『ヒースちゃん!』
『ティアちゃん!』
名を呼び合って手を繋ぎ、どこにでもいった。なんでもした。ふたりはいつも、一緒だった。
ジャングルジムの一番上で、流れる雲の形をなにかにたとえて遊んでいた。意味もわからず、「けっこんしようね」と、ことあるごとに約束しては、親たちを笑わせていた。
それはもう遠い過去のことだ。自分にとっても、彼にとっても。
だけれど、色あせることはない。この胸にはいつも、その幸福な記憶が、色鮮やかに息づいている。
彼は、どうだろう? 自分と同じだろうか。それとも――
教室の床を、使い古された箒で掃いていたティアは、ふと視線を外向けた。
開け放たれた窓の外は、秋晴れだ。儚い青さが見える限りに続き、その下には住み慣れた町が広がる。東から西へと、空を泳ぐ大きな魚が置いていった鱗のように、ふわふわと小さな雲が並んでいる。
三階建ての校舎の前には広い校庭がある。学校に隣接するグラウンドに向かうのか、運動部の学生とおぼしき少年少女が駆け足に横切っていく。
そんな中、彼らと交差するように正門へと向かう人物が、目に付いた。
あ、と声をもらしたティアは、教室の窓枠からわずかに身を乗り出す。校庭を歩く背の高い人へ、元気いっぱいに手を振った。
「ヒースちゃーん!」
校庭全体に響き渡るような音量に、ぴくり、と目当ての人物の肩が震えた。何事かと、彼の周辺にいる生徒のほうが驚いて校舎を見上げている。
彼――ヒースは眉をひそめ、肩越しに振り返る。そんな彼に、ティアは「ばいばーい!」と、改めて手を振った。
だが、応えはない。わかっていたことだけれど、ちょっと寂しい。
ふいっと顔をそらして歩み去っていく幼馴染のヒースの姿を、手を振り続けて見送るティアに、同級生のファナが溜息をついた。
「いつものことだけれど、報われないわね」
「いいの! だって、私がやりたいからやってるんだもん!」
うっかり落下などしないように気をつけて、教室内へと体を戻したティアは、手早く塵取りに埃やごみを集めると、ファナが持ってきてくれたゴミ袋へといれた。
そうして、道具をロッカーへと片付け、ふり返る。どこか不満そうに僅かに眉をひそめたファナが、口を縛ってくれたゴミ袋を受け取って、笑う。
「あとはこれ捨てるだけだよね。いこっか」
ええ、と返してくれた可憐な友人に微笑んで、ティアは校内にあるゴミ集積場所に向かって歩き出す。肩を並べて歩くファナが、たおやかに首を振った。
「それにしても、ほんとうに、ティアは健気ね。ヒース君のどこがそんなのいいの?」
穏やかな性格のファナが、こんなふうに人を非難気味にいうのは珍しい。
心優しいファナに、そんなことをいわせてしまったことが心苦しくて、ティアは苦笑いした。
「ヒースちゃんね、昔はあんな感じじゃなかったんだよ。誰にでも優しかったもん」
「ええ、ええ、よくきいているけれど……ごめんなさい、とてもじゃないけれど、信じられないわ」
ティアがことあるごとに語る思い出は、それこそ覚えてしまうくらいに聞きなれているのだろう。ファナが何度も頷いた。
でも、ティアのいうことが本当ならば、どうして今はああなのかしら? そんな心の声が聞こえてきそうな表情で、ファナは頬に手を当てて嘆く。
「退院したら、ヒースくんに会うのを楽しみにしていたのだけど」
「ファナ、病気の治療してたもんね」
小さいころから身体が弱く、入退院を繰り返していたファナは、小学校にほとんど通えていなかった。それでも仲良くなったティアの口から、小学校でのことを伝え聞いていた。その頃は、ヒースくんに会えるのが楽しみ、といってくれていたのだが――中学生になり、快癒したファナとヒースをひきあわせたときの反応といったら。
「みんな、誤解してるだけだよー」
「でも、この前も、別の高校の男の子たちに囲まれてたとかきいたし……」
