そうして、二人の時間は過ぎてゆく―― 一分一秒が、かけがえのないものになっていく。それらは、もう二度と訪れぬがゆえに輝いて、大切な思い出へと姿を変える。ティアはそれを感じ取りながらも、考えることは、しなかった。別れを惜しむ気持ちが、そうさせた。
いつしか空が夕暮れの赤を滲ませ、雲が淡い金色を帯び、涼しい風が吹くようになった頃。街の入り口にかかる橋の上で、二人はお堀を泳ぐ魚を上から数えたり、行き交う人々をゆっくりと眺めていた。
「お、ティアじゃねーか」
そんなのんびりとした時間に、ぽつんと響いた聞きなれた声に、ティアはぱっと振り返った。思ったとおり、青い髪と赤い瞳の少年が立っていた。にこ、とティアは笑って手を振った。
「レクス、こんにちは!」
「おう。って、誰だこいつ? 知り合いか?」
買い物帰りらしく林檎が覗く紙袋を抱えなおしたレクスが近づいてきて、ヒースに訝しげな視線を投げかける。
その不躾さに、ぴく、とヒースの眉が動いた。数時間の付き合いで、短気であることを嫌というほど知ったティアは、慌てて二人の間に割って入った。
「えっと、この人は、その……!」
なんといって誤魔化せばいいのだろう。正直に話せるわけもない。道を聞かれたとってもレクスには通じないだろう。
しどろもどろなティアをみて、何を思ったのかレクスがにやりと笑う。ぞわっと嫌な感じを覚えて、ティアは震えた。
「いいのかよ。こんなところ、あいつにみられたら困るんじゃねーの?」
「あいつ?」
意味深な言葉に、ヒースが反応する。レクスが、ぴっとティアを指差した。
「ああ、こいつの好きなヤツのこと」
「ちょ、ちょっと何いうの!?」
動揺のあまりティアが飛び掛ると、レクスがけたけたと笑った。ぴくぴくっとさらにヒースの眉が動く。まずい、まずい、本格的にまずい。
「誤解されてもしらねぇぞ? あの帝国の将軍に片思いだったんじゃねぇのかよ?」
「きゃああああ?!!」
瞬間的に頬を紅色に染め上げたティアは、音を掻き消すように大きく手を振り回した。
なんてことをいうのだろう! 大人の記憶がないヒースとはいえ、そんなこと知られたら恥ずかしくて生きていけない。
どうか聞こえていませんように、神様、預言書様! そんなことを考えながら、ちら、と横を見ると少年ヒースが驚いたように目を見開いていた。ひぃ、とティアは小さな悲鳴を喉の中で転がした。
「……へえ?」
にや、と青灰色の瞳が面白いことをきいたと歪む。ティアの背にどっと汗が噴出した。
もうだめだ。
ここまでそんなそぶりもみせずに、なんとかやってきたというのに。このヒースに知られたら、なにかとんでもないことになりそうで怖い。
「ま、からかうのもこのへんにしておくぜ。とりあえず、これこの前の礼な」
もう充分すぎるほどの被害を発生させていることなど思いもしないのか、レクスが抱えた紙袋に手を突っ込んだ。
「え、あ、ええと?」
ぽいぽいと二つ真っ赤な林檎が渡される。それらを放り投げたレクスが、大人びた顔で微笑んでいる。
「……ミーニャのとこに連れてってくれた礼、な」
あ、とティアは声をもらした。先日、ミーニャ自身の願いでレクスを彼女のもとまで案内した、あのことだと思い当たった。
「じゃあまたな」
何かいわなければと思うティアの背をひとつたたいて、レクスが占い横町方面に向かって歩き出す。
「う、うん! またね、レクス!」
振り返ることなく手をひらめかせて、レクスは長くなりかけた影を供に従えて去っていく。
その姿が道の先に消えたとき、ひょいとティアの手から林檎がひとつ浮かび上がった。それを目で追いかけると、やや不機嫌気味な顔でヒースがそれを大きく開いた口で齧った。
