「……」
むすーっとした顔で、サトはやや乱暴にヒツジの毛を出荷箱に突っ込んだ。野菜や卵ならこうはいかないが、羊毛ならまだ許されるだろう。
そうして、深く溜息をつく。
自分のところで生産したものに八つ当たりするなんて、最低だ。反省。
きー! と、叫びだしたくなるのを堪えながら、黙々と体を動かす。もってきた出荷物を、今度はつとめて穏やかに箱に収めていく。
だが、感情はまだささくれだったままだ。
それもこれも、全部キリクが悪いのだ。
あんな、あんな意地悪する人だとは思ってなかった。
つい先日ここであったことを思い出し、またサトは眉間に皺を寄せた。手に無駄に力がはいりそうになるのを堪える。
あれ以来、逃げることをやめたサトは、そのかわりキリクと口をきかなくなった。
警戒し、威嚇されているとわかっているのか、キリクは何か言いたげな顔をみせるものの、つんとそっぽを向くとそれ以上はなにも言ってこなかった。
いやまあ、自分に非が全くないのかと問われれば、サトは口を真一文字に結んで、黙秘するしかなくなるわけだが、だからって――キリクのあれは、許されることじゃない。
ぱたん、と出荷箱の蓋を閉じる。
さて、これで今日の出荷はおしまいだ。
農場にもどって、種メーカーの様子でもみようと、サトは歩き出す。
「あ、」
その先に、日の光に銀の髪を透かした、長身の影がひとつあった。
くすくすと、音楽的な笑い声が響いてくる。
「やあ、サト」
「ミハイルさん!」
役場に滞在している音楽家に、サトは小走りで近寄った。にこり、と優雅さの滲む笑顔に、自然とサトも微笑んだ。
「なにかあったのかい?」
「えっ?!」
どうして、とそう思ったのが顔に出ていたのか、にっこりとミハイルが笑う。
「いや、出荷の様子をみさせてもらったけど、あまり楽しそうじゃなかったからね」
「……」 うわぁ、とサトは唸った。まさか見られていたとは。恥ずかしい。
「キミはいつも幸せそうに、楽しそうにしているからね。それこそ、大地の恵を皆に分け与える女神のように、ね」
「やだもう」
ミハイルのいいように、サトはくすぐったそうに首をすくめた。目の前の音楽家は、ときおり詩的な言葉を並べて褒めてくれるのだが、そういうことに慣れていないので、気恥ずかしくなる。
「サト。よかったら、今からオレとデートしないか?」
「え?」
思いがけない言葉に、サトは目を瞬かせた。デート、とは。これまで、散歩でもしないかと誘われて、そのまま一緒に遊んだことはあったけれど、こんなふうに真正面から言われることはなかったから、驚いてしまう。
だが、ミハイルはとくに気負った風もなく、にこにこと笑っている。
「オレでよかったら、キミの話をきくよ」
ああ、そういうことか、と。サトは吐息まじりに、納得の声を漏らした。
どうやらミハイルは、心配してこんなことをいってくれているらしい。
「……うん。いきます」
そんな風に判断したサトは、わずかな沈黙のあと笑い返し、そして頷いた。心遣いが嬉しかった。
じゃあいこうか、と歩き出すミハイルに導かれるように、肩を並べる。静かなところの好きな彼は、山か、川のほとりに行くのだろう。
他愛のないことを話しながら、サトは青い空を仰ぎみる。
誰かに話して、この空のように、すっきりとしたかった。
「でね! そんなことがあって……!」
ぎりぎりと、歯噛みするような勢いで、サトは傍らに立つ青年に愚痴を零す。
晴れ渡るようにすっきりどころか、泥沼のごとくおどろおどろしく身の上話を、ミハイルは合相槌をうちながら聞いてくれた。
まろやかな水音が心地よい川辺で、サトは岩に腰掛け、ミハイルはそのすぐそばに立っている。
吹く川風に、短い髪の先をそよと揺らして、ミハイルが微笑む。
「なるほど。だからキミの声が少し木枯しのように荒れていた、というわけか」
「だって、そんなこというなんて、意地悪だと思いません?! それに、どれだけ自信満々なんだっていう話ですよ!」
「そうだね」
うんうんと、サトの言葉を否定することなく、聞き役に徹してくれるミハイルに、サトはほっと息をついた。ここまでいったら、さすがに落ち着いた。もやもやが薄れた。
誰にもいえないと思っていたけれど――誰かに話せば、こんなにすっきりするものなんだなあ――サトは、そんなことを思った。
「サト」
あれ?