「あれは、あっちからヒースちゃんに難癖つけてきただけだもん!」
やんなっちゃう、とティアは頬を膨らませる。
「どうして、みんなヒースちゃんのことわかってくれないのかなぁ」
「……ううん……、そうね、噂もそうだけれど、まずはあの見た目がね……ちょっと、怖いというか……」
うーん、とティアは視線を上にあげながら思い出す。
高い背、広い肩幅、彫りの深い顔立ち、強い眼差し。うん。問題なんて、ひとつもない。
「ヒースちゃん、格好いいよ?」
「そういうのはティアだけよ」
ティアの言葉は予想どおりだわ、とファナが笑った。
なんだか納得いかない。確かに、普通の女子高校生が黄色い悲鳴をあげるような、華奢なモデルや爽やかなアイドル然とした風貌ではない。でも、ヒースはそういう方向性ではないが、格好いいと思うのだ。昔みたいに笑ってくれるのなら、もっとわかってもらえそうなのに。
そこまで考えて、肩を落としてティアは溜息をついた。ああなった原因に心当たりがあるからだ。
「でも、優しかったヒースちゃんがああなったのは私のせいだし……。だから、さっきみたいにこたえてくれないのも、しかたないの」
「ティアが悪いことなんて、ひとつもないと思うわ!」
すぐさま、きっぱりとそう判じてくれるファナに、ふるり、とティアは頭を振った。
「私がね、もっと強ければよかったの」
そう、静かに言葉にしながら、廊下の窓から空をみつめる。
あの出来事も、秋のことだった。
小学校の低学年にあたりまで、ティアとヒースの二人は、ほとんど一緒に過ごしていた。
名前を呼び合って、手を繋いで、笑いあって、たくさんのことを話して、遊んでいた。
けれど、小学校ともなれば、少しずつ男女の差がでてくるし、思春期一歩手前の年頃は、なかなかに難しい時期でもある。
中学年になる頃には、ヒースは男の子とよく遊ぶようになり、ティアもまた女の子の友達とよく遊ぶようになっていた。子供には子供の、交友関係ができあがっていくのだ。
そして、大きく変わっていったところが、もうひとつあった。
入学前から、ヒースはとある剣術の道場に通っていた。そのせいもあってか、ヒースは誰しもが目を見張るような、身体的成長をみせた。高学年になるのを目前にして、ヒースの身体は同じ年頃の子たちとは一線を画するようになっていたのである。
気づけば学年で一番高くなっていた背。ティアの手を包み込めるほどに大きな手。それだけみれば、別の誰かのようだった。
でも、名前を呼べば嬉しそうに笑ってくれたし、いつしか見上げるようになった彼の瞳は、ずっと変わらぬ優しさだった。だから、ティアの心の中にはいつもヒースがいた。ヒースもきっと、そうだったろう。
ファナのような友達ができ、少し離れることがあったとしても、微笑みかければいつでも応えてくれる場所に、ヒースは必ずいてくれる。
それは自然で、当たり前のことで。これからもずっと続くものだと、幼いティアはそう思っていた。
「おまえ、生意気なんだよ!」
そんな声に、足を止めるまでは。
ファナの家で人形作りをした帰り道、通りかかった公園の奥から響いた声に、ティアは驚いてあたり見回した。だが、自分の周囲には誰も居ない。
ほっと息をつく。よかった、私がいわれたわけじゃないんだ、と心を落ち着ける。
とはいえ、悪意に満ちたその声は、自分に向けられたものではないとわかっても、あまり気持ちのよいものではない。
誰がそんなことをいわれているのだろう? ティアは、用心深く視線をさ迷わせた。
よくみれば、公園の片隅に、数人の人影がみえる。どうやら、そこが原因のようだ。
目を凝らしてみる。集団は、自分と大体同じ年頃の子供のようだ。遠くて、誰が誰、と判別は難しい。
しかし、その中心にいる人物は、一目でわかった。
ティアは、恐ろしい思いをしたことも一瞬で忘れて、その彼へ向かって駆け出した。
