そろそろ頃合、でしょうか。
ウルは顎に手を当てて、ティアの後姿をみつめながらそう思った。
今日も一日、預言書の価値を高めるために冒険にでかけ、夕暮れ間近に帰ってきたティアは、ひらひらとスカートの裾を遊ばせて家の中を歩いていく。
「今日は新しいお花も預言書にスキャンできたし、よかったよね!」
そして、そんな風にみつめられているとは気付かず、ティアは明るい口調でそう言いながらコートを脱ぎ、肩から提げていた鞄を下ろす。
その動きを、鮮やかに色も形も認識できる視界をもって、ウルはあますところなく記憶に留める。
封印具が外れたことでみえるようになった景色の素晴らしさに心を満たしながら、ウルはいつものように赤と青の瞳を細めて微笑んだ。
ゆっくりとティアに近づいて、よくできましたというようにその頭を撫でる。
「ええ、そうですね。あんなところに、あのように美しい花があるとは思いませんでした。よくみつけたものです」
「えへへ。ね、明日になったらカムイさんにお花の名前、訊きにいこうね」
褒められたことが嬉しいのか、はにかむように笑いながらティアは言った。
「はい、是非そうしましょう。あ、そうそう、ティア」
その提案に頷きつつ、ウルはさもなんでもないことを思いついたよう装って、ティアの瞳を覗き込んだ。
「ん……、なぁに?」
ふいに詰められた距離にティアが息を呑んで、恥ずかしそうに瞳を伏せる。
くす、とウルは笑って、囁くように問いかける。
「もしかして、ティアは私のことが好きなのですか?」
ぴた、とティアの動きが止まる。
予想どおりの反応。
このあとは、ティアは真っ赤になって慌てふためくのでしょうね――と、ウルがそんなことを思っていると。
みるみるうちにティアは頬だけでなく耳や首筋までもを朱に染めていく。
頬が赤らむくらいだろうと思っていたのに、鮮やかな絵の具を頭からかけられたように身体全体の色を変えていくティアに、ウルは小さく声を出して笑った。
「あ、あの……えーっと、えっと……!」
だが、楽しそうに笑われていることすら気にする余裕が、今のティアにはないらしい。
頬から耳を覆うように手を置いて、すっかり混乱しきっている。そんなティアからほんの少し、ウルは身を離した。
さら、とその額にかかる髪をかきあげてやりながら、ウルは言う。
「私が気付いていないと、思っていたのですか?」
う、とティアは言葉に詰まった。だが、それも一瞬のこと。ティアは涙目になりながら、俯いて言う。
「――どうして、わかったの?」
純粋で素直なティアなこと。隠していた恋心をずばり言い当てられては、「違う」と言うことも、適当に誤魔化すこともできやしないのだろう。小さな消え入るような声で、ただそう問うてくる。
「どうして、といわれましても」
ふふふ、とウルは笑う。ゆるやかに薄暗くなりつつある室内に漂い始めた、なんともいえない空気が、それにあわせて震えた。
気付かないはずがない。
ティアが、自分を呼ぶどこか甘い声。
ティアが、自分を探して巡らせる瞳の色。
ティアが、自分を見つけ綻ばせる視線の柔らかさ。
ティアが、自分にだけ向けてくれる可憐な微笑み。
そして、自分とみつめあえば、ティアは潤んだ瞳で深く沈むようなため息をつく。
それは全身でもって、その心を伝えているようなものだ。
ふとした瞬間にみせる、そんな恋する少女の姿を思い出して、ウルは勝手に零れる笑い声を留めるように、口元に手を当てた。
赤い顔をしてウルを見上げていたティアが、ますます赤くなる。
こんな何気ない己の仕草にも魅了されてくれるティアが、愚かだと思うほどに、可愛らしくて愛おしい。
ウルはその背をぞくりと震わせながら、口元を隠した手の下で薄く笑う。
「見ていれば、わかりますよ。ティアが、私を好きでいてくれるということは」
あうあう、と自分の気持ちが思った以上に伝わっていた事実に、ティアが呻いた。
「……だ、だめ?」
「だめ、とは?」
そして、そんなことを上目遣いできいてくるから、それがどんな意味でいっているのかを知りつつも、ウルは意地悪く訊ねる。
「……ウルのこと、好きじゃだめ?」
あー、とか。うー、とか。そんな意味のない言葉を漏らし続けていたティアが、観念したように、とうとう「好き」という言葉を口にした。
それがはじめて自分の気持ちを伝えた瞬間だとは気付かぬティアに、ウルは小さく頭を振った。
「いいえ? かまいません。とても、嬉しく思います」
ウルの答えに、ほっとティアが強張っていた身体から力を抜く。想いを否定されなかったことに安堵する表情は、健気の一言に尽きる。
しかし、そもそもティアの恐れは杞憂だ。
そんなことあるわけがない。なぜならば。
――そうなるよう仕向けたのは、ウルなのだから。
時に厳しくそして優しく。預言書の精霊の中でも年長者的な存在で、預言書の主の指導者的立場でもあることを最大限に利用して。その心に刻むのではなく、ゆるやかに自分という存在が染み入るように、ウルはティアを囲っていった。
常日頃からつかずはなれず。でも、必ずそこにいるように、さりげなく。
ティアがそのことに安心するように、それが当たり前だと無意識のうちに思うように。
封印がとかれるほどの深い絆を結び合ったあとも、ウル自身の想いは微塵も見せず、ただひたすら、ティアの心が信頼から恋に傾くように誘導しながら、傍らにあり続けた。
自分がいないと駄目だと思うように、教え込んだ。
