兄の威厳は地に落ちて

 両親が亡くなったのは、事故、だったそうである。
 そうだ、などと、どこか他人事のように語ってしまうのは、そのときのことを覚えていないためだ。
 薄情に聞こえるかもしれないが、人伝にしか当時の状況を理解することができないため、「そうだ」や、「らしい」としか、いえないのである。
 このことについて、出久は幼い頃から折りにつけ、養父と養母からきいていた。
 ほんとうのことを知っていて欲しい、君を愛するお父さんとお母さんは、自分達の他にもいるんだよ――と、養父は眼鏡の向こうにある瞳を、優しく細めていた。
 そのことを、きちんと理解できるようになったのは、小学校に入学する前の頃だった。
 内容については、当事者からしてみれば「まさかどうして」と嘆く不幸なことであるが、悲しいかな、世界全体からみたらよくあること。
 当時一歳の誕生日を迎えたばかりの出久を連れ、親子三人で買い物に出かけた先、信号を無視して交差点にはいってきた車に、両親もろとも跳ね飛ばされたのだという。
 暴走していた車には、銀行を襲った敵が乗っていたらしい。その後、追いかけてきたヒーローによって敵は捕獲され、警察へと引き渡された。
 ベビーカーに乗せられていた出久は、両親が個性を使って庇ってくれたために、無傷だった。
 だが、両親は亡くなってしまった。
 そのあと起きたことは、一歳の赤ん坊であった出久にわかるわけがない。なにができるわけでもない。もちろん、覚えてなどいない。
 ただ、一悶着は、あったらしい。
 出久は、その事実だけ知っていればそれでいいと考えている。そのとき、どんなことがあったのかなどと、根掘り葉掘り訊ねるつもりはない。
 いつもは勝気な養母――お母さんが、辛そうな顔をするのが、いやだった。
 出久は、引き取られた先での暮らしに不満を抱いたことなどない。
 両親は本当の子供ではない出久に、たくさんの愛情を注いでくれた。帰る家はいつも綺麗で、お母さんは美味しいご飯を作ってくれたし、お父さんはなんでもを知っていて、話をするのがいつも楽しかった。
 ときおり、なにかいってくる人がいないわけじゃなかったけれど、二人が出久を守ってくれたから平気だった。
 だから、出久は、とても幸せな幼少期を過ごすことができた。
 そして、もっと大きな幸せが訪れた。出久が五歳のときに、弟が生まれたのだ。
 お父さんと一緒にはいった病室のベッドの上、疲れきったお母さんの嬉しそうで誇らしげな顔。その傍らで、くしゃくしゃの顔で嗚咽を漏らしながら泣くお父さんの顔。
 そして、お母さんの腕にいだかれた、小さな命。ふんわりとした白い肌。お母さん譲りの淡い髪の色をした、赤ちゃん。
 ほんとうに生きているのかと思うくらいに小さくて頼りなくて、すごく可愛くて。でも、確かな命をもってそこに在る、弟。
 出久は震える声で歌うように、母のお腹にいたころからずーっと呼びかけていたその名を、何度も呼んだ。

 

 

「帰ったら、今日の敵のことノートにまとめなきゃなあ……。あ、佐々木さんちのおばあちゃん、こんにちは!」
 口元に手を置き、もう片方の手にはスーパーで買い込んだ食料品をつめた袋をさげ、自宅のあるマンションへの道を歩いていた出久は、見知った近所のおばあちゃんをみかけて声をかけた。
 玄関先の鉢植えに水をやっていた老女が、にこにこと微笑む。
「あらぁ、デクくん。今日も頑張っていたわね、ニュースでみたわぁ。あ、お菓子もっていきなさいな」
「あ、ありがとうございます」
 話好きなおばちゃんと他愛のない世間話に少しだけ興じる。そして、お菓子をいくつかいただいて、出久はまた歩き出す。
 こうして町の人たちとお話をするのもヒーローとして努めだ。それに、労ってもらえるのは嬉しいし、心配してもらえるのも嬉しい。
 歌でも口ずさみたい気分で、出久はとある建物へとはいっていく。
 プロヒーローとしてデビューしてから住みはじめたマンションだ。だが、もうしばらくしたらお別れすることになる。すこし寂しい気がした。
 自分の部屋へと向かいながら、ぼんやりと、そしてしみじみと出久は思い出す。
 血の繋がらない弟が生まれて早十八年。その間に、いろいろなことがあった。
 超人社会といわれるこの世界では、もれなく四歳までに個性が発現する。ところが、出久にはなんの個性も宿ることはなかった。
