祝福のワイン

 帰宅したばかりのヒューバートは、今まさに修羅場に出くわした心地で、固まった。
 返事がないのを不思議に思いながら居間へと足を運べば、そこで「ふぬぬ」と顔を赤らめつつ、ワインのコルク栓を引き抜こうとしているパスカルが目に飛び込んできたのだ。
 いつもなら、そんなことをしていたからとて、見咎めることはない。パスカルだってワインを飲みたいときくらいあるだろう。
 二人の新居に設えたワインセラーには、ヒューバートのこだわりもあって、それなりに種類も揃えてあるし、安物もない。好きに使っていいと、パスカルにもいってある。
 でも、だが、しかし。

 その細腕に抱えているワインは!

 声を出そうと思っても、なぜか、なかなかでてこない。
 一歩、ふらりと前に出た動きが視界の端を掠めたのか、パスカルの大きな瞳がヒューバートを映した。それが呪縛のような硬直を解いた。
「あ、おっかえりー、ヒューくん!」
「――おかえりじゃないですよなにやってるんですかパスカルさぁぁぁん!」
 愛しい妻の満面の笑顔に可愛いなぁと幸せを感じる一方、ヒューバートは顔色を悪くして一息に叫んだ。
 だが、その悲痛さも届きはしない。
 半ば引き抜かれていたコルクが、弾けるように飛び出す。

