ひどい男

 帝国軍に所属し、はじめて任された部隊があった。もう、ずいぶんと古い話だ。
 そのとき部下だった兵士が、国境に赴任してきたらしいと風の噂にきいたのは、数か月ほど前のことになる。
 年若いが優秀であったこともあり、ヒースは彼のことをよく覚えていた。
 調べてみれば、なるほど、駐留している兵の名簿には、彼の名前があった。
 ならば、国境にでかける任を与えられたならば、顔をみにいこうと思っていたのだが――なかなかその機会には恵まれなかった。
 そうこうしているうちに、国境部隊がヴァルド皇子への報告にくることを知った。
 フランネル城内に与えられた一室で、皇子とともに彼らを迎え入れたヒースの前に、彼は現れた。
 皇子に謁見するということで、一団の中でもとくに緊張した面持ちをしていたのが、おかしかったが、彼は新米兵士であったころとくらべるべくもないほどに、逞しくなっていた。厳しい戦場を生きぬいていてくれて、ほんとうによかった。
 軍に属するということは、常に死と隣り合わせということだ。国を護り民を守る誇りある役目であるがゆえに、明日にはどうなっているかわからない。かつての部隊員はその半数以上が、すでにこの世にいない。
 ならば、記憶は刻めるときに刻むもの。後悔のないように、生きるべきだ。
 ヒースは、現在の己の立場をひとまず横におくことにして、彼に気さくに声をかけた。かつてのように。
 彼もこちらのほうをよく覚えてくれていた。やたらと感激されたのには驚いたが、昔のように意気投合した結果、そのまま夜の街へと飲みに繰り出すこととなったのである。
 しかし、いささか羽目をはずしすぎたようだ――

 静かに穏やかな呼吸を繰り返しながら、そんなことを薄ぼんやりと考えるヒースの眠りは浅い。
 人が無防備になる瞬間は、いくつかある。眠りが、その最たるものの一つだと知っているからだ。
 まどろみながらも外界への注意を怠らずにいるのは、常人では難しい。しかし、ヒースはそういう訓練を重ねてきたし、任されている立場上、深い眠りにつくことは許されない生活を送ってきた。戦場の最先端で戦うことを命じられる者なのだから、これはもう、癖だ。おそらく、生涯なおることはないだろう。
 起きている意識の一部が、繭のような柔らかい眠りの向こうにある現実を観ている。
 瞼越しに、窓は開け放たれておらず、部屋が薄暗いのがわかる。しかし、染み付いた体内感覚が、もう夜が明けて数時間たっていると告げている。
 そろそろ起きねばなるまい。
 大きく呼吸をすれば、この部屋の使用者の趣味か、甘ったるい香が肺を満たした。胸焼けがしそうだ。夜に漂う、柔らかな白い肌にすりこまれた香は、そこまで嫌いではないのだが。
 ふいに、扉の蝶番が微かに軋んだ。ほんのささやかなそれを合図としたように、ヒースは目を開ける。
 身体を起こしたとのとほぼ同時に、女が部屋へとはいってくるのがみえた。
 自室ならば、声もかけず踏み入られた時点で切り伏せようとなんの問題もないのだが、ここは違う。
 掃除が行き届き、調度品も品よくまとめられている、それなりに格のある娼館なのだ。商売道具である娼婦に傷でもつけようものなら、多額の慰謝料を支払わねばならなくなるだろう。なにしろ、ここの女は粒ぞろいと有名なのだ。
 反射的に動きそうになる腕を押しとどめ、視線を投げる。
 男なら誰しも唾を飲み込むような、悩ましげな肢体に薄布一枚だけをまとった艶やかな女が、水差しを乗せた盆を持ち、歩いてくる。その腰つきは艶めかしく、昨夜の一幕を思い起こさせた。
 ああ、この女だったな、とヒースは思った。
 艶やかな明るい茶色の髪を、覚えている。そこに、惹かれた。性質の悪いことだと思う。一瞬、まぼろしのように脳裏をかすめた儚い少女の姿に、苦いものを感じる。
