きゅるり、ぐうぐう。
「……」
とある町のとある路上。
ヒーロー名「デク」を名乗る青年――緑谷出久は、石化の個性を受けたかのように動きを止めた。
そして、いましがたみっともない音をたてた己の腹を、眉を八の字にした顔で見下ろす。
なだめるように手をあててみるが、一度騒ぎはじめたお腹はおさまる様子がない。きゅるる~……と、なんとも情けない鳴き声をあげ続けるばかり。
行き交う町の人たちが、これはいったい何の音だろうかというように、訝しげな顔をしているのがみえる。きょろきょろと音源を探されて、普通に恥ずかしい。
今日は、いまのところ大きな事件らしい事件は発生していない平穏な日だ。だが、いつ何が起こるのかわからないのが、個性による超人化社会。
つまり、担当地区のパトロールは一見地味だが、犯罪抑止のためには大切な仕事なのである。
それなのに、空腹を訴える腹を抱えながら歩きまわるのは、プロのヒーローとしていかがなものか。もしも敵が現れたら馬鹿にされそうだ。すれ違った子供に、腹ペコヒーローなどと呼ばれたくもない。
「……ちょっと休憩……」
出久は誰も聞いてなどいないのに、言い訳がましく呟くと、そそくさとあまり人気のない公園にはいった。
すぐに、目についたベンチへと腰掛ける。きゅうきゅう、とまたお腹が鳴った。
コスチュームのポケットを漁る。こういうときのために、携帯食をいれているのだ。備えあれば憂いなし。昔の人はよいことを言う。
他のポケットからは、飴がでてきた。前回のパトロールの際、井戸端会議をしていたおばちゃんたちに捕まり、世間話をしているときにお菓子をいくつかいただいたことがあった。その残りだ。全部出しておいたつもりだったのだが、うっかりしていたらしい。
包みをあけて携帯食を咀嚼する。それほど大きくはないので、あっという間に食べつくした。
今度は飴を口に放り込む。リンゴ味で、甘くておいしい。
だが、足りない。発見した飴を全部食べつくしても、空腹はいくばくか誤魔化された程度で、満腹とはいかなかった。
今度から、携帯食はもっとたくさん常備しておこう。出久は心に固く誓った。
それにしても。
「……ちゃんとご飯食べてきたのになあ」
嘆く出久の目の前を、のんきそうに鳩が歩いていく。地面に何か落ちていたのか、せっせと啄むさまが羨ましいと思うあたり、重症だなと出久は思った。
またひとつ、腹部を撫でる。だが、うぞうぞもぞもぞと何かを訴えて鳴くだけである。
はー、と溜息をつきながら思い出す。
朝ごはんはきちんと食べた。
昼食だって事務所で食べた。
つまりこれは、単純な空腹というわけではないのだろう。
そう考え至って、出久は顔を顰めた。その理由に、心当たりがあるからだ。ありまくりだからだ。
やはりこれは、『アレ』だ。自分の身体が、『アレ』を求めているのだ。
その結論を出した出久は、これ以上は下がりようがないくらい、眉を下げた。
「はあ~……」
情けない顔で、情けない声をだす。世界から自分を隠したいとでもいうように、出久は顔を手で覆った。
ああ、彼の世話になるときが、またきてしまった。
出久の胸中を満たすのは、ほのかな歓喜。そして期待に湧き出す涎。だがそこに行きつくまでの過程を考えれば気重くてたまらない。
複雑な気持ちが滲む顔で、出久は唾を飲み込み、喉を上下させる。
もうすでにかぐわしいかおりが、鼻の奥をくすぐった気がした。
「で?」
とあるマンションの、とある一室の玄関。
腕を組み、扉にもたれかかっている男は、敵も裸足で逃げ出すような凶悪な空気を背負いながら、笑っている。だが、その切れ長の赤い瞳がまったくもって、これっぽっちも笑ってなどいないことを、知っている。
出久は、びくり、と肩を震わせたあと、腹を括って勢いよく頭を下げた。腰を九十度の角度で曲げる、最上位のお辞儀である。
そして、この部屋の住人であり幼馴染である男――爆豪勝己へと、手土産のはいった紙袋を突き出した。
「かっちゃん! お願いします!」
手土産の中身は、いろいろと悩んだ結果、自分の腹に収まることも考慮して、今回は旬の果物にした。ちなみに桃だ。
勝己の舌を騙すことはできないので、某有名果物屋で購入してきから、味に間違いはないはず! 店員さんも、糖度も瑞々しさも申し分なしと太鼓判を押してくれたし!
