15.誓約

 この世界の支配主が、一歩前にでる。
「まこと、おもしろきこと」
 己の地でのこのような勝手な振る舞いを怒るわけでもなく、大神は笑う。
「神と人との誓約――この地を治める我が確かに見届けようぞ」
 どのような結果になろうともそれを証すると言霊を放つ大神に、千尋は感謝した。
「ありがとうございます」
 その言葉に闇が楽しげに揺れる。
 そうして千尋はもう一度、静かに忍人と向き合い、僅かに震える唇を開いた。
「忍人さん、私に力を貸してください」
「ああ」
 互いを真摯に見つめながら、千尋は続ける。
「もしかしたら、私たちはこのまま黄泉の住人となるかもしれない。世界も消え去ってしまうかもしれない。だけど、私は――」
「それはないだろう」
「え?」
 あっさりとした忍人の、確信に満ちた言葉に目を瞬かせる。どうしてそんな風に言い切ることができるのか。
「ど、どうしてですか?」
 思わずそう問い返すと、何をいっているのかといわんばかりに忍人が口元に笑みを刷いた。
「君の心に偽りはなく、君の想いに勝るものはない」
 力強い音で響く言葉に、千尋の心と魂が慄いた。
「ならば、敗北などありえない」
「……はい!」
 その深い信頼に、千尋はただ小さく頷いた。それは胸に響き、少しだけ残っていた不安を打ち払っていくだけの力があった。
 す、と忍人が太刀を掲げる。
 愛するもののために。その心を示すために。
 今、忍人できる最大限の術。流れ込んでくる仲間の力もすべて、こめてゆく。
 忍人の手にある生太刀が姿を変える。混ざり合い、光の塊となったそれが再度形を結ぶ。
 それは輝くひとつの太刀と成る。
 魂と霊力のみで構成された黄泉の国ならばこそ、その持ち主の意思に応じて姿を変じた太刀が鳴く。
 放て、と。
「今の俺は君の力そのものだ。だから、ともに。そして――二人で還ろう」
 千尋は頷いて手を伸ばす。柄を握る忍人の手に自分の手をそっと置いた。魂を隔てる肉体は今はない。なれば、二人が願えば魂を重ねることなど容易かった。加えて、今の忍人の魂のほとんどを埋めたのは千尋だ。
 なれば、今ここに、ふたつ魂はひとつに。
 姿を重ね、ただ前を見据えて太刀を上段に構える。
 命も、心も、願いも。想うものすべてが、ひとつになる。
「「龍神よ。誓約をここに」」
 二人で言霊を紡ぎ、忍人が続く。溢れる力を集めるように。
「我らの平穏を願う心が偽りであるならば、この太刀の光は我らを貫くだろう」
 千尋が青い瞳を閉じて告げる。
「私たちの願いが真のものであるならば、この太刀の光はあなたを貫くでしょう」
 す、と開かれた瞳に迷いはない。そこにあるのは、自分と愛するものすべてを信じる強さだけ。
 音ひとつとたてず、太刀が振りかぶるように引かれる。太刀に集う光が、来るべきその一瞬をひたりと待つ。

「我が願いよ――神を、貫け」

 闇を渡り、千尋の声が世界を駆ける。
 そして、二人は太刀を力強く振り下ろす。
 すべてを震わせて、光は束となり虚空を突き進む。
 そして。

 光は、龍神の胸を貫いた。

 流れ込む人の心に、神は静かに瞼を閉じる。
 それは混沌としたもので、ひとつの形に定まらない。
 それはまったき神である龍にとっては、どうあってもわからぬものだ。だが、それは無限の姿をもち、鮮やかに世界に焼きついていくだけの輝きを秘めている。
 もがきながらも、何かを求め。
 苦しみを分かちながら、誰かを愛し。
 悲しみさえも伝えて、未来を繋ぐ。
 愚かであるが、尊い。
 醜くはあるが、美しい。

 ――これが、人の力か

 す、と開かれた目から注がれる視線を二人は恐れることなく見返した。

 ――汝らに、人に。世界を譲り渡そう

「っ! あ、ありがとうございます!」
 龍神の光よりなお眩く顔を輝かせた千尋が、忍人を見上げる。愛しい人の優しい笑みがそこにある。
「よく、やったな」
「忍人さんが、いてくれたからです……」
 そっと頬に添えられた手に、千尋は瞳を伏せた。
 忍人と千尋、そして龍神に順繰りに視線を送った大神が、地の底から天の果てまで届くかのように宣する。
「ここに誓約は成った! 勝利せし者は、人である豊葦原が王! これよりのち、龍神はその言葉を違えることは許されぬ。この黄泉津大神がその証人である」
 自分たちの願いが成就したことを告げるその言葉に、二人は微笑みあった。
 金色の鬣をそよがせ、龍神が光を操る。それに呼応したように、生太刀が光の輪となる。

 ――さあ、もどるがよい
  人の地へ。王となり、築くがいい
  汝の願うままの、平穏を、安寧を、いつまでも伝えていくように
  汝らの信ずるものを、我もまた信ずることとしよう

