嵐のおわりに射しいる光

 かつて、ヒーローとなるべく、まさに命がけの学校生活を送った母校、雄英高校。
 出久は今、そこに非常勤講師として招かれている。ただ、プロヒーローとしての活動もあるから、顔を出すのは週に二日程度である。
 そうして勤めるようになってから与えられた部屋の片隅、お気に入りのコーヒーメーカーで淹れたばかりのコーヒーを、これまたお気に入りのマグカップに注ぐ。
 ふわり、湯気とともにあがってくる香りを楽しみながら、ミルクと砂糖を好みの分だけ投入する。
 ティースプーンで均一になるようかき混ぜていると、背後で、わっと歓声があがった。出久は、室内に満ちる明るい空気に小さく笑う。
 この部屋の中央には、持ち込んだソファセットが設えられている。そこから、若さ溢れる元気いっぱいな声と、あからさまに面倒くさそうで不機嫌きわまりない低い声が、聞こえてくる。
 コーヒーの香りをなびかせながら振り向けば、今年の新入生の少年たちに纏わりつかれている男が一人。出久と同じ非常勤講師の、爆豪勝己だ。
 まず、ソファの背もたれ越しにしゃべりかけている少年が一人。そして、勝己を取り囲むように、両隣に少年がひとりずつ。
 すっかり取り囲まれている勝己の眉間の皺は深く、目つきは凶悪きわまりない。無邪気な少年たちとは対照的だ。
 その光景に、ついつい声をあげて笑ってしまいそうになるのを、出久はなんとか堪える。
 見た目と性格に反し、勝己が子供に好かれる性質であると、高校の頃から知ってはいたが、まさか高校生にも通じるとは思っていなかった。
 邪険に扱われても、めげることなく勝己に絡みにいく少年たちの様子は、かつてのクラスメイトたちを連想させる。ああ、おもしろい。
 勝己は、生徒たちを乱雑に扱うこともしばしばだ。だというのに、彼を慕ってここを訪れる生徒はあとを絶たない。
 ヒーロー基礎学の授業において、実力をきちんと把握し、足りないところを遠慮なくかつ的確に指摘するから、向上心のあるヒーロー科の生徒たちから人気が高く、信頼が厚いのである。
 それに、勝己は嘘をつかない。言いたいことを躊躇いなく言ってのける。虚飾に彩られた意味のない賛辞もしない。
 それは、高い実力に裏打ちされた言動であり、子供から大人へと急速に変化していく難しい年頃の少年達にとって、憧れるにあまりある。ようは、まったく揺らがない勝己のあり方が、格好良くみえるのだ。
 というわけで。
 がんばれ、かっちゃん! ――そう心の中だけで、出久は応援する。
 若干、蚊帳の外に置かれて寂しい気もするけれど、あの騒ぎの中心に置かれるのは遠慮したい。出久はもう、あの若さについていけないお年頃なのだ。察して欲しい。
 ああ、コーヒーが美味しい。
 巻き込まれない絶妙な位置をキープして、傍観者のごとくその様子に頬を緩ませながら、喉を潤す。
 と。
「だー! さっさとでていけ、このクソガキどもが!」
 とうとう勝己が爆ギレした。大きな怒鳴り声が小さな部屋に反響する。肝の据わっていないものならば、震え上がって縮こまるだろう。
 だが、本当に手を上げてくるのは戦闘実技のときだけであることを重々承知している少年たちは、けらけらと笑うだけだ。怖いもの知らずの若さって素晴らしい。
「せんせー、そういうのよくないと思いまーす!」
「俺たち真似しちまうぞー!」
「そうだそうだー!」
 やんややんやと少年たちが騒げば、本格的に勝己の目が吊り上った。
「ふざっけんな! 明日の戦闘訓練でみっちりしごくぞゴルァ!」
 勝己にしてみれば、脅しに近い言葉のつもりだったろう。だが、そういったとたん、少年たちの顔がことさら輝いた。それは、ご主人様にかまってもらえると理解した、子犬のような愛らしさだ。
「やった! 先生、約束な!」
「ああ、ずりぃ! 先生、俺も! 俺も!」
「おまえ、この前も指導受けただろうが! 今度は俺だってば!」
 やはり、プロヒーローのなかでもナンバーワンと自他共に認める爆豪勝己に、直接指導を受けられるのは、彼らにとっては重要なことらしい。
 我さきにと約束をとりつけようと、ひときわ騒がしくなったその様子に、勝己のこめかみが震えるのがみえた。一応、まだ我慢しているらしい。
「……ぶふっ」
