かくて冒険の幕はあがる

 とある国のとある町。
 豊かな自然に囲まれたその町は、大きな街道の交差点として、古より栄えてきた。
 異国からきた冒険者。国と国を行き来する商隊。町の大通りには、彼らを相手に商売をする商人が店を構え、町は活気に満ち溢れている。
 古い町並みにさまざまな人々が行き交い、日々たくさんの物語が生まれては、道を辿り新たな町へと旅立っていく。
「おい、きいたか? 草原にでるモンスターの話」
「ああ、少し前から家畜が喰われはじめたあれだろ? 大型のやつがきたみたいだな……面倒なことになった」
 大人たちの不穏な会話をききながら、白いシャツに緑のベストを身に着けた、緑の髪をもつ少年――この町で薬屋を営む店の一人息子である緑谷出久は、人の波間に流されそうになりながら歩いていく。
「おや、出久ちゃん。お使い?」
「はいっ! あ、そろそろお薬なくなりますよね、明日届けにきます!」
「ありがとうねえ」
 片手にのせた麻袋を抱えなおし、声をかけてきてくれた露店のおばあちゃんに笑顔でそう返す。
 またね、と小さく手を振って、するするとまた人の合間を泳ぐように、町を歩いていく。
「あっ!」
 顔見知りとあいさつを交わしながら通りかかった本屋の前で、出久は声を上げて足を止めた。視界の端を掠めた本に、視線が釘付けになる。
「あああ~! オールマイトの冒険譚……!」
 大きな目をことさら大きく輝かせながら、食い入るようにそれをみつめる。
「どうしよう、お金はたりるけど……二冊欲しいし……」
 脳内で、ポケットに入れた財布の中身を思いだし数えながら、ぶつぶつと呟く。
 自分で読む用、そして保管用。ほんとうなら貸出し用にもう一冊欲しいくらいだが、それではお小遣いがなくなってしまう。
 ひとまず二冊だけは、確実に確保したい。しかし、今の所持金では一冊しか買えない。そうなると一度家に帰ってからまたくることになるのだが――その間に、この人気のある本がなくなってしまわないだろうか。
 下唇を無意識のうちに触りながら、出久はうんうんと考え込む。
 と。
「うわわっ……っと!」
 どん、と右側から襲いきた衝撃をうけた出久は、大きくよろめいた。
 何かがぶつかってきたのだとすぐに理解して、慌ててそちらを向く。
「!」
 そして、息を飲んだ。
 毛皮のあしらわれた真紅の外套。それに覆われた剥きだしの上半身。隙なく鍛えられていることが一目でわかる。しなやかな鋼、という言葉が脳裏に浮かんだ。
 胸元を彩る大振りの石で作られた首飾りが、陽光をはじいて輝く。腰の後ろには大振りのナイフ。
 布地も厚く、縫製もしっかりした旅をするものらしいズボンとブーツ。
 整った顔立ちとそれを縁どる色素の薄い跳ねる髪、そしてなにより柘榴のような瑞々しい若さあふれる切れ長の瞳が、不思議な魅力となって目を惹く。
 一見すれば粗野な出で立ちで、それだけならば警戒されてしまいそうだ。しかし、覇気溢れる空気とどこか上品さが滲む風貌が絶妙に組み合わされていて、むしろ興味をひかれる。
 同性である出久が、ぽかんと口を開けてしまうほどに異国の魅力溢れるこの少年が、どうやらぶつかってきた相手であるらしい。
「……あ、ごめんなさい」
 出久は、本屋の前で立っていただけだ。となると、この少年が前方不注意か何かだったに違いない。
 そうであるにも関わらず、思わず出久がそう謝罪の言葉を発すると、目の前の少年が肩を揺らした。
 そして、それまで穏やかそうだった面が、ぎっと凶悪に歪んだ。その落差に、出久は跳び上がる。
「ぼさっと突っ立てんじゃねえ!」
「ひっ!」
 雷でも落ちたかのような怒声が轟いた。なんでいきなりこんなことをいわれなければいけないのか理解できず、首を竦めながら出久は目を白黒させる。
 どうやら相当苛烈な気性であるらしい。これは困ったことになりそうだ、と気が重くなりかけた瞬間。
「おい、バクゴー! 町について早々、揉め事は勘弁してくれよ!」
 獅子のように赤い髪を天に逆立てた少年が、二人の間に割って入ってきた。
 全体的に赤い出で立ち。動きを妨げない程度の防具に、背には剣を一振り背負っている。こちらもまた、鍛えているのがよくわかる体つきをしている。しなやかな筋肉におおわれた二の腕がまぶしい。
「あ? ぼーっと木偶の坊みたいに突っ立ってるコイツが悪ぃんだろうが!」
 いきなり怒鳴った少年の連れのようだ。出久は、多少警戒して、後ずさった。
 出久の様子に気付いたのか、赤い少年が男らしい顔立ちの眉をさげた。
 申し訳なさそうなその表情に、強張った心が若干緩む。大きな身体から滲む人懐っこさに、頬が緩む。
 この少年は、裏表がなく、快活な性質なのだろうと出久は思った。
 薬屋などというものを営んでいると、いろんな客にあう。大半はよい客だが、中には騎士団のお世話にならねばならない者もいる。そしてそういう人間は、一見すると胡散臭くないのである。
 おかげさまで人の観察が得意になってしまった。
 じっと出久が何も言わず見つめてくることにばつが悪くなってきたのか、赤い少年が頭を掻いた。
「あー……ごめんな、あいつちょっと口が悪くてよ」
 ちょっと? と、一瞬思ったが、口に出すと面倒なことになりそうなので、出久は口を噤んだ。そして、ぎこちなく微笑む。
「ううん、僕がぼーっとしてたのは、ほんとうだから」
 けっ、と赤い少年の向こう側で、腕を組んだ少年がそっぽをむく。あやまるところなどないといわんばかりの態度に、やれやれと知られぬように息をついた。
「君たち、冒険者?」
「おう! 南のほうからきたんだ」
 気を取り直して尋ねれば、にぱっと人好きする笑顔をともに応えてくれた。
 やっぱりね、と出久は頷く。
「そっか。すごいね~、同い年ぐらいなのに」
「ええ? おまえ何歳?」
 目を丸くされるほどのことだろうかと思いつつ、出久は素直に答える。
「十六だよ」
「同い年じゃねーか。まじか……もっと下かと思った。悪ィ」
「よくいわれるから気にしないで」
 黙っていればいいのに、素直に思ったことを口にして、謝罪までしてくる彼の実直さは気持ちがいい。出久はころころと笑ってから、小首を傾げた。
「ところで、なにか探し物? それとも宿?」
「お、話がわかるな! 実はさっき、道中一緒だった商隊を別れたとこでさ、いい宿ないか?」
 この時間帯にあたりを見回しながら歩いているとなると大体宿を探していることが多いはず、という出久の予想は見事に当たった。
「うん! 友達がやっているところがあるから、案内するよ」
「たすかるぜー!」
 念のため宿の概ねの料金を伝えると、二つ返事で了承が返ってきた。どうやら旅の資金は潤沢らしい。
「いやー、おまえみたいなやつに会えてよかったぜ! ほんと助かる!」
「えへへ、そういってもらえると嬉しいな」
 ちら、と赤い少年の後ろに向けていた視線を外して、出久は笑った。
 あっちの人はちょっと怖いけど、この人はいい人だなあー、と呑気に思う。
「じゃあ案内するね。こっちだよ」
 そして、出久は二人を連れて歩き出した。
 宿までの道すがら、美味しい食事どころを尋ねられたので、いくつかの安くて美味しい店と、おすすめの露店を伝える。もちろん、宿でだされる食事も美味しいとすすめておくのも忘れない。
 そんな他愛もない話をしていても、出久にぶつかってきた少年――たしか、バクゴーと呼ばれていた――は、話に参加してこない。
 ただ、じっと出久を値踏みするような視線を向けてくるだけだ。
 妙な居心地の悪さを感じつつ、ほどなくして到着した宿の前で、出久は足を止めた。
「ここだよ」
 二人を案内したのは、少しだけ町の中心から外れるけれど、そのぶん閑静な立地でゆっくり旅の疲れを癒せる一軒の宿――「清水に歌う蛙」亭である。
 可愛らしい蛙の意匠がほどこされた宿の看板の下、丁寧に店の前を掃き清めていた少女が、出久に気付いて手を止めた。
「あら、いらっしゃい」
「あすっ――じゃなくて、梅雨ちゃん。お客様だよ」
 どうしてもその呼び方に慣れない出久の様子がおかしいのか、梅雨が大きな目を細くした。そして、出久の後ろにいる二人に会釈する。
「ケロッ、ありがとう緑谷ちゃん。ようこそ、清水に歌う蛙亭へ。お二人でのご利用でよろしいでしょうか?」
「おう。しばらく世話になりてぇんだが、部屋あいてっか?」
「確認いたしますので、こちらへどうぞ」
 丁寧な梅雨の接客に安心したように、赤い少年がバグゴー少年へと笑いかける。
「よーやっとベッドで寝れるな!」
「ん」
 言葉少なに頷き、案内をする梅雨のあとに続いて真紅の外套を翻し、さっさと宿屋へとはいっていく。その後姿を、出久は黙って見送った。
 なにか余計なことをいってまた怒鳴られてはたまらない。彼がいなくなったことで、いつのまにか緊張していた身体から、ほっと力が抜けた。
「じゃあ、僕はこれで。この町、いいところだから、ゆっくりしていってね。あ、それから……」
 ついでとばかりに、冒険者に仕事を斡旋する紹介所や、騎士団の詰所、情報を集めるのにちょうどいい酒場、あまり治安のよくない通りのことなどを、赤い少年に伝えていると、ドカドカと荒い足音が近づいてきた。
「おいさっさとこねえか!」
 長話にしていることに怒ったのか、また目が吊り上っている。
 次から次へと彼らの都合も無視して話をしていたことに気付いて、出久は頬を赤らめた。この癖を、直さなければと思っているのだが、なかなかどうして。
「あっと、ごめん、僕、夢中になっちゃって」
 恥ずかしいやら申し訳ないやらで、俯く出久の肩をぽん、と大きな手が叩いた。
「いや、そういうこと教えてもらえるのも、助かる。ありがとな」
「そういってもらえると嬉しいよ。じゃあ今度こそ、さようなら」
 ほんとうにいい人だなぁ、と感動しながら出久は別れの挨拶をする。
 ちら、と宿の入口を見遣れば、まだ彼が立っていた。憮然とした様子で、扉に腕をかけてこちらを見下ろしている。
 赤い視線が熱くて、痛い。でも、挨拶をしないのも、人としていかがなものか。袖触れあうも多生の縁という。
「えっと……さ、さようなら……」
「チッ」
 びくびくとしながらも、意を決してそう声をかけた出久に返ってきたのは、鋭い舌打ちであった。彼にとってはきっと舌打ちが挨拶なんだ、と出久はそう思うことにする。
 あちゃー、という顔をする赤い少年に、出久は困った笑顔をむけて、気にしないでと手を振った。
 そうして宿を離れた出久は、いましがた来た道を戻っていく。
「南から来た冒険者、か……」
 どうにも忘れられそうにない、印象的な少年たちだった。

