取り出したものをユウの手に握らせてくる。
 それは小さな糸巻だった。巻きつけられた繊細な銀糸が、虹色の輝きを放つ。
「わあ、きれい!」
「!?」
 素直に感嘆の声をあげるユウとは対照的に、アズールはぎょっとした顔でそれを凝視する。もしかしたら高価なものなのかもしれない。
「これで『繋ぐ』といい。使い方はわかるな? アーシェングロット」
 何もかもお見通しだといわんばかりの顔をして、マレウスがアズールに視線を送る。
「ええ……。この対価は、いずれ必ず」
「そんなものはいい。それよりもよく話すことだ」
「……はい」
 心の底から悔しそうに吐き出すアズールに勝ち誇ったような顔したマレウスは、次にユウを見下ろした。
「人の子よ。アーシェングロットが嫌になったら、いつでも僕を呼ぶといい。そのときこそ、茨の谷に招待しよう」
 さきほどの会話を覚えていてくれたのかと、ユウは微笑む。居場所をいつでも用意してくれるとは、なんて寛容な王様だろう。
 ありがとう、と感謝の意を伝えようとしたユウを、アズールが引っ張って背後に隠す。
「そんなことにはなりません! ……なりませんよね?」
「どうして私にきくんですか」
 振り返って確認してくるので、ユウがそう応えればアズールが頭を抱えた。どうにもアズールの精神状態が安定しないようで、少し心配になる。
 そんな二人をみてまた楽しげに笑ったマレウスが、手を振った。
「ではな。楽しい茶会だった。また会おう」
「うん、また来てねツノ太郎。リリア先輩たちにもよろしく」
 またねーと呑気に手を振り返したユウの目の前で、黄緑色をした光の粒をあとに残し、偉大なる妖精王はあるべき谷へと戻っていった。
 マレウスが帰ってしまった以上、ここにいるのはユウとアズールの二人だけ。
「さて」
 ユウは腰に手を当ててアズールへと向き直る。
「これ、どうしてくれるんですか?」
 改めて周囲をわざとらしく見回せば、アズールが小さな声で、ぼそぼそという。
「撤去と修繕は、します、ので」
「当然です」
「……はい」
 反省していると判断したユウは、ふうと息を吐いてアズールに笑いかける。
「とりあえず、お茶でも飲みましょうか。私、淹れなおしてきます。談話室へどうぞ」
「……はい。失礼します……」
 しょぼしょぼとした様子で、オンボロ寮の談話室に足を進めるアズールの後ろ姿は、濡れた服のせいもあって行き場のない小動物のようにみえた。実際のところは人魚なのだが。
 ユウはマレウスと使っていたカップなどをトレイに乗せて、キッチンへと向かう。
 外での大規模な魔法の発動を感じて寮の奥へと逃げていたらしいゴーストたちが顔を出したので、さきほどの事情を説明しながら、お茶を淹れなおす。
 そうして準備を整えたユウが、これも必要だと考えたタオルを用意して談話室へ入ると、アズールの衣服はすっかり乾いていた。
「服、魔法で乾かしたんですか?」
「ええ。あのままでは部屋と家具を汚してしまうので。……その、ここに来る前に不注意で濡れてしまったのですが、お見苦しいところをお見せしました」
 水たまりも池もないこの寮への道のりで、どうしてそんなことになったのだろう。
 尋ねてもいいけれど、いつもかっちりとした姿を維持しているアズールにそれを尋ねるのはかわいそうだ。やめておくことにする。
 ユウはそれ以上何も言わず、アズールの前にカップを置く。タオルはソファの背もたれにかけておくことにした。
 そのまま隣に少しだけ間をあけて座れば、それを待っていたかのようにアズールが口をひらいた。
「まずは、謝罪をさせてください」
「?」
 どうぞ、とお茶をすすめる間もなく切り出され、ユウは目を瞬かせる。 
「申し訳ありません……ユウさんをオンボロ寮から追い出す計画は、その、本当のことでした」
「やっぱりそうでしたか」
 モストロ・ラウンジで生徒たちが言っていたことは事実だった。
「ですが、今は違います! 僕がいくつもの物件を紹介していたのは、ユウさんによりよい環境で過ごして欲しかっただけです! 店の移転の話はすでに白紙にしました!」
