その花の名を

「はい、ウル。これつけて」
「はい?」
 何気なく差し出されたものは、よく知っているものだった。
 世界と契約を交わした際に与えられた、力を抑制し、預言書とのつながりの証でもあったもの。顔の半分を覆いつくし、ウルの「視る」という感覚を永遠に封じるはずだったもの。
 精霊封印具。枷ともいう。
 身に馴染んだものではあるが、それはもはやティアとの絆によって失われているが、預言書で眼鏡のコードを入れ替えることで作成できる。だが、それをまたつけろというのはどういう了見なのだろう。
 ティアの真意が読み取れず、黙り込んだウルであったが、ティアが差し出したものを拒否するという考えなど浮かばない。
 受け取り、じーっと手にしたそれを見下ろす。
 もしかして、もう私にみつめられるのが嫌とか、枷のついている私のほうがよかったとか、私の顔に飽きてしまったとかそういうことなのでしょうか……。
 ぐるぐると嫌な方向に思考をめぐらせていると、コートを羽織ったティアが不思議そうにウルをみた。
「どうかした?」
「いえ……あの、これを私につけさせて、どうしようというのですか?」
 ぱち、とひとつ瞬きをして――ティアは、ふわりと笑った。
 ウルは言葉に詰まる。
 どこか人を翻弄するような、それでいて後ろめたい隠し事などないと、一目でわかるようなその微笑み。
 そんな可愛らしい顔を向けるのは、ウルがティアのそんな表情に弱いということを良く知っているからではないか、と勘繰りたくなる。
 細い指が、ふっくらとして艶やかな唇に押し当てられる。
「ウルと一緒にいきたいところがあるんだけど――そこに着くまでね、内緒にしておきたいの」
 だから、それをつけて? と可愛らしくおねだりされる。そんな風に言われたら断れるわけもない。心のどこかで諦めつつも、とりあえずウルは訊ねてみる。
「目を閉じるだけではだめなのですか?」
「うん。だぁめ」
 くすくすと声を転がし、ティアがひょいとウルの手から枷をとりあげ――問答無用でそれをウルにつけた。
 あっという間に。
 不思議の力をもつ封印具の鎖がまるで生きているかのように動き、頭の後ろでがっちりと拘束の手をつなぎあう。
 これでよし、と満足そうにいうティアはきっといい顔をしているのだろうな、と思いつつ。それを見ることのできないウルは、小さくため息をついた。
「……わかりました。それでは、私はこのままティアに連れられていけばよいのですね?」
「うん! じゃあ、いこう!」
 そしてティアが手をとってくれる。
 家の扉をかすかに軋ませて外に出て、引かれるままに歩いていく。さあ、と冷たい夜風が正面から吹いてくる。
 ティアに付き従い歩いていくものの、久しぶりの真っ暗な視界だ。なんとなく、思考までもがその闇に引きずられるように落ち込んでいく。さきほどの考えが、またもやもやと胸にせりあがってくる。
 だが、暖かな温度を伝えてくる小さな手は確かに繋がれ離れることなく、導いてくれている。それは、「そんな心配は杞憂だよ」、と語ってくれているような気がする。
 ぬかるんだ黒い泥沼にはまったように不安は尽きず。希望はちらちらと瞬く星のように傍らにあるのに手は届かず。
 なんともいえないそんなウルの心境に気付いていないだろうティアは、ずんずんと歩いていく。
 二人は沈黙を保ったまま、歩いていく。
 やがて。
「ついたよー」
 ティアがそういうと同時に、足を止めた。かすかに漂う森の気配と、草原を渡る風の音。森と平原の境目あたりだな、とウルは推測した。
「ウル、ちょっと屈んでくれる?」
 言われるままに僅かに膝を曲げる。ふわり、と封印具に何かが触れたのがわかる。
「じゃあ、外すね」
「はい」