 きゅぽん

「……ふー、やっととれた~。で、なになに、どったのヒューくん?」
 やたらといい音を立てながら、細いガラスの口からコルクを引き抜いたパスカルが、一仕事終えたというようなやたらといい笑顔で、ボトルをテーブルの上へと置いた瞬間――ふわり、芳醇な香りがあたりに漂いはじめた。
 遅かった。
 がくり、とヒューバートは床に膝をついて項垂れた。
「ん~! いいにおい~!」
 まったくもってそのとおりですねと思いつつ、ヒューバートがのろりと顔をあげれば、目を細め、鼻を蠢かせ、にっこにっことパスカルが幸せそうな顔をしていた。
 もう一度、テーブルの上のワインのラベルに視線を置く。間違いなかった。どうみてもそれだった。
「……それをどこで……」
「あ、これ? ワインセラーの奥にあったからさ、ヒューくんと飲もうと思ってだしてきたんだよ。そろそろ帰ってくるかなーって思ったし。で、ほんとにどしたの? お仕事大変だった?」
 そうですね。それをワインセラーの一番奥にいれたのは自分ですからよくわかってます。
 そんなことを内心呟きつつ、ヒューバートはパスカルの疑問を頭を振って否定し、立ち上がる。仕事では疲れなかったけれど、いままさにどっと疲れた気がするとはいえやしない。
 とんでもない衝撃を受けはしたが、いつまでも床の上で蹲るように悲嘆にくれていても埒があかないと判断したのだ。
 こうなってしまったものは仕方がない。
「どうしてそのワインを?」
 はあ、と小さく息をつきつつ、それに目をつけた経緯を尋ねる。自分以外があまり触ったりしないようにとわざわざ奥にしまったというのに。
 それをたやすく見つけ出すのは、妙なところで目の利くパスカルらしいといえばそうだった。
 にぱー、とそこに太陽が生まれたか大輪の花でも咲いたかという明るい笑顔で、パスカルが答える。
「これが一番美味しそうかなーって。今日ね、すっごくいいことがあったからさ! だから一緒にお祝いしたくて!」
 なるほど、とヒューバートは頷いた。
 おそらく、研究がうまくいったかでもしたのだろう。これまでにも、そういうことは何度かあった。やれ、いいアイディアが思いついただの、大紅蓮石のデータ解析が上手くいっただのと、パスカルなりのいいことがあったとき、食事が豪華だったりお酒を酌み交わしたりしてきた。
 みれば、テーブルの上にいつにもまして頑張ったと思しき食事の用意もできている。
 よほど嬉しかったに違いない。
 ここは夫としてともに喜びを分かち合うのが努め。
 だけれども、ちゃんと事実を告げたいという気持ちも、ヒューバートの中にはあった。咎めるのではなく、そのワインの事実を知ってもらった上で、一緒に飲みたいと思った。
「あのですね、パスカルさん」
「なに、ヒューくん」
 結婚して一年がたつが、まだ出会った頃のような話し方と呼び方で、若い夫婦は向き合って視線を交し合う。
 わずかに顔をさげ、ヒューバートはずれていたわけでもないのに、眼鏡を押し上げた。
「それは、父が――オズウェルではなくラントの父が、ぼくに残してくれていた、ぼくが生まれたその年に醸造されたワインなんです」
 なるべく事実だけを簡素に伝えようとした言葉に、パスカルが沈黙し――
「……え、あ、ご、ごめんっ!」
 くしゃ、と顔を歪め、眉をさげてヒューバートの顔を見上げてくる。なにもしていないはずなのに、ヒューバートの心をチクチクと苛むその表情といったら、「いいえ! 何も気にしないでください!」と叫んで抱きしめたくなるくらいに可愛い。思わず、ぐっと拳を握り締める。
 色ぼけた夫の思考に気づく様子もなく、パスカルは視線をワインとヒューバートに交互に送っている。
 死んだ父からの贈物であったことを知り、さすがのパスカルも思うところはあるのだろう。
「あたし、そんなに大事なワインだって知らなくて……」
 めずらしくうろたえたるパスカルに、ヒューバートは苦笑した。なにもそこまで怯えずともいいのに。
「いえ、いいんです」
 パスカルをみていると、自然とそんな言葉が口から飛び出していた。
「いつまでもとっておくわけにもいきませんし、いい機会です。飲みましょう」
 微笑んでそういえば、豊な胸の前で組まれたパスカルの指先に、きゅっと力がこもるのがみえた。
「……ごめん」
「ほんとうに、いいんですよ。むしろ感謝しています」
 穏やかに柔らかく微笑みながら近寄って、テーブルの上にあるワインボトルを手に取る。
 少し古びたラベルの日付をみて、ヒューバートはまた笑う。
「どういうこと?」
 まだ困った顔をしているパスカルの頬に手を伸ばし、むに、とつまむ。少々ばつが悪そうなその顔は、大好きな飼い主に怒られる子犬のよう。
「きっと、パスカルさんがあけてくださらなかったら、ぼくは一生このワインの味を知ることはなかったでしょうから」
 ヒューバートひとりであったならば、ずっと思い出とともにしまいこんで、この芳しい匂いを感じることはなかっただろう。舌の上でその美味しさを味わうこともなかっただろう。
 やはり自分にはパスカルが必要なのだと、とヒューバートは思う。
 いつだって、パスカルはヒューバートにこれまでと違った世界をみせてくれる。自分ではどうしようもない固まりきった世界を、鮮やかにひっくり返していく。
 残念だと思う気持ちがないわけではないが、きっとこれでよかった。
 父アストンとて、大切な人と飲んで欲しいとそう願って、このワインを用意してくれていたに違いないのだから。
 そして、そういう人が、いまのヒューバートにはいる。世界の誰よりも愛しくて大切な、パスカルがいる。これ以上の相手はいない。いるはずがない。
「――だから、ありがとうございます。パスカルさん」
 にこ、とできるかぎりの感謝をこめる。
「……うん!」
 心からのありがとうが伝わったのか、ふにゃりと顔を崩したパスカルが、頬を淡く染めて頷く。
「さあ、座ってください」
「はーい」
 聞き分けのいい子供のように返事をしたパスカルが、いそいそとテーブルにつく。
 それを見届け、すでに用意してあったワイングラスに、ヒューバートはワインを注いだ。
 あ、と何か思い出したらしいパスカルが、「ヒューくん」と声をかけてくるので、ヒューバートはもうひとつのグラスに注ぐのを止めた。
「あたし、ちょっとだけでいいから」
「なぜ?」
 ともに飲みたいからだしてきたのではなかったか。意外な一言に戸惑っていると、パスカルがわずかに肩を落とした。
「あたしも残念だとは思うんだけどねー。あんまりよくないらしいからさ」
「そうなんですか?」
 ワインが何にどうよくないのかいまいち要領をえない回答だが、パスカルの中では完結していることなのだろうと判断し、ヒューバートは少しだけワインを注いで差し出す。
「はい、どうぞパスカルさん」
「ありがとー!」
 では、とパスカルの正面の位置にある椅子に腰を落ち着け、ヒューバートはグラスを手にとってかざした。
「乾杯」
「かんぱーい!」
 そういって、グラスの縁を触れ合わせれば、高く澄んだ音が天井を叩いた。
 ヒューバートは、ゆるりとグラスの中でワインを回し、色と匂いを十分に楽しんで口をつける。
 自分と同じだけの時間を過ごしたワインは、想像以上にヒューバートを驚かせ楽しませてくれる味をもっていた。
 父は、どんなつもりでこのワインを用意してくれていたのだろう。
 いつか、自分と酌み交わしたいと思っていてくれたのだろうか。
 もうそれを知る術はないけれど、まろやかな味わいの中に、父の想いがたゆたっている気がした。
 一方、パスカルといえば、ぺろり、と舌先でワインを舐める程度にしか飲んでいない。
 いい研究成果が出たのなら、いつものように豪快に飲み干してもいいはずなのに、どうしたのだろうと内心首を捻る。
 口にあわなかったのだろうかとまで考えたとき。ぱっとパスカルが幸せそうな表情で顔をあげた。
「これ、すごくおいしーね!」
「よかった。ぼくも、そう思っていましたよ」
 ほ、と息をつく。どうやら取り越し苦労であったようだ。パスカルは嘘をつける性格ではないし、すぐ顔に感情が表れるから、間違いない。
 そういえば、とパスカルがなにか思いついたように、きょろりと瞳をめぐらせた。
「ヒューくんに、生まれた年のワインがあるってことは、アスベルにもあったりするの?」
 いいところをついてきますね、と思いつつ、ヒューバートは頷く。
「ええ。生まれた年のワインが、ひとり一本ずつ用意されていたのですが……」
「が?」
 ヒューバートに、そういうつもりはなかったが、どうにも含みのある言い方になってしまった。それを受けて、パスカルが首を傾ける。
 くす、とヒューバートは思い出を記憶の棚から引っ張り出しながら笑う。
「兄さんが子供の頃に割ってしまいまして」
「あちゃー」
 パスカルが眉を下げて笑う。アスベルらしいね、という言葉に頷いて返す。
「ぼくのワインまでうっかり割られてしまわないように、慌てて隠しましたよ」
 そのすぐあとだった。ストラタのオズウェル家に養子に出されたのは。ワインはラントの家に置き去りにされ、世界をめぐる旅が終わって落ち着いた頃に、ケリーから手渡された。
 まだ、あったのかという驚きと、まだ、持っていてくれてたのかという嬉しさに、泣きそうになったのも、いまとなってはいい思い出だ。
 目頭を熱くするようなそのときの感情をまざまざと思い出しつつ、ヒューバートはゆっくり息を吐き出す。
「きっと可愛かったんだろうねー、ヒューくんの小さいころって! みてみたいなー」
「……どうでしょうね」
 いまよりずっと弱くて、アスベルとシェリアのあとについていくばかりだった自分。
 忘れがたい大切な思い出ばかりだが、いろいろとしでかした気もするし、そういう部分はなかったことにしたいくらいである。
「今度、アスベルとシェリアにきいてみよーっと」
「ちょ、やめてください!」
 いままさに危惧していたことを現実にされてなるものかと、青褪めたヒューバートが叫べば、パスカルは大きく笑い転げた。わかっていてからかわれたのかと、ヒューバートは眉を下げる。
「とにかく」
 こほん、とわざとらしく咳払いをして話題を多少強引に変えにいく。
「そうして幼い頃のぼくが守って、それをあなたに開けてもらって、こうして味わうなんて、とても感慨深いです。きっと、こうするために、このワインはあったんですよ。パスカルさん、ほんとうにありがとうございます」
「……そっかー」
 ヒューバートの素直な気持ちを受けて、にひひ、とパスカルが照れ笑う。
 そして、ずい、とワイングラスが差し出される。
「よおーしっ、もう一回! かんぱーい!」
「はい」
 そのグラスの縁へと自分のものを触れ合わせ、あれ、そういえばパスカルはなんの祝いのためにワインをあけたのだろうと、ヒューバートは再び疑問を抱く。
 みれば、みずから乾杯をしたものの、パスカルはワインを口にすることなく、ゆっくりと自分の腹を撫でている。
 そのパスカルの細い指先が、ひどく愛しげで優しくて。
 ん? とヒューバートの勘が、なにか思い違いをしていないかと告げる。
 だけれどもその違和感の理由がわからず、ワインを飲みながら、あれこれ考えていると。
 そうだ! と、パスカルがなにか思いついたらしく、顔を輝かせた。