さきほどよりもずっと近い位置からの声に、サトはつつかれたように顔をあげる。
す、と落ちてくる影。いつの間に、ミハイルはこんな近くに来ていたのだろう。
瞳を覗き込まれて、サトは「んく、」と妙な声を漏らした。
「オレなら、キミにそんなことをいわせないよ?」
ええ、ええ。きっとミハイルさんなら、そうでしょうとも。
そんなふうに軽く同意したいような、してはいけないような気がして、サトが反応できずに身を固めたとき。
「オレと、付き合わないか」
もう一歩、心に踏み入るように瞳を覗き込んだミハイルが、そう言った。サトは、ぽかんと口をあける。
「え、え……? じょ、」
「冗談じゃないよ」
冗談ですよね? という言葉を先取りするように、ミハイルが重ねてくる。
穏やかな微笑を向けられて、頬が熱を帯びた。
「っ、」
どうしようどうしよう。
ミハイルのことは嫌いじゃない。ほんとうだ。でもでも、そういう風にみたことなんてなかった。
だって、胸の奥がざわつかない。甘く痺れるような刺激がない。抱きしめたいけれど、自分じゃなくなりそうな怖さのせいでそうできない、あんな未知の感覚が、ない。
はた、とサトは思い至る。
あれ? じゃあ、私は誰のことをそういう風に見ていたんだろう――?
さらりと、意識の端を掠めるのは、背の高い青年の姿。栗色の髪、凛々しい目元。
いろんな種類の驚きに、身を固め、息を詰め、目を見開いたサトに、影がかかる。
高い背をさらに丸め、眼鏡をゆっくりとはずしながら、ミハイルが近づいてくる。整った顔が、距離に応じてぼやけていく。吐息が混じるくらいに、互いが近づいた瞬間。
「きゃあっ?!」
ぐんと後ろに引かれ、サトは悲鳴をあげた。腰掛けていた岩から落ちることを恐れ、指先がなにもない宙をつかむように自然と伸びた。
が、サトは地面に背を打ち付けることはなく。
暖かく、それでいてしっかりとした何かに包み込まれた。伸びた指が、ぎゅっと大きな手につかまれて、引き寄せられる。
「あ、れ……?」
馬の早駆けによく似た律動を刻む心臓に胸打たれながら、サトは視線を背後へと送った。
「こんにちは」
場違いにも思える穏やかなミハイルの挨拶を聞きながら、目を見開く。切れ長の瞳を厳しく、不機嫌そうに細めているのは。
「キ、キリ……!」
ク、と最後の音を発する前に、
「悪いが、サトはオレとつきあうことになってんだ」
サトを抱きとめ平然と――いや、少しだけ苛立ち混じりにキリクは言った。
「……は?!」
いやいや、いつの間に。いやいや、何言ってるの。
「ちょ、ちょっとキリクさん!」
とんでもない発言に、慌てて身をよじるが、しっかりと筋肉のついた腕は、サトの腰を絡め取ったまま、びくともしない。
「だからこいつにちょっかいださないでくれ。いくぞ、サト」
「きゃあっ!」
懸命にもがいていたのに、次の瞬間、ひょいと荷物のように担ぎ上げられて、サトは目を白黒させた。なんだか、さきほどから悲鳴ばかりあげているような気がする。
眼鏡をかけなおすミハイルが、周囲の景色とともにすごい勢いで遠ざかっていく。
「あ、あの……! ミ、ミハイルさ……!」
いろいろと話をしていたのを勝手に中断される形となったサトは、呼びかける。ごめんなさい、といいかけたとき。
くす、と笑ったと思ったら、音を伴わずミハイルの唇が動いた。
はっきりとわかりやすく動いたそれは、とても読み取りやすいものだった。
『がんばって』って――何を頑張るのよ?!!?!
キリクがサトを担いだまま、山道へとあがる。汗をかきつつ、顔を真っ赤にして、サトは広い背を何度も叩く。
「おーろーしーてー!」
「降ろしたら逃げるだろうが!」
「当たり前でしょ?!」
「だったら降ろすわけないだろ!」
「うわぁぁん、人攫いー!」
「人聞きの悪いこというな!」
喧々囂々と静かな山に騒音を撒き散らしながら、サトは自分の足を使わずに山登りをするという、滅多にない経験をするはめになった。
そのまま連れてこられたのは、山の頂上に続く道を少し右に入った、女神の泉だった。
ここにくるまでに、サトは騒ぎすぎたせいで、幾分ぐったりとしてしまったが、人一人を担いできたというのにキリクの息はまったく乱れていない。
泉の前でようやく降ろされたサトは、ぎゅっと胸元で手を握り締めた。
「なんで、なんで……」
なんでこんなことしたの。なんであの場所にきたの。なんで――あんなこと言ったの。
サトのいくつもの疑問は、「なんで」という言葉にしかならない。
「ん、ああ……」
キリクが前髪をかきあげる。疑問の中身はわからずとも
「ディルカにきいた。サトがデートしてるぞ、いいのかよ、ってな」
ディルカー!
