おうまさんのきもち

 身支度を整え、自室として与えられた部屋の扉に手をかける。
 一歩踏み出した廊下には、この居場所を与えてくれた人の寝言が、僅かに漏れ出している。しかし、いつもよりは小さい。隣室のディラスが気にならなかったのだから、もうひとりの同居人も特に問題なく睡眠がとれているだろう。
 深夜になっても、階下の執務室からあがってこなかったから、いったい何時に就寝したのか謎ではあるが……。
 アーサーの体調を心配しつつ、小さく靴底を鳴らしながら、すぐそこにある階段をおりていく。
 くぁ……と、誰も見咎める人がいないこともあって、ディラスは遠慮なしに大きく口をあけて欠伸をした。
 階段を下りきれば、そこはポコリーヌキッチンだ。昨日の喧騒が幻であったかのように、冷えた空気に包まれている。
 今日は定休日であるため、仕込みをする必要がない。だが、習慣とはおそろしいもので、そうとわかっていても、勝手に目が覚める。
 ディラスは、掃除道具をおさめてあるところから箒をとりだし、店の出入り口へと向かう。
 鍵をあけて開いた扉の向こうには、燦燦とした生まれたての朝の光が降り注いでいた。まぶしさに瞳を細めながら、ディラスは無言のまま箒を動かし始める。
 どこからか飛んできた木の葉や、人の往来で溜まった土ぼこりなどを、ゆっくりと掃き清めていく。
 ここがレストランである以上、周辺の衛生環境も気を配る必要がある。汚い店構えでは来てくれる人にも申し訳ない。
 恩人であるポコリーヌがうみだす美味な食事に見合うよう、こうして店前の掃き掃除をすることは、仕込みとはまた別の、ディラスの日課であった。
「……ん?」
 あらかた掃き集め、ゴミを拾い終わったディラスの耳に、遠くからかけてくるひづめの音が届いた。
 常人よりも聴覚に優れているディラスは、的確に音の方向へと体ごと向き直った。
 こんな朝早くに馬を駆けさせるなどよほどのことだ。王国からの早馬だろうか? しかし、それなら飛行船を飛ばしたほうがよほどはやい。
 訝しく思いながら、視線をむけたディラスの視界の映ったのは、光にぼやける道を西方面から突き進んでくる青い風。
 いや、ちがう。
「ライデン?!」
 よく知ったモンスターの姿に、ディラスは眉根をよせて厳しい顔をした。
 かつてひとつとなり、ルーンを生み出し続けていたライデンが、つい先頃、フレイによって水の神殿から連れ出されたことは知っていた。
 なんとなく様子は気になってはいたものの、かといってどうしたいのかもよくわからなくて、ディラスは意識的にライデンと接触せずにいた。ときおりフレイと一緒にいるところをみかけてはいたが、声をかけるのが憚られたのだ。
 そのライデンが、フレイを背に乗せていないのに街の中を走っている。異様な光景だ。
 愛用の拳武器はいまないが、槍も得手としているディラスは、思わず箒を構えた。端からみれば間のぬけた格好かもしれないが、ライデンが暴走しているのならば、ここでとめなければならない。そうしなければ、ダンジョンから連れ出したフレイに咎が及ぶかもしれない。それは避けたいことであった。
 ライデンが変わらぬスピードでディラスへ迫る。ディラスは精神を研ぎ澄まし、呼吸を整える。
 黒い巨馬がいななきとともに、前脚を高々とあげた。
 くるか! と、思ったが――ライデンはディラスの直前でその脚を鋭く落とし、力強く石畳を叩くと、そのまま停止した。
 ごう、と湧き上がった風から顔をかばいながら、ディラスはライデンを訝しくみつめる。
「なんだ……?」
 まるで自分に用があったとでもいうように、急におとなしくなったライデンに、ディラスは戸惑う。
 そんなディラスを、真正面から見返すライデンの瞳は、何か訴えるような、何かを求めるような――必死さを感じさせる光を帯びている。
 このままおとなしくしているのなら、フレイを呼びにいったほうがいいのだろうか。
 しかし、この場を離れた瞬間に、街中へといってしまっては元も子もない。でくわした住民が、うっかりはね飛ばされでもしたら、大怪我をしてしまう。
 どうするべきか悩むディラスへと、ライデンがそっと鼻梁を押し付けてきた。
「……!」
 まるで甘えるようなその仕草に、ディラスの緊張が緩む。
 もしかしたら、ライデンも、自分に対してなにか思うところがあるのだろうか。それを伝えにきたのだろうか。どうやったらその考えのひとかけらでも知ることができるだろう。
「……ライデン」
 ディラスは箒から手を離し、ライデンの頬に触れようとした。
 次の瞬間。

 ゴッ!!

 骨と骨がぶつかり合うような鈍くもあり派手でもある音とともに、ディラスの目の前に星が散った。
 擦り寄っていると見せかけて、ライデンがディラスの顔面を打ちつけたのだと、一瞬遠のいた意識で理解する。
 真っ黒になる視界。いそがしく飛び回る無数の星。熱くて痛い鼻の奥。
 そして、ディラスは物静かそうにみえて血の気が多い。なので当然のように、頭に血が昇った。

 このウマ野郎!!

 瞬間的に湧き上がった殺意にも似た衝動に身を任せ、ディラスは大きく目を見開いた。
「ヒヒン!(なにしやがる!)」
 やるなら相手になるという気持ちをもって、目の前にいるライデンを睨みつけ――はた、とディラスは止まった。かたまった。
 目の前にいるのは、ライデンではなかった。そこには、まるで鏡を覗き込んだときのように、自分がいた。
 見間違えるわけがない。生まれたときから付き合ってきた容姿である。だがここは往来であって、鏡なんておいてあるわけがない。

