あなたにあいたい

 ふう、とヒューバートは息をついた。
 品のよい調度品が設えられた己の執務室で、書類の作成を黙々とこなしていく。ここ最近はこういった事務作業が多く、剣を振るう機会はずいぶんと減った。また、頻繁に他国にいくこともなくなった。それはひとえに、三国間が平和であることの証であり、世界規模の暴星魔物掃討作戦が功を奏したともいえる。
 もちろん、だからといってヒューバートは日々の鍛錬を欠かすことなどない。けれど。ほんの少し、ほんの少しだけ。兄や幼馴染、少女と教官、そしてパスカルと旅したときが懐かしく思い出される。
 あの経験のおかげで、随分と自分は成長したと思う。剣士として、軍人として、なにより人として。厳しくもあり、悲しくもあり、ときに苦しかったが――しかし、自分の人生の中で、もっとも充実した時間であったといえるだろう。
 そういえば、ここ最近は手紙のやりとりだけで顔をみていない。

 皆、どうしているのでしょう――

 ペン先をとめて、ふと寂しさ半分懐かしさ半分で、そんなことを思う。とくに頭の中に浮かぶ面影に、ヒューバートの胸が苦しくなる。
 銀と赤の髪が、美しく思えるようになったのは旅の終わりごろだった。くるくると映すものを変えていく大きな瞳に、自分だけが映されるならどんなにかいいだろうと思ったのも、旅の終わりごろ。
 目が離せなくなっていたのは――それよりも、ずっと前のことだったけれど。
 思わず、書類の片隅に「パスカル」と書きかけて。
 はっ、とヒューバートは我に返った。己のとろうとしていた行為を自覚し、ぷるぷると頭を振る。

 なんでぼくがあの人のことを、こんなにも気にしないといけない!?

 近くにいたときもそうだったが、近くにいなくてもこれだけ人をひっかきまわすとは、さすがパスカルである。
 そもそも、そんなパスカルには先日手紙も出したばかりだ。なのにこんな風になっていてはいけないと心改め、仕事を再開する。胸に咲いて静かに揺れる綺麗なものから、目をそらして見つめぬように心掛けながら。
 やがて。
 足音荒く執務室に向かってくる気配を感じ、肩を小さく震わせたヒューバートは、そっとペンを置いた。すぐに、やや激しいノックとともに扉が開かれる。
「少佐っ!」
 こちらの応えを待たずして飛び込んできた兵士を叱責するには、その表情はあまりにも焦りに満ちていた。冷静にあらねばならぬ軍人としてはあるまじきことだが、ヒューバートはそこを諌めるのは後回しにする。
 ただならぬ気配を感じつつ、眼鏡を指先で押し上げる。
「なにごとです」
「そ、そそそ、空に!」
 扉を開けた姿のまま、慌てきった兵士はどもりながらも、伝えてくる。
「空?」
 意味がわからず、ヒューバートがそう鸚鵡返しにした瞬間。
 轟音が駆け抜けた。
 強い風が吹く。建物が、揺れる。
 それらの現象に加え、一瞬だけストラタの苛烈とさえいえる陽射しが遮られる。それは、そうするだけのものが高速で通ったことの証であった。
 素早く、背後の窓へと振り返る。美しく手入れされている庭園の花が、嵐のような風に弄ばれて激しく揺れている。
 席を立ち、執務室の窓辺に駆け寄って、ヒューバートで目を見開いた。
 ほとんど雨の降らないユ・リベルテの青い空、そのどこまでも広がる空間に浮かぶものがある。それは、ヒューバートには見慣れたもの。ストラタ市民には見慣れぬもの。
 空の海をこえ、フォドラに向かう際に利用した――シャトルと呼ばれる乗り物だ。
 当たり前のように、ででんと存在するそれをみて。
「は、はああああ?!!」
 ヒューバートは現状が理解できずに、声を上げた。
 シャトルは対ラムダ戦以降、どこの国にも属さぬようにするために、またその技術を解明するために、という名目でアンマルチア族が管理することとなったはずだ。あの頃とは違って、やすやすと空を飛ぶことはもうないはずだ。そのはずだ。っていうか、そう決まっているはずだ。
「あ、あの……あれは少佐が乗っておられたことのある、シャトルというものではないかと、一部の兵士が申しておりまして……ですから、その、」
 どうやら、この兵士はそれでヒューバートの執務室に飛び込んできたらしい。こちらを攻撃するようなものではないことを知ってはいるが、だからといって突然現れて、頭上を景気よく飛び回られれば、誰だって危機感を抱くだろう。万が一にも落ちてきたりでもしたら、たまったものではないからだ。
「そのとおりです。それにしても、一体誰が……」
 みなまで言われる前に、ヒューバートは部屋を後にする。あれを操作できるなんて、よほど知識に長けたものだけだ。ならばアンマルチアの誰かが、緊急の用件でこちらに来たということも考えられなくはない。
 ストラタ軍本部の長い廊下には、詰めていた軍人たちが何事かと出てきており、窓辺に鈴なりになっている。
 とりあえず、外に出てシャトルの行き先を見極めてから、小部隊を率いて自分が詳細を確かめよう――そうヒューバートが考えた、次の瞬間。