 

 本屋でオールマイトの冒険譚を一冊購入し、もう一冊は取り置きを頼むことにした出久は、上機嫌に大通りから路地裏へと歩をすすめる。数日後に取りに行くと約束をしたし、今日は夕食を食べてから、安心しながら読むことができる。
 鼻歌混じりに、迷路のような造りをしている路地を歩いていく。町に人間でなければ確実に迷いそうな道であるが、幼い頃から走り回っていた出久にとっては庭同然だ。
 そして、小さな工房がひっそりと立ち並ぶ通りの中ほどにある店。そこが、出久の住む薬屋である。
 扉をあけると、からん、とまろやかな鈴が鳴る。ふわり、と漂う複雑な香り。
「ただいま」
「おかえりなさい、出久」
 天井まで達する薬草棚、陽の光があたらない位置に設えられた薬棚には、大小さまざまな小瓶が並ぶ。
 ちょうど干した薬草を仕分けていたらしい母親が、にこりと笑って出迎えてくれた。
 ちなみに、本当の店主は出久の父親である。しかし、父は高名な薬草学者で、今は国をあげての東国探検部隊に同行している。そのため、出久は母親との二人暮らしだ。
 表通りには面してはいないが、品揃えと質がよいことから、知る人ぞ知る薬屋として有名なことは、出久の自慢である。
 薬草を求めて魔女見習いの少女が箒に乗ってやってくることもあるし、薬を求めて騎士の叙任をうけたばかりの少年もくる。ときおり、高貴な身分の少年が息抜きに訪れることもある。友人である彼らがきてくれるおかげで、出久は退屈したことがない。
 出久は、出迎えてくれた母親に麻袋を持ち上げてみせた。
「これ、薬を届けたらお土産にって。たまねぎだってさ」
「あら、嬉しいわね。食料庫にしまっておいてくれる?」
「うん」
 いそいそと店の奥の扉から続く居住スペースへと向かう出久は、あれっと声をあげた。視線の先には、乾燥した薬草をしまった丸い硝子の瓶がある。
「この薬草こんなに減ってたっけ?」
 町から東の方向にある森の中に自生する、解毒の効果があるものだ。お使いにでかける前には、瓶いっぱいにはいっていたと思うのだが。
 首を傾げる出久に、ああ、と母親は声を漏らした。
「なんでも近くの草原に毒を使うモンスターが出るとかで、さっき飯田くんが買っていったの」
「ああ、飯田くんきてたんだ。会いたかったなあ……そういえば、町でもそんな噂になってたっけ」
 帰り道できいた大人たちの会話を思い出す。たしか、家畜が犠牲になっている、というようなことをいっていた。
 ふっくらとした頬に手をあてて、母親が心配そうにいう。
「南のほうからきたらしいけど……怖いわね。でも、騎士団が調査にでるってお話だし、冒険者の人たちもいるもの。きっと大丈夫よね」
 この町の騎士団は実力者ぞろいだ。エンデヴァーと称号を授けられた領主を筆頭に、その息子である友人もいる。騎士の少年だって、強い。
 出久は母親を励ますように、頷いた。
「そうだね。みんながいるし、なにかあっても、僕がお母さんのこと守るから!」
 息子のそんな言葉に安堵したように、母親が笑った。
「ありがとう、出久。さあ、荷物を置いてきてゆっくりしてね、お使いありがとう。今日は、たまねぎたくさんもらったみたいだし、出久の好きなカツ丼作ろうね」
「やった!」
 労いの言葉とともに告げられた大好物の名に、出久は跳び上がって喜んだ。

 

 