そう考えたとたん、きゅるるるる、と情けない音が出久の腹から廊下へと響き渡った。
鋭い舌打ちがそれに重なる。
「またかよ、どういうことだよ、あ? てめぇ、一週間前にきたばっかりだろうが!」
「面目次第もございません!」
思わず敬語でそう答えながら、出久は姿勢を戻して、ビシッと気をつけをした。先生に叱られる子供のようだと、自分で思った。笑えない。
「っとにこのクソナードはよォ!」
「いたいいたいかっちゃんいたい!」
どすどすと、まだ鳴き続ける出久の腹に向かって、容赦なく勝己のボディブローが繰り出だされる。
プロヒーローとして活躍している勝己の拳を向けられてはたまったものではない。それからなんとか身を守りながら、出久は眉を下げて叫ぶ。
「だって、お腹すいちゃったんだからしかたないじゃないか!」
「開き直ってんじゃねえよテメェ! つか、こんな腹空かすまでなにやっとんだクソが! ヒーローデビューしたころのこともう忘れたんか、ああ?!」
「忘れてません覚えていますだからこうやってかっちゃんのとこに――!」
「身体のメンテナンスができてこそプロだっつってんだろうが! 自己管理する気概はねえのか!」
「プロの自覚に欠けててごめんなさいすみませんとにかくたすけてください!」
ぎゃあぎゃあとマンションの共有スペースである廊下で騒ぐのもプロの自覚に欠けているし、勝己の口の悪さもヒーローとしてはいかがなものかと思うが、さすがにこの状況ではいえやしない。
「つーか、いつもこんだけクソ扱いしてんのに改めねえとか心底ドMだな!」
いつものことであるが、なんともまあ、言いたい放題である。
ぐ、と出久は拳を握りしめた。じんわりと、目頭が熱を持ち、視界が滲む。しかし、ここで泣いてはさすがに成人男性としてどうかと思うので、出久はなんとかそれを堪えた。
「僕、Mじゃないよ……風評被害もいいところだよ……ごはん食べたいだけだよ……!」
とにかく、ここを突破しなければ、このお腹はおさまりようがないのである。
どんな高級店にいっても、どれだけたべてもいいバイキングにいっても、大好きなカツ丼を吐くほど食べても、この飢えが満たされないことを、出久はよくわかっていた。
だから、今一度、頭を下げる。
「かっちゃんのごはん、食べさせてください!」
廊下の隅々まで行き渡れといわんばかりに、大きな声をあげる。
いまにも土下座しそうな勢いで、恥も外聞もかなぐり捨てて懇願する出久に、さすがの勝己も引いてしまったのか、さきほどまでの騒がしさが嘘のような静けさが辺りを満たす。
やがて、はぁ~……と疲れきった声が降ってきた。
内心、やった! と、出久は小躍りした。そして、いいといわれてないが、逸る心のまま顔をあげる。勝己は、心底嫌そうに顔をしかめていた。
「はいれ」
チッ、と舌打ちしたあと、顎をしゃくられる。どうやら家にあげてくれるらしい。つまり、ごはんをつくってもらえる!
「ありがとうかっちゃん! お邪魔します!」
我ながら現金だとおもいつつ、ぱあっと顔を輝かせた出久は、いそいそと勝己の後に続いて扉をくぐる。
きょろり、と見慣れた景色に視線を送る。
いつも整理整頓されていて、掃除も隅々まで行き届いている勝己の部屋は、もう何度も訪れたことがある。
今回のように、出会いがしらに必ず一悶着あるのだが、なんだかんだと勝己は家にあげてくれるのだ。
そのおかげで、砂埃ひとつない綺麗なこの玄関に、自分の赤いスニーカーが置かれているのも、もう違和感を覚えないようになってきている。最初は奇妙な気持ちになったものだが、慣れというのはすごい。
ここ最近は、さきほど勝己がいっていたように毎週末きているのだから当然か、と出久は考える。
それにしても、こんな状況、小学生、中学生そして高校生の頃からは考えられない。
出久は、先を歩く勝己には悟られぬように、頬を緩ませる。距離が縮まったことが嬉しいというこの気持ちを知られたら、きっと怒られるだろう。だから、秘密にしておかなければいけない。
こうした自分たちの関係のはじまりに、出久は思いを馳せる。今から、一年ほど前のことだ。
その日、ほんとうにたまたま、出久は勝己と現場で出くわした。
敵の活動が大規模な破壊活動に発展したため、様々なヒーローたちが駆けつけたのだが、その中に勝己もいたのである。
不本意極まりないが事務所からの指示で仕方なく、そして、たくさんのマスコミがカメラを向けているからしょうがなく、といった顔をした勝己。そんな彼と、出久は協力して敵を捕獲することとなった。
敵はそこそこ強く、周囲の被害などものともせずに暴れていた。勝己がおらず、出久ひとりだけだったなら、もっと手間取っていただろう。
そして、馴染みの警察へと捕えた敵を引き渡したのち――出久は、その場でぶっ倒れた。
はあ?! という勝己の驚きの声を、遠のく意識、暗くなっていく視界の中、それでもなんとか生きていた聴覚で、確かに聞いた。
かっちゃんもそんなに驚くことあるんだな、というのが最後に考えたことだった。
次に気づいたとき、出久は清潔なベッドの上だった。
どうやら病院に運び込まれたらしいと、しばらくしてから思い至った。
なかなか動かない身体に歯噛みしていると、ひょこひょことやってきた白髪の小柄な医者に、過労だよといわれた。あと栄養不足になりかけだよ、ともいわれた。
へあ? と間の抜けた声をあげる出久に、しばらくゆっくりしなさいと穏やかに告げて、医者は部屋を出て行った。
どうやら、プロデビューを果たしてから無我夢中でヒーロー業に勤しみ、自分の体を省みていなかったツケが、一気に噴出したらしかった。
まさか自分の身体がそんなことになっていたとは思わなくて、出久はおおいに驚いた。
