俺がお前でお前が俺で(前編)

「ん、んっ……」
「……っ、は、」
 ちゅっ、と濡れた音混じりの、囁きあう男女の声は、ひどく甘ったるい。
 背の高い青年が腕を伸ばし、壁と己の身体の間に小柄な少女を囲いこんでいる。
 かといって、少女が怯えていたり、嫌がっていたりするわけではない。
 むしろ、青年の胸元に手を置いて、懸命に背伸びをしながら応えている。
 互いの唇と唇を軽く重ねたかと思えば、角度を変えて貪るように深く結び合う。
 息はあがり、時折漏れる声はひどくかすれて頼りなく、苦しそうだ。だが同時に、ひどく幸せそうでもあった。
 最初の頃、この光景をみたときには、少女が虐げられているのかと思い、身体を割り込ませたこともあったのだが――そのあと、恥ずかしそうに苦笑して撫でてくれる彼女が、「大丈夫だよ」と何度もいうので、そういったこともしなくなった。
 ただ、じっと寄り添う二人を眺める。
 大きく息を吸い込んだ少女の視線が、一瞬、こちらをみた。
 おぼろげな光を宿した蕩ける瞳に、ぞわぞわとこみあげるものがなにかよくわからなくて、ただ長い尾を振る。
「みられてる、ね」
「……!」
 もう一度唇を重ねようとしていた青年のそれを人差し指で押し留めた少女が、くすくすと楽しげに笑う。
 それに反応した青年の、鋭い琥珀色の瞳を、恐れることなく真正面から受け止める。
 ぎりぎりと音が聞こえそうな、それだけで気弱なモンスターならはじまりの森へと逃げ帰るような、苛烈さだ。
 だけれど、そんなものは怖くはない。
 ふん、と鼻を鳴らせば、青年の肌に朱が散った。
「アイツ、馬鹿にしやがって……!」
「もう! そんなことないってば」
 いまにも飛び掛らんとばかりに頭に血を上らせる青年を、少女が笑いながら宥める。
 そして、悪戯っぽく煌く瞳を細くして、背の高い青年の顔を見上げて首をかしげる。
「ふふ、そっちのほうからキスしてきたのに。恥ずかしいんだ?」
「うっ……!」
 確かに、モンスターたちの世話をしおわったとたん、少女を壁際に追い込んで、半ば強引に口づけたのは青年のほうだった。
 責められていると思ったのか、いきなり襲うように唇を奪った罪悪感からか、場所を選ばす迫ってしまった羞恥からか。青年が、顔を顰めて真っ赤になった。
 その様子がおかしくてたまらないと、少女がころころと笑いながら、青年に抱きつく。抱きつかれたほうといえば、身体を大きく震わせている。あんなにも少女を翻弄していたとは思えないくらいの、初心な反応だ。
「それとも、前に邪魔されたことがあったから?」
 青年の胸に頭を預けるようにしながら、少女が首をかしげる。
「う、うるせーな!」
 粗雑なことをいいながらも、しっかりと抱きしめかえしてくれる青年に向かい、少女は笑いながら背伸びをする。
 ちゅっと小さな音とともに頬に口づけを受けた青年が、さらに真っ赤になった。
 しばらく深呼吸を繰り返していた青年が、お返しだといわんばかりに、少女の頬へと口づける。
 幸せそうに微笑んで、それを受け取った少女の瞳を覗き込み、青年がぶっきらぼうにいう。
「そろそろいくぞ。冒険にいくんだろ?」
「うん! 今日は、オリハルコンを採りたいんだ」
 かつて自分とひとつとなり、静かな水の底で眠り続けていた青年が、少女の手を乱暴に掴んでひっぱっていく。
 触れれば壊れてしまいそうなあの細腕に、よくあんなことができるものだ。
 甘い空気ごと去っていった二人を見送り、ゆっくりと、今日取り替えてもらったばかりの、ふかふかの干草へと座り込む。
 緩慢な瞬きを繰り返しながら考える。
 自分とて、あの少女が好きであるというのに、どうしてこうもままならないのか、と。
 柔らかな声、優しい笑顔。なでてくれるあの手の、なんと優しいことか。
 最初は、人間ごときが、と思わないこともなかったが――自ら育てた瑞々しい野菜を、食事として惜しみなく与えてくれるし、いいこ、と褒められればたまらなく嬉しくなる。
 ああ――やはり、大好きだ。
 だから、触れたくてたまらない。
 あんな風に、触れたい。あんな風に、嬉しそうにして欲しい。
 それなのに、いまの自分ができることといえば、そっと鼻先を摺り寄せることぐらいだ。
 指を絡めとることも、あの長い髪をなでることもできない。身体のつくりが、そもそも違うのだ。どうしたらいい? どうしたら――。

