幸福な死

 白い手袋に包まれた己の手を握り締め、ヒューバートは感動にその身を静かに震わせる。
 ようやくここまできたのだという、達成感に近い感慨に、ヒューバートの全身が支配されていた。
 穏やかな静寂に満たされた控室の片隅で、白いカーテンが快晴の空から吹き込むやわらかな風と遊んでいる。美しく整えられた部屋のなかほどには、丁寧に磨かれた丸いテーブルがひとつ。
 その上には、細やかなレースで縁どられたスクエア型のクッション――リングピローが置いてある。
 その傍らに立ち、感極まったように、ヒューバートは息をつく。
 純白のリングピローに静かに鎮座しているのは、ふたつの指輪だ。
 これから、聖堂に一足先に運ばれることになっているその白金の輝きとまろやかな曲線は、掛け値なしに美しい。
 ヒューバートは、わずかに瞳を細める。
 愛する人と生涯を共にすることを誓い、この指輪を互いの指に通す未来――もうここまでくれば、予定ではなく確定である――を想像すれば、かぎりない幸せに包まれる。
 なんだか目頭が熱くなってきた。ヒューバートは、眼鏡をはずして指先を押し当てる。
 いまからこれでは、式の最中や式後にどうなっているのか、見当がつかない。
 が、そんな浮き足立ったところなど、一見しただけではまったく感じられないのが、さすがストラタの大佐であろう。
 ちなみに、世界を旅したときの頃から随分と昇進しているが、ヒューバートはそれも自分にとっては当然のことだと考えている。
 努力することならば、誰にも負けない。そうして生きてきたおかげで、あの人に会えたのだ。だから、これからも努力し続けていくと、ヒューバートは決めている。
 記憶のなか、いつも明るく笑っている彼女の面影に、ついつい小さく笑みをこぼす。
 もし今、誰かこの部屋にいたのなら、その様子をみて驚いたことだろう。こんなにも柔らかにヒューバートが微笑むなど、ごく親しいものしか知らないのだから。
 花婿に与えられた部屋で、ヒューバートは感慨にふけり続ける。
 いまごろきっと、愛しいあのひとも準備を終えた頃だろう。どんな姿になっているだろうか。
 ドレスを選ぶのは、周囲の女性陣が率先しておこなっていたため、どのようなものなのか、実のところヒューバートはみたことがない。まったくもって、ヒューバートに意見を求められることがなかったのだ。それは、少し残念なことだった。
 そんなふうに悔しく感じていたことを思い出せば、いますぐ花嫁の部屋を覗きにいきたい気持ちが強くなる。
 が、そんなに花嫁にぞっこんなところを人に見られたら恥ずかしくて死ねる。参列者には、軍関係者もいるのだ。
 「どれだけ楽しみにしてるの、オズウェル大佐……」とか囁かれたらもうやっていけない。今後、職場でどんな顔をすればいい。
 やはりそれだけは、避けなければならないと思う。
 ストラタ軍内ではすでに愛妻家になるだろうなどと囁かれていることは、当の本人だけが知らないのだが、まあ、そこは知らぬが花である。
 とにもかくにも、お呼びがかかるまで、ヒューバートはひたすら待ち続けるという選択肢を選ばざるを得ない。
 だが、なんとでもなるはずだ。
 忍耐だけなら人一倍あると自負している。そうでなければ、あの人と付き合って結婚する、ということに至るわけがない。たいていの人間なら、途中で諦める。間違いない。
 だから、これくらい待つことなんて苦ではないはずだ。いままでの、さまざまなことを思い出せば、可愛いものだ。
 きっと花嫁が綺麗に着飾られたことを、ソフィあたりが知らせにきてくれる。
 テーブルの脇にある椅子に腰掛けたヒューバートは、そう信じて疑わなかった。

 の、だが――

「まったく……まだなのでしょうか……」
 知らせを待とうと決めてから、一時間もたたぬうちに、限界がきた。結局のところ、余裕がないのかもしれない。だが、生涯に一度きりの大イベントであるし、仕方ないとヒューバートは心の中で言い訳をした。
 自分の忍耐はどこにいったのだろうかと思わないではないが、気になるものはしょうがない。
 苛々としてきた気持ちが、行動になって現れる。組んだ腕を指先で叩く。
「そろそろ用意が終わっていなければ、式に間に合わないじゃないですか……。それとも、花嫁姿を目にするのは式までのお預けということなんでしょうか……?」