「ずいぶんと仲よさそうだな」
「え? うん、レクスはずっと、一緒だったから」
「ふぅん、もてるんだなおまえ」
どこか拗ねたような声に、ティアは目を瞬かせる。何を言い出すのか。
「道場前のあの帽子野郎とか……あの露店のいけすかないやつもか」
デュランとロマイオーニのことかな、とぼんやりと思う。でも、自分はもてたことなんてない。ヒースの勘違いではなかろうか。それに、なんだろう、その言い方とか、喋り方とか、それじゃあまるで――。
「あいつらの中に恋人がいるのかとも思ったが、違うみたいでよかったぜ」
「う、うん……?」
に、と笑ったヒースの嬉しそうな台詞に、行き着きそうだった思考の結論が、ばらばらと解けた。そして。
「で、結局のとこ、ティアが恋しているのは『ヒース将軍』なわけか」
「……!」
やっぱり聞こえていたのか。引きつった悲鳴を上げ、ティアは視線を泳がせた。
ヒースが、しゃりしゃりと音を立てて林檎を食べてゆく。ティアは、そんな気にもなれなくて、くるりと手の中でその丸さを確かめるように撫でた。
「片思いなのか?」
「……うん」
自分はヒースに恋しているが、ヒースは自分をよく出来た弟子ぐらいにしか思っていないだろう。いろいろと頑張ってみたが、見事に空振り中である。
「そうか。で、脈はありそうなのか?」
「脈、脈って……そんなの、わからないよ。ヒースさんは、優しくしてくれるけど」
あの大きな手を思い出す。抱き上げてくれる腕を思い出す。朗らかな笑顔を思い出す。
「好きだとかなんとか、いったことはないのか?」
「……一応あるけど……オレもだぞー、って笑いながらいわれてそれっきり……」
「それ、なんつうか、相手にされてないな」
「うぅー……」
なんだこの状況は。なんで記憶がないとはいえ、本人相手にこんな恋愛相談をしなければいけない? 恥ずかしさと情けなさに、ティアはますます深く俯いた。
「まあ、これでティアがオレに親切すぎるほどの理由がわかったってもんだ」
くくく、とヒースが笑う。
「あぅぅ……」
今とっても、穴があったら入りたい。ティアは耳まで染めて、自分と同じ色をした林檎を握り締めた。
「でも、オレだったらいうけどな」
ぽつん、ヒースが呟く。
「ティアが、好きだって」
「ぇ」
反射的にティアが顔をあげると、食べ終わった林檎の芯を、ヒースが後ろに放り投げるところだった。ぽちゃんとお堀の水音が小さく響く。
黄金色を帯びた光が、ティアを見つめる視線をさらに煌かせた。橋の欄干に寄りかからせていた体を起こし、ヒースがいう。
「なあティア、オレとこないか?」
「ど、どこへ?」
伸びた手が、ティアの頬にかかった髪を持ち上げ、弄る。ふ、とヒースが熱い息をつく。
「どこか。おまえと一緒なら、どこでもいい」
どこか潤んだ瞳は、まるでティアを抱きすくめるようだった。
「まあ、そんなこと無理だとはわかってるけど――オレ、本気でいってるからな?」
そう続けられた魅惑的な声に、くらり、ティアの意識が揺らいだ。蕩けるような顔をしているティアをその瞳に映して、ヒースがにやりと笑う。
「なあ、ティア。『オレ』が好きだろ?」
どうしてこう、いちいち自信満々なんだろう。こっちの気持ちを疑わない問いかけ。ふ、と若かりし頃のやんちゃっぷりを伝える、ヒースの昔話を裏付けるような今日の言動を思い出す。だが、その行動には彼の心が透けてみえる。隠されることなんてないありのままの、ヒースがいる。だから、自然とティアも心も開いていく。
「……うん……『あなた』が、好き」
今のあなたも、昔のあなたも。こんなに心惹かれてやまない。それは真実だ。
「なんで『ヒース将軍』はおまえを手に入れようとしないのか、わからないな」