 思ってもみない言葉だった。いつの間にか移転計画は断念されていたらしい。あの生徒たちはそこまで知らなかったのだろう。
「アズール先輩はそれでいいんですか? 私、ちゃんと出ていきますよ? ゴーストさんたちにさえ配慮してくださればそれで」
「いえ、ほんと……それはもう、いいので……もうしわけ、ありません……」
「そ、そうですか」
 今にも死んでしまいそうな虚ろな目をして囁くように謝罪を繰り返すアズールは、別の人間、いや人魚になってしまったかのよう。
 これ以上、寮のことに言及するとアズールがだんだんと小さくなって消えてしまいそうな気がしたので、やめることにする。
「では、私はオンボロ寮からでていかなくてもいい、ということですね」
 ふむふむ、とユウは頷く。
 そうなると茨の谷に厄介になる必要もないし、学園長に話をする必要もない。そのほうが楽なユウにとってはありがたい話だ。
「アズール先輩、冷めてしまいますから、お茶どうぞ」
「いただきます」
 もともと人魚であるアズールにとっては多少濡れたところで寒さに震えるということもなさそうだが、身体を温めて悪いということもあるまい。
 湯気のたつ紅茶をひとくち飲んで、ほう、と息を吐く様子から緊張が徐々に解けてきたようにみえた。
「ええと、ではアズール先輩はそれをいうためにわざわざこちらへ?」
「はい。本来ならば何かしら詫びの品をご用意したうえで訪問するべきところですが、今回ばかりは速さが命だと忠告を受けまして。でも、本当にきてよかった」
 心底ほっとしたような様子のアズールをみて、ユウは首を傾ける。
「なにしろあのトカ――いえ、マレウスさんに攫われるのを阻止できましたから」
 また失礼な呼び方をしかけたものの、何事もなかったように言い直したアズールが微笑みながら紅茶を飲む。
 でもユウは、アズールはまだ納得していなかったのかと、呆れたように眉をさげた。
「ですからそれは誤解で……」
「ごほっ……?!」
 気管にでも水分がはいったのか、アズールがむせた。
 ごほごほと咳を繰りかえしたあと、薄っすらと頬を紅色に染めながら言う。
「まだそんな呑気なことを?! 誤解などではありません! 本当に魅了の魔法をかけられていたんです!」
「でも、たとえそうだとしても、アズール先輩にはなんの関係もないですよね?」
 確かにあの誘いを受けていれば、自分は茨の谷に連れていかれただろう。今頃、ここにはいなかっただろう。けど、それがどうしてあそこまでの怒りに繋がるのか。
 白紙にしたというモストロ・ラウンジ移転計画だって、息を吹き返したかもしれないのに。
「……は?」
 不思議に思ったことを言葉にすれば、アズールの顔から表情が抜け落ちた。
 明るいところで見れば空のような色をした瞳は、今は深く沈み込むような青をたたえている。
 その瞳にじっとみつめられていると、冷たい何かに足先から髪の先まで撫でられていくような心地がした。ぶるり、体が自然と震える。
「関係ない? そんなわけがないでしょう」
 手にしていたカップをソーサーへと戻したアズールの形のよい唇が一度引き結ばれる。
 数秒後、意を決したように開かれるのが、やけにゆっくりとユウの瞳に映る。
「僕は、あなたが好きです。僕の番にしたいと思っています。他の雄に奪われるなど許せません。相手が茨の谷の王であっても容赦はしない」
 抑揚なく一息にそんなことをいうアズールに対し、ユウは石膏像のように固まった。なんだかとても、自分に都合のよい告白をされた、ような。
 ああ、今日は驚くことばかりだ、と頭の中の冷静な部分が他人事のようにつぶやく。
「以前、植物園で会った日、モストロ・ラウンジにご招待しましたね」
 衝撃の波に飲まれ流されながらも、かろうじて頷く。
「そのとき、恋しい人がいる、と僕は話しました」
