寂しい季節の終わりは楽しい季節のはじまり

 つついたらきっと怒るだろうな。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、ヒースは手持ち無沙汰な手を軽く握った。
 テーブルの向こう側には、いかにも「怒っています!」といわんばかりのむくれた表情をしている少女が一人。ヒースは、知られぬように、こっそりと溜息をついた。
 季節は、窓から差し込む光が、いささかの熱を孕む頃合だ。春は、もうすぐ終わる。
 ヒースと相対する少女――ティアの背後で、繊細なレースの施されたカーテンが、初夏の匂いが混じった風に大きく舞う。
 その拍子に、紅茶色の髪がふわりと弄ばれて、ティアの白い肌へとかかる。その色彩が、懐かしく愛しく、ヒースの心をうつ。
 思えば、景色が鈍色がった冬の中ほどにヴァイゼン帝国への一時帰還を命じられて以降の、ティアである。生ティアである。
 ヒースにしてみれば、一刻もはやく戻れたことを実感したい。具体的にいうと、抱きしめて口付けたい。
 だが、そんな願望を口にしたら、さきほども考えたところであるが――きっとティアは怒るだろう。「誤魔化そうとしてるー!」と、泣き出すのが目に見えている。さて困った。
 ヒースの、やや欲まみれな心のうちを知らぬまま、ティアは滑らかな肌に覆われた頬を膨らませ、実り色をした瞳に薄っすらと水の膜を張らせつつ、眉根を最上級の深さに寄せている。
 じっくりと観察したせいで、菓子でできているような頬に指先を沈み込ませたい衝動が再びこみ上げる。が、なんとか抑える。手を伸ばさなかったことを誰か褒め称えるべきである。
 それにしても、カレイラ王国へと戻り、ヴァルド皇子に報告をしてすぐにティアの家へとやってきて、そろそろ一時間近くたつ。それなのにずっとこの状態。
 まだ怒鳴り散らされたほうが精神的にマシだ。じっとりと恨めしげに悲しげに、それでいて熱っぽく睨み続けられるのはさすがに辛くなってきた。
 とはいえ、いきなり馬鹿正直に問い詰めるのはだめだ。多感な少女時代であるはずのティアが、こちらにあわせて秘かに背伸びをしていることを知っている。ゆえに、宥める方法を間違えるわけにはいかない。
 甘えたい、でも迷惑をかけたくない。悲しい、でも怒りたくない。きっとそんなことを思い悩んでいるのだろう。鋭く指摘しては、ティアの心が傷つく。
 子供っぽく八つ当たりしてきたところで、それを受け止めてやるだけの度量はあるつもりなのだが、それはティアが思い描く「ヒースにつりあう大人の女性」像からはかけはなれているだろうから、してくるわがないのだ。思ったままに、素直に言葉にしてくれればいいのだが。
 なかなかうまくいかないものだな、とヒースは小さく笑った。でも、その煩わしささえも、ティアが与えてくれるものならば、なんとも楽しい一手間となる。
 さて。そろそろ機は熟しただろうか。こちらとしても我慢の限界である。まずは、軽く先制攻撃といこう。
「なあ、ティア」
 優しく優しく、蕩かすように意図をして、甘くその名を呼べば、ぴくっとティアが肩を震わせる。ただそれだけなのに、じわりと頬を赤らめるその様子が、眼福すぎる。
 だがここで、にやりと笑ってしまえば台無しである。できるだけ、心から反省し後悔しているような風情で、目を伏せた。
 演技は得意ではないが、敵との交渉事においては、多少の演出が必要なときがある。かつての交渉事案を思い出し、ヒースはテーブルに肘をつき、組んだ手を口元に添えた。
 第三者からみれば単なる痴話喧嘩、いわゆる犬も食わない事態なのだが、当事者にしてみれば、真剣勝負なのだ。気合を入れなおして、ヒースは口を開いた。
「すまなかった。花を見に行こうと、約束していたのにな。ずいぶんと遅くなってしまった」
「覚えて……たんですか……?!」
 ヒースがそのことすら忘れていたと思っていたのか、ひどく驚いた様子でティアが声を震わせる。
 どうやら怒りの一端は、そこにもあったらしい。急に、しゅんとしおらしくティアが俯いた。自分がはやとちりしていたと気づいたのだろう。