 ティアの手が耳を掠める。その指先が、鎖に触れてかすかな音を立てた瞬間。
 枷は解けるようにその姿を崩し、ウルの視界から消えていった。
 そうして瞳を開けば、まず見えたのは白い大地。きらきらと草が光を帯びてそよいでいる。そこに影がひとつ、落ちている。
 揺れるその源を何気なく確かめるように、顔を上げて――ウルはそこに広がる景色に、目を見開いた。
 ウルの表情を楽しげに見上げたティアが、小さく声を漏らして笑う。まだ繋いだままの指先に力がこもる。
 夜空に浮かぶ明るい満月。そこから降り注ぐ清らかな光。それらがある天へ手を伸ばすようにそびえる大樹が一本。
 ほのかに光放つように、淡く白い――否、僅かに薄紅の花を咲かせている。それはまるで、その樹の生命力をそのまま世界へと誇るかのよう。生きていると、今この時に静かに、だが確かに訴えかけてくる。
 ふいに、右手が離される。
 急に消えたぬくもりに、ウルは傍らのティアをみる。
 少女は、町の片隅で遊ぶ子供たちのように軽やかなステップを踏みながら、今まさに満開を迎えた花の下へと進んでいく。
 咲き誇る花に負けぬほどの笑みで振り返るティアをぼうっと見遣る。花も彼女も、なんと美しい。
 ああ、これが、見惚れるということか。
 その場に立ち尽くしたウルの視線の先、ぴたりと動きをとめたティアが後ろで手を組んで、いたずらっぽい光をその瞳に宿して恋人をみつめる。
「ねえ、ウル。約束したでしょ? いつかお花見しようって」
 その約束を今日、果たそう。
「あ――」
 ウルは思い出す。
 砂漠の遺跡で出会って、ローアンの街へと戻るときのことだった。

『ねえ、ウル。このお花、すごく綺麗だね――あ……ごめん』
『いいえ。お気になさらず。ほら、そのように落ち込まないでください。私が「視る」ということができないのは、仕方のないことなのですから』
『うん……でも……ねえ、どうしても、それはとれないの?』
『ええ。世界との契約ですから。いつか、もしかしたらということはあるかもしれませんが、正確な方法は私にもわかりかねます』
『そっかぁ……ね、ウル』
『はい』
『いつか――いつかね、ウルのその封印が解けたら、お花見にいこうよ』
『え?』
『ウルに、私の大好きな花をみてほしいな。すごく素敵なんだから!』
『――そう、ですね。もし、もう一度この瞳が光を得ることができたなら。そのときには是非』
『うん! 約束ね!』

 暗闇の中、自分の手をとって楽しそうにそういった、ティアの声がよみがえる。
 それは視界を閉ざされた自分との他愛のない、約束。果たされるかどうかなんて、確信もなかったのに交わした約束。
 この目を覆っていた枷が、外れる保障なんてどこにもなかったのに。
 覚えていたのか、ティアは。
 忘れていたのだ、自分は。
「ありがとう――ございます……」
 呆然としながら、そう呟く。ティアの歩いた軌跡を辿るように、その先で待つティアを追いかけるように、ウルはゆっくりと足を踏み出す。
 これが、ティアがみてほしいといっていた、花。はらり、ひとひら花弁が落ちてくる。それすらも優美だ。
「美しいです。とても、とても」
 この花が、そしてその下で微笑むティアが。何よりも尊くて美しいものに思える。
「でしょう? よかった、ウルをびっくりさせたかったんだよ。これはね、ずーっと前に、東の国の旅人が種を植えていったものなんだって」
 ようやくウルがティアのもとへとたどり着いた矢先、到達地点であった少女は、またひらりと上着とスカートの裾を翻して、どこかへいこうとする。
 ゆらり闇夜を舞うその細い手首を、捕まえて離さぬように。ウルは、ティアを後ろから抱きしめた。