『やっほー! おとうとくーん!! あ、じゃなかった、ヒューバート~!』

 空から降り注ぐようにして響く、底抜けに明るい声。
 さあっとヒューバートは顔を青ざめさせた。それは良く知った声だったからだ。良く知った口調だったからだ。というか、なぜ名指し!?

『今から北の砂漠方面に着陸するからさー! きてねー! 待ってるよー!』

 そういって、シャトルは風を纏ってユ・リベルテの北へと飛び去っていく。
 一瞬、しんと静まり返った廊下に立ち尽くすヒューバートに、ゆっくりと向けられる数多の瞳。水面に小波がたつように、ざわざわこそこそと揺れる空気。兵士たちの囁きと、不思議そうな視線が突き刺さる。物凄くいたたまれない。あまりの居心地の悪さにヒューバートの心臓が嫌な音をたてる。
 ぴきぴきと引き攣る頬を制御できぬまま、耐えかねたヒューバートは走り出した。あの声に指定されたとおり、北砂漠に向かうためだ。
 誰かとすれ違うたび、好奇の目がヒューバートを映し出す。
 ああもう、まったくなんでこんな目に!
 恥ずかしいやら情けないやら、あとでどう報告したらいいのやら、そんなことを考えながら駆ける。
 実戦にでることは減ったが、身体はなまってなどいない。ヒューバートはすぐに、熱と光を反射して白く輝きながら揺らめく砂漠へと到達した。
 ストラタの北に位置する港へと続く砂漠の、岩山の間にある広い空間に、シャトルは当たり前のように着陸していた。
 足を速めようとするが、なぜかうまく前に進まない。それでもなんとかたどり着いた先、ぷしゅ、という空気の抜けるような音をともに、扉が開かれた。
 そこから、ひょっこりと姿を見せる小柄な影。銀と赤の髪、白い肌、そして世界のあらゆるものに向けられる綺麗な琥珀色の瞳。
「パスカルさん!」
 悲鳴に近い声で、ヒューバートはその名を呼んだ。
「あ、やっほー! おとうとくーん!! はやかったねぇ!」
 と、さきほどと同じ言葉を繰り返して、満面の笑みを浮かべたパスカルが、手を振ってくる。あまりにも無邪気で暢気なそのさまに、ヒューバートの頭の血管が切れそうになる。砂を蹴散らしながら走り寄ったヒューバートは、眉間に皺を寄せて叫ぶ。
「なぜあんなところにあなたがいるんですか!?」
 ユ・リベルテの上空、あんな目立つ場所で、あんな目立つ乗り物で! いろいろと問いただしてやりたいが、焦って上手くいない。
 へらへらとパスカルが笑う。頭の後ろに両手を置いて、砂をけるように足元を揺らめかせる。
「いやぁ、だって弟くんどこにいるのかわかんなかったからさ~。上から声かければ気付いてくれるかなぁ~って!」
 あんなことされて気付かない者がいたらみてみたい。
 くらりと眩暈を覚えたのは、この苛烈な陽射しのせいでは決してない。だがここで、砂の海に身を投げ出すような真似はできない。
 ぐっと足の裏に力を込めると、さらさらと砂に埋もれるつま先。なんだかもう、立っているのもおぼつかない。
「だからといってあれはないでしょう! というか、いつのまにあんなことができるようになったんですか!?」
 確か、あのシャトルに音声を機体の外に伝えるような機能はなかったはずだ。
「うん、里のみんなでシャトルをいじっていたときにこういうのあったら楽しいよね~っていう話になってね、そこからすごく盛り上がっちゃってさ~! いろんな機能つけたんだ! あのね、あのね、あれのほかにもあってね、」
「待ってください」
「う?」
 シャトルに新しく搭載した機能について、嬉々として語りだしかけるパスカルを、片手を上げて制する。このまま放っておいたら、その新機能とやらの説明に最後まで付き合わされるに違いない。そして、その長さはアンマルチア族の研究熱心さを考えればおのずと知れるというものだ。少なくとも、日が暮れるまで続くはず。
 腕を組み、そんなことを一瞬のうちに考えて、ヒューバートはため息をつく。脱線していこうとするパスカルを修正するのも、久しぶりだった。
「そもそも、あなたは何をしにストラタまでやってきたのですか」
「あ、ごめんごめん」
 そうだよね、そっちが本題だった、とパスカルは眉を下げて笑いながら頭をかいた。
「まったく……!」
 どうしてこうもマイペースなのだろう。ヒューバートは瞳を伏せて、ずり下がりかけた眼鏡のブリッジに長い指先を押し当て、持ち上げた。
「一体全体どうしたというのですか、急、に……っ!」
 と。
 軽い衝撃に襲われる。肺から空気が押し出されるのと一緒に、するりと背に回される細くて温かなもの。
「え?」
 呼吸をするのも忘れ、己の胸に飛び込んできたパスカルの頭を見下ろす。
 乾いた砂漠の風に、ふわふわと髪が揺れて綺麗だ。なんだかいい匂いがする。ありえない。
 この現状の意味がわからず、なにかをいうこともできずに突っ立っていると、甘えるように頬を摺り寄せられて――ヒューバートは一瞬の後、真っ赤になった。
 パスカルに抱きつかれたと理解して、言葉にできない感覚に襲われる。
 熱い、熱い。砂漠にいることを差し引いても、熱い。
「え、あ、いや……ちょ、ど、どうし……!」
 急激に上昇した体温を持て余し、わたわたおろおろと手を空中に彷徨わせていると。
「会いたかったよ、弟くん――ううん、ヒューバート……ずっと、ずっと会いたかった……」
 その言葉に宿る切ない響きに、鼓膜だけでなく全身が震える。それが、嬉しさからくるものだと、ヒューバートは霞む意識でそう感じていた。
 ゆっくりと、パスカルがヒューバートの胸から頬を離して、見上げてくる。何かを訴えるようなその表情に、ヒューバートは喉を鳴らした。
「あたし、ヒューバートからの手紙みて、いてもたってもいられなくて、だから、だから……」
 だからシャトルを飛ばして、こうしてやってきたというのか。自分の、もとへ。
 潤んだ瞳を一心に向けられ、そんないじらしいことをいわれて、胸にこない男がいるものか。
 もちろん、ヒューバートとて例外ではない。
「パ、パパパパ、パスカルさん……!」
 空を泳いでいた手を下ろしていく。ふわりと羽が詰まっているようにやわらかく華奢な身体に、指先を添える。
「その、ぼくも……」
 己の胸の奥で咲いて揺れる、「恋」という名を冠する綺麗な花ごとパスカルを抱きしめるように、ヒューバートは腕に力をこめる。

