名乗るなら

「うーん……」
 仕入品や依頼品の簡易メモ兼あらたな道具のアイディアや料理のレシピなどが書きなぐられた雑記帳を見下ろして、ノーラは眉間に皺を寄せていた。
 仕入不足なものがあるわけではない。達成できなさそうな困難な依頼があるわけでもない。
 道具だって、料理だって、壁にぶつかって前に進めなくなっているということは、いまのところない。工房の経営は順風満帆といっていいだろう。
 ノーラが頭を悩ませているのはそこではない。
 ごちゃごちゃと、他人から見たら判読できない、しかしノーラがみればなにが書いてあるか一目瞭然の紙面の片隅。
 丁寧に丁寧に書かれた文字がある。

 ――ワルタネン――

 人の名。個人に贈られたものというより、その出自をあらわすもの。すなわちファミリーネームである。
 さらに付け加えるなら、元トレジャーハンターでいろいろあって無職となり、いまはトレジャーハンターに復帰した恋人の姓、である。
 こちらで呼んだことはほとんどないが、彼をかたちづくるもののひとつであることには間違いない。
 テンペリナで出会ってから、やる気のないユカを強引に採集にひっぱっていったり、派手に喧嘩をしたり、貴重な古代の遺物を発見したり――そういう時間を積み重ね、気づけば大切な人になっていた。
「ん~……」
 渋い渋い顔をしながら、ノーラは手にしたペンを走らせる。
 ワルタネンの前に、文字を書き記していく。
 そうして、ペン先を紙面から離し、それをしばし見つめた後、ノーラは白く丸い頬を淡く染めた。
「ううっ……お、思ったより恥ずかしいかも……」
 そんなことをいいながらも、視線はそらさない。
 みつめているうち、だんだんと妙にくすぐったくなってきて、ノーラは小さく笑う。
 どうせ導刻術で巻き戻しの術を使えば、綺麗なノートにもどる。それまで、これを眺めることを、秘かな楽しみとするのもいいかもしれない。
 導刻術を使うなんてずるい、というなかれ。紙は貴重品なのだ。何度も使うことができるなら、それにこしたことはない。大切なことは、ちゃんと別のノートや本に書き写すから問題ないし。
 頬を緩ませて、まだインクの乾かぬその文字を、鼻歌交じりに視線で幾度もなぞる。
 と。
「なにしてんだ?」
「うわわっ?!」
 ひょい、と肩越しに手元を覗き込まれて、ノーラは座ったままであるにもかかわらず、とびあがった。
 すぐそこで、紫がかった長い黒髪が揺れ、ほんのりと酒とジャーキーのまじった匂いが鼻をくすぐる。
 正体を確かめる必要なんてない。

 さっきまで二階の干草に埋もれて寝てたくせに!

 心の中で叫びながら、ノーラは慌てて、さきほど書いた箇所を小さな手で覆った。
「ユカ! びっくりさせないでよ!」
 気配を隠して近づいてくるなんてずるい。そういうところで技能を発揮しないでほしい。
 おそらく、軽い気持ちで、驚かせようというつもりだったのだろうが、タイミングが悪すぎる。
 後ろめたいことをしていたわけではないが、みられるととんでもなく恥ずかしい。
 慌てきったノーラの様子に、勘のいいユカは、ピンとくるものがあったようで。
 じーっと、古代遺跡に埋もれた宝物のありかを探るような目つきで、ノーラを覗き込んでくる。
「で、なにしてたんだよ」
「ちょ、ちょっと、ノートの整理をしてただけ!」
 二回、同じ言葉で追求されて、ついつい声が裏返る。
「……」
 じーっとさらにみつめられて、ノーラはつい顔をそらす。
 それでも視線はちくちくとノーラの肌を刺す。居心地が悪い。背中に、嫌な汗が浮かんでくる。どきどきと、心臓が強い鼓動を繰り返す。
「ほんとになんでもないんだってば……」
 努めて冷静に、ぶっきらぼうさも加え、重ねて伝える。これ以上は訊く必要もないことだと、暗に匂わせる。

 お願いだから、あんまり深くつっこまないでよー!