「よかった~。これはちゃんとしたカバーをかけて、陽のあたらないところにいれておかなきゃ……!」
 オールマイトの冒険譚二冊目を手に、ほくほくとした笑顔で出久は町の通りを歩いていた。
 そろそろ自分の部屋の書棚では手狭になってきた。父親の書庫の片隅をこっそり占拠してしまおうか、などと考えつつ露店が立ち並ぶほうへと向かう。
 今日は、母親が町の北区にある診療所にでかけてしまったため、店はお休み。お昼ご飯も適当にすませるよう言われているのだ。
 焼いた肉と新鮮な野菜を挟んだパンもいい。温かい具だくさんのスープもいい。揚げた芋だって美味しいし、薄くのばした生地にたっぷりチーズとベーコンをのせてカリっと焼いたのも悪くはない。
 何食べようかなぁ、といまにも鳴りだしそうな腹を一撫でしていると、武器屋からひょこりと出てきた姿に、出久は目を見開いた。
 逆立つ赤い髪の気さくな少年と、真紅の外套を羽織った口の悪い少年。
 彼らは、三日ほど前に出会った異国風の出で立ちの、冒険者たちであった。
 宿を案内しただけの縁かと思っていたが、そうでもないらしい。
 声をかけるか否か、逡巡する出久をあちらが先にみつけた。
「おっ、この前の! ありがとなー、いい宿だったぜ!」
 にぱっと眩しい笑顔をむけられて、さすがに無視をするわけにもいかない。
「こ、こんにちは。あの宿が気に入ってくれたなら、よかったよ」
「おう、教えてもらったメシ屋も安いし量もあるし、なんていってもうまかったし! サイッコーだったぜ!」
「ふふふ」
 そんなに手放しで喜ばれては、悪い気はしない。出久が大好きなこの町を気に入ってくれたようで、嬉しくなってくる。
「おい、木偶の坊」
「うひっ」
 ほのぼのと会話していると、靴底を鳴らしてもうひとりの少年が近寄ってきた。怒鳴られた記憶がよみがえって、反射的に身構えてしまう。
「てめぇ、薬屋やってんだってな」
「えっ、な、なんでっ」
 どうしてそんなことを知っている。そんな驚きが顔にでていたのか、ふん、と少年が鼻を鳴らした。
「蛙女にきいた」
「かえるおんな……」
 ぱっと出久の脳裏に浮かぶのは、あの宿の看板娘である梅雨のことである。宿の名前からそう名付けたのかはしらないが、あんまりないいようである。
「薬が欲しい。案内しろや、デク」
「は、え……? え?!」
 抗議をする前に、想定外の命令を下されて、思考回路が停止しかける。っていうか、デク、ってなにさ。誰のことだよ。
 赤い少年が、二人のやりとりをみて、驚いたように目を瞬かせる。
「デク? お前、デクっていうのか? いつのまに名前教えてもらったんだよ?」
 ちがう! と出久は頭を振った。自分はそんな名前じゃないし、自己紹介をしあったこともない。
 ぱくぱくと口をあけしめする出久の顔を、間抜けといわんばかりに見下ろして、彼はいう。
「名前なんざしらねーよ。デクでいいだろ、こんなやつ」
「おまえさ、そういうふうに勝手に呼ぶのやめろよなあ……。うちの国じゃねえんだからよ」
 そう軽く諌める赤い少年であるが、肩を落とすその様子から、もはや諦めているのがにじみ出ている。どうやら、苦労しているらしい。
 そして、出久は遠い目をしてあらぬほうに視線を落とした。
「……」
 だめだこれ。完全に格下扱いされてる。とほほ、と出久もまた肩を落とした。
「今から行くつもりだったからな、ちょうどよかったぜ。それくらいはできんだろ?」
「……ええっと、今日は休みなんだけど……」
「あ?」
 一睨みされた出久は、小さく頭を振った。
「……なんでもない。こっちだよ」
 店に母が不在であるのが痛い。しかし、客は客。必要とされているものを売らなければ、もしものとき、冒険者である彼らは困ってしまうだろう。それは駄目だ。薬屋は誰かのたすけになる生業だ。選り好みをしていいわけがない。
 どうにでもなれ、とやけっぱちなことを考えながら、出久は二人の前に立って歩き出した。
「そういや、買い物にでもきてたのか?」
「うん。本を買いに……ええっと……そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね。僕、緑谷出久」
 いまさらながらの言葉であるが、赤い少年は人好きのする笑顔で頷いてくれた。
「おう、そうだったな。俺は切島」
 そして、隣の少年を指差して言う。
「こっちは爆豪」
 切島に爆豪、出久は口の中でその名前を順番に転がしてみる。彼らにぴったりだな、と思う。
 すると、姓だけを名乗った切島が、眉をさげた。
「悪いな、俺たち国の風習で、姓名すべては簡単に口にしちゃいけねえんだ」
「へえー、南からきたっていってたもんね。おもしろいなあ」
 そういえば、父もそういった風習があるところで世話になったといっていたことがある。今、手にしているオールマイト冒険譚の初期頃の本にも、そんなことが書いてあった。
「外には、いろんな国があるんだよね……」
 いつかいってみたいなあ、とそんなことを呟いてぼんやりと思い馳せる出久の手から、ひょいと本がとりあげられた。
「わ、ちょ! なにするんだよ!」
「これ、オールマイトの本じゃねえか」
 大切な本に何をするのかと食って掛かるが、爆豪は存外穏やかな顔で本の表紙を見つめていた。拍子抜けした出久は、目を瞬かせる。もしかしたら、好きなのだろうか。一気に親近感が湧いてくる。
「えっ、うん。僕の憧れなんだ。いつかオールマイトみたいにいろんなところにいけたらいいなって」
 はん、と小馬鹿にしたように息をもらし、意地悪そうに口元を歪めた爆豪が、本を出久に突っ返してくる。
「てめぇみたいなヤツが町からでたら即死ぬわ」
 何も知らないのにそんなことをいわれれば、さすがにむっとする。
「大丈夫だよ、薬草を採りにでかけるから、案外と丈夫だし。それに、モンスターのこともわかってるよ。あ、もちろん、君たちみたいな冒険者には敵わないけどさ」
 出久はモンスターをみかけたら、そうっと身を隠し、刺激しないようにやりすごすことを旨としている。薬草の採取が主な目的であるため、彼らと争う意味がないのである。
「ったりめーだろ」
 出久の言葉をうけて、爆豪がすこしだけ機嫌よさそうに目を細めた。
「でもね、お父さんも、国が編成した東国探検部隊に参加しているし……、僕もいつか冒険にいきたいなって思ってる」
 そして、まだ誰もみつけていない、誰かの役に立つ薬草をひとつでも発見したい。そんな夢を語る出久に、切島が問う。
「父親は冒険者なのか?」
「ううん、植物学者だよ。新種の植物みつけて、お母さんの名前をつける! って意気込んで出掛けて行ったよ」
「へえー! なんかいいな、そういうの!」
「えへへ」
 切島の、純粋に感心する瞳と表情をみていると、頬が緩む。
「本気で外にでるんなら、しっかりとした護衛つけねえと、マジで死ぬぞ。あまっちょろいことばっかいってんな。まあ、しったこっちゃねえがな」
「もう……」
 そう思うなら、なにもいわなきゃいいのに! と、心の中で舌を出しながら、細い路地を縫うように歩いていく。
 そうしているうちに、店に到着した。革紐に通して首から下げていた鍵を取り出し、開錠する。
「ここがうちの薬屋だよ」
 からん、とベルの音を鳴らしながら扉をひらく。どうぞ、と手で中へ入るよう促せば、二人の少年は薬屋へとはいっていく。
「邪魔するぜ」
「……へえ」
 きょろきょろとあたりを見回す切島と対照的に、爆豪はじっくりと品物を眺めている。
「そういえば、なにがいるの? 表にでてなかったら裏から探してくるから、遠慮なくいってね」
「んじゃ、まずは……」
 切島が必要な品を書きとめてあるとおぼしき紙を取り出す。
 顔を付き合わせながら、そこに書いてある薬草と出来上がっている薬を用意していく。
「この薬草、どうするの? 調合しようか?」
「ああ、俺たちでできるから大丈夫だぜ。うちんとこ独特の薬だからな」
「へえー、調合もできるんだね。すごいや」
 どうやって作るのか教えてくれないかな? と思いつつ、出久は薬草をならべて紙に包んでいく。
 合計金額を計算し、切島からうけとった代金の確認をしていると、カウンターの上に美しい濃紺の薬瓶が置かれた。
 これもかな、と思って顔をあげると爆豪が立っていた。
「おいこれ、今店にあるぶん全部だせ」
「ごめん。あの棚にあるので全部なんだ」
 爆豪が持ってきたのは、先日騎士団がほとんど買い占めていった薬草を原材料に、母親が魔法をかけてつくった解毒薬だ。
「あ?! これっぽっちしかねえってどういうことだ!」
「この薬の原料を騎士団の人がたくさん買っていったから……これだけしか作れなかったんだよ」
「クソが……!」
 口汚くそんなことをいう爆豪に、出久は眉を下げた。
「ごめんね、とりあえずある分だけだすから」
 そういって薬棚の前に移動した出久は、残りの瓶をとりだす。カウンターに置かれたものもあわせて、全部で五本だけ。とはいえ、効果は抜群だ。これだけでも、たいていのことなら対応できるはず。
「ん? ってことは噂のモンスター退治に騎士団が出るのか?」
 二人の会話をきいていた切島が、ふと眉を顰めた。どこか焦ったような、困ったようなその表情に、出久は首を傾ける。
「まずは調査と確認だと思う。どんな相手かわからないからね」
 家畜だけでなく、商隊の馬も食い荒らしたというモンスターは、舐めてかかっていいものではない。まずはどういった種類の、どういった性質をもつものか。それを探ることが先決だろう。
「はっ、慎重なことで」
「損害を少しでも減らそうとするのは悪いことじゃないだろ。そんな言い方するなよ」
 今頃、対応に追われているだろう友人たちのことを思いだし、出久は唇を尖らせる。一生懸命やっているひとたちが、いるというのに。
 すると、爆豪が目を吊り上げてカウンターを殴った。古びた木造のそれが、大きく揺れる。ころり、濃紺の薬瓶が倒れた。
「!?」
 思わず目を閉じた出久が、恐る恐る目を開けると、爆豪の握りしめた拳の合間から、白い煙が立ち上っているのがみえた。
「呑気にそんなこといってるから後手に回って事態がややこしくなるんだろうが!」
 怒気を撒き散らし、歯を剥き出しにして吠える爆豪に、切島がとりつく。
「おい、爆豪落ち着けって! 緑谷にいってもどうにもなんねえだろ!」
 いきなり激昂した爆豪の腕をひき、切島が店から連れ出していく。このまま商品に損害を与える危険性を、考慮してくれたのだろうか。
「悪い、緑谷! こいつが落ち着いたらまたくるからよ! とりあえず包んでおいてくれ!」
「あ、うん……」
 からん、と来たときと同じように、ベルを鳴らして二人は慌ただしく出ていった。
 彼らは、騎士団にいる友人たちのことを何も知らない。でも、出久もまた、彼らのことを何も知らない。
 きっと、自分の言葉のどれかが、爆豪の心の触れてはいけない場所を、無遠慮に侵したのだろう。
 あの赤い瞳が、一瞬悲しげに揺れたのが、やけに記憶に焼きついていた。

