某月某日、恋人ができた。
これまでまったくそんなことを考えたことがなくて、「ずっと前から好きだった」と言われても、正直からかわれているのかと思ったぐらいだ。
でも、目の前にいるその人は、そんなことを言う人じゃないと知っていたし、脳裏にあるカレンダーをめくっても、そういうイベントの日ではなかった。
恋人になってくださいと言った彼は、青い瞳と青い髪との対比が美しい紅色のほっぺたを、微かに震わせていた。
それをみたら、唇がまったく動かなくなった。黙り込んでしまった。
そうしたら、焦ったのか「好き」という言葉を重ねはじめた。それは、どこか引きつっていて、目には薄っすらと水の膜が張っていた。
本気が、そこにあった。
じわじわと手足までも痺れさせる、これまでに感じたことのない刺激に、後押しされるように、精一杯大きく頷いて返したら、緊張しきっていた彼の顔が緩んだ。
ありがとうございます、という掠れた声とともにぎこちなく差し出された手は、大きいくせに――すごくすごく震えていて。握り返したら、そこから伝染したかのように、自分までもが恥ずかしくなった。
なんで握手なんだろう、と思わないでもなかったけれど。
気分がよかったから、そんなことはどうでもよかった。
ああ、あたし、ヒューバートのことが好きなんだ――
そんな風に、すとんと自覚できたのは、彼がもつ思いのたけすべてを、飾ることなく偽ることなく伝えてくれたからだと思う。
嬉しくて笑ったら、もっとヒューバートの顔が赤くなった。
なんだかすごく楽しくて、名前を呼んで勢いよく飛びついたら、もっと真っ赤になった。
うろたえる姿をみて、また笑った。
それはとある日――可愛いくて格好いい、恋人ができた瞬間だった。
きり、とした横顔は、澄んだ水を思わせる。底まで見通せる、そんな透明さを併せ持っている。パスカルが生まれ育ったフェンデルでは、そうしたものは見かけることはなかった。ただ、ラントの裏山でみた泉によく似ていると思う。砂漠の中に咲いた大輪の花、水に包まれたユ・リベルテに相応しいひと。
そんなヒューバートの姿は、特別な関係になってから数ヶ月たった今も、まったくもって見飽きない。
ただ、時を重ねるごとに疑問は増えていくわけで。
いつものように唐突におしかけて、ヒューバートの執務室のソファで胡坐をかいているパスカルは、うーん、と声を漏らしながら腕組みをした。
ゆらゆらと左右に揺れながら、正解を求めて口を開く。
「ね~、ヒューくんってさ~」
バナナパイを食べにいく時間を作るべく、仕事に没頭しているヒューバートには申し訳ないが、いますごく訊きたい。
「なんですか」
ペンが紙面を踊る硬質な音を途切れさせることなく、ヒューバートが応える。書類に集中していながらも、こちらへの気配りをかかさないのだから、ヒューバートは器用だ。
さすがだなあと思いつつ、パスカルは揺れるのをやめた。
「もしかして女の子だったりする?」
そうして常々の疑問をぶつけると、ぴたりと筆記の走る音が止まった。
「……」
ペンと同じように微動だにしなくなったヒューバートが、たっぷりとした間を置いてから、パスカルのほうを向いた。
その目は、ひどく胡散臭いものを見るような、生理的に受け付けない生物をみるような、そんなひどさだ。
「ぼくは、あなたのことを突拍子もないことをいう人だと思っていましたが、今日ほどあなたのことを理解できないと思ったことはありません」
深々と溜息をつき、やれやれと頭を振るヒューバートに、そっかなぁとパスカルは頭をかいた。
「なぜそんなことを? ぼくのどこが女の子だというのですか」
理解できないことを、理解できないからといって切り捨てたり、考えることを放棄することがないのは、ヒューバートの優しさだ。
ちゃんとどうしてそう考えたのか問いかけてくれるのが嬉しくて、パスカルは身を乗り出す。
「だってさ、ヒューくんとあたしって恋人同士じゃん?」