 ――そうか

 ぴこり、と耳を動かす。
 我ながら、いい考えが浮かんだと悦に入る。
 思い悩むことなどなかった。あんなふうにしたいのならば、簡単なことだ。

 ――ああなれば、いい

 解決する方法を思いついたのならば、あとは魔力を蓄えるだけだ。
 なにもかもが、ちょうどいい。
 『彼』と『自分』には、長い時間をかけた断ち切ろうにも断ち切れぬ『繋がり』がある。
 ふふん、と鼻を鳴らした嵐の一角馬ことライデンは、静かに瞳を閉じた。

 

 

 夢だ、とディラスは思った。
 なぜ夢だとわかるのかとたずねられても、うまく説明できそうにないが、とにかく今、ディラスは夢をみていた。
 一歩踏み出せば、そこから銀色の波紋が円状に広がり、果てのない暗い世界へと消えていく。
 寒くもない。暑くもない。風もなく、星もなく、月もない。
 まるで新月の夜に眠る湖の上を歩いているような、不思議な感覚。
 視線を下げれば、水面にあたるところを境目に、その向こうにもディラスがいる。自分を足元から見上げるというのは、なんとも不思議な体験で、やはり夢なのだとまた思う。
 影のようにもう一人の自分をひきずりながら、目指すものもわからぬままディラスは歩きだす。幾重にも生まれる輪が、重なりぶつかりひとつとなって、遠くへと駆けていく。
 どれほど進んだか、時間の感覚も距離の感覚も曖昧で、よくわからなくなったころ。

 ――……――

 ふいに、妙な声が聞こえた。それも、背後から。
 驚いて振り返れば、いま歩いてきたはずのところに、なにかがいた。
 ゆらゆらと青い炎のような大きな塊が揺れている。判然としないその存在を見定めるように、ディラスは目を凝らす。
 天を指す白く気高い一角。青い炎かと思ったのは、長く豊な鬣。黒い馬体が闇夜から滲み出てきたように、この夢の世界に馴染んでいる。
 その姿を、ディラスは知っている。
 国のため、この地に生きる人のため、なにより友となった竜のため、いつ覚めるともわからぬ眠りについたとき、ひとつとなった存在。

 ――ライデン?

 どうして、俺の夢に。
 いままでも夢はみてきたが、いちどたりとも現れたことがなかったように思う。
 静かに、だが熱烈すぎるライデンからの視線を受け止め、戸惑うディラスがその名を読んだ瞬間。
 ライデンの身体が一息に大きく膨れ上がった。
 否。
 そうする気配もなにもなく、ライデンが突進してきたのだと気づいたときにはもう遅かった。
 避ける余裕はない。かといってこの大きな身体を受け止めるのも難しい。
 しかし、ディラスが瞬きひとつもない間に覚悟したような事態には、ならなかった。
 衝撃はなく。
 ただ、やわらかに押し出されるように、するりとその場所から移動しただけだった。しかし、足元の水面向こうにいるディラスの姿はそこから動かない。
 いままでディラスがいた場所にライデンが静かにたつ。

 ――?!?!

 どうやら、それは鏡に映った自分というわけではないらしいと、ディラスはようやく気づいた。
 だが、これもまた遅かった。
 なにを、叫ぶ声が音にならない。もどかしく、ひどく緩慢になる動作でなんとか手を伸ばす。
 ひゅっとそれに黒いものが巻きつく。水のようなひんやりとしたそれが、ディラスの全身を絡めとる。
 驚いて身を捩るが、するすると手足を戒めていくそれから逃れることはできなかった。
 どこからきているのかと視線だけを動かして確かめれば、それはディラスの足元からで。

 ――!

 水面の下に、大きなライデンの姿があった。
 ずるり、そのままディラスはつま先から引きずり込まれ――ごぼり、と水のようなものに包まれたと思った瞬間。
 夢の世界での意識が、途切れた。

 

 

 夢とは、覚めればはじけて消える。それはまるで、子供が遊ぶシャボン玉のように、わずかな痕跡だけを残して霧散する。
 ただ、嫌なものをみた、という感覚だけを胸に残して。
『……?』
 そうして、ディラスが目を覚ますと、そこは見慣れたような見慣れていないような場所だった。
 ゆっくりとあたりを見回す。知らないわけではない。フレイ畑の片隅にあるモンスター小屋だ。なんども訪れているのだから間違いない。
 なんでこんなところで寝ちまったんだ? と当然のように浮かび上がる疑問に頭を捻りながら身を起こして――ぎょっとする。
 視線が高い。もともと高いほうであるが、それよりずっと、だ。
 視界もやたらと広い。みえるところが多すぎて、その情報量が気持ち悪い。手足が上手く動かない。身体全体が、異質でぎこちないものに思えた。

 なんだこれは!

