交わす誓いに咲くものは 後編

 あの結婚式からすでに一週間が過ぎた。
 花嫁の想いがたくさんつまったブーケでも、生花である以上枯れていくのは必定。ティアはファナと相談し、そのうちの数輪を押し花にして互いに持つことにした。そういったことは、ヘレンが得意だというので、お任せしてある。いずれ栞に加工して渡してくれるといっていた。
 そして、今日という日は、いつもと同じように訪れた。
 焼きたてのパンの香りに包まれながら、ティアは、きょとんと目を瞬かせた。もぐもぐと、口に入れたそれを咀嚼して飲み込みながら、小動物を見守るような目をしているウルをじっと見上げる。
「えっと……どうしたの、急に? 新しい世界を見に行こう、だなんて」
 ティアの視線を真正面から受け止めて、ウルは笑みを深くした。
「預言書の価値を高めるために、ティアはずっと努力してきたでしょう? ですから、そろそろ前の世界とは違った姿になっているのではないか、と思いまして」
 世界からの問い掛けのコードを入れかえるだけでなく、預言書自体の価値があがることによって世界に変化がもたらされる。
 そう教えられたことを、ふと思い出す。
「そういえば、ここ最近いってないかも」
「でしょう? ですから是非」
 ふむふむと頷きながら、ミルクの入ったグラスを手に取る。やけにウルが押してくるのが気になるが、ただ預言書の精霊として新世界のことが気になるのだろうとティアは結論付ける。グラスに口を付けて乾いた口を潤した後、ティアはにこりと笑った。
「じゃあ、今日は陽だまりの丘にいこうか」
 そう告げると、ウルはほっとした表情を浮かべて頷いた。
「はい、ありがとうございます」
 その青と赤の瞳が、とても嬉しそうに綻んだので、ついつい嬉しくなる。やはり、好きな人の笑顔というのはよいものだ。朝からいいものをみることができた。今日はきっといい日になるだろう。
 ちゃんと噛んで食べましょうねという、お母さんのようなウルの言葉に従って、のんびりと朝食を終えたティアは、家の掃除に取り掛かる。手早く済ませると、預言書を入れた鞄を肩から下ろし、コートを手にした。
「ねえ、ウル。お天気もいいし、歩いていこうよ」
「そうですね、そうしましょうか」
 戸口付近で待っていてくれたウルにそういいながら、駆け寄る。
 どうぞ、と恭しく扉を開くウルに礼を述べ、ティアは小さな我が家を後にする。
 預言書の力を使えば、あっという間に目的の場所にいけるようになったけれど、今日はそこまで遠出というわけでもない。時間を惜しむような冒険をしにいくわけでもないから、ゆっくりといけばいい。
 空は高く澄んでいて、ぷかりと浮かぶ雲が気持ちよさそうに風に運ばれていく。ああ、まるで、お姉さんの結婚式の日みたいだ。そんなことを考えながら、世界の十字路を東方面に曲がり、広い草原へと足を踏み入れる。
「そういえば、最後に新世界をみたのっていつだっけ?」
「クレルヴォとの戦いを終えたすぐ後ぐらいに一度、それから二ヶ月ほどまえにも一度、訪れましたね」
 そっか、とティアは頷いた。初めて目にした世界はたしか――。
「なんていうか、凄かったよね……最初の世界……」
 あはは、とティアは力なく笑う。今思い出しても、本当に凄い世界だったと思う。いろんな意味で。
「ええ、ティアの創りあげた世界ですからね。とても、素晴らしい世界でした」
 うっとりとそんなことを言うウルを、ティアはなんともいえない顔で見上げた。
 さきほど言った「凄い」というのは、決していい意味ではない。だが、ウルにとっては「ティアが創った」という一点のみで、どんなものでも楽園となるらしい。
「う、うーん……」
 仲間であるという身びいきをさしひいたとしても、恋人という補正がかかっていたとしても、あれはちょっとどうかと思っても仕方がないような世界だったというのに。
「どうかしましたか?」
 きょとんとした顔で、自分の感覚に爪の先ほども疑問を抱かぬウルに、ティアは曖昧に笑った。
「な、なんでもないよ! 質問のコードをいくつか入れ替えたことだし、今度はどうなっているか楽しみだなぁって! そう思って!」
 二回目に垣間見た世界は、まともになりつつあった。今日はもう少し進歩しているといい。誤魔化すようにいってみた言葉だったが、それは紛れもない本心だった。
「そうですね。ですがティアに間違いがあるはずありません。きっと、今回も素晴らしい世界になっていますよ」
「あは、あははは……。あ、そういえば、この前ね……!」
 ウルはちょっと盲目的過ぎる。
 目を覚ますように、というのもなんだか憚られたティアは、別の話題をウルにふりつつ歩を進めることにした。
 やがて、他愛のない会話を交わしながらたどり着いた陽だまりの丘に、ティアは立つ。見晴るかす先に蒼穹は高く、緑なす大地が雄大に広がり、そびえるフランネル城とその城下町が、まるで精巧に造られた模型のように彼方に見える。あのひとつひとつに、人の営みがある。いつ来てもいい景色だと思いながら、長い年月の間、風雨に晒されて角が丸くなった古びた石碑に近づく。新しい世界にいくには、これを介さなくてはいけない。ティアは預言書を手にした。