「え、ええ。まあ……そ、そうですね」
かあ、と白い肌が朱に散る。わずかに裏返る声と、眼鏡を押し上げる仕草は、どこか気忙しい。
「じゃあ、なんで触らないの?」
「っ、」
一瞬、目を見開いたヒューバートが、すぐに眉間に皺を寄せた。機嫌が悪くなったわけじゃないことは、勢いよく赤くなる頬と目元が証明してくれている。
パスカルだって、こういうヒューバートは照れているのだということくらい、わかるようになった。
厳しい顔つきになっても、冷たい言葉を紡いでも、それは本心じゃないのだ。
「キスとかさ、あと、抱っこもないっけ。手だってまともにつないだことないじゃん。握手はあったけど」
わきわき、にぎにぎ。
自分の手を開いたり閉じたりしながら、パスカルは畳み掛ける。
「あ、いえ、それはっ」
椅子から立ち上がったヒューバートの姿を見つめながら、パスカルは手を握り締めた。
「恋人同士って、よくわかんないけどさ、そういうことするもんじゃないの?」
今は一児の母になったフェルマーが、そう言っていた。そうしてもらえると、凄く嬉しくて、幸せなのだと。その気持ちを、時間を、共有することこそが、恋人である証なのだと。
「あたしはさ、してみたいなあって思うよ」
フェルマーにいわれたときは、まったく興味がなかった。本当だ。ソフィだっていたし、アンマルチアのルーツを辿っていたし、大煇石のこともあったし。
でも、今は違う。ヒューバートが、それとはまた違うものを教えてくれた。意識を向けさせてくれた。それなのに、その先だけくれないのは、おかしい。よくない。
「ヒューくんのこと好きだもん。だからさ、ヒューくんは、あたしのこと、ほんとは好きじゃないとか、実は女の子でした! っていうことだったりするのかな~って」
だから、触れてこないのかもしれない。それはそれで納得できるが、ではあの告白とこの関係はなんなのだ? という新たな疑問が生まれる。
「す、好きに決まって……! 決まってるでしょう?!」
弾かれたように、ヒューバートがパスカルのもとへとやってくる。疑われたことに、ひどく動揺しているようだ。
「だから!」
正面に来たヒューバートが、ぎゅっと肩を掴んでくる。よほど焦っているのか、込められる力に容赦がない。痛いけれど、離してもらうよりも答えのほうが知りたくて、パスカルは必死な形相のヒューバートの顔を、静かにみつめた。
「だから、触れないんじゃないですか! ぼ、ぼくだって、パスカルさんに、その……!」
好きだから触れない。
そのことが、パスカルにはよくわからなかった。するり、とヒューバートの頬に手を添える。
「へんなの~」
へらり、とパスカルは笑った。対照的に、ヒューバートの顔は泣きそうに歪んだ。
「それは……、ぼ、ぼくも理解しています。わかってはいますけど、その……」
だけれど、いざ実行できるかというと難しいらしい。不思議だ。
もだもだうだうだと、ああでもないこうでもない、やれ節度は大事だの、いや結婚するまでは、だの。どうしてそこまで飛躍していくのか。
ヒューバートの思考は、すごく面白い構造をしているんだろうと、ぼんやりと考えた瞬間、パスカルの脳裏に光明が差した。
「あ、そっか!」
ぽん、と手を打つ。びく、とヒューバートが肩を震わせた。嫌な予感がしたのか、ぱっと手が離れていく。いい判断だ。でも、遅い。
「じゃあ、あたしが触ればいいんじゃん!」
ね! と、今度は逆に、パスカルはヒューバートの肩を掴んだ。
「――っ?!」
喉の奥を引き攣らせるヒューバートに、顔を近づける。眼鏡の奥にある瞳を覗き込む。どこまで落ちていけそうな蒼い瞳に、にんまりと笑う自分がいた。自分だけが映っていることは、こんなにも優越感をもたらしてくれる。今まで誰に対しても、何に対しても、感じたことはなかったけれど、ヒューバートのことになると別だ。
「ヒュー君ができないなら、あたしがやるー! できるひとがやればいいんだよ!」
