この腕のぬくもり

「ふぃ~、やーっとご到着ってか」
 イサルミィで、数日にわたりベールマン家で遺物の鑑定作業という仕事をこなしてきたユカは、夜になってテンペリナに数日ぶりにもどってくることができた。
 当初の予定では一週間ほどだったが、鑑定能力の高さもあって大幅に時間を短縮することができた。さすがオレ様と、自画自賛したほどである。
 その報酬としてそれなりの額をもらったこともあり、懐具合は今宵の夜風と違って、とてもあたたかい。
 機嫌よく鼻歌交じりに、軽い足取りで向かう先は、常日頃から入り浸っている酒場、吹きだまりの泉である。
「よお、オレ様のおこしだぜー」
「お、ユカじゃねえか。どこいってたんだぁ~?」
 いつものように扉を開いて酒と食べ物の匂い溢れる室内に進めば、近くにいた酔っ払いからさっそく声がかかった。
「ちょいとな、イサルミィで鑑定の仕事しててよ」
「おまえが仕事ねえ! ノーラさまさまだな、おい!」
「べつにノーラは関係ねえだろ」
「なにいってんだ、なんにもしねえでぐだぐだ昼間っから酒ばっか飲んでたくせによぉ! ノーラにケツひっぱたかれて仕事はじめたんだろーが!」
「おまえさんにいわれたかないっつーの!」
 なにがそんなにおかしいのか、げらげらと笑う酔っ払いに対し、ユカは顔をしかめた。
 たしかに、ノーラがいたからこそ、トレジャーハンターとして再出発をすることとなり、イサルミィで鑑定の仕事をしようという気にもなったのだから、ノーラさまさま……なのだろう。
 ノーラにはいろいろと感謝はしているが、他人にそういわれればちょっと癪に思う部分もないわけではない。
 酔っ払いの相手はほどほどに、酒場にいる顔見知りの女や、以前仕事をともにした男達にも適当な挨拶をしつつ、ユカは店の奥へと歩いていく。
 みれば、ルッツがテーブルで食事にがっついている。どうやら夢中になっているらしく、天敵と評するユカには気付いていないようだ。
 まあ、からかうのならばあとでもできる。
 ユカは肩を竦めて、カウンターに向かう。そこには、困ったように腕を組んで眉間に皺を寄せている店主がいた。
「おー、景気悪そう顔してどうしたんだよ?」
 へらへらっと笑いながら近づけば、ダビーの顔が呆れたものになった。
「ユカか。お前がたまっているツケを払ってくれれば、多少は景気がよくなるんだがな?」
 いつもの言葉に、にんまりと笑ったユカは、懐から小さな革袋を取り出すと、ダビーに向かってほおった。
「ほらよ」
「おっと! ……これは……。……ほう、珍しいこともあるもんだ」」
 なんなくそれを受け止めたダビーが、その見た目以上の重さにまず驚き、そうして口を緩めて中を確認し、また驚く。
 わずかに丸くなる目に、ユカはどうだいわんばかりにとことさら笑みを深くした。
「それで足りるか?」
「そうだな……。まあ、お前さんがちゃんと仕事をしてきたことも含めて、これでツケはなしだ」
「へっへー」
 すこしばかり足りないだろうということはわかっていたが、存外お人よしのきらいがあるこの店主のことだ、多少おまけしてもらえるだろうというユカの予想は大当たりであった。
 ユカは、機嫌よくカウンターにそなえつけられた椅子に腰掛けながら、好物のジャーキーを取り出して口にくわえた。
「で? どうしたんだよ、さっきの深刻そうなツラはよ」
 いつもユカが飲んでいる酒を、注文していないにもかかわらずカウンターに置きながら、ダビーがまた眉を顰めた。
「いやなに、ノーラがセイナケロに帰るだろ?」
 琥珀色を酒が、ゆったりとたゆたうグラスへと手を伸ばしかけていたユカは、ぴたっと動きを止めた。
 聞き捨てならない台詞に、下げていた視線を勢いよくあげる。
 カウンターの向こうには、うーむ、と腕を組んで思い悩むダビーがいる。ユカの様子に気づいていない。