 当たり前だ、とヒースは僅かな苦さを滲ませて薄く笑う。愛しい恋人のことを忘れるほど、薄情な人間ではないつもりだ。
 それ以外のこととなると、割とどうでもいいという大雑把さがいかんなく発揮されるが――もちろん、皇子に関することは除外されるのはいうまでもない。
 それはさておき。
「当然だ。ただ、思った以上に帝国での仕事が長引いてしまったからな……ここに来るまでにみてきたが、もう散ってしまっていたな」
 ティアを一緒に見上げようと決めていた木は、瑞々しい若葉が生い茂るばかりで、薄紅の花など一輪とてなかった。
 すまない、と重ねて謝罪の言葉を述べると、ティアが勢いよく顔をあげる。悲しそうに長い睫が震えている。きゅっと一度唇をかみ締めて、ティアは言う。
「……はい。ヒースさんと一緒に、みたかったです……」
 その震える声に、頷いて返す。ティアのいじらしい恋心を、無碍にしたいわけではなかったのだ。
「ああ、オレもそのつもりだった。だから、冬が終わる前に戻ってこられるよう、予定を組んでいたんだが……」
 はい、とティアが頷いた。なにかを堪えるように、小さな手が胸元で握り締められる。
「皇子に聞いて、知ってます。北の民族の人たちが、帝国からの独立を要求してきたって」
「そうだ。その調停の会議などでずっと仕事詰めだった」
 ヒースはそのときのことを思い出して、乾いた笑いを浮かべた。
 一時帰還してすぐに、北方の民族――かつてヴァイゼンの前皇帝が制した地に住まう者たちが、声をあげたのだ。帝国による政治が彼らの生活にそぐわず、それが彼らのこれまで築いてきた文化をないがしろにしているという怒りが原動力となったらしい。それ以外にも、こちらにはわからぬ、積もり積もったものがあったのだろう。
 その後は、代表者たちと何度も交渉を重ねた。土地の使用問題、物流の経路譲渡、交易の独占撤廃、治安維持に配置された帝国軍の撤退等々。
 実際のところ、独立を建前として自分たちにとって優位な取り決めを手に入れたいという心積もりもあったのかもしれない。
 議題は多岐にわたり、緊張の糸が常に張り詰めていた。それがふつりと切れた瞬間、戦になっていてもおかしくはなかっただろう。
 平和を愛するヴァルド皇子の口添えもあったおかけで、数年がかりの譲歩案が示されて、開戦までには至らなかったが、よく凌げたものだと思う。部下たちが、身を粉にしてよく働いてくれたおかげもあるだろう。
 本当はもうしばらくの帝国への残留を請われたのだが、別の辺境へと赴いていた将軍が後任を引き受けてくれたこともあり、皇子への報告もしなければならないと後を託した。
 重責ではあったが、やりがいのあった仕事から意識を離すように、ふう、と息をはく。「だが」、とヒースは前置きをして腕組みをする。
「それが、君との約束を破っていい理由にはならん」
「ふふ、やっぱりヒースさんは自分に厳しい人ですね」
 一瞬だけ泣きそうな顔をしたティアが、ぎこちなく笑った。どことなく儚さを滲ませたティアが、遠いところにいるような感覚に襲われる。
 確かにティアはそこにると確かめるべく、ヒースは席をたって近づいた。ティアの隣までくると、躊躇うことなく床に膝をつける。向き合うようにこちらを動いてくれたティアが、ぎゅっと腿の上に置いた手を握った。
「私、とっても心配してました。ヒースさんが怪我をしないようにって、祈ってました」
「ああ」
 わかっている。優しいティアが、いつもこの身を案じてくれていること。
「同じくらい、ヒースさんはいつ帰ってくるのかなって……そればかり考えてました」
「ああ」
 知っている。戦に身を置き続け、本当は幸せなど望むべくもないこんな自分を、待っていてくれること。
「ミモザの花が咲いて、それからアーモンドの花が咲いて……いろんな花が散っていくのを、見送りました」
「ああ」
 北にある冬の厳しいヴァイゼン帝国では、まだ咲き始めたばかりの花の名を呟くティアに、手を伸ばす。細い二の腕を優しく捕らえ、引く。
 ティアはあっさりと、ヒースに向かっ落ちてきた。華奢な腕が、ぎゅっと首に回される。無意識なのか、頬を摺り寄せて甘えながらティアがいう。
「さみしかった、です――おかえりなさい」
「ああ、オレも寂しかった――ただいま」