 酔いも覚めた朝、改めて認識すると、なんとも居心地が悪い。無垢な少女を手練れの女に重ねたのかと思えば、悪態のひとつでもつきたくなってくる。
 自分自身に呆れながら、深く息を吐き出す。
 ヒースが起きていると思っていなかったのか、女は「あら?」一瞬だけ目を丸くして、すぐに柔和に微笑んだ。
 人を誑かして精を吸い尽くす夢魔のようであるのに、そうすると存外幼くみえる。その差がまた、男心をくすぐるのかもしれない。
「お目覚めはいかがかしら?」
「悪くはないな」
 寝台のすぐそこにある小さな丸い机に、盆がおかれる。汲みたてなのか、その冷たさを伝えるように、美しい硝子の水差しはわずかに汗をかいていた。
「お水は?」
「もらおう」
 同じ意匠が施された硝子製の器に、なみなみと注がれた清浄な水を受け取り、一気にあおる。するすると、喉を伝わり胃に落ちていく。乾いていた身体に、それはとても心地よく染み入った。
 もう一杯、とおかわりを要求すると、女はころころと笑った。
「もっと眠っていらしてもよかったのに」
「せっかくの休暇だ。いつまでもこんなところにいるのはもったいないだろう?」
「こんなところ、だなんて。ひどい言いようだわ」
 ふふふ、と女は台詞とは裏腹に楽しげに答えてくる。
 渡された器に口をつけ、今度はゆっくりと飲んでいく。
 ふわり、と長い髪が視界の隅に踊る。女が、まるで重さを感じさせないような可憐さで、ヒースの顔を覗き込むように寝台に腰掛けた。
 ほどよい肉感の唇が、艶っぽい笑みを刻む。細い指先が、ヒースの胸にたおやかに触れてくる。
「お連れの方は湯浴みをしているのだけれど……、あなたはどうする?」
「オレはいい。あいつには、そのまま帰るよう伝えてくれ」
 誘うような言動をすげなくかわし、ヒースは寝台から降りた。見回せば、昨夜脱ぎ散らかしたはずの衣服が、丁寧に畳まれて、籠にはいっているのがみえた。
「お仕事はいいのかしら?」
「あいつもオレも、今日は休暇だ」
 そう、わかったわ、と女が頷く。
 春を売る女としては物分りがよく、頭も悪くないようだ。媚びてくるところも見受けられない。だからこそ、ヒースはこの女の手をひいたのかもしれない。後腐れないのが、一番だ。
 身支度を整えた後も、かつての部下は姿を現さなかったが、それなりに高級店を選んでいるし、身包みはがされて放り出されるということはないだろう。ヒースは気にしないことにした。
 二人分の支払を済ませ、店をでる。その後ろには、一夜限りの相手としては不足のなかった娼婦が、静々とついてくる。
 また利用するのも悪くはないか、と思いながら、太陽がのぼりつつある空を見上げる。街はとうの昔に、動き出している時刻だ。
 もう少しはやくでるべきだったと思いつつ、軽く一言挨拶をして歩きだそうとした、その時。
「ああ、待って。忘れ物」
「なんだ――、ん」
 油断していた。おとなしい娼婦だと思っていたが、そうではなかったようだ。まあ、生業がそうなのだから仕方がないだろう。
 店の前でまさか熱烈に口付けられることになろうとは思わなかったが、次に交わることはない人生だ。最後くらい、好きにさせてもいいだろう。
 自分の熱を移すように、残すように、刻むように。熱く柔らかな舌先がヒースの口内で踊る。上手いが、それ以上の感情は浮かばない。身体はともかく、心はない。男など、そんな生き物だ。
 やがて、ヒースからの応えがないことに業を煮やしたのか、小さな濡れた音をたてて、女は離れていった。
「もう……ほんと、つれないわ。私、そんなに魅力ないかしら」
 どこか不服そうにいう女に、ヒースは薄く笑った。反応をしめさなかったのが、気に入らないのだろう。これまでの経験による手練手管も悪くはないが、それにのめりこむほど困ってはいない。
 ここであわよくば常連客に、との思惑もあったのだろうが、いかんせん、ヒースにその気はまったくなかった。