 とうとう、出久は噴出した。ぎろり、と赤い瞳がねめつけてくるが、怖さというより微笑ましさしか感じない。口元を押さえた出久は、顔を背けて肩を震わせる。
 鋭い舌打ちが、響いた。
「明日、三人まとめてしごいたるわ! つか、ほんともう帰れ! 仕事させろ!」
「「「はーい!」」」
 約束だからな! と念押しをして、少年たちは鞄を手にとって、わいわい騒ぎながら部屋の扉へと向かう。そして、退室する前に回れ右して、一斉に頭を下げた。
「爆豪先生、緑谷先生、失礼します!」
「しっつれいしまーす! 緑谷先生! 爆豪先生!」
「さようなら、爆豪先生、緑谷先生! また明日!」
 きちんと挨拶をする彼らに、出久はにこりと笑って手を振った。
「気をつけて帰るんだよ」
 はーい、とよい子の返事をして、彼らは部屋を飛び出していった。廊下を駆け抜けていく足音が、だんだん遠ざかっていく。
 生徒指導の先生にみつかると怒られそう、と呑気に考えながら、出久は勝己のマグカップを手に取ると、コーヒーを注いだ。
 勝己の好みはブラックだ。彼いわく、出久の飲み方は、甘すぎてありえないらしい。おいしいと思うのだけれど。
「クッソ……! なんでこの俺が、あんなガキどもの相手しなきゃいけねーんだよ……!」
 ぐったりとソファに背をあずけ、顎をあげて愚痴っている勝己の隣に腰掛ける。
「なにいってるの。次代のヒーローを育てることも、プロとしての大切な仕事だよ。はい、お疲れさま」
 マグカップを差し出すと、体勢を戻した勝己がそれを受け取り、口にする。
 昔は淹れるたびに駄目出しをされていたが、いつのまにか何も言わずに勝己は出久のコーヒーを飲むようになった。
 長年の付き合いで、出久の淹れ方がうまくなったのか、それとも勝己が出久の味に慣らされてしまったのか、さだかではない。
 出久もコーヒーを一口すすってから、いう。
「それに、あの子たちはかっちゃんに憧れて雄英にはいったっていってたからね。かっちゃんのこと、大好きなんだよ。ヒーローの卵で、かっちゃんのファンで……、だったら、大事に育てて、導いてあげなきゃ。ね?」
 む、と勝己が眉をひそめる。だがそれは、いつもの不機嫌なものとは違い、どこかくすぐったそうな、気恥ずかしさを隠すためのように見えた。
「……好き、ねぇ……」
 小さくそう呟いた勝己が、ふいに赤い瞳を出久へと向けた。
 どうしてだか、その真っ直ぐさが、いままで気にしていなかったことにはじめて疑問を抱いた幼子のようにみえて、出久は小さく首を傾げる。
「そういや、てめぇ、俺のこと好きか」
 この話の流れから、どうしてそうなる?
 きょとんと目を瞬かせた出久は、次の瞬間、顔をしかめた。
「かっちゃん、なにいってるんだよ。どうしたの? 熱でもある? 頭おかしくなった? 保健室いく? リカバリーガールにみてもらう?」
 呼吸を挟むことなく一息にそういって、手を伸ばす。勝己の額に、手のひらをあてる。
 たちの悪い風邪でもひいたかと思ったが、そこから伝わるのは正常だと判断できるような体温だった。体調に問題はなさそうなのに、どうしたことかと、出久は真剣に悩んだ。
 みしり、と眉間の皺をひときわ深くした勝己が、心外だといわんばかりに出久の手を乱暴に払う。
「ふざけんな! いたって正常だわ! 定期健診にもひっかからなかっただろうが!」
「そうだったね。健康なのはいいことだよ、かっちゃん」
 勝己の事務所では、所属するヒーローはもちろんのこと、事務職員含めて、定期的な健康診断をおこなっている。態度と口は悪い勝己であるが、福利厚生への考えはしっかりしている。そういうところは妙にきっちりしていて、さすが勝己だと思う。
「で、どうなんだよ」
「え~……」
 出久は呆れた顔をして、肩を竦めた。まだこの話は続くらしい。
 面倒な空気を察して、そこは終わろせよう? ――そう思いつつも、出久は律儀に一瞬考え込む。そして、いう。
「なにをいっても、かっちゃん怒るだろ? だから、いわない」
 好きといったなら、気持ち悪いと罵り怒り、力いっぱい爆破してくるだろう。
 嫌いといったなら、クソナードの分際で生意気だと、組み敷いてくるだろう。
 爆豪勝己と書いて、理不尽と読む。