 

 

「うひーっ?!」
 出久は情けない悲鳴をあげながら、全力で森の中を走っていた。
 背負った薬草をいれた採集箱が邪魔なことこのうえもないのだが、降ろす余裕もない。
「なん、なんでっ!」
 後ろを振り返ると、鋭い爪を宿した八本の脚を器用に動かし、大きな蜘蛛型のモンスターが迫っているのがみえた。目測では牛三頭分ほどはあるだろうか。みるからに強靭な顎にはえた牙が、獲物をはやく寄越せといわんばかりに、打ち鳴らされる。
 やばいやばい! 薬草の補充にきただけだったのに、なんでこんなことになっているのか!
 このあたりに、あんな大型かつ凶暴なモンスターは生息していないはずなのに!
 となると、町で噂になっていたモンスターのことが脳裏を過るわけだが――あれは、方角的には街を挟んで反対側の草原にいるんじゃなかったのか!
 いろんなことが頭を巡るが、いまは逃げるのに精一杯。ここで死ぬなんて、冗談ではない。
 出久は、体格差を活かして、木と木の狭い間を駆け抜ける。うまくひっかかってくれないかという願いをもって、振り返る。
 しかし、身体の大きさのわりに、蜘蛛は非常に機敏かつ器用だった。頭もよいらしく、自分が通れない狭い場所を避けて、別方向から出久に迫りくる。
「くそっ!」
 いつもはそんなことをいわない出久であるが、この現状では気にしていられない。
 苦々しく口もとを歪めながら、再び走り出す。こうなったら仕方がない。向かうのは、あまり近づかない森の奥。
 棘のある植物でできた藪の中へと迷わず突っ込んでいく。
 皮膚や服のあちこちがひっかかって裂け、血が滲む。でも、ここで足をとめるわけにはいかなかった。
 もう少し、もう少し!
 背後に死の手が伸びていることを感じながら、出久は藪の終わりでわずかに速度を緩め振り返る。
 すぐそこに、出久を捕えようとする爪がみえる。怖い。でも、歯を食いしばってその恐怖を堪え――ぎりぎりのところで横に飛んだ。鋭い爪が、出久の緑のベストの脇を裂いたが、皮膚には届いていない。
「っ! あ、あああああ!」
 出久は、転びそうになるのをなんとか踏みとどまって体勢を立て直すと、蜘蛛の膨れた腹めがけて素早くおろした採取箱を、力いっぱい振り抜いた。
 腕全体が外れてしまいそうな重みに、歯を食いしばる。分別してしまっていた薬草たちが、はらはらとあたりに舞う。
 そして、己の勢いと出久に押し出されたせいで、止まることがでなかった蜘蛛はそのまま――藪の向こう側に広がる崖下へと落ちていった。
「はっ、はっ、はっ……!」
 全速力でここまで駆けてきた身体的負担と、ここで死ぬかもしれなかったという精神的負担が、どっと押し寄せてくる。
 出久はその場に膝をついた。
 この崖はそれほど深いわけではない。だが、水や風の浸食で尖った岩が立ち並んでいる。うっかり足を踏みはずして落ちたりしないよう、なるべく避けている場所だった。
 蜘蛛の身体は見た目より柔らかい部分が多い。倒すとまではいかずとも、多少足止めになればいい。
 いまのうちにここを後にし、騎士団に報告しなければ。
 出久はなけなしの体力と気力を振り絞り、ふらつく足を叱咤して歩き出した。
 しかし。
 ひゅ、と大きな影が出久を覆う。
 目を見開いて背後――太陽を遮った何かをみあげる。
 そこにいたのは、さきほど突き落としたはずの蜘蛛。
 岩が突き刺さっているところもあるが、どうやら致命傷にはいたらなかったらしい。
 腹の先から出した糸で崖下から脱出したのか、いままさに出久に覆いかぶさるように上空から躍りかかってきている。
 その姿が、動きが。やけに遅くみえるのに、出久の身体はぴくりとも動かない。
 喰われる。いや潰される。あの巨体を、人間である自分が受け止められるわけがない――そして、死ぬ。
 やけに冷静にそう思った。死ぬ覚悟などできるはずもないが、その未来を予感した。
 しかし、それですべては終わらなかった。
 目を見開き自分の生を終わらせる存在を見つめ続ける出久の横を、何かが駆け抜ける。真紅の色彩が、視界いっぱいに翻る。
 両手を蜘蛛に向かって伸ばすその姿。
「死ね!」
 物騒な掛け声とともに、爆炎が空へと駆け上がっていく。眩い光、皮膚を焼く熱、身体を圧す風。
 気づけば、出久は地面に尻もちをついていた。
 地上から地獄の業火のごとき攻撃を繰り出された蜘蛛が、吹き飛ばされて崖下へと落ちていく。
 理解できない事態の連続に、出久は目も口も開きっぱなしだ。
 震える手をなんとか持ち上げ、崖の縁から満足気に下を覗き込んでわらう少年を指さす。
「き、君っ……!」
「あ? ンでてめぇがこんなとこにいやがる」
 ようやく気付いたとばかりに、出久の命の恩人――爆豪が、眉をあげて出久を見下ろした。
「薬草、採りにきたら、さっきのに出くわして! な、なんでここにあんなモンスターがっ?!」
「そりゃ、俺が狩りにいったらこっちに逃げたからだろ」
「君のせいかよ!?」
 大袈裟な身振り手振りで現状を説明していた出久は、爆豪の言葉にうずくまって地面を叩いた。どうりでおかしいと思ったのだ。
「ははっ、よーやっと仕留めたぜ」
「ちょ、ちょっと……! 待って!」
 出久のことなどどうでもいいらしく、爆豪がひらりと崖から身を躍らせる。
 慌てて覗き込むと、土埃をたてながら岩にぶつかることもなく、爆豪は崖下に辿りついていた。
「もう!」
 放っておいてもいいのだが、この森にくわしくないだろう爆豪を置いていくのも気が引ける。
 出久はあたりを見回して、自分が降りられそうな箇所を探す。緩やかな斜面に、ちょうと蔓が垂れ下がっているところがある。あれを使えばなんとかなるだろう。
 山のほうにも採取にいったことのある経験があってよかったと思いながら、出久は爆豪にいくぶんか遅れて崖下へと降り立った。
 ぴくりとも動かなくなった蜘蛛へと近寄ると、さきほどの炎に焼かれたせいか、嫌な臭いがした。
 しかし近づいてよくみてみれば、あちこちに切り傷やいましがたついたとは思えない火傷のあとなどがあり、出久を追いかけはじめる前にも誰かと戦っていたのだろうことがみてとれた。
「――こいつはな、うちンとこでも大暴れしたやつなんだよ。俺と切島はな、国をでて追いかけてきたんだ」
 おとなしく立っていた爆豪が、静かな口調でそんなことをいう。
「え?」
