午後から行われていた、ヒーロー基礎学の授業が終わった。
一般教養と性質の異なるこの授業は、ヒーローに必要な咄嗟の判断力、無謀ではない作戦の立案、他者との連携、そして、不可能を可能にする困難に立ち向かう勇気――そういったものを養うことを目的とする。
ゆえに、実践的な戦闘訓練が多く、よく身体を動かすことになる。
それは、成長期途中の男子高校生にとっては、いささかどころではないエネルギーを消費するわけで。
シャワーで汗を流したヒーロー科一年生の爆豪勝己は、教室へと戻りながら「腹が減ったな」と、わりと平和なことを考えていた。
今日の模擬戦のパートナーは切島だったため、とてもやりやすかった。おかげで、気分がいい。しかし腹は減った。
切島の「硬化」という個性と、勝己の「爆破」という個性は非常に相性がよい。こうした戦闘訓練では、とくに効果的である。
なにしろ、味方への損害を考えずに済む。どれだけ爆破をしようが、切島ならば、ある程度まで関係ない。
陽動役を切島に任せたことで、相手のペアを制圧するのは楽だった。
このあとのHRを終えたら、なにか食ってから帰るか。
勝己は、脳裏に寮での夕食前に食べても差し支えなさそうなものをいくつか思い浮かべながら、なんだか騒がしい教室の大きな扉をあけた。
そして勢いよく閉めた。
「……?」
いつも自然によっている眉間の皺が、さらに寄るのが自分でもわかる。
意識が拒否反応を示している。警報に似た、赤いなにかが、脳内で明滅を繰り返す。
何にって? 今、開け放った扉の向こうに広がっていた光景に、だ。
「…………?」
もしかしてなにかの見間違いだったんじゃねーのか。いや、そうに違いない。
勝己は、思わず自分の目を疑うが、視力は子供の頃からずっと良いし、目の病気も患ってはいない。
相変わらず扉の向こうは、うるさい。大騒ぎだ。
最初は、個性的なクラスメイトが、またくだらない馬鹿話でもしているのだろうと思っていたのに。
ついさきほど目撃した教室内の様相に、考えることを勝己の脳が拒否している。
――あけるべきか。あけざるべきか。
まさか、こんなところで究極の選択を迫られることになろうとは。
勝己としては、HRをすっとばして寮に帰ってやりたい気持ちでいっぱいである。
だが、あいにくと鞄は自席に置きっぱなし。明日提出の課題も、机にしまいっぱなし。
それに、HRを特段の理由なく欠席すれば、担任の相澤に容赦なく減点対象とされることは、想像に難くない。
万事休す。
そんな言葉が脳裏を過ぎった。
いやまて、職員室に行って気分が悪いから先に帰ると正直に言えばいいんじゃねえのか?
別に嘘をつくわけではない。さきほどの光景に、間違いなく勝己は気分が悪くなったのだから。
ちらりと、みみっちい思考をめぐらせて、勝己が半歩足を下げた次の瞬間。
目の前の扉が勢いよくひらかれた。
「爆豪くん!」
「よるんじゃねぇ! 麗日ァ!」
教室から飛び出してきた、愛らしい丸い顔をした少女から距離をとるため、勝己は大きく飛び退く。
どうやら、さきほど扉を開いた一瞬に、麗日に目撃されていたらしい。うかつだった。
そして、勝己は麗日に纏わりついた、とある「ちいさなもの」を指差しながら叫ぶ。
「ンだ、それは! きしょくわりぃ!」
ぞぞぞ、と肌に鳥肌がたつ。空っぽのはずの胃から、なにかが喉元まで逆流してきそうだ。口元を押さえたくなるのを、プライドだけで堪えた。
しかし、目の前にいる少女は現状に混乱しているのか、勝己の様子に気づく気配はない。ぐいぐいと、勝己の制止をまるっと無視して、近づいてくる。
「きいて! デクくんが分解されたの!」
「あ!?」
「だから! 分解されたんやって! デクくんが!」
ほら! と差し出されたのは、二頭身の人形――ではなかった。
よく見知ったクソ腹の立つ幼馴染の緑谷出久、そのものであった。
もさもさの髪に覆われた大きな頭、零れ落ちそうな大きな緑色の瞳。そばかすは変わらず、ふっくらとした頬に乗っている。丸っこい胴体に、ちょこんとついた小さな手足。ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、ゆっくりとした瞬きを繰り返している。
さきほどみた、「教室に溢れかえる小さな緑谷出久たち」という、この世の終わりのような光景は、真実であったらしい。
なんでだ。どうしてこうなった。ここは地獄か。
「――ふざけんじゃねえええええ!」
天に向かって吠える勝己の目の前で、女子の手の平に乗れるくらいの小ささになった緑谷出久が、「かっちゃん!」と呑気に笑って手を振った。
教室に踏み込むのは気持ち悪くてしょうがないため、廊下でことの次第を一通りきいた勝己は、口元を引きつらせた。
「クソモブの個性にひっかかって、こうなっただと……?」
ヒーロー基礎学の授業が終わり、いつものとおり友人と連れ立って校舎に戻ってきた出久は、サポート科の三年生の実験に巻き込まれたらしい。
というか、被害を受けそうになった普通科の生徒を庇ったのだという。後先考えず飛び出すあたり、出久らしいといえば出久らしい。
「うん、そうなんよ……」
しゅん、と肩を落とす麗日の両肩には、小さな出久が二匹乗っている。いや、これでも一応、二人と数えるべきなのだろうだろうか。
そのほかにも、腕の中に一人抱えられている。さきほど、麗日の手の平から勝己へと挨拶をしてきた個体である。
出久がもとにもどったら、真っ赤になって挙動不審になり、南米まで続くような穴を掘って消えていきそうな状況だ。
しかしながら、小さな出久たちは、思春期特有の男女間に発生する羞恥心が、どうやら薄いらしい。
なんでもない顔をして、口々に麗日を褒めたりなんだりしている。自由か。
ちなみに腕にいる個体は眠くなってきたらしく、うつらうつらと舟を漕いでいる。馬鹿か。
「どうやらね、クラスみんなの個性に興味津々みたいで」
麗日の言葉に促された勝己は、視線を開け放たれた扉の奥へと向けた。
瞳を動かし教室内を見回せば、数に多少の差はあれど、小さな出久がクラスメイト全員にくっついているのがみえた。
ヒーローオタクの気質全開で質問をしていたり、どこにそんなものがあったのか知らないが、小さなノートにメモをとったりしている。とにかく、きゃいきゃいとやかましく、鬱陶しい。
「身体と精神、どっちも『分解』されちゃったみたいで、それぞれに意思はあるんやけど、いつものデクくんとは、どうも違うんよ」
その数、ざっと百ほどはいるだろうか。
無性生殖をする単細胞生物の、爆発的な繁殖をみてしまったような気分である。
さっさと環境悪化で淘汰されて消えちまえ。
勝己はそう思うのだが、クラスメイトたちは違うらしい。
「なあなあ! この緑谷って、水かけると増えたりしそうだな!」
もぎもぎの個性ってすごいよね、強いよね! と纏わりつかれて得意げな顔をしていた峰田が、ふと思いついたようにそんなことをいう。