 え、なんで、

 額から鼻あたりが赤くなっているが、なんど瞬きしようとも、穴が開くほどみつめようとも、自分だ。
 それに、叫んだはずなのに言葉になっていなかったのはどういうことだ。馬のいななきにしか聞こえなかったが、まさかな!
 はははっ、と乾いた笑いが自然と漏れたが、それは「ヒヒン」という情けない鳴き声にしかならなかった。
 急に高くなった視線に恐怖を抱きながら、ディラスはおそるおそる横を向いた。そこにはヴィヴィアージュ邸の窓がある。そこに映っている姿で己の無事を確かめようとする。
 はたして、そこにいたのは青い鬣、黒い馬体、額には一角の角を持つ――ライデンであった。
「ヒン?!(なにぃっ?!)」
 慌てて近づいてみる。左右に首を振ってみる。覗き込んでみる。自分の脳裏で思い描いたとおりに、ライデンは動いた。
 おののきながら見下ろした脚は長く細く、先端には力強く体を支える立派な蹄がついている。声をだそうにも、まともな言葉を紡げない喉と口。
 どうみても、どうかんがえても――ディラスは今、馬であった。
「~~?!?!」
 拒否をし続ける脳に半ば無理やり現状を理解させ、ディラスはまだ立ち尽くしている自分の体――もちろん人間のほう――に詰め寄った。
「ヒン、ヒヒン?!(お、おま、どう、どうなって……!?)」
 いきなり距離をつめられたせいか、心底嫌そうな顔をされた。
 絶対零度もかくやという冷たい金色の瞳に、「ああ、俺っていつもこんな感じに無愛想なんだな」などと感心しかけたがそんな場合ではない。
 ちっ、と鋭い舌打ちが、静かな朝の道に響く。
「……めんどうになった」
「ヒン?!(何が?!)」
「……一日かわれ」
「ヒン!?(何を!?)」
 疲れきった言葉に滲む悲哀に、ディラスは思わず突っ込んだ。だが明確なこたえは返ってこない。
「ヒン……、ヒンヒン?!(っていうか……、お前ライデンか?!)」
「……ああ」
 どうやらもともとが馬であるせいか、ライデンになってしまったディラスの言葉を、ディラスになってしまったライデンは理解できるらしい。なんというか、説明するのもややこしい。
 ディラスは混乱した。えーと、えーと、と情報を整理しようと試みる。
 とりあえず確実にわかっていることは、自分の意識は今、ライデンの体に入り込んでいるということ。逆に、ディラスの体にはライデンの意識が入り込んでいるということ。この二点だ。

 って、そんな馬鹿な! こんなことあってたまるか! 俺がライデンになるなんて……!

 ぬああああ、と悶えるディラスを、ライデンがあいかわらずの冷たい目で眺めている。
 まさかまだ夢をみているのだろうか。ああ、きっとそうに違いない。それなら、一分一秒でもはやくさめてくれ。そうだ、きつく目を閉じて開けば、きっと自分はまだ寝台の上に寝転んでいるはず――!
 現実逃避気味に目を閉じる。チチチッ、とようやく明けた朝を謳歌するように囀る鳥の声がきこえる。そよ、と吹く風が心地よく体を撫でた。
 よし、と自分を奮い立たせながら、ディラスは目を開く。
 しかしそこには、青い髪をそよがせ、感情の読み取れない金色の瞳をした男が立っているだけだった。なーんにも変わってなかった。夢じゃなかった。
 一気に重くなった空気に圧し掛かられ、ディラスは項垂れた。長い首をさげて、いまから草でも食むの? というくらいにまで顔をさげて落ち込んだ。
 とうとう、本当の意味で馬になってしまった自分はどうしたらいいのか。いくら考えたところで、まともな答えなんてみつかるわけなかった。
 と。
 遠くから、軽い足音が勢いよく近づいてくるのを感じた。
 もしかしたらここまですべて悪夢で、誰か起こしにきてくれたのだろうとかと淡い希望を抱いて頭をあげる。
 もう誰でもいいから助けてくれ! と、遠くから走り寄ってくる小柄な人影に縋るような視線を向ける。もちろん涙目である。
「ライデン?! ディラス!!」
「ヒヒン!(フレイ!)」
 息せき切って駆けてきたのは、このセルフィアの姫であり、ディラスの恋人であるフレイであった。朝の光に、若草色をした髪が煌いている。天使か。
 救世主があらわれた! といわんばかりの心境でフレイを迎えたディラスに、フレイがちょっとだけ怒ったような顔をして手を伸ばしてくる。
「ライデンってば、こんなところまで来てたの? 急に走り出すんだもん、びっくりしちゃったよ」
「ヒン!(ちがう!)」
 ディラスはあんまりなフレイの言葉に頭を振った。しかし、否定の言葉はフレイに理解してもらえるものにはなっていない。しょせんは馬語である。当然のことながら通じるわけなかった。
 ヒンヒンと、何度も否定し説明しようと努めるディラスであったが、フレイは「しょうがないんだから」と苦笑するばかりだ。
 そして、その大きな瞳はこの現場のもう一人の人物へと自然に向けられた。
「ディラス、おはよう!」
「……ああ、おはよう」
 愛しい男への恋心溢れるフレイの笑顔がもつ魅力のせいか、はじめて無愛想な顔が緩んだ。金色の瞳が、春の夜に浮かぶ満月のように、ひどく優しいものになる。

 おい、ライデン、おい。

 さっきまで、まるで道端の石ころでも眺めるような顔で俺のことをみてだろうが! と、ディラスは心の中で突っ込みをいれた。
 フレイは、ディラスとライデンが入れ替わっていることにまったくもって気づいていないようで、ディラスに近寄ると小さく首を傾げた。その仕草、薔薇色に染まった頬、少し潤んだ双眸が可愛らしくてたまらない。
 それを真正面から受け取るのが自分でないという事実に、ディラスはぎりぎりと歯をかみ締めた。悋気を滲ませるディラスの前で、二人の会話は進んでいく。
「ディラスがライデンを捕まえててくれたんだね。ありがとう」
「……いや」
 礼を述べるフレイへと、淡く微笑んで応えるライデンに、いろいろといってやりたいことが山盛りである。しかし、ディラスがいくらヒンヒンと声をかけても、ライデンはすべて綺麗に無視をしてくる。さっきまで会話してただろうが、こんにゃろう。
 ふと、見上げる男の顔の異変に気づいたらしく、フレイが心配そうに眉をさげた。
「ディラスどうしたの? おでこ赤いよ? 鼻もだけど……。って、鼻血! 鼻血!」
 フレイの慌てた声に指摘されたとおり、赤い筋がひとつ、たらりと鼻の下を彩っていた。どうやら、さきほどのライデンからの頭突きによる衝撃で鼻の粘膜が傷ついてしまったらしい。そういえば物凄く痛かった。
 うおおああああ、とディラスは内心で頭を抱えた。
 好いた女の前で鼻血をたらすとか、この年頃の青少年にしてみれば失態以外のなにものでもない。しかも、恋人と顔をあわせたとたんに鼻血。いったい何を考えてたんだと思われてもおかしくない。
 ディラスが馬の姿で悶えている間に、服の袖で拭おうとするのを制止して、フレイが綺麗なハンカチを取り出して押し当てた。
 子供のように、鼻血を拭いてもらっている自分――その姿を客観的にみていると、なんともいたたまれない気持ちになって、ディラスは遠い目をした。
「あ、止まったみたい。ディラス、だいじょうぶ?」
「問題ない」
 それほど傷ついていたわけでもないらしく、鼻血が溢れて殺人現場のようになる事態は避けられた。だがしかし。

 とりあえず鼻血のあとをもう少しなんとかしろ、おまえはぁぁぁ!