ふ、とヒースが理解できないというように眉を顰めた。
「ほんの少ししか一緒に過ごしてないオレでも、こんなに可愛いと思うってのに」
ふっきれたのか、もともとそういう性格なのか、あまりにも直球なその言葉に、ティアは落ち行く夕日よりも赤くなる。むむ、とティアは唇を尖らせた。
「……実は、ヒースって女ったらしだったり、する?」
「惚れた女なら、全力で口説くだろう、普通」
裏返せば、自分は大人なヒースには全力を出す相手ではないということか。
「なんか、素直に喜べない……」
「なんだよ、おまえだけだっていってるんだろ? ここは手放しで喜べ」
「……ふふっ」
その言葉どおりに喜びのまま小さく笑ったティアは、数歩前に出る。くるりと振り返ってヒースをみつめる。すこし火照ったように、頬の赤いヒースをみて、照れているのかなと少しだけ思った。
「ね、ヒース。お腹減ってない? お夕飯作るから一緒に食べようよ」
「ん、ああ……、そうだな」
伸ばしたティアの手が、大きな手に包まれる。それは、太陽を宿したように熱い。
「じゃ、私の家にいこ!」
ぐい、と手を引くとヒースはおとなしくついてくる。そんなにお腹が減っているのだろうか。
街の入り口から家のある下町まではすぐだ。さて何を作ろうかと考えながらティアは扉を開けて、数時間ぶりに我が家へと足を踏み入れる。自分に続いてはいってきたヒースに、やっぱりお魚よりお肉が好きなの? と尋ねようとしたとき。
ふらりと傾いだ体を支えるように、ヒースが方膝をついて床に座り込んだ。
「ヒース!?」
慌てて、その傍らに駆け寄って、ティアはヒースの体を支える。
その体が、いやに熱い。そう、まるで、『時遡の薬』を飲ませた、あのときのように。そういえば、さきほど手を繋いだときもずいぶん熱いと思った。どうして、そのときに思い当たらなかったのだろう。ティアは、唇を噛んだ。
纏わりつくものを振り払うように頭を左右に動かしたヒースが、ぐっとティアの肩を掴んだ。
「風邪ってわけじゃなさそうだな……。もしかして、薬が切れるのか……?」
「わ、わからない。たぶんそうだと思う、けど……! ヒース……!」
苦しそうに顔を歪めるヒースを、ティアは覗き込んだ。
「ちぇ、せっかく……ティアの飯、食べれると思ったんだけどな」
はは、とヒースが笑う。
「オレ、いなくなるんだよな?」
「……っ。それも、わからない。もしかしたら、この記憶は残るかもしれないし、残らないかもしれないし……」
初めて使った薬の効果は、ティアにも未知数だ。どうなるかなんて、断定できない。
「あーあー、なかったことになったら……ちょっと、惜しいな」
ぐい、とヒースがティアを引き寄せる。燃え尽きてしまいそうな熱を孕むその身体にすがるように、ティアは手をついた。
「なあ、ティア。いつか『ヒース将軍』の恋人になれよ」
ぽっとティアは頬を染めた。その様子を楽しむように、ヒースが瞳を細くする。
「そうしたら、ティアはオレのものにもなるってことだろ?」
「……あ、あきれた……」
何を言い出すかと思ったら。
「な?」
重ねて言葉を欲するヒースに対し、ティアはふわりと微笑を浮かべた。
「うん、私そうなれるように、頑張る――頑張る」
ふ、と安心したようにヒースが無邪気に笑う。それは、今日みた笑顔の中で一番素敵だと、ティアは思った。
「約束、な」
す、と顔を寄せてくるヒースから逃れることは、ティアには考えられなかった。
閉じられた瞳が、通った鼻筋が、薄い唇が。近づくにつれてぼやけて。ティアは、ゆっくりと瞼を下ろした。
触れた唇が、柔らかい。熱い。忘れられないほどに。