そのすぐ近くで、小さな出久に請われるままに肘からテープの個性をみせてやっていた瀬呂が、頬をひきつらせた。
「え、なんだよ、怖いこというなよ! 想像しちまっただろ!」
そんな二人の会話をききつけた轟が、「おっ」という顔をする。
そして、半身から氷を生み出し、それに向かって右手をかざす。どうやら炎で溶かすつもりのようである。
「待ちたまえ轟くん! 緑谷くんは増えるワカメじゃないぞ!? 水に濡れて風邪でもひいたらどうするんだ!」
なにやら不穏な動きをみせていることを見咎めたらしい飯田からの指摘に、轟は色の違う両目をきょとんと瞬かせた。
「お湯にすれば大丈夫じゃねぇか?」
「お風呂ということか……。なるほどそれならば……! いやしかし、浴槽ではこの小さな緑谷くんでは溺れてしまう恐れがある!」
「じゃあ、八百万にティーカップを創ってもらう」
「ふむ。それならば、ほどよい大きさだし溺れる心配はないな!」
「な」
こいつらの会話には突っ込み役が必須なんじゃねえの、と勝己は真顔で思った。
ほうっておくと際限なくアホなことをしでかしそうである、真面目な顔のままで。
一方、話題に出た八百万は、小さな出久を二人抱えたまま、真剣な顔をして考え込んでいる。轟と飯田の会話も、聞こえていないようだ。
小さな出久たちは、彼女の豊かな胸に背をあずけながら、創造という個性について楽しそうに考察しあっている。
これもまた、もとにもどったら、出久が鼻からの出血多量で死にそうな光景であった。
そして、八百万は困ったような表情で耳郎に話しかけた。
「あの、檻と籠なら、どちらを用意したほうがよろしいと思われますか? それとも飼育用水槽とかのほうがよろしいでしょうか?」
どうやら、小さな出久たちをいれておくものを創りだそうとしているらしい。
「いやいや、それだと完全に動物扱いじゃん。それってどうなの?」
「ではドールハウスはいかがでしょう! 緑谷さんにぴったりのものをおつくりしますわ! 洋風がよろしいかしら、それとも和風でしょうか!」
「……楽しそうだね」
耳から伸ばしたイヤホンジャックで、群がる小さな出久を軽くあしらいながら、耳郎が呆れた様子で突っ込みを入れている。
圧倒的カオス――そんな言葉が、勝己の脳裏に浮かんで消えた。
口元を引きつらせながら、遠い目をしている勝己に対し、麗日はおかまいなしに状況説明を続けてくる。
「とりあえずね、双子のお姉さんが『結合』っていう個性をもっとるんやって」
うりうりと、肩にいる小さな出久の頭を指先で撫でながら、麗日は言う。
「その人がきてくれたら、すぐになおせるらしいんやけど、課外活動で開発関係の会社にでかけてて、戻ってくるのに時間がかかるみたいで」
現在、担任の相澤が連絡をとったうえで迎えにいっているらしく、あとは彼女の到着を待つしかない。
それまでは、分解されて小さくなった出久の面倒を、クラスメイト全員でみていなければならないのだという。
なにしろ数が数である。一人では、とても手が回らないだろう。それは、わかる。わかるのだが。
「……他に手はねえのか」
あんな気色の悪いデクの面倒をみるだ? そんなクソな事態に巻き込まれるなんざごめんだ!
爆豪勝己、心からの願いであった。
しかしながら、現実は残酷なものである。
「時間経過でも、なおるっていう話みたいやけど……」
「どんくらいかかんだよ」
「いままで人間相手に個性を使ったことないから、わからん、て」
しょんぼりと、まるで自分がそうなってしまったかのように眉を下げて悲しそうな顔をする麗日をみて、ほんとうにどうしようもない事態になっているのだと、勝己は理解したくないが理解した。
だからといって、素直に従う勝己ではない。
「やってられるか! 俺は帰る! あとはてめぇらでなんとかしとけ!」
「えっ、デクくんのこと心配じゃないん?!」
ぎょっと目を見開いた麗日が伸ばしてきた手を、勝己は無慈悲に振り払う。
「誰が心配するか!」
「まって、帰らないで手伝って!」
担任の相澤がいないのならば好都合。さっさと自席から鞄と課題を回収し、寮に帰ってやる。
そう思う勝己に麗日が追いすがってくる。冗談ではない。絶対に逃げ切ってやる!
「だー! っとによオ! 面倒ごとばっか起こしやがって、このクソナードが!」
勝己が叫びながら足を一歩踏み出し教室にはいると、それまでクラスメイトたちにまとわりついていた小さな出久たちが、ぴたりと動きを止めた。
いきなり教室内を満たした静寂に、さすがの勝己も動きを止めた。
「……あ?」
なんだよ、と眉を潜めて低い声を出したとたん、わっと小さな出久たちが逃げだした。
もう一方の出口へと殺到するものたちもいれば、個性を使って素早く勝己と麗日の足元を駆け抜けたものもいる。
かと思えば、青い顔をして教室の隅っこで震えながら頭を抱えていたり、泣きながら誰かの机に潜りこんでいくものもいた。
のんびり過ごしていた水鳥の群れに、飢えた猛禽類が来襲したような混乱ぶりである。
「お、おお、すげえな! これが蜘蛛の子を散らすってやつか!」
「なに感心してんだ! つかまえねーと! 相澤先生に逃がすなっていわれてるだろ!」
突如として大混乱に陥った小さな出久たちの様子を見て、なぜか大喜びする上鳴に、切島が叫ぶ。
「そっちいったよ!」
「くっ……! すばしっこい!」
葉隠の指摘に、手で小さな出久をとらえる一方、自慢の尻尾を伸ばすのは尾白だ。
ふわりとした尻尾に包まれるようにして捕まえられた小さな出久は、泣きながら逃げ出したことを忘れたように、きゃーっと歓声をあげてそこへと張り付いた。気持ちがいいらしく、頬を摺り寄せている。
「あー! たくさん廊下にでちゃってる!」
「うわわわ……! 待てって!」
芦戸の叫びに気づいた瀬呂が、あわてて肘からテープをのばす。虫取りテープのように、ぴたぴたとくっつけられて捕まった小さな出久たちが、うぞうぞもぞもぞと暴れる。
「口田の個性でなんとかなんない!?」
『緑谷くんは僕の個性がつうじる動物じゃないよ』
耳郎の鋭い口調での問いかけに、困り顔をした口田が身振り手振り混じりにそう答える。
「とりあえず、こちらは確保したぞ」
「でかした常闇!」
常闇のダークシャドウに抱えられた小さな出久たちが、大興奮して手足をばたつかせながら喜んでいる。その光景をみた峰田が、グッジョブ! と親指立てて褒め称えた。
峰田は、捕獲に関してその個性から誰よりも有利なはずであるが、もぎもぎにくっついて離れなくなった場合のことを考えているらしく、使いたくとも使えないようだ。
やがて、教室の混乱が少しずつ収まっていく。
個性を活かしたり、純粋な身体能力でつかまえたりと、クラスメイトたちが尽力した結果である。ちなみに勝己はなにもしていない。
「あら、この緑谷ちゃんは逃げないわね」
「あ?」
そんな中、舌を伸ばして小さな出久を捕獲していた蛙吹が、これだけの大騒ぎの中、それでも勝己の前にから動かないものがいることに気づいた。