 若干こびりついた血をどうにかしてほしい。馬だから、そういうことは気にしないのだろうか? だがディラスにしてみれば、自分の体で妙なことをしでかさないで欲しかった。切実に!
 結局、先に気づいたフレイにまた拭いてもらっている。
 もう平気だというライデンに、フレイが重ねて問う。
「そう? でも、念のためにジョーンズさんのところにいく?」
「いや、いい。悪いが、今日は一人にしておいてくれ。少し、ゆっくりしたい」
 無愛想すぎる物言いだが、フレイは気分を害することもないようで、にっこりと笑った。そういえば、出会った当初はこんな感じだったし、慣れているのだろう。ディラスは急に、フレイに対して申し訳なくなった。湧き上がる罪悪感に苛まれる。胸が痛い。
「そうだね、昨日団体のお客さんでいっぱいだったもんね」
 うんうんと実際に相手をしていないくせに、ディラスの体を乗っ取ったライデンが、したり顔で頷く。

 大変な思いをしたのは俺だ!

 ポコリーヌの料理の素晴らしさをききつけてやってきた団体客のため、できあがった料理がそのまま食べられてしまわないよう、すばやく奪いとっては懸命に配膳していたあの苦労を、あっさりと横から奪い取られて気に入らない。
「じゃあ、今日は釣りでもしてゆっくりしてて! でも明日は、見せたいものがあるから、私に少しだけ付き合ってくれる?」
「ああ」
「よかった! じゃあ、お昼ごろ家で待ってるから!」
 あれよあれよという間に明日の予定をあわせてしまった二人に、ディラスは呆然とした。

 おまえが約束をしてどうするライデンンン!

 心中で力いっぱい叫ぶが届くわけもなかった。すっかり蚊帳の外に置かれた状態である。
 あげくに、中身が違うとはわかっていないのだから仕方がないのだろうが、恋人が自分以外とデートの約束をしている場面をみせつけられるとか、新手の拷問である。
 いろいろと気力、体力ともに蒸発して萎れかけつつあったディラスの体が、ぽん、とひとつたたかれる。
 あ? と思いながら首をめぐらせれば、いつのまにかライデンがそこにいた。フレイにみせた笑顔なんてひとかけらもない。無表情に、二度三度と軽く叩いて、身を翻す。
「じゃあな……がんばれよ」
「ヒ、ヒヒン!(あ、おい待て!)」
「うん、ありがとディラス!」
 またね、と声をかけるフレイに手を振って、ディラスの制止の声もなんのその、体をのっとったディラスはヴィヴィアージュ邸へと消えていった。
 ぱたん、と無情にも扉は閉じられて、フレイとディラスが残される。ただし、ディラスは馬のままだ。
「ヒン……(マジか……)」
 最低限の荷物しかもたされず、とりあえず魔王倒してこいと放り出された勇者の気持ちってこんな感じなのかもしれない。途方に暮れる以外にできることがない。
「さ、ライデンは一緒に帰ろう」
「ヒヒィン!(違うっていってんだろうが!)」
 首を振って抵抗する姿勢をみせるが、こういうことはいつものことなのか、フレイは恐れずに近づいてくる。
「ほら、いい子にして。朝ごはん食べよう? 今日は皇帝ニンジン用意してあるからね」
 そして、ディラスの訴えにまったく見当違いな返事をしながら、フレイは笑顔で鬣を優しく引いた。
 ここで抵抗しても自分がディラスであることを伝えることは容易ではない。自分の体に入り込んだライデンが何をしでかすのかは心配であるが、どうすることもできない。それに、この図体でヴィヴィアージュ邸に乗り込んだらポコリーヌに迷惑がかかる。
 そういえば、とライデンに体をとられた直後のことを思い出す。
 一日ぐらいかわれ、とかなんとかいっていたような……。それが本当ならば、今日一日、たった一日我慢すればいいのかもしれない。
「……」
 結局、何もわからぬまま体を入れ替えられたディラスは、フレイに誘導されるがまま、とぼとぼと移動をはじめる。
 なんの保証もないけれど、ライデンのあの言葉を信じるほかなかった。

 

 