「そんなことはない。だが、すまんな、期待に沿うことはできない」
 しっとりとした肌に覆われた肩を掴んで引き剥がす。切れ長の瞳には、不満が色濃く浮かんでいた。そこに滲む熱情に、ヒースは呆れ笑った。
「客になりそうなやつなら、そのうちまた連れてくる。そのときにはよろしく頼む」
「あなたがいいのに」
「誰にでもそういっているのだろう? 難儀な仕事だな」
「ほんと、ひどい人ね! 娼婦だって恋はするのよ?」
「それは失礼。だが、それならばなおのこと、別の男を探してくれ。では、な――、!」
 そういって、縋る女の手をやんわりと外して、ヒースが身を翻した先。
 とおりの向こうに、よく知った小さな人影。見間違えるわけがない、その姿。肩の上で切りそろえられた明るい茶色の髪が、揺れている。
「……ティア……」
 ぱち、と視線がぶつかった気がしたが、次の瞬間には勢いよく駆け出していた。あっという間に通りの角を曲がって消えていく。あちら側は、大通りだ。どこかにいこうとして、たまたまこちらの通りの奥を覗き込んだ、もしくは通りかかった――そんなところだろうか。
 動きのとまったヒースに、女が寄り添う。不思議そうにみあげられて、はっと意識を取り戻す。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
 重ねて別れの言葉を告げ、ヒースはじっとりと痛みはじめたこめかみを感じながら、歩き出した。
 さて。困った。面倒なことになりそうだ。

 

 

 物言いたげな顔をして、小柄な少女がヒースのもとを訪れたのは、遅れ気味になっていた書類の作成をはじめた、午後になってからのことだった。
 元気のない扉を叩く音のあと、そっと開かれた隙間の向こう。分厚い扉の陰に隠れながら、こちらの様子を伺うその姿は、見知らぬ存在を警戒する子猫のようだった。
「よう、ティア。少し待っていてくれるか」
 いいたい事があると、その小さな愛らしい面に書いてある。それをわかっていながら、ヒースはいつものように、そう返した。
 そろり、と用心しながら部屋へとはいってきたティアが、後ろ手に扉を閉める。
 いつもの定位置であるソファのへといくかと思ったが、ティアに動く気配はない。みれば、顔を伏せ、微動だにしていない。
 静かになった部屋には、ヒースの紙面へ走らせるペンの音が響くのみ。
 さて、どうしたものか――ペン先を鳴らしながら、サインを記す。ちらり、と視線を送るが、ティアはまだ動かない。
 不用意に触るなどしてインクが掠れたりしないように書類を移動させ、ヒースは椅子から立ち上がった。
 靴の踵が奏でる音を、ゆっくりゆっくり近づけていく。
 たっぷりとした時間をかけてティアの前にたつ。ティアはまだ、動かない。
 考える余裕を与えたつもりだったのだが、逆効果だったろうか。
 この様子から考えるに、娼館からでてきたところ、さらにいうなら娼婦と口づけていたところをみられていたのだろう。
 その名前を呼ぼうとしたとき、ぱっとティアが顔をあげた。
 なんて顔をしているんだ、とヒースは額に手をあてたくなった。
 眉を下げた不安げで、泣きそうな顔。実際、泣いていたのかもしれない。大きな目が、赤くなっている。何かを期待しているように、瞳を潤ませ頬を紅潮させている。きっと、自分の心の整理もついていないのだろう。
「ヒース、さん……!」
 懸命な呼びかけに、ああ、と小さく頷いて返す。ちゃんと聞いていると、伝えるように。
「あの、あのひと、おんなのひと、あの……」
 それをみて、大丈夫だと思ったのか、ティアが一歩前にでてくる。
「ヒースさんの、こいびと、なんですか……!?」
「違う」
 まあ、ティアのような少女が順当に考えればそうなるだろうな、と思いつつ、ヒースは即座に否定した。そんなことで嘘をついてもしかたがない。