 ヒューバートは、むむむ、と悩ましげに顎に手をかける。
 だがせめて、参列者の目にうつるまえに、自分だけがその姿を目に焼き付けたいと思う。それは、花婿の想いとしては当然のことだし、シェリアあたりならわかってくれるはず。
 シェリアとアスベルの結婚式のときも、控室で楚々と座った花嫁姿のシェリアを前に、アスベルが惚けてしまって大変だったが――とても、幸せそうだった。正直、羨ましいと思った。
 決して真似をしたいというわけではないが、それは花婿の権利だと思っていたというのに。
 もやもやとそんなことを考えて、眉間に皺を寄せた瞬間。
 ぱたぱたと軽い足音が、部屋の扉向こうから、すなわち廊下から聞こえてきた。
「!」
 きたか、と喜色満面で椅子から腰を浮かしかけたが、なんとか堪える。
 落ち着くために、顔を引き締め咳払いをした瞬間、ノックもそうそうに扉が開かれた。
 ラント領主の娘としてひきとられたソフィは、レディとしての教育も受けているという。だから、そういった行動にでないだろうと、ヒューバートは無意識のうちに思っていた。
 よって、いきなり扉が開け放たれたことは想定外であった。一瞬、反応が遅れた。だがそれは、致命的な間であり隙であった。
「ヒューくーん!」
「うわああっ?!」
 ものすごい勢いで突っ込んできたのは、ふわふわとした白い塊。
 当たり前のように胸に飛び込んできたそれを、なんとか受け止めたものの、勢いまでは殺せずに、ヒューバートは椅子から転げ落ちた。
 したたかにうちつけた臀部が少し痛むが、そんなにやわな体の鍛え方はしていないし、痛みならいつものことだ。
 ひとまず、なにごとかと腕の中のぬくもりと見下ろせば、綺麗なものがそこにいた。
「――!」
 ぐ、と驚きとともに息を飲みこむ。
「どう? どう? 似合う?!」
 やたらときらきらとした顔をして、ヒューバートを覗き込んでくるその人物は、今日のもう一人の主役である。
「パスカルさん……」
 その名を呼びながら、ヒューバートは眉根を寄せた。怒っているわけではない。顔を意識的に顰めないと、際限なく緩みそうだと思ったからだ。
 自分を押し倒したパスカルは、可愛い。綺麗だ。たしかにそうだ。間違いない。
 出会った頃より長く伸びた特徴的な色の髪を結い上げ生花で飾り、丁寧に作られた霞のようなヴェールをかぶっている。滑らかに上から下へと光を弾く純白のドレスの裾は長く、活発ないつもの姿から想像もできないくらい、おしとやかにみえた。
 だがしかし。

 花嫁が走ってきたあげく飛びついてくるってどういうことですか!?

 予想外すぎるパスカルの行動はいつものことだが、まさかこんな日にまで発揮されるとは……。
 こんなときまでしてやられていることを悔しく思うものの――ああでも、ほんとうに可愛い。
「パスカルさん――うわっ?!」
 我慢できず、とろりと表情を甘く崩し、パスカルの頬に触れようと指先を伸ばしたら、べたべたと恥じらいも遠慮もなく先に触られた。
 思わずヒューバートは固まる。なぜ照れもせず、そういう行動をとれるのだろう。
「うわぁ、ヒューくんすごく格好いい! 似合ってるよ!」
「そ、それはどうも」
 手放しに褒められて悪い気はしないものの、出鼻をくじかれてすこし困る。
 と。
「……も、ちょっと……! パスカル~?!」
「ヒューバート、パスカルがここに……あ、いた」
 開けっ放しになっていた扉の向こうから、よろよろと現れたのは、ラント領主夫人のシェリアと、ラント領主夫妻の娘となったソフィである。
 ふたりとも今日にふさわしい上品な装いであるのだが、いかんせんパスカルにふりまわされたのだろうことが、ひとめみてわかるくらいに、シェリアは疲れている。
「もう! なんでじっとしていられないの?! というか、ヒューバートのうえから降りなさーい!」
「え~、だってつまんないんだもん。座っててください、走っちゃいけません、大またで歩いちゃいけません、手は腿の上で揃えて、とかさ~」
「あたりまえでしょ?! あなた今日の主役の花嫁じゃないの!」
 ぶーぶー、と唇を尖らせるパスカルに、頭をかきむしらんばかりの勢いでシェリアが詰め寄る。
「ほら、戻るわよ! まったく、せっかく綺麗なのに……手袋も暑いからっておいてっちゃうし、もう……」