 それには、両親も驚いていた。産みの親が無個性だったのかというと、そうではなかったらしいから。
 しかし、父や母や自分のような子供を増やしたくなくて、出久は笑顔で皆を救ける、ナンバーワンヒーローのオールマイトに憧れた。
 彼を目標として、日々、ヒーローに関する考察をノートに綴っていた。
 対して、弟のかっちゃん――勝己は、四歳にして『爆破』という、派手でヒーロー向きの個性を発現した。
 家族みんなで喜んだが、一番嬉しそうだったのは、もちろん勝己だった。
 個性が発現した夜、同じ部屋で一緒に眠っていた勝己が、布団にもぐりこんできて嬉しそうにいったことを、出久は忘れたことがない。
「デクは、ムコセーでなんもできねーからな、俺がかわりにヒーローになってやるよ!」
 何度も母に「お兄ちゃんといいなさい!」と言われながらひっぱたかれたせいで、二人きりのときだけ、勝己は出久のことを『デク』と呼ぶようになっていた。
 それが、木偶の坊からきているとわかっていても、なんだかんだと弟に甘い出久は許していた。
 そっと小さな頭を撫でて、出久は微笑んだ。
「そっか……。かっちゃんなら、きっとすごいヒーローになれるね」
 心からの言葉だった。素晴らしい個性を持ち、頭もよく、高い上昇志向も、この歳で垣間見えている。自慢の弟なのだ。なれないはずがないと思った。
「あたりまえだろ! おれがナンバーワンになるんだ!」
「うん、応援してる」
 大きな夢を語る勝己の、体温の高い小さな身体をぎゅっと抱き、二人で笑いあいながら眠ったことは、いまも鮮やかな思い出として出久の胸のうちにある。
 とはいえ、実のところ、無個性だった出久が勝己の個性を羨ましく思ったことが、ないわけではない。嫌な感情に支配されかけたことだってある。
 でも、生意気な言動を繰り返しながらも、勝己なりに慕ってくれていることがよくわかっていたから、やっぱり可愛くてたまらなくて。
 嫉妬なんて気持ちは、生まれたそばから、いつもぐずぐずに形をなくして融け消えてった。だって可愛いのだから仕方がない。可愛いは正義。その言葉の意味を、出久はよく噛み締めたものだった。
 そうして、無個性ということで周囲にはなかなか馴染めないけれど、大切な家族がいてくれたおかげで、出久は小学校、中学校と順調に成長していき――運命的な出会いを果たした。
 オールマイトと出会い、とある事件を経験し、彼の個性を受け継ぐこととなったのである。
 そして、彼との一年に及ぶ特訓の日々を経て、出久は憧れの雄英高校に合格した。
 お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれた。だからきっと、勝己も祝ってくれると、そう思っていた。
 今思えば、それは出久の身勝手な思い込みだった。
 合格発表の日の夜。お祝い準備が整った食卓に現れた勝己は、泣きそうな顔をしていた。服をぎゅっと握り締めて、赤い切れ長の瞳をもっと真っ赤にして、ぐっと唇を引き結んでいた。
 今にも壊れそうな何かを守るような必死なその様子に驚きつつも、出久は勝己に向かってぎこちなく微笑みかけた。
 特訓に明け暮れて、最近はなかなか話しもできなかったけど、僕ね、夢を叶えるための一歩を踏み出したんだよ、と。
「かっちゃん、あのね、――」
「……俺のこと、騙してたのかよ」
「え?」
 言葉を遮り、年齢に見合わぬ低い声で勝己が想定外の言葉を口にしたから、出久は伸ばした手を途中でとめるしかなかった。
 涙が溢れる瞳は鋭く出久を睨みつけていて、まるで裏切り者をみているかのようだった。
「デクのくせに! 俺に嘘ついてたのかよ!」
「ちょっと勝己、どうしたの?」
「ほら勝己、落ち着いて……!」
 いつもはデクと呼ぶとすぐさま手がでる母が、戸惑っている。いつも困ったように眉をさげる父が、もっと困った顔をしている。家族全員、勝己の剣幕にただ戸惑うばかりだった。
「かっちゃん、違うよ、あのね、」
「ふざけんな! 嘘つき野郎が! デクなんか、大っ嫌いだ! だいきらい……だ……! くそっ、くそが、う、ううっ……!」
 いつもはリーダー的存在で、同年代の子たちよりも、ずっと大人びている勝己が、とうとう声をあげて泣きだした。