 しかしながら、ヒースの返答はまったく予想外だったのか、ティアが狼狽えた。きょろきょろと瞳がせわしなく動く。
「ち、違うんですか?! え、じゃあ、なんで……?!」
「大人の事情だ」
 まさか、娼館での出来事を饒舌に語るわけにもいくまい。ヒースはひらりとティアの質問をかわす。
 だが、それで納得するようなティアではないことを、ヒースはよく知っていた。
「……」
 むむむ、と唇を真一文字に引き結んでいたティアが、思い悩むように眉をよせた。そうしてティアが出した次なる答えに、ヒースは笑うしかなかった。
「……じゃあ、片思いしている、とか……」
 口づけをしている相手が片想いの相手など、少し考えればありえない。
「いいや、それも違うな」
 娼婦に心底入れ込むほど、自分は愚かではないと、ヒースは思っている。もちろん、相手の手をとって、共に幸せになる覚悟をできるのならば、それはそれでいい。しかし、ヒースにとっては、彼女たちは一夜の夢。朝日が昇れば消え行く、儚い草葉の露だ。
 かくり、とティアが肩を落として俯いた。
「もう、意味がわからないです……」
 そうだろうな、とヒースは心の中で呟いた。男の事情は、熟れた女ならまだしも、未成熟のティアにはまだ早い。慮ることも難しいだろう。
「まあ、気にするな」
 よしよし、といつもの呑気さでティアの頭に手を置いたところ。
「気にします!」
 勢いよくはたかれてしまった。いつにない苛烈な態度と荒い語調、そして鋭い視線に、さしものヒースもたじろいだ。払われた手がじんわりと熱を持って、ヒースを攻め立ててくる。
 まさかこんなにもティアを怒らせることになろうとは思っていなかった。ヒースがはぐらかせば、深く追求してこないと考えていたが、見通しが甘かったのかもしれない。
 嫌! 不潔! 近寄らないで! と、いわれないだけまだいいのだろうか?
 ティアは、ひくどこかろか、さらに一歩踏み出してくる。ぎゅっと小さな拳を握りしめ、ヒースを見上げながら――泣きだした。
 人魚が流した涙は真珠になるというが、まさにその光景をみているかのような錯覚に陥る。透明な雫が、長い睫で清らかな丸い球となり、ぼろぼろと零れていく。
 呆気にとられるヒースの前で、ティアは鼻をすすって、いう。
「……わ、私! ヒースさんに、ああいうこと、してほしく、ない、です……!」
 好きでもない人とならなおのこと、とか細くつけくわえるティアをみながら思ったことを、ヒースは素直に口にした。
「なぜだ?」
 ほんとうに、なぜだろう。
 誓っていうが、ヒースはティアに手を出したことがない。つまりそういう関係ではない以上、そこまでいわれる筋合いがない。
 いくら、ヒースがティアを憎からず想っていたとしても、それを一言たりとも口にしたことはない。期待すら、させたこともないはずだ。
「なぜ、って! だって!」
 心から思った言葉は、ティアの火に油を注ぐ結果となったようだ。
「ああいうことは、その……、す、好きな人どうしがするもので……! ヒースさんの恋人じゃない、なら、よくないです!」
 ごもっともだ。清らかな世界で生きる、いまだ幼さの抜けきらない少女なら、そういうのは至極当然。だけれども、必死の形相と言葉に滲むものに、ヒースはなんとなく気付いてしまった。
 まだ、ティア自身もわかっていないだろうそれは――独占欲だ。
 それが、魔王との戦いの中、自分を守り導いてくれた男へ向けていた、親や兄に抱くものに似た自分だけの安心感が、すり替わったものだったとしても。
 ひとりの人間に固執するのならば、それは心が動いている証であろう。
 ヒースは、く、と小さく笑った。
「それだけか?」
 ふぇ? と言葉になっていない声をもらすティアの頬を、指先で拭う。涙に濡れていても、そこは柔らかくヒースを受け入れる。
「ほんとうに、それだけか?」
