ものすごい勢いでフランネル城からローアンの街を駆け抜けたティアは、己の家に飛び込むと扉を乱暴に閉めた。
ぜー、はー、と肩で息をしながら扉に寄りかかる。そうやって、脳へと懸命に酸素を送り込みながら考える。
ああもう。次に会ったらどんな顔をすればいいのだろう。なんて言えばいいのだろう。
だが、混乱した思考でまともな答えがでるはずもなく。早々にティアは諦めた。
そして、すっかり乾いてしまった喉を潤そうと、よろよろと歩き出したティアの手を、すっと掬い上げる誰か。思わず視線で手を辿り、腕を辿り――ティアは、その人物を見上げる。
「っ……、ウル……」
「大丈夫ですか? ティア」
そのしれっとした態度に、ティアは頬を引きつらせた。
「だ、だれのせいだと思って……!」
「そうですね。私のせい、でしょうね」
にこっと微笑んだウルに対して、ティアは眩暈を起こす。
なにをぬけぬけとー!
かっと沸騰したティアの脳裏に、ほんの少し前、フランネル城で起きた出来事が蘇る。
時間は、本日の午後半ばへと遡る。
心落ち着かせる紅茶の香りが、ゆっくりと風に乗って流れていく。
華奢なテーブルの上には、ケーキやクッキーが「さあ、食べて」といわんばかりに盛り付けられ、綺麗に切りそろえられたフルーツはみずみずしくて、思わず手を伸ばしたくなる。
給仕をするために控えている小間使いが、優雅な仕草で膝を折って挨拶をしてくる。
美しく整えられたフランネル城庭の片隅に設えられたこの場所へと案内されたティアは、その光景に目を瞬かせた。
「ささ、遠慮せずに座るのじゃ!」
ここまで自ら案内人を務めたドロテアが、無邪気に笑いながら席に着く。ここまで一緒にやってきたティアとシルフィは顔を見合わせた。
「すごいね、さすがはドロテア王女」
「ふぅん、人間のお菓子ね……まあ、たいしたものじゃないんでしょうけど。何事も経験だとお父様もいっていたし」
などといいながらも、シルフィはどこか浮き足立った様子で席へと歩いていく。
実は結構楽しみにしていたんだろうな、と思いってティアは笑いをかみ殺した。無理に居丈高にいわなくてもいいのに。出会った頃よりは丸くなってはいるのだけれど。
ティアは小さく声を転がして、最後に席へと腰を下ろした。
「さて、今日はゆっくりと話そうぞ!」
「はい!」
「ええ」
手を上げてお茶会の開催を告げたドロテアにつられたように、二人も笑った。
『ヴァルド皇子からもらった本を訳せる人材を探してほしい』、というドロテアの頼みを受けたティアが探し出してきたのが、エルフのシルフィであった。
そこでなんとなく繋がりのできたこの三人。
あまり同年代の少女が身近にいなかったせいか、ドロテアはことあるごとに二人へ声をかけてくるようになった。
対して、ティアも明るく気さくに誰とでも仲良くなれる性格もあって、すぐに仲良くなった。
残りのシルフィはそんな二人に引きずられているというのが現状であるが、満更でもないらしく、なんだかんだといっては付き合ってくれている。
そして、今日は三人そろってはじめてのお茶会。
年頃の少女たちは、さえずりあう小鳥のように、可愛らしい声を響かせながらおしゃべりに興じる。
父であるゼノンバード王のこと。
人間にはわからぬエルフの里のこと。
冒険に出かけた先で美しい景色に目を奪われたときのこと。
三者三様の話はとどまることを知らないように、中庭にさざめきを起こす。
「ほおー……、エルフというのはすごいのじゃな!」
「当たり前ですわ。長い時間を生き、人間とはまったく異なる至高の種族ですもの」
ふふん、と鼻をならしたシルフィが、紅茶に口を付けた。そんな彼女に、ドロテアはわずかに身を乗り出す。
「では、シルフィも実はずいぶんと歳をとっておるのかや?」
「……まあ、それなりに」
直球で訊かれれば、それなりに思うこともあるのだろうか。シルフィはやや口ごもった。
「では、その……経験はあるか?」
ぽっと頬を染め、ドロテアがもじもじと小さな声で問いかける。いいたいことがわからずに、シルフィとティアは顔を見合わせた。
「どのような経験でしょうか?」
「ん~……ほれ、恋人同士が、こう……寄り添いあってじゃな、互いの唇を……ああもう! これ以上は恥ずかしゅうていえぬ!」
きゃーっと叫び、顔を覆ったドロテアに、ティアは思った。
