「バカ! あぶねえ!」
「へ」
ユカの珍しく切羽詰った声が響くのと、ノーラの足元がなくなるのがほぼ同時。
我ながら間の抜けた声だなあと思いつつ、ノーラは無重力の一瞬を味わう。
必死に手を伸ばすユカに、いつもそうして真剣な顔をしてれば格好いいのに、と現状を把握できていない頭で考えて。
ノーラは、落ちた。
下へ下へと引き絞られる奇妙な感覚に、身を堅くする。どこかに触れたと思ったら、体が回転する。目をきつく瞑ったせいで、上も下もわからない。
そして、自分の意思でなく、自然の法則により勝手に動かされた体がようやくとまる。
とめていた息を再開させ、そろそろとノーラが目をあけると。
そこにユカの顔があった。
くらくらとした意識の中、その瞳をみつめる。今まで、こんな近くでみたことなんてないそれが、綺麗だと気付く。思っていた以上に長い睫が、ふいに下がる。
時間がとまったような感覚に戸惑う間もなく、二人の距離がさらに近くなる。
近くなりすぎて、その表情を認識できなくなる前にみえたのは、はじめてみる――ユカの泣きそうな顔だった。
ふ、と触れた一瞬が、ノーラを現実へと引き戻す。
まだ柔らかくあたたかな他人の熱が、唇の上に居座っている。
あれ……?
それがなにかわかっている。でも理解が追いつかない。
「ったく、いってぇな~……」
そんなノーラを抱きしめたまま、わずかに離れたユカが顔をしかめた。さきほど垣間見えたのが、まぼろしであったかのように、そこにはいつものユカがいた。
「えっと……」
状況が把握できていないノーラは、男の腕に抱かれ体を起された。つい先ほどまで横たわっていた地面に座り込み、ゆるゆるとユカを見上げる。
「えっと、じゃねえ! ここらへんはもろくて崩れやすいっていっただろうが!」
降り注ぐ怒声に体を縮こまらせながら、ノーラは体を捻って上を見上げる。
「ノーラ~! ユカくーん!」
ぱらぱらと土を零しながら、大人二人分以上はゆうにある小さな崖上でいつものんびりしているはずのメロウが、声に焦りを滲ませ顔を覗かせている。
どうやらあそこから落っこちたようだ。それを、ユカがかばってくれた。よく、間に合ったものだ。
「あ……」
それほど高くなく、また土も柔らかいために、大事に至らずに済んだようだが、今回はうちどころが悪くなかっただけのこと。もし、ここに頭を打ち付けるような岩でもあったら、死んでいたかもしれない。森の奥で、誰にも見つけてもらえずにひっそり死ぬとか嫌すぎる。
いまさらながらに震えがきたノーラは、ぎゅ、と目の前の男に無意識に縋ろうとして――さきほどの体験の記憶が、強烈な光をともなって、脳裏へと押し寄せた。
かっ、とノーラは体を火照らせた。そのまま、ユカの上着の襟をひっつかむ。
「ユカ?!」
「あん? なんだよ」
髪や頬に土をつけたユカが、眉を潜める。自分もきっとそんな状態なんだろうと思うが、かまう余裕はなかった。
「な、な、なんで……!」
「なんでもへったくれもねえだろうが。助けてもらったことに感謝しろよ」
「そっちじゃなくて……!」
わかっているのかいないのか、訊きたいこととは違う答えをかえしたユカが、ノーラの体を抱きしめたまま上を見上げる。
「メロウ! どっちもひとまず無事だ!」
「よかったわ~!」
ほっとメロウが表情を緩ませる。
「オレたち、こっち方向からこの崖迂回できるとこか、あがれるところがねえか探すから、メロウもそっちへ移動してくれ。くれぐれも、このバカみてえに落っこちねえようにな!」
「わかったわ~。会えたらすぐに怪我を治すわね~」
ユカの言葉に、メロウの顔が引っ込む。崖の上と下、二手にわかれて合流地点を探すらしい。
「おい、ノーラ、ノーラ!」
「!」
てきぱきと指示をだすユカを、半ば呆然と見上げていたノーラは、はっと意識を改めた。
「ほら、いくぞ」
「あ……、うん」
ユカの腕が離れる。そっと気遣いながら放されて、ノーラはなんだか恥ずかしくなる。
「どっか痛いとことか、ないか」
「だ、だいじょうぶ……。擦り傷くらいだよ」
「よし」
立ち上がり、ノーラの様子を尋ねるユカに、問題ないと伝えれば、大きく頷かれた。ぱっぱ、と服や髪についていた土や葉を払ってくれる。
「いくぞ」
手をとられ、崖にそって歩き出す。
そうしながら、考える。
崖から落ちた。それはわかった。ついつい採取に夢中になって、近づくなといわれていた場所に足を踏み出した自分が悪いのだ。
それを、一番近くにいたユカが、身を挺してかばってくれた。もしかしたら、ユカだって大怪我をしていたかもしれないのに。
それで、顔をあげたら、すごく近くにユカがいて。
――キスを、されたような、気がする――
ぼぼぼっ、とノーラはひとつひとつを思い出して、顔を真っ赤に染めた。
どうして、あのときあんなことをしたのか。
それはノーラが考えたところで、絶対わかりっこないことだ。
「ユ、ユカ……!」
ごく、と緊張に喉を鳴らしながら、ノーラは男の背に声をかける。
「あん?」
「さ、さっきの、その……な、なんで……あ、あんな……。くち、……さ、さわった、よね……?」
振り返らずに伸びた枝を手折り、道を作るユカへ問う。キスと言葉にすることは、さすがに恥ずかしかった。
「ん~……」
なんとも気の抜けた声をあげ、ユカが振り向く。
互いに足をとめてみつめあう。
ノーラは目が放せない。おそらくさきほどの落下で落としたのだろう、ジャーキーをくわえていない唇をじっとみつめる。
体すべてが心臓になったように、一回一回の鼓動が、甘く重く全身に響く。
そんなノーラの状態など知る由もないユカが、へらり、と笑った。
「そこにあったから?」
ぷちん。
甘い想いもなにもかもぶったぎるようなユカの答えに、確かに何かがノーラの中で切れた。
ばし、とユカの手を引っぱたくようにして払いのける。
「ばかばかばかばかユカのばかー!」
森全体に響き渡るような声で、ノーラは叫ぶ。
乙女の純情などとは縁遠いと自分でも思っていたノーラだが、さすがにこれは怒っていいはずだ!