だが、それよりもなによりも、病院に出久を運び、事務所にも連絡をいれてくれたのが勝己だということに、もっと驚いた。
おっとりとした美人の看護士に、何度も説明されたが、なかなか信じられなかった。
ヒーローとして、目の前で倒れた者を見捨てては、マスコミに叩かれて、自分の人気に影響がでると思ったのかもしれない。みみっちいかっちゃんのことだから、きっとそう。
勝己が聞いたら爆破してきそうなことを推測して、ひとまず出久は自分を納得させた。
そうして、目覚めてから一時間ほどしたころだろうか。
病室に怒気を巻き散らかしながらはいってきた私服姿の勝己に、のんびりと点滴を受けていた出久は目を剥いた。
どうしたの、と問いかける前にさんざんに罵倒された。「自己管理もできねぇならヒーローやめろ!」とまでいわれた。
さすがに弁解の余地もなかったので、出久はベッドの上で正座して、肩を落としながらそれを聞いていた。ごもっともですとしか、いいようがなかった。
そうして、勝己は病室へとようやく駆け付けてきた所属事務所の職員にまで難癖をつけ、休みをもぎとったうえで、出久のマンションまで送ってくれた。死ぬかと思った。いや実際は助けられていたわけなのだけれど、精神的に死ぬかと思った。
これはきっと、天変地異の前触れだと思ったが、さらに驚天動地の出来事がおきた。
翌日、勝己が出久のマンションへとやってきたのである。
いわく、出久の母親から涙ながらに「出久が自分をかえりみずに現場へと飛び出していかないように見張ってほしい」――そう頼まれたとのことだった。
都会に出て独り暮らしをしている子供のことを、心配しない親などいない。そして、あの心優しくも芯の強い母は、ばっちりと出久の性質を見抜いていたらしい。さすが親である。
確かにヒーローニュースのチェックは欠かさない出久である。なにかあれば、自分の無理をおして駆けつけることは十分にありえた。
自分でも、そうしちゃうかもな~、という予感はあった。そこに番犬がわりにきてくれた勝己。逃げられるわけがなかった。
結局、きっちりと一週間、勝己は出久の面倒をみてくれた。
どうやら、勝己は有給休暇が溜まっていて、事務所からとるようにと再三にわたりいわれていたらしく、ついでに消化することにしたらしかった。
そして、勝己は健康面に配慮した、食事の作り方をみっちりとたたき込んでくれた。
知識としては知ってはいても、なかなか手が回らなかったのだが、簡単で美味しい料理のレシピを一通り教えてくれた。ものすごく手厳しい先生だった。怖かった。しかし、ためになった。
加えて、ヒーローとしての活動に集中するあまり、おざなりになっていた生活のすべてを正された。
片づけられていなかった不用品と共に、ヒーローグッズを捨てられそうになったときは、体を張ってなんとか死守した。
そんなことをしつつされつつ、めまぐるしく過ごした七日間。
最初はどうなることかと思ったが、なんだかんだといいつつも、それなりに楽しく終わった。
それ以来、昔ほどのぎくしゃくしゃくとした雰囲気はなくなった……ような気がする。現場で出くわしても、舌打ちか一睨みだけで暴言が飛んでこなくなった。ありがとう不摂生。
お互い社会に出て、大人になったってことかなぁと、感慨深く思った出久であったが、そのときは気づいていなかった。
長くはないが決して短くもないその時間で、勝己の料理にすっかり魅了されてしまったことに。
由々しき事態であると気づいたのは、それから一ヶ月後。
勝己と過ごした日々以降、そこそこ美味しく栄養価のある料理が作れるようになったはずなのに、出久は物足りなさを感じるようになっていた。
なので、有名店を渡り歩いたり、バイキングに出掛けたりした。だが、なにかが決定的に足りないと思った。脳裏に浮かぶのは、勝己の作った美味しい料理のことばかりだった。
そこでようやく気付いた。
あ、僕、かっちゃんのごはんが食べたいんだ、と。
そう思ったら、余計にお腹が減るばかりだった。でも、勝己は人気実力ともトップのヒーローだ。つまり忙しい。そう簡単に、ごはんをお願いするわけにはいかない。
でも、お腹は空腹を訴える。
もうどうしようもなくなって、勝己のごはんが食べたくて食べたくて、きゅるきゅる鳴り続けるお腹を抱え、土下座も辞さない覚悟でマンションを訪れたあの日。
ドアを開け放ったまま、ぽかん、と口を開けた勝己の顔を、出久は生涯忘れることはないだろう。
そして、それ以降、完全に飢えきったとき、出久は勝己に頭を下げるようになった。
ごはんつくってください! と。
足音荒く勝己が廊下を歩いていく。そのあとを大人しくついていけば、広いリビングダイニングにでる。
狭苦しい出久の部屋とは随分違う。そろそろ引越しを考えている我が家が、脳裏を過ぎった。
おそらく調理の途中だったのだろう。玄関で出久と対峙するために脱がれたとおぼしき黒いエプロンが、テーブルの上に無造作におかれている。
それを手に取り身につけながら、勝己がキッチンへと向かっていく。
ペニンシュラタイプのキッチンの後ろには、使いやすい位置に配慮しておかれた大きな冷蔵庫。そのとなりに食器棚、食品庫がある。
そうしてキッチンにはいった勝己から、文句は絶対にいわせないという気概のこもった、赤い視線が飛んでくる。
いつもならば竦み上がって動けなくなりそうなところだが、今は怖さよりも、ごはんが食べられるという喜びのほうが勝っている。
出久は、にこにことそれを受け止めた。
「いっとくが、カツ丼は作れねぇぞ」
