時遡り時辿り 時辿の薬編—–前編

 華奢な小瓶の蓋を、ゆっくりと開けて机の上に置く。
 すう、はあ、と幾度か大きく深呼吸。
 どうなるかわからない不安と期待に胸を高鳴らせつつ――『時辿の薬』を、ティアはゆっくりと口に含んだ。
 液状のそれは、舌の上にじわっと熱く広がっていく。薬と言うよりは、甘く香りのある蜂蜜のようだった。思い切って喉を上下させ、それを胃へとおさめると、ティアはじっと己の身に起きる変化を待った。
 が。
「……変わらねぇ、な」
「だねえ。作り方、間違ってたとか?」
 レンポとミエリの言葉のとおり、ティアには何も起きなかった。あれだけ、どきどきさせておいて、ひどい肩透かしだ。
「うーん、ほんとに効果ないね」
 わきわきと小さな己の手を開いたり握ったりして、ティアは首をかしげた。座っていた椅子から立ち上がり、くるりと自分の身体を見回してみるが、なーんにも変わってない。
「おかしいですね。コードは間違っていないですし、預言書が不完全なものをページに収めるわけもないですし……」
 ウルが開いた預言書を覗き込みながら、顎に手をあて考え込む。
 今ここにいる全員の頭の上に、疑問符が浮かぶ。と、それがぱちんと弾けたものが一名。
「……あ」
 ネアキが、鈴の音のようにその澄んだ声を零した。小さな白い指で指し示されたティアは、きょとんとして首を傾げようとして、びくっと身体を大きく震わせた。
「や……、なに、これ……っ!」
 熱い。胃を中心にして神経が沸騰する。手が、足が、火を点されたようだ。もしくは、煮えたぎったお湯に落とされたよう。立っていられなくて、ティアはぎゅうと目を閉じて目の前の机へ上半身を預けた。
「ティア!」
「ど、ど、どうしたのっ!?」
 ウルが飛び出し、ティアの名を呼ぶ。ミエリが慌ててティアの身体に縋った。
「あっつ! ティア、おまえ熱あるじゃねぇか!」
 一拍遅れて近づいたレンポが、耐えるように握り締めたティアの拳に触れて、驚きの声をあげる。
 だが、それに応えることが今のティアにはできない。大丈夫だと告げて、家族に等しい精霊たちを安心させてあげたいのに。声さえも、でない。
 ふるふると肩を震わせて、ぎゅっとティアは胸元の服を握り締めた。心臓が、壊れてしまうような勢いで収縮と拡張を繰り返す。血がめぐる。汗が額に滲む。心配そうな精霊たちの声が、遠くに聞こえる。細胞のひとつひとつがぐっと引き伸ばされていくような感覚に、ティアはひたすらに耐えた。
 いつまでも続くようなその苦しみは、ふいに消えうせた。ぎし、と身体が軋む。
「あれ……?」
 熱が、ぽんと弾けて消えた。ティアは、ゆっくりと身を起こそうとして、机の上に落ちた長い髪に目を瞬かせた。明るい色をしたそれは、顔をあげる動作にあわせて流れた。
 そっと思わず手にとる。軽く引っ張ってみると、髪の根元がつっぱった。頭皮が痛い。そして、髪を持つ指が長い。誰の手だろう、これは。
「え……?」
 がば、と上半身を起こす。傍らに浮かぶ精霊たちが、沈黙している。だが、彼らは一様に驚いた顔をしていた。
「ティア、おま、おまえ……」
 レンポの尖った指先が、突きつけられる。ティアは、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「す、」
 ミエリが、ずいと前に出た。やたらときらきらとした瞳に、さらに星が瞬く。
「すっごーい! ティア、大きくなったよ!」
「……熱は? ……もう、大丈夫?」
 近づいてきたネアキが、ティアの額に小さな手をぺたりとあてた。ひんやりとした温度に、ティアは目を細めて頷いた。
「うん、もう、大丈夫みたい……っとと」
 身体を起こして立ってみると、ふらりと身体が傾いた。こらえてその場に踏みとどまると、その様子をみていたウルが頷いた。
「どうやら、まだ手足の感覚が小さい頃のままのようですね。まあ、すぐに慣れるでしょう。それまで気をつけてください」
「わ、わかった」
 ティアはその言葉にこくこくと頷く。いわれたとおりなのだろう。肩よりももっと長くなった髪が、それにあわせて上下する。ティアは、ぎくしゃくと、自分の手を足を動かしてみる。しかし、なんというか……。
「服、きつい……」
 赤いコートも、その下のベストも、スカートも。すべてのサイズがあってない。
「んー、たしかにちょっと小さいね」
 くすくすとミエリが笑うので、ティアはほんのりと頬を染めた。
「大きめの服はないのですか?」