 長い付き合いで、出久はそうであることを、とうの昔に悟っている。だったら、なにもいわないほうが賢い選択というものだ。わざわざ自分から窮地に飛び込むほどの無鉄砲さは、もうこの歳では持ち合わせていない。
 出久は、半分ほど瞼をおろした胡乱げな顔で、勝己を見遣る。
 そもそも、自分達は好きだの嫌いだの、そんな言葉でくくれるような間柄ではないだろう。わかっているくせに。へんな気まぐれを起こさないで欲しい。
「っていうかね、その質問、そっくりそのまま返すから。先にかっちゃんがこたえたら、いってもいいよ」
 はん、と勝己が馬鹿にするように笑った。
「そうかよ。じゃあ、一生わかんねーな。まあ、べつにどうでもいいけどな」
「そうだね、僕もそう思うよ」
 でも、自分たちはこれいいのだと、出久が小さく笑うと、無言のまま勝己が顔を寄せてくる。
 ここ学校なんだけどなあ、と思いつつ。それでも出久が当たり前のように目を閉じると、コーヒーの香りがする唇が重なった。
 あけろといわんばかりに、勝己の舌先が閉じた出久の唇の割れ目を、右から左へと舐める。やれやれと開いてやれば、ぬるりと厚い舌が滑り込んできた。
「ん、ぅ……」
 苦い。出久は、眉をひそめた。コーヒーの苦味を分け与え、デクの口内の甘さを塗り替えていくような口付けだった。ねっとりと口内をさ迷ったあと、それはそっけなく離れていく。
「あっま……」
 出久の飲んでいたコーヒーの甘さを感じ取った勝己が、顔をしかめている。こっちは苦いんだけど、と思いつつ、言う。
「もう……誰かにみられたらどうするんだよ」
「知るかクソが」
 いつもの抗議に対する、いつもの返答。
 はあ、と出久はわざとらしく大きな溜息をつき、じろりと勝己を睨む。効果がないことくらい、重々承知しているが、やらずにはいられない。勝己は、どうでもいいとばかりに、つーんとそっぽを向いている。
 それにしても、不思議だ。血気盛んな若い頃ならいざ知らず、世間一般では性欲も衰えるころあいだろうに、この歳になってもまだ、勝己は自分の身体に飽いてはいないらしい。
 ああ、趣味が悪い。でも、それは自分もか――と、出久は、まだ口内に残る苦味のような気持ちを抱え、嘆息した。
「もう機嫌直った?」
「ガキ扱いするんじゃねえ、クソが!」
「はいはい、かっちゃんは大人だよ」
 があっと吠える勝己をおざなりにあしらい、出久は気を取り直して、すっかり作業の手がとまっていた書類へ手を伸ばす。
 ソファの前にあるテーブルの上には、採点しなければならない小テストの束。そして、前回の戦闘実技に関する各生徒の考察と感想が書かれたレポートの束。
 小テストの採点は自分がすることにして、出久は戦闘実技のレポートを勝己へと渡す。
「ほら、はやく終わらせて帰ろう? 切島くんに事務所まかせっきりなんだから」
「あー、かったりぃ、やっぱり非常勤講師なんて引き受けなきゃよかったぜ……」
 手渡されたレポートを、ぺらぺらとめくりつつ、面倒くさそうに勝己がぼやく。
「なにいってるんだよ。相澤先生に頼まれて、断れなかったくせに」
「……ちっ」
 さすがに、相澤先生には学生のころ散々世話になった自覚があるらしく、勝己が舌打ちをして書類に視線を落とした。もう、なにもいわずに仕事をするつもりのようだ。
 さあ、僕もはやくやってしまおう。そう思って、出久が赤いペンを胸ポケットから引き抜いたとき、開け放たれた窓から、カーテンを揺らしてやわらかな風が吹き込む。
 それは、学生達の元気で楽しそうな声をはらんでいて、出久は誘われるように静かに目を閉じ、耳を済ませる。
 この平穏が、いつまでも続くといい――そう思わずにはいられない、優しい日だった。

 

 なんでもない日常の記憶は、ダイヤモンドのような輝きと煌きで、出久の胸のうちを鮮やかに彩る。たとえ、死に面した血生ぐさい戦いの跡地であったとしても、それをいっとき忘れさせるほどに美しい。
 いや、そういったことを感じる感覚が、もう、機能していないのかもしれない――懐かしく思う話を、途切れ途切れに語った出久は、ゆるゆると視線だけをめぐらせる。
 額から滴る血のせいで、よく、みえない。けども、すぐそこにいる人を、なんとかとらえることはできた。