大好物を食べたいのは山々だが、押しかけてきた分際でそんな我侭いえるはずがない。いや、相手の都合におかまいなしでマンションに突撃してくるあたりがすでに我侭といえばそうなのだが、そこは気にしてはいけない。
「かっちゃんのご飯ならなんでも!」
出久は、ぶんぶんと頭を上下に振って、与えられるものをすべて受け入れるという姿勢を示す。だが、勝己にはそれが気に食わないらしい。
「なんでもいいが一番ムカツクんだよ!」
「ごめん、じゃあカツ丼たべたい!」
くわっと大きく口をあけ、目を三角形に吊り上げ怒鳴る勝己に、出久が欲望丸出しで素直にリクエストすれば、彼の手のひらで爆破の火花が恐ろしくも美しく舞った。
「人の話聞いてんのかテメェは!」
冗談だよ、と軽く笑いながら、出久はキッチンに何気なく近づく。そして、ひょいと勝己の顔を覗き込んだ。
「ねえ、なにか手伝えることある?」
「……やめろ、俺の城にはいるんじゃねぇ……」
いつの間にか取り出していた包丁を携え、本気で人一人殺しそうな凶悪な顔でそんな脅しをかけられれば、引き下がるしかない。
「かっちゃん、主婦みたい」
もしくは、某殺し屋。俺の後ろに立つな、と太い眉で囁く勝己を想像した出久は、小さく噴出した。
「何笑ってんだ! 前に出来たばっかりの料理を皿ごとひっくり返しただろうが! 忘れたってーのか?! あ?! 殺すぞクソが!」
「かっちゃんのご飯たべるまで僕は死ねない……!」
ぐっと拳を握り締め、世界の終わりを阻止しようと苦難に立ち向かう勇者の気分でそういえば、勝己が呆れたように目を眇めた。
「悲壮な決意をしてんじゃねえ。とにかく大人しく待ってろ。余計なことはするな」
「はーい」
「なんでも勝手に触るんじゃねえぞ」
「わかってるよ!」
そうして出久が向かったのは、大きなテレビの前に置かれた海外製の革張りのソファだ。
勝己に言ったことはないが、大のお気に入りである。自分の家にも欲しいなーと思ったこともある。だが、いくらぐらいするのか聞いたが最後、座ることができなくなりそうなので、訊ねたことはない。
さて。
そろそろ今日のヒーローたちの活躍をまとめたニュースが放送される。それを眺めながら待っていれば、手際のよい勝己はあっという間に料理を作るだろう。
出久は、身体を優しく快適に落ち着けられるソファへと腰掛けて、テレビのリモコンに手を伸ばした。
ほかほか炊きたての、白いごはん。立ち昇る湯気とともに、その香りを胸いっぱいに吸い込む。出久は、大きな瞳を、うっとりと細めた。
目の前に広がる夢のような光景に、自然と唾液が湧き出して口の中を満たした。
葉物とキノコが入った鶏ささみの照り焼き、夏の野菜の代表格を使った麻婆茄子、綺麗な狐色に揚げられた春巻き。キュウリの漬物。お味噌汁の具は、油揚げとミョウガ。
このあとには、ほどよく冷えた今日の手土産がでてくるはず! ああ、ほんとうに最高だ!
出久は、満面の笑顔で両手をあわせた。
「いただきます!」
「いただきます」
普段から口と態度が悪い勝己であるが、こういうときはきちんと手をあわせる。親の躾の賜物だろうと、出久は思っている。
かっちゃんはいい子に育って……、いい子……? とは、ちょっと違うかもですが、立派に育ってます。
目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ、人の好さそうな勝己の父と、勝己そっくりの母に向かって、出久は感謝した。
それはさておき。
まずは、ごはん。ふっくらとした白い米粒はつやつやとして、食欲をそそる。勝己にご飯を強請るようになってから、いつの間にか用意されていた、出久の箸と茶碗を手にとる。
つやっとしていて粒の揃ったお米を箸で一口ぶんとりわけ、迷うことなく口へと運ぶ。ふあ、と出久は溜息を漏らした。程よい甘みと粘り気が、口の中に幸せをもたらしてくれる。日本人に生まれてよかった。
「おいしい……! これ、なんてお米?」
「つや姫」
素っ気ない勝己の返答に慣れている出久は、ふんふんと頷いた。
「そっか。たしか、山形のだっけ?」
「おう」
「前に食べさせてもらった北海道のゆめぴりかも、甘くて美味しかったよ。僕、あれも好き」
「そうかよ」
「そういえば、そろそろ新米の季節だね。楽しみだね、かっちゃん!」
「ん」
ブランド米をお取り寄せして食べている勝己のところにくると、様々な日本の美味しいお米を食べられる。
勝己のもとをおとずれるようになって、はじめての秋。出久が知らないような美味しいお米が、きっとでてくるに違いない。
白米ばかりに感動しているわけにはいかない。出久を待っているおかずたちがいる。きっとこのご飯にあうはずだ、という胸踊る予想を抱いて、出久は箸をのばす。
「おいひいー!」
食べた瞬間、出久は鼻から息を吐きつつ肩の力を抜いて、至福のひとときに浸った。
照り焼きのささみは柔らかく、タレが絡んだキノコが美味しい。そのあまじょっぱさが、さらに白いご飯を呼ぶ。
はくはくとご飯をかきこみ咀嚼しながら、出久は次に狙いを定める。目標は春巻きだ。
さっくりとあげられた春巻きに、小皿の辛子とポン酢を少しつけて噛り付く。
出久は目を瞬かせながら、その熱さとふんわりとした口当たりを楽しむ。中身は、どうやら豆腐と甘エビのようだ。はじめて食べるが、とても美味しい。
「え、えー、なにこれすごく美味しい……」
「俺が作ってんだから当たり前だろ」
「そうだよね……さすが、かっちゃん……」
「ほかに言いようねーのかよ、このボキャ貧」
「ぐ……! いつか、かっちゃんがぐうの音もでないような食レポ披露するから!」
「なんのヒーロー目指してんだよ。いらんわ。さっさと食え」
むう、と出久は眉根を寄せながらも食事を再開する。
悔しいなあと思うのに、やはり「おいしい」しか言葉がでてこない。