「だが、ノーラに頼みたいと思っていた依頼がいくつかあってなあ……。どうしたもんかと思っていたところだ」
 ノーラほどの仕事ぶりを発揮してくれる冒険者はなかなかいない、とぼやくダビーの言葉が、遠いところから聞こえる雑音のようだ。
 わんわんと、羽虫が耳の中で飛び回るような気持ちの悪い感覚に、ユカは眉根を寄せた。ジャーキーの味もわからなくなって、口にくわえていたものを放す。
 頭の中で繰り返されるのは――ノーラが、故郷に帰るという、言葉。
「……んだよ、それ」
 これ以上は絞れないものを、それでも絞りとろうとするような掠れた声で、ユカはなんとかそれだけを口にした。
「うん? だから、ノーラに任せようと思っていた依頼をどうしようか、「そこじゃねえ!」
 ユカの語気の荒さに、ダビーがさきほどよりなお目を丸くする。
 大きな声をだしたことで、酒場の注目を集めてしまったことを気配で察し、ユカは呼吸を無理やりに落ち着けた。
 背中に浴びる好奇の視線の数が、少しずつ減っていく。いつものユカとダビーのツケでの言い争いの一環とでもみられたのだろう。
 からからに渇いた口を湿らせようとグラスをとるが、知らぬうちに手がわずかに震えていた。
 動揺しすぎの自分が、情けなく思えた。
 だが、急にぽっかりと胸に風穴があいてしまったようで、ひどく寒いのだ。足元に奈落の底が、口をひらいたような心地がする。少しでも動けば、透明な薄氷に似たなにかが割れて、吸い込まれるように落ちていってしまいそうだ。
「ノーラが、なんだって……?」
 くしゃり、と髪を握りしめ、後ろへと乱暴に流す。なるべく平静を装ったつもりだったが、敏いダビーにはこの動揺は気づかれているかもしれない。
 ああ、とダビーが何かに思い当ったような声をだす。
「ノーラが、セイナケロに帰るらしいが――そうか、イサルミィにいっていたから知らないのか」
「……ああ。きいてねえ」
 ダビーから決定的な言葉を突きつけられて、はあ、とユカはため息をついた。
 ぐわんぐわん、と飲みすぎたわけでもないのに二日酔いのような症状に襲われて、頭が痛い。眩暈をおさえるように、眉間に手を当てる。
「なんでもな、故郷に一人残してきた祖母がいて、具合が悪いとかで手紙がきたそうだ」
「あ~……。そういや、ばあさんがひとりいるっていってたな……」
「ノーラにとって唯一の肉親らしいからな。心配なんだろうさ」
 それはわかる。血を分けた肉親というものは、それだけで特別な存在だ。善かれ、悪しかれ、死によって繋がりがわかたれるか、こちらから一切合財捨て去らねば、人生の終わりまで関わっていくことになる。
 ましてや、自分と違ってノーラは祖母と仲が良い。
 ならば、健康に問題が起きた祖母のもとへともどって、その最後を看取りたいと思うことはごく自然のことだろう。
「まあ、あいつだっていまは町のみんなに受け入れられているが、もともとはよそからきた人間だ。ってことは――」
 思考の渦でぐるぐるとまわり続けるユカの目を覚まさせるように、とん、とダビーの指先がカウンターの表面を叩いた。
 はっと目をあげれば、真っ直ぐなダビーの瞳と視線が絡む。かつて、歴戦の冒険者であったことを垣間見せる鋭さを秘めた瞳に、一瞬、息が止まった。
 ゆっくりと、男の薄い唇が、ユカの聞きたくないことを紡ぐのを止められない。
「ノーラには、帰る場所が、あるってこった」
 ぐ、とユカは奥歯を噛みしめた。
 考えたことがないわけではなかった。自分は、故郷をとうの昔に捨て、ここまで根無し草のように流れ流れてきた人間だ。
 だが、ノーラは違う、目的があって、このテンペリナへとやってきた。