 連れられてたどり着いたところは、城の後ろに作られたフレイの畑だった。考えてみれば、畑の周辺にモンスターたちの住処となっている小屋が建てられているわけで、冒険のおともでもないかぎり、ここに戻されるのは当然であった。
「はい、朝ごはんだよ」
 どん! と置かれたのは桶。そしてそれにおさまりきっていない皇帝ニンジン。綺麗に土が落とされた、色艶形匂いのすべてが素晴らしい一品である。さすがフレイ。
 腹が減っているところに、魅力的な好物をおかれては、抗えるわけがない。ふらふらとディラスは近づいた。
 そのまま、ばりぼりと皇帝ニンジンをやけくそ気味に齧る。ああ、美味い。美味いなちくしょう! 香り高く、噛めば噛むほど甘みが広がる。
 ただし心の中は、涙でいっぱいである。ものすごくしょっぱい状況だ。
「いっぱいたべてね」
 食事をするディラスを満足そうに眺めていたフレイが、畑へと歩きだす。世話が途中になっていたらしく、じょうろ片手に水を振り撒いている。
 ばりばりと皇帝ニンジンにがっつき、その姿を横目でみながら、ディラスはどうしようかと改めて考える。
 とにかく、このままでいいわけない。かといって、自分でもさほどよくないと思っている頭では、よい考えも思いつかない。
 あの頭突きひとつで入れ替わられたことはわかるが、どういう原理なのかわからない。自分にできる芸当とも思えない。やはり、一日かわれ、というライデンの言葉を信じるしかないのかもしれない。
 あれこれと考えをめぐらせながら見たフレイは、とても優しい顔をしながら、畑の隅のほうで野菜の世話をしている。
 フレイと意思の疎通がままならないのはもどかしいけれど、一日一緒にいられるのなら、まあいいか……――そんな風にディラスが現状に対して妥協したとき、フレイが立ち上がった。
「お待たせ!」
「……」
 振り返って駆け寄ってくるフレイに、満面の可愛らしい笑みを向けられて、最後のひとくちをディラスは大きな音をたてて飲み込んだ。長い首で詰まりかけたが、なんとか飲み下す。
 ふいうちはずるいだろ、と思わず視線をそらす。
 それがライデンへと向けられたものであったとしても、かわいいものはかわいい。ときめくものはときめく。ディラスは今、恋まっさかりであった。ライデンの姿になっていなかったら、その顔は今頃真っ赤になっていただろう。
 畑を横切ってきたフレイが、綺麗にニンジンを平らげているのをみて、また笑う。
「おいしかった? じゃあこっちね」
 もう好きにしてくれと、ディラスはおとなしくフレイについていく。
 どうやら隣の畑にいこうとしているらしいと気づいたとき、城のほうから大柄な人物が現れた。
「ほーっほっほっほ、フレイ殿、おはようございます!」
「おはようございます、ヴォルカノンさん」
 セルザウィードの優秀なる執事、ヴォルカノンだ。
 一分の隙もなく執事の服に身を包み、豪快だが人の良さも滲み出る笑顔を浮かべている。
 フレイが軽く頭をさげると、洗練された足捌きでヴォルカノンが近づいてきて、ディラスとフレイを見比べる。正確にいうのなら、ライデンとフレイを、であるが。
「いまから隣の畑へゆかれるのですか。順調ですかな?」
「うーん、頑張ってはいるんですけど、まだ慣れてくれなくて」
「まあ、こうしたことは気長にやるのが一番です」
「はい、一緒に頑張ってみます」
「叱るべきときには厳しく叱り、褒めるべきときは精一杯に褒めてやる。そこは人もモンスターもかわらないでしょう。がんばるのですぞ!」
「は、はい!」
 ぐっと拳を握り締めるヴォルカノンの熱さにうたれたのか、フレイもまた同じように拳を握った。
 やたらと熱のはいったやりとりに、ディラスは疑問符を浮かべるばかりである。
 二言三言交わしたあと、ヴォルカノンは城へともどっていき、ディラスはフレイにひかれるまま、西側の畑へと移動した。
 しかし、そこには瑞々しい野菜はなく、可憐な花々も咲いてはいなかった。石や草は取り除かれ、いつでも何か植えつけることができそうだが、なにもない。
 まあ、これからなにか種を撒くんだろうと予想しながら、近くの小屋へとはいっていったフレイを待つ。
 フレイはすぐに、大荷物を抱えてもどってきた。大地におろされる数々の道具。
「じゃあ、はじめよっか」
「?!!」
 そのなかから、にこにこと笑いながらフレイが手にしたものをみて、ディラスは毛を逆立てる勢いで驚いた。
 ずい、と差し出されたのは木を削りだして作られた――ハミであった。まさか、まさか。
 未知の恐怖に恐れおののくディラスに近づいてきたフレイが、手にしたものを口元に近づけてくる。
「いいこにしてね。はい、あーん?」
「?!?!!」

 やっぱりそうくるかー!

 フレイの持ち出してきたものは、どこからどうみても馬具一式。突きつけられているのは、その中にあったハミと手綱だ。
 ここにきてようやく、ライデンの言動とヴォルカノンとフレイの会話が結びついた。
 つまりつまり――フレイはライデンを調教しようとしているのだ。
 さきほどの話を思い返せば、ライデンを調教しはじめてから、それほど長くはないらしい。また、ライデンはその調教に対し、まだ慣れた様子をみせていなかったという。つまり。

 ライデンが逃げ出してきたのはこれのせいかぁぁぁ!

 得意としている雷の魔法を発動させたわけでもないのに、ディラスは頭のてっぺんから青白い雷が全身に迸ったような衝撃に包まれた。
 水の神殿を支配するモンスターとして君臨していたライデンが、いくら背に乗ることを最初から許したフレイが相手とはいえ、ハミをくわえさせられ手綱を握られるというのは相当な精神的苦痛だったろう。
 ぎっちりと口を閉め合わせ、前歯と奥歯の間にハミをねじこまれたりしないようにしながら、ディラスは頭を振った。ディラスだって、そんなことはごめんだ。冗談ではない。
 フレイのことは好きではあるが、すべてを握られ服従させられるような調教などされたくはない。頑なに拒む姿勢をみせる。
「う~ん、やっぱり嫌なのかな。ごめんね、ライデン……よしよし」
 どうあっても口を開いてくれないとわかったのか、申し訳なさそうな表情を浮かべたフレイが、ハミを持つ手をさげ長い首を撫でてくる。
 それはまるで、転んで泣き声をあげる子供をなだめるような優しい手つきだ。
 首もと、耳のあたり。伝えているわけではないのに、的確にフレイの指と手のひらが、ディラスの心地よいと感じる場所を撫でていく。
「(あ……、きもちいい、かも……)」
 そうされるうちに、強張っていた体の力が緩む。うっとりとしながら、思わずフレイに擦り寄りそうになった次の瞬間。
「!」
 するり、と上の前歯と下の前歯の間をとおる硬い何か。

 え?

 はっと気づけば、ディラスはハミをくわえさせられていた。

 

 

 呆然としながら、フレイを見遣る。手際よくハミと手綱も連結させたフレイが、満面の笑みで愛らしいガッツポーズを決める。
「よし!」
「ヒヒーン!(よしじゃねぇぇぇ!)」
 ひどすぎる。いつの間にか手のひらの上で転がされてしまった気分である。
 いいように弄ばれ、女性不信に陥りかけてもおかしくないディラスの心境などわかるわけもないフレイが、にっこりと笑いかけてくる。
「じゃあまず歩いてみようね」
 足を踏ん張ろうとするものの、口にいれられたハミが、ディラスにフレイの前進させるという意思を伝えてくる。痛いわけではないが、なぜかそうされると従わなくてはいけないような気になってくるから不思議である。
 しばし力いっぱい葛藤したものの、ディラスの前脚はゆっくりと、一歩前に踏み出していた。フレイが嬉しそうに、ほっとしたように笑う。
 その笑顔は可愛い、可愛い、が……――いまにも泣きだしたい気持ちを抱えたまま、ディラスは蹄で地面を蹴る。そうして、ぽこぽこと音をたてながら、ディラスはフレイにひかれて畑まわりを一周した。
 最初の位置にまでもどってきたフレイは、ディラスの首を、再び上から下へと撫でながら微笑んだ。
「大丈夫そうだね」
「……」