 つかつかと歩み寄ってきたシェリアが、パスカルの手をとる。厳しい声とは裏腹に、優しく抱きかかえるようにして立たせると、ヴェールを綺麗に後ろへ流し、ベルラインのウエディングドレスをせっせと整える。
 世話焼きの精神がいかんなく発揮されている。いや、どちらかというと母性だろうか。
 そうされているのが年上というのはどうなのか、という疑問が浮かばないでもない。ヒューバートは苦笑した。
 シェリアが本気で怒っていないことを、よくわかっているパスカルが頭を振る。
「やだやだ~! やっとヒューくんに会えたのに! あたし、式の時間までここにいるよ、もう準備はおわったんでしょ? だったらいいよね?」
「そういうことじゃないの! もうっ」
 慣れないドレスを身にまとい、化粧をほどこされ、ひとところでじっとしていなければいけないことに、パスカルの限界が近づいているのだろう。
 長く深い付き合いでそれを察することができるようになったヒューバートは、ゆっくりと立ちあがり自分の服を払ってから、パスカルの肩を抱いてシェリアに視線をむけた。
「シェリア、少しだけ時間をください」
「ヒューバート?」
 時間や規則やには厳しいヒューバートから、そんな言葉がでると思わなかったのか、シェリアが目を丸くした。
「夫婦になる前の、最後の会話がしたいのです」
 ヒューバートがそこまでいえば、あら、とシェリアの細い指が、ほんのりと色づいた頬に添えられた。
 ソフィはよくわかっていないらしく、その隣で首を傾げている。
 シェリアが、くすぐったそうに笑った。
「ええ、わかったわ。じゃあ、私たちは外に。さ、いきましょう、ソフィ。ヒューバートが、パスカルにお話があるみたいだから」
「うん、わかった。じゃあ、またあとでね。ヒューバート、パスカル」
 微笑を浮かべたソフィが、シェリアと連れ立って歩き出す。それは、ほんとうの親子のようで、とても微笑ましい。
 二人が退室したのを見送って、ヒューバートはパスカルに向き直った。
 真正面からみつめているのに、威圧されることもなく、萎縮することもなく。パスカルはいつものように笑っている。そう、いつものように、ヒューバートを幸せにしてくれる笑顔で、そこにいる。
「パスカルさん」
「なに、ヒューくん」
 ゆっくりと、パスカルの手をとる。
 いつも楽しいことをみつけては輝く叡智に溢れた瞳を、背をかがめて覗き込む。それは、宝石よりもなお貴い。パスカルは、誇張ではなく人類の至宝だと、ヒューバートは思っている。
 その傍らにあることを許された自分は、世界一、幸せな花婿だ。
 だから、誓おう。
「ぼくの生涯をかけて、パスカルさんがずっと笑っていられるよう、頑張ります」
 ヒューバートが、幸せにしたいと思うのはパスカルだけだ。だが、それは独りよがりになってはいけない。彼女が心から笑って日々を暮らしていけるよう、この心を傾けねばならない。
 努力と忍耐には、絶対の自信がある。誰にも負けない。
 自分よりずっと小さな手を、ヒューバートは恭しく持ち上げる。
「なにかあれば、必ず言ってください。不安も不満も、歓喜も幸福も。これから、ぼくはあなたの夫となり、あなたをずっと支える存在になるのですから」
 はいはーい、と軽いノリでパスカルが手をあげる。
「あたしも、ヒューバートが笑ってくれるようにするからね~! それはもう、くすぐってでも笑わせてみせるから!」
「……そ、そこまでしていただかなくとも結構です」
 くすぐり用の装置まで作りかねない勢いに、ヒューバートは頬を引きつらせた。というか、パスカルなら作れるだろう。とりあえず、その心意気だけ、ありがたく貰っておこうと思う。
「そう?」
「はい。ぼくは、パスカルさんがいれば、それだけでいい」
「えへへ~」
 笑いあい、二人で額を重ね、同じ未来をみる。
 だが唐突に、あ、とパスカルが声を漏らした。なにかあっただろうかと顔を覗き込むと、きょろ、と琥珀色の瞳が踊った。
「でも、あたしいっつも思ったことはいってるような気がするよ?」
「――ふふ、それもそうでしたね」
 素直で天真爛漫なパスカルは、いつもその心をありのままに伝えてくれている。そんなパスカルだからこそ、疑うことを常としていた自分の中へ、すんなり入ってこれたのだ。
 だが、それを思い出していても、ヒューバートは言わずにはいられなかっただろう。この幸せを、少しでも伝えたかった。