いわれてみて視線を落とせば、勝己の足元に一人だけ、小さな出久が立っていた。
泣くことも喚くこともなく、大きな瞳をきらきらと輝かせて勝己を見上げている。
「……は? ンだよ、てめぇ」
「かっちゃん、かっちゃん!」
すると、勝己に気づいてもらえたとわかった小さな出久が、ぴょこぴょこと短い足で飛び跳ねながら、手を伸ばしてきた。
まさか、麗日のように抱っこでもしろというのか。絶対にお断りだ。
とはいえ、ここで蹴ったり踏みつけたりも、さすがにできない。クラスメイトの目がある。
それに、いつもの調子でやってしまったあげく、死なれたりでもしたら勝己のヒーローとしての経歴にも傷がつく。同級生殺しのヒーローなどと呼ばれたくはない。
ぐぎぎぎ、と大きな勝己と小さな出久は、その場から一歩も動かず睨みあう。というか、一方的に勝己が睨んでいるだけであるが。
「あんだけいたのに、爆豪がつかまえられんのこいつだけかよ!」
「役にたたねぇー!」
両手に一人ずつ小さな出久を捕まえている切島と上鳴が叫ぶ。
「んだとコラァ! てめえらだってそいつらしか捕まえられてねえだろうが!」
こと戦闘に関しては、優秀な個性を有する彼らだが、捕獲能力は低いのだ。彼らには、それが限度だろう。
「ほとんどの緑谷さんに逃げられてしまいましたわね……」
一方、個性で網を作り出した八百万の足元には、ひとまとめにされた小さな出久たちが蠢いている。大漁だ。だが、気色悪い。
瀬呂もまた、テープで小さな出久を大量にとらえたようだが、数はまったく足りていない。
「つか、どーすんだよ、これ……」
両手の小さな出久を離すことも降ろすこともできないまま、切島が項垂れた。
「俺が知るか! ……っ?!」
鋭く吐き捨てて自席に向かおうとした勝己の目の前に、小さな出久が急に現れた。
「かっちゃん!」
満面の笑みで両腕を伸ばしてくるその間の抜けた姿に、頬が引きつる。どうやら、勝己の足元にいた個体のようだ。
なにがそんなに楽しいというのか、にこにこと笑っている。その顔は、勝己のあとをついて回っていた幼い頃を彷彿とさせた。
そんな小さな出久を勝己に突きつけているのは、麗日である。
「麗日、てめぇ……!」
「とりあえず、このデクくんは爆豪くんにまかせる!」
怒声をあげかけた勝己よりはやく、麗日はそう宣言した。おお、そりゃいい、と周囲から賛同の声があがる。
「ふっざけんな! 誰がクソデクの面倒なんざみるか!」
叫んだ瞬間、麗日の大きく優しい眼から光が消えた。
「……じゃあ、逃げたデクくん、探してくれるん?」
「……っ!」
風のない湖の水面のような穏やかな口調であるが、その静かさのなかに滲む怒りに、勝己は一瞬、鼻白む。
麗日の瞳が、すうっと細められていく。笑っているのに、笑っていない。いつも朗らかであるせいか、その表情の変化が、空恐ろしいものに見えた。
「爆豪くんが爆ギレしたから、」
「……」
ずい、と麗日が一歩前にでる。その手には、にこやかに笑って手を振っている小さな出久。
「この子以外のデクくん、逃げちゃったんよ?」
「……」
ずずい、とさらに麗日が一歩前に出てくる。
勝己は、教室に入って少し声を荒げただけで逃げ出したあいつらが悪いと言いたかったが、麗日の背後にはいつの間にかクラスメイトたちが集っており、皆、うんうんと頷いている。
どうやら勝己の味方は、この教室内にはひとりもいないようである。
「相澤先生に、逃がすなっていわれてたのに、」
「……」
ぐぬ、とさすがに言葉に詰まる。
あの合理性を重視する担任のことだ。もしかしたらこの異常事態も訓練の一部として考えているかもしれない。
となると命令を無視したうえ、クラスメイトとの協力体制をとらなかったことを咎められる可能性は、大いにありえた。
勝己は、ありとあらゆる想定を、一瞬のうちに脳内で組み立てる。
だがその全ての結果は、この場では圧倒的に自分が不利、というものであった。
「爆豪くんが、デクくんを逃がし――」
「ああクソが! さっさと探しにいきやがれ!」
ずずずいっと、クラスメイトたちに半円を描きながら詰め寄られた勝己は、目の前の小さな出久一人の面倒をみるかわりに校内捜索には加わらないと告げて、彼らを教室からたたき出したのだった。
ぐう、と腹がなる。
人間の身体とは、何が起きても、生命活動は滞りなく行われるものらしい。
「チッ」
自席にだるく座り込んでいた勝己は、みっともなく飢えを訴える己の胃に舌打ちした。
勝己のところに唯一やってきた出久は、机の縁に腰掛けて左右に揺れながら、昔のヒーローアニメの主題歌を口ずさんでいる。こちらの気も知らないで、呑気なものだ。
また、ぐう、と腹がなる。
仕方がない。食堂でなにか買うかと、勝己は財布をズボンのポケットに突っ込む。
「おい、デク。ここから動くんじゃねーぞ」
席を立ちながらそういえば、それまでご機嫌だった出久は、歌うことをやめてきょとんと目を瞬かせた。
わかっているのかわかっていないのか、その微妙な反応もまた苛立たしい。ちっと舌打ちをして立ち上がった勝己にならうように、出久が立ち上がる。
「……」
まさかと思いつつも、勝己は気づかないふりをして教室の出口へと向かう。
すると、背後で何かが動く音がした。とん、とん、と軽い何かが飛び跳ねるような、そんな音。
勝己は頬を引きつらせながら、足を止めて振り返った。
みれば、椅子の脚につかまり、すーっと伝い降りてくる出久が見えた。一昔以上前まではあったという消防署の緊急出動さながらの光景だ。
おそらく、机から椅子の背もたれに飛び移り、その後、座面に飛び降りて、椅子の脚に取りついたのだろう。
驚きに固まる勝己の視界の中、無事に床へと降り立った出久は、てててっと、おぼつかない足取りで走り寄ってくる。
「かっちゃん、まってー」
「ついてくんじゃねェ!」
はっと意識を取り戻した勝己は、思わず怒鳴り散らして足早に廊下へと出る。
肩をいからせ食堂方面へと歩き出した勝己の背に、小さな声が幾度もぶつかる。
「まってー、かっちゃんー」
まって、かっちゃん、かっちゃん、まって、――それしか知らないかのように、一定の距離から繰り返される言葉。これは一体、何の呪いだ。
「クソが……!」
こんなわけのわからないものを引きつれたところを、他のクラスや上級生にみられたら、なんといわれるか。カルガモの親子でもあるまいし、ついて回られるのは嫌だった。
ビキビキとこめかみに青筋を浮かべながら、勝己は振り返る。
「かっちゃん!」
そうして追いついた出久は、ほんとうに嬉しそうな笑顔で勝己を見上げてきた。
そうしてくれると信じていたというような純粋な目に、腹が立つ。
どうして俺がこんなヤツの面倒をみなければならないのか、と改めて思いながら、勝己は手を伸ばし、出久の襟首を摘むと猫の子よろしく持ちあげた。
そのまま、ブレザーのポケットへと捻じ込む。もぞもぞと動いていた出久は、ほどよい位置をみつけたらしく、満足そうな顔をして、おとなしくそこにおさまった。
