なんだか、妙な胸騒ぎがする。
ぎゅうっと千尋は身に纏う豪奢な装束の胸元を握り締めた。しゃらりと装身具が音をたてる。
民衆を前にしたときの緊張とはまた違う、いやな鼓動を刻む胸を押さえ、千尋は不安げに視線を動かして辺りを窺う。即位の祝宴までのわずかな合間、橿原宮の一室で過ごすようにいわれたのだが、どうにも落ち着くことが出来ない。
誰もいないことを確認して、するりと部屋から抜け出す。こんなときに供もつけず廊下を彷徨っているところをみられたら、なんといわれるかわからないけれど、それでもじっとしていることなどできなかった。
即位式は滞りなく終わった。
自分の言葉は、これからのこの国のはじまりを告げた。集まってくれた臣民達にも、この国の未来への思いはきっと伝わったはずだ。 すべて、うまくいった。そのはずなのに。
ぎゅ、と千尋は自分の胸元の手に、もう片方の手を重ねて力を込めた。
いなかったのだ。
忍人が、いなかった。
それが心に、小さな黒い点を落としている。真っ白な布に墨を落としたようなそこから広がっていく焦りは、冷たいくせに千尋の心をじりじりと追い詰め焦がしていく。
それを払拭するために、千尋は彼を探すために部屋を抜け出す決意をしたのだ。
どうしても、一目だけでいいから会いたい。そうしたら、きっとこんなもの綺麗に消えてしまうはずだ。
最後に会った場所にまだいるだろうか。それとも、身を休めるために部屋へと下がっているのだろうか。
とりあえず、桜の花びらが舞っていたあの回廊へいこう。はやくしなければ、時間がきてしまう。
そんなことを思いながら足早に移動しようとする千尋の行く手を、廊下の角からすっと現われた小柄な影がさえぎった。
「っ!」
びくり、と身構える千尋の前に、柔和な笑みを浮かべた狭井君とすました顔の采女が立ち塞がる。
「陛下、そのように慌てられて……どちらへと参られるのです。丁度、宴の支度も整いましてございます。諸国の豪族の方々もお待ち申しあげておりますゆえ。さあ、こちらへどうぞ」
「あ、あの、待ってください」
有無を言わさぬ誘導に、千尋は困惑しつつ声をあげた。
「すみません、すぐにいきますから。ちょっとだけ、すこしだけでいいんです。忍人さんとお話がしたいんです」
忍人という名前がでた瞬間、わずかに狭井君の目が細くなったことに、必死に訴える千尋は気付かない。
「いいえ、なりません陛下。将軍とならばまた後ほどお会いすることも出来ましょう。王としての勤めをお忘れなさいますな」
「でも!」
「ああ、少々御髪が乱れておられますこと。宴に向かう前に御身を今一度整えましょう。さあ、陛下をお部屋へ」
狭井君の言葉に、控えていた采女がするりと千尋の傍に寄る。
洗練された所作は、厳しく躾けられた狭井君の采女ならではのものだ。
抗うべきではないのもしれない。女王としてふさわしい出で立ちで、諸侯の前に立つのは王になって初めての、重要な仕事なのだとわかっている。でも。
ばたばたと、中庭を慌しく警備の兵たち駆けてゆく。その姿に、千尋のいやな予感が最高潮に達する。
直感が告げる。嫌なことが起きているのだと、はやくいけと千尋のどこかが叫ぶ。
「――ごめんなさい!」
千尋は、ばっと身を翻し駆け出した。
女たちが慌てて追いすがろうとしても、それは戦場にて鍛えられた俊足。日々淑やかにある采女たち、ましてや足の悪い狭井君など追いつけるはずもない。
「陛下! いってはなりません!!」
ぴりりと大気を震わすような制止の声も振り切って、衣装の裾の乱れも気にすることなく、千尋は走る。角を曲がり、まっすぐな廊下を抜けて。あの回廊を、ただひたすらに目指す。
やがて、少しずつ聞こえてくる喧騒に千尋は身震いした。向かう場所から流れてくる空気は、やけに不穏で不気味だ。そして、見えてくる人垣。
その中に見知った姿がある。風早、布都彦、那岐に遠夜。空から厳しい表情で大地に降り立つサザキ。わぁわぁと泣く声は、足往のもの。
どうして、みんなそんなに怖い顔をしているの。どうして、みんな泣いているの。
わずかに離れたところで、千尋は走っただけでない鼓動の強さを感じながら立ち尽くした。こめかみが、痛い。胸の奥が冷えていく。指先の感覚が、途切れる。
