何気ない問いかけに、フレイはしばし考える。
「去年の一大ニュース? そうだなぁ――セルザが帰ってきてくれたこと、かなぁ」
小さな笑い声を転がしながら、ほろ酔い気分でフレイはこたえた。
はじまりの森のさらに奥。ルーンがうまれるところ、原初の場所。セルザがたったひとりぼっちでいたルーンプラーナの最深部から、このセルフィアの町にやってきてはじめての友達を、連れ戻せたこと。
守り人の皆や、町の皆にもたくさん心配をかけたけれど、為し得た喜びはかけがえのないものだ。
そのときのことは、なにもかも鮮明に思い出せる。
目をやれば、本来なら神聖なる竜の間の中心で、町のみんなに囲まれて笑うセルザがいる。
その嬉しそうな笑い声や表情をみるだけで、あの苦労など軽いものに思えるのだ。
竜の間の片隅、本日の新年を祝う集いに参加するものたちのために用意された丸テーブルを取り囲む女子――いわゆるパジャマパーティに参加しているいつもの面々――が、あるものは不満そう唇を尖らせ、あるものはがっかりしたように肩を落とす。
「ええっと、それはもちろんそうだけど! ほら、フレイさんにはもうひとつあるじゃない!」
並べられた豪勢な料理を囲み、あれこれとガールズトークに花を開かせていたこの女子テーブルの雲行きが、なんだかあやしくなってきた。マーガレットが、「ほらほら!」とせっついてくる。
「ええっと、それは……うん、ある、けど……」
「だよね! 結婚したことも大ニュースでしょ?」
「でもそれはほら……自分のことだからなにか違うかなって思って」
ほわ、と酔いからだけではない熱に頬を染めて、フレイは曖昧に笑う。ちら、と視線を送れば、数テーブルを隔てた向こうに、厳しい顔つきの青年がいる。
特徴的な耳をもつ、湖の色を映したような青く長い髪をした――想いを交わし神の前で愛を誓い合ったフレイの夫、ディラスだ。どうやら酔いのまわった友人たちに、フレイと同じようにつかまってしまったらしい。
そこまで熱心にみつめていたつもりはなかったが、どうやらフレイの視線に気付いたらしい。
琥珀色の瞳が、フレイを射抜く。そして、ふわりと和んだ。
「……!」
きゃぁ、と風渡る湖の漣のように、少女たちの色めいた声がざわめく。
それはディラスの淡い笑顔にときめいたとかそういうものではない。
「みたみた? あのディラスがフレイさんをみて笑ったよ!」
「ばっちりみたが! あんな顔もできるとは知らなかった……」
マーガレットとシャオパイが、なにか重大事件でも起きたかのように、顔を寄せ合い囁き合う。
「ま、まったく、た、たた、たかが夫婦になったからといって、あん、あんな……!」
「いいじゃないですか~。幸せそうで、うらやましいです~」
今にも「破廉恥です!」と、叫びだしそうな生真面目騎士フォルテを、まあまあとクローリカが宥める。まあ確かに、夫婦になった二人に破廉恥はいささか的外れだ。
「ええっとー、ディラスくんは、フレイちゃんに色ボケしてるの?」
「……どこでそんな言葉覚えたの? あんまりエルミナータのいうことばっかりきいちゃダメよ。それに他人の恋愛なんてどうでもいいでしょ」
「まあ! ルーちゃんったら、ほんとうはフレイさんたちのことに興味深々なのに――ふぶっ」
「黙りなさい」
一番お酒を飲んでいるはずなのに、まったく酔うそぶりのないコハクの言葉を諌めていたかと思えば、余計なことを口にしかけたピコにお札を投げつたドルチェの手つきは鮮やかきわまりない。
「あは、あはは……」
樹上に集う小鳥たちよりもなお賑やかに囀りあう少女たちの目が、一斉にフレイに向けられる。
「で、実際のところどうなの? ディラスが旦那さんてどんなかんじ?」
きらっきらとしたマーガレットの瞳に、フレイは押し黙る。それをどのように解釈したのか知らないが、シャオパイが訳知り顔で頷いた。
「いやいや、いわなくてもわかるが! どうせ、フレイの心がわからないままうっかり過ごしているに違いない!」