見下ろせば、ポケットの縁に手をかけた出久は、高い位置からの景色を楽しんでいるようであった。
こいつはきっと、出久のなかでもとびきりアホな部分が固まってできているに違いない。
勝己はそう確信しながら、あらためて食堂に向かって歩き出す。
ほどなくしてたどり着いた食堂は、全寮制になってからというもの、カフェがわりに使われることが多くなったこともあり、少なくない生徒が行き来していた。
喉を潤したり、軽い食事をとったり、午後のひとときを友人と過ごしたり、グループで勉強していたり――その利用方法は様々だ。
小さくなってしまった出久を連れてその中へはいることが躊躇われた勝己は、食堂前の自販機コーナーで、適当に携帯食とペットボトルの水を購入した。
その間、出久は静かにしていた。自分と離れるとあんなに纏わりついてこようとするくせに、不思議なものだ。
食堂前は少し広いホールになっていて、いくつもの椅子とテーブルがおいてある。窓際に設置されたそれを、勝己はひとつ陣取った。
移動が終わったと理解したらしい出久が、勝己のポケットから這い出して、テーブルへとのぼってくる。
「おい、勝手にウロチョロするんじゃねえぞ」
「うん」
素直に返事をしつつ、出久がじっとみつめているのは、いましがた勝己が買った水であった。もしかして、喉が渇いているのだろうか。
一瞬、峰田の「水をかけたら増えないか」という発言を思い出したが、まさかそんなことはないだろう。
勝己はペットボトルの蓋に水をいれてやると、無言のまま出久の前においてやった。こんなところで干からびてもらっても、面倒だからだ。他意はない。
なのに、ぱあっと花開くように出久は笑った。まろい頬が、紅を掃いたように色づく。
「かっちゃん、ありがとう!」
そうして、抱えるようにして蓋を両手で持ち上げると、その中にある水に口をつける。
んくんく、とたいした量もないそれを、出久は懸命に飲んでいく。まるっきり小動物だ。
心の中で、クソがと毒づきながら、勝己は乱暴に携帯食の包みをあけて噛り付く。
味はまあまあだが、完全に腹を満たすには足りない。しかしながら、寮で栄養バランスの考えられた食事がでてくるのだから、いまはこれでいいだろう。
水で喉を潤した出久が、勝己に笑いかけてくる。
「おいしいね、かっちゃん!」
気負いも恐怖も、何もない、ただ純粋な好意だけが、そこにある。
なんで、ンな顔するんだ、てめぇは――そう思ったときには、声が勝手に唇の合間から飛び出していた。
「おい、デク」
「?」
なあに、といわんばかりのあどけない不思議そうな顔で、出久が首を傾げる。そして、ペットボトルの蓋をおろすと、ぽてぽてと歩いてきて、勝己の真正面に立った。
普段は怯えて視線もあわさないくせに、この出久は随分と肝が据わっている。
「てめえ、俺が嫌じゃねーのか」
どうして、ここにいるのか。
どうして、後をついてきたのか。
どうして、他の固体と一緒に逃げ出さなかったのか――そんな疑問をひっくるめての、言葉だった。
応えは期待していなかった。この、脳みそも分解されて足りていなさそうな出久に、たいしたことなど期待できようはずもない。否、普段どおりの出久であっても、勝己は期待などしないが。
だが、目の前の出久は笑ってみせた。勝己の言葉を理解したといわんばかりに。
やわらかに笑み崩れるその顔は、幼い頃によく向けられていたものと同じだった。そんな表情、ここ最近、まったくみていない。記憶の奥底にある思い出の蓋が開いてしまいそうだった。
「ぼく、かっちゃんのこと、すきだよ」
勝己は、わずかに肩を揺らし、息を止めた。
小さな口が紡いだ音が、やけにはっきりと耳に届いて、優しく甘く、ほろりと崩れて馴染んでいく。
そうして、言われたことを理解した瞬間、ぞわ、と細胞のひとつひとつが、ざわめいた。
冷たく凍りつかせていた心の内のどこかが、春を迎えた雪のように、形をなくしていく。その下にあるのは、じんわりと温かい何かだ。
奥歯を噛み締め、手の平に爪が食い込むほどに、勝己は強く拳を握り締める。そうしなければ、みっともなく叫び出しそうだった。
ああ、なんだこれは。きもちがわるい。こんなもの、しりたくない。こんなきもちが、じぶんのなかにあるなどと、みとめられるわけがない。
クソが! 腹の底から湧き上がる感情に支配されぬよう、勝己はそれらを罵ることで遠ざける。
「ずっと、ずーっとすきだよ」
だが、そんな勝己の心中に、出久は気づきもしない。
まろやかな旋律の童謡を口ずさむように重ねられた言葉は、優しい見かけに反して、ひどい毒だった。
子供の頃からそうだった。己の言動が、どれだけ勝己を追い詰めるのか、出久は知らない。罪悪感もなにもない。ああ、タチが悪い!
胸が、ぎりりと強く軋んで、うまく息が出来ない。
勝己は、警戒を露にする野生の獣に似た、呻き声をあげた。
「――なんでだよ、クソ……!」
吐き捨てるように囁けば、それも問いかけだと思ったらしい出久が、頬を薔薇色に染めて、はにかんだ。
「だって、かっちゃんは、ぼくの、さいしょのヒーローだから」
ああ、と諦めにも似た、吐息交じりの声が漏れる。
まだ、個性が発現する前。
それがどういうものなのか知ってはいても、それが自分達の関係にどんな影響を及ぼすかなんて、思いもしなかったころ。
出久はいつも、こんなことを言っていた気がする。遠い、色あせてしまいそうな記憶が、勝己の脳裏にいくつも浮かび、重なり――そして、消えていく。
不愉快だ。得体の知れない、気持ちの悪い感情が、喉元までせりあがってくる。掻き毟りたくなる衝動を抑え、勝己は震える指で喉をおさえた。
「……は、くだらねぇ……」
ほんとうに、くだらない。そんなの、たまたま、そうだっただけのこと。偶然、出久のそばにいたのが、自分だっただけ。
すぐに俺ではない、一番好きなヒーローをみつけたくせに――ナンバーワンヒーローに夢中になっている出久の姿を思い出しながら、勝己は奥歯を噛み締めた。
「かっちゃん? だいじょうぶ?」
さすがに勝己の様子がおかしいことに気づいたらしい出久が、眉を下げて心配そうな顔をする。それにまた、苛立ちが募った。
馬鹿にしやがって、と思いながらも考える。
この出久が言っていることが真実ならば、「緑谷出久」という人間の身体に、「爆豪勝己」を好きだという気持ちは、これだけしかないということになる。他の固体が、一目散に勝己から逃げ出したのが、その証拠とも言える。
もしも、もっと「好き」という気持ちがあるのなら、勝己の前にはそれ相応の出久が残っていたはずだ。
だが、こいつだけしか、勝己を求めていなかった。側には残らなかった。
当然だ。自覚はある。
あれだけのことをしてきた幼馴染を、これだけでも好いていること自体、おかしい。緑谷出久という人間は、まっすぐにみえて、どこか歪だ。ほんとうなら、嫌ってしかるべき人間を、好きだといってのける。どこか、壊れている。
ああ、ああ、気持ちが悪い!