もはや敬称をつけることなく、サトは気さくで明るい郵便配達の青年の名を、心の中で叫んだ。
もう絶対に、ご近所さんだからといって、料理を振舞ったりしないと心に誓う。
ぎりぎりと歯噛みしていると、すい、と影が近づく。
「サト」
いつもキリクは自分のことをそう呼んでいるはずなのに、体の芯が震える。思わず、寄られた分だけ、後退しようとした。だけど、無理だった。
いつの間にか、腕に優しくキリクの手が重なっている。大きくて暖かくて。近づいてくるのを阻止するように、サトは「いや」とキリクの胸に手のひらを押し当てた。
「やだ、もう! キリクさん最低最低最低っ! なんであんなこといったの?!」
顔を俯かせ、サトはキリクを責めた。
「なんでって、好きだったら付き合うのが当たり前だろ。サトが、オレのこと好きって認めればいいだけだ」
ひくっとサトは喉を震わせた。どうやら、キリクは、あの話を蒸し返すつもりらしい。
「それとも、あいつのことのほうが好きになったのか?」
「?!」
わずかに低くなった声に驚いて、サトが顔をあげると真剣な顔がそこにあった。怖いくらいだったそれが、ふいに色っぽく緩む。
「そんなことないだろ? オレが好きだよな」
「っ~~~!」
この、この男は!
あまりにも自信たっぷりなのを崩してやりたくて、反射的にひっぱたこうと手を振り上げようとするが、それはやすやすと捕えられた。
「離して!」
「嫌だ」
「なんで!?」
今日何度目かわからぬ言葉に、キリクが応える。
「好きだから」
その音に、それ以外のものが遠ざけられる、そんな感覚にサトは陥った。ただ、キリクの声しか聞こえない。湧き出でる泉の音も、梢を揺らす風の音も、あっというまにどこかに追いやられた。
「好きだぜ」
する、とキリクの手がサトの頬を包み込むように触れてくる。
「サトのこと、好きだ」
真剣な眼差しと声に、偽りなんて見えない。だけど。
「……うそ」
サトは、ついついそういった。それ以外に、何を言えばいい。
それに、綺麗な深い色の瞳が、わずかに翳りを帯びる。だが、それはすぐに打ち払われた。さきほどよりもなお強い光が、屈せぬ証として瞳の奥底に灯るのがわかる。
怖くなったサトは、まつげを伏せた。
「だって、私たち友達じゃない……!」
搾り出した声は、凍えたように震えていた。
だって、あの花見の席で、そういったのはキリクだ。そうして、自分もまたそう思ってきた。
そう、思い込んできた。それをいまさら覆すのか。
「ああ。友達だ」
ずきり、と胸が痛む。自分の言葉を肯定されただけなのに。痛い。
「でもオレは、恋人にもなりたいって思っちまった」
頭上から降り注ぐ、さやかな雨によく似た愛の言葉が、鼓膜をくすぐる。肌が、ざわつく。
「サトに大嫌いって言われたとき、すげえ傷ついた。でも、あのときにわかっちまったんだ」
「……あ!」
サトは、弾かれたように顔をあげた。
脳裏に、山のトンネル前での出来事が蘇る。
傷つけられたのは、自分だとばかり思っていた。でも、同じくらいかそれ以上に、自分はキリクを傷つけていたと、初めて知った。
ごめんなさいという言葉が、胸と喉にひっかかる。うまく、出てこない。
ひどく泣きたくて、歪めた視界の中心に、優しく微笑するキリクがいる。だけど余裕がないこともまた、わかるような表情に、きゅうと胸が締め付けられる。 「サトは?」
静かに、キリクが問いかける。
「サトは、嫌か? オレとは、友達のままがいいか?」
「……ううん」
ふるり、頭を振った。その拍子に、目頭にたまっていた熱い雫が、振り落とされた。
頬にあるキリクの手のひらに、擦り寄る。少しだけ荒れているけれど、温かくて心が落ち着く。サトは瞳を閉じた。
不思議と、自分たちの間に確かにある境目が感じとれるような気がした。
「私、」
そこに向って、ゆっくりと近づく。心を、近づけていく。確かなものは、キリクの言葉と、ぬくもりだった。
「私……友達以上に、なってもいい」
そうして、サトはこえた。こたえた。
それより先にこえていたキリクに、寄り添うために。