「えっと……鍵、鍵っと……」
 ティアが新世界に続く扉を開く鍵であるジェネシスを取り出そうとした瞬間。
 ひゅうと三つの光が、勢いよく飛び出してきた。
「ちょっと待った!」
 赤い炎をまとったレンポが、ティアの前に立ちはだかる。
「え? どうしたの、レンポ」
「それは今度にお預けだ!」
「でも、今日はそのためにここにきたんだよ?」
 ね? と、ウルを見上げるが、どこか申し訳なさそうな視線を返される。ほんのりと淡く紅色を刷くように染まっていく頬に、ティアは頭の上に疑問符をひとつ浮かべた。
「ウル……はやく、言えばいいのに」
「っていうか、ここに着く前にいうんじゃなかったのかよ?」
「そうそう! ほら、ウル! 頑張って!」
「わ、わかっています」
 氷柱のようなネアキの視線と、呆れたようなレンポの声、そしてミエリの応援に背をおされたウルが、ティアを手招いた。
「ティア、こちらへきていただけませんか?」
「?」
 よくわからないが、三人の精霊たちを置いて、招かれるまま石碑に背を向けウルの後を着いていく。すこし丘を下ったところで、ウルが振り向いた。
 こほんとわざとらしい、小さな咳払いがあっというまに草原を渡る風にかき消される。どうしたの? と、問う前に深く頭を下げられた。ぎょっとティアは目を見開いた。
「ちょ、ちょっと、ウル!?」
「申し訳ありません。今朝のことは、ここへとティアに来てもらうための口実です。本当は、新世界をみたかったわけではないのです」
「へ?」
 なんで、どうして? ぐるぐると同じ単語を頭の中で繰り返す。回しすぎて融けてしまう前に、ウルが姿勢を戻した。
「その、レンポたちに協力を願ってですね……これは、あの……ああ、そこから話していてはだめですね、そうではなくて、その……」
 珍しく慌てたような、理路整然としたいつものウルからは考えられない姿に、ティアは面食らう。
 ウルは何か迷うように切れ長の美しい瞳を伏せ、何か言いかけるように薄い唇を震わせている。わずかに俯いた顔に、影が落ちる。何か悩みでもあるのかと、みているこちらの心が曇ってしまうほど、息が詰まるようなその表情に、ティアは眉を下げた。心配になって一歩踏み出したところで、ウルがきゅっと唇を引き結んで顔を上げた。その顔は、少しだけ強張っているようにみえた。
「ティア。お話があります」
「あ……は、はいっ」
 突然かしこまったウルにつられるように、ティアは居住まいを正した。
「ティア、私は精霊です。ティア以外の人間に、この姿を認められることはまずありえません。少なくとも、ティアの友人の中には私の存在を確かめられる人は誰もいない」
「う、うん」
 どうしたというのだろう。そんなこと、改めて言われなくてもわかっているのに。いつものウルらしくないその様子に、ティアはただ頷くことしかできない。
「ですから、私とあなたが結ばれていても、それをわかってくれる人はいない」
「……うん」
 それもわかっている。いまさらだ。
「でも、そんな事実を理解していても、私はティアを愛してしまった」
 か、とティアは頬を染める。これもわかっていることだけれど、何度言われたってこうして向かい合って真摯にその言葉を口にされれば、照れてしまう。それは仕方ない。だって、ティアだってウルのことを愛しているのだから。
「人と結ばれることが、ティアが人としての生を全うするにはふさわしいとわかっていても、あなたに恋をして、あなたに愛を捧げたいと願うこの心が、それを許してはくれなかった」
 柔らかに長い指先を添えられたその胸の奥、いったいウルはどれほどの情熱を秘めているんだろう。ティアは、ぼんやりとそんなことを考える。
「ゆえに、私はあなたに愛を告げました。わかっていても、諦めることなどできなかったからです」
 ふわり、儚いとさえいえるほどの柔らかさでウルが微笑む。
「そして、そんな私の我侭に、あなたは優しい笑顔で応えてくれました」
 ここで枷からの解放を果たし、ティアがその想いを受け取ったときを思い出しているのか、その瞳が細くなる。
「わかりますか? 私がどれほど幸せか」
 ウルが一歩前にでる。ティアは首を上へと傾けながら、その唇から次から次へとあふれ出る音に耳を澄ませる。ひとつひとつが、宝石のような宝物のように思えた。
「それを精一杯、あなたに伝えたいと願いながら、私はこの幸福な日々を過ごしています。そして、同じように……いえ、それ以上にあなたに幸せでいてほしい。幸せであると感じてほしい」
 きゅ、と一度唇を噛み締めたウルが、大きく息を吸い込んで吐き出す。しなやかな体が、僅かにティアに向かって傾ぐ。
「ですから、ティア……」
 顔を覗き込まれて、息が詰まる。必死な視線に、抱きすくめられて動けない。