 そうして、過ごすうちにさまざまな出来事を経て、導刻術師となるための試練も見事に突破した。気づけば、冒険者としても工房の経営主としても、その手腕をいかんなく発揮し、もはや町にとっても欠かせない存在になっていた。
 もちろん、ユカにとっても。
「それにしても、ノーラは依頼を受けるにあたって大切な冒険者なんだがなあ」
 いままさにユカが考えていたことと、ほぼ同じことをぼやいたダビーが、わずかに肩を落とす。
 最初にいっていたように、ノーラにならば任せられると踏んで、依頼の仲介をうけたものがいくつかあるのだろう。
 んなことはどうでもいいと思いながら、ユカは目の前に置き去りにされていたグラスをあおった。
 強い酒が、舌を焦がして喉を焼く。いつもなら、その匂いや味わいを楽しむところだが、とてもそんなことができる気分ではない。
 はあ、と強い酒の酒精を逃がすように息を吐き出すと、ユカの左側に誰かが立った。
 のろりと視線を向ければ、瞳をキラキラと輝かせたルッツがいた。いつもよりなお、苛立ちを覚える。同時に、何も知らない真っ直ぐさが眩しくて、睫毛を伏せた。
「なんだなんだ? 依頼ならオレにまかせてくれよ!」
 どうやら食事を終えたらしく、にかーっと真昼の太陽のような明るさで、ダビーに迫る。
「だから何度もいってるだろう? お前には任せられん」
「なんでだよ!」
「じゃあ、お前はケラリを用意できるのか? それも樽で」
「うっ……!」
 退こうとしないルッツをじっとりとねめつけたダビーの言葉は、まるで燃え盛る炎に対して浴びせた水のように、その勢いを奪っていった。
「はあ~……、なんだよそういう依頼かよ」
「モンスター退治なら、お前さんに頼んでもいいんだがな」
「ちぇ~……って、いたっ!? なにしやがんだ!」
 がっくりと肩を落としたルッツの頭を、ユカは無造作に小突いた。案の定、顔を赤くして突っかかってくるが、それをさらりと受け流す。いまは、相手にする余裕がない。
「おい、ルッツも知ってんのか?」
「なにを?」
 出会ったばかりの頃のような青臭さをまだ残す、あどけない表情でルッツが首を傾げた。鈍感なところもあるルッツだが、いまのユカのただならぬ雰囲気を感じ取っているのだろう。いつものように、さらに噛みついてくることはなかった。
 もうひとくち、酒を含み、舌で転がし喉へと流す。視線を落とした酒の水面には、感情のうかがい知れない自分の顔が映っていて、滑稽だった。
「――ノーラが、故郷に帰るってことだよ」
「おう、知ってるぞ」
 世間話をしていたことの延長というように、つとめてさらりとルッツにいえば、実にあっさりと頷かれてしまった。
「そのことならオレだけじゃなくて……ええーっと、オクトーヤのおっさんだろ? シルカだろ? あと、エルシーだろ? っていうか、町のやつらならほとんと知ってるんじゃねえかな」
 指を折りながら情報を知っている人間の名をあげていきながら、途中で面倒になったらしく、にかっと笑いながら大雑把にまとめられてしまった。
 どうやら、知らぬはユカばかり、ということらしい。
 グラスを持つ手に、力がこもる。
「そういや、明日の朝には出発するっていってたなー。あいつ、準備終わったのかな?」
「……」
 もう限界だった。
 がたん、と大きな音がたつくらいに乱暴に席をたつ。ごとり、とその拍子に倒れたグラスの中の酒が、服の袖を濡らしていく。
 拭くでもなく、詫びるでもなく、ユカは低い声で告げる。
「この酒はつけといてくれ」
 その声音に宿る感情か、はたまた粗雑な仕草か、それとも揺れる感情をうつした瞳をみたせいか――、ダビーが戸惑ったような顔をする。
 そして。
「あ、おい! ユカ、待て! ノーラは別に……!」
 何事かに思い当ったように顔色を変えたダビーの声を振りきって、ユカは酒場を飛び出した。幾人も、その急な行動に驚いていたようだったが知ったことではない。