「ヒースちゃん! なにしてるのー!」
「……!」
突然現れたティアに驚いたのか、ヒースが目を見開き、勢いよく顔を向けてきた。
だが、そこに浮かんでいるはずの、いつも笑顔はない。焦ったように泳ぐ目線。どこか引きつった口元に、ティアは頭を傾ける。
ヒースが、いつものヒースではない。そんな気がした。
どうしたの、と問いかけるまえに、ヒースがティアを公園入り口方向へとおしやった。その手が、震えていることに、ティアは不安を覚える。
「えっと、なんでもないから……ほら、ティアちゃんは早く帰りなよ」
「え、でも……」
ヒースのぎこちない笑顔に、ティアは躊躇いがちに周囲をうかがう。
彼らは、自分たちよりひとつふたつほど上の子供たちのようだ。中には、見たことがある子もいた。たしか、ヒースの通う道場に見学にいったとき、みかけたことがある。
そんな少年たちと、ヒースがどうしてこんな状況になったのかは知らない。しかし、ただならぬ雰囲気であることくらい、ティアにもわかる。
「だれだよこいつ」
「ティアちゃんは関係ないだろ!」
そのうちの一人がティアに向かって無造作に伸ばした手を、ヒースが払う。
小気味いい音とともに払われた手をおさえ、少年は顔を真っ赤にした。周囲の少年たちの雰囲気が、さらに険悪なものになる。
「いってぇな! なにしやがる!」
「ちょっと道場の先生に気に入られてるからって!」
「そうだ! なんでお前が次の試合にでられるんだよ!」
「年下のくせに、おかしいだろ!」
矢継ぎ早にそれぞれから責められるヒースを見て、ティアが硬直して動けないでいると、ヒースがその背にティアをかばってくれた。
「ヒースちゃん……」
ぎゅ、と服を掴んで寄り添うと、わずかに振り向いたヒースが「だいじょうぶ」と小さく囁いた。
口もとを引き締め、見たことのない厳しい目で、ヒースが前を向く。その身体から滲む空気に、ティアは黙ってことを見守るしかできそうになかった。
「だから、さっきからいってるように、試合は先生が決めたことで、オレは……っ、」
「その言いかたがむかつくんだよ!」
ヒースと同じくらいの体格の少年が、すばやく伸ばした手で、ヒースの胸元を掴みあげる。
ひ、とティアは息を呑む。だが、ほとんど抵抗することなく、少年に引きずられるヒースをみて、身体が反射的に飛び出していた。
「ヒースちゃんになにするの?!」
「うわっ!」
さけびながら、ヒースを掴む手に飛びついたティアに驚いたのか、少年が腕を振り払った。
「きゃっ」
「ティアちゃん!」
後ろへと倒れそうになるが、とっさに手を出してくれたヒースに支えられ、ティアは転倒しなくてすんだ。だが、よろけた拍子に鞄を取り落してしまった。
「なんだこれ」
そういいながら、一番背の高い少年が拾い上げたものは、鞄から飛び出した、くまのぬいぐるみ。今日、ようやくつけた腕が、掴みあげられている。
「やめて! それは、ヒースちゃんにあげるものなの!」
「何がヒースちゃんだよ、きもちわりぃ!」
「うわ、へたくそ」
「ぶっさいくだなー!」
ぽい、ぽい、とぬいぐるみが少年たちの間で無造作に飛び回る。一人ずつ投げ渡された順番に、人の心を無邪気に踏みにじる子供特有の笑い声があがる。
そんなことわかっている。ファナに誘われてはじめてつくっているぬいぐるみなのだ。縫い目だって汚い。でも、ヒースに貰ってほしくて、一生懸命作っているのに。
「かえして!」
「お前も生意気だな」
ティアは悔しさと悲しさで顔を真っ赤にしながら、ヒースの手を振り切って、ぬいぐるみを持つ少年に手を伸ばした。
だが、ティアの動きは予想していたのか、見切ったのか。その子は、ティアからひょいと身を翻し、すれ違いざまに手のひらを前に押し出した。
「!」
肩に強い衝撃が走る。ティアの軽い身体は、たやすく後ろへと吹き飛ばされた。体の半身に鈍い痛み、とっさについた手の平が熱をもつ。