 ティアの機嫌は直ったようだが、こちらの気が済まず、「すまない」と三度言葉を口にする。あどけない口調で、ようやく心のうちを吐露できたティアが、ふるりと頭を振った。
「いいんです。ヒースさん、ちゃんと帰ってきてくれましたし、約束だって覚えてくれていたから……いいんです!」
 ヒースの肩に手を置いて体を離し、ティアが笑う。
 決して忘れえぬ記憶と同じ、愛らしい笑顔。傍らにいずとも、寄り添えずとも、いつも思い返していたそれと同じもの。ずっとみたかったものにつられて、ヒースもまた笑った。
「私のほうこと、ごめんなさい。我侭ばっかりで。ヒースさんのお仕事がとっても大変だったってわかってるのに、勝手に拗ねちゃったし……ほんとうに、ごめんなさい」
「もっと怒ってもいいんだぞ? 君にはその権利があると、オレは思う」
 む、と口元を一度引き締め、ヒースは眉根を僅かに寄せてそう進言してみる。
 別段、ティアに罵られたいとか叱られたいとかそういう願望があるわけではない。体を蝕む膿を吐き出すように、心に溜まったものをもっと表に出してくれればいいと、そう思っただけのことだ。
 だが、ティアにはもう、不満はないらしい。ヒースの愛する綺麗な瞳を、星瞬くように輝かせている。
「いつまでもそれじゃあ、楽しくないですから!」
「それはそうだが」
 この切り替えの潔さと速さは、ある意味、ティアにとって最強の武器かもしれない。
 預言書を巡る戦いで街の人間に裏切られ、言葉でもって傷つけられたというのに、今は許しているのだから――心が澄んだ海のように広いのか、晴れ渡る大空のように陰りがないのか。とにもかくにも、その心のありようが、預言書に選ばれた一因であることに間違いはないだろう。
 だが前向きなのはいいことだな、うん、と心の中で納得しながら頷いたヒースだったが、次の瞬間凍りつくことになった。
「それに、お花が咲いたら出掛けてはいたんです。ただ、隣にヒースさんがいてくれたらなぁ、ってそればかり考えてて。それが顔にでてたみたいで、すごくからかわれたし――きゃっ?!」
「誰といったんだ?」
 我ながら随分とひんやりとした声がでるものだ。ヒースは、じっとティアの瞳を見据えながら、そう思った。
 だが、これはティアが悪いだろう。ようやっと再開した恋人の腕の中にいるにもかかわらず、どこかの誰かとの思い出を語るなど、男心がわかっていない。
 細い腕を掴む手に、骨を折りかねないほどの力が入りそうになるのを、ぎりぎりのところで押しとどめながら、きつい視線で答えを促す。
 一瞬、ぽかんとしたティアが、くしゃりと顔を崩し蕩けるように笑った。
「ふっ……ふふっ!」
「おい」
「ふふ、ふふふっ! あは、ははは!」
「ティア!」
 頬を薔薇色に染めて、心底嬉しそうに楽しそうに声を転がされる意味がわからない。こちらは真剣だというのに!
 ヒースの切羽詰った様子がよほどおかしかったらしく、ティアはしばらく笑い転げたあと、言った。
「だ、だいじょうぶです、だいじょうぶ……! 一緒にいったのは、ファナですよ?」
「!」
 ひどく愛おしそうに頬に指を滑らされて、ヒースはぐっと息を呑んだ。
 しまった。やられた。やってしまった。だが、そう思ったところで、時間の流れは巻き戻すことはできない。瞬間的に湯が沸騰したように、普段なら気をつけているはずの嫉妬を噴出させてしまったことが、みっともない。
 途中までは上手くいったというのに、結局のところ格好悪いところを晒した自分を心の中でひどく罵りながら、ヒースはゆるゆると緩慢に、指を一本一本はずしてティアの腕を解放した。
「――そう、か」
「はいっ」
 片手でこめかみを押さえながら、ようやっとそれだけ搾り出すように声をだせば、ティアが首に縋るように抱きついてくる。
 どうしようもなく楽しげな様子で、己の耳元で零れ溢れるティアの笑い声に、ヒースは眉をしかめる。ほんのり、己の顔が熱いのが恥ずかしかった。思春期などとうに終えているというのに、甘酸っぱい気持ちが胸を擽っきてて苦しい。
「あまりからかうな。男の嫉妬は深いんだぞ」
「ごめんなさい」
 くすくすと笑いながら言われても、なあ。ヒースは内心頭を抱えた。