でも、このお腹だけでなく胸も満たされるような心地を、なんといえばいいのだろう。
いつかちゃんと言葉にできたらいいな、と、出久は鰹節の香り漂う味噌汁を啜りながら思った。シャキっとしたミョウガからはいい香りがするし、しっとりと味を吸い込んだ油揚げが美味しい。
残るおかずは、麻婆茄子。ごくり、と出久は喉を鳴らした。
赤い。赤い海で、綺麗な茄子と鶏のひき肉が絡み合って泳いでいる。これ、絶対辛い。
それを、ひょいひょいと何の躊躇いもなく食べていく勝己が、心底すごいと思う。
まあ、勝己の好物は辛いものだ。おそらく、これが今日のメインだったのだろう。そうなると、照り焼きを急遽、出久のために作ってくれたということになる。
そう言われたわけではないし、問うたところで教えてなどくれないだろうが、勝己の言葉のない配慮に、自然と頬が緩む。
ふにゃふにゃ笑っていると、勝己がそれに気付いた。
「なに笑ってんだ」
「えっ、えと……美味しいなって……。こんなに美味しいごはん、この前作ってもらった以来だよ」
えへえへと笑って誤魔化す、いや、心からそう思っているので、怪しまれることはないだろう。そう思ったのだけれど。
ギリ、と勝己の目元が険しくなった。
「これぐらいのメシで喜ぶとかよォ……てめえ、この一週間、どんな食生活してきたのかいってみろ」
「……ちゃんと食べてたよ?」
「あ? 嘘つけコラ。こっちみてものを言いやがれ」
視線を彷徨わせる出久の前で、勝己が般若のような表情になっていく。
墓穴掘っちゃったなと、出久は思った。
結論から言えば、素晴らしいの一言に尽きる食事だった。
麻婆茄子だって、予想通りに辛かったけれど、その中にある旨味と揚げたナスが絶妙に絡み合って、白米によくあった。美味しかった。
どこかの有名な割烹料理ではない。三ツ星を与えられるようなレストランのものとも違う。出されたものは、一般の家庭料理の範疇だ。
だが、ここまで身体も精神も幸せにしてくれる料理を、素晴らしい以上に褒め称える言葉を、出久はもちあわせていなかった。
勝己の罵倒混じりの説教がなければ、至高の食事だったといえるだろう。
説教の後、他愛のないことを出久が一方的に話し、それにたいして、ときおり勝己が短く返事をしてくれるのも嬉しかったし、楽しかった。
僕、かっちゃんとの食事が好きなんだなあ、と出久は認識を新たにする。
今まで薄っすらとしか感じ取れていなかったことを、今日はっきりと理解した。好きなことをひとつ見つけられて、なんだか嬉しくなってくる。
食事をはじめたときと同じ満面の笑顔に、たまらない幸せを乗せて、出久は手をあわせた。
ああ、お腹も胸もいっぱいだ。
「ごちそうさまでした!」
きっちりと手をあわせ、食材と料理人に心から感謝する。それをテーブルをはさんだ向かい側で受け取った勝己が、同じように手をあわせたあと、ちらりと出久に視線を寄越した。
「で、腹いっぱいになったのかよ」
「うん! やっぱり、かっちゃんのご飯がいちばん美味しい!」
身を乗り出す勢いで、手放しで褒め称えれば、さすがに気分がよくなったのか、ふ、と勝己が小さく笑った。そこに滲む、素直な喜び。
それを真正面から目撃することとなった出久は、小さく呻いた。
こういうとき、整った顔立ちをしているというのは得だな、と思う。
勝己には散々な目に遭わされてきたというのに、それを一瞬忘れ、すごく格好いいと思ってしまった。イケメンずるい。
なぜか勝己がみていられなくなった出久は、目を伏せて顔を少し俯かせた。
「レシピもらってるから、僕も作ってみてるんだけど、どうしてかな。おんなじ味にならないんだよ」
自分の抱いた照れくささを悟られぬよう、やや早口で調味料だの手際の差だの、いろいろなことを考察しはじめる出久を、勝己が鼻で笑った。
「はっ、せっかく教えてやったってーのにな。なんか忘れてんだろ。潔く諦めろや」
「うーん、でもそれじゃあ、僕もかっちゃんも困るでしょ? はー……なにがそんなに違うのかな……」
本当に困る。出久の空腹を満たし、心さえも潤わせてくれるのは、この世界で勝己の料理だけなんて困る。
もちろん、母の料理だってたまらなく美味しいけれど、それとはまた違う力が、勝己の料理には、ある。
はふ、と出久は満足したお腹をひとつ撫でて、幸せな気分に浸ったまま、だらしなく椅子の背もたれに寄りかかる。
あまりにも満たされていて、とろん、と瞼が下がってきそう。ふわふわとした気持ちのまま、出久はうっとり微笑んだ。これ以上なく、緩みきっていた。
「……はあ……、なんかもう、僕、かっちゃんがいないと生きていけない……」
食器を片付けようとしていたのか、空いた皿に手を伸ばしていた勝己の動きが止まる。はた、と出久も動きを止めた。
勝己の赤い瞳が見開かれている。まるで、綺麗に丸く磨き上げられた宝石みたいだ、とぼんやりと思い――出久は、はっと我に返った。
「……え、あれ? ぼ、僕、いま、……?」
なにか、とんでもないことをいってしまった気がする。
たった今、唇に乗せた言葉を脳内で反芻し、出久は顔を青ざめさせた。
まずいまずい。ただでさえ毛嫌いしているはずの幼馴染に料理を振舞ってくれているこの現実が、おおいなる奇跡というほかないのに、これ以上面倒だと思われたら、勝己の料理を食べることができなくなる! それは嫌だ!
ひぃぃ、と喉の奥で悲鳴をあげながら、出久は勝己の顔をうかがうように、ちら、と視線を向けた。後悔した。
勝己の顔が感情をそぎ落としたかのような、お面じみたものになっている。怒りのあまり表情筋が死んだのかもしれない。ご愁傷様ですごめんなさい。やったのは僕だけど!