浅い呼吸を繰り返しながら、勝己は思う。
今、これを潰してしまえば――もしかして、自分が持て余すこの感情は、どこかへ消えていくのではないか?
何かに突き動かされるように、勝己は、ゆっくりと手を伸ばす。
「かっちゃん?」
何も知らない、何も知ろうとしない出久は、差し出された手のひらの上に、みずから乗りあがってきた。
そして、そこから勝己をまっすぐにみつめてくる、出久のかけら。
これをいまここで、綺麗さっぱり跡形なく爆破するなんて簡単なことだ。
それが何であったかわからないくらいの消し炭にしてしまえば、この不愉快な名前をつけられない感情も、一緒に燃えてなくなるかもしれない。
じり、と手のひらに汗が滲むのがわかる。あとは、勝己の意思ひとつだ。それだけで、この「得体の知れないもの」は消えてなくなる。
時間にすればわずか数秒。勝己の意識にすれば、数時間というような、短く長い一瞬のあと、勝己は出久を包むように手を丸めた。
「んきゅっ」
現状を理解できないのだろう出久が、妙な声をあげて、もぞもぞと暴れだす。
勝己は席を立ち、窓を開いた。
「――おまえなんか、いなくなっちまえ」
殺すことも、消すこともできないのならば。こうするしか、ない。
勝己は無表情のまま、窓から出久を投げ捨てた。
ここは一階。教室でみたところ、個性を使うことはできるようだったから、怪我はしないはずだ。
クラスメイトたちが校舎内を隈なく探しているだろうし、誰かがきっと、みつけるだろう。
勝己は、蓋のないペットボトルをひったくるようにして掴むと、後ろを振り返ることなく歩き出す。
かっちゃん、かっちゃんと呼びかける声は、もう、聞こえなかった。
教室にもどった勝己は、眉間に皺を寄せ晴れぬ気持ちを抱いたまま、水を飲んでいた。
暇だからと手をつけた課題も終わり、あとは担任の許可さえでればすぐさま寮に帰れる状況だ。夜に課題にあてるはずだった時間を自主トレにまわすか、と考えていたとき。
ばたばたと二つの足音が、この教室へと近づいてくるのが聞こえた。
音は軽いものと重いものが重なり合っている。女が一人に、男が一人――そう思ったとおり、飛び込んできたのはクラスメイトである麗日と飯田だった。
それぞれ手には虫かごを大きくしたようなケースをもっており、透明なその中で小さな出久が騒いでいたり、寝転がったりしているのがみえる。ケースは八百万が創りだしたのだろう。
「爆豪くん! あれ? そっちのデクくんはどうしたん?」
息を切らせて駆け寄ってきた麗日が、声を弾ませながら辺りを見回し、尋ねてきた。
「しるか」
ぐい、と残っていた水を飲み干して、勝己は苦々しく吐き捨てた。
「ええーっ!」
目を丸くして驚く麗日の後ろから、ものすごい勢いで飯田が詰め寄ってくる。
「なんだと!? どこかにいくのを黙ってみていたのか!? ちゃんと面倒をみないでどうする! どこかで泣いているかもしれないだろう!」
どうやら、小さな出久がどこかにいくのを放っておいたと解釈をしたらしい。
「うるせぇ! 高校生にもなって迷子になるか、ボケ! つーか、俺はあいつの保護者じゃねえ!」
そんな飯田の大きな声に負けぬほどに声を荒げ、勝己は顔をしかめた。
実際のところ、勝己が窓から投げ捨てたのだが、そこをあえていう必要もないだろう。
ふん、と視線を外すと、麗日と飯田が顔を見合わせる。
「どうしよう、あのデクくん、誰かにみつけてもらえたかな!?」
「念のため、皆に確認してから、もう一度探しにいこう!」
「うん!」
麗日と飯田が駆け出そうとした瞬間、切島が教室へと飛び込んできた。
夏休みの虫取り少年よろしく、肩から腰にかけて二つの籠をさげ、そのなかには小さな出久をいれている。間の抜けたその格好に、勝己は眩暈がした。
しかし、切島的にはそれで問題ないらしい。いつもの人好きする明るい笑顔で言う。
「おい、双子の片割れがきたぞ! 保健室に集合だ!」
「ほんま!?」
「そうか! よかった! 先にみつけられている緑谷くんだけでも、もとにもどしてもらおう!」
「ほら、爆豪もいくぞ!」
「なんで俺がっ」
「いいからこいって!」
結局、切島にひきずられるようにして、勝己は保健室まで連行された。
爆破の個性があまり効かないという点で、敵に回すとこの男は面倒くさい。
四人一緒に、なだれ込むようにして入った保健室には、ひとつのベッドを取り囲むようにしてクラスメイトたちが集まっていた。
その傍らには、件の上級生と思しき女子生徒が立っている。にこにこと至極楽しそうに笑っていて、腹が立った。
誰のせいでこうなったと思っているのか。いや、この女ではなく、双子の片割れのせいなのだが、八つ当たりくらい許されるだろう。
ぐるりと全員を見回した八百万が、ひとつ頷く。
「皆さんこられましたね。それでは、よろしくお願いしますわ」
「まかせてちょうだい!」
八百万の視線に対し、ウインクと軽いノリで返答した上級生の前に、小さな出久が差し出されていく。
「じゃあいくよー」
さて、ここからどう「結合」という個性が発揮されるのか。
そこは純粋に気になったので、勝己もわずかに身を乗り出す。
と。
ベッドの上で、きゃいきゃいと遊ぶ小さな出久の一人を、上級生が無造作に捕まえる。そしてそのまま、もう一人を同じように掴むと、それらを勢いよく両手で挟んだ。
蚊を叩き潰す、あの動作を思い浮かべれば、だいたいあっている。
ひっ、とクラスメイトの誰かが短い悲鳴をあげた。
勝己も、車にひかれた蛙のように、小さな出久が潰れてしまうかと思ったが、違った。
本来ならひとつになるはずのないものが、その瞬間、存在を重ねたように、ひとつになっていた。
上級生が手をひらくと、小さな出久が何事もなかったかのように、ベッドに降り立った。その姿は、結合されたためか、周囲のものよりいくぶんか大きい。
なんというか、随分と力技な個性である。
呆れと感動が入り混じる保健室の空気をよそに、上級生は次から次へと、小さな出久を結合していく。
「お、おお……すげぇ、くっついてく……」
感嘆の声をあげたのは誰だろう。だがその気持ちも、わかる気がした。
捕らえてきた小さな出久たちが、だんだんといつもの見慣れた緑谷出久の姿へと戻っていくのは、奇妙で不思議な光景だった。