 そう。だから自分は、初恋に別れを告げた。ずっとずっと好きだったあなたへの恋をあきらめた。だって、あなたには幸せでいてほしいから。あなたに纏わりつく邪魔な存在になど、なりたくなかったから。あの恋は、綺麗なまま終わらせたかった。
 知りたくない。教えてほしくない。アズールの心に居場所を得た人のことなんて。
 でも、声はでない。ひく、と喉が震える。正しい呼吸を意識的にしなければ、息がだんだんと細くなって窒息してしまいそう。
 ふいにアズールの綺麗な手が伸びてきて、細い指がユウの頬にそっと触れた。
「その人は、夢の中だけで会える人でした」
「……ゆめ?」
 幼子のように繰り返せば、慈しむようなやわらかさでアズールの瞳が細くなる。
「学園を卒業して、しばらくしてから見るようになった夢でした。離したくない、そばにいたいと心から思うのに、顔はみえず、声もきこえず――僕はずっと、その人が誰かわからないまま過ごしてきました」
 現実にいるかいないかさえわからない人に、アズールはずっと恋をしていたということだ。
 思ってもみなかった相手の正体に、ユウは目を見張る。
「その夢をみないようにできないかと思ったこともあります。でも、それは僕が忘れた恋心がみせる幻なのだと知り、諦めました」
 人魚の恋は一途だという。それなのに、記憶にないなんて。それはなんて、悲しいことだろう。
 と。
 そこまで考えて、ユウは何かこの流れに対する違和感のようなものを覚えた。
 今ここで、アズールが恋しい人の話を話す意味は? 自分に好きだといっておいて、どうして?
「僕は、この心に恋という感情のかたちを刻み込んで、いなくなってしまった誰かをずっと求めていた」
 まさかと思う心と、そんなわけないと思う心。期待が胸の奥を強くたたき、血潮は勢いよくユウの体をめぐり始める。じんわりと熱を帯びた耳が、目の前の人魚の言葉を待つ。
「そしてようやく、みつけました」
 青い瞳にこれ以上ない愛しさをこめて、アズールが告げる。
「あなたが、僕の恋しい人だ」
 そのひとことが、ユウの身体を痺れさせた。ああ、と吐息だけが零れる。湧き上がる喜びをなんと伝えたらいいのだろう。
「いまもむかしも、これからもずっと。過去に何があったかはわかりません、きっとこれからも僕は思い出せないでしょう。でも、僕にはあなただけだ。忘れたって何度だって、かならず恋をする」
 だから、ねえ、と人魚が深い海中から歌うように囁く。海の上にいる何かを惑わせるように、甘く優しい声が囁く。
「ユウさん、僕と結ばれてください」
 アズールはマレウスが魅了の魔法を使っていたというが、今はアズールが使っているのではないだろうか。くらくらと意識が揺れる。
「身も心も魂さえも繋げて結んで、これからの時間をともに生きて」
 お酒を飲んだときのような酩酊感をこらえるように、額に指をあてようとしたとき。
 距離を詰めてきたアズールの手が、ユウの顔を挟み込むようにして掴んできた。
「痛っ……!」
 想定していなかった痛みに、顔を歪めたユウの目をそらすことを許さないとばかりにアズールの視線が貫いた。

「そして――僕と一緒に死んでください」

 本気の言葉だ。さすがのユウにも、それぐらいわかる。命がけの願いを、間違えたりしない。
「あなたが死ねば僕も死ぬ。僕が死ねばあなたも死ぬ。そんな魔法をかけましょう」
 重なる言葉が、ユウをゆっくりと締め上げていく。
「そうすれば僕は、二度とあなたに取り残されることはない。忘れることもない!」
 これまで感じた絶望がそうさせるのだろう。アズールが悲痛に叫ぶ。
「ねえ、ほら! 最高でしょう?! だから、だからっ」
 受け入れてくれますよね? と、アズールがユウに迫る。その目の瞳孔は人のそれではなくなっており、すっかり開ききっていた。
 問いかけの形をかろうじて保たせているが、アズールからは肯定しか許さないという気迫を感じる。
 熱のこもった息を吐きながら、ユウは思う。
 なんて、熱烈な求愛の言葉だろう! まさか記憶のないアズールにこんなに想ってもらえるなんて想像すらしていなかった!