「あっ、いや! ごめん、いまのなし! なしだから!」
絶対に、気色が悪いこといってんじゃねぇ! と爆破される。もしくは問答無用で殴られる。
だから目を閉じて腕で顔を庇いながら、出久は「ごめん!」と繰り返した。
しかし、いつまでたっても衝撃はこない。おそるおそると、目をあける。そうして腕の合間から見た勝己は、驚くべきことに怒ってはいなさそうだった。
なにか考え込むように、腕を組んでいる。めずらしく眉間に皺は刻まれていない。そうしているとほんとイケメンだな、と自分の危機的状況を一瞬忘れて考えた。
「えーと……、かっちゃん……?」
「……ンだよ」
震える声で名を呼べば、勝己が思考を巡らせるのをやめたらしく、何事もなかったように席を立った。そして、空いた皿を手にとり、テーブルの上を片付け始める。
「お……怒らない、の?」
「怒られたいとか、ほんっとドMだな変態ナードが」
「だから僕Mじゃないってば……」
出久は、自分が使っていた食器を手に持ちつつ、唇を尖らせた。キッチンへと向かう勝己の後を、落とさないように気をつけながら追いかける。
そっと手にしていたものをワークトップに置いて、出久はシンクの前に立つ勝己へと視線を向けた。
「あの、さっきのは……さ、」
「ナシなんだろうが」
勝己が、出久のほうを一瞥もせず、いう。
「……あ、うん」
はっきりと、なかったことにされてしまって、出久は一瞬言葉に詰まった。
思わず出た言葉だったけれど、あれは嘘も偽りもない純粋な思いだった。それをあまりにも綺麗に流されて、なんだか胸が苦しくなってくる。
あれ、どうしてこんな気持ちになるんだろう――、出久は内心、首を捻る。しかしながら、原因が判然としない。
あんなにいっぱい食べたのに、なんだが今にも鳴きだしそうな痛みを感じて、思わず胃の少し上あたりを手で押さえた。だが、お腹は、鳴らなかった。空腹とは違うらしい。
「デク」
「あっ、う、うん、なに?!」
どうしてか落ち込んでいた出久は、急に名を呼ばれて飛び上がった。いや、実際は肩が跳ねたくらいなのだけれど、それくらい驚いてしまった。
勝己が顔をこちらに向ける。静かな表情の中、赤い瞳だけが火傷しそうな熱を孕んでいる気がした。
「来週から、ここに来ても無駄だ」
「……え?」
どういうこと? 問い返す前に、勝己はそっけなく顔を前にもどした。水をだし、スポンジを手に取ると、洗剤をつけて食器を洗い出す。
「ここでてめぇにメシを作るのは、今日限りだ」
「……?」
言っている内容はわかるのに、感情が追いついてこない。はく、と唇を震わせるだけの出久に、食器の触れ合う音を響かせながら、勝己は容赦なく言葉を投げつけてくる。
「俺、引越しすっから」
「!」
勝己が、引っ越す。つまり、ここからいなくなる。だから、出久に料理を振る舞うのはこれまでだ、ということらしい。
ようやく、カチリと音を立ててパズルのピースがはまったかのように、理解した出久の身体に電流が走った。慌てて勝己に詰め寄る。
「え?! ど、どこに?!」
「どこでもいいだろ」
てめぇに何の関係があるんだといわんばかりの淡泊な声でそう言われて、出久は泣きそうになる。
ぎゅうっと、服の胸元を掴む。胸の奥が冷えたような熱いような、呼吸しづらいほどの痛みを訴えている。
「だって……かっちゃん、ここからいなくなるんでしょ……?」
「だからそういってんだろ。それで?」
「だってこのままじゃ、かっちゃんに会えなくなる、し……」
「そうだな。俺のメシも食えなくなるな」
「そう、だけど、それだけじゃ、なく、て……! 僕は、君に――」
会いたいんだ――と、そんな言葉が飛び出しそうになって、出久は咄嗟に口を両手で覆った。自分自身が信じられなくて、目を丸くする。
僕はまた、とんでもないこと言おうとしてる。
では、この思いは嘘か? いや、違う、本物だ。
会いたい。美味しいごはんをつくってもらって、なんでもないことを話して、ときおりでいい、笑顔をみせてほしい。そばに、いたい。
あれ、これって、僕、まるで――出久は、ぐるぐると思考を巡らせる。考えれば考えるほど、自分の状況にあてはまる言葉がひとつしかみあたらなくて、余計に焦る。
かあ、と頬が赤らんでいく。あがってくる血の熱さと勢いに、こめかみが脈打って痛い。
眉をさげたりあげたり、口を引き結んでみたり開けてみたり。そんな百面相をしている出久を横目にみて、勝己が口の端を持ち上げた。
「はっ……顔、真っ赤」
「~~!」
君のせいだろ、と言いたいのに、声にならない。出久は、結局、何も言えずに奥歯を噛みしめた。
食事のときの穏やかな雰囲気はもう、ない。妙に気まずい沈黙と、水の流れる音、勝己の食器を洗う音だけが響く。
「てめぇが、」
そんな空気を、切れ味鋭い刃物でゆっくりと裂くように、勝己が静かな声で言う。
「……僕、が?」
出久は、わずかに肩を震わせその続きを促す。おずおずと上目で端正な横顔を見つめていると、水を止めた勝己が出久へと向き直った。
「てめぇがくるなら、教えてやってもいい」
出久は何も言えず、息もできず、目を大きく見開いた。視界いっぱいに、勝己の顔が広がっている。