 しかし、心の中は半泣きである。
「ふーん」
 まあいいけどよ、と興味をなくしたようにユカがいう。そして、背中側から覆いかぶさられるように近づいてた大きな身体が離れていく。
 ノーラが、ほっと息をついた、次の瞬間。
「隙あり!」
「あっ!」
 戦闘のときにいかんなく発揮される素早さを活かしたユカが、ノーラの手の力が緩んだ隙を見逃さず、さっと机の上からノートを奪い去っていった。
「ちょっと、返してよ!」
 椅子を跳ね除けるようにして立ち上がり、懸命に手を伸ばすものの、背の高い男が両手を上にあげてしまえば、小柄なノーラが届くわけもない。
 しょうがないので、ぽかぽかと胸を叩いて抗議する。返してと繰り返すが、ユカはどこふく風だ。
「おまえ、あいかわらず字きたねぇなあ~。もうちょっと女らしい字かけよ」
 意外と綺麗な字を書くユカには、そんなことを前にもいわれたことがある。が、ひとまず自分が判別できれば問題ないと、ノーラは思っている。
 それにこれは殴り書きに近いもの。祖母やお客様への手紙や文書などは、丁寧に丁寧に気をつけて書いている。
「ほっといてよ! っていうか、かえしてっていってるでしょー!」
 天井を見上げるように首を傾け、どれどれと視線を走らせるユカの失礼な物言いに、向こう脛か男の急所でも蹴り上げてしまおうか、という物騒極まりない考えをノーラが抱いたとき。
「ノーラ・ワルタネン……?」
「!」
 とうとうそれをみつけられ、ノーラは身体を硬直させた。
 わずかな沈黙のあと、ユカが瞳だけをノーラに向ける。
 それが、「これおまえが書いたの?」という無言の問いかけのようで、ノーラは顔を真っ赤にさせた。
「へえ~」
 それが答えだと受け取ったのだろう。にやり、とユカが笑った。
 いいおもちゃみーっけ、というような顔にしかみえず、ノーラは喉の奥を震わせる。
「な、なによ、べつにいいじゃない……こ、これくらい……だって、あたしたち……」
 もうユカがみていられなくて、ノーラは俯いてエプロンを握り締める。
 しばらくの間、これをネタに、気が早いだのとからかわれるか、ノーラはこんなにオレが好きと吹聴されるか、そんなにお望みならとにやにやしながら迫られるか。
 どれもありえそう。
 想像してげんなりとしてきたところで、柔らかく優しく、ノーラの髪になにかが触れる。
「まあな」
 くしゃりと、かき混ぜるように頭を撫でられて、はっと顔をあげれば、随分と機嫌のよさそうなユカがいた。
「!?」
 そして、そのまま当然のように軽く口付けてくる。
 触れた唇同士の感触に、かすかに響いたリップ音に、ぴゃっと肩を跳ねさせたノーラにかまうことなく、ユカが鼻歌交じりに机に向かう。
 いきなりのことに、顔をさらに赤くしたノーラは、手で口元を覆う。
 なんでこう、ごく自然にこういうことをやってのけるのか。
 恋人になってからユカと経験を重ねてきたけれど、ノーラはまだまだ慣れそうにない。
 だが、ユカはそうするのがあたりまえというように触れてくる。それが自然すぎて抵抗する暇がない。

 いちゃいちゃすることになんて興味なさそうな顔してたくせに!

 こういう関係になる前には、考えてもみなかったユカの態度と行動に、「う~……」とノーラは唸る。
 そんな不意打ちをくらわせたユカは、椅子にこしかけると手をのばした。さきほどまでノーラが使っていたペンをとり、さらさらと紙面に滑らせていく。
「つーか、こっちでもいいんじゃねぇの?」
 あっという間になにかを追記して、じゃーん、とノートを広げてみせてくる。
 ノーラは、目の前に突き出されたそれをみて、目を見開いた。ゆっくり瞬きを繰り返すが、見えるものは変わらなかった。