そうだそうだ。どうしてそのことに気付かなかったのだろう。どうして、ただ待っていたのだろう。
「これが、適材適所ってやつだね!」
名案! と、パスカルはヒューバートをそのまま引き摺り倒すように、押した。
「ちょ、パスカルさん!?!」
悲鳴じみた声を出すヒューバートに乗りかかる。のこのこと近寄ったのが運のつきだと思って、諦めてもらおう。
「よいしょっと」
普段の目を見張るような戦闘能力も、このときはあまり役に立たなかったようだ。常日頃の冷静さを失い、まともに思考回路を動かせなかったことが、敗因だろう。
そうして、実にあっさりと、ヒューバートはソファへと背をつけてくれた。細い腰に馬乗りになって、顔を覗き込む。
「パ、パパパ、パスカルさんっ?! はしたないですよ!」
「えー、いまさらそんなこといわれてもなー」
ずれた眼鏡も直さぬまま、眉を下げて真っ赤になったヒューバートが、パスカルをみあげてくる。
へえ、とパスカルは小さく声を漏らす。
こういうの、なんかいいかも――
身長差もあって、普段見下ろされる側のパスカルにとっては、気分がよくなる眺めだ。
猫のように目を細めると、ぎりっと唇を噛み締めていたヒューバートが唸り声に似た言葉を発した。
「く、お、覚えててくださいよ……!」
眉を下げた半泣きな顔で、そういわれてもなあ。
してやったりなパスカルは、いっひっひーと歯を見せて笑う。
「とりあえず触らせてもらうよー」
「ま、待ってくださ……!」
「よいではないかよいではないか!」
「また教官に変な言葉ばっかり教わって……! ちょ、ほんとに、待って……!」
止めようとするヒューバートの言葉をさらりと流し、パスカルは手袋を外して、指先を伸ばした。
ヒューバートの手が阻止するように持ち上がるが、力がない。もしかしたら、触れられることを無意識に望んでいるのかもしれない。
行く手を塞ごうとする震えた手を避け、落ちかけた眼鏡を外す。そっと触れた青く短い髪は、思ったよりもずっと柔らかくて、パスカルは驚いた。
しばらく楽しんだあと、指先を滑らせる。肌は温かく少しだけ汗ばんでいる。耳や、頬、かっちりと着込んだ軍服の合間から覗く首は、今は赤い。けれど、いつもなら驚くぐらいの白さだったはず。血の巡りで、ほんのりと色づいた皮膚は、間近でみると綺麗だった。
「へー……」
わずかに伏せられた長い睫が怯えたように震えている。切れ長の瞳には、薄っすらと水が渡っている。フォドラにいくときに振り返って見たエフィネアは、こんな色じゃなかっただろうか。
つ、つ、と。
目に付くもの、気になる部分、パスカルは思うままに辿っていく。
唇、目、鼻、耳だって、服越しにもわかるくらい鼓動の早い心臓だって、なんだって。
――ぜんぶ、いとおしい
ふつ、とそんな言葉が胸の奥に咲く。一秒毎に増えていく。いつか数え切れなくなっても、きっとどれひとつとて枯れることはないだろう。
自分の体の一番深いところから湧き出てきたその感情に、パスカルは肌をざわつかせた。
「ヒューくん……」
身を屈めると、パスカルの吐息が肌をかすめたらしく、びくりとヒューバートが体を震わせた。本当に、これじゃあどちらが男でどちらが女か、わかりはしない。
でも。
もっと、興味がそそられる。
もっと、たくさんのことを知りたいと思う。
もっと、ヒューバートのいろんな顔がみてみたい。
うーん、とパスカルは口元に手を当てて、わずかに眉を顰めた。
「……あたし、ヒューくんの研究でもしよっかなー……」
こんなにも知りたいと思うのなら、研究のしがいがあるというものだ。
「――そんなこと研究しても、つまらないでしょう……?」
ぽつりと零したパスカルの言葉に、ヒューバートが息も絶え絶えに意見してくる。
もう許してくれといわんばかりのヒューバートに、そんなことない、とパスカルは首を振った。
