「くぁ……」
ユカは、起き掛けに欠伸しつつ、大きく伸びをした。
カーテンを閉め切っているせいで、室内は薄暗い。
しかしながら、ほんのりと温まった空気と、窓を覆うカーテン越しにも強烈な光が差し込もうとしているさまは――すでに、朝という名称を使うような時間がとうに過ぎ去っていることを示していた。
ぼりぼりと頭をかきながら、ユカはゆっくり瞬きを繰り返す。
ノーラの工房兼家を増築するにあたり、住み着く気満々だったユカにも、紆余曲折を経て部屋が与えられた。
その自室をみまわせば、散らばりまくった資料の数々。
ノーラいわく、「土の塊じゃないの?!」という、古代文明の威光を示す土器の欠片。古い文献の写しである紙の束。
そういえば、次の遺跡調査のためにありとあらゆる資料をあつめ、昨晩のめりこむように知識を吸収していたのを、ノーラになかば無理やり止められたのだった。
いい加減にしなさい! と、母親のような口調で怒られて、寝台へと押し込まれたのは――そういえば、明け方近くだった。
寝かしつけられた後、いままで惰眠を貪っていられたのは、ひとえにノーラたちの気遣いなのだろう。さすがにそれがわからぬユカではない。
もぞもぞ、ユカは芋虫のほうがまだ速いだろうという速度で、ベッドを抜け出した。
適当に身支度を整えて、ユカは部屋の扉をあけ、のたのたと廊下を進む。いつも賑やかな家の中は妙に静かだ。同居人たちをつれて、もしかしたらどこかへ出かけたのだろうか。
そんなことを考えつつ、もう一度大欠伸をしながら、ユカはノーラの工房へと足を踏み入れた。
みれば、部屋の片隅に設えられた刻分儀の前に、小さな後姿があった。長い金の髪が背に流れ、細い手がクロノ水溶液を操っている。どうやら、導刻術を行使しているようだ。
「おー、ノーラ、はよ……」
ふわふわと欠伸の名残をかみ殺しながら、時間はずれの挨拶をすれば。
「なにいってるの? もうお昼だよ」
くるり、呆れたような怒ったような口調でそういったノーラが、振り向いた。
ユカは思わず動きをとめて、ノーラを凝視した。ぱちぱちと瞬きしてみるが、みえるものは変わらなかった。
ノーラは――おでこ丸だしであった。
いつも、細く柔らかな前髪が覆い隠しているノーラの小さな額が丸出し。ぱっちりとした大きな翠の瞳がよくみえる。可愛らしい眉毛は、不審なユカが目の前にいるせいか、ちょっとだけ寄せられている。
よくよくみれば、頭の上で髪をくくっているようだ。赤いリボンが結ばれているのが、また……。
「……っ、く、ははっ、ははははは! なんだそれ! はははははは!」
いまどき、子供でもやられないだろうその髪型を認識した瞬間、ノーラを指差したユカの爆笑が、工房を揺るがすように響き渡った。
「なあ、ノーラ、悪かったっていってるじゃねえか。許してくれよ」
「……」
ひとしきり笑ったあとでの謝罪には効果ないだろうな、というユカの予想通り、ノーラは頬を赤らめて、むっすりと黙り込んでしまっている。
遅い朝食兼昼食をとりながら、ユカは少し前に涙まで流して爆笑した自分の迂闊さを悔やんだ。ノーラが拗ねているところは可愛いが、機嫌をとるのは面倒くさい。それに、おもしろかったものはおもしろかったから、仕方ないではないか。
そんな心が透けて見えているのか、ノーラはそっぽを向いたままで、ちらりともユカをみようとしない。
やれやれ、これは本格的に詫びをいれなければならないようだ。ようやっとはじまった同棲生活が水の泡になるはごめんこうむりたい。同居人がいるとはいえ、やはりノーラとひとつ屋根の下にいるという幸福は手放せない。
ユカは、そっと席を立った。
「なあ、こっち向けって」
「っ!?」
手を休めた頃合いを見計らって、ユカは攫うようにノーラを抱き上げる。相変わらず軽くて、それでいて柔らかい。
急な浮遊感に一瞬驚きに目を瞠っていたノーだったが、それがユカの仕業であって、かつ抱き上げられているということをすぐに理解したらしい。暴れ出した。
「やだもー! 降ろして!」
「許してくれたら降ろす」
「ばかばかばかー!」
ごもっともな言葉だな、甘んじて罵倒を受け取りながら、それでもユカはノーラを降ろすつもりはなかった。
それはもう、肩がはたかれようが、髪がひっぱられようが、頬がつねられようが、である。我慢比べだ。
だいたい、顔を真っ赤にしているさまは可愛いくて、多少の痛みなど問題にならない。
やがて、先に根負けしたのはやはり――ユカよりも体力の低い、ノーラのほうであった。
暴れることに疲れたらしく、ぜぇ、はぁ、と全身で息をつきながら、睨みつけてくる。
身体が大きくてつくづくよかったぜ、とその潤んだ瞳をみつめながら、ユカは口の端をにんまりと持ち上げた。
それをみたノーラが、しぶしぶといった様子で、睫毛を伏せる。小さな手が、ユカの肩に乗せられた。
「ユカが……ちゃんと謝ってくれたら、許しても……いいよ」
ぼそぼそと、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でノーラがいう。ユカの脳裏に、ノーラが懸命に白旗を振る姿が描き出された。
勝った!
