こんなにも涼しく爽やかな風が空から吹いているというのに。
こんなにも戦の憂いのない世に降り注ぐ光は暖かいというのに。
こんな優しい世を望んで皆、命をかけて戦ってきたというのに。
その果てに起きた結末は、あまりにも悲しくて残酷すぎる。
長い廊下の片隅で、白い壁に背を預けた那岐が、不愉快極まりないという感情を隠すことなく緑の瞳にちらつかせ、ため息をついた。
でも、なんとなく那岐は気付いていた。あの太刀の恐ろしさと、それをふるい続ける忍人の危うさ。
すでに忍人の魂はぼろぼろで、いくら命を与える神器を手にしたとはいえ、もうどうにもならないとわかっていた。体が回復し、失われた命が与えられようとも、魂が保てぬほど欠損してしまえば、人は死ぬ。
ただ、このまま静かに暮らしてさえいけば、生きながらえていくと。千尋の傍らで、千尋とともに幸せに笑っていられるくらいならば、できるだろうと。そう思っていた。だからあえて、言わなかった。もうこれから戦うことなんてないし、千尋だってそれを認めないはずだったから。
だけど、運命は彼らが幸せになることなど許さなかった。
忍人のすべてを食らい尽くす道しか、与えてはくれなかった。
あんな風に泣く千尋を見るのは初めてで、苛立ちだけが募っていく。
「那岐!」
そんなことばかりぐるぐると考える那岐のもとへ、一人の若武者が現れた。
ちらりと一瞥だけして、那岐は視線を床に落とした。
駆け寄りその傍らに立った布都彦が、悲痛な面持ちで目を伏せる。
「その、今はどのような……」
「まったく、みてらんないよ」
はあ、ともう一度ため息をついて、那岐は額にかかった金色の髪をかきあげる。その口調の苦々しさに気づいた布都彦が、唇を噛み締める。
「姫は――いえ、王はあれからずっと……?」
律儀に言い直す布都彦に、那岐は小さく頷いた。
「ああ、眠っていないし、食事どころか水も飲んでない。何をいっても上の空だよ、このままじゃ身体を壊すね。遠夜がなんとかしてるみたいだけど、どこまで持つか」
どんなにいっても、どんなにきかせても、まるで那岐の言葉は届かぬ遠い場所にいるように、千尋は首を縦に振らなかった。
生気のない瞳で、ただぼんやりとしているその姿に背筋が寒くなったことを思い出し、那岐は腕を組んでぎゅっと自身を抱きしめた。まるで、奈落の底へと落とされてしまうような錯覚を覚えるあんな暗い瞳は、千尋には相応しくないというのに。
「ようやくこちらもひと段落ついたのだが……お顔を拝見することも難しいだろうか」
千尋のことが心配ではあるものの、首謀者の調査と橿原宮の警戒態勢の強化のため、あちこち駆けずり回っていた武官の布都彦は、今の千尋の様子を詳しくは知らない。
主君の身を案じる臣下の鑑とも言うべき布都彦に、那岐は小さく肩をすくめた。
「あいにくと、その女王陛下から殯宮にはくるなって命令がでてるらしいよ。僕は直接聞いたわけじゃないけど。柊がそういってるらしいね」
そんな那岐の言葉と仕草に察したのだろう。布都彦は、彼らしくない重々しい息をついた。
「そうか……ならば我らはどうするべきなのだろうな。できることはないのだろうか?」
女王に仕える臣として、ともに戦ってきた仲間としては、当然の問いかけだ。
那岐とて、幼いころからともに暮らしてきた大切な女の子を思わぬことはない。
だけど、できることなど――。
「ないよ」
「っ!」
あっさりとそう言い切れば、布都彦が厳しい視線を向けてくる。何事か反論しようとするが、口に出しかけていただろう言葉は、その奥に飲み込まれた。
ああ、今自分はきっとひどい顔をしているんだろうな。
こちらをみる布都彦の、泣きそうな顔をみて那岐はそう思う。
だがみっともないけれど、千尋のことを思えば軋むこの胸の痛みはどうしようもない。じくじくとしていつまでも治らぬ傷ができたようだ。
「僕たちにできることは、なにもない……。だって、あいつが選んだのはあの男だったんだから」
そして、今必要なのもまた、あの男。
二振りの太刀を携えて、戦場を駆け抜けていく後姿を思い出す。あんなに生き急いで、彼はいったい、どこにいきたかったのだろう。
「那岐も、陛下を案じているのだな」
「一応これでも幼馴染だし、ね」
こんな風に心配することしかできない自分は、なんと役に立たないのかと思う。那岐は虚しくて悲しくなる。自嘲気味な笑みが勝手に浮かぶ。
こんな気持ちは知っている。師匠を失ったときに、味わった絶望感。
一人残されたことへの嘆きは深く、今もこの胸に刻まれている。もちろん、自分と千尋を比べるつもりなどない。それでも大切な人を失った辛さは、多少なりとも理解できるつもりだ。
他者の言葉に救われ、慰められることもある。千尋が那岐に与えてくれた優しさがそれだ。だけれど、最後は自分で心を整理してこそ決別は成るもの。それに、今の千尋に言葉は届かない。耳を傾けられるほど落ち着くまで、待つしかない。
だからこそ、今できることがないと那岐は言ったのだ。
「もういい? これ以上僕が言えることはないよ。気になるなら、自分で確かめにいって」
緑の衣を翻し、那岐は陽光降り注ぐ回廊の奥へとゆらりと歩き出す。見送る布都彦の視線を背に感じながら、那岐は中庭をみた。
その上に広がる空は、泣きたくなるほどに蒼く澄み渡っている。
さらさらと小川のように流れてくる静かな風が、背後から布都彦の小さな呟きを那岐に届ける。
「葛城将軍……あなたは姫の御心も一緒に連れて逝ってしまわれたのですね」
誰かを思わせる青い空から、那岐は目をそらす。
今は悲しみ沈んでいるあの美しい瞳が、この空のようにいつかまた輝くように、と。
那岐は祈るように視界を閉ざした。