 驚いた出久が咄嗟に抱きしめると、しばらく暴れていたものの、やがて勝己は背中に手を回してきた。わんわんと泣く勝己の背を撫でながら、出久は何度も「ごめんね、ごめんね」と謝り続けた。
 個性を受け継いだことは家族にも秘密であるといわれていたことが、勝己を悲しませてしまった。こんなに泣かせてしまうくらいなら、勝己にだけは、ちゃんと話しておくべきだったと、ひどく後悔した。
 この日以降、勝己は以前のように出久に笑いかけることはなくなった。それが悲しくて寂しくて、辛かった。
 だが、これまで無個性だと思っていた兄が、実は個性をもっていて、ヒーローになるために雄英高校に通い始めたのだ。
 多感な年頃で、プライドも高い勝己にしてみれば、ずっと裏切られていたのだと、馬鹿にされていたのだと思われても、しょうがなかった。
 ぎくしゃくとした関係は改善の兆しが見えぬまま、出久は雄英高校に進学した。
 それを機に、勝己は身体を鍛えはじめた。もともと登山が好きで、身体はしっかりしていたが、きちんとしたメニューをこなすようになってからは目を瞠るような成長ぶりをみせた。
 ただ、その姿には、どこか焦りのようなものが滲んでいて、出久は心配で何度も声をかけた。無理をしないでと伝えたかった。けれど、怒鳴り返されるばかりだった。
 雄英に入学して半年たった頃には全寮制となり、出久と家族との距離が離れた。帰宅するにも学校の許可が必要となった。
 それでもたまに家に帰れば、勝己と顔をあわせることもあった。けれど、いつもそっけない態度で、勝己はすぐに自分の部屋へと消えていった。
 母がすごく怒っていたけれど、出久は父と一緒になんとかそれを宥めていた。
 三年後、出久は濃密な高校生活の中で様々な経験を積み、雄英を卒業した。念願の、プロヒーローになれたのだ。
 そして、とある事務所で働くにあたり、出久は家をでることにした。
 引越しの準備をしている最中、勝己はほとんど姿をみせなかった。
 しかし、当日、業者に荷物をお願いして、自分も家を出ようと出久が玄関に向かったとき、ようやく勝己がきてくれた。
 階段で、何か言いたげに瞳を揺らす勝己と向き合って、出久は笑った。
「かっちゃん、いつでも遊びにきてね」
「……おう」
 どこか不器用さが滲む顔で、何かを堪えながら頷く勝己は、やっぱり、大切で大事な、可愛い弟だった。

 

 長くも短い回想をしていた出久は、慣れた動作で開錠して扉を開く。
「ただいまー、……あっ」
 一人暮らしだというのに、習慣でついついそう口にしてしまった出久は、玄関に揃えられた靴をみつけて顔を綻ばせた。
 見慣れたその靴は、勝己のものだ。
 転ばないように気を付けつつ、出久は手早くスニーカーを脱いで部屋を進む。
 出久がヒーローとなって二年後、勝己は雄英高校に進学した。トップの成績での入学は、さすがとしかいいようがなかった。
 そのときから、勝己は、ときおりこうして出久の家に勝手にあがりこむようになった。最初はどうして家の中にいるのかと驚いたが、実家に置いてきた合鍵を持ち出してきたといわれて納得した。
 勝己がたびたび出久のマンションを訪れていると知った母は、出久の邪魔をしないよう怒ったらしいが、勝己はどうあっても合鍵を返そうとせず、結果、言い合う二人に困った父が助けを求めてきた。
 遊びにきてくれれば、拗れた関係も改善していくかもしれないと考えた出久は、好きにさせることにした。
 勝己専用の合鍵を作って渡したとき、少しだけその口元が嬉しそうだったのを、覚えている。
「かっちゃん! ……おっと」
 リビングにはいった出久は、大きな声を出してしまった口を慌てて押さえた。
 そろり、とソファに近づく。覗き込んで、ほっと息をはきながら目元を緩ませた。思わず大きな声をあげてしまったが、起こさずにすんだようだ。
 勝己は、長い手足を窮屈そうに曲げ、ソファで眠っていた。
 足音を立てないように気をつけて、さらに近づく。しゃがみこむと、長い睫がかすかに震えているのがみえた。
 手を伸ばして頭を撫でる。見た目からは想像できないくらい、指どおりがよくて柔らかい母譲りの髪が心地いい。くしゃくしゃもさもさの、出久の髪とは大違いだ。
 少年から青年へと替わりゆく狭間の、まだ少し幼さを残した頬を辿り、指先で色づいたやわらかな唇を優しく押した。穏やかな吐息がくすぐったい。