 大丈夫じゃねぇよ、俺の心が大丈夫じゃねぇよ……

 すっかり馬扱いされてしまったディラスの硝子のハートは壊れかけていた。そろそろ砕け散って砂になり塵となり、風に吹き飛ばされてもおかしくない。
「これなら鞍もいけるかな……?」
「ヒンヒン!」
 鞍の下に敷くゼッケンを手に取るフレイに対し、これ以上は勘弁してくれとディラスは懸命に頭を振った。それを乗せられると本当の意味で馬に成り下がるような気がする。
 いやまあ、ハミをくわえさせられ、手綱を握られている時点でもう終わってるという考えもあるだろうが。そこを気にしたら、ディラスのハートは木っ端微塵になるどころか燃え尽きて灰になる。
「うーん、まあ、なくてもいつも乗ってるしね。よし、じゃあこれはやめようか」
「!?」
 そういったフレイが、ひらりと抵抗する暇も与えず、軽やかに背に乗ってきた。反射的に暴れそうになるが、それ以上に背に感じるものが心地よくて、動きを止めざるをえなかった。
 ディラスは打ち震える。
 ほどよいフレイの重み、あたたかさ、やわらかさ。ぶっちゃけると、ふとももとかの感触が直に伝わってくる。
 恋人同士になったとはいえ、まだまだ清い交際を続けているディラスには過ぎた刺激であった。だってやわらかい。あったかい。
「ど、どうしたの?」
 ぶるぶると小刻みに震えるディラスの首を、フレイがぽんぽんと軽く叩いてくる。様子を伺っているのだろうことはわかるがしかし、それに答える余裕はない。
「ヒン……、ヒヒン……!(くっ……落ち着け俺……!)」
 いますぐにでも逃げ出したい。恥しくてたまらない。しかし暴走すれば、鞍をつけていないフレイを振り落としかねない。ああこれなら、さきほど嫌がらずに鞍をつけさせればよかった!
 やわらかいやわらかいやわらかい……! なんでこんなにやわらかいんだよ!
 愛しい女の柔肌に触れる素晴らしさの片鱗を、こんなことで知ることになろうとは。
 悶々と健全な青少年らしいことを考えて身動きできないディラスを、さらなる刺激が襲った。

 ぺちっ!

「!」
 臀部に感じた僅かな感覚に、ディラスは震えた。
 そうして、おそるおそる首を捻って、背のフレイをみる。その小さな手には、革が巻かれた握りと細長い柄、そして平べったい先端を持つ、鞭が握られていた。
 つまり、それが今、自分の尻を叩いたということなのだろう。

 ――?!?!!

 ディラスの悲鳴じみた驚愕の声は、馬のいななきにすらならなかった。つまりそれぐらい衝撃的なことだった。だって、恋人に尻を叩かれるなんて想像したことあるわけない。
 頭の中が真っ白になったディラスを、フレイは真っ直ぐにみつめている。
「ちゃんと私のことだけみて、ね?」
 きりっとした瞳と、強い口調でそう命じられて、ディラスは思わず頷いていた。その瞬間、びりりと全身が痺れた。
「……ヒン(……はい)」
 胸が今まで知らなかった感覚に震える。心臓が不思議な鼓動を刻んで、頭がぼうっとしてくる。ふわふわとして、なんだか落ち着かない。でも、嫌な感じではない。
「じゃあ、まずは歩いてみようね」
「ヒン……(はい……)」
 気を取り直したように微笑むフレイに手綱を引かれ指示されるまま、ディラスはぎこちなく従いはじめた。

 

 

「ヒヒン……(疲れた……)」
 太陽が中天にさしかかる少し前頃、ディラスはぐったりとしていた。ゆっくりと大きな呼吸を繰り返す。
 並足。早足。駈足。少しずつ速度をあげて、畑の周りを駆け続けた。馬の体力と脚力からすれば、たいした距離を走ったわけでもないはずなのに、とても疲れた。
 だが、気分は悪くない。むしろ充足すら覚える。
 それは、調教がはじまってすぐ、フレイがディラスの背に乗った時あたりから感じた、えもいわれぬ高揚感のせいだとわかっている。
 あれは、なんなのだろう。ディラスは、寒気を感じたわけでもないのに、ぶるりと身震いした。ほんの少し前までの感触が、刺激が、まざまざと思い起こされる。
 フレイに厳しい目を向けられて、叱咤されると、胸が満たされた。手綱を握られ、跨られ、あげくに鞭をいれらるなんて屈辱極まりないことなのに――心底嫌だと思えない。
 ぼんやりと、ディラスの脳裏に、自分に跨るフレイの姿が描き出される。ちなみに、ディラスはライデン姿ではなく、本来の姿に変換されていたりする。
 凛とした表情の中に、妖しさを含む翠の眼が自分を射抜く。フレイの白く細い手が、自分の手綱を引く。ディラスが心ここにあらずとならないよう、フレイだけに意識を向けるよう、優しく打たれる鞭――。

 なんか……ちょっと、よかったな……っ、――!?

 なにを考えているんだ、とディラスは大きく頭を振った。汗の飛沫があたりに散る。

 

 