 自分の身体が自分のものではない感覚に戸惑いつつあたりを見回せば、モコモコとフワリ、チロリが寄り添いあうようにしてすやすやと眠っているのがみえた。
 やはり、ここはモンスター小屋だ。間違いない。そして、やはり最初の疑問にたちもどる。どうしてこんなところにいるのか。意味がわからない。
 と。
 遠くから、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくるのを、耳が捉えた。
 それはモコモコたちも同様であったらしく、ぴこん、と耳を動かしたと思えば、跳ねるように飛び起きた。絡まりあい転げあいながら、ひとところへと殺到する。
 彼らが部屋の入り口に集まったのを見計らったかのように、小柄な人影が小屋へと駆け込んできた。
 萌ゆる緑の長い髪をくゆらせた少女は、その大きな翠の瞳を和ませて笑った。
「みんなおはよう!」
『フレイ!』
 思わず、ディラスはその名を呼んだ。
 朝の光に輝く露のように、きらきらとした笑顔で登場したフレイに、嬉しそうにモンスターたちが飛びついていく。
 だが、そんな彼らに声をかけながら丁寧にブラッシングをしていくフレイは、ディラスには目もくれない。
『おい、フレイ!』
 名を呼んでいるつもりであるが、上手く言葉にならない。風邪でも引いたわけでもないのに、声がでないのだ。
 掠れた音しかだせないことに苛立ち、ずい、とフレイへと近寄れば、ブラッシングされていたモコモコが、驚いたらしく逃げていく。
 しかし、それを可哀想だなどと思う余裕はない。
 この現状への説明、もしくは現状を理解するための協力をしてほしい。
 怯えたように震えるモコモコに大丈夫だよ、と一言告げたフレイが立ち上がる。わずかに首をかしげたときに、さらさらと前髪が流れた。
 にこ、とフレイが微笑みながら、指先をのばしてくる。
「どうしたの、ライデン」
 そうして、薄紅色のふっくらとした唇が紡いだ言葉が理解できなくて、ディラスは一瞬押し黙った。
 ライデン? 誰が? 俺が?

『……――はあ?! なにいってんだ?!』

 とうとう混乱したディラスは大声をだした。しかし、それも言葉にならない。
 そこでようやく、ディラスは自分の声が、馬のいななきのようであることに気付いた。
 いきなり鋭くいななかれたことに驚いたのか、フレイがわずかに目を丸くし、次いで苦笑した。
「あれ? ライデンはご機嫌斜めかな? ごめんね」
 そういいながら、眉をさげて申し訳なさそうにこちらをのぞきこんでくるフレイの大きな瞳には――黒い体、青白く輝く鬣のもつ馬ことライデンが映りこんでいる。
 ひっ、と思わず身をひけば、フレイの瞳の中でライデンが遠ざかる。
 それで間違いないのだと、ディラスは理解した。
 とても信じられないが――、自分は今、ライデンとなっている。
 なにが起きたのか、ほんとうにわからない。
 自分はいったい、どうしたというのだろう。
 朝起きたら、モンスターになっていたなどと、誰が信じるというのか。この状態になった自分でさえ信じられないというのに!
『――っ!』
 息も忘れて固まっていると、ゆっくりと首を下から上に撫でられた。
 冬の大嵐のように乱れたディラスの心を宥めるように慰めるように、優しく優しく。何度も何度も。
 みれば、そうしているのは心配そうな顔をしたフレイであった。
『フレイ……』
 言葉にならないとわかっていても、その名を呼ぶ。心地よさが、ディラスの精神を落ち着かせていく。
「ライデン、どこか具合でも悪いの? ……もし、病気とかだったら……どうしよう」
 うるり、と瞳に涙をにじませるフレイに、ディラスは慌てた。泣くな、と伝えたくてもうまくできない。ならば、と鼻先をフレイへと摺り寄せる。
「わぷ……、ラ、ライデン? ……ふふっ、くすぐったい」
 ぐりぐりと押し付ければ、フレイが驚きの声をあげたあと、身をよじって笑う。
 しばらくそうしたあと、ゆっくりと離れれば、フレイが瞳を覗き込んできた。
「ライデン、今日は一緒にいようね。もし具合が悪いなら、一緒にいたほうが安心だから。でも、ちょっとだけ待ってて」
 そうして、別の部屋いるモンスターたちの世話をてきぱきとこなすフレイをあれこれ考えつつもおとなしく待ちつづけ――ライデンの姿になったディラスは、フレイに連れられてモンスター小屋を出た。
「それにしても、どうしたのかな? いつもと様子が違うけど、なにかあったっけ……? う~ん……?」
 次の仕事として、畑へと足を踏み入れながら、フレイが頭を悩ませている。
 どうしたもこうしたも、ライデンの中身が俺なんだから、おかしくてあたりまえだ。
 そう言葉にしたいと思っても、ディラスの訴えは、ヒンヒンとした馬の鳴き声にしかならない。
「最初は不機嫌そうだったから、またここにきたときに逆もどりでもしちゃったのかと思ったけど……。あ、皇帝ニンジンたべる?」
 よいしょ、と出荷予定だったのだろう大きなニンジンを目の前に差し出されて、思わず耳を跳ねさせる。
『!』
 ぴこぴこと、嬉しさを素直に伝えてくる動きを目にしたフレイが笑う。
「あはは、ちょっと待ってね、今洗うから」
 そうして、畑の片隅にある水場でフレイが皇帝ニンジンの泥を落としてくれた。
「はい、どうぞ」
 おおお、と目を輝かせて、差し出された皇帝ニンジンを見つめる。
 丸々として色も艶もよく、大地の栄養をたっぷりと吸い込み、太陽の光をいっぱいに浴びて育ったことが一目見てわかるような、見事な一品。さすがはフレイだ。
 ディラスは、喜びを胸いっぱいに溢れさせながら、皇帝ニンジンへとかじりついた。
 ぱり、とした食感。鼻へとぬけていく独特の香り、そして口の中にひろがる甘み。間違いない。美味である。
 かりこりと、朝食がわりのニンジンのおいしさに感激しつつ、フレイの農作業をみつめる。
 収穫適期を見極め、ひとつもらさず水遣りをし、土の具合も確かめている。
 相変わらずまめな仕事ぶりだ、と感心しつつ、もうひとくち皇帝ニンジンにかじりついて――はっ、とディラスは我を取り戻した。

