お水がほしいなー……。
てくてくと夏空の下を歩いていたティアは、そんなことをぼんやり思う。それはこの季節をすごすものなら、誰しも頭の片隅に常に置いていることだろう。
頭上から燦々と降り注ぐ太陽の光は白く熱く、また、石畳からの照り返しに肌が焦げるよう。額や鼻先に汗の玉が小さく浮き出ているだろうことは、容易に想像できる。
ここまでくる間の公園や中央通りなどで、何か飲み物を買ってこればよかった。そうは思うものの、街のはずれ近辺にあたるこの辺りには、そういった出店はない。残念だ。
ちらと視線を流した先の建物の影には、のびやかに身を横たえて暑気をやり過ごす猫たちがいる。そんな光景を横目にみながら、ティアはローアンの裏どおりへと足を踏み入れた。
「あれ……?」
だが、いつもならそこで風に吹かれている少年の姿が、ない。
「うーん、どこいっちゃったのかな……」
さすがに、この炎天下では立っているわけにはいかなかったのだろう。もしかしたら、魔女の館にでも避難しているだろうかとそんなことを考えて、占い横丁への近道へと近寄ってみる。
もちろんここから姿などは見えないだろうが、彼と同じ場所に立つことで、少しでもその痕跡をたどりたかった。
と。
「ティア」
「!」
風に髪を遊ばせながら柵越しに下を覗き込んだ瞬間、聞き間違えることのない少年の声が己の名を呼んだ。
はっとして、落ちないように手をかけて、さらに下へと視線を落とす。割とすぐ近くに、金色の瞳が瞬いていた。占い横丁の道の上ではなく、道の傍らで大きく育った木の、はりだした枝の上に腰掛けるさまは、優美な肉食獣を思わせる。つり上がった目が、獲物を見定めるように、ティアをじっと見つめてくる。
「アンワール!」
会いたかった恋しい者の姿に、ティアは顔を綻ばせた。ぶんぶんと手を振ると、応えるように手が小さくあげられる。
「そこでなにしてるのー?」
「ここは、風が吹いて心地いい」
なるほど、とティアは頷いた。つまりそこで涼をとっているということだろう。
「ティアは、どうしてそこにいる」
「アンワールがどうしてるかな~って思って。様子みにきちゃった」
つまり、会いに来たというわけである。
えへへ、と笑ってそう伝えると、アンワールが枝の上に立った。
ん? と思った次の瞬間。
その細くしなやかな身体が、跳ねた。
「ひゃあ!」
頭上にあった枝のいくつかを足場にして、一陣の風を供にアンワールがティアの傍らへと降りたつ。
その急な動きに、ティアの心臓が大きな鼓動を繰り返す。心臓に悪い。
「び、びっくりした……」
「?」
アンワールにしてみればたいしたことではないらしい。不思議そうな顔をされて、ティアはなんでもないと手を振った。背にあんな大剣を背負っているというのに、なんという身軽さか。
「ティア、随分と汗をかいているな」
夏の暑さもあるけれど、あなたの行動に吃驚したせいでもあるんだよ。とはいえず。
「え、うん。お城から歩いてきたから、ちょっと」
適当に誤魔化しつつ、汗臭かったらどうしようというそんな乙女心で、ティアは体を縮こまらせた。しかし、アンワールは気に留めた様子もなく、布を一枚取り出すとティアの額に押し当ててくる。
「わ、」
「使うといい」
「あ、ありがと」
無造作に突きつけられたものを、素直に受け取り、ティアは頬にあてた。清潔な乾いた布が、汗を吸い込んでいくのが心地よい。
くすくすと、笑みが零れる。洗練された優しさはないけれど、アンワールの行動は常に自分を想ってくれていて、それがまたごく自然なものだから、くすぐったい。
「この街にいると、妙にべたべたとして困るな」
そんなティアの様子を眺めていたアンワールが、額に張り付いた髪をかきあげながら、小さく息をついた。
「え、でも……砂漠でも、汗はかくでしょう?」
珍しいアンワールの愚痴のような言葉に、ティアは目を瞬かせた。
「そうでもない」
ゆっくりとアンワールは頭を振った。
「汗は出た瞬間に蒸発するものだからな」
「え、あれ……?」
うーん、とティアは預言書をもってサミアドを訪れたときのことを思い出す。サミアドに連れ去られ、オオリの言葉に従い遺跡を探して歩いていた頃はどうだったろう。
「そういえば、そんなに汗かいてなかったかも……」