内心でそう思いながら、つりあがりそうになる口元を気合でおさえ、ユカはしおらしく視線をさげて、精一杯にすまないという風情で言う。
「……悪かった」
「ほんとにそう思ってる?」
じとー、と半ば据わった目でみられても、ユカは神妙な顔を崩さない。深く一度頷いた。
「おう」
「……じゃあ、もういいよ」
ふふ、とようやく花の蕾が綻ぶように笑ってくれたノーラに、ユカもまたへらりと笑う。
そうして、すとん、とノーラのつま先を床に戻してやって、いう。
「まあ、笑われたくねーってんなら、もうちっと見た目に気を遣えよ」
「反省してないじゃん! もー!」
「ははははっ!」
べちん、とまたしても肩をはたかれながら、ユカは手を伸ばした。さらり、とノーラの前髪をかきあげる。
「でも、まあ、これだけ前髪長くなってりゃー、ああしたくなるのもわかるけどよ」
むー、とされるがままになっているノーラの髪を玩びながら、ユカは苦笑した。細く柔らかな髪の感触が、気持ちいい。これだけ指通りがいいのだ。きっとなにをしても、さらさらはらはらと零れてきて、作業の邪魔だったのだろう。
「あ、あたしだって、気になってたけど依頼がつまってて、なかなか……」
「そうだったなー」
思い返せば、ここ数か月間、ノーラはなんだかんだと依頼を受けて忙しく過ごしていた。
一日が過ぎるのなんてあっという間で、散髪に気を回す余裕などなかっただろう。
今も、ケケとメロウにできあがった品を酒場まで運んでもらいながら、次の依頼品をつくっているというありさまらしい。
ふむ、とユカは顎を撫でたあと、にかっと笑ってみせた。ぱっとノーラの頭から手を離し、その顔を覗き込む。
「じゃあ、オレ様が切ってやろうか?」
半分は冗談のつもりだった。
女であるノーラが、自分に髪をあずけるはずがない。そう思っていたのに。
おお、という感嘆の声とともに、翠の瞳が輝いた。
ないすあいでぃあ!
そんな言葉が聞こえてきそうな、ノーラの顔に、ユカは雲行きの怪しさをかぎとった。
案の定。
びしっと、細く小さな指先が、ユカの顔を指した。
「それだよ! 今は導刻術で時間を巻き戻してて暇だし、ちょうどいいね」
「……おいおいおいおい」
「じゃあ、用意しよっかー」
あっさりとその提案を受け入れたノーラは、ユカの言葉をさらっと流して、きょろきょろとあたりを見回し始める。
ユカは焦った。そりゃもう、おおいに焦った。
「いやまて、ノーラ、おまえそれでいいのかよ?!」
これなんかつかえそうだよね、と工房の隅にある丸椅子を持ち上げたノーラが、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「え、なに? 自分からいいだしておいて、もう面倒になったの?」
「そうじゃねえよ」
なんていうか、とくちごもりながらユカは続ける。柄にもないことをいおうとしている気がしたが、いっておかねばならない。あとで文句を言われても困る。
「つーか、髪は女の命っつーだろうが」
「……そりゃそうだけど」
うーん、とノーラは不思議そうな顔をしながら首を傾げる。
「ユカになら、あたしの命、あずけられるじゃない」
いまさらなにいっての? まだねぼけてるの? といわんばかりの顔と言葉に、ユカは固まった。
そして、ノーラの言葉を噛み締め噛み締めしたユカは――どうしようなく緩みそうになる顔を両手で覆った。
どこまでも、するするとユカの中を侵食していくその真っ直ぐさが、怖くて怖くてたまらない。だけれど、同時にこれ以上なく嬉しくて、ユカは笑えばいいのか、呆れればいいのか、どうするべきかわからなくなった。
ノーラに悟られないように、ひとしきり悶絶したあと。
がしがしと、適当に櫛を通してきた髪を乱すように、頭を掻いてため息をひとつ。
「……おまえ、あとで後悔するなよ?」
「なによ、あずけられるの嫌なの? 自信ない?」
ぷ、と頬を膨らませ、ノーラは腕組みしてユカをにらみあげてくる。
「いいや」
ふるり、とユカは頭を振って、苦笑する。心の中で諸手をあげて降参しながら。
「精一杯、あずからせてもらおうか」
一房掬い上げた眩い黄金の髪に、きざったらしく口づけをひとつ、落とした。
「よいしょっと……。高さ、このくらいあればいいよね?」
「おう、そんくらいでいいだろ」
庭にピクニック用の敷布をひろげているところに、ノーラが丸椅子を置く。