「ティアちゃん!」
ヒースの声に、反射的にきつく閉じていた瞳を開く。しゃがみこむヒースを見上げる姿勢になっている現状を、一瞬理解できなかったが、すぐに自分が地面に倒れ込んでいることを理解した。
「あ、痛っ……」
「ティアちゃん、血がでてる!」
慌てたヒースが取り出したハンカチが、ティアの手にあてがわれる。そこは、転んだ際に無意識に身体を庇ったせいか、地面と擦れ合ったために薄い皮膚が破れて、血が滲んでいた。
「ごめんね、ごめん、ティアちゃん……」
「ヒースちゃん……?」
まるで自分が傷ついたように、ヒースが泣きそうな顔をしているから、ティアのほうは驚いて涙もでない。自分以上に苦痛を味わっているように、ヒースが眉を下げている。
ヒースちゃんが悪いわけじゃない、と言いたいのに、なぜだか言葉がでてこない。ひくっと喉が引きつるだけだった。
「……ごめん」
ハンカチをティアの傷に巻いて、ヒースが立ち上がる。
「あ……ヒースちゃん……?」
ティアが伸ばした指先は、空をきる。
届かなかったヒースの背は遠のき、大きく振りかぶられた拳が、ティアを突き飛ばした少年の顎を捉えた。
がつりと、鈍い音がした。
きゃあ、とティアが悲鳴をあげたのを合図にしたように、怒った少年たちとヒースが乱闘をはじめた。
「こいつー!」
「やっちまえ!」
だが、いかにヒースの体格がよかろうとも、多勢に無勢。何度もぶつかりあううちに、ヒースの傷が増えていく。
目の前で起こった事態を飲み込めず、呆然としていたティアだったが――誰かの爪によってヒースの左目上から斜めに傷がつき、そこから滲むを血をみた瞬間、ようやく我を取り戻した。
「う……や……やだー! ヒースちゃんがしんじゃうー!」
さきほどまであがってこなかった涙が、堰を切ったように溢れる。制御できない雫が、ティアの視界を揺らす。ゆがむ世界で、ヒースはそれでもティアを守ってくれていた。
「こらー! なにをやっとるか!」
うわぁぁぁん、と泣き叫ぶティアをの声をきいたのは、たまたま公園の前を通りかかった近所のおじいさんだった。
いまどき珍しい、他人の子でも容赦なく叱る人だから、恐れられているおじいさん。ティアだって、怒られたことがある。だけれど、今は神様のようにみえた。
「うわ、やべ」
「にげろ!」
おじいさんの登場で、ヒースを一方的に殴っていた男の子たちは蜘蛛の子を散らすように、大慌ててで逃げ去っていく。それを追いかけるおじいさんを横目に、ティアは躓きながらも、ヒースのもとへと向かった。
「ヒースちゃん、ヒースちゃん! だいじょうぶ?!」
力尽きたように全身で息をしながら地面に仰向けに倒れているヒースは、その手の甲を目元に押し当てている。
ごめん、と掠れ震えた声がまた謝るから、ティアは大きく頭をふってヒースの胸元に縋るように顔を伏せて泣いた。
どうしてヒースがあんな目にあったのか、ティアがその理由を知ったのは、翌日のことだった。
両親からきかされたことによると、あれは、道場で執り行われる試合の選手に、ヒースが抜擢されたことを妬んだ、上級生たちの仕業だったらしい。
最初は、稽古中に嫌がらせをする程度だったが、ヒースがまったく堪えないので、公園で直接文句をいう事態にまで発展。 ヒースは我慢するつもりだったという。手を出すつもりも、もちろんなかった。
しかし、その場面にたまたま出くわしたティアを傷つけられたヒースが、先に手を出してしまった。
両親に連れられ、ヒースの家にいったものの、ヒースはでてきてくれなかった。謝りたいと言うティアにたいして、逆に、ヒースの両親から丁寧な謝罪があった。
ヒースちゃんは? とティアは尋ねたが、「左目に傷ができちゃったから、顔をみられたくないのかしらね」と、ヒースの母親が困ったように微笑んでそう言った。何度か声をかけてもらったが、結局、ヒースはティアのもとにきてはくれなかった。