 この世界でもあちらの世界でも、これほど自分を求めてくれる存在はいない。
 うっとりと顔を蕩けさせ、アズールの手に己の手を重ねて頬を密着させる。
「でも、それでは私がもらいすぎです」
 魔法士として秀で、経営者としての手腕も確かな人魚を、自分のような人間に縛り付けるなんて、烏滸がましいことではないだろうか。
 いつか罰があたりそう。そんな不安にユウが瞳を揺らせば、何をいっているんだとアズールが顔を歪める。
「僕をここまで夢中にさせた人が何をいっているんですか。これは僕があなたを手に入れるために払うべき正当な対価だ」
 苦しそうに、でもどこか恍惚とした様子で、アズールはユウの額に自分のそれを押し付ける。
「人魚の恋を、人魚の愛を、あなたはなにもわかっていない……」
 ユウにだけきこえるような囁きが、どうしようもなく心地よい。さよならを告げた初恋の痕が、甘く疼いてむず痒い。
「アズール先輩」
 肌を触れさせ互いの体温を交わらせながら、ユウは問う。
「私は人間なので、人魚である先輩ほど長生きできません。それでもいいんですか?」
 こんな確認をするなんて、あなたの申し出を受け入れるといっているようなものだ。少し気恥ずかしいが、大事なことだから我慢する。
「僕と……僕と結ばれる、ならっ……あなただって長生きしますよ……、っ、」
 ぽたぽたと大粒の涙を零し、嗚咽に肩を震わせて、アズールは優しい回答をくれた。
 ふふ、とユウは笑う。きっと健康面でも万全の態勢を整えてくれることだろう。
 触れたままだった額を離し、ひっくひっくとしゃくりあげ子供のように泣くアズールの顔をのぞきこむ。
「私は、あなたへ恋をしてもいいですか?」
「ええ。どうか、あなたも僕にもう一度恋をして」
 いままでに見たこともないくらいアズールが美しく微笑む。
 そのまま唇を寄せてきたアズールを、目を閉じることで受け入れて、ユウは了承の意を返す。
「ユウさん、ユウさん……!」
 触れるだけのキスをして、感極まった声で名を呼びながら、強く強くアズールが抱きしめてくれる。
「これからは先輩とずっとずーっと一緒に生きていけるんですね」
 広い背に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめ返してユウは笑う。

「いつか一緒に死んでください!」

 声音明るく念押しすれば、無言でアズールが何度も頷く。どうやら言葉にならないらしい。
 長年の恋をようやく取り戻して泣き続ける可愛い人魚に、ユウはそっとくちづけを贈る。
 これでこの美しいひとは、私のもの。
 交わした約束のとおり、いつか一緒に果てるときまで。

「……あれ?」
 いつもと違う感覚に声をあげた次の瞬間、見たことのある場所にユウは立っていた。
 そろりとあたりを見回せば、埃をかぶった民芸品や骨董品のたぐいが無造作に並んでおり、隣の部屋へと続く扉は開きっぱなしになっている。
「ええっと」
 ひとつひとつ、確認するように順繰りに思い出していく。
 高校生になりたての頃に迷い込んだツイステットワンダーランドを再び訪れたユウは、クロウリーに保護されて学園で雑用係として働きだした。
 そのうち、初恋の人であるアズールと再会したが、ちょっとした勘違いから失恋したと思いこんだ。アズ―ルもユウのことを覚えていなかったため、それ以上の発展はないはずだった。
 だがその後、大きな回り道をしたものの、最後にはお互いの手をとることができた。
 アズールとお付き合いをはじめたこと、いずれは結婚することを伝えたときのクロウリーが悲鳴交じりに叫んだ「応援はしていましたが展開がはやすぎます!」という言葉は、いまでもありありと思い出せる。
 ジェイドもフロイドも祝福してくれた。さんざんに揶揄われたアズールが、真っ赤な顔してウツボたちを追いかけるさまには笑ったものだ。
 あとは、マレウスがひょこりと遊びにきたところに、セベクが追いかけてきて学園内で大ごとになったり。
 マジフト大会での売り上げが当初の目標を大幅に超えて大成功し、アズールの高笑いがモストロ・ラウンジに響いたり。
 ユウの仕事は相変わらずで、学園内で用務員兼雑用係として仕事を続けている。アズールはいい顔をしなかったが、代わりの用務員がみつかるまでとクロウリーに頼み込まれれば断れなかった。
 もちろん昨日だって仕事をしていた。ウインターホリデーの前日に、生徒のみんなを闇の鏡から故郷に送り出したのだ。名簿と生徒をチェックするのは大変だった。
 もちろんユウだって今日からホリデーだ。アズールのもとに行くつもりで、彼がオンボロ寮に設置してくれた、彼の家にだけ繋がる鏡を通り抜けたはず、だったのだ。
 どこに、元の世界に戻るきっかけがあったという?