 なに、黙っていこうとしてんだよ……!

 みんな、知っているのだ。カルナも、シルカもオクトーヤも。あの、ルッツでさえも。
 ユカが町にいなかったのが知らない理由だとしても、それでも仕事からもどらぬうちに、この町を出発しようとしていたところに腹が立つ!
 ユカは、多大なる怒りをもってして、霧の森へと全力で駆けていった。

 

 

 ぽたり、ぽたり、と顎先から垂れた汗が地面を叩く。森から忍び寄る夜風は冷たくて、濡れたユカの身体から熱を奪っていく。体の芯は熱いのに、表面だけはひどく寒い。
 肩で息をするくらいにここまでの道のりを疾走してきたユカは、それでも気力だけは失わず、小さな家の扉を睨み付けた。
 窓から漏れるほのかな灯り。複数人の人の気配。
 まだ、いなくなっていない。ここに、ノーラはいる。
 その現実に対して安堵すると同時に、腹の底からえもいわれぬ熱く黒い感情がこみあげる。自分でも制御しきれないこれに、なんという名を与えればいいのかもわからぬまま、ユカは拳を振り上げた。
 ドン、と一度、扉を叩く。応えはない。
 風に飛ばされた何かがいたずらに訪問してきたのではないと告げるため、もう数回、ユカは同じように扉を叩いた。
 すると、はーい、という声が家の中からきこえた。
 間違いない。ノーラの声だ。ほんとうに微かなものであったのに、耳に届いた瞬間、言いたかったことも、ぶつけたかった妙な感情も、すとんとどこかへ落ちていった。
 あ? と、あまりにも無責任に消えていったせいで、ユカは間の抜けた声を漏らすほどの、あっけなさ。
 急に透明さと冷静さを取り戻していく意識で、ユカは焦った。わかっているのに、わかっていないような奇妙な感覚に、全身が支配される。
 だが、扉を叩いた事実は消すことはできない。
 キィ、とわずかな音を立てて、扉が開く。室内からの温かそうな光が、すうと一条の道となって夜の闇を照らした。
 その光の中、すでに寝るつもりであったのか、寝間着にケープをまとったノーラが顔をのぞかせた。
 無防備にドアをあけたノーラは、きょとん、と目を瞬かせ小さく首を傾げた。その瞬間に吹いた風が、ノーラの髪を撫でていく。はらはらと、光がそこで舞い踊るような、美しさ。
「ユカ? どうしたの? ジャーキーがきれた……とかじゃないよね?」
 その、数日前となにもかわらぬ顔をみたら――足の力が抜けた。
 べしゃり、と地面にしりもちをつく。はああ~、と頭を抱えて大きくため息をつく。
「ええっ?! ちょ、ちょっとどうしたの?!」
 完全に予想外の反応だったらしく、ノーラが慌てて家から出てくる。その行動と大きな声にただならぬものを感じたらしいメロウの声が、家の奥から漏れてくる。
「ノーラ? 誰がきたのかしら~」
「酔っ払ったユカだよ」
「あらあら~、大丈夫~?」
「うん。意識はあるみたいだし、ちょっと夜風にあたれば酔いも覚めると思うから、メロウは先に寝てて」
「わかったわ~。なにかあったら呼んでちょうだいね」
「うん」
 交わされる女同士の会話をぼんやりと危機ながら、ユカがゆっくりと顔をあげれば、ぱたりと扉が閉じられるのがみえた。
 森が、夜の色をいくぶんか取り戻す。完全な黒でないのは、ノーラが小さなカンテラをもっているためだ。
 ユカの前で、ノーラは立ち尽くしたまま、ケープの前をかきあわせる。
「ユカ、酔ってるの?」
「……酔ってねえよ」
「嘘。お酒の匂いがするよ」
「飲んだのは一杯もいってねーよ。これは……こぼしたせいだろ」
「うわ、もったいないなぁ。あ、庭のほうにでもいく? そっちのが涼しいかも」
「……」
 いや、とユカは頭振った。もう十分に涼しいし、寒かった。
 いつものような軽い言葉のやりとりに、なぜか身体の力が抜けていく。しばらく動くことができそうにない。
 しょうがないなあ、と呟いたノーラがランプを地面において、ユカの目の前に座り込む。
 淡いオレンジ色のランプの明かりが、まるく二人を照らし出す。
 のろのろと視線を彷徨わせながらも、大きな緑色をした瞳になんとか焦点をあてる。
「どしたの? そんなに汗かいて。タオルもってこようか? このままじゃ風邪ひいちゃうし」
 立ち上がり身をひるがえそうとするノーラの手を、ユカは無意識のうちに掴んでいた。
 手のひらのなかで、ぽきりと音をたてて折れてもおかしくないような細さ。
 はあ、と肺の空気をすべて押し出して、ユカは震える唇を動かした。
「……なんで、オレに黙っていこうとすんだよ」
 ようやく出たその言葉に、ノーラは愛らしく眉をひそめた。思い当るところなんてない、といった様子である。
 いくな、という無言の訴えを理解したのか、ノーラが再び座り込んで、ユカと目線をあわせてくる。
「なんのこと?」
「お前、セイナケロだっけか……? とにかく、故郷に帰るんだろ?」
 引き攣りそうな声をなんとかおさえこみながら言えば、「ああ、そのこと?」と、ノーラがたいしたことないことだから思い当りませんでした、というように笑った。
 ぐ、とまだ握りしめたままのノーラの腕を掴む手に、ユカは力をこめる。
「あいつらはみんな知ってて、なんでオレにはいわねーんだ」
「だって、ユカってば仕事でいなかったじゃない」
「そうかもしれねーけどよ、何も言わずにいこうとするとか白状すぎるだろーが。お前、オレが今日帰ってこなかったらそのままいっちまってたんだろ?」
 そこは、ユカにとっていちばんのひっかかりだ。
 ユカの仕事は依頼の品の鑑定が終わるまで大体このくらいかかるだろう、という大雑把さで一週間という期間とされていた。つまり、へたをしたら、ユカがテンペリナに帰ってくるまえに、ノーラは去っていたのかもしれないのだ。
 自分に、何も言わずにいくことを、ノーラはどう思っているのか。
「え? なんでいちいちいわないといけないのよ」
「……っ、」
 あっさり淡泊すぎるくらいのノーラの物言いに、ユカは鼻白んだ。
 ノーラにとって自分はその程度の存在でしかないと、突き付けられたようで、ぎりりと心臓が握りつぶされそうな感覚に唇を噛みしめる。
 俯いて、うっとうしく垂れてくる髪を押さえるようにして頭を抱えた。
 は、と短い息が夜気を一瞬だけあたたためて、すぐに溶けて消える。
 ああ、今、オレは何をいおうとしている?
 言うな、という意識。言え、という意識。ユカがその狭間で揺れ動くこと、おおよそ数秒。