 出久は、にへら、と笑った。
 ああ、可愛い可愛い、僕の弟。
 最近はすっかり格好良くなってしまったから、そんなことをいうときっと怒ってしまうだろうから、心の中だけで伝えるに留める。
 さあ、勝己が起きる前に夕食の支度をしよう。今日はせっかく勝己がきてくれたのだから、ちょっと辛めのカレーにしよう。
 メニューを決めた出久は、音を立てないよう細心の注意を払いながら、立ち上がろうとした。だけど、できなかった。
 しっかりと大きな手で、引きとめられたからだ。ああ、失敗したと、思った。
「ごめんね、起こしちゃったね?」
 申し訳なくて謝罪すると、勝己の眉間に皺が寄った。若いのに、癖になったらどうするんだろう。
「デク……?」
 寝起きらしい擦れた声で、勝己がぼんやりと呼びかけてくる。
「うん、僕だよ。いらっしゃい、かっちゃん。お水飲む?」
 喉が渇いているのかと思ってそう問いかければ、勝己は一瞬迷いをみせたあと、小さく頷いた。
 それをみて、すぐそこに置きっぱなしにしていた買い物袋からペットボトルをとりだす。
 キャップを外して手渡すと、まだどこかぼんやりした様子で勝己は水を飲み始めた。
「今日はどうしたの?」
「……試験、おわった」
 ぷは、とペットボトルの中身の半分ほどを飲み干した勝己が、残ったぶんを出久に預けてくる。出久も少し喉が渇いていたので、それを一口ほど飲んでからキャップをしめた。
「ああ、そっか。それに明日から連休だもんね」
 帰省の許しが出たから遊びに来てくれたんだねと、出久は笑いながら勝己に背を向ける。
 買ってきたものをはやく冷蔵庫にいれておかないと、と思った次の瞬間。
 また、出久は動けなくなった。
「かっちゃん……?」
 今度は、手をつかまれたどころの話じゃない。背後から力強く抱きしめられて、身動きがとれない。
 ああ、かっちゃん、いつの間にこんなに大きくなっちゃったの?
 鍛えているプロのヒーローなのに、すっぽりと腕の中におさまってしまうのが、なんだか恥ずかしいけれど、その成長が嬉しくて出久は少しだけ身を預けてみた。
 勝己の身体が少しだけ揺れたけれど、それは出久の重さのせいではないようだ。さらに、ぎゅっと抱きしめられてなんだか可笑しくなってきた。
 かっちゃんどうしたの、いやなことでもあったの? と。首を捻ってその顔をみようとしたけれど、勝己が肩に顔を埋めてきてできない。
 ぐり、と額を押し付けられると、肩に熱い吐息がかかった。
 こんな風に甘えられるのは、ほんとうに久しぶりで、出久は笑いながら手を伸ばしてその頭を撫でた。
「どうしたの? 今日はすごい甘えん坊だね」
「ちげえよクソが」
「うん? 違うの? じゃあ、お腹減った? 今日はカレー作るからね。食べていくでしょ? ちゃんと、かっちゃん好みの辛さにするよ」
「そっちでもねえよ」
 じゃあどうしたというのだろう。
 ううん、と出久が頭を捻っていると、抱きしめる勝己の腕の力が、さらに強くなった。さすがにちょっと苦しくて、出久はわずかに身じろぎするが、びくともしない。
 どうしよう。さすがに勝己相手に個性を使うわけにもいかない。放してくれいないかなーと、思いながら、出久は勝己の腕を軽く叩いた。
「アメリカにいくって本当か」
 ああ、そのこと。出久は笑って肩を震わせる。
「お母さんからきいたの? うんそうなんだよ。ちょっと、あっちの事務所にいくことになって、」
「いくなよ」
 しばらく日本を離れることになりそうという言葉は、勝己の低い声に力強く遮られた。そんなことを言われると思ってなかった出久は、一瞬言葉につまった。
「え、なに、かっちゃん?」
「いくな」
 する、と肌を撫でられる感覚に、目を見開く。視線を下げると、シャツの裾から勝己の手が侵入していた。いつの間に。
 勝己の個性のため、皮の厚くなった手のひらが、出久の鍛えて割れた腹を撫でる。形容しがたい感覚に、自然と身体が震えた。
「いくんじゃねえ、デク」
「え、ちょ、ちょっと、かっちゃん……?!」
 慌てて、不埒なことをしている手を服の上から押さえつける。なんとかそれ以上の侵攻はとめられたが、こういったことに免疫がまったくない出久は、顔を真っ赤にして叫んだ。
 女性ともなかなかお付き合いにいたらないというのに、まさか弟にこんなことをされようとは!