「えー! あたしの心は、すっごく満たされるよ!」
だから、意味はある。胸を張ってそういうと、ヒューバートがぷいっと横を向いた。
「まったく……す、好きにしたら、いいじゃないですか」
「うん。好きにする。いひひ」
そういって上半身を倒し、ヒューバートの胸に突っ伏すようにして抱きつく。
うりうりと胸元に頬を摺り寄せていると、そっと背に回る手。その大きさに、パスカルはほんのり頬を染めた。温かい。抱きしめられて、息が自然と漏れた。
あー、フェルマーの言葉は本当だったなあ。
抱きしめてもらうと、こんなにも幸せだ。
「――ね、ヒューくん」
だったら、キスをしたらきっともっと幸せだろう。
わずかに身を起こし、ヒューバートの胸に手をついて、みおろす。
惚けた顔をしているヒューバートが、きゅっと唇をひき結ぶ。瞳に、底光りするような決意が灯る。
「パスカルさん……」
「ヒューくん……」
ぐ、と後頭部に添えられる手。
前に押し出すような力の流れに、パスカルは逆らわなかった。ヒューバートの顔が近づいていくる。
いや、自分から近づいているのもあるんだけど――そんなことを考えながら、互いの息を混じらせるように唇を寄せる。
人の熱が、わずかに感じられた瞬間。
高らかにノックの音が響いた。
「少佐、失礼します。先日提出した報告書についてですが、訂正を――……」
よほど急いでいたのか、いつもなら応えを待つだろうレイモンが、そのまま扉を開け放ち入ってきた。
部屋に一歩踏み込んだ瞬間、空気が固まった。
義理の従兄弟の、情事の一場面ともとれる状況に立ち入ったことが衝撃で、何も出来ないのか。それとも、みっともなく取り乱すのはオズウェルの沽券にかかわるのか。とくに大騒ぎすることはなく、レイモンが視線を逸らす。
「「「……」」」
三者三様の沈黙が、鼓膜に刺さる。
だが、止まったようでいて、実のところ時間は止まらないものである。
レイモンが、動いた。
光が反射して、眼鏡の下にあるその瞳はみえなかったが、何も言わず軽く会釈すると、扉を閉めて去っていった。
かつかつと、遠ざかっていく靴音。
「ありゃりゃ、みられちゃったね~」
あははは、とパスカルは陽気に笑った。こんなことになるとは思ってなかった。
でもまあ、たいしたことじゃないよね。
そして、そのまま続行しようと顔を向けなおす。
「ん? あれ、ヒューくん?」
と、パスカルは、ヒューバートが息をしていないことに気付いた。
「……」
見られたのが衝撃だったらしい。ヒューバートが、石のように固まって動かなくなっている。
「おーい、ヒューくーん?」
ひらひらと目の前で手を振る。反応なし。
「お~い」
さきほどまでの赤さではなく、青くなっている頬を、ぺちぺちと頬く。
その数秒後。
「~~~~?!?!?!?!」
形容しがたいヒューバートの悲鳴が、執務室内に響いた。
「うわっ!」
「レ、レイモン! 待ちなさい! このことは誰にも……!」
驚いて肩を竦めたパスカルを引き剥がし、レイモンの名を呼びながら、凄い勢いでヒューバートが部屋を飛び出していく。
よくみえなかっただろうに、声だけで判断したのか。凄い。
そういえば、眼鏡を置いていったせいか、廊下で派手に転ぶような音が聞こえるけれど、大丈夫だろうか。
一人残されたパスカルは、開け放たれた扉を見ながら、ぽりぽりと頭を掻いた。
「ちぇ~」
もうちょっとだったのに。
残念だけれど、仕方がない。
ヒューバートが戻ってくる時間を活用して、どんな項目について観察して、いつ頃までにまとめるか、大まかな研究予定をたてるとしよう。
そうして、帰ってきたら、今度こそ、キスをしよう。
そこから、生涯にわたる研究の第一歩がはじまるのだ!
わくわくとした気持ちを抱え、パスカルは目を閉じてソファに横になり、「うーん」と手足を伸ばした。
微かに、遠くから悲鳴のような怒鳴りあうような、そんな声が聞こえないでもないけれど――まあ、いっか。