さらに翌日、喧嘩をしたヒースとあの男の子たちに、事の次第をききつけた道場主の先生から、きついお説教があったときいた。
結果として、性根を叩きなおすということで、男の子たちは道場に残ることとなったが、ヒースは道場をやめたという。
そしてあの出来事から数日後の朝――通学路をとぼとぼと歩くティアの行く先に、ずっと会いたかった人が歩いていた。
その姿を見た瞬間、ティアは自分を包む空気が軽くなった気がした。
「ヒースちゃん!」
まだ、左目付近にガーゼを貼ったままのヒースへと、ティアは満面の笑みで駆け寄った。あちこち、治りかけの傷がみえるが、通学路にいるということは、登校できるくらいに回復したのだろう。
「もうだいじょうぶなんだね? よかったー! 一緒に学校いこ!」
そういって、いつものように手を繋ごうと伸ばした手は、握り返されることはなく。
「……ごめん」
あのときのようにそう呟いたヒースが、そっけなくティアを置き去りにして歩き出す。
その背は、ティアが追いかけてくることを、頑なに拒んでいた。ティアは、ヒースの態度が信じられなくて、ぼうっとその背を見送るしかできなかった。
それからだ。
ヒースが、ティアのもとから離れていこうとするようになったのは。
最初はどうしてヒースの態度が変わってしまったのかわからなくて、ひどく泣いたこともあった。
だけど、時間の経過が、ティアにその意味を考えさせてくれた。
巻き込んでしまったこと、守れなかったこと、泣かせてしまったこと。自分がティアに怖い思いをさせてしまったことを、ヒースは悔いているのだと結論付けた。だってヒースは、優しいから。
それに気づいてから、ティアは変わった。
両親に頼んで、こっそりと、とある流派を習い始めた。古流の武術だから、知る人はあまりいないが、それなりに強くなったと高校生になったティアは思う。
弱いままでは、守られるだけの存在ではいけない。そうして、少しずつ自信をつけたティアは、今日もヒースを追いかける。とりかえしのつかないような距離が、ひらかぬように、と。
そうやって頑張っていれば、いつの日にか、幼いころのように笑って寄り添える日がくると、ティアは信じているのだ。
空は茜色。西にたなびく雲は黄金に輝き、東の端は群青に染まりつつある。
そんな夕暮れの景色を窓硝子越しに感じながら、ティアは軽快な足音を供に、屋上に続く階段を上っていく。
その脳裏には、数日前にみた、ヒースの孤独な後姿が浮かび上がっている。
今日は、そんなふうに、一人で帰るヒースの後姿をみていない。誰にたずねても、みかけていないという返答だった。
もしかしたら、ティアの目にとまらぬうちに帰ったのかもしれない。正面からではなく、裏門から帰宅した可能性だってある。
だけれど、ヒースはまだ学校にいる。そんな気がしている。
空を眺めては空想するのが大好きだった自分たち。
だったら、もしかしたら。そんな想いを抱えて、屋上への扉を開けたティアは、目を細めた。
給水塔の影に、沈む夕日をみつめる姿。長い足の終点から伸びる色濃い影だけが、彼に寄り添っている。そんな影さえ、うらやましいと少しだけ思う。
ティアは、一瞬だけ自嘲気味に小さく笑って、すぐにその表情を消し去った。
「ヒースちゃん、みーつけた!」
「……ティア?」
つとめてあかるく、げんきに。そうして一直線にヒースのもとへと駆け寄ると、どこか遠いところに思い馳せていた瞳が、こちらに向いた。
深い色をした灰青色の瞳も、いまは夕焼けに染められている。なんだか、ヒースが別人のようにみえる。でも、その優しい眼差しは、やはりずっと変わらない。
ティアを避けるような言動をしていても、こうして向き合えば、彼の優しさがちゃんとわかる。どうして、皆はこれがわからないのだろう。