勝己しかみえないなんて、目がおかしくなったのかと一瞬思ったが、滑らかな動作で物理的に距離を詰められていただけだった。その近さに、出久は思わず一歩後退する。
「デク、俺んとこにこい」
そう言われて、は、と間の抜けた声がまず飛び出した。
次から次へと、心乱れる言葉を投げつけられて、頭が破裂してしまいそうだ。
「……まって、ちょ、どういうこと? どうして、そうなるんだよ……」
「引越しするなら荷物送らなきゃいけねえだろうが。だから、俺のとこにくるなら住所を教えてやるっつってんだ」
「……そ、それって、ルームシェアしようってこと?」
「いや……、あー……まあ、家賃は半分出せや」
勝己の言葉に、単純な同居というわけではないのだと察する。
同じ部屋で、共に暮らす。
それはつまり、出久が帰ったら、勝己がいるということだ。その逆に、帰ってくる勝己を出迎えることだってあるだろう。
ヒーロー同士だから、いつも一緒に食事をするのは難しいかもしれないが、現状よりはずっと同じ食卓につくことが増えるだろう。
そうして、あの一週間のように、他愛ない言葉を交わしながら、ときに怒られ、ときに笑って、掃除をしたり洗濯物を片づける。
そして、おやすみなさいをいって、眠りについて。翌朝には、この世界の誰よりもはやく、おはようを告げるのだ。
一瞬で、そんな光景を思い描いてしまった出久は、それに言い表しようのない幸せを感じた。
今まで考えたこともない未来を夢想した自分に戸惑って、出久は俯く。
ああ、胸が高鳴って、苦しい。喉を掻き毟って、言葉にならずにそこに留まる思いを取り出すことができたなら、すこしは楽になれるだろうか。
「……なんで、僕なの……」
こみあげるのは羞恥か、焦燥か。それとも、欲求か。言外に、勝己の言葉は足りないと責める。
「腹いっぱいで、ちょうど食べ頃になったみてえだからな」
勝己のそれは、納得できるようなものではなかった。ただ、謎かけのような不思議さで、出久をさらに混乱させる。
「……あっ!」
気付けば、大きな手が無造作に伸びてきていた。
左手がとられて、ひう、と出久の喉の奥が引きつる。小指を、勝己が確かめるように指先でなぞる。
ぞわぞわとした、たまらない疼きが、腰から頭へと這いあがっていった。
出久は、耳まで赤くしながら眉根を寄せる。
「……ちょ、ちょっと……触りかた、おかしいよ……?! かっちゃんってば!」
「本当に食べごろかどうか確かめてるだけだっつーの。まだ、とってくいやしねぇよ」
喉の奥を震わせるようにして笑いながら、勝己がなんだか不穏な言葉を囁く。低い声に意識がくらりとする。怖くて、出久は身を竦めた。
「な、なんだよそれ……なんか……ヘンゼルとグレーテルみたいだ……」
「あ?」
なんでここで童話の名称がでてくるのかわからないといったように、勝己が小さく首を傾げる。
一瞬にして作り上げられた妙な雰囲気から逃れたい一心で、出久はべらべらと喋る。
「かっちゃんのごはんで、僕がおいしく育てられて、食べごろになったからパクリって食べられる……なんてさ、そんなこと、あるわけないのに、ね……あははは、はは……」
変なこといってごめん、もう手を放して――そう続けようと思ったのに、勝己がきょとんと、幼げな様子で目を瞬かせるから、出久は言葉を飲み込んだ。
「は? ンだてめぇ、さっさと俺に食われたいんか」
「そんなこといってないよね?!」
「まあ、今日は準備してねぇからまた次だな」
「何の話?!」
我慢ができず勝己の手を振り払い、出久は素早く距離をとる。好き放題に弄ばれた手にもう一方の手を重ね、きつく握り締めた。これまでに感じたことのない痺れと震えが、とまらない。
あからさまに怯える出久の姿が面白いのか、勝己がひどく愉しそうに笑う。ゆっくりと追い詰めるように一歩踏み出してくる姿には、捕食者の余裕があった。
「なあ、てめぇ、俺がいないと生きていけねえんだろ?」
「……いや、だから、それは! なしだって……!」
さっき、了承したくせに、と睨み付けると鼻で笑われた。
「はっ――ンな顔で言われてもな。……やっぱ、忘れてやんねえわ」
「――ッ、ンン?!
勝己の手が素早く出久をとらえる。腰を引き寄せられ、言葉の綾だったといいかけた出久の唇が、塞がれた。
出久は目を見開いて固まった。これ以上ないほどに、勝己の顔が近い。近すぎて、ぼやけている。それくらい近い。
触れてきたものが柔らかく温かく、唇を食んでくる。
これはキスです、と、停止しかけた出久の思考回路の隅っこが、そんなことを懸命に伝えてきた。
だから、ぐっと顔を逸らして、出久は逃げる。勝己は何を血迷っているのか。相手が誰だかわかっているのか。
「うわあああ?! か、かっちゃ……かっちゃん?! な、なに、なんでっ……?!」
「そっちが煽るからだろうが」
「そんなこと僕がいつしたんだよ! って、……あ、あー……」
脳裏に『かっちゃんがいないと生きていけない』という、己の恥ずべき言葉が蘇ってくる。
あれか。あれがかっちゃんのスイッチを押したのか! たった今、忘れないっていわれたしね?!