そこまで言えば、もう全部言ったも同じことじゃ……。
当然、シルフィも思い当たったらしい。
「キ、キスということですか……? ええと、それは……」
白い肌を染め、しどろもどろになるシルフィに、ドロテアはため息をついた。
「なんじゃ、ないのか……」
うっと言葉に詰まったシルフィをよそに、次にドロテアはティアをみた。
「ティアはどうじゃ? やはりないのか?」
「えっ」
突然話題を振られ、ティアは一瞬息を呑んだあと。
かーっと、顔を真っ赤に染めた。
その反応に、二人の少女がどよめいた。
「え、ちょっと待って! ティア、あんたキスしたことあるの?!」
「ちょ、シルフィ! 声が大きいよっ」
詰め寄るような勢いのシルフィに対し、あわあわとしながらティアは言い返す。
「なんじゃと! ティ、ティア、おぬし、キ、キ、キ、キスしたことがあるのか!」
「ドロテア王女も、やーめーてー!」
真っ赤になった耳を手で押さえながら、いやいやと首をふるティアに、興味津々といった様子で二人はさらに追い討ちをかける。
「ど、どこの誰なのじゃっ? わらわの知っておる者か? はっ、まさかヴァルド皇子ではあるまいな!」
「違う、違うっ」
「そ、そうか、ならばよい」
自分の想像を即座に否定されて、ドロテアはほっと息をつく。
「わ、私だってまだなのに……!」
ぶつぶつとわずかに聞き取れるくらいの小さな声で、シルフィは悔しげに呟いている。
見た目以上に歳をとっているわりに、そういったことに縁がないのか。
人間より長い時間を生きているシルフィだが、経験はないらしい。
「では誰が相手なのじゃ! どんな感じなのじゃ?! これ、恥ずかしがらずにいわぬか!」
「ふ、ふん! やっぱり人間よね、まあ短い時間しか生きられないから恋に急ぐのは仕方ないのかもしれないけど」
「それにしてもいいのう、うらやましいのう。ああ……! わらわもいつかヴァルド様と……!」
ぽーっとした様子で、はじめてのキスに思いを馳せている夢見る少女ことドロテアと、つんとそっぽを向いてしまったシルフィを前に、ティアは縮こまる。
というか、訊かれたって言えるわけない。恥ずかしい。
そもそも、相手が――。
「どうしたのですか、ティア。せっかくですから教えて差し上げたらよろしいでしょう?」
「っ!」
突如、耳元で聞こえた声に、ティアは身体を強張らせた。そして、そーっと視線だけを送って、いつの間にか傍らに立っていたウルを見上げた。
鞄に入れている預言書から抜け出してきたのだろう。色を含んで細まるに瞳に、背筋が粟立つ。
ティアが腰掛けた椅子の背もたれに片手をかけ、わずかに身をかがめたウルが覗き込んでくる。
「ね?」
「ね、じゃないよ、もうっ」
ぽそぽそと二人には聞こえぬような小ささで、ティアはウルを嗜めた。
「つれないことをいわないでください。せっかくの機会です。私が恋人だと言ってください」
「もし、それで紹介してっていわれたらどうするの……? 想像の中の恋人とか思われたら、私、嫌だもん」
そう、一番の問題はそこだ。恥ずかしいのもあるけれど、もしその恋人を連れて来いといわれても無理なのだ。そこにいるけど、精霊であるウルはよほど霊感が強くないとみえないのだから。
言うことは構わないけれど、架空の存在としてウルが扱われてしまったら。いるのに、いないなんて言われてしまったら。そう思うだけで、ティアは悲しくなってしまう。
ふむ、とウルは顎に手を当てた。そして残念そうに呟く。
「まあ、確かにそうですね。ああ、これほど精霊の身であることが口惜しいこともありません」
そんなに悔しそうにいわなくてもいいのに。
ティアがそう思ったとき、しかし、とウルは笑った。
「いいこともありますけどね」
どんなこと? と、小さな声で問いかけようとティアが僅かに顔を上げた、次の瞬間。
ちゅ、と吸い付いてきた薄い唇に、ティアは目を見開いて凍りついた。
「こんなことをしても――誰にも、見咎められないということでしょう?」
もう一度、驚愕に固まっているティアへと口づけを落として、ウルはすっと身を引いた。ティアの髪をさらりと梳いて、微笑む。
「ただ、見せ付けられないという不満もありますがね」