 壁へと背を預けたその姿は、ぼろぼろだ。血塗れの、傷だらけ。腹部に空いた虚からは、赤黒い内側がみえる。右腕は、肘から先がない。自分をここまで連れてきてくれた左腕と両足も、きっともう動くことはないのだろう。
 けれど、人々を守るために戦ったその姿は、この世界のどんなヒーローよりも、格好いいヒーローだ。
 二人分の血溜まりの中心で、出久は笑う。
「……ねえ、こんな話したことあったよね……、覚えてる?」
「……なんっで、いまその話をしたんだ……テメェは……」
 ぜぇ、と苦しそうな息の合間、声はすっかり掠れているのに、口調はいつもどおりだったから、出久はまた笑った。
「どうしてかな……」
 ふふ、と声を漏らし、息を吐き出す。
 ああ、瞬きをするのも、億劫だ。このまま、閉じて眠ってしまいたい。だけれど、できる限り、勝己の声を聞いていたかった。
「ね、もっかいきいてよ……、今度は、こたえるから……」
 他愛のない会話を、最後の瞬間まで続けたかった。
「はっ……くだらねー嘘つこうと、するんじゃねえ」
 こほ、と咳き込みながら、勝己がいう。
「……そういうのを、優しさと、はきちがえんな……」
「あはは、かっちゃん、ひどいや……僕、嘘なんて、いわないよ……」
 手厳しい。だが、これが、勝己だ。
 出久は、いまならこの気持ちが言葉になるような気がしたのだが、その機会はこれで永遠に失われてしまった。でも、それもいいだろう。これも、自分たちらしい。
「……僕たち、いっしょの墓場まで、いけるかな……?」
 会話を変える。内容は、ひどいものだ。死ぬことを前提としている。でも、助かる見込みは限りなく、零だ。
 この国の首都全体を巻き込む、大規模な犯罪行為が始まったのは、夕方のことだ。略奪、放火、強盗、破壊行為――ありとあらゆることが、同時に角地で起こった。
 ヒーローたちは、それを全力で止めようとした。もちろん、出久と勝己も現場へと赴いた。
 人命救助に駆け回るヒーローたち。彼らの邪魔をしようとする敵と戦うヒーローたち。混乱を極める地区の中心で、出久と勝己はこの事件の首謀者と相対した。
 あと一歩で捕まえられるというところで、わずかな油断と焦りがでた。もう逃げられないと悟ったのだろう敵の自爆に、出久は巻き込まれてしまった。
 全盛期の力があれば、それを避けることは容易だっただろう。
 しかし、ワン・フォー・オールを譲渡したあとの、無個性の頃にもどりつつある出久には、できなかった。
 死を覚悟した瞬間、強く引き寄せられた。
 え、と思ったときには、閃光が視界を潰し、爆音が耳をつんざき、そして暴力的な衝撃に身体が吹き飛ばされていた。
 そして、次に目をあけたときにはもう、この場所にいた。
 引きずられた跡をしめす赤い血は、意識を失っていた自分のもの。その横に滴る点々とした血の跡は、ここまで出久を運んだ勝己のものだと、すぐにわかった。
 生きていることが、自分でも不思議なくらい、身体は壊れていた。ただ、右手が残っていることが、救いだった。他の部分がどれだけ欠けていても、勝己にのばせる手があることが嬉しかった。
 そうして、意識を取り戻してすぐ伸ばした手は、なに隔てられることもなく、振り払われることもなく、隣に座り込んだ勝己の手が、すくいあげてくれた。それは、いまもまだ、繋がれたままだ。
 通信機器は、どうやら壊れてしまったらしい。仮に使えたとしても、あの混乱具合を考えれば、助けがくる見込みは薄かっただろう。
 ほんとうは、どうあっても勝己を救けたい。自分のすべてをかけても、自分は死んでしまっていいから、救けたい。そうでなければ、緑谷出久は、ヒーロー・デクではなくなってしまう。
 だが、もう動けないことも、わかっている。脱出する術もない。あったとしても、走れる足が、出久にはもうなかった。
 長い沈黙のあと、勝己が、息をはいた。
「……あー、……無理、だろ」
「……ふふ、だよね……一緒のお墓には、もともとはいれそうに、なかった、し……。だけど……」
 養子縁組もパートナーシップも結んでいない。寄り添うような、それでいて距離がある、なんとも不思議な関係をたもちながら、二人はここまでやってきた。
 そんな自分たちが、どうやったら一緒の墓にはいれるというのだろう?