「……!」
 重ねて問えば、なにかに気付いたのか、ティアが唇を噛みしめた。震えながら、それでも目をそらさずに、ヒースを見上げるティアは健気だ。
 ぞく、とヒースは肌を粟立たせた。いけないなにかが、ヒースの背を這いずり回って脳を痺れさせてくる。
 ティアは、目の前の男が抱く変化には気づかぬまま、そっと胸に手をあてた。
「……ここが、ぎゅうって苦しいんです。なんでかわからないけど、涙、でてくる、し……」
 ひっく、としゃくりあげた瞬間、また涙が溢れて落ちていく。綺麗だ、と責められる己の立場もわきまえず、ヒースはどこか陶然とした気持ちでそれを見送る。
「ひどいこと、しないで、ください。ああいうの、やだ……や、です、ヒースさん……」
 これは困った。
 午前中に思ったものとはまた違う困惑に、ヒースはなんともいえない表情を浮かべた。口元は、どうしようもなく笑っているが。
「君は、オレをひどいというが……君は、なんともずるいな」
「?」
 そんな風にいわれて、断る男がいるのだろうか。お前には関係ないと突っぱねてしまえばそれまでなのに。
 だが、自分ですら気づいていない恋心に突き動かされ、男を意のままにしようとする少女の我儘が、愛おしい。知らぬうちにそこまでティアの心のうちにはいりこめていたことが、嬉しい。
 ゆえに困った。
 自分のような男が、ティアに手を出すのはさすがに憚れる。だからこそ、似たような髪色の娼婦を買ったくらいなのに――でも、相手が想っているのなら問題ないのではないか?
 そんな誘惑がヒースの思考を焼いていく。ちりちりとしたそれは、恋の火だ。人の理性をすべて灰にしてしまうものだ。いけないとわかっていても、焼かれてみるのもまた一興。
 ヒースはティアの前にしゃがみこむ。低いティアの視線と目を合わせて、にやりと微笑む。
「なあ、ティア。それは、オレを好いてくれているからか?」
「えっ」
 直球な指摘に、かーっとティアが赤くなる。恥ずかしそうに顔をそらしたティアが、もじもじと自分の服を指先で弄る。
 ヒースは、目を細めた。初々しいその頬にかじりつきたくなる。きっと歯をたてたら、蜜があふれ出すに違いない。ずっと、啜っていたくなるような、甘いものが。
 あたふたとしているティアに、どうしようもなく笑いがこみ上げる。もっといじめてみたくなる。
「そうだな……ティアのいうとおりにしてもいい」
「ほんとですかっ!」
 願いが叶うと思ったティアが、喜色満面であまりにもわかりやすい反応をするものだから、また笑ってしまう。
「そのかわり、だ――ティア」
「う、わ……ヒース、さ……?!」
 どうしてそんなに笑っているの? というような不思議そうな顔をしたティアを、ひょいと抱き上げる。
 一瞬の浮遊感に、手足をばたつかせるティアを、問答無用でソファへと連行する。
 柔らかな座面に乱暴に座り込むと、ティアはそのまま自分の膝に置く。ティアは何が起きているのか全くわからないようで、目を白黒させている。
 服の袖で涙塗れの顔を拭ってやって、小さな耳に唇を寄せて囁く。
「ティアが、相手をしてくれ」
「!?!」
 はひっ、と間の抜けた声をあげたティアが、ふるふると頭を振る。まさかの交換条件に、完全に混乱している。
「で、できません! そんな、あんなこと……!」
 ヒースが女と交わしていた深い口づけを思い出したのか、ティアが睫毛を震わせながら羞恥に身悶える。頬に手をあて、無理です無理です……と、か弱く訴えるティアの前で、ヒースはため息をついた。もちろんわざとだ。
「ならばオレは女を買わないといけないな?」
「!!」
 しかたがないと呟くヒースを、ギッとティアが睨む。恥ずかしさも吹っ飛んだのか、ヒースのシャツを掴んで詰め寄ってくる。
 ティアが、こんなぎらつく目をするなんて思ってもいなかった。穏やかな瞳しか、向けられたことがなかった。