姿をみられないことをいいことに、人前で口付けてきたウルの綺麗な笑顔を、ぽかんと見上げていたティアが、ぷるぷると震えだす。
そして。
「ウルー!!!!」
ばぁん、とテーブルを叩いて立ち上がったティアの剣幕に、ドロテアとシルフィがびくっと身体を跳ねさせた。
あ。
その様子に、ティアは再度固まった。
「ちょ、急にどうしたの、あんた……」
「す、すまぬ、そんなに訊かれたくなかったかの?」
自分たちに対して怒りを覚えたと思ったのか、シルフィが目を丸くして、ドロテアはおろおろとティアを見つめた。
どっとティアに嫌な汗が噴出す。これでは挙動不審者もいいところである。
「ち、違うの……あ、あの、その、」
もう、頭の中が混乱をきたして何も考えられない。
じっとティアを見つめる二対の瞳が、痛い。耐えられない。うまい言い訳も思いつかず、だらだらと汗を流したティアは、鞄を引っつかんで駆け出した。
「う、うわぁぁん! ごめんなさいー!」
「ああっ!? ティア! どこへいくのじゃ!?」
「っていうか、ウルって誰なのよ!」
ドロテアとシルフィの声を聞きながら、こうしてティアは中庭から逃亡したのであった。
「もう、もう! いくら姿がみえないからって……友達の前であんなことするなんて……!」
「私との口付けは嫌だということですか?」
真顔でそういうことを訊ねるものではない。
「人前であんなことされれば、恥ずかしいに決まってるでしょっ」
すっかり噴火してしまったティアを前に、ウルは困ったように眉を下げた。
「ティア」
いつの間にやら、押し戻すように扉へ追い詰められていたティアは、長い腕で囲い込むウルを見上げながら、胸元においた指先を僅かに動かした。
左右で色の違う瞳は、目の前でかすかに震える獲物を映しこみ、その奥底に甘い光をちらつかせている。
あ、まずい。そう思った僅かなひと時の後。そのまま、押し付けられて食べられる。
一見冷静なウルからは考えられないような熱さに眩暈を起こしながら、ティアはぼんやりと、どうしたらいいのか考える。もちろん答えなんて出ないわけだが。
ティアは、思ってもみなかった。
こんなにも、ウルは手がはやい上に、独占欲が強いなど!
つらつらと思い出す。
想いの端を結び合ったその日に優しくキスされたこと。
それは別にいい。ティアだって嬉しかった。
そして、一週間もたたないうちに、もっと深いキスを教えられたこと。
あれよあれよと心の準備もできぬうちに、流されて。気付けば一ヶ月後には、ともにベッドでまどろむことが当たり前になっていたこと。
あげくにそこまでしたくせに、友人たちと仲良くしているだけでもちょっかいをだしてくる。たとえそれが男でも、女でも、だ。
今日は特に酷かった。
ウルの逃げられない檻のような腕の中で、ティアは喘ぐ。
自分を翻弄する熱が離れていくのを感じて、ティアがぼんやりと薄く視界を開ければ、先ほどまで舌先を絡め取っていたウルが小さく笑った。
綺麗な微笑に、脳髄が沸き立つ。
だが、堪えなければ。ぐっと拳を握り締める。いつまでも、こんなままでいいわけがない。
満足そうな笑みを浮かべるウルを睨み付け、ティアは真っ赤な顔で口を引き結んだ。
「そんなに怒らないでください。ね、ティア?」
口付けくらい恋人同士ならば当たり前でしょう、という言葉はもっともらしく聞こえる。
でも。
あんなことをされた怒りは、そんなことではおさまらない。
「や! もう、ウルってば絶対反省なんてしてないもん! 今日という今日は、絶対許してあげないんだからっ」
精一杯強がって、もう一度といわんばかりに顔を寄せてきたウルを、ティアは腕を突っ張って押しのけた。
「ティア……」
だめだ、だめだ。そんな捨てられた子犬みたいな目をしたってだめだ。
「とにかく、今日はもうキスしないもん!」
「そうですか、わかりました」
ティアの言葉に、ウルは素直に頷いた。おや、と思ったティアは甘い。
「では明日ならいいのですね。今日のところはこれで我慢しましょう」
「っ……!」
人の揚げ足をとるようなウルの発言に、ティアは頬を引きつらせた。
そして。
「ウ、ウルのばかぁーーー!」
ティアは本日二度目、精一杯の声を張り上げた。
結局、ウルにティアが敵うはずもなく。
それでも、何があっても離れられないこの二人。
これはこれで、きっと――幸せの、ひとつのかたち。