「ちょっと待ってなにしてるの落ち着こう?! かっちゃん、とりあえずはなれて!」
「なんでデクのいうことなんか聞かなきゃいけねぇんだ」
 しかし、こちらの抵抗も制止の言葉も綺麗に無視して、勝己の手は再び動き出し、出久の胸元まであがってきた。
「こら、かっちゃん! ……ぁっ、」
 さすがに怒るよ、と声をあげかけたが、勝己の指先が出久の胸の飾りを掠め――その瞬間、妙な声が口から飛び出した。
 ぱっと口元をおさえる。なんてみっともない声をあげてしまったのか。出久の顔へと、さらなる熱が集まっていく。
 それをみて楽しげに笑う勝己は、高校生であるのに妙な色香が漂っている。出久の脳裏に警告音が鳴り響いた気がした。
「ははっ……エロイ声だしやがって変態かよ」
「お、お兄ちゃんをからかうんじゃない!」
 さすがにカチンときた出久は、ぴしゃりと勝己の手を叩き落とすようにして引き剥がした。
 勝己は雄英高校でトップの位置にいるが、出久とて同じ高校を卒業してプロヒーローとして活躍しているのだ。本気でやれば、間違いなく勝てるだろう。
 と、叩き落とされた勝己の手が、今度は出久の顎を強く掴んだ。
「なに兄貴面してんだよ、クソが」
「……え?」
 間の抜けた声をあげて、出久は固まった。
「……本当の兄弟じゃねえんだろ、俺たち」
「!」
 耳元に落ちたその言葉に出久は目を見開き――すぐに、肩の力を抜いた。勝己の腕に触れて、目を閉じる。
 ああ、とうとうこの日が来たんだと、他人事のように思った。
「かっちゃん……お父さんたちから、聞いたの?」
 勝己が頷いたのがわかった。この事実を知るきっかけとなったことが、なんであったのか、今はわからない。ただ、勝己がそれを知ってしまったことが大切なことだった。
「……んで、黙ってたんだよ……。個性のことも、血が繋がってねぇことも」
「ごめん、かっちゃん。いつか、ちゃんと言おうと思ってたんだ」
 放れてとさきほど喚いた出久だったが、このときばかりは自分から勝己に寄り添う。そうすると、顎にあった勝己の手が落ちて、出久の腹をぎゅっとかき抱いた。
「ほんとうは君が中学生になるときに、話そうって決めてたんだけど……」
 触れあう場所はひどく熱く、そこから勝己の早い鼓動が伝わってくる。
「ほら、あの頃は、僕たちうまく話せそうになかっただろ? だから、ずるずる引き延ばしちゃって。……僕が、悪いんだけどね」
 勝己に、授かった個性のことをまだ言えてはいないけれど、それもいつか必ず伝えるからね、と心の中で詫びながら、出久は続ける。
「でも、僕は、かっちゃんのお兄ちゃんとして、僕なりに精一杯頑張ってきたつもりだよ。だから、これからも兄弟として仲良くしたいって思ってる。駄目、かな?」
 誠心誠意、思っていること伝える。できれば、勝己が幼稚園くらいのころのように、仲良くできたら――いや、さすがにそれはちょっとあれなので、世間一般でよくある程度の、そう、たとえば勝己が二十歳をすぎてお酒を飲めるようになったら、一緒にどこかの居酒屋にいくとかそれくらいの仲になれればいい。お父さんがそこにきてくれたら最高だなあ、とそんなことを夢見ていると、勝己の腕が震えた。
「俺は!」
 大きな声が、出久の耳元で発せられた。鼓膜が、びりりと痛む。
 その鬼気迫る響きに、他愛ない未来予想図は綺麗に吹き飛んでいった。勝己の豹変ぶりに出久が驚き、身を捩った瞬間。
「テメェのこと兄貴だなんて思ったことねえよ!」
 そんな言葉が、出久を奈落の底へと突き落とした。
 視界はいつもの自分の部屋の風景を映しているというのに、一瞬、何も見えなくなった。真っ暗になった気がした。
 冷気が忍び寄ってきたように、手足が急速に冷えていく。心臓が、強く胸をうつ。肺が呼吸の仕方を忘れてしまったらしく、息が詰まった。鼻の奥が、つん、と痛んでくる。勝己からの明確な拒絶を、頭が理解するにつれ、目頭に熱が集まっていく。
「あ、はは……そ、そっか、ごめんね、僕ばっかり、思いこんでたみたい、だね……」
 どうやら、勝己にとって、出久はもとより家族ではなかったらしい。無個性で、木偶の坊の、デク――そういわれていたのは、そもそも家族と認識されていなかったから? ずっと、ずっと、嫌われていたから?