 睨まれているというのに、ヒースは優越感を覚える。誰も、こんなティアを知るまい。
「ひどい、ひどいです、ヒースさん……! さっき、いうとおりにしてくれるっていったのに!」
「君は、オレをなんだと思っているんだ。神の使いたる清廉潔白な聖人でもないし、性欲の減退した老人でもないぞ」
「せ、せいよっ……?!」
 あからさまな単語に、ティアが真っ赤な顔で絶句した。気勢を削がれたティアが、萎んでいく。ヒースの服からは手を離さないまま、目を伏せる。
「ティア」
 ぷるぷると震えて縮こまるティアを、そうっと腕で囲む。よくない気配を感じたのか、弾かれたようにティアは顔をあげた。
 顔を傾け唇を近づけても、ティアは目を見開いたままで動かない。まるで捕食者を目の前にしてなにもできなくなった、哀れな非捕食者のよう。
 このまま本当に口付けてやろうかと思わないでもなかったが――さすがに実行すると嫌われるだろう。
 互いの吐息が顔にかかるくらいの位置で、ヒースは踏みとどまった。泣かすのはここまでだ。
 く、と笑ったヒースはティアから腕をほどいた。すまない、とティアの頭を乱雑に撫でる。
「冗談だ」
「~~~!」
 わざとティアの神経を逆なでするあたり、自分はいわれるとおりひどい男だと思う。ティアがまた爆発することをわかっていて、そんなことをいうのだから。
「ばかっ! ヒースさんのばかー!」
「悪かった、悪かった。とにかく、ああいった店にいかなければいいんだろう?」
 小さな手が、やたらめったらに振るわれる。鎖骨を叩かれるとさすがに痛い。ヒースは、ティアの手首をあっさりと捕まえ、睨むティアの瞳を真正面から覗き込んだ。
「店にはいかない。約束する」
「……ほんとうに? 私が、その……できなく、ても?」
 今度こそ? と条件を確認してくるあたり、ティアは学習したらしい。だが、まだまだだ。店にはいかないとはいったが、女を買わないとはいっていない。店でするのが駄目ならば、どこかに連れ込めばいいだけのこと。まあ、ここまでいわれては、さすがにするつもりはないけれど。
 要は、ティアに「そうしてもいい」と思わせればいい。言わせれば、いい。ヒースの女になると、ティア自身に決めさせればいいのだ。
 そのためにできることは、なんでもしよう。
 ヒースは、にこりと笑った。己の暗い決意を微塵も感じさせないように、笑った。
「オレはひどい男かもしれんが、君に嘘をついたことがあったか?」
「……」
 むすっとして、どこか悔しそうにティアが目を伏せる。尖った唇が、可愛いくて指先でなぞりたくなったが、堪えた。
「ない、ですけど……」
 不承不承そんなことを呟くティアの頭を、豪快に撫でまわす。
「ははっ、オレはずいぶんと信用を失くしたようだな」
「そうですよっ! だいたい、お師匠さまなら、お師匠さまらしく、弟子にいけないとこみせないでくださいっ」
 おお、とヒースは頷いた。もっとはやくそういってくれれば、まだわかりやすかったし、こんな事態にもならなかったと思う。手遅れだが。
「うむ、それはもっともだ。よく出来た弟子に、バレないようにすればよかったな……運がなかった」
 まったく悪びれないヒースの手から力任せに己が手を解放し、ティアはヒースの顔を押しのけた。
「そういうことじゃないですっ! もー! もー!」
「痛いぞ、ティア」
 びしばしと勢いよくはたかれながら、ヒースは作戦を練り始める。
 さて、ここからどうやって、ティアの牙城を崩していくべきか。唇を舐めながら、いくつもの手段を組み立ててみる。
 城の中はすでに陥落しているに等しいが、方法を間違えれば、それはあっさり飛び立っていく小鳥だ。
 さてはて、逃がさないようにすべてを手中におさめるにはどうしたらいい――?
 戦で城攻めをする時にも似た緊張感と征服感が、ヒースの心を高揚させていった。