 誰かに命令されるなんて真っ平ごめんだと思っていたのに、それがフレイであるとなると、どうしてこうも妙な悦びを覚えるのだろう。
 モヤモヤと、フレイと自分のそういう姿が脳裏に次々と浮かんでくる。消したいのに消えない。むしろ溢れ出してくる。
 思ってもみなかった自分の性的嗜好を暴きかける妄想をふり払うために、ディラスはひときわ強く頭を振った。そして、荒く呼吸を繰り返し、なんとか心身を落ち着けようとする。
「あ、ごめんね! はい、お水」
 そんな一連の行動が調教による疲れと不満からくるものだと勘違いしたらしいフレイが、綺麗な水を満々と湛えた桶をディラスの前に置く。
 喉の渇きと、頭を冷やしたいこともあいまって、ディラスはそこに顔全体を突っ込む勢いで飛びついた。
 がふがふと水を飲むディラスの体を、フレイが丁寧に拭っていく。それがまた気持ちよくて、ディラスは泣きたくなった。完全に今、自分は馬であった。
「うーん、ちょっとは慣れた気もするけど……。なかなかうまくいかないね」
 今回うまくいかなかったのは、お前のふとももとかその他諸々のことが原因だ。
 背中にあたるやわらかい感触についつい気をとられると、そのたびごとに意識をよそに向けないように鞭が飛んだ。なんでわかるんだ? と思わずにはいられない、ほんとうにいいタイミングでフレイはディラスを叩いていた。
「やっぱりこういうの嫌?」
 さきほど自分の背に乗り、鞭をもっていたときの気迫はどこへやら、しおらしく眉を下げたフレイが優しく問いかけてきたので。
 いやむしろ俺的にはよかったです――思わず真っ正直にアブノーマルなことを敬語で口に仕掛けたディラスは、がふっと水を噴出した。
 あやうく本音ダダ漏れになりかけた自分に対してがくがくと震えながら、目をそらす。フレイにこんな自分を知られたくなかった。絶対に嫌われる。

 もしかして俺って……俺って、変態なのか……!?

 隠されていた嗜好に恐れおののくディラスの様子をまた勘違いしたらしいフレイが、そっと首筋あたりに寄り添ってくる。
「ライデンの言葉が、わかればいいのになぁ」
「ヒン……(フレイ……)」
 困ったように苦笑しながらそうこぼすフレイに、ディラスは慰めるように鼻先を押し付ける。お前はなにも悪くないのだと、くすぐったがるフレイにぐいぐいと擦り寄る。
 同時に、今のこの自分の言葉や気持ちがフレイに伝わることがなくてよかったと、ディラスは心底ほっとした。
 しばらくの休憩をはさんだ後、フレイに誘われるまま、ディラスは素材集めにダンジョンにおもむいた。
 フレイを背にのせ縦横無尽に走り回り、現れたモンスターたちを蹴散らしていく。いつも背を預けあうようにして戦っているフレイとの呼吸は、ライデンの姿になっても崩れることはなかった。
 フレイは、最初は息ぴったりに動くことに驚いていたようだったが、すぐに嬉しそうに笑って背を預けてくれた。
 その信頼がともて誇らしかった。姿形が変わろうとも、フレイの役に立てる事実に、ディラスは奮起した。
 そして。
「うん、これでもっといい防具が作れそう!」
 お目当ての素材をたっぷりと手に入れることができたフレイは、にこにことしながらセルフィアの街を歩いていく。
 その後ろを、ディラスはのんびりとついていく。視界にうつる街はすっかり夕焼け色で、建物も人も濃く長い影を引き連れている。やがて夜の帳が下りれば、すべての影は溶け消えて、静かな眠りの時間が訪れる。それは昼の間に生きたものたちの安息のひとときとなる。
 とはいえ。

 俺はこのまま小屋で寝ればいいのか……?

 すっかり慣れた四足歩行を続けながら、ディラスは内心頭をひねっていた。
 というか、ライデンは『一日かわれ』といっていたが、その一日とはいつまでをもってしていう?
 フレイを家まで送り届けたら、こっそりとライデンのところにいってみようかとも思ったが、この黒く大きな図体で街中を闊歩していたら、即座にフレイへと連絡がいくだろう。
 うーむ、と思い悩みながら、ぱかぽこと夕焼けの中を歩いていく。
 と。
「あ、ディラス!」
「ヒン?!(なにっ?!)」
 弾むような声でフレイが口にした名前に、ディラスは素早く反応した。
 見遣れば、雑貨屋方面の道から広場へとはいってくる男の姿がみえた。まるで自分たちを待っていたかのように、つかつかと近寄ってくるディラス――中身ライデンに、ライデン――中身ディラスは、鼻息を荒くした。
 じんわり、と殺気にも似た怒気が、全身から自然と噴き出す。
 それを綺麗に受け流し、ライデンはディラスの前に立ち塞がった。金色の瞳は、まっすぐにこちらを映しこんでいる。
「ヒヒン、ヒン! (ライデンてめえ、俺の体を――!)」
 返しやがれと詰め寄った巨馬の勢いを意にも介さず、ライデンはそっとディラスの頬を包み込んだ。
 その瞬間、全身を走る嫌な予感。
「ヒ、(おい、ま――!)」
 待てはやまるな、という制止は当然のことながら言葉にはならず。

 ガッ!!

 顔を仰け反らせたライデンに勢いよく額をぶつけられ、星が散った。朝のときよりなおひどい。フレイの小さな悲鳴が、何重にも輪になって耳の奥を揺さぶる。
「~~~っ、てめぇ、俺になんの恨みがあって……! って、」
 どうして今日はこんな目にばかりあうんだ?! と涙目になりつつ、あらんかぎりに叫んだディラスの想いが、人の言葉となってあたりに響いた。
 はっとディラスは自分の体を見下ろす。いつもの服に包まれた手足は、人としてのもの。見慣れた黒い服に包まれた己の手足。思わず手を開いたり閉めたりする。思った通りに五本の指。
 一瞬ほうけたものの――ディラスはすぐに、入れ替わったことを理解した。もとに、もどったのだ。
 ぎろり、と顔をあげて睨みつけたライデンは、夜に眠る湖のように静かだ。だが、その瞳は今朝方みたような切羽詰ったようなところはない。溜まりに溜まっていたものを綺麗に発散してきたのか、穏やかに澄んでいる。このウマ、自由すぎる。
「ライデン! ほんとにおまえは……!」
 ぎりぎりと目を吊り上げて詰め寄ると、横からフレイが「待って待って!」とディラスとライデンの間に割ってはいってきた。
「どうしたの? 今のはディラスのほうからしたのに……」
「え、あ、いや……!」
 フレイのいうことはもっともだ。第三者のからしてみたら、ディラスからライデンに頭突きをしたくせに、一方的に怒りはじめたようにしかみえないだろう。
 ディラスは、たらたらと汗をかく。
 まさか、ついさっきまで俺がライデンだったなんていえるわけない。
 この身体にライデンの意識がはいりこんでいて、今、頭突きを食らわせたのはそいつだったなんていえるわけない。
 フレイがハミをくわえさせ、背にまたがり、鞭をふるっていたのが恋人の自分だったなんていえるわけない。
 最終的には、従順に調教を受けていた自分を思いだし、ディラスは背中をぐっしょりと濡らしながら、わなないた。フレイに知られたら、こっちが恥しさで死ぬ。
 そして、数秒悩んだあと、ディラスは顔をそらした。ライデンは、フレイがいない場所で話をつけよう。
「な、なんでもねぇ!」
「ディラス?!」
「……」
 そのまま駆け足気味にこの場を去ろうとしたディラスであったが、フレイの戸惑う声がどうしても気になり足をとめた。
 ほんの少しだけふりかえる。きっと顔は物凄く赤いだろう。自分でわかるくらいの熱がともっている。なるべくみられないような角度をたもち、盗み見るようにして伺ったフレイは、なんともいえない表情を浮かべている。
 今が、夕暮れの中でよかったと思った。この恥ずかしさが、少しはその色彩に紛れ込むだろうから。
 ごくり、と喉を鳴らして乾いた口内を湿らせて、ディラスはいう。
「あ、明日、な」
「……! うんっ、また明日!」
 今朝がた交わした約束を覚えていると暗に伝えれば、ぱあっとフレイの顔が輝いた。たったひとつの約束をここまで大事に喜んでくれるフレイが、どうしようもなく愛しい。
 恋の熱に茹った頭を一度大きく振って、、ディラスは夕焼けの中を走り出す。
 どうにかこうにかヴィヴィアージュ邸まで帰り着いたときには、また鼻血がでていた。