 その一環として、指先に口づけようとパスカルの手をさらに持ち上げて――ヒューバートは絶句した。
 細い指の根本に、にやりと不敵に笑っているように、輝くものがひとつ。
「……ちょ?! まだこの指輪してるんですか?!」
 それは、パスカルがフォドラでちょちょいとつくった高性能すぎる、ソフィの光の力を授かることのできるというデリス鋼でできた指輪。
 この世界に二つしかなく、ひとつはもちろんパスカルが、もうひとつは別の人物が身に着けている。
 ヒューバートの驚きにつられたように己の手をみて、おおう、とパスカルが声をあげた。
「ごっめーん、いつものくせでつい」
「ついじゃないですよ!」
 へらへらと笑うパスカルの指へ、ヒューバートは手を滑らせる。そして、デリスリングをしっかりと掴み、有無をいわさず引き抜いた。
 これは、パスカルを守り、あの戦いで勝利するために必要不可欠であったものだ。
 それはわかっているけれど――いまごろ、聖堂の片隅で、悠然とした態度で新郎新婦を待っているだろう男のことがどうしても脳裏をよぎる。
 もちろん、その人だって自分たちの大切な仲間であるのだが、にやにやとからかわれ続けたことは忘れていない。決して忘れていない。人の恋路を娯楽かなにかと勘違いしていたあの人のことは忘れられようはずもない。
 それになにより、この指輪と同じ指輪を持っているということが、ずっと気になっていた。心の片隅で、ひっかかっていた。何度も否定したけれど、やはりパスカルとマリクがお揃いの指輪をしていることは、気になっていたのだ。
 ヒューバートは、そんな心のもやもやごと、指輪を自分のポケットに落とした。幾分か気が晴れる。
「ああ~!」
 大好きなソフィから光の力を授かるために必要なものである、という認識しかもたないパスカルが、悲痛な声をあげる。
「あとでちゃんと返します」
「ぶー」
 唇を尖らせたパスカルが、なにもなくなった手をぷらぷらと振る。
「じゃあさ、かわりのちょーだい」
「え」
 思いもかけぬ要求に、ヒューバートは目を瞬かせる。
「そこにあるじゃん」
 そういったパスカルが、びしっと指差したのは、テーブルの上で相変わらず静かに輝く指輪であった。
 ヒューバートは口ごもる。
「ですが、これはもうすぐ聖堂に運ばれる予定です。式で互いに交換するものですし……」
 あとすこしで、夫婦の証となる大切なもの。それを今、身につけてもいいのだろうか。
 だが、パスカルはそんなことお構いなしに、指輪指輪といっている。
 悩んだのは、たった数秒のことだった。
 だって、来客たちに見せる前に、自分の妻となったパスカルの姿を堪能したっていいじゃないか。自分だけが、世界の誰よりも先に、それを見るなんて今しか出来ない。
 子供じみた独占欲だが、それが満たされれば、心地よいことは間違いない。
 ヒューバートは無言で、結婚指輪を取り上げた。
 パスカルのものは、自分のそれより幾分か小さくて、そのことが妙にくすぐったい。
 誓いの言葉はないけれど、神聖なことをするのだからと背筋を正し、細い指の奥へと、それを押し込めるようにして通していく。
 手を離せば、パスカルの指にぴったりしっくりと馴染んでいるのが、みえた。
 この人のためだけに作らせた指輪は、この世界でここしか居場所がないと主張しているかのように、淡く輝いている。
 素直に、似合っていると思う。
 じーっと、一連の行動をみていたパスカルが、いう。
「ヒューくん、すっごくニヤニヤしてる~」
「……」
 さ、とヒューバートは白い肌に紅を乗せた。
 確かに気づけば笑っていたけれど、もっとこう、他の言いようはないのですかと思わずにはいられない。
「こういうのは、ニヤニヤしてるじゃなくて、すごく嬉しそうですね、とかそういうふうにいってください!」
 恥ずかしさを誤魔化すようにきつくいっても、パスカルにはまったくもって通じない。
「あ、そっか。じゃあ、ヒューくん、すっごく嬉しそう!」
 ぱあ、と顔を輝かせたパスカルが言い直す。
「……それは、まあ」
 その可愛らしさにあてられながら、こほん、とヒューバートは咳払いをひとつする。
 そして、精一杯に余裕がある風をよそおって、不敵に笑ってみせる。
「悪いですか?」
 囁いて、指輪の上から付け根に唇を落とす。
 顔を伏せたまま、ちらりと視線だけを送れば、ふるる、とパスカルは頭を振った。繊細な刺繍のヴェールがひらひらと翻る。