 ずっと――あなたに会いたかったんです――

 そう囁いて、パスカルをぎゅうと抱きしめた瞬間。
 どん、と鈍い衝撃が全身を襲った。視界が暗転する。重力を、横から感じた。ひんやりとした空気が、全身を覆う。
 何が起こったのかと、ゆるりと瞼を開く。
「……あれ?」
 枕を後生大事に抱きかかえ、シーツを身体半分ひっかけて。ヒューバートは目をまたたかせた。
 ほのかな光がカーテン越しに差し込んでいる。まだ夜が明けきっていないと知らせるような、その頼りなさ。そんな中で、ふかふかの敷物のうずくまっている自分の状態が、すぐに理解できない。

 つい今しがたまで、砂漠にいて、そしてパスカルを抱きしめようとして――あれ?

 視線をめぐらせる。高い天井、真っ白な壁、豪奢な調度品の数々。眼鏡をかけぬ、このぼやけた視界でもわかるそれらが導く答えは。
 ここが、見慣れたオズウェル家にある自分の寝室だということだ。何年ここで寝起きをしたというのか。見間違えようがない。
「……」
 夢か。夢ですか。そうですか。
 自分がみてしまったものと、この現状があまりにも恥ずかしくて。ぷるぷると、全身が震えた。ヒューバートは耳まで赤らめながら、絨毯の上で丸まって――枕を強く抱きしめる。そのふんわりとした心地よさが、余計に涙を誘う。
 閉じた瞼の裏に、パスカルの笑顔が鮮やかに花開いたまま、消えてくれない。