 ――ユカ・ブランドル――

「どうよ」
 母親に、褒めて褒めてと自分の手柄をみせびらかす子供のように、屈託のない笑顔でユカがそんなことをいう。
 どうよって、いわれても。
 ノーラは、小さく首をかしげて、そろそろと伺うようにユカの瞳を覗き込む。
「ユカは、それでいいの?」
 これまで親しんできたファミリーネームに、愛着や執着はないのだろうか。
 ノーラは、ブランドルという名前を気に入っている。祖母から譲り受けた、脈々と受け継がれる導刻術士の血の証でもある。
 でも、必要とあらば、さようならをする心積もりはあった。
 それは、目の前の男と家庭を築くと決めたときとか、である。
 まだそこまでの具体的な話がでたことはない。ノーラが勝手に想像しているだけだ。
 でも、いつか、もしかしたら――そんな淡い夢や希望を、女の子であるノーラが抱いたってどこもおかしくはない。
 しかし、ユカは男だ。本来なら、女を受け入れる側。まあ、別に婿にはいることだってさして珍しいわけでもないが。
 ノーラの言葉に、そんなことはどうでもいいのか、それとも考えたうえでのことなのか、まったく読み取れない飄々とした顔をして、ユカが肩をすくめる。
「いいんじゃね?」
「……軽いなあ……」
 あまりの軽さに、ノーラのほうが不安になる始末だ。
 こちらは真剣に訊ねたというのに。
 むう、とノーラが唇を尖らせると、へらへらとユカが笑う。
「オレはな、名前なんてどーでもいいのよ」
 そうして、ふいに真剣な顔をして、熱っぽい瞳を垣間見せる。

「ノーラがいれば、それでいい」

 ほかに望むことはないと、そのためならば何もいらないと、そう口説き落とされているような気がして――いや、実際そうなんだろうけど――ノーラは、全身を火照らせた。
「……ばぁか。ユカのばーか」
 ゆるやかに持ち上げられ差し出されたユカの手を、可愛くないことをいいながら、それでもちょこんと握り返す。長い指先が、絡んでくるのがたまらなく嬉しい。
「へいへい。馬鹿で結構」
 罵倒にしかきこえないはずの言葉も、恋人からなら心地よい睦言にでも聴こえているのか、余裕綽綽に笑ったユカが手をひく。もう一方が、ノーラの腰をとらえた。
「わわっ」
 急なことに驚いて、そしてくすぐったくて、思わず身をよじるが、男の力には逆らえない。
 そのまま前のめりにユカへと倒れこむように、その膝へとノーラは座らされた。
 危ないでしょ、と抗議する前に、距離をさらに縮めるようにユカが顔を寄せてくる。
「でも、その馬鹿が好きなんだろ、ん?」
 ノーラだけにみせる緩みきった顔をして、そんなことをいう。
 まったくもう。
「……どうしてかな」
 ノーラは眉を寄せ、目を細め、酸っぱいものや苦いものを口にしたときのように、口元をゆがめる。