 

 

 次の日。
「……」
 昨夜は散々だった。夢の中でまで、自分は調教されていた。ただし、ライデンの姿ではなく、ディラスそのものの姿で。
 なにがあったのかは察して欲しい。ただ、ディラスはいろいろと追い詰められてしまった。朝ちょっとたいへんだった。なにがあったかはきいてはいけない。
 夢は、人の願望で紡がれるという。だがそんなはずはない。俺が、ああいうのが好きだなんてそんなことは断じてない!
 でも、またライデンが逃げ出すことがあったら、一度くらいは変わってやらないことも、ない……。いやいや!
 そんなことを考えつつ、多少おぼつかない足取りで向かうのは、昨日ライデンが約束したとおり、フレイの家だ。
 扉をノックすると、すぐに内側から開かれた。可憐な花が咲き誇るような笑顔を浮かべたフレイが、飛び出してくる。
「ディラス!」
「よ、よう」
 うしろめたくて、フレイの顔を直視できない。もんもんと、脳裏には昨日の出来事やら夢の内容が渦巻いている。
「そういえば、鼻血は大丈夫だった?」
「うっ……、あ、ああ、へいきだ。悪かったな……。そういえば、ハンカチも汚しちまったし、今度新しいのを買ってくる」
「そんなこと気にしなくていいんだよ?」
「そういうわけにはいかない。その、フレイに気に入ってもらえるかわからないが、待っててくれるか?」
「うん……! じゃあ、楽しみにしてるね!」
 侘びであるというのに、ディラスからの贈り物だと、フレイが頬を染めて喜ぶ。つられて、ディラスの頬も緩んでいく。
 ちゃんとした、フレイに似合うものを選ぼうと、ディラスは心に誓う。とりあえず、アーサーあたりに相談してみるか、と貿易を営む同居人のことを考えたとき。
「じゃあ、こっち! 私の畑にきてほしいの」
 フレイがディラスの手をとり、引いた。
 そういえば、なにかみせたいものがあるといっていたな、とディラスは思いだす。約束をしたときは、自分はライデンの体になっていたため、詳しくは訊けなかった。
 竜の間で、ホットケーキをぱくつくセルザに挨拶をし、その横を通り過ぎて城の裏へと向かう。
 昨日のこともあってなるべく西側にある畑のほうをみないようにしながら、ディラスはフレイに誘われるまま畑を横断していく。
 そうして、案内された先に植えられている野菜をみて、ディラスは僅かに目を見開いた。
「ニンジン……?」
「うん、ディラスのために作ったんだよ」
 綺麗に整えられた畑の一角に、ニンジンが美しく整列していた。皇帝ニンジンではない。普通のニンジンだ。だが、一目みただけでもそれがただのニンジンでないことがわかる。
「今日はこれで、一緒にお昼作って食べない? 土にも種にもこだわって、育て方も一生懸命考えた、今の私が作れる最高のニンジンなんだ」
「これ、全部俺のために?」
「うん。だって、ディラスはニンジン好きでしょ?」
 えへへ、と照れくさそうにフレイが笑う。
 そういえば、訓練を始める前、フレイはこの辺りをとくに丁寧に世話をしていたような気がする。
 そのときのフレイの表情を思い出し、ディラスは胸をいっぱいにしながら、そっと小さな肩を引き寄せる。そっと、いじらしい恋人を抱きしめた。
「ありがとう、フレイ……こんな俺のために……」
「ディラス……」
 きゅっと抱き返されて、ディラスはおのれの幸せをこれでもかとかみ締める。と。