風に乗って届くのは、戦場で幾度経験しても慣れることのなかった血の匂い。
彼らの中心に何があるのか、確認することが恐ろしい。思わず半歩後退した千尋の肩を、そっと誰かがおさえた。
びくり、と肩を跳ね上げた千尋の耳へ、穏やかで物悲しい声が届く。
「我が君。どうか、忍人のそばへいってやってはくださいませんか」
振り仰いだ背後の人物は、切れ長の瞳に静かな光を宿して、千尋をそっと押し出した。助けを求め縋るように視線を向けても、柊は真正面から見つめ返して頷くだけ。
その隻眼は、ひたすらに静かで。
よろり、と千尋は前に踏み出す。目の前の人の固まりへ、引き寄せられるように、また一歩、もう一歩と千尋は歩む。
「姫様……!」
集まっていた兵の一人が、千尋の存在に気付いて声を上げた。
そうして、ざわりと集団に広がっていく戸惑い。
足を出すごとに、人垣が割れてゆく。狗奴の兵士が、泣きじゃくる足往を抱き上げて、静かに場をあけた。そしてその先に見えた光景に、千尋はくしゃりと顔を歪めた。
「忍人さん……?」
大切な人が倒れている。降り積もった桜の花びらの中、倒れている。
血の気を失った白い面、厳しい視線を放っていた涼やかな瞳は穏やかに閉じられて、薄い唇は微笑むように結ばれている。
だけれど、その身にはいくつもの傷が刻まれ、血が流れ出したあとがある。その傍らに落ちた太刀が、その最後の戦いぶりを示すように朱に塗れて鈍く輝いていた。
「忍人さんっ!」
手を伸ばし、千尋は駆けた。床に溜まった血に塗れることを厭わず膝をついて、忍人の身体に縋る。胸に置かれた手をとる。ひんやりとした肌に、ぞっと背筋があわ立った。
「おしひとさん、おしひとさんっ! いや、どうして、こんな! 血が……いやぁぁ!」
「千尋」
身体全体が悲鳴を上げているかのように、震えが止められない。
いやいやと頭を振る千尋の肩に、そっと風早の手が置かれる。
いつもは安心できる優しいぬくもりが、じんわりと伝わってくる。だけれど、今は握り締める忍人の手の冷たさとの温度差があまりにも対照的すぎて、ぼろぼろと涙を誘う。
「どうして、いや、いや……目を、あけて……忍人さんっ!」
すでに血がとまっているのは、遠夜の治療のおかげだと信じたかった。でも、忍人の傍らにしゃがみこんでいる遠夜は、ぎゅっと変若水のはいった薬瓶を抱きしめて何も言わない。伏せられた睫の奥の瞳が悲しげに揺らいで、千尋をただ静かに見つめている。
いつか、聞いたことを思い出す。死に逝く定めの者は、万能の癒しの力をもつ変若水であっても救えないのだ、と。
「っ……! 忍人さんっ」
そんなはずはない。この人は死ななければならない定めだったなど、そんなはずはない。そう思いながら、懸命に名を呼ぶ。だけれど、どんなに叫んでも応えはない。
こちらへ繋ぎとめるように、千尋は忍人の手を強く握り、頬を撫でた。無言で横たわる忍人に、いかないで、と幾度も幾度も訴える。
「千尋、落ち着いて!」
「いやっ! 忍人さんっ! 助けて……誰か、忍人さんを、たすけて……!」
そう叫ぶ声に、見守るものたちが悲痛そうに顔を曇らせた。誰しもが、その音に貫かれたように押し黙る。
布都彦が零れ落ちる涙を拭うこともせず、愛する者を守って逝く、敬愛する将の姿を目に焼き付けるように視線を落としている。
那岐はこうなることがわかっていたような、そんな瞳で痛ましげに千尋と忍人を見下ろしている。
サザキが何かいおうとして、でも何もいえずに静かに拳を握り締める。
千尋が、涙をこぼしながら見上げた風早は、目を伏せて小さく頭を振った。
それが、こたえ。
もう。大切な人を救うことはできない。
すとんと落ちてきた「死」という言葉が、千尋の思考を埋めていく。
張り詰めていた感情が、一枚、また一枚と小石を落とされた薄氷のように、砕けていく。心の奥底に、その辛い現実が到達したとき、千尋は忍人の胸に額を押し付けた。
命の鼓動は聞こえない。どんなに耳を澄ましても、鼓膜を震わせることはない。
いつかこの胸に抱かれることを夢見ていた。優しい腕に包まれて、微笑みあうことができたらいいと、願っていた。
そんな小さな望みも、もう叶わない。
千尋は、何も見えなくなったかのように、何も聞こえなくなったかのように。
声を上げた。