「ぜーんぜん! あたしもすっごく嬉しい!」
 そういて笑うパスカルは、みるほうの心を軽やかにしてくれるくらいに、あたたかくあかるく――しあわせだと、全身全霊で伝えてくれていた。
 泣きたくなるくらいにたまらなくなったヒューバートは、手を伸ばす。
「パスカルさん……」
 するり、とその薄紅の頬を撫で、微笑みを刻む顔を傾けて近づける。
「あれ? ヒューくん、キスするの? 式でするんじゃないの?」
 ヒューバートの仕草から、その行動の先にある行為を読み取るのは結構だが、そういうことは口にしないでほしい。むしろ察して目を閉じて背伸びをするとかしてほしい。
「……そうですよ。目を閉じてくれますか? ぼくの花嫁さん」
「ん!」
 にぱ、と笑ったパスカルが素直に瞳を閉じる。くすくすと、ヒューバートは笑う。
 こんなにも女性を可愛く思ったことはない。
 その小さな唇に、重ねるだけのキスを贈る。
 やはり、パスカルが好きだ。優しい過去を共に過ごした幼馴染のシェリアや、自分の運命を決めたといっても過言でないソフィは、もちろん好意をもっているが、それとはまったく違う。
 ゆっくりと離れながら、ヒューバートは囁く。
「愛しています、パスカルさん」
「知ってるよ~」
 当然、とばかりにパスカルは頷く。
「ヒューくんも、知ってるよね?」
 きらきらと輝く大きな琥珀の瞳。言葉にせずともわかるよね? と試すような、信頼しているからこそのような、その言葉に頷いて返す。
「もちろんです。ぼくは、そんなあなたの心が、とても嬉しいですから」
 髪を乱さぬよう、ドレスが崩れぬように気をつけながら、ヒューバートはパスカルを抱きしめる。
「ヒューくんの服に、お化粧ついちゃう」
「そこはパスカルさんが気をつけてください」
「むむむ、難しいこというなあ」
 寄り添いながら軽口を交わし、互いのぬくもりに目を細める。
 愛しいという二人分の気持ちが、包み込んでくれている気がした。
 そんな二人だけの世界真っ只中にあった室内に、軽やかなノックの音が申し訳なさそうに響く。
 名残惜しく身体を離せば、ゆっくりと扉が開いた。
「ごめんなさい、ヒューバート。そろそろ時間ですって」
「はい」
 シェリアに静かに応え、ヒューバートはパスカルの指から指輪を外す。
「あ~……」
 寂しそうに瞳を揺らめかせるパスカルに笑う。
「すぐに、あなたの指に戻ります。次にこれをはめたら、ずっと傍においてください」
「ヒューくんもだよ?」
「いわれなくとも」
 そっと、リングピローに指輪を戻し、持ち上げる。
 シェリアの後ろから、ひょっこりと現れたソフィにそれを託す。
「では、お願いします。ソフィ」
「うん、まかせて」
 神妙な顔で頷いて、大事そうに大事そうにそれを受け取るソフィの頭をそっとひとつ撫でて、振り返る。
「では、パスカルさんも」
「はいはーい」
 そういって、ぱたぱたと軽やかな足音と共に、パスカルはここへ来たときのように駈け出す。どうにもあぶなかっしい。
 シェリアのお小言が炸裂するまえに、やわらかく注意しようとした瞬間、くるりとパスカルが振り返る。
 満面の笑みが、ヴェールの向こうで花開く。いままでもよりもなお、華やかに。これまでになく、艶やかに。
「じゃあ、またあとでね! だんなさま!」
「!」
 そうして、パスカルはウエディングドレスの裾を持ち上げ、部屋から飛び出していった。
 あっけにとられたヒューバートをみたシェリアとソフィが、顔を見合わせて笑っている。
 女性たちが、きゃらきゃらと賑やかに去っていく。
 ぱたんと扉がしまってから、たっぷり数十秒後。
 ヒューバートは、ゆっくりと口元を手で覆った。おさえられない笑みが口元に浮かぶ。
 頬は、春の陽だまりに身を浸したときのように温かい。胸のうちは心地よい熱を宿し、歓喜に震えている。自分の鼓動が、こんなにも世界に響くものとは、知らなかった。
「――――ああまったく……幸せすぎて、死んでしまいそうですよ」
 半ば本気でそう呟きながら、椅子にゆっくり腰掛ける。
 果たして、次に声がかかったときに、自分は聖堂まで歩いていけるのだろうか。
 それまでに少しでも、心臓が治まってくれますように。どうか、止まりませんように。
 そう願いながら、今、世界一幸せな青年は、その麗しい面を子供のようにくしゃりと崩し、笑った。