 遠い過去、はじまりを告げた勝己の言葉を思い出す。彼が嘘をつくことはないのだから、きっと、どうにかするつもりだったのだろうとは思うのだけれど。
 だが、もう、いいのだ。一緒の墓にはいれずとも、いい。出久は、息を吐き出す。
「……かっちゃんと、なら、どこでも、いいや……」
 それは、嘘偽りのない、出久の本心だった。
 地獄でも天国でも、世界の果てでも、宇宙の彼方でも、どこでも。勝己がいるのなら、そこが、そここそが、出久のあるべき場所だ。
「どこでもいい、とか……、適当なこといってんじゃねえ……、ふざけんなよ、クソが……」
 悪いほうにとったのか、勝己が表情を歪めて吐き捨てる。
「ははっ……かっちゃん、さいごまで、くち、わるいんだから……――あっ……、」
 ふいに、光がきえた。まるで停電にでもなったかのようだ。暗い。なにも、みえない。だが勝己は、なにもいわない。つまりこれは、出久の視覚が失われたことを意味していた。
 ああ、終わるのかと、他人事のように思う。
「……ごめん……もう、……」
 声も、もう、ほとんど音になっていない。
 いや、音をひろうための聴覚が、おかしくなっているのかもしれない。
 なにが生きていて、なにが死んでいるのかさえ、わからないくらい、自分というものがあやふやだった。
 出久の様子に気づいたのか、勝己がみじろぎする。その気配だけは感じとれた。
「……おー……じゅんびでも、しとけ……せいだいに、でむかえろ……」
 よかった。まだ耳は彼の声を届けてくれた。
「……うん……うん、」
 出久は、瞼の重さにたえきれず、もうなにも映せない瞳を閉じる。
 普通の、いい人生だったと思う。
 いやまあ、世間一般からみれば、いささか過激すぎて、違うだろうといわれるかもしれないけれど――かけがえのない誰かと、人生をともにすることが普通で、自然の摂理というのなら、自分たちは自分達なりに「普通」を生きた。
 そして、それがどれだけ尊いものであるか、人を救うために生きてきた出久は、よく、知っている。普通の生活、平和な世界。それを維持することの難しさを、よく、知っている。
 だからつまり、なにがいいたいかというと――緑谷出久という人間は、幸せだったということだ。
 いや、いまも幸せだ。
 こんな、誰しもが絶望してしまいそうな状況でも、そう断言できる。
 だって、かつての恩師のように、後継者をみつけることができた。ワン・フォー・オールを託すことができた。
 彼ならきっと、人々を守ってくれる。救けてくれる。そして、また、あの聖火を、未来へと繋いでいってくれることだろう。
 そして、後継者にワン・フォー・オールを譲渡してから、抜け落ちはじめた力でも、救けられる人々がいた。
 力を失いはじめてからも、出久は出来る限りのことをした。怪我も、高校生の頃のように、よく負うようになって、それを勝己がなんだかんだと文句をいいながらも、カバーしてくれた。嬉しかった。
 だがなりよりも、この人生を、幼いころからともにした人がいた。いつの間にかクソを下水で煮込んだような嫌なやつになっていたけれど。
 憧れていた。畏怖していた。でも、いつも追いかけていた。嫌いだと思ったことは星の数ほど。喧嘩もしたし、いがみ合ったし、離れようとしたこともあったし、本気で殴りあったことだって、何度もあった。
 だがこうして彼岸を見渡せる状況になって思い返しても、なにひとつとて失いたくはない思い出だった。
 嫌なことも、良いことも、すべてひっくるめて、勝己がいたからこその、素晴らしい人生だった。
 だったら、これを幸せといわず、なんという?