「あ」
 ユウは、思い出したとばかりに声をあげる。
 そういえば、あの日から一年たったのではないか?
 もしかして二度目の異世界への旅は、期限付きであったのでは?
 ああ、と息を吐き出し、もう一度室内を見渡して肩を落とす。
 となれば間違いない。ここはユウの生まれた世界だ。
「もどってきちゃったのか……」
 時間の感覚が狂いそう。なんて苦笑いしながら、ユウは己の左手を撫でる。
 だって、今度ばかりはあの世界が夢ではないと絶対の自信をもって言える。左手の薬指に絡みつくような銀に輝く指輪が、現実であったことを証明してくれている。だから落ちついていられる。
 室内は、一年前とさしてかわりがないように思う。そういえば、自分が落っこちた鏡はどこだろうと振り返ると、あの日、ユウが磨いたまま、それはそこにあった。
 ひょいと覗き込む。そこに映るのは、自分の顔だけだ。
 
 ――綺麗にしてくれて、ありがとう

 ふいに、そんな声なき声が、聞こえた気がした。
 目を丸くしたあと、ユウは小さく微笑んだ。
 ああ、もしかして。
「あなたが私を連れて行ってくれたの?」
 あの場所へ。忘れられない恋しい人がいる世界へ。
 その力が尽きたから、私は戻ってきたの? その疑問に答えるものは誰もいない。
「こちらこそ、ありがとう。おかげで、私は幸せになれたよ」
 物言わぬ鏡を優しく撫でてから、ユウは頬に手を当てる。
 もしかしたらこれは、魔法の鏡なのかもしれない。アズールならばわかりそうだ。
 そういえば、アズールはどうしただろう。いつまでも来ない恋人にやきもきしているだろうか。それとももう、自分が元の世界に戻ったことを察知しているだろうか。
 でも、なにも心配はしていない。
 だって、アズールは、結ばれた私のもとへ必ず来てくれる。世界の壁をこえ、世界の理さえ捻じ曲げて。
 もう一度、虹の光を弾く銀の指輪を撫でる。
 これは妖精の王がくれた銀糸を束ねて作られた、唯一無二の品である。
 実は、オンボロ寮前庭半壊事件を起こしたあとにマレウスがくれた糸巻きは、それはそれは貴重な魔法道具であったらしい。
 アズールが確立させた魂さえも結ぶ魔法の要となるにふさわしいものであり、おかげさまで無事に魔法は成功した。持つべきものは友であると、ユウはつくづく思ったものだ。
 指輪はその残りで仕立てられており、もちろんアズールもこれと同じものを肌身離さず身に着けていてくれる。
 身も心も魂さえも結ばれた相手がいるという証。だからなにも、恐れることはない。ユウは待っているだけでいい。
 とりあえず現状を確かめよう。この世界で時間の経過がわからない。さすがに数年経っているということはないと思うのだが。
「!」
 鏡に背をむけ、開け放たれた扉に歩き出そうとしたユウを、ぐっと後ろにひきよせるなにか。
「あ、はやかったですね」
 自分でも呑気すぎたかなと思う声に、呆れた溜息が応える。
「いや、あなたねえ……本当に帰るひとがいます?」
 ぬるり、と背後から伸びてきた腕に全身を絡め取られたユウは、力を抜いて頭を預ける。彼の好むコロンの爽やかな香りに目を細める。
「そういわれましても、こればかりは私の意思でどうにかできませんよ。残念ながら魔力なしの平平凡凡な人間ですし」
 笑いながら彼の腕を優しく叩き、すこし力を緩めてもらう。体と首をひねって後ろを向けば、どこか疲れた様子のアズールの顔がそこにあった。
 無理をさせてしまったのかもしれない。でも、そうまでして追いかけてきてくれたことが、たまらなく嬉しい。