 ウルの問いかけに、ティアは「う~ん」と腕組みをして首をかしげた。以前ほど暮らしに困ることはなくなったが、かといって贅沢にあれこれ買って過ごすということもしていないティアに、そのようなものがあるはずがない。さりとてこのままの格好でいるのは、恥ずかしすぎる。そのとき、ぱっと脳裏にひらめいたものに、ティアはぽんと手を打った。
「あ、お母さんのならあるよ」
「じゃあ、それに着替えましょ!」
 ミエリが一安心したように微笑んで、同じように胸の前で手を合わせた。となりのネアキが、こくこくと頷いている。
「と、いうことで、ウルとレンポは回れ右!」
「こっちみたら……凍らせる、から」
 女二人に追い立てられて、レンポとウルは家の片隅へと追いやられた。
「なんだよ、んなことしてねぇっての!」
「まあまあ、ここはひとつ女性陣のいうことに従っておきましょう。ね?」
そういって、西側窓辺で外を見る二人を確認し、ティアはタンスの奥深くにしまってあった服を取り出した。そっとその表面を撫でる。母親が亡くなって以降、幼いながらも大事にしてきたおかげで、ほつれも虫食いもない。
「これ、着るときがくるとは思わなかったなぁ」
「ちょうどよさそうだね、じゃあ早速着替えようよ」
「うん」
 ミエリの言葉に頷いて返し、ティアはいそいそと服を脱ぐ。無理に押し込めていた身体が、解放される。まるで自分じゃないみたい。そんなことを考えながら、ティアはするりと母の服に袖を通した。
「うわぁ、ぴったりだよ、ティア!」
「……うん、かわいい」
 ミエリとネアキに褒められて、ティアははにかむように微笑んだ。
「なあ、もういいか?」
「うん、大丈夫だよ」
 脱いだ服を手にとってたたみながらそう告げると、レンポとウルがこちらへと寄ってきた。
「お、よかったじゃねーか、ちょうどいいのがあって」
「ほんと助かったよ」
 まったくもってその通りだと思いつつ、いつもの服を母のものと入れ替えるようにしてタンスにしまう。
「うん! ほんといい感じ!」
「ええ。綺麗ですよ、ティア」
 はしゃぐミエリの隣で、ウルが目を細めて微笑む。
「……ありがとう」
 照れくさくて、ティアは頬にかかる髪をそっと耳にかけた。髪は背の中ほどまで伸びている。ティアはじっくりと自分の身体を確かめるように、見下ろした。髪は艶やか、手も足も長く、胸は服の上からでもわかるほどに存在を主張している。いつもと、まるで違っている。
「ふふ、なんだか不思議な感じ」
 訪れた非日常を楽しむように、ティアはくるりと長いスカートの裾を翻し、その場で回った。大人になったら、自分はこんな風になるのか。
 そうだ!
 ティアは天啓が降りてきたような自分の思いつきに、瞳を輝かせた。
「ね、ちょっといってみたいところがあるんだけど……」
「はあ? どこだよ?」
 大きな目を瞬かせ、レンポが問う。ティアは今の姿からは想像できない、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「ヒースさんのところ!」
 自分の師であり、いつのまにか恋をしていたあの人は、自分のこの姿をみて、なんていうだろう。驚きに声もでないだろうか。それともびっくりして叫ぶだろうか。それがとても気になった。綺麗だっていってもらえたら、きっと天にも昇る気持ちになれるだろう。
「あは、それいいかも! 絶対に驚くよ!」
 ミエリの賛同に、ティアは頷いた。
「あいつがどんな反応するのか、オレもちょっと見てみたいな!」
 他愛のない悪巧みにのってくるレンポが、楽しそうに笑う。その隣で、ウルが僅かに眉を顰めた。
「ティアがそうしたいというのならば、止める理由はありません。ただ、……うーん、厄介なことにならなければよいのですが」
「……心配性」
「ティア限定ですけどね」
 ネアキの言葉に、ウルはにこりと笑って返した。
「大丈夫だよ。街中抜けて、ヒースさんのところにいってちょっとお話しするだけだもん」
 ヒースは預言書のことをよく知っているし、説明すれば必ずわかってくれる。知人に出くわしたとしても、名乗り出さえしなければ、ティアだとはわからないだろう。一晩でこんなに成長する人間なんて、いないのだから。
 よし、とティアは小さく気合を入れる。
「えっと、じゃあみんなは預言書に戻ってくれる?」
「おう、またな」
「はぁい」
「……わかった」