ミエリの暑い暑いという言葉や、頭から足を貫くような陽射しが印象的だったから、ついつい汗もかいていたような気がしていたが。考えてみれば、たまにサミアドを訪れたときも、日陰では昼寝が快適にできるくらいではないか。きっと湿度が低いせいだ。ただ、陽射しのあるところは、溶け出すほどに暑いのだけれど。
「そのかわり、汗をどれくらいかいたか自分でもわからなくなるから、水は常に飲まなければいけない」
ああそうか、とティアは頷いた。汗をかけば、なにか飲もうと考えるだろう。それだけ出て行ったのだから補給しなければと思うだろう。だけれど、その指標になるものがなかったら、ついつい侮ってしまうかもしれない。
「そういえば、アンワールっていつも水筒を持ってるよね。やっぱり、そのためなの?」
「そうだな、水を切らすと命にかかわる。砂漠では喉が渇いたと思ったときには、もう手遅れである場合が多い」
アンワールが触れた水筒からは、ちゃぽんと水が動く音がした。
こく、とティアは反射的にのどを鳴らす。
こんな話ばかりしていて、さらに渇いてしまった。無意識のうちに喉へと細い指をあてると。
「飲むか?」
アンワールが当たり前のようにそう尋ねてきた。ティアの状態を見抜いたのだろう。
これではまるで、水をねだったようではないか。かあ、と頬を染めながらティアは小さく頷いた。
しかし、実際のところ喉が渇いているのだから仕方がない。お言葉に甘えさせてもらおう。でもやっぱりなんだか申し訳ない。
「あ、うん……でも、いいのかな?」
もじもじとしながら問いかけてみると、アンワールは笑って頷いた。
「ティアならかまわない」
「ありがとう!」
優しい答えに歓声をあげ、差し出された水筒に手を伸ばす。
その大きな丸い水筒は、手に取るとしっかりとした水の重みを伝えてくる。ゆらりと、中で液体が揺らぐ動きがわかる。
「いただきまーす」
ティアは水筒の注ぎ口の栓を取り外すと、上機嫌に唇を寄せた。
水筒を傾け、流れ込んできたものを、んく、と一口飲む。
それは驚くほど冷たく感じられた。もしかしたら、さきほど汲み直したばかりなのだろうか。
あまり飲むのもアンワールに悪いけれど、しかし、喉はまだもう少し欲しいと訴える。咎められないことをいいことに、もう一口、二口とティアは水を求めた。
はふ、と声を漏らし、潤いから口を離し、ティアはアンワールに微笑みかけた。
「ありがとう、アンワール。おいしかったー!」
「もういいのか?」
「うんっ」
感謝の言葉を重ね、水筒を返す。
てっきりもとの場所へと戻されると思ったそれは、そのままアンワールの口へと移動していく。
そして、無造作にごく自然に、慣れた仕草で――アンワールはそれをあおった。
晒された褐色の肌に覆われた喉が、動く。
ティアはそれをみて、あっと口に手を当てた。
間接キス。
「っ!」
自分の脳裏に浮かんだ言葉に、ぼひゅ、とティアは顔を真っ赤にした。
さっきまでティアの口が触れていたところに、どうしてアンワールは躊躇いなく口を寄せられるのだろう。
いや、自分だってそうしたじゃないか。最初に気付けばよかったのに。アンワールの持ち物なのだから、その用途にどおりに彼はなんどもそこに口をつけているはず。水が欲しかったとはいえ、そこまで頭が回らなかった自分が、恥ずかしかった。
恋人同士ならまだしも、自分たちはそうではない。いや、ただの友達ではなくそれ以上というか、ただ決定的な一言がないから恋人未満であるわけで、でも仲はいいはずであって――なんというか、どうしたら。
ぐるぐると混乱してきた頭で、ティアはそんなことを嵐のように考える。
ゆっくりと水を飲んでいたアンワールが、水筒を下ろして腰にさげる。その動きに、はっと我を取り戻したティアの目の前で、アンワールは、ぺろりと唇をひとつ舐めた。
「~~~っ、」
口元を引き結び、泣き出す一歩手前のように眉をさげ、ティアは小さな胸の底で打ち鳴らされる音に耐えた。
何気ないその動作だけで、心臓が破裂してしまいそうだ。
この暑くて暑くてたまらない日に、自分からもっと熱くなっていたら世話はない。
ティアは、アンワールがみていられなくて、俯いて手を握り締めた。
茹りすぎて熱中症にでもなりそうだ。せっかく水を飲ませてもらったのに――と、そこでまた間接キスをしたという事実を噛み締める羽目になり、ティアはぎゅっと目を閉じた。
もう、もう! アンワールだってちょっとくらい気にすればいいのに!