 ぐすっと出久は鼻をすする。ぽたた、とその拍子に涙が零れていった。我ながら泣き虫がすぎると思うが、今ここで泣かないなんて無理だ。
「ぼ、僕……そ、そんなに……かっちゃんの、お兄ちゃんに、なれてなかったかなあ……?」
 ひぐ、うぐ、と嗚咽を漏らせば、クソが、と勝己が零した。
「ちげえ!」
「!」
 鋭い声とともに、出久を戒めていた勝己の腕が離れた。どうしたのかと驚く出久の肩を強く掴み、無理やりに振り向かせた勝己はひどく辛そうな顔をしていた。ともすれば、今泣いている出久よりも、もっともっと何かを堪えているような。
「……俺は、てめぇが、デクのことが、」
 形のよい唇が、震えながら懸命に何かを伝えてくる様子を、出久は呆然とみつめた。
「好きなんだよ」
 そんな言葉が酷く優しく落ちてきて、出久は涙を引っ込め、目を見開いた。
 好きといってもらえたことが素直に嬉しくて。さきほど、兄じゃないといわれた痛みは、ころりとどこかに転がって行ってしまった。
「僕も、かっちゃんのこと、好きだよ」
 ふにゃりと笑って、二人とも同じ気持ちだねと伝えれば、勝己が苛立たしげに頭を掻きむしった。
「そうじゃねえよ!」
 大きな手が素早く伸びてきて、また腕か肩でもとられるのかと思ったが、今度は頬を包み込まれた。無理やりに引き寄せられて、首が妙な音をたてる。
「わ、ちょ、かっちゃ……! ん、んっ、んん――?!」
 痛い、と抗議しようとした出久であったが、それはかなわなかった。文句が飛び出るはずの唇が、勝己によって塞がれたからである。
 ぴったりと、やわらかくて熱いものが押し当てられていて、焦点が合わないくらいに勝己の顔が近くにある。
 何度か唇を食まれてからようやく、キスをされているのだと、理解したくなかったが理解した。
 なにをしているのだこの弟は!
 頭が真っ白になった出久から、ゆっくりと勝己が離れていく。唇に残された感触と熱が、落ち着かない気持ちにさせる。
 反応すらできない出久に向かって、勝己が堰を切ったように叫びだした。いや、さっきからやりたい放題だったような気がするけれど、それよりもなお勢いが激しい。
「やっと、取っ捕まえることができそうだって、思ってたのによ!」
「へ、は……?」
「俺がプロのヒーローになるまであと一年だぞ?! それなのにアメリカにいくだ?! ふざけんじゃねえ! 逃がすかクソが!」
「あ、はい……?」
「あげくに血が繋がってないだ?! はよいえや! それならもっとはやく手ェだしたわ!」
「え、ええ~……?」
 なんだかもういわれることに対して、どう反応すればいいのかわからない。
 苦いものを口の中に限界まで詰め込まれたような心地で、出久は顔を顰めた。勝己が何を言っているかわかるのだけど、わかってはいけない気がする。
「いくなよ、デク……なあ……! アメリカなんていかないって言え……!」」
「か、かかかか、かっちゃん!」
 熱烈に掻き抱かれて、出久は喉の奥を引きつらせた。慌てて勝己を引きはがそうと試みるが、上手くいかない。
「ぼ、ぼぼぼぼ、僕、男だよ! それにかっちゃんの――!」
「ンなもんわかっとるわ! それから、兄貴じゃねえっつってんだろ!」
 正気に戻ってほしい一心で、自分の性別を改めて告げるが、まったくもって通じない。
「なんべんもいわせんな! 好きだっていってんだろうが!」
「え、ええええ……!?」
 どうやら勝己は本気でアメリカに行かせたくないらしい。しかも、キスとかできちゃう意味で、自分のことが好きらしい。え、なんで? え?
「いいか、デク」
 どうしてどうして、と答えのでない疑問を脳内で繰り返すうちに、耳に勝己の唇がそっと押し当てられた。
「アメリカにはいくな。いくなら、俺と一緒にしろ」
「いや、それは……」
 そうすると君が高校を卒業して、数年ヒーローとしての実績を積む必要もあるだろうから、僕、中堅どころに片足突っ込んじゃうんですけど!
 まだ若いうちに、いろんなところで経験を積んでおいで、と所長が紹介してくれたアメリカ行きなんですけど!