「だよね、ちょっと乙女心とかに気付かなそうだし」
「……」
盛り上がっているマーガレットとシャオさんには申し訳ないのですが、それは違います、なんて、とてもじゃないが言える雰囲気ではない。
こくり、とハチミツ入りの果実酒を飲む。
実際は違う。ディラスはフレイのことを気遣ってくれる。なによりも大切にしてくれて、それでいて――激しい。
自分の上で揺れるディラスの身体、せつない吐息、肌の熱さ、とろけるような微笑み。どれも普段のディラスからは想像ができない。
ぶわ、と押し寄せてきためくるめく夜の営みの記憶に、一瞬むせそうになるが、フレイはそれを何とか堪える。
げほこほと小さく咳払いするフレイをよそに、少女たちの会話は勝手に盛り上がっていく。
「うーん、私には想像つかないですね……」
「毎朝、フレイちゃんにお弁当作ってあげてるみたいですよ~」
「へぇ、まめね。やるじゃない」
「いいなぁ、ディラスくんのごはんってとってもおいしいよね」
厳しい顔つきで眉間に皺を寄せるフォルテ、のんびりと笑って夫婦の朝のやりとりを報告するクローリカ。それに少し驚いた顔をするドルチェの横で、フレイちゃんがうらやましいの、とコハクが笑う。
「でも、あんなに奥手なディラスじゃねー、キスもまともにしてくれないんじゃないのかなって心配だよ。ねー、フレイさ、ん……?」
「……」
黙り込んでひたすらお酒を飲んでいるフレイに、全員の視線が集まる。
「え、あれ?」
その様子に、マーガレットの顔がひきつった。
ああどうしよう。ここからディラスのあれこれを尋ねられたら……彼女たちから逃れられる自信がない。脳内に溢れかえるディラスとのキスの思い出に、顔から火が噴きだしそうだ。
だが、そんな考えは杞憂に終わった。
「ああもう! やっぱりディラスってばそうなんだね?! 奥さんにキスのひとつもできないとかだめじゃない!」
「え?! あの、えっと、ちが……」
なんだか違う方向へとひときわ色めきたったマーガレットに気おされて、もごもごとフレイが口ごもっているとシャオが、腕組みをした。
「まあ、むっつりすけべっぽいからな。奥手にもほどがあるが」
うんうんと頷く本人は格好つけているつもりなのかもしれないが、やたらと可愛らしい仕草でそんなことをいわれても……もっともらしいことをいうシャオに、フレイは乾いた笑い浮かべた。
かとって正しい方向に訂正すると、墓穴を掘りそうで言えそうにない。夜のディラスとの秘め事を言葉になんてできやしない。
「あはは、シャオさん誰に吹き込まれたんですか」
どうせ誰かに言われたことをあまり意味も分からず言っているのだろうと思いつつ、話題転換の意味も込めてそういってみる。きょとん、とシャオが目を瞬かせた。
「レオンさんがそういっていたが?」
案の定だった。
「まったく、あの人は……! は、破廉恥です!」
顔を真っ赤にしてテーブルを拳で叩くフォルテは、今ここにレオンがいたならば斬りかかってしまいそうな迫力だ。
「だ、大丈夫! 私たち、ちゃんと夫婦やってるから!」
憤るフォルテからテーブルの料理を守るためにも、フレイは慌てて否定した。
「ディラスこと庇わなくてもいいんだよ?」
マーガレットが麗しい顔を曇らせてそんなことをいう。
どれだけディラスって恋愛方面での信用がないんだろう……。
だけどまあ、町の住民を巻き込んだあのプロポーズ騒動を思えば、フレイはそれも仕方ないのかなぁと納得せざるを得なかった。
こほん、とわざとらしく咳払いをすると、皆が神妙な顔をする。彼女たちを安心させるよう、フレイはにっこりと笑う。
「ほんとだよ、ディラスはとっても素敵な旦那様だよ。それに、一緒にいられるだけで、私は幸せなんだから!」
「フレイさん……」
ぎゅ、となにが心に響いたのかよくわからないが、感激したように目を潤ませたマーガレットが手を握ってくる。