そうして思ったとおり、甘く包みこむような慈しみと、守り導いてくれるその心地よさからティアが逃れられないようにすることに、ウルは成功したのである。
もし今、ここでティアを突き放したらどうなっていたのだろう。
そんな仄暗い想像に、ウルは胸をざわめかせる。
きっとティアは戸惑い、途方に暮れて立ち尽くし――だが、それでもウルを探すのだろう。
それも、いいんですけどね。
そんなことを考えて悦ぶ浅ましい自分を冷静にみつめながら、それはできないとも思う。そうしたら、ティアは泣いてしまうかもしれない。そんな泣き顔もきっと素晴らしいものだろうけれど、それは次の楽しみとしておくべきだ。
世界の終わりと始まりに立ち会う存在として選ばれた偉大なる精霊が、こんなことを考えているなど、一体誰が思うだろう。世界も、仲間の精霊さえも、この気持ちはわかるまい。
そして、洗練された所作でウルは胸に手をあてた。
危険と判断されても仕方のない思惑など、わずかに滲ませることもなく、美しい切れ長の瞳を伏せる。わずかに眉を寄せれば、深く苦悩しているように見える。
麗しい青年の姿をした精霊のそんな様子は儚げで、相対する者の感情に訴えかけるような力がある。
「ですが、私は精霊で、人ではありません。人間同士で愛し合うことで得られるものを、私はティアに差し上げることができない」
たとえばそれは、人々に祝福される中での結婚式であったり、二人が愛し合った証である子供であったり。
それでも、いいのですか? と、ウルはわずかに視線を上げてティアに問う。
ぎゅうっと胸元を握り締め、かすかに震えながらティアが一歩前に踏み出してくる。
「でも、私……私、ウルがいい。ウルが一緒にいてくれなきゃ、私……!」
今にも泣きだしそうな顔で見上げてくるティアに、ウルの肌が粟立つ。よくもここまで、自分を慕ってくれるようになったものだ。
「わかりました。では、ティア」
そういいながら、すっと手袋に包まれた自分の手を、ティアに向かって差し出す。
「私を選ぶというのなら、この手をとってください」
どんな結果になろうとも、そうなる道を選んだのはティアだと、その記憶に鮮やかに残すための、ずるい儀式。
そして、自分が望む結果が訪れることを、ウルは疑わない。ティアは、必ず自分を選ぶ。そうするように、自分がティアに教えたのだから。
きゅ、とティアの握り締められていた手が、春の雪解けのようにほどけていく。すい、と滑らかに空を泳いで、伸びてくる。
そうして。細く白い指が、ウルの指先を捕まえた。
かすかに震えているのは、恐れか喜びか。
それはさすがのウルにもわかりかねる。だが、もう決して逃がさない。
「これからもずっと、ずっと一緒ですよ――」
ウルは微笑んで、ティアの手を握り締める。
雷の精霊に魅入られ、その手のうちに知らぬ間に囚われてしまった少女は、何も知らぬがゆえの幸福に包まれて、ほわ、と芳しく匂いたつように微笑む。
ああ、やはり、この日がもっともよかった。
ウルは自分の判断に誤りはなかったと、口の端を持ち上げた。
この世界でたったひとつ、ウルのためだけに実った至高の果実。
青く硬くどうにもならぬ未熟さを残しているわけでも、熟れすぎて腐り落ちるわけでもない。なんとも絶妙な、収穫適期だった。
そっと摘み取った果実は、それはそれは美味しそうで――ウルが食指を動かすには、充分すぎる。
我ながらいい仕事をしたとひどく満足しながら、ぽーっと夢見心地で潤んだ瞳を惜しげもなく晒すティアをさっそく味わうために。
「ティア」
その名を呼んで引き寄せる。ウルの優しく戒める腕の中で、ぴくんと肩を跳ねさせる少女を覗き込むように顔を寄せる。
自ら落ちるようにその身を委ねた少女は、逃げることなど微塵も考えていない澄んだ瞳で、ウルだけをみつめている。
そんな愛しい少女へ、自分の心は未だ告げぬまま、視線にだけその熱をこめて送れば、ティアが切ないため息をついた。
己の一挙手一投足に翻弄される、ティアの姿を楽しむ自分の性質の悪さに辟易としつつも――手塩にかけて育て、花を咲かせ、ようやく生った果実を、ウルはその指先で確かめるように辿っていく。
さて、どうしましょうか。
一息に食べつくしてもいいし、もったいないと僅かに口を付けるに留めるのもいいだろう。
こんな風に悩むことさえ、ウルにとっては心地よくて仕方がない。
それは、これまで永い時間を生きてきても、決して知ることのなかった感覚だ。
人は、こんな想いに身を焦がすために、恋をするのかは知らないけれど、少なくともウルにとっては天より滴る甘露のように、もう手放すことはできないものになってしまった。
人でない自分に、こんな楽しみを見出させたティアに感謝しつつも、自分に囚われた少女が哀れで申し訳なく思う。
ただ、この手をとったことを、絶対に後悔させはしない。そんなことを思う隙間もないように、その心を自分で埋めつくす。
――私だけの恋しい少女……愛しい、ティア。
でも、いい加減我慢も限界なのは確かなので。とりあえず味見してみようとウルは思う。
だって、これはもうすべて自分のものなのだから。
ウルはティアを抱きしめたまま、ひそやかに妖しく艶やかな笑みを浮かべて、いう。
「では、いただきます」
どんな味で自分を楽しませてくれるのかを確かめるために、ウルはその瑞々しいティアの唇に、ひどく優しくかぶりついた。