 預言書をそのまま持っていっては、すぐにティアだとばれてしまう。かといってもっていかないわけにもいかない。だから、ティアは人の目には触れないように、世界にそれを紛れ込ませることにする。そうしておけば、取り出したいときにその手の内へと、預言書は再びその姿を結ぶのだ。
 レンポ、ミエリ、ネアキが次々と栞へと戻るなか、すっと近づいてきたウルがティアを見上げた。
「ティア、充分に気をつけてくださいね。薬の効果がいつまで続くのかもわかりませんから」
「うん、わかってるよ」
「では、いってらっしゃい」
 そっとティアの頬をひとつ撫で、最後にウルがその姿を消す。
「あとは、わからないようにして……と」
 すう、と預言書を消したあと、ティアは鞄を手にして家を飛び出した。
 見上げる空は青い。だがいつもよりほんの少しだけ、近いような気がする。きょろ、とあたりを見回す。高くなった視線の位置は、見慣れた景色の別の顔をみつけさせてくれる。
 ティアは、うきうきと踊るような心を抱え、ローアンの街中へと歩き出した。
 街へと続く橋を渡る際に、兵士に当然のように挨拶すると、ぽかんと口を開けられた。いつもなら快い返答があるはずなのに。不思議だな、と思いつつゆっくりと中心部へと足を踏み入れる。
 馴染みの商人たちも、行きかう人々も、ティアがティアとは気付いていないようだ。
 とりあえず、中心街に軒を連ねる露店を、ぐるりと一回りしてみることにする。
 いつもならカレイラの英雄であるティアに対して、次々と声がかかるがそれもない。ただ、ちらちらと視線が向けられるだけ。いくつもの好奇の眼差しが、ちょっとくすぐったい。
 今の自分を誰も知らないのだ。ティアだと、誰も思っていない。思わない。
 これならば、ヒースとであってもうまくいくに違いない。
 だがやけに視線が注がれるのが、不思議といえば不思議だった。ローアンの街は大きいし、今は帝国などからの商人や旅人もやってくる。そうした者と思われるのならば、ここまで注目されることはないと思うのだが。
 ティアは、小さく首を捻る。
 やっぱり、私どこかへんなのかな?
 急に大人になったのだ。仕草とか、格好とか。どこか違和感があるのかもしれない。
 ふと、大きな店の窓ガラスに写る自分に、ティアは気付く。
 長い髪、大人びた顔、母の服。とくにおかしなところはないと思うのだけれど――にこ、とティアはとりあえず笑ってみる。顔は、ひきつってもいない。ごくごく自然だ。
 と、店内にいた店員が、ガラス越しにそんなティアを見ていたのか、真っ赤になった。
「ひゃあ!」
 彼に微笑みかけたわけではないティアは、慌てて頭をさげてその店の前から立ち去る。へんな女だと思われただろうか。火照る頬を押さえつつ、とりあえずフランネル城方面へと向かうことにする。
 途中で、ティア好みのカフェの前を通り過ぎる。
 ああ、ここでヒースさんと一緒にお茶して、お話しできたらいいなぁ。
 そんなことをぼんやりと考えつつ、いつもとは違う新鮮な気持ちを抱えて歩いていく。
 公園にあがる階段がみえてきたところで――ぽん、と肩を叩かれた。
「ねえねえ、かーのじょ」
「え?」
 浮ついた声がする。くるり振り向いた先には、二人組みの男が立っていた。にやにやとした笑みを貼り付けた顔に、ティアは誰だったかな、と首を傾げた。というか、今のティアに声をかけてくる知り合いはいないはずだ。なにか用事があるのだろうか。
「あの、なにか?」
 努めて穏やかに問いかけると、一層男たちの笑みが深くなった。
「君、ここいらじゃみかけないよね。どこから来たの? 旅行者? 一人?」
「ええと、旅行者というわけでは……」
 矢継ぎ早に問いかけられて、ティアはしどろもどろに答えようとするが、もう一人の男がそれを遮る。
「よかったら、オレたちがローアンを案内してあげるよ」
 いやいや。この街に何年も住んでいるティアに、一体何を案内するというのか。
「いえ、大丈夫です。それに、私いくところがありますから」
 そう。いまから今日最大の目標であるヒースのところにいって、驚かせてやりたいのだ。滅多なことでは動揺しないヒースは、どんな反応をしてくれるだろう。それを考えるだけで、自然と頬が緩んだ。
 だが、それをみた男たちは、ティアが心から嫌がっていないととったらしい。
「まあまあ、そういわずにさぁ」
「きゃっ!」
 いきなり肩を引き寄せられて、ティアはよろけた。そのままぐいぐいとどこかへ連れて行かれそうになり、ティアは初めてまずいと思った。
「いえ、あの、私ほんとうに用事があって……!」