 人生をかけた問いの答えは、いまここに、導かれた。
 それは、死への恐怖すら凌駕するほどの、圧倒的な感情を連れてきてくれた。
 少女が憧れるような、綺麗なものではなかった。すべてを忘れて溺れるような、燃えるようなものでもなかった。
 でもこれは、きっと。
「……――、」
 一度も、勝己へと口にしたことない言葉が、自然と零れ落ちた。
 だが、遅かった。
 唇は動かず、意識は保てず、身体は冷たく、重くなっていく。もう、すべての感覚が遠い。
 だがきっと、彼には伝わっているだろう。そう信じても、いいだろう。
 せめて繋いだ手を、強く握りたかった。しかし、感覚のない指先ではそれもままならない。
 だから、平和の象徴、最高のヒーローと讃えられた男は、静かに微笑んだ。
 実際は、そんな力ももう、残ってはいなかったけれど。

 

「……デク……?」
 よびかけへの応えはない。
 馬鹿になる寸前の聴覚では、隣に座らせた男が呼吸しているのかさえ、勝己にはわからなかった。
 でも、もう。ともにここまできた男は、そこにはいないのだと、悟った。
 その瞬間、身体の力が一気に抜けた。
 矜持で支えていたものが、崩れていく。吹き飛んだ右腕があった場所も、とうに激痛をうったえなくなっていた。身体から零れ落ちていく赤い色をした命は、最後の一滴までとまることはないだろう。
「……はええよ、カスが……しずか、すぎて、つまんねーだろうが……」
 準備をしておけといっておきながら、置いていかれて文句をいう自分が、滑稽だった。
 けほ、と咳き込むと血が口元を汚した。拭うことも、もうしなくていい。きっと、先にいった薄情者の目には、格好いいと奴がいう、自分が映っていたはずだ。だから、もういい。
 意識が、最後に明滅を繰り返す明かりのように、落ちて、また浮上する。目は、いつのまにか閉じていた。
 もう使いものにならないと思った耳が、建物が崩れていく音を、かすかにとらえる。ほんとうはもっと、大きな音なのだろう。
 あのクソな敵は、最初から自分たちを巻き込んで死ぬつもりだったのだろう。そうでなければ、あの最後の攻撃をきっかけとしたように、ビルのあちこちが爆発しはじめるわけがない。仕組まれていたのだ。
 出久が恨まれていたのか。それとも自分なのか。もしかしたら、かつて倒した敵の身内だったのかもしれない。もう確かめようはない。どうでもいい。結果が、すべてだ。
 だが、残念だったなと、勝己はわらう。
 死への恐怖を味わってもらいたかったのかもしれないが、あいにくとそんな気持ちは一欠けらも浮かんではこない。
 まあ、死にたくないかと問われれば、死にたくないと答えるだろう。心残りはないのかと問われれば、たくさんあると怒鳴るだろう。
 だが、これまでの自分の人生に悔いなどない。
 いつでも、全力で生きてきた。
 自分で選び、掴み取ってきた。
 前を向き、歯を食いしばって、ときに涙したことがあっても、足を踏ん張り前だけを見て、何に恥じることもない爆豪勝己として、強くあり続けた。
 ナンバーワンヒーローとして名を刻み、守るべきものを守ってきた。育てるべきものを育てた。
 母校で、出久とともに指導し芽吹いた新たな力は、きっと見事に咲くだろう。そして、これからもヒーローは、人々のために戦い続ける。
 やがて、自分達のように朽ち果てるときがこようとも、それは新たな芽吹きの苗床となる。そうして、ヒーローは在り続けていくだろう。救いを求める人が、いる限り。
 ならば、あとを託すことに憂いなどありようはずもない。こうして終わりをむかえても、悔いなどこみあげるわけがない。
 これまで歩いてきた己の道で、得たもの、捨てたもの、失くしたもの。そのすべてが、自分を形作るものだかけがえのないものだと、胸をはっていえる。なにものにも変えがたい価値あるものだと、断言できる。
 これが走馬灯かと、感慨深くすべてを思い返す中、つねに傍らに立ち続ける男に、意識が傾く。
 綺麗な新緑色で自分を映す眼、そばかすの散る気の抜けた笑顔、ときおりみせる底知れぬ激情。
 胸を焦がすような恋情などではなく、歯の浮くような言葉で飾る愛情などでもなく、そんなものよりずっと深い、なにかがあった。
 そいつとは確かに距離はあった。だが、絡み合う縁は重く、決してほどけることはなかった。苛立ち、腹立たしく思うことがあっても、振り払えるようなものではなかった。