 

 

 ああ、なんという失態だ。
 だれもみていなかったことが、せめてもの救いだ。まったく、なんという夢をみたのだろう。こうして執務にあたっていても、ふとしたときに思い出して情けなくなる。頭を抱え、何も考えたくなくなるぐらいに恥ずかしい。
 オズウェル邸をあとにして、仕事に取り掛かっているというのにこの体たらく。ストラタの最年少少佐と誉れ高き自分が、これでは周囲に示しがつかないと思うのに、脳裏にちらちらと過ぎるのは今朝方みた夢のことばかり。
 いつもなら、夢は手のひらから零れ落ちる水のように、あっという間に忘れてしまうのに。どうして今回ばかりは、こんなにも気になるのか。忘れられないのか。
 ふと、ヒューバートは動かしていた手をとめる。
 あの夢のおかげで、認めたくはないけれど認めざるをえないものがひとつ。それが原因。

 夢にみるほどに――自分は、彼女に会いたいということ。

 机の上に肘をつき、組んだ手に額を押し付けて。深く深く、息をつく。
 どうかしているどうかしている。まったくもってどうかしている。
 だけれど、あの笑顔をみたい。あの声がききたい。そしてその瞳に自分を映して、呼びかけて欲しい。
 夢で会っただけなのに、現実で会いたくてたまらなくなるなんて、理不尽この上ない。会いたい人は海を隔てた遠い雪の国にあり、自分は熱砂吹き荒ぶ砂漠の国にいる。
 いまなら、あのシャトルが身近にあったなら飛び乗っていたかもしれない。ほんとうに、あればよかった。
 ここまで考えるなんて、なんというかもう、病をこじらせるだけこじらせた末期症状の患者だ。
 しかもそれは、「恋」という病。古今東西、つける薬はないという、あれである。ここまでに、ほんのりと自覚しつつもなんとか誤魔化しながら目を逸らし続けていたのに、突きつけられた余命宣告にも似たそれに、ヒューバートはただ戸惑うばかりだ。無意識のうちにみたものだからこそ、心の奥底で強く願っていたと思い知らされる。
 どうするべきか考えようとするものの、まとまらない。だから、自覚などしたくなかったのに。
 内心歯軋りしていると。
 コンコン、と軽やかにノックの音がヒューバートの耳に届く。反射的に表情を引き締め、どうぞ、と応えると、扉が静かに開いた。
「失礼します。少佐」
「レイモン? どうかしましたか」
 慇懃な仕草で、年上の従兄弟が執務室に入ってきたことに、ヒューバートは眉を顰めた。
 確か、彼にはオル・レイユに昨日からいってもらっているはずだ。なぜここにいるのだろう。何か問題でも発生したのだろうかと予想するものの、近づいてきたレイモンがなんともいえない顔をしているのに気付いて、取りやめる。
「オル・レイユからお連れしたお客様が、少佐に面会をご希望されております。お通ししても、よろしいでしょうか?」
「客……?」
 今日は誰にも会う予定などなかったはずだ。自分の記憶に間違いがないか手繰り寄せていると、レイモンが首を振った。
「お約束はしていないそうです」
「は?」
「とにかくお通ししますから」
 そういって、返事も聞かずに背を向けたレイモンが、扉の向こうに顔をだし、何事か言っている。そして、勢いよく扉が開かれて。
「やっほ~!」
「!」
 もしかして――今朝みたものは、正夢だったのだろうか。
 そんなことを考えながら、ヒューバートは勢いよく席を立った。
「パスカルさんっ!」
「弟くんっ! ひさしぶりー!」
 名前を呼んだその人は、みたかった笑顔を浮かべ、全身から嬉しさを溢れさせて手を振ってくる。そして、ぱたぱたと軽い足音を立てながら、部屋のなかへと駆けてくるパスカルを出迎えるため、ヒューバートは大きな執務机を回り込んだ。
「どうして……!」
「オル・レイユでレイモンに会ってね、ここまで連れてきてもらっちゃった!」
 あっけらかんとそういってのけるパスカルをみて、次いでレイモンに視線を向ける。
「コホン。ではパスカルさん、例のお約束を忘れずにお願いしますよ」
「ほいほーい、わかってるよ! ありがとねっ」
 わざとらしい咳払いをひとつして、さっさとレイモンは部屋を出て行った。その背中が、ひどく嬉しげなのは気のせいだろうか。
「約束?」
「うん、ここまで連れてきてもらって、面会を取り次いでもらうかわりにね、シェリアのブロマイドをあげる約束をしたんだよ~」
「そ、そうですか……」
 恋に破れたとはいえ、いまだシェリアに想いを寄せている節のあるレイモンには、なんとも魅力的な提案だったに違いない。勝手にブロマイドを渡されるシェリアは怒ったりしないのだろうか。ふとそんなことを考えかけるが、それよりも目の前にいる人のほうが、大切だった。
 真正面から向き合うと、へらっとしながらも、どこかはにかんだようにパスカルが笑う。それだけで感無量だ。高鳴る胸が痛いくらいだ。パスカルの珊瑚色の唇が動くのを、奇跡に遭遇したような気分でみつめる。