 ――なにやってんだ俺ー!

 これでは正真正銘のウマ野郎である。舞い上がっていた気分が、どん底へと落ちていく。
 身も心も馬になるなんて、そんなのは嫌だ!
 ヒンヒンと啼きながら、内心身悶えるディラスを、不思議そうにフレイが眺めている。それがますます居た堪れない。
 すみやかに、フレイにとってはライデンである自分が、ディラスであることを伝える必要があった。
 だが、どうやったらこの現状を伝えられるだろう。みつめうだけで事情が伝わるわけもない。ならば文章にして伝えるか、と思ったが手が蹄である以上筆記用具など持てない。
 万事休すなのか?!――と、絶望しかけたとき。
「フレイさん!」
 いつもは綺麗に整えている金の髪を乱したマーガレットが、畑の北方向――飛行船通りにつづく出入り口から、血相変えて飛び込んできた。
「おはよう、メグ。どうしたの、そんなに慌てて」
 のんびりとフレイが挨拶をしながら、マーガレットに近寄る。
「またポコリーヌさんが食材食べきっちゃった? 今日なら、キャベツにタマネギと……、あ、ニンジンもだせそうだけど」
 かつて、開店前に店の食材をすべて食べきってしまったとき、フレイの畑から収穫できる野菜でその日を乗り切ったことがあった。
 マーガレットの慌てようが、そのときに重なったのか、のほほんとフレイが出荷前の野菜を示す。
 だが、「そうじゃないよ!」と、マーガレットが勢いよく首を振る。
「ディ、ディラスがっ」
「ディラスがどうしたの!?」
『!』
 二人の会話に、ディラスは鋭く反応した。
 そういえば、自分がこうしてライデンの体になっているのならば、本当の自分の身体はいったいどうなっているのか。あまりにも異様な事態に、そこまで頭がまわっていなかった。
「と、とにかく、ポコさんの店に――」
「わかった!」
 マーガレットの言葉を遮り、慌てて駆け出そうとするフレイの前に、すばやく回りこむ。
『乗れ!』
 またしてもいななきにしかならなかったが、ディラスは叫んだ。それにフレイが一瞬だけ考え込んだあと、力強く頷いた。
「乗れってことだね? ありがとう!」
 意図を察してくれたフレイが、ひらり、ディラスの背――ライデンの馬上へと身を舞いあげる。
 フレイが落ちないよう鬣の一部をつかみ、腰を落ち着けたことを確認したディラスは、駆け出した。取り残される形となったマーガレットの声が、背後へ遠のいていく。
『……はやい!』
 ディラスは、思わず呻いた。
 風になるというのは、こういうことをいうのだろう。
 細く長い四本の脚が力強く地面を蹴るたび、周囲の景色が追いきれない速度で後ろへと流れていく。それだけ、身体が前へでるのが速いということでもある。
 慣れないライデンの身体とはいえ、これほどの力をだせるとは思ってもいなかった。
 そして、フレイを背に乗せたまま、ディラスはセルフィアの街北東へ、あっという間に到着した。そこにあるポコリーヌ邸の一階は、西がレストランで東がアーサーが交易をおこなうための執務室になっている。
 その屋敷の前に、彼らはいた。