やがて、保健室のベッドの上に、緑谷出久が横たわる。
穏やかに閉じられた瞳、静かな動作で上下する胸。
皆、一様にほっとした表情をみせる。
だが。
「緑谷、起きねェな」
ぽつん、といつもの淡々とした様子で、轟がいう。
それは今、ここに集ったもの全員の思いであったろう。
「あの、これは一体どういうことでしょうか!」
ビシ、と挙手をして飯田が問いかけると、上級生は困ったように肩を竦めた。
「どうやら、分解された緑谷君が足りなかったみたい。核があれば、少しの固体でも本来の彼に近いものに戻るだろうと思ったんだけど……」
「核?」
鸚鵡返しする飯田に、上級生は補足する。
「その存在を構成する、一番大事な部分のこと。それがないと、完全な緑谷出久という人間には、もどらない……と、思う。なにしろ私も人間を結合するのはじめてだから」
なんだそれ、と誰かが呆然と呟く。
もし、もしも、だ。その核とやらが永遠に見つからなかったら、緑谷出久は、このまま永遠にベッドに横たわったままになる、ということだろうか。
「あれだけいたから、どれかアタリだと思ったんだけどね」
困ったなあ……、と思っていた以上に深刻な状況だとでもいうような調子で、上級生が口を噤んだ。さきほど垣間見えていたお気楽さはもう、そこにない。
しん、と落ちた重たい空気の中、勝己は思う――ざまあみろ、と。そして、じょうだんではない、と。
このままであれば、目障りだと思う存在は勝己の前からいなくなる。だがしかし、そんなこと、許されるはずがない。
なぜならば、出久は、俺が、出久は、俺の、――勝己が相反する心に戸惑ううちに、ガキン、と固いもの同士がぶつかる音が響いた。
落ち込みかけていた全員が、はっとそちらに視線を送る。
みれば、切島が硬化した両拳をあわせて、笑っていた。諦めてはいない目で、暗い顔をしたものたちを鼓舞するように見回して言う。
「ようは、緑谷がたりないってことなんだろ? じゃあ、探すっきゃねーよな!」
「……うむ! 切島くんのいうとおりだ! 皆で、もう一度校内を探そう!」
切島の言葉を受けた飯田の、委員長らしい号令に、応えの声がいつくも重なる。そして、全員が動き出す。
保健室から駆け出していくクラスメイトたちを見送りながら、勝己は唇を噛み締めた。上級生の言葉が、ずっと頭の中で木霊している。
核。
大事な部分。
緑谷出久という人間を構成する、必要不可欠なもの。
――かっちゃん!
あの声と間の抜けた笑顔が、思考にちらつく。
あれは、きっともう表にはでてくることのないだろう、出久の心の奥底にしまわれているものだ。もういらないと、しまいこまれたもののはずだ。
だから、まさか、そんなはずはない。
自分を「好き」と、幼い頃のように、なんのてらいもなくいっていたあの小さな出久が、重要なわけが、ない。
だが、いくらそう否定しても、胸を焦がすような奇妙な気持ちは消えない。自分の心なのに、ままならない。
ああ、こんなふうになるのも、ぜんぶあの野郎が悪い! さっさともどして一発殴ってやる!
「クソが!」
勝己は、駆け出した。
「おい! でてこい! デク! デェェク!」
勝己が全速力で走ってきたのは、あの出久を放り出した窓から続く中庭であった。夜へ落ちてゆく太陽の名残りで、なにもかもが淡い朱色に染め上げられている。
声を荒げ、辺りを素早く見回す。だが、あのゆらゆらと揺れていた緑色をの小さなものは、どこにもいない。
クソ、と何度も呟きながらも、勝己は探すことをやめなかった。
もしかして、カラスにでもやられてしまったのか?
そんな考えが、脳裏をよぎる。
小さな出久は個性を使えないわけではないようだったから、さすがに死ぬということはないはずだ。
だが、どこかに連れて行かれたならば? 遠いところなら、みつけることは難しいだろう。
どこにいった? どこにきえた? この世界のどこに、緑谷出久はいる?
「デク!」
まったくもって手がかりすらみつけられず、勝己が焦り始めたとき。
美しく整えられた中庭の片隅から、にゃあ、という猫の鳴き声が、ふと耳に届いた。
花が咲き誇る花壇の前にあるベンチの下。黒い塊が、もぞもぞと動いている。前足で何かを器用に押さえつけ、匂いを嗅いでいる。
その何かが緑色の物体――あの小さな出久であると認識した瞬間、勝己は素早く駆け出していた。
その間に、猫がひょいと顔をあげる。
どうやら、黒猫に首根っこをかまれているらしい。
小さな出久は、じたばたと手足を振り回して暴れているが、まったくもって猫に届いていない。
「おい! クソ猫! そいつはネズミじゃねェぞ!」
近づきながら軽く爆破で威嚇すれば、哀れな黒猫は目を見開いて、出久を取り落とした。そして、ひゅ、としなやかな動きで花壇の合間へと消えていく。
思わずやってしまった威嚇であったが、出久をくわえたまま逃げ出されたら、追いかけるのは大変だったろう。今回は、運が良かった。
クソが、と自分に向かって吐き出しながら、勝己はベンチの前でしゃがみこんだ。
みれば、放り出された出久は、ぺしょりと地面に横たわっている。
もさもさの髪はさらに乱れ、服は泥だらけになっていた。いったいどこで、どんなことをしていたのだろう。
もしかしたら、これはクラスメイトが見つけられなかった別の個体かもしれない。
でも勝己には、あの出久であるという確信があった。こんな自分を、好きだといってのけた、あいつであると。
「かっちゃん……」
のろのろと、出久が立ち上がる。
やはり間違いない。逃げ出さず、前に立ち、かっちゃんと呼びかけてくるのは、ただ一人だけだ。
やっとみつけたという安堵と同時に、どうしようもない怒りが湧き出した。
「てっめぇ……! こんなところにいやがって! わかりづれぇだろうが!」
自分のやったことは棚に上げ、勝己は怒鳴り散らした。
「……かっちゃん」
ぎゅ、と小さな手が、ぼろぼろの服を掴む。だが、そこから先は何もいわないし、動きもしない。
「オラ、さっさとこい! グズグズすんな!」
苛々としながら、勝己は最大限の譲歩で、地面近くまで手のひらを差し出す。だが、出久はそれでも動かない。
さっきは、すぐさま乗ってきたくせに!
