精霊と毒

Caution!!
 以前にUPした「精霊と果実」の続き的なものです。
 読まなくても話の内容的には通じるかと思いますが、できれば先に「精霊と果実」に目を通していただければと思います。
 ウルがちょっと黒めで、どこかへ静かに落ちていっている感じなのでご注意ください。

 

 閉じられていた預言書が開かれる。
 今朝から一度も動くことのなかったページが、そよ風に優しく煽られ走り出すように、めくられていく。乾いた音が、響いて消える。
 主に呼び出されること無く、本の中で静かに過ごしていたウルは、その気配を感じ取り、沈めていた意識を浮上させた。
「……ウル」
 そして、己の名を呼ぶ小さな声に応えるために、ウルはするりと本の合間から抜け出した。
 周囲に火花のように雷を振りまいて、預言書の主の下へと参じる。
 夕暮れの、透明な茜色の光が差し込む小さな部屋は、光と影の強い彩りに染め上げられていた。
 そんな赤さの中、姿を結んだ本の上から見上げる少女は、相変わらずの愛くるしさ。大きく澄んだ眼、明るい色の髪がその小さな面を縁取っている。
 互いを想う深い信頼をもってして、ウルの瞳に架せられた鎖を断ち切った少女は、途方にくれた迷子のような表情をしている。
 ちらり、開かれたページの足元を確認すると、そこはすべてのはじまりの場所であると同時に、終わりを迎えるための地でもある、陽だまりの丘だった。
 ティアはそんな顔をしたまま、一日中ずっと――どんな想いを抱えていたのだろう。
 二人の間に横たわる空気に滲むティアの揺れる感情と、それがあどけない少女にもたらした陰のある切ない表情に、ぞくりと背筋が震える。

 普段の明るいあなたが好きですが――そんなあなたも大好きですよ――

 僅かな間にそんなことを考え、また感じながら、だがそのことを表情に出すことは決してせず。
「どうかしましたか? ティア」
 にこり、ウルは微笑みながらそう問いかけた。
 きゅっとティアが胸元で手を握り締める。
「あの、あのね……」
 もじもじと、ティアが何かいいたげに胸元で指をすり合わせる。長い睫が、せわしなく蝶のように羽ばたく。ほんのりと光を帯びた頬は、瑞々しい果実のよう。
「その、ね、ウル……」
「はい、なんですか。ティア」
 相対したまま、ウルは優しく続きを促し、ただ静かにティアの想いが声になるのを待つ。
「あの、ね」
 ティアが懸命に何かを伝えようとしている。
 迷い、戸惑い、後ろを振り返りつつも、前に進むために一歩ふみ出そうしているのがわかる。だがそれが、果たして彼女の望む結末へと続く道なのかは、定かではないけれど。
 ウルはそっと、ティアの様子を見守り続ける。
 そして。
 ティアの瞳に、光が走る。それは、旅の途中で幾度もティアが宿したもの。何かを決めたときにみせる、一見して儚げな少女の心の強さ。

「ウルは、私のこと……どうおもってるの?」

 震える声で、それでもはっきりと伝えられた問い掛けに、ウルは「やはり」と心の中で呟きながら笑った。それは、ある程度予想していたことだったから。
 ウルは、そっと己の胸元に手を当て、瞳を伏せて。まるで歌うように、朗々と告げる。
「とても、大切に想っていますよ。あなたは預言書の持ち主、私の主――枷よりの解放を為し得た、唯一のひと」
「っ!」
 決まりきった答えを返すと、ティアが痛みを堪えるように眉根を寄せた。
「は、はぐらかさないで!」
 涙に瞳を潤ませながら、ティアはその胸の痛みを悲痛な響きに変えて訴えかけてくる。
「ウルってば、いつもそう……! 私はね、ウルのこと好きだよ、大好きだよ」
「ええ、知っています。ありがとうございます」
 ぶんぶんと、ティアが頭を振る。その拍子に、目頭に溜まっていた涙が宙を舞う。
 きらり、太陽の赤さを宿して床へと落ちていくそれの、宝石のごとき眩さと美しさときたら。

