真っ白だ。
一日のはじまりを告げる太陽の光をあびて、世界がきらきらと宝石をちりばめたように輝いている。
ゆっくりとあげた視線の先にある空は、いつもの青さはなりを潜め、淡くけぶっている。
家をとりかこむ落葉樹のあいまには、冬でも青い葉をみせる常緑樹があったはずだが、その葉も今はみえない。見えるのは木々の幹や枝ぐらい。
「わー……! 雪!」
起き掛けにベッド近くの窓にかかるカーテンを開いた後、しばし見惚れていたティアは、現状を把握するにつれ歓喜に頬を染め上げ、やがて驚きの声をあげた。
雪をみたことがないわけではない。氷だってよく知っている。ネアキの封印されていたトルナック氷洞では、とてもてこずらされたものだった。蒼い氷はそれはそれで綺麗だったが。
だけれど、幼い頃からよく知った景色が、それに覆われ一変しているとなると、また話は変わってくる。なぜだかこう、わくわくとした気持ちがこみあげてくるのだ。
カレイラはどちらかといえば温暖な気候に属する国である。まったく雪が降らないわけではないが、それは主に標高の高い山岳地帯やその周辺の森林ばかり。
平地にあるこの首都ローアンが、ここまで包み込まれることなどなかった。奇跡のような白さに、はしゃぐなというほうが無理だ。
ほんとうに、いつの間に降り積もったのだろう。確かに昨晩は少々寒さが過ぎると夕食時に話していたけれど、まさか雪になるなんて。
いつもは聞こえる小鳥の囀りもなりを潜め、風が木々を揺らすこともない。こんな、耳が痛くなるような静かさは初めてのことだった。
このままじっとみつめているだけではものたりない。そうだ、絵本でみたことのある雪だるまを作ろう。挿絵のような、子供ほどもあるのは難しいだろうけれど、小さなものでもきっと楽しい。レンポやミエリは寒さに弱いから誘うのは心苦しいが、ネアキはきっと喜ぶだろう。
この思いつきがとても素敵なことのように感じながら、ティアは寝台の上から降りようと身を捻った。
と。
「きゃん!」
振り返った先に、いつの間にか聳え立っていた壁に強かに鼻先を打ちつける。硬く冷たいというわけでなく、むしろ弾力と温かさを備えたそれに、真正面からぶつかったティアは、小さな悲鳴をあげた。
顔をあげようとしたわずかな合間に、身体全体が包み込まれた。ついさきほどまで寄り添い、熱を分け合いながら眠っていた人の匂いがする。
ぷは、と息をつくように顔をあげれば、ティアを抱きしめた逞しい腕の持ち主――ヒースが、眩しそうに目を細めていた。昨日と今日、休暇をいただいている年上の恋人の視線は、窓の外へと向いている。
「ああ……雪か。どうりで寒いと……」
くぁ、と小さなあくび混じりに、かすれた低い声がそんな言葉を紡ぐ。起きたばかりの、どこか眠たげなその表情は、いつもの雄雄しい将軍の姿からはちょっと想像がつかない。
ヒースのこんなところ、きっと自分しか知らないのだろう。そう思えば、ティアの小さな胸は、くすぐったい喜びに満たされる。
恋に色づく吐息を零しつつ、のびあがるようにして、ティアはヒースの頬へと唇をよせた。ちゅ、と音をたててキスをする。今日もあなたが好きですと、そんな想いをこめて。
「おはようございます、ヒースさん」
まだ少し眠気の残る優しい瞳にみつめられ、幸せな気分いっぱいのまま、朝の挨拶をする。
「ああ、おはよう。ティア」
ごくごく自然に落ちてくるお返しのキスを頬に受けて、ティアは笑いながら首をすくめた。伸びた髭が、ちくちくして痛いやらくすぐったいやら。
起き上がり、ベッドの上に座り込んだヒースの長い足の合間、ティアは逞しい胸に手をついて、ヒースの顔を覗き込む。寒くないようにと、ヒースが自分ごとティアを毛布でくるんでくれた。
冷えかけていた身体を温めてもらいながら、ティアは興奮気味にヒースへと迫る。
「ヒースさん、雪ですよ、すごいですね!」
「ん? ああ、そうだな」
完全に目が覚めたらしいヒースが、乱れているだろう髪を大きな手で撫でつけながら頷いた。
「ね、雪だるまつくりましょう!」
「うん? そんなにいそぐことか?」
今にも飛び出していきそうなティアの勢いに気づいたのか、ヒースが珍しく目を丸くする。呑気な言葉に、ティアは焦って眉をさげた。
「だって、はやくしないととけちゃいます」
「また降って積もるだろうから、そんなにすぐはなくなるまい?」
今度は、ティアが目を丸くする番だった。きょとり、と瞬きをひとつ。
「雪ってまたすぐ降るんですか?」
「降るだろう?」
「……?」
「……?」
朝から元気一杯にしゃべるティアに対し、ヒースはうんうんと頷きながら言葉を返してくれていたが、なんか会話がかみ合っていない気がする。
ティアがこて、と首を傾けると、ヒースがつられたように首を傾けた。二人の間になんともいえない沈黙が落ちた。
だがそれも、ほんの少しのことだった。
ああ、とヒースが合点がいったとばかりに、わずかに目を見開いて顎を撫でた。
「そうか、カレイラでは雪が珍しいのか。帝国では、雪は当たり前のように降るものだからな」
「そうなんですか?」