「結婚してください」

 これが、自分にできるすべてだから。まるでそういうかのように、ウルははっきりとそう告げた。
「あなたはこのままでいいとおっしゃいました。でも、あの言葉の奥深くに隠された色づいた想いを、私は見過ごすことはできません。私を慮っていってくれたものだからこそ、私自身の手で掬いあげなければいけない」
 もしかしたら気付かれているかな、とは思っていた。でも、ウルが応えてくれるとは、思っていなかった。ああどうして、そんな風に思ったのだろう。いつだって、ウルは私を見て、私のことだけを考えてくれているというのに。
 自分の浅慮を恥じ入るようにティアの唇が、小さくわななく。
「ティアに後悔はさせません。絶対に。たとえ、人間に誰一人にも祝福されないとしても、それを知る者がいなくとも、それを越えるほどに私のすべてであなたを愛します。だから、だから……」
 きゅう、と切なさと愛しさに軋む胸の痛みを自覚しながら、ティアは俯いた。

「――私の、お嫁さんになってください」

 ウルの言葉が鼓膜を震わせ、激しい血の巡りとともに全身にいき渡っていく。
 は、と肺の奥で固まってしまった息を、なんとかティアは吐き出した。ずきずきと喉が痛い。こめかみが唸る。胸が、張り裂けてしまいそう。