 驚いて視線を向けた出久は、息を止めた。穏やかでどこか遠くをみているような、とても少年がするような表情ではない。出久にはわからない深い感情が滲みでていて、みているほうの胸が痛くなる。
「ジジイどもがもたつかなきゃ、変な対抗心で俺たちの邪魔をしなけりゃ、被害はもっと少なくてすんだ――死ななくてすんだヤツだっていた」
「!」
 店で激昂した爆豪の言葉を思い出す。そうか、そんなことがあったから、悠長に事に当たろうとする騎士団やそれを擁護した自分に、彼は怒ったのだ。
「……ごめん」
 何も知らなかったから、は言い訳にはなるまい。でも、謝らずにはいられなかった。あのとき確かに、爆豪はたすけられなかった人を想っていたのだろうから。
「……ふん」
 それ以上なにもいわなくなった爆豪に、話しかけることもできず、出久は死んでしまった蜘蛛をみつめた。
 さきほど出久を噛もうとしていた牙が目に入る。そこから滴る液体は、毒、だろうか。
 それを見つめていた出久は、そうだ、とポケットから硝子の小瓶を取り出した。
 そして、もう動かないとわかりつつも、おそるおそると蜘蛛に近寄っていく。
「おい、うかつに触るんじゃねえ。死ぬぞ」
 出久の行動を爆豪が咎める。しかし、出久は頭をふって小瓶をそうっと牙へと近づけた。
「でもこういう毒って貴重なんだよ。極々微量なら薬として使えるかもしれないし、効果的な解毒剤を作るのにだってどういった毒なのかしらべなきゃいけないだろ。これ、あとでぜったいに役に立つ」
「……そーかよ、好きにしろ」
 細心の注意をはらって、出久は毒液を採取していく。
 ごめんね、誰かを救けるために、使わせてもらいます――採取を終えた出久は、心の中で祈りを捧げた。
「そういえば、切島くんは?」
「あいつなら別のモンスター相手にしてる。この蜘蛛とやりあってるところに横やりいれてきやがって、空気読めっての」
「一人で大丈夫なの?!」
「あ? あいつがまけるわけねえ」
「そっかあ……」
 随分と信頼してるんだね、と言いかけたとき。
 蜘蛛の背が、もぞり、と動いた気がした。そんなはずはないのに、と出久が目を凝らした瞬間。
 ざわわ、と硬いはずの殻が波打つように蠢いた。
「へ? え、ちょ……!」
 違う。殻だと思っていたものは、薄い皮の下に無数の小さなものが寄り集まった何か、だった。
 動きの気持ち悪さに出久が頬を引きつらせて後退したことに、爆豪も気付いた。
「どけ!」
 素早く爆豪が前にでる。それと同時に、蜘蛛の背が膨れ上がって弾けた。
 そこから跳びだしてきたのは、無数の子蜘蛛。出久の手の平ぐらいのそれが、いくつもの足を動かして迫ってくる。
「しつけえんだよ!」
 喉を引き攣らせて硬直する出久の前で、爆豪の攻撃が華開く。
 閃光、爆炎、暴風――子蜘蛛を蹴散らすその攻撃の余波をくらった出久は、顔の前で腕を交差させてそれを凌いだ。
 音も風もおさまったが、まだ耳がおかしい。何もかもが遠い音をなんとかひろいつつ、そうっと目を開ける。
 視界はなんとか無事だったようで、抉れた地面と焼かれたたくさんの子蜘蛛みえた。そして、さきほどと変わらぬ勝己の背。
 は、と安心して長い息を吐く。くわん、とまだ何か木霊するような耳を思わず撫でた。
「こいつ、雌だったの、か、……」
「背中の薄い殻の下に卵のうから孵化した子を背負ってたんだね……あいたた……まだ耳がおかしいや」
 それにしてもさっきの爆炎はほんとうにすごかった。まるで、オールマイトのごとき強さだ。
 そういえば、崖の上で助けてもらったときも、見事な攻撃をしていた。
 彼の習得した魔法なのか、それとも一族独特の特殊能力なのだろうか。ぜひともきかせてほしい。
 出久が、目を輝かせて爆豪に賛辞をおくろうと顔をあげたとき。
 ぐらり、と真紅の背が揺れた。
「え、」
 音をたてて、爆豪がうつ伏せに倒れ伏す。顔を蒼くした出久は、慌てて駆け寄った。
「どうしたの?! ちょっとみせて!」
「うる、せ……」
 触られるのが嫌なのか、爆豪は身を捩るが、力が入っていない。出久は無理やり仰向けにさせて全身を確認する。
 あんな大きなモンスターと戦闘をしたにもかかわらず、目立った外傷はない。しかし、二の腕に小さな傷がふたつあった。
「もしかして……さっきの子蜘蛛……!?」
 全部燃やしてくれたのかと思ったが、あれだけの数だ。数匹取り逃がしていても不思議ではない。きっとそのうちのどれかに噛まれたのだろう。
「僕のところで買った解毒薬、ある?!」
 出久は自分のシャツの袖を力いっぱい引きちぎり、腕の付け根である脇あたりをきつく縛り上げながら訊ねる。
「てめェの、たすけ、なんざ……いら、ね……」
「そういうこといってる場合じゃないだろ!」
 埒が明かないととばかりに、出久は勝手に腰についた小さな鞄を漁る。
「あった!」
 言動は粗野なところがあるが、あの爆炎を操るさまをみて、爆豪には慎重なところがあると出久は感じていた。そんな少年が、万が一のときの準備をしないわけがない。
「ほら、飲んで! はやく!」
 小瓶の蓋をあける。嗅ぎ慣れた匂いがあたりに漂う。
 出久は爆豪の上半身を無理やり起こして、口元へともっていくが、意識が朦朧としているのか飲む様子がない。
「ああ、もう!」
 なりふり構っていられなかった。さようなら僕のファーストキス。そんなことを考えながら、出久は小瓶を一気にあおった。
 そして、薄く開いた爆豪の唇へと覆いかぶさるように口づける。
「ん、ん……」
「……ァ」
 難しかったが、何度が小分けにして無理やり口移しで飲ませていく。
 最後の一滴まで爆豪の口へと注いだ出久は、口を拭いながら辺りを見回し、考える。
 父が配合を考え、母が魔法をかけたこの解毒薬は、すぐに身体に浸透するようにできている。あとは、蜘蛛の毒に対してどれほどの効果があるのか、だ。傷口の手当もしたい。
 しかし、今日はこのまま帰るつもりだったから軽装だ。一晩、森で明かす準備はしてこなかった。夕暮れも近い。日が落ちた森の中を移動するなんて、死にたいといっているようなものだ。いまから町にもどるのは不可能といっていい。
 でも、救けなければ。否、絶対に救けてみせる。そして、「ありがとう」ってお礼をいうんだ!
「おも、いっ……!」
 大好きな、偉大なる冒険者オールマイトの冒険譚を思い出しながら、出久は歯を食いしばって爆豪を担ぎ、歩き出した。