「――ひとりに、しないでくれ」

 もっと他に言いようもあるだろうに。
 零れ落ちたのは、なんとも情けないものであった。
 だが、それ以上の言葉もまた、いまのユカはみつけられそうになかった。
 呆れられただろうか。見限られるのだろうか。
 だが、思いもがけぬあたたかなぬくもりが、ユカを包み込んだ。
「ばか」
 ひどく優しい声音でそんなことをいう柔らかなものが、目の前にいたノーラだと、ユカはわずかな間を置いて理解した。
 ゆっくりと腕を回して抱き寄せれば、そこからあらかじめ定められた場所であるように、華奢な身体が寄り添ってくる。
 子供をあやすように、ユカの背を優しく一定の律動をもってして、ノーラの小さな手が背を叩く。
「ユカみたいにいい加減なひと、あたしがいなきゃだめになっちゃうでしょ」
 まったくもってそのとおりだと、ユカは喉を鳴らして苦笑した。
 たったひとりの、年下の女相手に、こんなにも心かき乱されているのだから、そういわれても仕方がない。
 ノーラがいなくなったら、きっと自分は彼女と出会う前の自分に戻るだろう。そんなことを自分で言うなといわれそうだが、妙な自信がある。
 もう、自堕落なあの頃にはもどりたくないけれど、ノーラがいなければもうどうしようもない。
 それくらいに、ユカのなかでノーラという存在は大きく、絶対的なものになってしまっている。
「それにあたし、」
 そこで言葉をいったん区切ったノーラが、ユカの顔を至近距離で覗き込みながら、目蓋を中ほどまでにおろし、じっとりとした視線を投げかけてくる。