「でも、なにかあったら、ちゃんといいなさいよ」
「そうなの。いつでもフレイちゃんの力になるからね~」
横手からドルチェが身を寄せてくる。反対側からはコハクが腰にまとわりついてくる。
やわらかに抱きしめられながら、視線を送れば他のみんなも優しい瞳で見守ってくれているのがわかった。
「うん……、ありがとう!」
うんうん、と深く頷きあう女友達に囲まれて、フレイはもう一度、花がほころぶように微笑んだ。
宴のあとはどこか物悲しい。
楽しかった熱気が遠ざかるにつれて、フレイはそんな感情を胸に抱く。独りで歩いて帰る独りの部屋は寒いから、余計にそう思うのかもしれなかった。
だけれど、それは過去のことだ。
今は、そうじゃない。手をのばせば届く場所に、大好きな人がいる。
見上げるほどの高い背と長い髪、凛々しい横顔。こっち向かないかなと思った瞬間、琥珀色の瞳がフレイの視線に気付いてくれた。不思議そうな顔は幼げで可愛い。
「なに笑ってるんだ」
「うーん、ふふ、ふふふ」
どこかふわふわとした気持ちに誘われてしまったのか、いつのまにやら笑っていたらしい。
「酔ってるのか?」
「そうなのかな? すごく気分がいい感じなんだ……でも、だいじょうぶだよ?」
「あやしいもんだ」
竜の間から我が家である城の一室へと続く回廊を肩を並べて歩いていく。景色がふらふらとしているが、歩けないほどではない。ああでもこれは、酔っているのかもしれない。
「で、あいつらとはなんの話をしてたんだ?」
「んー……ディラスのこと」
「やっぱりか」
素直に白状すると、ディラスの眉間に深い皺が刻まれた。ころころとフレイは笑う。あまりにも予想通りの反応だったから。
「皆がね、ディラスは奥手だから結婚してからもキスもまともにできてないんじゃないかって」
「……」
他にもいろいろ言われていたが、そこは割愛だ。
なんとなく察するものがあったのか、無言になったディラスが、いつの間にか到達していた扉に手をかける。
ありがとう、とお礼を言って、音もなく開けられた隙間から二人の家へと身を滑り込ませた瞬間――抱きしめられていた。
回廊にともされていた灯りの光が遠ざかる。ゆっくりと閉じられた扉が、二人を包む闇を呼ぶ。
ディラスの匂いを胸いっぱいに吸い込んだフレイは、小さな声を漏らしながら甘えるように頬を寄せた。大きなディラスの手のひらが、フレイの頭から背中を確かめるように降りていく。
「で、なんて言ったんだ?」
「ん……私たち、大丈夫だよ、って……ぁ、ディラス……?」
ゆっくりと腰を撫でられる。その触れ方に身に覚えのあるフレイは、思わずディラスをみあげた。
もうすでに劣情に揺らめく瞳が、フレイをじっと見下ろしてくる。きゅう、と胸が苦しくなる。
「嫌か……?」
「あん、……ううん……いい、よ」
スカートの裾を潜り抜け、ふとももに触れられる感覚に、フレイは喘いだ。そんな目を向けられて、断れるわけがない。ずるい。
竜の間とは扉ひとつと回廊一本。近くにまで誰かがきたら、なにをしているかすぐに知られてしまうだろう。もしかしたら、耳のいいセルザにはすべて聞こえているかもしれない。
でも、それでもいい。今は、ディラスと肌を重ねたい。
「私、……はぁ、ぅ……」
慣れた手つきでディラスがフレイの衣服を優しく剥いでいく。空気に触れて寒いはずなのに、すこしずつ熱をおびていく肌はそんなこと気にも留めない。絡み合う二人の周りだけ、気温が高くなっていくようだ。
「ん、皆と話していて、こんなディラス……、私しか知らないんだって思ったら、ん、……ぁ」
暗闇で琥珀色の瞳が煌めいている気がする。暗闇で食べられる草食獣にでもなってしまった気分で、フレイはディラスの身体に縋った。
「な、なんだか、あの、ね……いろいろ、思いだしちゃって……」
「たとえば?」
すぐ近くで囁かれた低い声が、フレイの鼓膜を震わせる。ぞくぞくと、背の痺れが足先まで下りていく。