「……うん……私、ウルのお嫁さんになる……」

 涙と共に、応えは自然と口から零れた。じんわりと足の先から喜びが這い上がってくる。眦の雫は、ティアの柔らかな頬を伝い、細い顎の先から大地へと落ちていく。
 ウルにここまで言わせて否とかえせる女なんて、世界のどこを探したっているはずがない。
 ほ、と緊張の抜け落ちた、どこかあどけなさを帯びた顔でウルが近づいてくる。頬を包むように、震えるウルの手がティアに添えられる。
「ありがとうございます――私の、花嫁」
 ああそれは、何て素敵な呼び名だろう。触れる指先を包み込み、ティアは笑った。
 泣きながら笑うなんて、なんて器用なことをしているのかと、自分で自分がおかしくなる。もう、何がなんだかわからないくらいに、幸せだった。
「ほーらな、心配なんかしなくてもよかったじゃねぇかよ。だからいっただろ、断られることなんてありえねぇってよ」
「だよね。ウルってば、ティアのことになったらどこまでも考え込んじゃうんだから」
「ぐずぐずと悩むことなんて、なかった……」
 すっかり思考から抜け落ちていた。ティアは、ぱちぱちと涙を切るように睫を上下させる。ひょっこりと顔をだして口々にそういう仲間たちに、ウルは目を険しくしながら、ばつが悪そうに小さく呟いた。
「……ほっといてください」
「――ふ、ふふ、あはははっ」
 精霊たちのやりとりに、ウルがこのことを告げようとして相当悩んだことが見て取れた。普段のウルから考えられないその姿に、ティアは声を転がして笑った。こんな風にウルをさせるのは自分だけなのだ。それはなんて凄いことだろう。
「よぉっし、じゃあオレたち流結婚式といくとすっかあ!」
 活気に満ち溢れたレンポの声に、背後を指差されたティアが振り返ると。
「……!」
 景色が一変していた。
 陽だまりの丘全体が、色とりどりの花に覆われている。ゆらゆらと吹く風に身を揺らし、心地よい花の香りで当たりを満たしていく。その上には、小さな光が大気にいくつも灯っている。夜空の星すべてをここに集めたようだ。
「はい……ティア」
 言葉につまったティアに、冷たい感触が落ちる。振り仰いだ先で、ネアキが微笑んでいる。
「みんな……」
 ふわり、被せられたネアキのヴェールに指を添える。幾重にも重なるうす蒼い氷の儚さ。
「ティア、これ使って!」
 ミエリから渡される、色とりどりの花でつくられたブーケ。蔓で綺麗に纏められた自然の彩。
 この世界の全ての花を集めたような花園と、気高く青い空をゆく白い雲。緑の草原に吹いては、世界に駆けだしてゆく風。そこに、親しい人たちの姿はない。見守るのは預言書に連なる偉大な精霊たちだけだ。だけれど、これで充分。いや、自分にとってこれ以上の結婚式なんてないと、ティアは思った。
 ぽろ、ぽろぽろ――留めどころをしらぬように、再び目から涙が溢れ零れる。
 僅かに俯くと、氷の精霊のヴェールが、熱を発する頬を冷たくくすぐった。森の精霊の祈りがこめられた花の香気が、ティアを包む。
「いきましょう、ティア」
 肩を抱くぬくもりは、愛しい精霊の声とともに落ちてきた。
 見上げたウルは、ひどく優しく微笑んでいる。
 そうして手を引かれ、丘の上に立つ古びた石碑の元へと向かう。
 きらきらと、その道に漂う蛍のような儚い小さな炎が、生き物のように揺らめく。
 レンポが楽団の指揮をとるように指先を閃かせれば、それはゆっくりと左右に割れて、新たに夫婦となる恋人たちを迎え入れる。
 花の海をかきわけて、星のごとき炎に見守られ、ウルの枷が外れたこの地、思い出の場所であのときと同じように、二人で向き合う。神でなく、人でなく、世界に誓いをたてる二人にとっては、この石碑が神父だ。
 ウルが、澄んだ瞳にティアだけを映しながら、微笑む。
「あなたが私のすべてです、ティア。いついかなるときも、この心はあなたと共に」
「うん……私の心も……ずっと、ウルの側にいるよ。忘れないで」
「忘れるはずが、ありません」
 くすくすと声を漏らしながら、ウルが滑らかな動作で背をかがめる。
 ティアはそっと踵を持ち上げて、その誓いの口付けを受け取る。そしてティアもまた、誓いの口付けを返す。
 閉じたティアの瞼の裏は明るさと潤いに満ち、湧き立つ三つの歓声がその耳に響く。
 一組の恋人たちが夫婦になったことをあまねく知らせるように、強い風が世界に吹いた。
 はらはらと、流れる雫は攫われて、輝きながらその先へと消えていった。