 それは、それだけが――勝己の心を、この世の何よりも掻き乱し、そして満たすものだった。
 ああ、そうか。

 これは――そう、だったのだ。

 すとん、とそうではないと思っていたが、それしか言い表しようのない言葉が、落ちてきた。
 心の水面に美しい輪をえがき、それは勝己の一番深いところまで沈んでくる。きらきらとした宝石のようなものが、底にたどり着いたとき、勝己は薄く瞼をひらいた。
 もう、感覚のない手の、指先を繋ぎあう動かない出久の手を、勝己は霞む目になんとか映した。
 もともと傷だらけだったヒーローの手は、いまや凄惨な状態だ。血に塗れ、肉が削げ、骨が見えている。
 ただ、勝己は、その戦い続けた証が、ひどく尊いものにみえた。美しいとさえ、思った。
 それを、懸命に、握ろうする。だが、うまくはいなかった。全神経を集中させても、動かぬ手がたまらなく口惜しい。なにも感じぬ肌が、厭わしい。繋がれていると認識するのは、もう触覚ではなく視覚だけだった。
 視界の端に、天井がくずれてくるさまが、みえた。だが、そちらをみることはしない。それよりも出久の手に、なけなしの意識をあつめるほうが、大事なことだった。
 最後に、もういちどだけ、その熱を感じたかった。きっともう、そんなもの宿ってはいないだろうが。
「……――、」
 囁いた言葉を受けとるべき男は、もういない。でも、きっと、伝わっただろう。
 もしそうでないのなら、この「さき」で、いってやってもいい。どうせ、これからも、ずっといっしょなのだから。
 ふ、と最後の力で口の端を持ち上げた瞬間、天井が大きく崩れた。

 

 空が、青い。ほかになにも混じっていない色は、どこかの聖堂のような静謐さをたたえている。
 花束を携えた老人は、ひとり、規則正しく石が組まれた円形の広場を歩いていく。その歩む先には、白い石碑がひとつ、厳かにたっている。
 太陽の光をあびて、それ自体が光っているかのようだ。眩しくて、老人は目を細めた。
 石碑の前には、鮮やかな色をたたえる花束が、いくつもいくつも供えられている。彼らに救けられた人の手によるものか。それとも第一線で活躍するヒーローとして育てられた、教え子の手によるものか。
 そこへ新たに、手にしていた花束を供える。
 ここに来る前に立ち寄った花屋で、目についた花。やわらかな橙色をした花弁と、瑞々しい緑の葉が綺麗だったから、選んだ。かつての彼らのようだと、そう思ったのだ。
 そして老人は、おだやかな顔で、石碑を眺める。手をあわせるでもなく、ただ、ぼんやりと記憶を手繰り寄せる。
 かつてここで、巨大なビルを崩壊させるほどの、敵とヒーローの激しい戦いがあったとは、とても思えない。静けさと穏やかさに、しんみりとした気持ちを抱く。
 と。
 きゅっと、温かなものが、力なく下がっていた老人の手を握った。
「!」
 僅かに驚きに目を見開いて、視線を足元へ落とし、老人はすぐに微笑んだ。流れた時間の分だけ刻まれた、皺の浮かぶその表情は、ひどくやわらかい。
「おう、どうした。パパとママは?」
 ちょこん、と立っている幼子――愛しい孫へと、優しく問いかける。
 穢れも疑いもまだ知らない大きな瞳で、老人を見上げていた幼子は、小さな手でいましがた歩いてきたらしい方向を指差した。
「あっち」
 この広場の手前で、息子夫婦といったん別れたのだが、どうやらこの孫は勝手についてきてしまったようだ。今頃、息子たちが探し回っていることだろう。
 しょうがねぇな、と小さく零して、老人は目の前にある軽い身体を抱き上げる。
「ねえ、じーじ」
「なんだ?」
 右目の傷がいつも気になって触ってくる孫の、小さな手をくすぐったく受け入れながら、老人はその先を促す。
「これ、なーに?」
 抱き上げられて高い位置にある目を下へと向けて、幼子は石碑を指差した。
 なめらかに磨き上げられた石碑の表面には、幼子にはまだ読めない字で、たくさんのことが綴ってある。何度も訪れるうちに、すっかり覚えてしまった、堅苦しいけれど、心がこもった言葉たち。
「ああ、これにはな、最高に格好いいヒーローたちへ、『みんなを守ってくれて、ありがとう』って、かいてあるんだ」
「ふぅん?」
 言葉を選びつつ要約してみたが、それでもこの幼子にはまだ難しかったようだ。個性がそろそろ発現するかどうかという年頃だ。仕方がない。
「俺は、こいつら以上の、ヒーローを知らねえ――俺の、自慢のダチだ」