「ディラスからのキス、とか……――ん、」
言葉にしたとたん、深く口づけられた。上あごを擽る舌先が、フレイのどこもかしこも可愛いというように口内を辿って離れていく。
「ほかには?」
ちゅ、と濡れた音を追うように甘く掠れた声が重ねて問う。
「優しく、触ってくれること、とか……は、ぁ……!」
きゅ、といつの間にか衣服からこぼれていた乳房の先端に、ディラスの指がかかる。走った衝撃を和らげるように、ゆっくりと手のひら全体を押し付け、指先が肌に沈み込むと、しびれが背筋を擽っていく。
こういうことに、本当はなかなか積極的になれないのがディラスだ。皆の知っているディラスだ。
でも、そういうことを微塵も感じさせないような情熱で自分を求めてくれるのもまた、本当のディラス。
しかし、それを知っているのは、世界で自分ただ一人。その優越感が、フレイの身体の熱をあげていく。
「あ、んぁ……!」
柔らかくほころび濡れた下着の奥を暴くように、ディラスの長い指がフレイを追い詰めていく。
ぶるり、と半裸の身体を震わせて、フレイは崩れ落ちないように壁に背中を預けた。
「でぃら、すぅ……」
「フレイ、フレイ……」
降る唇はただひたすらに優しく、フレイの身体をさらに熱くする。
自分の胸にうずもれるように、心臓の真上にと口づけを落としてくれるディラスの長い髪を震える指先に絡め取りながら、フレイは「あいしてる」と甘い溜息を零した。
気怠さをなんと追い払いながら、フレイはゆっくりと瞼を開く。
一つだけ灯されたランプのあえかな光に、目がゆるゆると馴染んでいく。家の中はほぼ暗闇だ。まだ夜明けは遠い。
視線だけを動かす。みえる範囲にディラスはいない。
一抹の寂しさを覚える。どこかにいくはずがないのにおかしいなぁ……、と、ぼんやり考えながら身じろぎしようとして――動けないことに気付く。
「……!」
そういえば、背中があたたかい。いくらベッドの中とはいえ、あたたかすぎる。シーツの下で見えないけれど、動かせないフレイの足には、長いものが絡みついている。耳を澄ませば、安らかな寝息が頭上方向から聞こえてくる。どれもこれも、よく知っている。馴染みすぎていて、すぐには気づけなかっただけ。
そこにいたの――ふふ、とフレイは小さく笑った。
どうやら、ディラスに後ろから抱きしめられる格好で、眠っていたようだ。
安堵の息をついたところで、ふいに脳裏をかすめたのは、おそらく数時間前のこと。
かぁ、と眉を下げてフレイは頬を赤らめる。
自分も結局許してしまったけれど、家の入口付近で、もしセルザにきかれていたらと思うと、恥ずかしい。明日、どんな顔をしたらいいのだろう。
でも、欲しかった。自分を求めてくれるディラスの秘められた、自分だけが知るその情熱に身を委ねたかった。
「ん……ふれ、い……」
フレイには身じろぎすることすら許さないとばかりにくっついているくせに、ディラスのほうは寝言をもらしながら擦り寄ってくる。
さらり、その拍子に動いたシーツの向こうから現れたのは、互いの左手。ディラスの手が、しっかりとフレイの手に重ねられている。
そこに光るのは、ディラスがくれた指輪と、フレイがディラスのためにとつくった指輪。淡いランプの明かりに、それは浮かび上がるように輝いた。
くす、とフレイは笑う。幸せすぎて、なんだかおかしい。笑い転げたいところだけど、それはできそうにない。
この腕の中がこの世で一番の場所。ここに巡り合うために、自分はこのセルフィアに落ちたのかもしれない。
さまざまな運命の糸が複雑に絡み合って今があるのなら、素晴らしい錦を紡ぐこの時間をずっと大切に、そして未来に向かって織り上げていきたい。そうしてそれを、いつか託す命に出会いたいと、心から思う。なによりも誰よりも大切なディラスとそうできたら、とても幸せなことだろう。
まだ、目覚めには早い。
フレイは幸福感に包まれながら、ゆっくりと瞳を閉じた。