「いいじゃん、ちょっとくらい付き合ってよ」
 懸命にそういってみるものの、男たちは聞く耳をもってくれない。狭い路地のほうへと連れ込まれそうになり、ティアは足に力を込めた。おもいどおりになると思ったら大間違いだと教えるように、きっ、と男たちをにらみつける。
「やめてください、困ります……!」
「やめてくださいだってさ! 可愛いー!」
 だが、それさえも男たちを喜ばせるだけだった。なんでこう、ふざけた方向に前向きなのか。
 こうなったら強硬手段に訴えるべきかと、握った拳に闘気を集める。砂漠の魔女さえも打ち倒した徒手流派の伝承者を、なめてもらっては困る。武器がなくても、一般人に遅れなどとらない。
 肩に回された手をまず払って、ちょっと驚かせて退いてもらおう――そう、考えたとき。
「おい、何をしている」
 呆れたような、咎める声があたりに響いた。低く、有無を言わせぬ、人に命令をすることに慣れたそれ。
 急なことに、男たちの手が緩んだ瞬間、ティアは手をとられ誰かに引き寄せられていた。抗うことなど考える間もない、鮮やかさ。気付けば、ティアは大きな背にかばわれていた。その人物を斜め後ろから見上げて、あ、とティアは小さく声を漏らす。
「無理強いはよくないぞ。そういうのは女性に嫌われるもんだ。知らないのか?」
 そういってからからと笑うヒースの姿に、ティアは顔を綻ばせた。どうしてここにいるのかわからないけれど、会えて嬉しい。
「……ち、帝国の軍人かよ。おい、いこうぜ」
「けっ」
 どうやらヒースの顔を知っていたらしい。分が悪いと思ったのか、ぶつぶつと口汚い言葉を零しながら、二人組みは去っていく。
 よかった。助かった。できればあまり徒手流派の技を使いたくなかったティアは、ほっと息をつく。振り返ったヒースが身を屈め、そんなティアを覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます。ヒースさん」
 ティアの言葉に、ヒースが眉根を寄せた。訝しげな様子で、顎をさする。
「失礼。以前、どこかで会ったことが?」
「え? ……あ」
 いつも、会っているじゃないですか。そういいかけて、ティアは口元に手を当てた。今は、髪の長さも背丈も違うし、服装も違う。どうやら、ヒースはティアだとわからずに助けたらしい。口調もすこし固い。
 気付いていないことが、ほんの少し寂しいような。でも、それ以上に正体を知られなかったという事実に楽しくなってきたティアは、はにかむように笑った。
「いいえ。でも、ヒースさ、いえ……その、将軍は有名な方、ですから」
「ふむ、自分の名と顔が一人歩でもしているのか」
「ええ、そうですよ、ご存知ありませんでした?」
 そうして、二人でくすくすと笑いあう。ふと、その笑みをひっこめたヒースが、ぼりぼりと頭をかいた。
「なんというか、君には初めて会った気がしないな……っと、これじゃあさっきの男共と変わらんな。では、オレはこれで」
 あやうくナンパ男たちと変わらぬ言動をしかけたヒースが、茶化すように笑って去ろうとする。
「あ、待ってください」
 そんなヒースを、ティアは呼び止める。はし、とその腕を掴むと、ヒースが優しい色をしたその瞳を困惑気に瞬かせた。
「その、よろしければ、お礼にお茶でもいかかですか」
 つとめて澄まして、それでいて親しみは失われない、大人の女性を精一杯に装って、ティアは微笑む。ますます、ヒースが困ったような顔をする。やんわりと、ティアの手を外すように、手が重ねられる。だが、その力はたいしたことはない。騎士の心得にしたがっているせいか、ティアを丁重に扱おうとしているのが見て取れる。
「いや、申し訳ないが、オレはこれからいこうと思っているところが……」
「ここでお礼もできなかったら、私ずっと気になってしまいます」
 だから、ちょっとだけ付き合ってください。そう続け、ティアは長い髪を靡かせて、おねだりするように首をかしげた。
「ね?」
 その一押しが効いたのか、ヒースがふうと息をついた。そして、眉を下げて微笑む。漂う空気が、ふっと緩んだ。
「わかった。では付き合おう」
「わ、ありがとうございます!」
 本当に嬉しくて、ティアは花開くように顔を綻ばせた。その表情に、ヒースが噴出した。
「君は、子供のように笑うんだな」
「いいんです。嬉しいんですから。じゃあ、いきましょう!」
 子供っぽいといわれても、今は気にならない。ティアは、ヒースの腕に自分の細い手を絡めたまま歩き出した。