じわ、と瞳が熱く潤うのがわかる。
「あ、あたし、はじめてだったんだよ?!」
甘い雰囲気など欠片もなく、土に塗れ汚れた状態で、ただそこにあったからという理由で唇を奪われたなんて最悪だ。
だが、その最悪のことをやってのけた男が、わずかに目を見開いたあと、破顔した。
「そうか、そりゃごちそうさま」
へらり。へらり。
楽しげに、嬉しそうに、ユカが言う。その様子が、ますます腹立たしい。
「ばかー!」
「べっつにいいじゃねぇかよ。どうせいずれ貰うつもりだったし?」
とびかかって、そのふざけたことをいう頭を殴りつけてやろうかと思った矢先の言葉に、ぴた、とノーラは動きを止めた。
「へ?」
何を言っているのか、理解できない。
それをみたユカが、嫌そうに眉根を寄せた。ずい、と顔を近づけてくる迫力に押されるように、ノーラはわずかに後退する。
「なんだよ、オレじゃないやつにやるつもりだったのかよ? 誰だよ、そいつ」
「え、えと、べ、別にそんな人なんて、いない……けど……」
胸元で指を絡め、ごにょごにょと俯きながら気弱にそう答えると、ユカが「よし」と満足げに頷いた。
くやしい。別に、ユカにあげるためにとっておいたわけじゃなかったのに。当然のように、それを手に入れられると思っていたらしいユカを、どうしてやろう。
「うぬぬ~」
ぷるぷると、羞恥やらなにやらに耐えて震えていると、ぽん、と頭に大きな手がかぶさる。ぐり、と撫でられて、視線をあげるとユカが静かに笑っていた。
「だいたいなあ、嫌いな女だったら、そこにあったからっていって、キスしたりしねーよ。……つーか、頼むから心臓止まるようなこと、しでかすな。こっちが、死ぬかと思ったぜ」
「……!」
ぼふ、とノーラの頭が茹った。それと一緒に、もやもやしていたものが、どこかに消えていく。
「そこにあれば誰もよかった」のではなく、「ノーラだから、そうした」というユカの理由が原因なのは、明白だ。
もしかして、ほんの少しみせてくれたあの泣きそうな顔は、自分が無事を確かめたことからくる安堵ゆえだったのだろうか?
本当は違うかもしれない。見間違いだったかもしれない。だが、一度でもそう思ってしまったら、もうあとはなし崩しに、心は許す方向に傾いた。
だって、ノーラは、このだらしなくていい加減で、酒とジャーキーが好きで、世話になっている酒場でのツケがたまっているどうしようもないこの男のことを――宝を前にすれば少年のような顔をみせ、ときに怖いくらい真剣な眼をみせるユカを、憎からず想っているのだから。
「うん……。ごめん」
「わかりゃいいんだ。ほら、さっさとメロウと合流して、傷治してもらおうぜ」
「うん」
背を向けて、先頭を歩き出すユカのあとに続き、その広い背を見つめながら、ノーラはため息をつく。
納得はしたけれど、やはり、ちょっと残念なことがある。
「とほほ……。ジャーキー味のファーストキスとか泣けてきたよ……」
「あ?」
ノーラの小さな愚痴を聞き逃さなかったユカが、何いってんだ? といわんばかりに振り返る。
「もっとこう、ロマンチックなのがよかったっていってるの!」
「ロマンチックって、おまえなあ」
ユカがあきれた顔をする。だが、すぐに何かに気付いたような顔をして、ニヤリを頬を持ち上げた。
「じゃあ、オレにはじめてをもらわれたのは嫌じゃないわけだな?」
「っ!」
はう、とノーラは息を飲み。そして叫ぶ。
「う、うるさーい!」
手を振り上げ殴るふりをして誤魔化すが、ユカのにやけた表情は引き締まることはない。
「ま、次は気をつけるわ。今日のところは、これで許してくれよ、な?」
「……う~……」
さらりと二回目の約束をとりつけてくるユカの手をとりながら。
ノーラは渋々と、でも甘く胸を高鳴らせながら頷いた。