 と、そんなことをいえる雰囲気ではない。言ったが最後、さらなる身の危険に晒される予感がした。
「答えは、『はい』だ。それ以外だったら、ブチ犯す」
「ひっ?!」
 出久は声にならない悲鳴をあげて肩を跳ねさせた。やばい本気だ。勝己の声が静かだ。これは今にも爆発しそうな感情をぎりぎりのところで堪えているときのものだ。
 兄弟として過ごした時間からそれを知っている出久は、震えあがりながらひとつ頷いた。
「わ、わかった……」
「本当だな?」
 そういってわずかに腕を緩め、出久の顔を覗き込んで真偽を確かめてくる勝己の目から、逃れるように顔を背けてもう一度頷く。
 ごめんなさい所長と、心の中で何度も謝った。明日、土下座しよう。
「明日、所長にお断り、する、から……」
 犯すのだけは勘弁してください。
 弟として可愛がっていた血の繋がらない少年が秘めていた空恐ろしさに、出久が負けた瞬間であった。
 それに、こんなことをしでかしていても、出久にとっては可愛い弟なのだ。性犯罪者になんてしたくない。
 にやり、と満足げに勝己が笑う。思い通りに事が運んで嬉しそうに歯をみせて笑っている。笑顔なのにひたすら怖い。
「なあ、デク」
「ひっ」
 べろり、と涙のあとを辿るように頬を舐めあげられて、ぴゃっと全身が跳ねる。
「俺のモンになれ」
 かっちゃん、君、ほんとうに高校三年生だよね? 無駄に色気たっぷりにそう囁かれて、出久は泣きそうになった。同年代の女の子なら、一発で落ちるだろうに、どうして僕にいうのか。もったいない。
「そ、そ、それは無理っ、かなっ?!」
 顔を青褪めさせて、出久は必死になって勝己と自分の身体の間に腕をねじ込む。
「ンでだよ!」
 目を三角に釣り上げて迫ってくる勝己の胸を押して、なんとか距離を保つ。
 ほんとうは離れたいのだが、勝己のあまりの力強さにそれは叶わない。これは本当に個性を使わないといけないかもしれないと危惧しながら、出久は叫ぶ。
「だから、僕たち男の子だろ?! それに、お父さんもお母さんも悲しむよ!」
 あの心優しい父と母に、なんと言えばいいというのか。血が繋がっていない兄や妹、はたまた姉や弟ならまだしも――いやそれもちょっとどうかと出久の倫理観が訴えるがそれはこの際横に置いておいて――自分たちは兄弟。男同士。絶対に揺るがない事実。これだけで絶望的だろう。
「説得するわ!」
「どうやって?!」
 当然のツッコミをいれると、勝己がさすがに目を泳がせた。もしかしてノープランだったのかなと、出久はちょっと呆れた。
「……既成事実をつくる」
「できるわけないでしょなにいってるの?!」
 この子、頭いいけどちょっとお馬鹿さんなのかな?! と、出久は雄英高校にトップ入学を果たした勝己に対し、大変失礼なことを一瞬思った。
「っていうか、かっちゃん男の子が好きだったの?! たしかに彼女できないなーって思ったけどさ! でもそれって君がヒーローになるっていう目標に向かってストイックに頑張ってたからだと思ってたよ!」
「ちがうわ! 男なんぞ好きじゃねえよ! 気色悪いこといってんじゃねーぞ、バカデク! てめえこそ女なんざできなかったくせに! まあ俺が邪魔してやってたんだがな!」
「え、なにそれ初耳だよ?! っていうか、この現状で男の子が好きじゃないとか言われても説得力皆無だよ、かっちゃん!」
 ひどい矛盾をいっていることを、賢い勝己がわかっていないはずがない。だがそれをわかっていても、どうしようもないのだといわんばかりに、勝己が叫ぶ。
「てめぇ以外に興味がねえだけだっつーの!」
「こんなに恐怖を感じる熱烈な言葉ってそうそうないよね……!」
 もしも、出久が女であったなら。ここまでいってもらえて、嬉しく思わないはずがない。うっかりと絆され流されてしまったかもしれない。でも、自分たちは兄弟です、男同士です。
 どうやって勝己の気持ちを落ち着かせたものかと、出久が脳をフル回転させて思い悩んでいると――すとん、と勝己の腕から力が抜けた。
「!」
 自由を取り戻すことができたものの、さきほどまでの熱情が急に失せるとはとても思えない。
 出久は次に訪れるだろう展開を想像し恐怖に顔を引き攣らせながら、そろそろと顔をあげた。