 

 

 綺麗な水で浸した布を、そっと爆豪の額に当て、泥と埃を拭っていく。
 あたりはすっかり暗くなっていて、暖炉の明かりだけが唯一の光源であり熱源だ。
 ふう、と出久はようやく人心地ついた気分で、額の汗を拭った。
 摘んできた薬草で応急処置もした。本当なら、乾燥させて他の薬草ともあわせたいところだったが致し方ない。あとは朝までここにいるしかできることはない。
「う……?」
 冷たい感覚が刺激となったのか、爆豪が小さく呻いた。それを聴き逃さなかった出久は、その顔を覗き込む。
「大丈夫? 気分は?」
 うろ、と赤い瞳が辺りを彷徨う。賢い彼は、自分に何があったのかをすぐに悟ったのだろう。少しだけ悔しそうな顔をして、出久を睨み付けた。
「どこだ、ここ……」
「森の中のきこり小屋。僕みたいな生業の人間の、避難小屋でもあるんだよ」
 もしかしたら誰かいるのではないかと思ったのもあり、ここに来たのだが、あいにくと人の気配はなかった。
 勝手ながら備え付けの毛布や器具をお借りして、爆豪の応急処置を終え、暖炉に火を入れて今に至る。
 と、そのあたりを爆豪に手早く伝えた出久は、へらりと微笑んだ。
「薬草を摘みに来たときとか、遅くなって帰れないときに、たまに使わせてもらってるんだ。ここなら安全だよ、朝になったら、僕が町の人を呼びに行ってくる。嫌かもしれないけど、ここで一晩過ごそう」
「……!」
 それまで、おとなしくぼうっと出久を見上げていた爆豪だったが、急に動き出した。
「ちょっと、どこいくんだよ!」
「うる、せ……!」
 出久から少しでも離れたいとでもいうように、ずるずると爆豪は小屋の隅へと這うようにして移動していく。
 その肩を掴むが、弱弱しく打ち払われて、何も言えなくなる。
「くっそ、ぜったいに、ちかよるんじゃ、ねえ……」
「でも、」
 どうしてそんなことをいうのかわからない。そんなに自分といるのが嫌なのだろうか、とも思う。だがこの行動にも、自分が知らないなにか理由があるのかもしれないと思うと、再度手を伸ばすことが躊躇われた。
 そうしているうちに、爆豪は自分の外套にくるまると、隅で丸くなってしまった。まるで手負いの獣だ。人の手など借りるくらいなら死ぬとでもいうような孤高さが、悲しい。
 やがて、少し荒い寝息が聞こえ始める。そうっと出久は爆豪に近づいた。
 起こさないように覗きこめば、眉を潜めて爆豪は眠っていた。やはり体力が落ちているのだ。
「……さむ、……」
「あ……」
 小さくそんな譫言が聞こえてきて、もう、限界だった。とてもじゃないが、このままにしておけない。
 近寄るなっていわれたけどしかたない。出久は、朝に怒られることを覚悟で、爆豪の身体に手を伸ばした。
 外套を剥ぐと、力抜けた重い身体を引きずって暖炉の前まで戻す。毛布を敷布替わりにして、外套を身体の上にかけた。
 そして、意を決すると、その隣に身体を滑り込ませる。不思議な文様の彫られた剥き出しの背に、はりつくようにして寄り添う。
 暖炉の熱が伝わらない方向から、彼を温めようとの思いつきだったが、単純に恥ずかしい。
 同性なのだから問題ない、問題ない――そう自分に言い聞かせているうちに、爆豪の震えがおさまっていくのを感じた。
 よかった、と薄く微笑んだ出久は、たくましい背に指先で触れた。
 とくり、とくり、とふたつの心音が重なっていくような、不思議な感覚が心地よい。
 冒険者で乱暴で横柄な態度の少年であるのに、こうしているとすごく落ち着く。きもちが、いい。とろり、とろり、と瞼を上下させ、出久はまどろみに落ちていく。
「……おやすみなさい」
 明日には、どうか彼が元気になってくれていますように。
 そう願いながら、出久は夢の世界へとその身を委ねた。

 

 