にこ、とティアはヒースを見上げて笑った。
「もう夕方だよ。かえろ?」
「……オレがここにいるってよくわかったな」
ティアから目をそらし、ヒースが歩き出す。いますぐこの場から立ち去りたいとでもいうような大股での一歩は、ティアにとっては数歩分ある。
置いていかれないように、ティアはそのあとを懸命に追う。追いながら、いう。
「まかせて! 愛の力だよ!」
「……」
すごいでしょ! と隣に並びながら得意げに本心をいったというのに、ヒースの顔は歪むばかりだ。
そういえば、ヒースの笑ったところを最近みたことがないなぁ、と思いつつ、ティアは唇を尖らせ指摘する。
「あっ、いま馬鹿にしたでしょ」
「馬鹿にする気力も沸かない」
心底疲れ果てたというように、渋い声でそういいながら、ヒースが屋上出入り口の扉をあける。開いたまま、こちらを見下ろすヒースの横をすり抜ける。
こういうとこ、結局優しいんだもん、とティアは内心笑った。
なんだかんだといいながらも、ヒースは今のように、フェミニストな行動を無意識のうちにしてしまっている。やっぱり、優しい。
重い鋼製の扉が閉まる。赤い夕焼けの大部分が遮られる。視界を確保してくれるのは、扉についた小さな窓からの光と、ティアがあがってくるときにつけた照明だ。
淡い赤に染まった壁を眺めつつ、ティアは階段の踊り場を歩き出す。
だが、足音は一人分だけ。あれ? と思って振り返ると、どこか思いつめた顔をしたヒースがいた。
怖い顔つきだ。けれど、どうしてだろうか。ティアには、それが泣くのを我慢しているように見えた。
「ヒースちゃん、どうしたの? お腹減った?」
正面から近づいて、ヒースをみつめる。なにか言いたいのだろうことは、わずかに上下する唇が教えてくれる。ヒースの小さい頃からの癖だ。だから、このあと紡がれる言葉を、ティアは耳を澄まして待つ。子供のときからと同じように。
ああ、昔はもっと素直だったのに。時を重ねると、人の口には錘がついてしまうらしい。
やがて、観念したように、ひとつ溜息をついたヒースが、重く苦そうに口を開いた。
「オレのまわりでうろちょろするのを、そろそろやめたらどうだ」
「なんで?」
ティアは、即座に問い返した。ほんのりとした笑みを浮かべながら。
「邪険に扱われてるって、わかってるだろうが」
「ふぅん?」
邪険といえば邪険だろう。でも無意識な行動の端々に、こちらを思いやるようなところがみえるのだから、差し引きゼロだ。そう言ったら、ヒースは絶句するだろうから、いわないけれど。
ティアが嘆くことも、悲しむ様子もないと気づいたヒースが、顔色を変えた。
「もしかして、わかっていなかったのか……?」
わずかにだが、内心の驚愕を表情に漏らすヒースにむかって、あは、とティアは笑う。
そんなことあるわけない。いくら、物事を好意的かつ肯定的に受け入れるティアであっても、ヒースの態度がそっけないものであるくらい、わかる。でも、ティアは決めているのだ。あのとき、自分を守ってくれたヒースから、離れないと。
「そんなの、理由にならないよ」
一瞬、虚を突かれたように、ヒースが目を開いた。そして、すぐさま落胆に表情を曇らせた。
「……おまえな……」
「えへ」
呆れないでね、怒らないでね、という意味をこめて、ヒースをみあげながらはにかんだものの、ヒースには通用しなかったようだ。
ぬ、と大きな手が急に伸びてくる、「あ」と思った瞬間には、強く肩を掴まれていた。痛くはない。だけれど、動かせない。動けない。
いままでにないことに、ティアは目を瞬かせ、ただただ首を傾げる。悲鳴のひとつもあげないティアに苛立ちを募らせたのか、ヒースが眉をひそめた。その厳しい目元は、ティア以外の誰かなら泣いてしまうかもしれない。
「いいかげんわかれよ」
「わ、わっ」