 すると、予想外なことに、勝己が今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 切れ長の瞳は潤んでいて、綺麗な眉は下がり、口はへの字をえがいている。
 幼稚園のころ、デクが一緒じゃなきゃ登園しないと、ぐずっていたときの勝己の姿が、そこに重なった。出久の胸が、きゅっと締め付けられる。ぐ、と言葉に詰まった。
「なあ……そんなに俺が嫌なのかよ……」
 いつものとはまったく違う弱々しい口調に、出久は目に見えて狼狽えた。
「かっちゃん……そ、そんなこといってないよ……そうじゃなくて、さ……もっとこう、根本的な問題でしょ、これ……ああもう、泣かないでよぉ……」
 とうとう、赤い瞳から綺麗な雫が落ちはじめた。透明な涙が、赤らんだ頬を伝って落ちていく。泣き顔も格好いいなんてずるいなあと、少し思う。視線が惹きつけられ、離れない。
「なあ、デク、でく……いいだろ……?」
 そういいながら、勝己が出久に縋り、肩口に鼻を擦り付けてくる。ふわ、と色素の薄い髪が出久の頬をやわらかにくすぐった。
 くっそ、可愛いなああああ! ずるいなああああ! 出久は心の中で絶叫した。
「デク……」
 甘く名を呼んで、勝己が顔を傾けながら唇を寄せてくる。整った顔が、ほんとうにせつなげで、眩暈がした。
 勝己が求めていることが、なにかなんてわかりきったことだ。
 ほんの少し、キスくらいなら、いいんじゃないだろうか――いやいや、だめだろ!
 唇が触れ合う寸前で、出久は理性と常識を盾に勝己を押しのけた。こんなこと、お互いのために絶対よくない。
「~~~っ、かっちゃん! だめっ」
 そういって勝己の口元に両手をおしあて、ぐいっと押し返す。と。
「チッ」
 鋭い舌打ちが、出久の手の平の中で響いた。
「舌打ち?! 今、舌打ちした?!」
 なぜだが罪悪感に駆られて、心中で「ごめんねかっちゃん」と繰り返していた出久は、弾かれたように顔をあげる。
 悔しげに顔を歪めた勝己が、出久の手首を掴んで引きはがす。フン、と鼻を鳴らされた。
「俺の泣き落としがきかねえとか……、成長してんじゃねーよ、クソが」
 さきほどまで泣いていたはずの勝己が、いつもの凶悪な顔をして目を眇めている。鳴いたカラスがもう笑ったとはこのことか。いやなんか違うそうじゃない。
 もうなにをどう考えてもまとまらないまま、出久は頭を抱えて天を仰ぎ身体を逸らせた。
「あああー! 僕、騙されかけてた?!」
 もうこの世のどこにも、可愛い弟なんていないのかもしれない。
 そんな絶望を抱いて、出久はよろりとカーペットの上に突っ伏した。手で顔を覆う。
 神様あんまりです。僕の可愛いかっちゃんを返して。
「おい」
「……なに……? ンっ」
 あまりの事態に、しくしくと本格的に泣き始めた出久の肩が、とん、とひとつ叩かれた。
 反射的に顔をあげた出久の手が引き剥がされる。あれ、と思う内に、それはカーペットに押し付けられて、ごくごく自然に覆いかぶさってきた勝己に唇を奪われた。
 容易くセカンドキスも奪われた出久は、身を強張らせる。
 ちゅ、と濡れた音をわざとらしくたてて、勝己が身を起こす。出久は横たわったまま動けないでいる。
「アメリカ行きの取りやめ、忘れんじゃねーぞ。あと、こっから本気だすからな。覚悟しとけよ、デク」
「……」
 やたらと男前にいってのけ、やたらと格好良く笑った勝己が立ち上がった。
「カレー、俺が作るわ。デクのは甘すぎて食えたもんじゃねえからな」
「……」
 そして、買い物袋を手に取り、キッチンへとむかう。その背を、出久は寝転がったまま呆然と見送る。
 勝手しったるなんとやらで、エプロンをとりだし身に着ける勝己の姿を眺めながら、出久は呟く。
「どこで、育て方、間違っちゃったの……?」
 擦れた小さな声だったというのに、勝己にはちゃんと聞こえていたらしい。あ? といいながら、眉をひそめて振り返る。
「ババアの腹の中からじゃねえ?」
「そんなところから?!」
 確かに、母のお腹に勝己がいるころから、何度も名前を呼んでいたけれどそんなことがあってたまるか。
「まあ、さっさと諦めろや」
「できるわけないだろ!」
 真っ赤な泣き顔で、ソファに置いてあったクッションをとると、勝己の背へと投げつける。
 それは、ひょいと避けられる。そして、むなしく床に落ちていく。
 出久の、兄としての威厳と一緒に。