 聞きなれない言葉だったのか、幼子はきょとんと目を瞬かせた。
「だち?」
「友達ってことだ」
「おともだち!」
 そうして、ぱっと幼子が目を輝かせる。自分にもわかる言葉がでたことに、素直に喜んでいるさまは愛くるしい。
「じじの、おともだちは、ひーろー!」
「そうだぞ」
 きゃっきゃとはしゃいでいた幼子が、そうっと秘密を打ち明けるように、顔を寄せてくる。なんだどうしたと、おおげさなくらいの仕草で、耳を傾けてやる。
「あのね、ぼくも、ひーろーになるんだ!」
 みんなにはまだ内緒だよ、といってはいるが、きっと父親や母親あたりにも同じことをいっているのだろう。
「ヒーローになるのか? たいへんだぞ?」
「なるよ! それでね、みんなをまもるの! じじみたいに!」
 ぱっと両腕を広げて、満面の笑みでそんなことをいうものだから、一瞬、言葉に詰まった。
 ヒーローは危険な職業であることを、かつてプロのヒーローとして活躍していた老人は、よくわかっている。
 命をかけたことだって、何度もあった。死を覚悟したことも、幾度もあった。
 祖父としては、可愛い孫に危険なことはしてほしくはない。だが、その夢を今ここで潰えさせるのも忍びない。だから、ただ、頷いた。
「そうか……」
 彼らが、この幼子がヒーローを目指していることを知ったら、なんというだろう。今のこの世界の、平和を守るヒーローたちを数多く育て上げた彼らなら、君ならなれると、励ますだろうか。
 もう、遠い昔に姿を消してしまった、友人たち。
 あの事件で首謀者を追いかけて彼らが飛び込んだビルは、よほど激しい戦闘があったのか、彼らを呑みこむように崩壊した。その知らせをきいたとき、いの一番に駆けつけたは自分だった。
 だが、あいつらならきっと大丈夫だと信じていた。しかし、彼らは現れなかった。
 その後、大規模な捜索がなされたが、最後まで二人はみつからなかった。首謀者の遺体はみつかったというのに、彼らだけがなにも残さず、この世界から消えてしまっていた。
 だから、もしかしたら。
 彼らは誰も知らぬどこかで、うるさく、賑やかに、彼ららしく、やっているではないかと、老人は思うのだ。
 言い合って、殴り合って、寄り添うというには少しだけ遠い不思議な距離をたもって、それでもきっと、うまくやっているのではないか、と。
 そこまで考えて、老人はこみ上げる苦い思いを抱えて、むなしく笑った。
 これは、ただの自分の身勝手な願望だ。いくら思い巡らせても、せんないことだ。
 ぽん、と老人は幼子の背を、優しくひとつ叩いた。
「さあ、そろそろいくか。勝手に離れちまったこと、パパとママに、一緒に謝ろうな」
「はぁい」
 踵を返す。一歩踏み出す。
 だがふと、後ろ髪を引かれた気がして、振り返った。
 白い石碑に、さきほどと変わらず、やわらかな光が降りそそいでいる。
 やはり眩しくて目を細めたとき、ふわりと何かが滲むように浮かんでみえた。
 光の強さを忘れ、目を見開く。は、と間の抜けた声がもれた。
 そこにいるのは、不敵に笑う男と、柔和な笑顔で手を振っている男だった。
 いや、男というには若すぎる。かつての雄英高校の制服を身に着けた彼らは、少年だった。よく知っている、彼らだった。
 その姿が、懐かしくて。懐かしくて。
 駆け寄ろうとした瞬間。
「じじ?」
「!」
 どうしたの、と不思議そうな声に意識が引き戻された。出しかけていた、足が止まった。
 別の世界に迷い込んだような、なんともいえない心地から、一気に現実へとかえってくる。
 わずかな瞬きのあと、彼らはもう消えていた。ああ、いってしまったと、そう思った。
 鼻の奥が痺れたように痛んで、目頭が熱くなる。
 なんだよ元気そうじゃねえか、と震える声で囁いた。
「どうしたの? じじ、いたいいたい?」
 なんでもないと、頭を振る。
 孫の前で涙を零すなど、男らしくないだろうが、溢れたものはもうどうしようもなかった。不意打ちはずるいだろ、と彼らに心の中で文句をいいながら、泣いて笑った。
 やはりどこかいたいのかというように、せっせと右目を撫でてくる孫の優しさを受け止めながら、老人は言う。
「今日も、お前らのおかげで平和だぜ――なあ、爆豪、緑谷……」
 じんわりと染み入るようなその声を、優しい風がさらっていく。
 遠いどこかにいる、彼らのもとへ届けばいいと、願わずにはいられなかった。