つかまれたまま、ぐい、と後ろに押される。階段から落ちちゃう、と思ったが、ティアの小さな体は、ほぼ直角に振り回されて、そのまま踊り場の壁に押し付けられた。
ひんやりとした硬い壁の感触が、制服越しにもわかる。すぐ目の前には、ヒースが迫っていた。
薄い肩を掴んでいた手をティアの背後にある壁に押し当てて、獲物を前に神経を研ぎ澄ませる狩人のように、鋭い眼差しでヒースがいう。
「オレといるとろくな目にあわないぞ」
「昔みたいに?」
「……」
「もう、そんなことないよ、へーきだよ」
脅しともとれる言葉を、ティアはやんわりと否定する。
今はもう、無力な子供ではない。自分の身を、自分で守れるくらいには、成長している。ヒースが危惧しているようなことは、起きない。
そう伝えようと、口を開こうとするティアとの距離を、ヒースはさらにつめてくる。
「こういう目にあっても、そういえるのか?」
背中には壁。目の前には、肘を折って近づいてくるヒース。
「ヒースちゃん……?」
言いかけた言葉を飲み込んで呼びかけるが、こたえてはくれない。
言葉では、その行動を妨げることなどできないと教えるように、顔を近づけてくるヒースに、ティアは目を瞬かせた。
この状況を客観的にみるのならば、ヒースがティアに無理やりせまっているということになるのだろうが、ヒースは本気でそんなことをする人間ではない。それをよく知っているティアに対して、こんなことをしても意味がない。
だから、ティアはやりたいようにすることにした。ヒースが好きなようにするのなら、自分だってやってやる。
腕をのばし、ヒースの体にその細い腕を巻きつける。くっつく寸前に、ヒースが目を見開いた気がしたが、あえて無視した。
ぎゅっと大きな体を精一杯、できる限りぴったりと寄り添って抱きしめる。
びくり、とヒースが震えた。
こうやってヒースを抱きしめるのは、幼い頃以来だ。
見てわかってはいたけれど、思い出の中のやわらかなヒースの体とあまりにも違うことに、ティアは小さく笑った。
頬をすりよせてみるる。爪先立ちをしつつ、ヒースに向かって体重をかけても、びくともしない。自分のすべてを任せたところで、ヒースは倒れたりしないのだろう。
とくん、とティアの小さな胸の奥で、心臓が甘い鼓動を奏ではじめる。
ヒースちゃん、『おとこのひと』だなぁ……――甘く蕩けていく意識のなか、ぼんやりとそんなことを思う。
これまでティアの中にあったヒースという存在が、するすると解けて、そうしてまた、ひとつになっていく。
同じ人間であっても、女である自分とはまったく違う、逞しい男になっていく。少年から、青年へとヒースが成長していく。ヒースへの認識がめまぐるしく変化していく。
なんだろう、すごく、どきどきして何も考えられなくなってきた。まるで、日溜りのなかにいるみたいに、全身がぽかぽかする。
好き、という気持ちが、一段階、否、数段階飛び越えて、大きく深くなった気がする。
と。
力任せに引き剥がされて、ティアは目を見開く。せっかく、いい気持ちだったのに。
ぷ、と頬を膨らませて、ティアが離れまいとヒースの制服を掴んで視線をあげようとしたとき――
「な、な、な……! なんでそうなるんだ?!」
狼狽しきった素っ頓狂な声が、狭い踊り場に響き渡った。
「え」
いままでにきいたことのないその声に、ティアは一瞬なにがおきたのかとおもった。だけれどその声は間違いなく、ヒースのもの。
顔をあげてよくみれば、そこにあるのは真っ赤な頬。真っ赤な耳。真っ赤な首。
よほど恥ずかしかったのか。これまでみたことがないくらいに、ヒースが赤面していた。もしかしたら、夕焼けのせいでそうみえるのかもしれないと思ったが、それにしては赤すぎる。
「ふつう、は、びびって逃げるだろうが!」
ぶるりと腕を震わせて、ヒースは得体の知れないものから逃げるように、ティアから手を離した。
