新婚さんのはじまり

 今日もじつにいい天気である。
 んー、とキリクは背伸びをした。夏の匂いをはらんだ風が、全身を洗うかのように吹きつけてくるのが心地よい。空は高く青く、太陽は燦々としたその恵みで、山や川や村を照らし出している。手入れの行き届いた畑は実り豊かで、さきほど覗き込んだ畜舎では、ウマをはじめとした動物たちも元気そうにしていた。

 この世界はなんて素晴らしいのか!

 鼻歌混じりに、柄にもなくそんなことを考えるのは、今日が想いを寄せに寄せていた女と結婚して一日目の朝だからだ。まるで、今日世界が生まれたかのような気分である。
 朝一番に彼女の声がきけて、彼女の笑顔が向けられる。
 そのことが、これまでにないくらいに嬉しい。起きたらすぐそこに、サトがいるのだ。
 結婚っていいもんだ。
 心からそう思いながら、家へと戻ろうと足をふみ出したとき、視線の先にある扉が開いた。
 ひょい、と姿をあらわしたのは、サトだった。というか、サトと二人っきりの生活をしているのだから、当然といえば当然なのだが――それだけで心が躍った。
 どうやら、ちょうど呼びにいくつもりだったのだろうサトが、こちら気づいて手を振ってくる。
「ごはんできたよ~」
「いま行く!」
 ついつい早足になって駆け寄ると、家の中からいい匂いが漂ってきた。
 くう、とそれに対して素直に腹が反応を示す。
「ごめんね、遅くなって」
「いや。そんなことねえよ」
 申し訳なさそうにしているサトに笑いかけ、匂いにつられるように食卓に近づくと、サトの牧場でとれた卵や、山や川の恵を活かした朝食が、いっそ芸術品といってもいいくらいに美しく並んでいた。
 うきうきと、キリクは自分の席に腰掛けた。
 白いご飯に、焦げ目のない卵焼き、小ぶりな焼き魚やおひたしに、味噌汁。このはな村における標準的な朝食だが、そのひとつひとつが輝いてみえるのは、やはりサトが作ってくれたからだ。
「はい、お箸」
「お、ありがとな。さて、と……」
 渡されたお揃いの箸を手にして、向かい合わせに座ったサトと顔を見合わせて、にっこりと笑いあう。
「「いただきまーす」」
 声をそろえてそういって、キリクは目の前の料理に手をつけた。
「……!」
 うまい。
 艶やかに炊かれた白いご飯。旬の野菜の味噌汁もいいあんばいだし、卵焼きもふわりとしている。さすが、村の料理大会で幾度も勝利に貢献してきたサトである。
 もくもくと平らげていると、サトが小さく笑った。
「そんなにお腹減ってたの?」
「いや、あんまりにも美味いからさ、箸が止まらねぇだけ」
 素直な感想を述べると、サトがわずかに頬を赤らめながら目を細くした。
「……よかった!」
 ほっとしたようにそういって、目の前の料理に箸をのばしていく。ややゆっくりとした、上品さを滲ませるその食事風景に、思わず見惚れる自分は相当やられているな、とキリクは照れくさくなる。
 そうして、会話と笑顔まじりに楽しく食事をして。
「ああ、うまかった! ごちそうさま」
 最後に味噌汁を一滴残らず胃におさめたキリクは、手を合わせて、サトと食物へと感謝した。
「はい、お粗末様でした」
 ソナの真似か、どこかのお母さんのようにサトがいう。お腹も満たされ、心も満たされ、キリクはほうと息をついた。
 惚れた女が、笑顔満開で目の前にいて。
 たいらげた朝食はとてもおいしくて。
 そしてそれを作ってくれた嫁さんは可愛くて。
 誰かと一緒に食事をとることが楽しくて。
 とにかく、今のキリクは「幸せ」という山の頂にたっている。
 男の女の差か、単純にキリクが食べるのが早いのか。まだ半分ほど料理が残っていたサトが食べ終わるまで、のんびりとお茶を飲んだりしながら過ごし、最後にサトと一緒に食卓を片付ける。
 食器を洗うサトの姿にも、やはり頬が緩む。手渡された茶碗を拭いていると、あまりの機嫌のよさにサトが首を傾げた。
「なあに、そんなに笑って……。あ、私どこかおかしい?」
 寝癖でもついていると思ったのか、サトが慌てて髪を撫でつける。もちろんそんなことはない。
「いや、いつもどおり可愛いぜ?」
 棚に拭いた食器をおさめながらさらりとそういえば、ぴたっとサトは動きをとめた。
「……もう」
 ふわ、と頬を赤らめ、手ぬぐいでごしごしと水気を拭き取るサトは、やっぱり可愛い。可愛いという言葉だけじゃたりない。
 こういうの、なんていったらいいんだろうなあ――自分の表現力の乏しさに、キリクは内心ため息をついた。
 本か辞書でも読めば、納得のいく言葉がみつかるだろうか。
 だが、時間は無情にも過ぎていき、新婚の夫にそんな暇を与えてはくれない。
 そろそろ、竹馬の友を開店するための準備にいかなければいけない。
「さて、と。じゃあ、オレいくわ」
「え、もうそんな時間……?!」
 慌てた様子で顔をあげたサトが、あっと口元に手を当てた。
「そっか、今日はウマのことで遠くからお客さんがくるんだっけ」
「そうそう」
 結婚することを決めた日よりずっと前からの、仕事の約束だった。
 そんなに多くはないが、キリクは手早く自分の荷物をまとめる。
 玄関までいくと、サトが後を追いかけてきた。せわしなく瞬きをくりかえし、なんとなく落ち着かない様子だ。
「見送ってくれるのか?」
「う、うん……ええと、うん……」
 何故だかサトがしどろもどろに頷く。
「そっか!」
 そうなる理由の見当はつかないが、単純に嬉しい。
 家族がいるって幸せだなあと、今日何度目になるのかわからぬ感情を噛み締めつつ、上機嫌に扉を開けて外に出る。
 軽く振り返って、いってきます、と言おうとしたとき。くい、と上着が引っ張られた。
「?」
 どうかしたのかと、体ごと顔をめぐらせる。上着がのびたが、サトのことのほうが気になった。
 小さな手で引きとめたサトが、真っ赤な顔をやや俯かせて立っている。
 何かいいたそうに、小さな唇をわずかに開いたり閉じたりしている。なんだか胸がいっぱいになる光景だ。キリクが、ほんわかとした暖かいものに包まれたような気分になったとき。
 サトが意を決したように、唇を一度結んだ。そして。
「い、いってらっしゃい……あ、」
 ぱっとサトが手を離す。胸の前で祈るように重ねあわされる手。と、同時にすい、と持ち上がった綺麗な紫の視線に、痺れた。