ぎゅっとヒースの服を掴む。そうしなければ、そのまま身体が融けていってしまいそうだった。ゆっくりと離れていくのにあわせて、震える瞼を持ち上げる。
そして、その最後の顔を見る前に、ヒースはかくりと糸が切れたように、ティアの膝の上に崩れ落ちた。
「……ヒースさん」
さらり、ティアがその髪を撫でたとき――ヒースの左目には剣による傷跡が。肩幅は広く、全身には鎧のようなしなやかな筋肉が。剣をもつ無骨な手が。戻ってきていた。
「おかえりなさい。それから、」
さようなら、ヒース。
ティアは、自分の初めての口付けを、鮮やかな記憶を代償に奪っていった少年に、そっとお別れを告げた。
「……ん……あ?」
寝台が軋む音と、寝言のように掠れた声に、ティアは気づいた。寝具の触れ合う音がする。どうやら目が覚めたらしい。
「あ、おはようございます――っていうのも、おかしいですね」
ティアは、くすくすと笑いながら、鍋のスープをひとまぜして振り返った。その先には、ぼーっとした顔でこちらを眺めているヒースがいる。大人の、ヒースだ。
「大丈夫ですか? 気分はどうですか?」
「あれ……オレは……どうしたんだ? 君に、徒手流派の稽古をつけると約束をして……んん……?」
ティアは、エプロンを外しながら近づいた。寝台の隅に腰掛ける。
「……ヒースさん、覚えてないんですか?」
眉を顰めたヒースが、何かを思い出そうとして思い出せない苛立ちを紛らわせるように、ばりばりと頭を掻く。
「いや……すまん。何も思い出せん。オレは……どうしたんだ?」
ティアは、肩を落として小さく笑った。これは、予想の範囲内。
今日の出来事は幻だったのだ。出会うはずのない少年のヒースと、ティアが奇跡のもとで、ともに過ごした泡のような一日。でも、それは確かにティアの胸のうちに残っている。約束も、あの熱とともに心の中で輝いている。少年のヒースとの、二人だけの秘め事だ。
「ヒースさんは――うちにきて、すぐに寝ちゃったんです」
その思い出をそっと宝箱にしまいながら、ティアはそんな嘘をついた。だって、覚えていないなら、説明のしようがない。いったところで、困らせてしまうだろう。
「なに!? そうか、そんなに疲れていたつもりはなかったんだが」
ぎょっと目を見開いた後、ヒースが申し訳なさそうにそういった。
「いいえ気にしないで下さい。……楽しかったから」
最後のほうは、囁くように言葉にしたせいで、ヒースには聞こえなかったらしい。
「?」
不思議そうに首を傾げるヒースに、ティアは笑いかけた。
「ヒースさん、お腹すいていませんか? 私、これからなので、一緒に食べませんか?」
「そうだな……。せっかくだ、ご馳走になるとしよう」
今度は、二人一緒に食卓につけるようだ。ティアは、笑って立ち上がった。
「じゃあ、準備しますね!」
「ああ、ありがとう」
二人分の食器をだそうと棚に近づいていくと、ヒースが大きく伸びをするのが気配でわかった。左右に首を傾けて、体をほぐしているようだ。
「なんだか……随分といい夢をみていたような気がする」
ティアは思わずヒースをみた。
無邪気さが滲む笑顔がそこにある。最後に、少年がみせてくれたのと、同じそれ。
「思い出せないが、やけに楽しかったな」
「―― そう、ですか」
ふふふ、とティアは幸せそうに笑った。覚えていなくても、その心にはあの時間に感じたものが残っているのかもしれない。
「覚悟しててくださいね、ヒースさん」
スープを皿に注ぎながら、ティアは言う。
「なにをだ?」
「約束をしたので! 私、頑張りますから!」
「???」
意味がわからん……と、頭を捻るヒースに席につくよう促す。
いつか、少年との約束を果たせる日がくることを――ティアは大好きな人に笑いかけながら、星に祈るように願った。