 ――たまらない。

 今、ウルの足元から天へと駆け上がるものは、背の震えであると同時に心の震え。己の全てを隅から隅まで痺れさせていくその感覚は、とても好ましい。
「そうじゃないよ、そうじゃなくて……!」
 ウルは、薄氷よりもなお冷たく繊細に微笑む。俯いたティアに、それは見えていないだろう。
 わかっている。
 ティアが、欲しいものくらい。ウルにわからないはずがない。
 それは明確さをもつもの、ティアの心を震わせるもの。二人が結ばれてから以降、ウルが意識して口にしてこなかったもの。
 こうして、ティアが縋るように求めてくるまで、決して告げることはしないと、決めたそれ。
 す、と滑らかに空中を移動して、ティアが座る椅子の傍らで、ウルはティアを抱きしめられるように、人間の青年くらいの大きさに姿を変えた。
 そのまま、顔を伏せたままのティアの華奢な体をやんわりと包み込む。
「……ウル……好きだよ……大好きなの」
 深い想いが込められた尊い言葉は、必死だった。
 ウルはティアの顔を覗き込みながら、いつもの美しい笑みを浮かべて応える。
「はい。ありがとうございます」
 精霊であるこの身をそれほどまでに想ってくれること、その可憐な声でそれを伝えてくれること。そのことに、なによりも感謝していると、身に余る光栄だと、殊勝な態度を崩すことなく、ティアの額へ柔らかに口付ける。
 哀れな獲物は頬を染め、ぎゅうと強く目を閉じた。
 その姿をひどく愛おしく思いながら、ウルは口元に弧を描く。
 ティアも最初は、これだけで、よかった。
 自分の言葉にウルそう返してくれることが、ただただ嬉しいようだった。
 だがある時から、ふと訝しげな色をその瞳に滲ませるようになった。互いのやりとりのなかに潜む些細な違和感を、ティアは感じ取ったのだろう。
 それは静寂の冬の夜に降る雪のように、静かに降り積もり。やがて、その表情に寂しさと焦りとなって現れるようになった。
 その頃からだ。
 ウルに対して「好き」という言葉をさらに重ねるようになり、切なげに視線を揺らすようになったのは。
 ティアは、気付いたのだ。
 今まで一度も、ウルから自分への想いを伝えられていないということに。
 だから焦っている。不安になっている。
 本当に、自分は好かれているのか、愛されているのか?
 もしかして、自分が一方的に恋しているだけではないのか?
 ウルは、ただの優しさから応えてくれただけではないのか?
 精霊と人では、想いの全ては重なりはしないのか?
 きっと、ティアはそんな考える必要のないことを、真剣に思い悩んでいるのだろう。
 身も心も結ばれたと信じ浮き足立つような心から、明かりのない暗闇の道を歩くような心細素さを感じる今の心境まで、それらの感情をひとつ漏らさず間近で感じ取っていたウルは、心底楽しそうに声を出さずに笑った。
 自分の思い通りに事が運ぶことは、ひどく心躍らせる。
 だが、まだ欲しいと思う。もっと味わいたいと、乾いた喉が訴える。
 そんな想いに引きずられ、ウルはこれまでティアの気持ちをわかっていながら、無垢を装い微笑んできたのだ。
 あまりにも追い縋ろうとするティアの瞳が、声が、態度が。心地よすぎるのがいけない。
 それに、その瞳に映るのは私だけでいいのだから。もっと自分のことだけを、考えるようになればいい。
 それをほぼ成し遂げているにもかかわらず――いまだ満たされぬウルは、今日も言う。
「……好きだよ、ウル」
「ええ、わかっていますよ。ありがとうございます、ティア」
 ティアの想いをはぐらかし、願いに気付かぬふりをして、ただ喜ぶふりをして微笑む。
 ゆっくりと艶やかな髪を撫で、その小さな耳を指先でくすぐると、ティアが首をすくめて、息を飲む。
 ウルは、それを優しく奪い取るようにティアへと口付けを落とす。
 だが、そろそろ仕舞いにしなければ。ティアが壊れては元も子もない。
 では、こんなにも愛しい少女が求めるものを、与える日をいつにするべきだろう。
 もっとも効果的な瞬間にしなければいけませんね。
 ほの暗い愉悦に身を委ねながら、ウルはその美しい仮面の下、そんなことを考える。
 ああ、いつの日か。
 もう私から離れられないあなたに、水晶のごとく透明な鎖をかけよう。
 そうしてその小鳥のような心臓に、決して抜けない薔薇のような棘を刺そう。

 あなたを愛しています――そんな骨まで溶かすような甘い毒の言葉に、そっと隠して。

 そうすれば、ウルはまた別の素晴らしい感情を得られるに違いない。
 きっと、ティアもまた、もっと深いところへ落ちていくに違いない。
 ゆっくりと口付けを解き、泣きそうな顔で浅く息をつくティアを抱きしめる。
 そして、ウルは己の考えにうっそりと微笑んだ。

 紅玉髄細工の中に迷い込んだと錯覚させるほどに赤い家の中、少女は掴みきれぬ心に涙して、精霊はそんな少女の戸惑いに心震わせる。
 互いが、互いの毒に魅入られていることを知らず、ふたりはいつまでも寄り添っていた。