 それは、普段冷静なウルからは考えられないような衝動的な行動だったというのに。
 ティアは驚くでも慌てるでもなく、己に絡まる腕にその手を重ね、ウルを振り仰いだ。
「ウル」
 微笑むティアが、手を伸ばす。小さな手が、頬に触れてくる。なにかをぬぐうように、指先が動いた。
「泣いてるの?」
 あどけなく、そう問われ。ウルはそこでようやく自分が泣いていることに気が付いた。瞬きしたときに、ほろり、涼やかな目元から落ちた涙は、ティアの指先が掬い上げた。
「ああ、ほんとうだ。精霊も……涙を流すことが、できるのですね」
 驚いて、ぱちぱちと目を瞬かせる。
 そんなこと、今まで知らなかった。泣いたことなど一度もないのだから、当たり前だ。
 ティアが相変わらず優しい笑みを浮かべたまま、言う。
「今ここにいて、そこにウルの想いがあるのなら。何かを感じたその証としての涙くらい、きっと零れていくよ」
 それくらい、この花は綺麗だもん――そういって、ティアは笑う。
 確かに花は綺麗だ。この瞳が閉ざされる前にはみたことがなかったものだし、その美しさに感動したのは間違いない。
 だけど、それよりもなによりも。
「ティア。私は嬉しく思います」
「えへへ、そんなに喜んでもらえてよかったよ」
 安心したように、蕩けるような笑みを浮かべたティアを強く抱く。
 ウルはゆっくり頭を振った。今宵の月明かりになおいっそう金色の髪が煌く。
「確かに、この花は美しい。ですが、それよりも貴女が私との約束を覚えていてくれたこと、果たしてくれたこと。それが、嬉しいのです」
 は、とウルは息をつく。それでも、喉までせり上がる感情は、ひとつも消えることはなかった。
「これは、私とティアの心が結ばれたからこそ成しえたものですから」
 ティアの耳からその華奢な身体すべてを、この想いで満たせればいいと思いながら、囁く。
「だから、嬉しくて――たまらないのです」
 かみ締めるように、そう言って。
 ふふ、とウルはいつもの澄ました青年の顔をどこかに忘れてきたように、少年のような無邪気な笑みを浮かべてみせた。
 その様子に、ティアは一瞬ぽかんとしたあと、頬を染めて頷いた。
「うん。そっかぁ……」
 照れ笑うティアがウルに寄りかかってくる。そんな愛しい少女に、ふと思ったことを問いかける。
「ティアは、わかっていたのですか? 私たちが結びつきあい、封印が解かれ、こうして二人一緒にこの花を見上げる日がくることを」
「んー、どうなんだろう? 自分でもよくわかんない。でもね、」
 くすくすと笑い零すティアの双眸に、優しくも強い光が宿る。
「ウルとこの花を一緒にみたいって、ずっとずーっと願っていたよ」
 きっとその純粋さが、この幸福なひとときを引き寄せたのだと、ウルは口を開いた。
「だからね、私もね。ウルと同じように、すごく嬉しい」
 そんなティアの言葉に同調するように、ウルはティアの頬に己の頬を摺り寄せる。
「ねえ、季節が一巡りして、またこの花が咲いたら。絶対に見にこようね」
 新しい世界に降り立ったあとも、それはきっと続いていくだろう。この穏やかな春の日に、二人で共にこの花を見上げるのだろう。いつ、いつまでも。
「はい。必ず」
 今度はウルが、予感ではなく、そんな確信を抱いて頷いた。だってそれは、二人が望む未来なのだから。
 身を寄せ合い、咲き誇る花の宴を陶然とみつめつつ、ウルは言う。
「そういえば、この花はなんというのですか?」
 この夢のような日の、証人の名を問いかける。
「えっと、このお花の名前はね――」
 可憐な音が、花の清廉さにふさわしい名を響かせる。
 そっと瞳を閉じたウルは、恋人の声で己の耳に届いたその花の名を、心に刻むため。
 ティアの言葉をなぞらえるように、ひとたび、繰り返した。