そんなことを八つ当たり気味に考える。
だが、アンワールにしてみれば、水筒のやりとりくらいどうってことはないのだろう。サミアドでだって、同じようなことをしていたのだろう。
自分ばっかりどきどきしてずるい。馬鹿みたいだ。
でもそれも、やはりアンワールに恋しているからだと思えば悪い気もしなくて、ティアはほとほと困り果てた。
「どうした、ティア」
「~~っ、なんでもないっ」
ぶんぶんと大きく頭を振る。きっと、これくらいのことで取り乱す自分が悪い。
「何を怒っている?」
「お、おこってないよ……」
見当はずれなことをいうアンワールに、ティアは小さく肩を落とした。一歩前にでたアンワールから、そっと顔を逸らす。
「ではなぜオレをみない」
「……」
恥ずかしいからです。
そんな少女の心は、少年には届かない。
むぅ、と黙り込んだティアの前で、アンワールが主人の顔色を伺う犬のように、じぃっと純粋なまなざしを向けてくる。
痛い。
あまりにも真っ直ぐすぎて、いたたまれなくなったティアは重ねあった己の手に、さらに力をこめた。
「だって、いま、いまのって、か、か、間接キス……だったし、だからっ」
盛大にどもりながら、だからこうなっていると伝えてみる。
「かんせつきす……」
だが、アンワールは淡々と恥ずかしい単語を反芻した。できればしないでほしかった。
恥ずかしさは少しでも伝わっただろうかと、ちらと視線をあげてみる。その先で、アンワールが至極真面目な顔で大きく頷いた。
「そうか。ティアは口移しのほうがよかったのか」
「っ?!!?!」
なんでそうなるの!
「ち、ちが……そっ、」
そうじゃない。直接的に欲しかったとかそういうことじゃない!
「わかった。今度はそうすることにしよう」
だから、怒らないでくれ、とアンワールがティアの頬を優しい手つきで撫でてくる。
違うー! というティアの切実な言葉は、唇付近で止まったと思ったら、ぺたぺたと喉を這って肺の奥へと戻っていった。
アンワールの手が、暑い季節なのに心地よく、そのぬくもりを遮りたくないと――無意識がそうさせた。
んぐ、とティアが言葉を飲み込んだのを見計らったかのように、アンワールがティアの手をとった。
「ティア、ここは暑い。これから、水辺に涼みにいかないか?」
「う、うん。いいけど……」
いいところをみつけたんだ、と少年らしく笑うアンワールに、ティアは頷くしかできない。
「では、いこう。こっちだ」
ティアの了承を得たアンワールが、さらに笑みを深くして、繋いだ手を引っ張る。
どうやら占い横丁に降りるらしいと、いざなわれながら気付いた瞬間、ひょいとティアの体はアンワールに横抱きにされていた。
「っ、!」
あっと声をあげる間もなく、ティアはアンワールと一緒に空へと飛び出していた。
反射的にその褐色の体にすがりつく。その顔を見上げる。
どこまでも青い空を背景に、少しだけ悪戯っぽく笑っているアンワールの顔が、鮮やかに目に映える。
見当はずれなことをいったと思ったら、こんな風に直球なこともする。アンワールは、ティアにとってほんとうに興味深く、不思議な存在だ。
わずかな浮遊感ののち、重力に引き下ろされる感覚を味わいながら、ティアはふと思う。
アンワールって、『照れる』っていうことあるのかなぁ……?
そんなことを真剣に考える。
砂漠の魔女の策略により自我を失くしていた頃ならいざ知らず。今はそうではない。
いつの日か、せめて今の自分程度にはそういう思いを味わってもらいたいと思うものの、なにをどうすればこの無垢な瞳を持つ少年が、そうなるのか。
とんと検討がつかぬティアは、いつも自分ばかりが振り回されそうだという予感に、ぶるりと身体をひとつ、震わせる。
それを恐れと思ったのか。アンワールの腕が、力強くティアを引き寄せる。
熱い地面が、もうすぐそこに迫っていた。