「……いいの?」
「ああ?」
俺がこいといっているのに、どうしてそんなことをいうのか。勝己は眉を寄せて低い声をあげた。
ぱ、と出久が顔をあげる。小さなその顔は真っ赤で、大きな瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「いっしょに、いって、いいの?」
ぎゅうううぅっと服をさらにきつく掴みながら、ひぐ、と嗚咽を漏らして出久はいう。
「かっちゃん、ぼくのこと、きらいなんだよね?」
自分の言葉に傷ついたのか、出久はとうとう泣き出した。ほろほろと、その身体に見合わぬ大粒の涙が、地面を濡らしていく。
チッ、と舌打ちをする。びくり、と身体を揺らしながらも、出久は泣くことをやめられないらしい。俯いて、小さな手で顔を何度も拭っている。
「――ンなこと、いってねえだろ」
「……!」
思わぬ言葉だったのか、出久が瞬きをしながら顔をあげた。その続きを促すように、すん、と鼻が鳴る。
「……たしかに、てめぇは心底気にいらねぇよ。俺をイラつかせることにかけては一級だ」
涙と鼻水で汚い小さな面から目を逸らさずに、勝己はニヤリと笑ってみせた。
「だがなァ……いつか必ず、完膚なきまでに、俺はおまえをぶっ潰す。どっちが上か、徹底的にわからせてやる」
ゆっくりと、指を出久に近づける。
「だから、そのためにはこうして、」
いつもの姿よりも、なお丸い頬を濡らすものを、出来る限りの優しさをのせた指先で掬った。
「迎えにぐらいは、きてやってもいい」
そして、あらためてその前に手を差し出す。
「前言撤回だ――いなくなるんじゃねえ、デク」
捨てていったことも、ひどいことをいったことも、謝りはしない。だた、あの言葉を一方的になかったことにしただけだ。それなのに、出久は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「うん!」
そして、出久は笑顔のまま、勝己の手の平の上に乗ってくる。
落ちていかないよう気を付けながら、勝己は出久を肩に座らせてやる。
「かっちゃん、かっちゃん!」
「あ?」
またなにか、くだらないことをいうのだろう。そう思いながら勝己はおざなりな返答をしてやる。
そして、そんな予感は見事にあたった。
「だいすきだよ!」
勝己は目元を手で覆い、深い溜息をつく。手をずるりと下げて口元を隠し、口の端を持ち上げた。
「知っとるわ」
照れながら、きゃっきゃとはしゃぐ小さな出久の頭を、勝己はそっと指先でつついた。
どうやら、中庭でみつけた出久以外にも、まだ見つかっていない固体がいたらしい。
保健室に勝己がもどると、クラスメイトたちは小さな出久を二人、みつけてきていた。
これで揃ったかも! と喜ぶ彼らをよそに、勝己は肩に座っている小さな出久に言う。
「デク、おりろ」
うん、と返事をして、勝己の差し出された手へと、小さな出久が飛び移ってくる。
「かっちゃん」
「あ?」
手の平の上、精一杯に背伸びをしながら、小さな出久が腕を伸ばしてくる。
「またね!」
「……おう」
緩みきった笑みとともに差し出される小さな手に、指先で触れて応えてやる。
それに満足そうに笑った小さな出久は、勝己に手を振って、ぴょんとベッドへと飛び降りた。
普段の彼らからはありえないやりとりを目撃したクラスメイトたちが固まっている中、小さな出久は先に結合された大きな体へと向かう。
そして、最後のピースとして、勝己を「好き」だと言った小さな出久は、上級生の個性をもってして消えていった。
大騒ぎをしたわりに、あっけない別れだ。
とくに感慨深いというわけではないが、心を乱された点でいえば、短くも濃密な時間だったと言える。腹が立つことこの上もないが。
そんなことを考えていると、ふるり、大きな瞳を縁取る睫が震えたのが見えた。
ゆっくりと、瞼がひらいていく。緑色の眼が、ぼんやりと周囲を見回した。
「緑谷くん!」
「デクくん!」
飯田と麗日がベッドサイドに押し寄せると、出久は不思議そうに「……おはよう?」と寝ぼけた声で返事をした。状況をまったく理解していない。
その瞳が、うろうろと彷徨い、勝己を捕らえる。
瞬間、みつけたとばかりに出久が笑う。
「……おはよ、かっちゃん……」
クソが。あいつと同じ顔、しやがって。
「……デク」
ふにゃふにゃと、夢と現の狭間で遊ぶ出久へと、勝己は無言で手を伸ばした。
手全体を少し丸めるようにして、中指と親指で輪をつくり、まるだしになっている無防備な出久の額へともっていく。
そして、勝己は中指を思いっきり前に弾きだした。
小気味いい音が、保健室に響き渡る。
「いったああああああ!?」
起きざまにデコピンという不意打ちをくらった出久が、僅かに浮かせていた上半身をベッドへ沈めた。
「この、クッソナードがぁぁぁあ!」
両手で額を押さえてのたうちまわる出久に向かって、勝己は吠える。わななかせた手の内で、怒りの発露といわんばかりに火花が舞う。
「お、おまっ、ひでぇな爆豪!」
怪我人ではないし病人でもないが、個性で大変な目にあった者に対してすることではないと、切島が顔色を変える。
「なに、なに?! 敵?! 敵!?」
衝撃と痛みに混乱した出久が、素早くベッドの片隅に移動した。警戒心露わなその姿に、麗日が慌てて手を振る。
「デクくん落ち着いて! 確かに敵っぽいけど、爆豪くんだから! 安心できないだろうけど、安心して!」
「大丈夫だ! 傷は浅いぞ、緑谷くん!」
「よかったな、額に穴はあいてねぇぞ緑谷」
友人たちに取り囲まれて、口々に落ち着くよう諭された出久が、あげていた腕をようやくおろした。
額は当然ながら赤くなっており、緑の目は涙で潤んでいた。
ぴっ、と勝己は右手の中指を立てて叫んだ。
「死ね! クソカス! クソナード! この俺にメンドクセェことさせやがって!」
「え、ええ~……なにそれ、かっちゃん理不尽すぎる……いつものことだけど……あいたたた……」
目覚めたと同時に罵られて不満げな出久に、もう用はないとばかりに勝己は背を向ける。足音荒く室内を横断し、力任せに扉をあけた。
出久を心配するクラスメイトのやりとりを背後に聞きながら、勝己は保健室から出ようとして――眉を潜めながら振り返った。
ベッドの上に座った出久は、よかったと喜ぶ友人たちに囲まれて、まだ戸惑った表情を浮べている。
これから、ヒーロー基礎学の授業のあと、なにがあったのかを聞かされるはずだ。
顔を真っ赤にしたり、真っ青にしたりしながら、全員に謝り倒すに違いない。だがそれは、出久の自業自得である。そのまま、悶え死ねばいい。
おろおろとしている今の出久に、あの小さな出久の面影はない。
消えていったあの小さな出久は、ほんとうに、「緑谷出久」という人間を構成するための、核だったのだろうか。