ぐ、う、と顔を真っ赤にして 出久が唇を噛みしめると、勝己が笑みを深くした。
まずい。これ、すっごくまずい状況だ。そう思うのに、まったく身体が動かせない。
ぺろり、と味を確かめるように頬を舐められて、出久はぎゃっと色気のない悲鳴をあげた。
「まって、ちょっと、ほんと……意味わかんないんだけど!」
「その足りない脳みそ使えや。ちょっと考えりゃあ、わかるだろうが」
腰に添えられた手が、ゆるゆると形を確かめるように出久の身体を辿る。
「え、えー……まって、まって……考える……! まって!」
これ以上何かされるとまずいという本能に従い叫べば、ぴたりと勝己の動きがとまった。
どうやら待ってはくれるらしい。だが、待ち続けるつもりはないらしい。熟れ落ちそうなほどの赤さを湛える出久の耳に唇を寄せて、勝己が問う。
「じゃあ、第一問。俺がどうしててめえごときにわざわざメシ食わせてやっているか?」
「え、ここでクイズ?! え、えーと、それは、かっちゃんが料理好きだから……とか?」
あとは僕のズボラ加減が許せないから、お母さんに頼まれたのを引きずっているから、とか。そう言葉を重ねると、勝己の笑顔がひきつった。
「はずれだ、クソが」
そう吐き捨てたと思ったら、また唇を塞がれた。出久は目を白黒させる。
「う、んっ――ちょ、キスする必要ある?!」
これセカンドキスだよ、と叫ぶ出久の抗議など綺麗に流して、勝己が自分の唇をぺろりと舐めた。色っぽくて爆発しそうだ。
「第二門。最期の問題だから気張れよ。有名なこの言葉の続きを答えよ。『料理は――』?」
「もう終わりなの?! ええっとー、答えは……その、えっと、――あい、じょ、う……?」
愛情。そう言葉にした瞬間、出久は羞恥で死にたくなった。自分は何をいっているんだ。
「正解」
「あ、当たったならはなして、って、んんー!」
結局キスするんじゃないかああああ! という出久の叫びは、勝己の口内へと吸い上げられて消えていく。さようなら、僕の三番目。
ちゅ、という恥ずかしさしか感じない濡れた音をたてて、勝己が離れる。散々に吸われ、互いの唾液に塗れた唇を、出久は一文字に引き結ぶ。
「てめぇが自分の料理じゃ満足できない理由も、これでわかったか?」
「へ、は……ぁ、……?」
ぜぇ、はぁ、と荒い呼吸を整えながら、出久は考える。
一度、話をまとめよう。
かっちゃんは僕と同居できる程度には、僕のことを嫌っていない。
かっちゃんが料理を作ってくれるのは、義務やお節介からではない。
かっちゃんの料理が美味しいのは、愛情がこめられているからである。
っていうか、どうやら僕は、かっちゃんに好かれてるっぽい。
以上。
なんだこれ恥ずかしい。抱きしめられているのも恥ずかしい。いや、キスしてるのも大概恥ずかしい。
「で、どうする?」
「う、わっ?! ……ん、ひっ…!」
やわらかさを楽しむように、勝己の指先が出久の耳たぶを弄ぶ。すっかり頭に血が上っている出久には、水で湿った勝己の指先は冷たくて、思わずきつく目を閉じて首をすくめる。
本能的に距離をとろうとして、勝己の胸を押して離れる。が、数歩下がった出久の距離分、勝己が前にでてくる。
よろよろと後退していった出久の背中に、冷蔵庫がくっつく。もうこれ以上、後ろには下がれない。長い腕が、出久を囲う。
出久は、まるで自分が食材にでもなったような、馬鹿な錯覚に陥りそうになった。このまま、勝己の手によって、ぐいぐいとしまわれてしまいそう。
「もう一度いうからちゃんとこたえろや、クソカス」
今しがたキスをしていたとは思えない口の悪さを、咎める気力もない。ただ、形のよい勝己の唇が動くのを、馬鹿みたいに見つめるしかできない。
「テメェがくるなら、住所を教えてやる。ついでに俺の料理が毎日ついてくる」
答えは、ひとつだよな? ――そんな幻聴が聞こえそうなくらい、勝己が自信を乗せて笑う。滲む色香にあてられて、そろそろ呼吸ができなくなってきそうだ。
短い呼吸を繰り返す出久の耳に唇を押し当てるようにして、勝己が囁く。
「なあ、デク。迷うことなんか、なにもねえだろうが」
甘く低い声が、魅力的な誘いをもってして、耳朶を擽る。ふぁ、と鼻にかかった声が飛び出した。膝が震えてもう立っていられない。
たしかに、勝己のところへいけないなんて嫌だ。勝己の料理が食べられないなんて、嫌だ。
それに、こうして抱きしめられるのも、キスをされるのも、悪くなかった。驚いたけれど、嫌悪も浮かばなかった。
というか――むしろいい。気持ちが、よかった。
だって、あの勝己が、自分を求めているのだ。こいって、一緒に住もうって、いってくれたのだ。
いつも邪険にして、ひどい言葉を吐いて、ときに手も出してきたそんな男が、愛情こめて料理を作ってくれていたという。
煙たがられていたとばかり思っていたのに、これまでの食事に、交わした会話に、ふとした仕草に、この行動に、勝己なりの気持ちがあったのだと思ったら、もう、たまらなかった。手を伸ばす以外の答えが、でてこない。
出久は、ずるずると冷蔵庫に背を預けながら、へたりと床に座り込む。そして、勝己を見上げ――深く、一度だけ頷いた。
「わかった、から……かっちゃんの、新しい住所、教えて……」
忙しない鼓動を繰り返す心臓が邪魔をして、途切れ途切れのか細い返答になってしまったけれど、勝己はそれをちゃんと拾ってくれた。
ゆったりと勝己の顔が変わっていく。
ようやく待ちに待った収穫の日を迎えたことを悦ぶように、目を細め口の端を吊り上げて、にんまりとわらう。
「は、ははっ、ようやく、俺の腹も満たされそうだわ……!」
そう心の内を吐露した勝己が、手を伸ばしてくる。
座り込んだままの出久の頭が、押さえつけるように両側から力強く掴まれる。出久の頬に添えられた皮の厚い手の平から、勝己の匂いがした。
「……かっちゃん、ン……!」
そのまま唇に噛り付かれて、出久はぎゅっと瞳を閉じた。ぴちゃり、と喉の渇きを潤すように啜りあげられて舌が痺れる。
口づけを受けいれながら、出久はぼんやりと思いめぐらせる。
ほんとうに腹を空かせていたのは、いったいどちらだったのだろう?
どうして自分ばかりがと思っていたが、もしかして、ずっと満たされないお腹を抱えていたのは、勝己のほうだったのかもしれない。
いつからそうだったのか尋ねたくとも、貪られている今はそれもできない。
一緒に暮らしはじめたら、教えてくれるだろうか。どうなるかはわからないけれど、期待くらいはしてもいいだろう。
出久は力の抜けた腕をなんとか伸ばして、勝己の身体を抱きしめる。伸び上るようにして寄り添えば、鍛えられたしなやかな身体の熱さに気付く。
ああ、いつか、僕はかっちゃんの手によって、頭から足先まであますところなく料理され、ぱくりと食べられてしまうのだろう。だけど、この一部になるのならば、それもいい。
そう遠くはない未来に訪れる食事風景に思いを馳せながら、出久は絡んでくる勝己の舌に、そっと応えた。