何かを思い出すように視線を右上方向にあげながら、ヒースはいう。口元が薄く笑みに引かれたその表情は、どこか懐かしげだ。
「雪かきに、たまに軍が出動することもあるくらいには降り積もる。民の生活に関わることだからな」
「軍がでるんですか……凄いですね」
そんなにたくさんの雪、ちょっと想像がつかない。
帝国は大規模な国だ。もちろんそれ相応の軍を有する。戦時中に何度も見かけた勇猛なあの兵士たちが、せっせと雪をどかしているなどと、考えたこともなかった。
「毎年のことだしな。中には上官の目を盗んで雪像を作っているやつもいたし……あとはまあ、兵達は作業後に国から供される温めたワインが目当てだったのだろうな」
「ふふふっ」
労働のあとの酒は、何倍も美味しく感じるという。ティアにはまだわからないところであるが、そうした楽しみがあるのはよいことである。
「カレイラは温暖な気候だからな。雪が珍しいものであるということを失念していた」
すぐに気づかずすまなかったなと、ヒースが笑うものだから、ティアは頭を振った。これまで暮らしていた場所が違うのだ。認識のずれは当然のことだろう。
「えっと、じゃあ、ヒースさんは雪だるま作ったことがありますか?」
「雪だるま、か? いや、ないな」
あっさりと否定されて、ティアは少々落胆した。せっかくだから作り方を教えてもらおうと思ったのに。
「そうなんですか? 雪がたくさん降るんですよね?」
「徒手流派の修行しているときはそんな余裕はなかったし、帝国軍にはいったころには頃にはいい歳だったからな。それで雪遊びに興じるわけにもいくまい?」
せっせと雪だるまを作るヒースを想像してみる。
にこ、とティアは笑う。なんだか可愛いと思う。別におかしいことはない。
「私はいいと思いますよ。雪像作ってたっていう、帝国の兵士さんたちに混じってみればよかったのに」
「オレにそんなことをいうのは君くらいだ」
小さく噴出したヒースが楽しげにそういうものだから、ティアも一緒に声をあげて笑った。
そんなティアの頭を優しくなでたあと、ヒースは再び窓の外の景色を見遣る。
「まあなんにせよ、だ。これだけ雪があるのなら、すぐには消えんだろうさ」
「なら、あとでもだいじょうぶですね」
よかったー、とティアは胸を撫で下ろす。なにしろこんなことは滅多にないのだ。雪が消える前にと焦ったが、ヒースがいうなら問題ないのだろう。
「そうだな。朝食をとってから、雪かきがてら君の希望をかなえるとしようか」
「やった!」
ぽふっとヒースの胸に飛び込んで、ティアは頬を摺り寄せる。そのまま離れることなく、ぴったりとくっついていると、ヒースが肩を震わせて笑い出した。
「おきるんじゃなかったのか?」
「はい。でも、もうちょっとだけこのままがいいです。ヒースさんあったかいから」
「そうか? 君のほうがよほど温かい」
「きゃっ」
急に傾いた身体に驚いたものの、ティアを自分の身体の上にのせ、ヒースが寝台の上に横になったことに、すぐに気づいた。悪戯っぽく笑うヒースをみあげたティアは、ふにゃりと笑って顔を伏せた。
ヒースの厚い胸に隙間なく耳をくっつければ、心臓の音が心地よく響いてくる。規則正しく、優しい旋律だとティアは思う。
鍛えられた身体と歴戦の騎士たる気迫をまとうヒースは、見た目だけで怖いと敬遠されることもありがちだけれど、ほんとうはこんなにも優しくあたたかな人なのだと、ティアは世界中に知らせたいと思った。
でもそれじゃあ、私だけのヒースさんじゃなくなっちゃうかな……やっぱり内緒にしておこう。
思う存分、ヒースの温もりを堪能しながら、ティアは小さく笑って息を吐く。
すると、ティアの背に置かれていたヒースの手が移動して、ゆっくりと頭を撫でられた。大きな手の平からは、ティアに対する慈しみが伝わってくる。愛しいと、撫でられるたびに語りかけられているような気がして、その心地よさにティアはうっとりと目を閉じた。
やがて、ヒースは己の胸に散らばり放題になった髪をみかねたのか、ティアの耳に髪がかけられた。そのまま指先で耳の裏まで弄ばれて、声を転がすようにティアは笑った。
「ふふ、くすぐったいです」
「可愛らしい猫が擦り寄ってきたならば、撫でたくなるものだろう?」
「もう……」
人を猫扱いするなんて、とわざとらしく頬を膨らませ、ティアは身体を引き上げ、ヒースを見下ろす。絡み合う視線を瞼できって、ティアはそっと口付ける。ちゅ、と触れるだけのそれをいくども繰り返し、満足してから顔を離せば、ヒースが愉快そうに笑っていた。
「まあ、猫はこんなことはしないな」
「そうですよ」
ティアは笑いながら、ヒースの両の手に頬を包まれ引き寄せられるまま、再び唇を重ねる。
窓から差し込む光が力強くなってきたけれど――もう少しだけ。白く静かな世界に包まれて、二人きりの朝を満喫しよう。
ティアはヒースの首元に擦り寄って、幸せの吐息を零した。
その後、ローアン入り口近くの小さな家の前に、それはそれは立派な雪だるまと、愛らしい小さな雪だるまが寄り添いあって出現し、何も知らぬ通行人はそれをみて微笑ましく顔を緩ませたという。