 ほんとうに、なぜ、どうして――ユカじゃないと、だめなんだろう。

 確かにわかっていることは、この『好き』という気持ちが本物であるということだけだ。
 だからといって、どうしてこの男なのかときかれると……やっぱり、よくわからない。
「そりゃー、オレ様がイイ男だからだろ!」
 これ以外に答えなどない! と、にぱっと笑いながらいってのけるその姿に、ノーラはあきれるしかない。
「その自信はどこからくるのよ」
 が、そのとおりだろうとも思う。
 格好いい人はいるだろう。優しい人もいるだろう。お金持ちな人だっているだろう。知識と才能に溢れる人とているだろう。そんなふうに素敵な人は、世界中にいるだろう。
 くすくすとノーラは笑う。
 でもやっぱり。そうわかっていても、ノーラはユカがいい。
 きっと、ユカのいうとおり、ユカはイイ男なのだ。
 ノーラにとって、世界中の誰よりもとびっきりのイイ男。
 そんな男が、自分のファミリーネームにこだわることがないほどに、自分を好いていてくれる。
 ノーラは、ぎゅっとユカの首に腕を回して抱きしめる。
 自分の背へとまわる大きな手が、安心できる逞しい腕が、思ったよりも柔らかな髪が、抱きしめたときに伝わる嬉しそうな気配が――大好き。
 ひどく優しく髪を撫でられながら、幸せを感じて微笑む。
「なー、ノーラ」
「なに?」
 ぴったりと密着して、その肩に頭を預けていたノーラは、ちいさく肩をつつかれて顔をあげた。
 すぐそこにあるユカの顔が、なんというか――艶っぽくみえて、胸の奥が心臓とともに甘く痛む。
「キスしようぜ」
「さっきしたじゃない」
 したというより、勝手気ままに奪われたわけだが。
「そっちじゃなくて、こっち」
 べ、とユカが舌を出す。赤い色彩に、ぞわりと背筋があわだつ。
 そのいわんとするところを察したノーラは、肩を跳ねさせた。落ち着きかけていた頬が、一瞬で熱をともした。
 ぺちん、と力なくユカをはたく。
「えっち!」
「そーいうところも好きだろ?」
 ユカのへらへらとした様子と、わかっているという軽い口調に腹が立つものの、たしかに嫌な気はしない。
 ほんと、どうかしてる。
 おどけたようにいいながらも、欲しいと告げる真剣な瞳に異が唱えられないなんて。
「もう……、なんなのよ」
 だがせめて納得できる理由を、とノーラは思う。
 だって、まだ太陽は燦燦と世界を照らしている昼間なのだ。そういうのは夜がふさわしいんじゃないの? というのが率直な意見である。
「惚れた女が可愛いことばっかしでかしやがるから、腹いせ? おまえだってやられっぱなしだと悔しいだろーが。それとおんなじ」
「なにそれ!」
 意味わかんないと零しながら、予想をはるかにこえるような回答に、ノーラは眉を下げてころころと笑う。
 どちらかというと、やられっぱなしはこちらのほうだと思うのに。
 笑い転げるノーラの顎に、長い指がかかる。それに逆らわずに顔をあげると、ユカが近づいてくる。
 どうやらほんとうにキスするつもりらしい。子供同士でもするようなものではなく、恋人同士の。
 ……まあ、いっか。
 ノーラは、瞳を閉じて了承の意をかえす。
 そうして受け止めた唇も、舌先も、その吐息も、全部があったかくてやさしくて。
 膝の上、支える腕、しっかりとした胸に、安堵する。
 泣きたくなるような心地に、これが幸せなんだと感じる。
 キスの合間に名を囁くと、応えるように動いたユカの指が、ノーラの耳に触れた。
 くすぐったくて首を竦めると、逃げるなといわんばかりに、また掬い上げるようにして口付けられる。
 やがて満足したのか、酸欠になる前にと慮ってくれたのか、ユカが離れていく。
 わずかにあがった息を整えながら、ノーラはゆっくりと瞳をひらく。
「で、どーすんだ? ユカ・ブランドルでいいか? それとも、ノーラ・ワルタネンになるか?」
 どちらでもお好きなように、と選択権を委ねてくるユカに、「ん~……」とノーラは唸った。
 正直、どちらも捨てがたい。
「……もうちょっと考えてみる」
 そういって、ぽすんとユカの肩へと顔を埋める。
 押し迫った問題ではないのだから、悩んで考えて、そうして決めたって別にいいはず。
 どちらのファミリーネームを名乗ろうが、家族になることにはかわりはないし……――そんな未来を思い描いて、うん、と心の中で頷く。
 とにかく、といいながら、ぽんとユカが背中を叩いてくる。
「それ以外はみとめねーからな」
「……うん。あたしもだからね」
 家族になるならあなたがいい。
 名乗るのならば、同じファミリーネームがいい。
 こつんと額を重ね、笑いあう。
 互いの気持ちを囁きあって、もう一度と唇を寄せ合う。

 ――でも、そうなる前に、家の増改築したほうがいいかも――と、開け放たれた窓の向こうから響く、庭で遊ぶケケとメロウの声を聞きながら、ノーラはそんなことを思った。