 だが、これくらいは甘んじて罰と受け入れよう。ティアに、寂しい思いをさせた代価としては、安いものだろう。
 そっと、抱きついたままのティアの髪へと口付けを落とす。与えられたぬくもりに気づいたティアが、はっとして身を離すのを好機ととって、ヒースはその唇に噛り付いた。
 んう、と突然の口付けにくぐもった声をあげたティアだったが、すぐに健気に応えてくれる。一季節ぶりの恋人らしい行為に、夢中になっていく。髪に指先をもぐらせて小さな頭を支え、深く唇を結んでまだ縮こまっている舌を吸い上げる。
 己のほうへと招きいれて、また戻して。狭い口内をあますところなくなぞっては、唇を食む。空いている手でティアの耳を擽り、細い首を指先で辿る。
 ああ、そうだ。これが、ティアだ。
 交換した甘い雫を嚥下して、ヒースは自然と笑みを浮かべた。
 愛しい人のかたちを、なぞる。つ、と手のひらを押し付けるようにしてわき腹から腰を辿ろうとしたところで、ぺちっとその手がはたかれた。
「めっ、です……」
「そうか」
 真っ赤な顔で、肩で息を整えているティアに涙目で睨まれてしまった。このまま流されてくれればいいのに、と欲塗れの思考を遠ざけながら爽やかにヒースは笑った。
 熟れ落ちそうな果実に似た、小さな耳に唇を寄せて、「続きは夜に」と吹き込むと、わずかな間をおいてから、ティアが頷いた。
 自分ばかりが欲しがっているわけではないと知って、多少なりとも安堵する。まあ、ティアが敬遠してもどうにかこうにかするけれども。
 年頃の少女が知れば幻滅することを大真面目に考えていると、ティアがヒースの服をきゅっと握った。
 どうした、と甘く瞳を細めて視線で問いかける。ティアは、ふんわりと笑いながら首を傾げた。
「あのですね、ヒースさん」
「うん?」
「今の季節は、バラがとっても綺麗なんですよ」
「ふむ……?」
 花は嫌いではない。だが、ことさら詳しいわけでもない。ヒースのように、兵として生きている世の男など、たいていそうだろう。修行などを森で過ごした関係で、山野の花にはまだ詳しいが、バラともなると素朴な野バラ程度しかわからない。なので、季節だといわれてもいまいちピンとこない。
「お城の庭はいつでも観に来ていいよって、ドロテア姫がいってくれてて……だから、その、よかったら……」
 天真爛漫なかの姫は、ティアとヒースの恋愛ごとに興味津々の節がある。おそらく自分自身の恋愛事情もあってこちらを応援してくれているのだろう。ありがたい申し出である。
 好いた女にここまで言われて、応えないなど男が廃るというものだろう。
「では、明日にでも出掛けるとしようか。想定していた花と趣は違うが……喜ぶ君が傍にいることが、オレにとっての幸せだ」
「やったー!」
 ぱあああ、とつい先ほどまでの膨れっ面とはまったく違う幸せそうな顔が咲いた。きゃっきゃ、とお弁当はどんなものがいいですか、と愛くるしく尋ねてくるティアに、頬が緩む。自然と、吐息が漏れた。
「ああ……やはり、ああいうのもたまにはいいかもしれんが、君はそうしているのが、一番いい」
 願わくば、自分の傍らにずっとこの花が在るように。寂しさに俯くことなく、悲しみに萎れることなく、愛を失い枯れることなどないように。憂い顔は、ごくごく稀でじゅうぶんだ。
 オレは、自分の人生をかけて君という花を愛でていこう。ヒースはあらためて心に誓った。
 きょとり、とティアが目を瞬かせる。
「ヒースさん?」
「なんでもない」
 細く柔らかな髪を耳にかけてやりながら、首を振る。くすぐったそうに、それでいて悪戯っぽく目を細めたティアがいう。
「んふふ、ヒースさん!」
「ん?」
 伝えたいことがあるのなら聞き漏らしたくないというように、耳を近づける。あのね、と内緒話をするように口元に手を当てたティアだったが、目元口元がにんまりと孤を描く。
「なんでもありません」
「ははは、そうか」
 ただ名を呼び合うことすら、幸せで。
 きつく抱きしめあって、その存在を確かめあって――優しく触れるだけの口づけをかわそうと、同時に顔を寄せ合った。
 どこかで咲いているのか、微かにバラの香りがしたような気がした。