全体的に小柄なノーラがあまりに低い椅子に座ると、背の高いユカは身を屈めなければならず辛くなる。しかし、ノーラが持ってきたものは少し低いものの、これくらいならば問題なさそうだ。
ユカは、工房から失敬してきた鋏を手にとって眺める。ほんとうなら、散髪用のはさみが欲しいところであるが、とりあえずノーラが鋭く研ぎあげたもので代用することにした。
試しに動かしてみる。滑らかな刃が、陽光の下で銀色の光を跳ね返す。
みれば、すでにノーラは、ちょこんと丸椅子に腰掛けていた。ぷらぷらと小さな足の先が、いまかいまかと待ちわびるように可愛らしく揺れている。
く、と喉の奥で笑ったユカは、もう一枚用意していた大きな布を、ふわりと風にひろげた。それでノーラの肩から下を覆えば、準備完了である。
きゅ、と隙間ができないように気を付けながらユカはピンで布をとめた。そして、あとは髪を切るだけ、というところでしげしげとノーラを眺める。
「なんかあれみたいだな」
「あれ?」
「ほれ、エルシーたちが作ってた、つりさげとけば天気になるっていうまじないの人形」
「てるてる坊主じゃないよ、もう!」
武器屋「クインズ」の窓にさげられていた、子供たちお手製の人形にすぐに思い当ったらしいノーラが叫ぶ。あまりにもいい反応なので、ユカはついつい笑った。
そうしてじゃれあいながら、ユカはノーラの髪を手に取った。室内でも綺麗だと思ったが、やはり晴れた空の下でみるのが一番いい。
「そろえる程度でいいんだよな」
「うん。お願い」
ついでだから、と全体的に切ってほしいといわれたので、もう一度確認をしておく。
「前髪はどうするんだ?」
「お任せ!」
「……適当なヤツだな。ちったぁ、気にしろよ」
あとで絶対文句言うなよと言い含め、ユカは鋏を躍らせる。
口に出したことはないが、ユカはノーラの春の日溜りのような色をした長い髪が好きだった。
自分の宵闇のような髪とは全く違う。まっすぐで、きらきらで、さらさらで。
だから、必要以上に短くなどならないように、細心の注意をはらって揃えていく。
後ろ部分が概ね終わり、前に回り込むと、ノーラは陽気のせいか、どこかふわふわとした気持ちの良さそうな、無防備な顔さらしていた。
「おい、寝るなよ」
「え~……、だって、なんか、きもちいい……し」
「ああそうかい。今から前髪切るから、目ェあけんなよ?」
「……ん」
いまにも、夢の世界に旅立ってしまいそうなノーラの前髪を落とす。やはり長い。目を通りこして、頬の上部にまで達している。
それを撫で、優しく梳きながら、安心しきっているノーラの顔をみていると――悪戯心が、湧いた。
息をとめ、顔を傾ける。ちょこん、と、触れるだけのキスをして、ユカはすぐに離れた。
距離をとれば、いぶかしげに眉を潜めたノーラの顔がある。そのわけのわかっていない不審そうな表情に、噴き出しそうになる。
「ね、ユカ。いま……」
「おい、動くなよ」
さすがにおかしいとおもったらしいノーラが肩を揺らすので、あぶないだろともっともらしいことをいってそれを制止する。
「だ、だって今、口になんかくっついた! む、虫とかじゃないの?! なにか飛んでったりしてない?!」
嫌そうに眉をさげて、口元を歪めるノーラの必死な問いかけに、ユカはがっくりと肩を落とした。なんでそういう発想になるんだよ。
「……虫じゃねーよ」
まあ、ある意味虫だけどな。しかもすっげーでかくて、しつこくて、ノーラから離れない虫だけどな。
んべ、とユカは小さく舌を出しつつ、そんなことを思った。
だがそれは、決して言葉にはせず、腹の底へと飲み込んで消化する。だって、言ったが最後、また怒るに決まっているのだ。
これ以上動かれると、やりづらくて仕方がない。ユカは伝家の宝刀を抜くことにした。
「おとなしくしねーと、ナナメに切っちまうぞ」
ぴゃっと、ノーラが肩を跳ねさせたと思ったら、ぴしっと背筋をただした。
思ったとおり、効果抜群だ。にまにまと、みられていないことをいいことに、ユカは満足げに笑う。素直で思った通りの反応をしてくれて。可愛くて面白くて。ノーラのそばは、一生いてもあきることはないだろう。
「えー、そんなのやだよ! ちゃんとやってよね!」
「へいへい。じゃあおとなしく座ってろって」
「むう……」
いまだに納得はいかないようであるが、失敗でもされてはたまったものではない。そうノーラの顔に書いてあるようだ。
ふふん、とそんなノーラを見下ろして鼻をならしたユカは、上機嫌に鋏を操っていく。
しゃき、と軽やかな金属の音が、ふたりだけの庭に転がっては消えていった。