「ね、ね、この子が生まれたら、その年のワイン買おうね、ヒューくん!」

 ごう、と風が吹いたような気がした。すべての時間が、止まったような気がした。
 いつか一緒に飲めるといいよね~、などといいながら、パスカルが食事に手をつけはじめるのを呆然とみつめる。
 パスカルが言った言葉を繰り返し繰り返し、脳内で響かせつつ、よーくよく考えて――
「……っ?!?!?!」
 声にならない声をあげ、ワイングラスを放り出す勢いで立ち上がったヒューバートの顔をみて、パスカルが驚いた顔をする。
「どったの、急に? あ、このチーズね、お隣さんがくれたんだけどおいしいよー」
 今日一番のおすすめ! などといいながら、皿を差し出すパスカルが、いつになく輝いて見みえる。そんなパスカルが言っていることは、ヒューバートの心情からはまったくかけ離れた、見当違いのものであるが。
 嬉しい驚きに言葉のでないヒューバートは、椅子を倒しながら一歩強く踏み出しながら、懸命に手を伸ばし言う。
「そういうことは、はやくいってください……!」
 その必死な様子にようやく思い当たることがあったのか、あは、とパスカルが声をあげた。
「あれ? いってなかったっけ、ごめーん」
「まったく……あなたってひとは……!」
 すぐそこで悪びれずに笑う、新たな命という幸せを宿した愛しい人を、ヒューバートはありたっけの愛情を持って抱きしめた。
「ヒューくんはどっちがいい? 男の子? 女の子?」
 暢気なことをいいながら、パスカルが背に細い腕をまわしてくる。
「どちらでも、いいです……。元気に生まれてくれるなら」
 ぐす、と子供のようにみっともなく鼻を鳴らしながら、涙声交じりにそういえば、腕の中でパスカルが微笑む。
「そうだね。あたしも、そう思うよ」
 その落ち着いた声が、もうすでに優しい母親のものであったから、ヒューバートの眦から、とうとうひとつ涙が零れた。
 いつか、愛しい子がお酒を飲めるようになるほどの月日が流れたなら、家族でワインをあける日を迎えられたらいい。
 ああ、父アストンも、きっとこんな気持ちだったのかもしれないと、父親になったヒューバートは思った。