 目を覚ますと、身動きがまったくとれなかった。
「……なにこれ……」
 まだ開ききらない目をなんとか上下させ、視界の確保につとめる。
 まず目に飛び込んできたのは、滑らかな白い肌。視線を上にあげると細い顎。形のよい唇。すっと通った鼻梁、伏せられた長い睫――目を閉じていると、年相応の幼さになるんだなあ、と呑気に思った。
 どうやら、熱源としていつのまにか抱え込まれてしまったらしい。
 傷のないほうの爆豪の腕が、がっちりと出久の肩を抱いている。
 しばらく待ってみるが、出久を抱きしめて眠る爆豪は、まだ起きる気配がない。それもそうか、毒に対抗するために、体力のほとんどを使い果たしているはずだ。その割には、この力強さが解せないが。
 深く考えることを放棄した出久は、なんとか動かせる左手を伸ばし、そっと爆豪の額に触れた。
 熱もないし、震えてもいない。傷口は少し炎症を起こしているかもしれないが、それほどひどいことにはなっていないだろう。これならば、町の医者にみせれば大丈夫なはず。
 よかった、と出久は胸を撫で下ろした。噛んだのが子蜘蛛であったこと、すぐに解毒剤を飲んだことが、功を奏したのだろう。
 もぞもぞとみじろぎして、なんとか爆豪の腕を外す。外の水源から水を汲んでこようと起き上がろうとして――ぐ、と腰辺りに力が加わり、動けなくなった。
「あ、ごめん、起こした?」
 慌てて、爆豪の顔を覗き込む。
「てめえ……俺の話、きいてなかったのかよ……」
 忌々しげなその言葉に、近寄るなと彼がいっていたことを思いだす。
「……だって、寒そうだったし。ほうっておいて体温さがったらあぶないと思って……」
「はー……クソ、……クソがっ」
 顔を覆うように大きな手を当てて、クソクソいっている爆豪には申し訳ないのだけど、出久は起きたい。
「あの、ごめん。あとでちゃんと怒られるから、離してくれる? 水を汲みにいきたいんだけど……、え、ちょ、」
 どうにか拘束されている腕から逃れようとした瞬間、出久の視界がくるりと回った。
 え、と間抜けな声を漏らした出久の視界には、小屋の天井。そしてその間に割って入ってきたのは、爆豪の顔。
 床に転がされ、圧し掛かられたのだと理解した出久は、顔を真っ赤にした。
「えっと、ええっと、なに、あのっ、ひああっ?!」
 眠るときに息苦しいからとボタンをはずしていたシャツの隙間から、爆豪の手が滑り込んでくる。
 そのまま、左右に開かれて、出久は耳と首まで真っ赤にして頭を振った。
 じっと剥き出しになった胸部を見つめていた爆豪が、ため息をついて出久の肩へと額を預けてきた。
「……やっぱりか……」
 あまりの事態に、大混乱に陥った出久の耳に、ふ、と熱い息がかかる。ひ、と肩を竦めて逃げようとするのを許さないとばかりに、べろりと舐めあげられた。
「かつき」
「……へぁ?」
 何をされているのか理解できず、疑問符ばかりが浮かぶ思考に染み入る三つの音。心の中でその響きを繰り返すと、心臓がぎゅうっと掴まれたような、不思議な痛みを覚えた。
 いつの間にかきつく閉じていた目を薄っすらとあける。
 出久を覗き込み、目を逸らさず、爆豪が言う。
「俺は、爆豪勝己、だ」
 名前を教えられているのだと理解した出久は、ひゅっと喉の奥を鳴らした。
「下の名前は軽々しく呼んじゃだめなんでしょ?! なにあっさり名乗ってるの?!」
 切島、爆豪と出会ってから少し調べたのだ。
 父が残していった本曰く。南のほうの国では、その者の姓名はごく近しい相手にしか名乗らない風習があるという。それは、兄弟も例外ではない。姓名を知るのは親と、そして生涯をともにする相手のみ。
 それを何故! 今! 僕に対して名乗ったのか!
 嫌な予感をひしひしと感じながら、出久はなんとか逃れようと足をつっぱり、ずるずると上へ上へとあがっていく。そのぶん、爆豪が追いかけてくるので、さしたる意味はなかったのだが。
「いいから、呼べや」
「いやいや、そんな……いたっ?! なんで噛むんだよ!」
「噛んでねえわ、吸っただけだ」
「余計悪くない?!」
 頑なに拒否する出久に苛立ったのか、おもむろに顔を伏せた爆豪が、出久の心臓の上あたりの皮膚を吸い上げた。ちりり、とした痛みに出久は思わず悲鳴を上げる。
「よべっつってんだろうが!」
 凶悪な顔で睨み付けられ怒鳴られて、出久は涙目になりながら震える唇を動かした。
「か、かつ……かっつ……かっちゃ、かっちゃん! とか、駄目かな!?」
 名前を呼んでしまうと後戻りできない気がして、思いついたあだ名を叫ぶ。すると、爆豪のとどまることしらないような勢いが、緩んだ。
「……まあ、いい」
 むすっとしながらもちょっとだけ機嫌がよさそうに赤い瞳を細める勝己に、出久は現状を一瞬忘れ、ぼうっと見惚れてしまった。
 いやいや、まだ危機は去っていない。はっと意識を取り戻した出久は、爆豪の胸に手を突っ張って押し返そうと試みる。
「で、あの、ちょっとはなれて……!」
「なんでだよ」
 だが、鍛えられた冒険者の肉体は、びくともしない。余裕が出てきたのか、むしろ楽しそうに唇を持ち上げて、爆豪は笑っている。
「だって、ち、近い近いぃぃ!」
「黙れ。ここまでやっといて、逃げようとするんじゃねえ」
 ぐ、と爆豪が唇を寄せてくる。それが目指しているところなんて、ひとつしかない。
 顔を傾け、長い睫越しに赤い瞳を揺らして、ほんのりと開いた唇が出久を求めて降ってくる。
「もう、意味、わかんなっ……!」
 やばいやばいキスされる。さようなら、僕の二度目。覚悟をきめて、ぎゅっと目を閉じると、ほろりと涙が落ちていった。
 互いの息が混じりあうほど近づいた、そのとき。
「爆豪! ここか?!」
 ばん、とけたたましい音をたてて小屋の扉が開かれた。
 びくーっと肩を跳ねさせた出久が慌ててそちらへと視線を向けると、朝日を背にたつ切島の姿がみえた。
「あれ? ……緑、谷……? なんで……あっ」
 小屋の中の状況をみて、さっと切島が顔色を変える。
 いや、まって、ちがう。出久は、羞恥に身悶えながら、呆然とする爆豪を、火事場の馬鹿力で勢いよく突き飛ばして逃げ出した。シャツの前をあわせて、床の上にへたりこむと首を振る。
「き、ききき、切島くん……! いやあの、べつにこれは……!」
 ただの応急処置で、いましがた起きたばかりで、僕たちなんにもしていません、と言い訳を並べ立てようとしたところに、複数の足音が響いた。
「緑谷くん、無事か?!」
「飯田くん!」
 切島をおしのけるようにして小屋へと飛び込んできたのは、白い鎧をみにつけた友人である騎士の少年だった。
 ぱあっと出久は顔を綻ばせて、立ち上がる。駆け寄ってきた飯田が、出久の様子を何度も確かめる。それに大丈夫だよ、とこたえているうちに、もうひとり少年が姿をあらわした。
「ここにいたのか、緑谷」
 上等な布を惜しげもなく使った衣服を身に着けた少年が、小屋へとはいってくる。特徴的な赤と白の髪をしたもうひとりの友人に、出久はますます笑みを深くする。
「轟くんもきてくれたの?!」
「ん。そこの冒険者から連絡を受けて、俺が指揮をとって捜索してた」
「ありがとう……!」
 三人で手を取り合って無事を確かめ喜び合っていると、ごう、と熱い風が小屋の中を満たした。
「えっ」
 慌てて風の源を探すと、ゆらり、と爆豪が身を起こすところだった。
 怒りのせいか、彼のあの爆炎の力のせいか、あたりの空気が歪んでみえる。
 さきほどのことも相まって、ごくり、と出久は緊張のあまり喉を鳴らす。
 爆豪のことを知らない飯田と轟だけが、不思議そうな顔をしている。
「……つ、に……」
 低い声が、なにか言っている。わななく手の内で、火花が場違いなほど美しく舞う。
「そいつに触るんじゃねえ!」
「にげろー!」
 爆豪の雄叫びと、切島の悲鳴があがったのはほぼ同時。そして、次の瞬間には小屋が吹き飛んでいた。
「……なに、これ……」
 ぱらぱらとあたりに舞い散る焦げた木屑に、出久は顔を覆った。
 爆豪の爆炎を、咄嗟に生み出した氷の壁で防いだ轟が、首を傾げる。
「危ねぇな、なんだあいつ」
「君、この小屋の持ち主になんというつもりなんだ!」
 その隣では、飯田が憤って叫んでいる。
「気持ちはわかる! でも落ち着け、爆豪!」
「はなせや、クソが!」
「緑谷、緑谷! そいつらから離れてくれ、たのむっ」
 なに、これ。ほんとなんなの――出久はいきなり見通しがよくなった頭上を見上げ、力なくその場にへたりこむ。
 爆豪の怒号が、美しい朝の森にいつまでも響き渡っていた。