「だって、ヒースちゃんだし。どうして逃げなきゃいけないの? それに、そっちからくっついてこようとしたくせに」
私、なにかいけなかった? と一歩近寄ると、ものすごい勢いでヒースが後退した。むしろひっくりかえった。
ヒースが反射的に受身をとったのはみえてはいたが、それでも驚いたティアは、慌てて駆け寄った。
「ヒースちゃん! だいじょうぶ?!」
「……!」
床にしりもちをついたまま動かないヒースを覗き込む。もしかしてどこか痛めたのだろうかと心配したものの、ティアの予想は見事に外れた。
ヒースが、真っ赤な顔をしたまま固まってしまっている。わずかに潤んだ瞳と、わななく唇が、泣き出しそうな幼子のようで。強面だと囁かれる雄雄しさはなりを潜めて、なんだかあどけない――ああ、すごく、可愛い。
「ふふっ、真っ赤」
ティアは人差し指で、つん、とヒースの熟れた頬を軽くつついた。
う、と小さなうめき声がしたけれど、ヒースはまだ逃げ出さない。いや、逃げ出せそうにない。
ティアは、久しぶりにヒースに触れることができる幸運をかみ締めるように、ぴったりと手のひらをヒースの頬に当ててとろけるように微笑む。血が通う肌が、あたたかい。いとしい。
「ヒースちゃんってば、そんなに恥ずかしかった?」
「!」
ひく、と喉仏が上下に揺れる。ふふふ、とティアは笑ってヒースの頬を撫でた。
「昔は、よくぎゅーってやってたじゃない。いまみたいに!」
「あ、あ、あれは! 子供、だったろ……!」
ようやく思考が働き始めたらしく、ヒースがティアの手を振り払う。それでも、ティアはめげずにヒースの手を両手で包み込んで、その瞳を真摯にみつめた。
「でも、あの頃から、私はずっーとヒースちゃんが好きだよ」
「……ティ、ア……」
目をそらさずにみつめあうこと、数秒。
その僅かな時間は、ジャングルジムの一番上で、笑いあっていた子供の頃にもどったようだった。
だがすぐに、はっとしたヒースが首を振った。ほだされかけた気持ちを追い出すような仕草だ。
「ああもう、うるさいっ、はなせ!」
ティアの手を引き剥がし、ヒースは勢いよく立ち上がる。そのまま身を翻して、足音荒くヒースは階段を駆け下りていく。
「ヒースちゃん! まって!」
ティアは一拍遅れで立ち上がる。追いかけようとしたとき、ティアのいる踊り場から、階段下にいるヒースがみえた。
「もうちょっと危機感をもて! わかったか?!」
ヒースが、びしっとこちらを指差してそんなことをいうものだから、ティアは困って眉を下げた。
「え、ええ~っと……それって、どういう意味……?」
なんとなくいいたいことはわかるのだが、どうしてヒースに対して危機感を持たなければいけないのか? それがどうにも解せない。
ヒースが、もはやティアが知っている『可愛い男の子』ではなく、『逞しい男』であることは、いまの出来事でよくわかったけれど……ヒースにならば何をされたってかまわない。ならば、危機感をもつ必要がないと思うのだ。
すると、ヒースは頭を抱えた。
「~~~~っ! もういい!」
「あ、待ってヒースちゃん! 私も一緒に帰る!」
説得することを諦めたのか、もはやいうべき言葉がみつからないのか。なかば絶叫したヒースは、ぷいっと顔を背けると、また階段を駆け下り始めた。
「待ってってば!」
「ついてくるな!」
「やだ! ついてく!」
置いていかれてなるものか。ティアもまた、階段を駆け下りる。ひょい、と数段飛ばして一気に距離を詰めていく。
手すりなどをうまく活用して、ひょいひょいと追いかけてくるティアに気づいたヒースが、顔色を変えた。
「おい、階段をとびおりるな! 危ない!」
「へいきだよー!」
焦ったように足をとめ、ティアに向かって手を伸ばしてくれるヒースにむかって、天真爛漫に笑ったティアは、勢いよく飛び込んでいく。
きっと、さきほど感じた力強さで、ヒースが抱きとめてくれると、信じて。