「あなた」

 柔らかな赤をともした唇からもれた、ありふれた単語。でも自分たちの間では、特別な意味をもつもの。
 へ? と、思った次の瞬間。
 ぐいと、今度は力強く上着が引っ張られて、背伸びをしたサトの顔が近づく。ぎゅっと強く瞳を閉じているのに、ふわり、と頬に触れた暖かな感触はひたすらに優しい。
 声を漏らす間もなく、それはすぐに離れていった。
「っ?!」
 頭に急激に血がのぼる。くらりと眩暈がする。
 いわれた言葉が頭の中に木霊して、やられた行為に神経が麻痺して、反応が遅れる。
 そのわずかな隙をつくように、すごい勢いでサトは家の中に引っ込んでいく。人を驚かせて去っていく、つむじ風のよう。
 ばたん、と響いた音にキリクは我に返った。
「ちょ、おい、サトっ?! 今の……!」
 慌ててドアノブにとびつくが、回して押しても開かない。
「おまえ、鍵かけたのか!?」
 やることがはやい。
 どうやら先手を打たれたらしい。
「あけろって!」
 壊れるのではないかという勢いで回したり、引いたり押したりしてみる。でも、なかなか頑丈にできているらしい扉は、びくともしなかった。
 しばらくそうして一人で大騒ぎしていると。
「もう! いってらっしゃいっていったでしょー?!」
 サトの上擦った声が扉一枚を隔てて、キリクに向けられた。
 さきほど自分のいったことが、やったことが。恥ずかしくてしかたないのだろう。
 あんなに素早く引っ込んでいったのが、そのいい証拠だ。
 だったらやらなきゃいいじゃないかという意見もあるだろうが、どうしようもないくらい嬉しいのでキリクはそんなことは考えない。
 むしろお返しを倍ぐらいしたいところなのである。一体いつからやろうと考えていたのかも問いただしたい。これからもしてくれるのかと、問い詰めたい。だから、扉をあけてほしい。
「いいからいっぺんあけろって!」
「だめー!」
 そんな考えなど、鍵をかけたサトはお見通しなのだろう。だてに結婚したわけではない。
「ほ、ほら、お客様が待ってるかもしれないよ!?」
 きっと真っ赤な顔で、扉に縋るようにしていっているのだろう。ありありと想像できる。
 それを見ることができないのが残念すぎる。抱きしめて、お返しのキスが出来ないのが我慢できない。できることなら、今日はかたときも離れず一緒にいたい。
 でも、さすがに家を破壊しては、サトは困るだろう。こちらとしても新婚一日目にして、扉が壊れた家で過ごすのはごめんである。いくら今の季節が夏といっても、やはり嫌だ。
 今日も朝から開店すると、村人たちには伝えてあるし、前々からの約束をたがえるのもよくない。
 ぐ、と込み上げるものを堪えるように、キリクは大きな拳を握り締めた。数回、落ち着くために深い呼吸を繰り返した後。とん、とそれで扉を叩く。
「おい、サト……帰ってきたら覚えてろよ……?」
 低く、だがはっきりとそう言う。
 今のこの気持ちをあますことなく教えるように、めいいっぱいに抱きしめてやろう。そんな想いを滲ませる。
「……うう、お手柔らかにお願いします……」
 ちゃんと聞こえていたのだろうサトの、焦ったような、困り果てたような小さな呻きに、勝手に口の端が持ち上がる。
 覚悟しておけと再度告げ、こつん、とドアに額をあてる。
 この向こうに、愛しい存在がいて、そのもとへと帰ってくることができるという事実が、たまらなく嬉しい。
「いってくる」
 心のままに微笑んで、そう伝える。
「うん。……いってらっしゃい」
 ほわり、としたサトの言葉が心に降り積もる。
 サトとこうして過ごす時間が、与えてくれるもの。大切な宝物。
 ああ、やっぱり自分は幸せだ。
 名残惜しいけれど、夕方に帰ってくればそれは解消されることだ。
 振り返れば、高い青さをたたえる空がある。目を細めて見上げ、口付けが落とされた頬に手をあてて。

 ああ、結婚っていいもんだ!

 つくづくそう思いながら。
 にまにまと笑いつつ、キリクは美しい牧場の道を抜け、竹馬の友へと歩き出した。

 次の日から、竹馬の友の看板にはこうかかれることになる。
 ――「結婚生活がいそがしいから昼ぐらいからやるぜ!」――
 と。