 

 

 北側に設えられた天窓から、ほどよい太陽の光が差し込むテーブルで、二人の少年は沈痛な面持ちで向かい合っていた。
「マジか」
「マジだ」
 切島からの事情説明を受け、そんな馬鹿なと飛び込んだ父の書斎。

 ――初めて口づけを交わし、一晩寝床を共にした相手を伴侶とせよ――

 古い本に書かれたその一文を穴が開くほど凝視して、ぶるぶると震えていた出久は、おもむろに本を閉じると頭を抱えた。
 あの森での出来事からはや三日。
 蜘蛛に襲われたり、爆豪にたすけられたり、小屋で一晩あかしたり、なぜか怒り出した爆豪に小屋が吹き飛ばされたり。
 そんな数々の現実を、疲れ切った身体と心で受け止めきれなかった出久は、その場で気を失い、心優しい友人二人の手によって町へと連れ戻された。
 爆豪は、切島がどうにかしたらしい。よくできたコンビである。
 そして、念のためと知り合いの病院でしばらく安静にしていた出久は、退院と同時に現れた切島から、国の掟の話を聞いたのである。
 とてもじゃないが信じられなかった。だが急ぎ帰った我が家で、裏付けのために開いた父親の本には、悲しいかな、切島と同じことが書かれていた。誰か嘘だといって。
 しかし、目の前には鎮痛な面もちの切島が座っている。重苦しいその空気と、彼の男らしい気性から考えるに嘘をついているとは考えにくい。
「……いやいや、待って待って。あれはそういうんじゃないよ!? ただの人命救助じゃないか!」
 自分の人生があの一夜で決まってしまったなど、冗談ではない。
「一晩をともにっていったって! 寒いっていうし、毛布が一枚しかないから一緒に眠っただけで!」
 だから、これはあてはまらないだろ! という懸命の訴えに、切島は無情にも頭を振った。
「……いや、それでも掟は掟だしな……あきらめてくれ、緑谷」
「できるわけないだろ!?」
 なにが悲しくて、男相手に嫁認定されなければいけないのか。
「つーか、その服の下」
「!」
 切島の指摘に、びくっと出久は身体を震わせ、咄嗟に心臓の上をおさえた。
「そこに、小さいけど紋様ついちまってるんだろ?」
「……うっ」
 そうなのである。あの朝、口付けられた胸には小さな花のような痣が浮かび上がっている。最初は吸い上げられたときの痕かと思ったが、どうやら違うらしい。
「もー、あきらめろって! 爆豪んちの精霊がつけちまったんだからもうどうしようもねえって!」
「いやだー!」
 うわあああん、と出久は机に突っ伏した。
 ふわ、と慰めるように痣が温かくなった気がしたが、そんなものではこの心の傷は癒えない。
 なんと、南の国では一族ごとに精霊がついており、目には見えないがその家の者を守っているのだという。自分たちを祀ってもらう代わりに、家を繁栄させるもの、らしい。
 だが融通が利かない部分があるらしく、掟にも厳しい。なので、口づけを交わし、一夜をともにした出久を、爆豪のお手付けであるとして印をつけたのだという。
「これ、どうにかならないの……?」
 こんなこと母親にもいえやしない。僕、異国にお嫁にいきます! なんて気が狂っているとしか思えない。
「手段がない、わけじゃねえけど……」
「えっ! なにそれ、教えて!」
 口ごもる切島に詰め寄るように、出久が立ち上がり身を乗り出した瞬間。
「こんなとこにいやがったのか」
「ひっ!?」
 今、もっとも聞きたくない声が聞こえた。胸が大きく震えて、苦しくなる。顔に熱が集まってくる。
 ぎ、ぎ、ぎ、と油のさされていない扉が開くような緩慢さで、出久は振り返る。方向は書庫の出入り口。
 はたしてそこには、予想通り――にやり、と笑った爆豪が立っていた。出久が他の男と一緒にいるのは許さないようだが、切島は許容範囲であるらしい。
 書斎が吹き飛ばされる可能性がないことに安堵しながら、出久は手を前に突き出した。
「かっちゃん、落ち着いて。君は男で、僕も男。だから、掟は適用されない。そうだろ?!」
 頼むからそうだといって。
 必死な出久の願いが聞き届けられたかのように、爆豪が柔らかに微笑む。
 そんな表情もできるんじゃないか、と出久の胸が高鳴る。素直に、格好いいと思った。
 いやいや、なにときめいているんだよ、僕!
 あの日から随分とおかしくなった自分の心を、出久は殴り飛ばした。
「そうだな」
「え、」
 思わぬ言葉に、出久が目を見開くと、爆豪が笑みをさらに深くした。それはそれは意地悪な方向に。
「――と、でもいうと思ったか馬鹿が!」
「!?」
 虚を突かれて動けない出久に向かって、爆豪の手が伸びてくる。ベストを掴まれ、前にひかれた出久は態勢を崩して倒れそうになり、思わず手を伸ばす。
 しかし、そんなことにはならず、身を屈めた爆豪により、まるで荷物のように肩に担ぎあげられてしまった。
「うわああああ!?」
 悲鳴をあげる出久の耳に、いやに楽しげな声が届く。
「冒険にいきたいんだろ? ひとまずつれてってやるわ――俺の国までな!」
「いやー! 人攫いー!」
 まるで重さなど感じていない様子で、すたすたと歩きだす爆豪の背を、出久は懸命に殴りつける。しかし、びくともしない。
「ついでに、みたことのない華燭の典を挙げてやるからありがたく思えや!」
「だ、だれかあああ!」
 爆豪の高笑いと出久の悲鳴が、遠ざかっていく。
 彼らの前途を祈るように手を合わせる切島の前から、そうして騒がしい二人は姿を消した。
 たすけをもとめる少年の明日はいずこか。
「まあ、うまくいくような気がするんだけどな……」
 切島のそんな呟きは、精霊に祝福された二人には届くことなく。やわらかな光の中へと、優しく融けていった。