 ぱりぱりかりこり

 ふわふわと漂い始めた恋人たちの甘い空気を無遠慮に打ち払うように、なんとも軽やかでどこか間のぬけた音が響いた。
 ぱっと振り返ったディラスの目に、嬉しそうにニンジンを食べるライデンが映る。黒い巨馬は、器用にニンジンを引っこ抜いては、じつに美味そうに貪っている。おい。
「わぁ、だめだよライデン!」
 慌てたフレイがディラスから離れ、ライデンの暴挙をとめようと駆け寄る。だが、ライデンは鼻を鳴らして、ニンジンを食べることをやめようとしない。
 ディラスのためにフレイが作ってくれた最高のニンジンは、収穫する前にライデンの胃の中へと次々とおさまっていく。
 だがなぜか、ディラスはライデンのことに対して怒りはわいてこない。ライデンなりの苦労を知ってしまったせいだろうか。
「ううっ、せっかく育てたのに……」
 なんとか被害がひろがることを食い止めたフレイが、しょんぼりと肩を落とした。
「うまそうだったからな。仕方ないだろ」
 項垂れる頭を優しくなでながら、ディラスがそういえば、弾かれたようにフレイが顔をあげた。ぱちぱちと、大きな瞳が何度も瞬く。
「ライデンのこと……怒らないの?」
「まだ残ってるしな。二人分の昼飯になれば、じゅうぶんだろ? 俺が、なにか作ってやる」
 ディラスが淡く微笑んで見せれば、フレイがほっと息をついた。
「ありがとう……。じゃあ、一緒に収穫しよっか?」
「おう」
 二人並んで座りこみ、ニンジンに手を伸ばす。ふかふかの土から引き抜かれたニンジンは、太陽の下で独特のにおいをほのかに放ち、洗ってなどいないのに、きらきらと輝いてみえた。作り手の愛情がこめられているからだろうか。
「……なあ、フレイ」
「?」
 手で余分な土を払いのけながら、ディラスは口ごもりつつ声をかける。どうかしたの? と、フレイが純真無垢な瞳を向けてくるから、思わず視線を下げてしまった。
 しばし逡巡するディラスの言葉を、フレイはじっと待ってくれている。
「――どうして、ライデンを調教してるんだ?」
 そうして、どうしても気になることを、ディラスは勇気を振り絞ってきいてみた。
「あれ? ディラス、なんでそのことを知ってるの?」
「……た、たしか、店に来た、ヴォ、ヴォルカノンがそんなことを……言っていた気が、」
 一瞬驚いた顔を見せていたフレイは、「そっか」と納得したように頷いた。実際のところ聞いてなんていないわけだが嘘も方便である。
「街中を歩くときだけでも、手綱があったほうがいいかも、っていわれたんだ」
 目の前のニンジンを引き抜きながら、フレイがいう。
「ほら、ライデンって最近まで水の神殿にいたから、あんまり人になれてないでしょ? なにかあってびっくりしたときに走り出したりしたら危ないことになるかもしれないから、手綱にならしておくといいかもって」
 ディラスの脳裏に、どっしりと構えて揺らがぬライデンの姿が浮かんだ。あの好き勝手やる性格と、決めたら突っ走る行動力があるというのに、なにかに怯えることなんであるのだろうか。
 ライデンなりのストレス発散に巻き込まれ、苦い思い出を作ったばかりのディラスの頬が引きつる。
 そんなディラスの様子に気づいていないようで、フレイがにっこりと笑った。
「でもね、やめようかなって思ってるんだ」
「な、なんでだ?! ……あ、い、いや、せっかくここまでやってきたのに、か?」
 思わぬフレイからの調教終了宣言に、ディラスは自分が驚くくらい食いついた。慌てて取り繕うと、フレイが柔らかに目を細める。
「昨日ね、一緒にダンジョンにいってもらったとき、ライデンがとっても助けてくれたんだ。それがすごく格好良かったから、ライデンはこのままでいいって思って。ちゃんとね、まわりことをみてくれてるってよくわかったから」
 どうやら昨日の戦闘サポートが、フレイに調教をやめさせる一端となったらしい。

 それは俺だぁぁぁ!

 思わず叫びそうになるのを、ぐっと拳を握り締めることで堪えたディラスの目の前で、何も知らぬフレイは続ける。
「ライデンはディラスみたいにほんとうはとっても優しいから、街のみんなを傷つけることなんて絶対にない。そう信じることに決めたんだ」
「……!」
 まっすぐに告げられた思わぬ言葉に、ディラスは頬を染めた。そんな風に言われて、照れないわけがないというのに。もしかしてわかっていて、こちらの反応をみるために、そんなことをいっているのではないかと邪推してしまう。
「っていうか、俺はそんなに優しくなんてねーよ……」
「ううん。ディラスはね、とっても優しい」
 もごもごと小さな声で漏らした否定を、フレイはきっぱりと遮った。力強い声に導かれ視線をむければ、すぐそこにある翠の瞳が、愛しそうにディラスを映している。
「だから、私はディラスのことが大好きなんだよ」
「……お、おい……!」
 ぴと、と寄り添われ、ディラスはとうとう顔を真っ赤にした。
 くっそ、やっぱり、いつどんなときでもフレイは可愛い。
 抱き寄せてやりたいけれど、土まみれの手でフレイに触れるのは躊躇われる。
 でもどうしても、その言葉にこたえてやりたくて、ディラスは背をできるだけ丸めると、そっと唇を寄せた。
 ちゅ、と音をたてて離れれば、額に口付けを落とされたフレイの白い肌が、鮮やかな朱色に彩られた。
 照れさせた仕返しだ、と少しだけ意地悪そうに口の端を持ち上げてみせれば、フレイが蕩けそうなくらい幸せな笑顔をみせてくれる。
 恥しそうに長い睫が震えながらひきおろされて、わずかにあがる小さな顎。薄くひらいた花びらに似た唇が、何を待っているかなど、言葉にする必要もない。
 ディラスは、きょろりとあたりを見回して、あいかわらずニンジンを食べているライデンしかいないことを確認し――繊細で大切なものを愛しさでくるむように、フレイへと口づける。
 触れるだけの幼さが残る口付けをほどくと、自分からねだってきたというのに、フレイが目をゆっくりと瞬かせながら、恥しそうに顔を背けた。その仕草と表情にくらくらする。
「こ、これくらいあればじゅうぶんだろ」
「……うん、そうだね」
 このままでいるとどうかしてしまいそうで、ディラスが慌てて立ち上がれば、惚けた表情をわずかに引き締めたフレイもまたあとに続いた。
 そうして微笑みあい、土に汚れていることも厭わずに、互いの指先を絡めあう。幸せな気持ちに満たされたディラスは、収穫したニンジンをいれた籠を空いた手で持ち上げた。
「えへへ、いっぱい採れたね、なに作ろうか」
「そうだな……。フレイは何が食べたいんだ?」
 肩を並べて歩きつつ、無邪気にたずねてくるフレイへと、努めていつもどおりに応えながら――ディラスは内心、ひどくがっかりしていた。
 だって、調教をとりやめるということは、ライデンがディラスと入れ替わる理由がなくなったということだ。
 ライデンが可哀そうだし、たまになら、ごくごくたまになら、代わってやってもいいかな……と、思っていたのに。しかし、その機会は失われてしまった。
 それを心から惜しいと思う自分を自覚してしまったディラスは、高いところから深いところへ突き落とされたかのように、落ち込んでゆく。

 俺って……! 俺って……!

 フレイとのそういう関係も、なかなかいいものだと体に刻み込まれてしまった青少年の悩みは、いろいろと尽きない。
 いつか、ディラスがこの事実を告白する日はくるのだろうか?
 それはネイティブドラゴンが一柱、永遠を司る風幻竜セルザウィードにも見通せない未来だった。

 

 

 内心身悶えながらフレイの自室へと消えていくディラスの後姿を、極上のニンジンをむしゃむしゃと食べながら、訳知り顔のライデンが冷めた目でみおくっていた。