 光輪が、千尋と忍人を取り込む。
 ふわりと浮かび上がったつま先に、この地から去るべきときがきたのだと、千尋は悟る。
 慌てて龍と大神を見る。
 大神は何を言うでもなく、ただ目を細め口元を歪めていた。
「あの、ありがとうございました! またいつかお会いしましょう!」
 思わず千尋がそういうと。ぎょっと忍人は目を見開いた。
「な、なにをいっているんだ君は!」
「え、でも、いつか死んじゃったら、私またここにくるんでしょう?」
「いや、それはそうかもしれんが……!」
「ふ、ふふっ……ふ、はははは!」
 天へと浮かびながら言い合う二人のそのやりとりに、大神がはじけたように笑い出す。それは、しゃがれた女のものではなく。妙齢の女のもの。耳に心地よい声だった。
「――ああ、汝がまたこの地にくるのを楽しみにしていよう。せいぜい、その命長らえよ。そして、我によき土産話でも聞かせておくれ」
「はい!」
 友人との約束のように、そう言葉を交わし大きく頷く千尋を、忍人はきつく抱きしめた。
「そうそう黄泉などに来させてたまるものか」
 その言葉に、千尋は蕩けるように笑った。確かにこの手に掴んだ人を、抱きしめ返す。
「――はい。二人で精一杯、生きていきましょう」
 その光景に、龍神は目を閉じた。

 ――さらばだ、我の選んだ小さき娘よ

「……さようなら」
 千尋がそう答えると。
 二人は一条の光となった。
 そして、天へと屹立する柱となり。黄泉の世界を後にした。

 

 

 見送った後、残された大神は龍神に視線を流した。
「なんとも……我が治める地で、ようもこれだけのことをしてくれたものよ。久方ぶりに楽しい思いをさせてもらった」

 ――黄泉津大神よ、この地に留めおかれる魂は……

「わかっておる。もうそうする必要もないのだろう。誓約を見届けた、我がそうすることもない」
 ふわりと大神は闇を翻す。
「ひとつ問おう」
 龍の沈黙を無言の容認と受け取って、大神は言葉を続ける。
「なぜ、あの娘に力を貸した。これまでも、あの娘は願い続けてきたが、汝は応えることはなかったであろう」
 ゆっくりと、龍神が瞳を閉じる。

 ――人は、愚かだ。平和を願いながらも、争いを繰り返す
  犠牲を強いてなお、生きようとする。それを忘れて、生き続けていく
  だが、その中にあたたかく紡がれていくものがある
  幾度繰り返した世界でも、それは確かにあった。それを、神子は我に示し続けた
  諦めることもなく。忘れることもなく。ただひたすらに、示し続けた

「なるほど……汝は、わからなくなったのか。そして、確かめたくなったのだな」
 くすくすとからかうように、大神はそう零した。
「人は善でも悪でもどちらでもありはせぬ。どちらかに判ずることなどできぬ。あらゆるものを抱え、矛盾に悩み苦しむ。それでもあの娘の言ったとおり、何かを残さずには、託さずにはいられない。それが人であろう。神である我らにはない、未来を信じ掴み取ろうとするそれは、人だけがもつ力だ」
 黄泉の底にて、数多の魂を眠らせて慈しむ黒い母はそう談じた。
 生を終え、しばしの休息にまどろむ魂たちの、記憶の欠片はそのどれもがどんな玉よりも輝くものであることを知っているがゆえの、言葉だった。
「なに、我らがもつ時は永遠。歴史の果てに人の子らが織り上げた錦を手にそのよしあし判ずるのもまた一興。あの娘の礎があるならば、きっと美しく我らの眼を楽しませるものとなろうよ」
 口元に手をあてて、大神はころころと声をあげる。
「さあ、おぬしも早々にここを立ち去り、地上を眺めるがよい。おぬしの光は、この地には眩しすぎる。あの白き聖獣のように人に身をやつして、世界をみるのも一興やもしれぬぞ?」

 ――そうかもしれぬ

 予想外の返答に、おやと大神が目を見開いた一瞬に。
 りん、と小さな鈴の音をひとつ涼しげに響かせて、龍神は白い稲妻となった。そして、天を駆け抜けるように、己が地へともどっていった。
 光は消えた。
 神子と神子の愛した男が現し世へ戻り、龍神も去ることによって、平時の緩やかに横たわる闇が帰ってきた。その中で、大神は一人小さく微笑んだ。
 いつの世でも。
 たとえ神の支配する世であっても。無限に繰り返される、閉ざされた箱庭の中でも。
 人の想いは強きもの。
 定められた世界の流れに飲まれ消え往くのが人ならば、その末を覆すのもまた人だ。
 何ものも混じらぬ純粋な想いに、願いに。きっと、神は応えずにはいられない。
 どれほどの過ちの中でも、なお光り輝くその魂。
 それは神すらも魅了する。
 なればこそ、白き龍は神子の想いに応えるべく現われたのだ。
 あの神子が無限ともいえる繰り返しの中で、失わなかったもの。すり減らすことなく、むしろさらに重ねる時間に磨かれていった、静かに見守るだけであった神の心を傾けるだけのもの。

 愛し想いと純粋な願い。

 ああ、かつて。我と我が背の命もあの二人のようであったなら。
 それは遠い、遠い、創世の時。
 いつもは悲しみと痛みしかもたらさぬ、愛した神の面影を胸に抱いて、心静かに大神は瞳を閉じた。身にまとう闇を捌いて、さらに暗い闇の奥底へと足を進める。
 どうしてか、いまその胸の内はほんのりと温かかった。