それを知るすべは、もうどこにもない。
またね、などと――果たされる可能性が限りなく零に近い約束を言いだしたあの出久は、いったいなにを考えていたのだろう。
それとも、またいつか、勝己と出会う日が来ることを予知していたのだろうか。
「……ンなわけねえか」
答えのでないことを、一瞬でも考えた自分に呆れるしかない。
勝己は、すっかりと暗くなった廊下へ、軽やかに一歩踏み出した。
遠い昔のことを思いだしていた勝己は、ソファから静かに身を起こした。
夕暮れに染まった部屋の片隅、ともに暮らすことを決めたときに購入した毛足の長いラグの上で、出久はせっせと洗濯物を畳んでいる。
自分とトップ争いを繰り広げるプロのヒーローとは思えないくらいの所帯じみた姿だ。
「おい」
「なに、かっちゃん」
タオルをたたみながら、視線一つ寄越さぬまま、出久が応える。
「てめえ、俺のことどんくらい好きだ?」
勝己の問いかけに、ぴたっと出久は動きを止める。
「……はあっ?!」
そして次の瞬間、ものすごい形相で勝己へと振り返った。
ぱくぱくと口を動かす出久の顔が、だんだんと赤くなっていく。頬、目元、耳、そして首までも。
その色の変化が美しく愛おしいと思うあたり、自分はこの男にそうとうまいっているのだろうと、勝己は思った。
まあ、こんな野郎と恋人となり、同棲している時点でそんなことは、わかりきったことである。
「で?」
「で、っていわれても……! あ、あぅ……」
言葉にならないうめき声しかあげない出久をそのままにしておいても、答えはでてこないだろう。
勝己は立ち上がると出久へと無造作に近づいた。それだけなのに、ひいっと哀れな悲鳴が上がる。
口元を引きつらせる出久の前に、勝己はしゃがみこむ。
羞恥に視線を彷徨わせる出久の前で、勝己は親指と人差し指で、とある大きさを示して見せた。
それは、勝己の記憶にある、あの「小さな出久」の背丈とほぼ同じ。
「やっぱ、このくらいか?」
「はっ?! なにそれ、そんなわけないだろ! 僕はもっとずっとかっちゃんのこと……! って、ああああああもおおおおお何言わせるんだよ……!」
勝己の手を見た出久は、一度は顔色を変えて激しく否定したものの、自分の言葉の恥ずかしさにすぐに気付いたらしい。
ちょうど手にしていたバスタオルを頭から被ると、その場に蹲った。相当な衝撃だったのか、鍛えられた身体が小刻みに震えている、
ぽかん、と勝己は口を開いた。
「まじかよ……」
どうやら、出久の心の中では思った以上に勝己への想いが育っているらしかった。
ヤることまでヤっている間柄なのだから、もちろん好かれているとは思っている。しかし、拗れた関係を長年続けていた以上、それはひどく鈍い成長で、限度もあるだろうと考えていた。
驚く勝己に、ぴくりと肩を揺らした出久が、タオルの下から震える声でいう。
「バカ……そんなくらいなわけ、ないじゃん……もっと、ずっと、好きだよ……」
切なさを宿したその言葉に、勝己はごくりと喉を鳴らした。
「だって、かっちゃんは……」
そろり、と出久がタオルから顔だけだして、唇を震わせる。真っ赤な顔、今にも涙を零しそうな大きな瞳。
同じ男で、かつては見るだけで腹を立てていた幼馴染であるというのに、今はその色づいた表情から目が離せない。
「僕の、最初のヒーローだから……」
いつかの日にもいわれた台詞に、勝己は目を見開いた。まさかまた、それを聞くことになろうとは。
「その頃からの想いなんだから、そんなくらいなわけ、ないだろ……」
恥ずかしさを堪えて、己の想いを疑う勝己を睨み付けながら、出久が健気にそんなことをいうものだから。
勝己は、出久を守る儚い防御力しかないタオルを、問答無用で引きはがした。
ひゃああああ、と出久がみっともなく叫んで身を捩る。
逃げ出そうとするのを許さず、ラグの上へとひっくりかえして押さえつける。
「誘ってんのか、てめぇは」
「どういう解釈の仕方?! もう! かっちゃんってば、さっきから何なんだよ!」
じたばたと暴れる出久であるが、個性を使っていないところをみると、本気で嫌がっていないのが丸わかりだ。
案の定、ぎゅうと抱きしめてやればおとなしくなった。
ぐり、とこめかみを擦りあわせると、出久も同じように頬を寄せてくる。
「……あんなちいせえのが、ここまで育ったってことか」
「な、なんのこと?」
感心混じりに零した言葉に、出久が反応する。
「てめえが知らない、てめえのことだ」
「……?」
わからないことを話されて、眉をひそめる出久をなだめるように、その額に唇を落とす。
「んっ」
ぴくっと身体を震わせる出久の顔に、そのまま何度も触れていく。
やがて、出久の手が自分の背に回ったのを感じ取った勝己は、わずかに顔をあげた。
そして、戸惑いながらも熱に浮かされつつある緑の瞳と視線を絡ませたあと、その唇を奪う。たっぷりと深く結びあわせて、舌を絡めあっていく。
もしかしたら、あの小さな出久は、種だったのかもしれない。
出久の意識の表にでてこぬままに、わずかな想いでゆっくりと育ち、本人の意思でさえ刈り取ることができないくらいに大きくなって、こうして勝己の腕の中で花開いている。
勝己は口づけを繰り返しながら、出久の胸へと手を置いた。
ふざけた文字入りのシャツの下、しなやかな筋肉を覆う柔らかな皮膚の下。熱い鼓動を刻む心臓が、愛しいと叫んでいる。
そこは、消えていった小さな出久が、還ったところ。
出久は、腹の立つ存在だった。目障りで仕方がなかった。いつか必ずねじ伏せなければいけないと思っていた。だがその執着は、他の誰にも抱かなかった。
出久だけだった。勝己の心を乱して、壊して、そうして、奥底にあるものを引きずり出せるのは。
それが、特別に想っているがゆえだと気付いたのは、いつだったか。それを、認めることができるようになったのは、いつだったか。
自分も、出久と同じだ。表にはだせない想いを、ずっと秘めていた。
まあそのことは、生涯、言葉になどしてやらない。優越感のひとかけらでも、与えてやるつもりはない。
なぜなら勝己は、自分の思うままに出久を振りますのが好きなのだから。
「なあ、デク」
ちゅっと音とたてて、キスを解く。ふあ、と欠伸のような声を漏らした出久は、蕩けた瞳で勝己を見上げている。
執拗な口づけで失った酸素を補うように、短くせわしない呼吸を繰り返す唇を、指先でなぞって勝己はわらう。
「どんだけてめえが俺を好きか、みせてみろや」
組み敷いた出久の目が、限界まで見開かれる。これ以上赤くなりようがなさそうだったのに、さらに色を濃くした間抜け面が愉しくてたまらない。
もはや声すら出てこないその姿を嘲笑って、勝己はもう一度、深く唇を重ねた。