「あのね、あたしね、「あなたに、会いたかったです。パスカルさん」

 ぽろ、とパスカルの言葉に被るように、ヒューバートは素直にそう伝えた。
 きょとんと琥珀色の瞳が瞬く。だがそれも、わずかな間だけ。すぐに、顔をくしゃくしゃにして、パスカルが笑う。
「あたしも、だよ!」
 跳ねるように一歩飛び出し、ヒューバートに一息で近づいてきたパスカルが、花開くように笑う。
 その存在が、本物であることを確かめるように、ヒューバートはその細い体に手を伸ばしかけ――仰け反るように、がばっと身を離す。どったの? とパスカルが首を傾げる。
「……パスカルさん、あなたお風呂はいってますか?!」
 夢とは違い、漂うのはひどく現実的な香り。思わずヒューバートは悲鳴じみた声をあげる。抱きしめることも容易なくらいの至近距離で、思い切りそれを吸い込んでしまった。レイモンが微妙な顔していたのは、このせいか。
 頬を引き攣らせながら尋ねれば、パスカルが手袋に包まれた小さな手を、左右に振った。
「え、やだな~! ちゃんと五日前にはいったよ~。って、うわっ」
 五日の「いつ」まで発音された瞬間に、ヒューバートはパスカルの手を強引にひっぱって歩き出した。目指すはこの建物内にある、仕官たち用に整備されている浴室か、それともオズウェル家の浴室か。もうこの際どこでもいい。
「正気ですか?! 今すぐお風呂にはいってください!」
「ええええ~! やだよ、もっと暑くなっちゃうじゃん!」
 お風呂、という単語にパスカルが拒否反応を示す。ぎゅーっと母親を困らせる子供のように足を突っ張って抵抗を試みる。
「じゃあ、水風呂でもいいですから!」
「やだぁぁぁ!」
 そんなパスカルに抗するようにヒューバートも、足に力を込めた。
 感動の再会が台無しである。やはり、夢のようにはいかないものだ。所詮これが現実だ。
 でも、でも。
 掴んだ手の暖かさ、この賑やかさ、くるくる変わる表情も、部屋に響くこの声も。こうして、自分がもちえる感情すべてが揺り動かされることさえも。

 なにもかも、すべてが恋しく愛おしい。

 だが、お風呂には、ちゃんと入れ。
 執務室の中央で、呆れた攻防戦を繰り広げながら、ヒューバートは最終手段にでる。
「お風呂にはいったら、最高級バナナでもバナナパイでも好きなだけ用意してあげますから!」
「え、ほんとっ!?」
 とたんに、パスカルはぴたりと抵抗をやめた。力の均衡が崩れ、危うく後ろにひっくり返りそうになるのを、ヒューバートはなんとか堪える。
「いやぁ、弟くんがそこまでいうなら仕方ないな~、じゃあはいってあげる!」
「その気になってくださって、大変喜ばしいですよ。はあ、まったく……」
 ぱあっと顔を輝かせ、パスカルがにんまりと白い歯をみせながらいう。対照的に、ヒューバートは安堵を多分に含んだ息をつく。
 小躍りするようなステップを刻みつつ、バナナ、バナナ、と妙な歌を歌いだしたパスカルは、なんとも現金なものである。だが。
 それは自分もだ。
 ぎゅ、とヒューバートはパスカルの手をとったままの指先に、力を込める。
 自分とは違う理由かもしれない。パスカルに自分と同じ感情はないかもしれない。ただの思い付きで来てくれただけかもしれない。
 でもやっぱり、嬉しいから。
「ようこそ、ストラタへ。来てくださって――ありがとうございます」
 溢れる心を少しでも伝えるように、ヒューバートは微笑んだ。