 彼の周囲には、魔法の名残か、きらきらと銀色の光の粒が舞い踊っている。どこかでみたことがある気がするその光に、懐かしさと愛おしさを感じながら手を伸ばす。
 自分より少しばかり低い体温を伝えてくるなめらかな肌におおわれた頬を、愛おしさをこめて撫でる。
「嘘を囀るのは可愛いこの唇ですか?」
 そういいながら、柔らかに口づけられて、くすぐったさに首をすくめる。
 ちら、と近くにある鏡を一瞥したアズールが、なにか納得したように「ああ、これはこれは」と呟いた。
 ユウを離し、アズールはその鏡をしげしげと見つめる。
「変わったモノに好かれやすく懐かれやすいなんて困った体質だ。僕の魔法で治せるか、後々試してみましょう」
「そういうのって、治らないのでは?」
 生来もって生まれたものは、治す治さないの範疇ではない気がする。
「はあ、あなたが僕と結ばれていなかったらと思うとぞっとします」
「でもまあ、こうして先輩だってこちらに来られたんですから、いいじゃないですか。なんかもう、異世界ってご近所感覚ですよね」
 アズールが、肩をすくめて頭を振る。
「……なんて楽天家なんでしょう。やはりあなたには僕のような番がいなければ、早々に死んでしまいます。まったく、手のかかる方だ」
 仕方がない仕方がないといいながら、それでも嬉しそうにしているのだから、この人魚もたいがい自分に参っていると思う。
 ユウは、にんまりと笑って見せる。
「でも、そういう私が好きでしょう?」
「ええ、ええ、好きです大好きです愛していますとも。僕のただひとりの番。ああ、……魔法がきちんと働いていて、ほんとうによかった……」
「迎えにきてくれて、ありがとうございます。とっても嬉しいです、私の頼りになる番さん」
「!」
 綺麗な形をした耳が、熟れ落ちそうなくらい真っ赤になっていて、それが彼の心のうちを伝えてくれてたまらなく愛おしい。
「ま、まあ、これも都合がよかったというものです。せっかくこちらにこられたのですから、ユウさんのご両親にごあいさつしていくとしましょう!」
 急に声を張り上げるのは、心から照れているからだろう。ああなんて可愛い。
「それいいですね! お父さんとお母さんに結婚しましたっていったら驚くだろうなあ」
「式はあちらとこちらで二度挙げるのもいいですね。こちらの民族衣装……キモノでしたか? それを着たユウさんがみてみたい」
「え、いいんですか?! やった!」
 それならば、アズールには紋付き袴を着てみてほしい。なんでも着こなす彼ならば、きっと誰しもが視線を送るほどの格好いい素敵な花婿となるだろう。
 未来の話に花を咲かせていると、扉から小柄な人がひょこりと顔をのぞかせた。
「ユウちゃん?! どこいってたの探してたんだよ?! あ、……えっと、その人は?」
 すっかり思考から抜け落ちていたが、そうだった。引っ越しのお手伝いは、トモちゃんと一緒にきていたのだ。彼女がいるということは、時間はさして経っていないらしい。
「あ、ええっと……」
 さて、なんといったらいいものか。
 少しばかり思案して、ちらりとアズールを見遣れば、どうぞいって差し上げなさいとばかりにドヤ顔で微笑まれた。
 それをみたユウは「まかせてください!」と頷く。
 ぎゅうっとアズールの腕に抱きついて、ふたつの世界をまたにかけ最高に幸せな未来を約束された花嫁は、晴れ晴れと笑う。

「素敵な旦那様と結ばれに、ちょっと異世界そこまで!」