驚くほど素直に言えたのは、やはりキリクが好きだからなのだろう。あの日、キリクによって暴かれたとおり。ただ、認めぬことに意地をはっていただけ。キリクの気持ちがわからなかったから、不安だっただけ。
どこか他人事のように、自分の恋を自覚したことが、おかしくて。サトは小さく微笑んだ。
「――そっか」
ほ、と安堵の息とともに、そんな声が聞こえた。ほんの少しだけ瞼をあげる。嬉しそうに笑う、子供のように煌めく空気をまとったキリクがいる。
ちゅ、とキリクの唇が触れてくる。思わず、びくり、と体が震えた。怖かったからじゃない、ちょっと驚いただけ。だって、胸には嬉しさしかないから。
それを伝えたくて、サトはお返しするようにキリクの頬に唇で触れた。
離れると、みたことない顔をしているキリクがいたが、それはすぐに笑みに崩れた。
頬の手が離れる。あ、と思ったら、それはサトの体を引き寄せていた。ぎゅっと力強く抱きしめられて、心臓がまたひとつ大きく鳴った。
そっとキリクの背に腕を回すと、すり、と頬が寄せられた。
「なんかさ、アヤメさんのみたて、間違ってなかったよな」
「うん、そうかも」
ふふっ、とサトは声を漏らした。
「それに、あのときからだもん、おかしくなっちゃったの」
そうだ。あのときから。
あのとき、桜の下でみつめあったときから。
「それまで、どきどきなんてしなかったのに!」
サトは、明るく笑いながらそういった。キリクもまた、同じように笑ってくれる。
「オレも!」
不思議なものだと、顔を見合わせて笑いあう。それが、ふいに途切れる。
「……こんなに可愛いって、どうしてわかんなかったのかが、もうわかんねーよ」
見たことも聞いたこともない顔と声で、キリクがそんなことをいうものだから。
「……キリクさんが、へんなこといってる」
悪いものでも食べたのかと、ついサトは眉間に皺を寄せた。眉をわずかに歪めたキリクが、ため息をつく。
「おまえなあ、こういうときは口説いてるっていえよ」
「え、そうなの?!」
「まったく……おまえらしいよ」
しょうがねえな、と。そんなこと良く知ってるけれどといわんばかりの、柔らかな苦笑。
そんな、これまでとなんら変わらぬやりとりと軽い口調に、サトは、くすくすと笑った。
「なんか、友達を抜け出すには、まだまだかかりそうかも?」
ね、キリクさん――と言いかけて、顔をわずかに上向けた傾げたとき。
真顔のキリクが、ずいと顔を近づけた。
息を飲む間もなく、視界がぼやける。キリクが、近すぎるせい。
「――友達は、こんなことしないだろ」
触れ合った唇がわずかに離れ、キリクがささやくように言う。
「……」
そっと熱のともった唇を指先で押さえながら、サトは小さく頷いた。
初めてだったのに。
ぼんやりと、灯った熱をもてあますように指先を動かす。まともに視線をあげられなくて、もじもじとしてしまう。恥ずかしいけど、キリクのそばを離れるのも嫌で、動けない。
「ほ、ほら、そろそろいこうぜ」
キリクも気恥ずかしいのか、早口にそういって、離れていく。
「……うん、うん……」
そう、声を返してみるものの、なんだか足が動かない。歩いていくキリクを、追いかけたいのに。
「キリク、さん」
もしかしたら聞こえないかもというくらいの声で、サトはその名を呼ぶ。世界で、一番意味のある名前になったばかりの、その音を紡ぐ。
キリクの足が止まる。ほんの少し先で、ゆっくりと振り返る大きな体。キリクの瞳と視線が絡む。
あれだけ言ってくれた。こうして行動でも示してくれた。ならば。
いまそこにいるキリクという存在に捧げる言葉は、ひとつだけだった。
「すき」
子供のように素朴なサトの言葉に、キリクが目を見開く。
自分がこの青年に恋をしていると、ありったけの想いで告白してしまったようなものだと気付いたサトは、真っ赤になって俯いた。
「……反則だろ、それ」
ばりばりと頭をかきながら、早足で近づいてきたキリクの手が伸びてくる。ぐい、と引き寄せられる。
夕陽よりも真っ赤な顔をして、キリクが覗き込んでくる。
「オレも、サトのこと――すごく、好きだからな。ずっと、ずっとだ」
「――うん。わたしも、ずっと……」
そういって、目を閉じる。
ゆっくりと交わした二度目のキスは、二人の涙で、少しだけしょっぱかった。