「すぐにここに帰ってくるつもりなんだけど?」

 ひゅうう、と冷たい夜風が、ユカをあざ笑うように霧の森から吹きつけ、熱を奪っていった。。
「……は?」
 表情筋がひきつる。ぴくっと頬を動かしたユカに、やれやれとノーラがわざとらしい感じで頭を振った。
「試練もちゃんと終えられたし、報告がてらおばあちゃんの顔をみにいこうと思っただけ」
 それに、とノーラは続ける。
「おばあちゃんてば、あたしが試練に合格したのが嬉しすぎてぎっくり腰になったとか手紙に書いてくるんだよ? だったら、やっぱり会いにいくべきだって思うでしょ、ふつう」
 あ、腰はもうよくなったらしいんだけどね、と呑気にいうノーラの笑顔をみて、ユカの止まっていた時間が動き出した。
「はあ?! いや、だって、ダビーのおっさ、ん、が……!……って、あー……」
 そういえば、誰もいっていない。
 このテンペリナに、ノーラが『帰ってこない』などとは、誰もいっていない。ちゃんときけばわかったはずだ。ノーラが、故郷に里帰りするだけのことだったと。
 つまり。
「んだよ……! オレの勘違いってか……?!」
 がくーっと肩を落としたユカの頬に小さな手が、ぺたりと重なる。そのぬくもりに、気が抜けてしまったせいもあって、泣きたくなる。
「ユカはさ」
「あん?」
 涙などみせてたまるかと意地をはりながら、なんだよ、とノーラの言葉の続きを促す。
「あたしが、いなくなったらさびしい?」
「……ああ、そうだよ。悪いか」
 いまさら誤魔化せるわけもない。わずかにくちごもりながら、それでも滅多にみせない素直さで頷いてやれば、ううん、とノーラが頭を振る。
「じゃあ、どうして?」
「おまえ、ここでそういうこときくか? 察しろよ」
 もう子供じゃねーだろ、とわずかに頬を熱く火照らせながら、ユカは顔をしかめる。
「ふーん。じゃあ、友達がいなくなるから寂しいっていうことでいいんだね?」
 にっこりと、そんなことをいいだしたノーラは、つまり――わかっているのだろう。わかっていて、言え、と言外に攻めてきている。
 ぐぎぎ、と悔しさに歯ぎしりするユカを、ノーラはやたらといい笑顔でみつめかえしてくる。
 は、とユカは小さくいきをついた。
 もうだめだ。観念するしかない。負けた負けた! こんなもの、惚れたほうが負けだと、昔からいわれていることだ。
「違う」
 緊張に、舌の根が喉にはりつくような感じがする。でも、いわなければいけないことを懸命に綴る。せめて、この歳に似合わぬ胸の高鳴りだけは、ノーラに伝わらないようにと願った。

「オレが、お前に――ノーラに惚れてるから、寂しい」

 正面切ってそういわれれば、いわせようとしていたとしても恥ずかしくなるものであるらしく。ノーラが、じんわりと顔色を変えていく。からかうような笑顔は消えて、神妙な面持ちでユカの言葉を待っている。
「表面的な付き合いならいくらでもできる。それで世の中渡っていく自信だってあった。……そうして生きていくほうが、楽だって思い知ったしな」
 信じていた仲間に裏切られた過去が、それをユカにいやというほどに教え込んでくれた。
 歩いていればただ流れていくだけの景色のように、深くかかわることなく、みつめることもなく、世界をただ眺めながら生きていけばいいと思っていたとき、このテンペリナに流れ着いた。しばらくここで、時間をつぶすのもいいだろうと、ただなんとなく居ついた町だった。
 だけど、ここでユカは運命にであった。くさい表現だと思うが、それ以外にいいようがない。
「お前が、ひっぱりだしたんだろうが。目を背けていた眩しくて明るい場所に、誰かを信じたいと思えるあったかいところに」
 全部全部、ノーラのせいだ。
「責任とれよ。こんなにも、オレ様の心を引っ掻き回していったんだから、当然だろうが」
 年上の男としてどうなんだと突っ込みを入れられてもしかたのないようなことをいってのけたユカに、ノーラは唇を尖らせた。
「……勝手なこといってるって、わかってる?」
 もともとが可愛らしい顔立ちなのだ。そんなことをして不満を表されても、相手を喜ばせるだけだとなぜわからないのだろう。
「知らなかったのかよ。オレ様はそーいう男なの」
「うん、知ってた」
 あは、とノーラが笑ってまたユカを抱きしめてくる。ユカは掴んでいた腕をようやく離し、両手で華奢なノーラを抱きしめかえす。
「好きだ。お前がどっかいっちまうかもって思ったら――どうしようもなく、怖くなった」
 ひとりにされることへの、ノーラがいなくなることへの、恐ろしさ。
 迷子になった子供が、恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、ただ泣くしかできないのと同じようなものだ。自分はノーラを責めることで、その恐ろしさをかき消そうとしていた。
 ここにきたときに抱いていたあのどす黒いともいえる感情は、そういった負の思いすべてがないまぜになっていたもの。ユカの身体という器から、いまにも零れ落ちそうになっていた。
 だがそれらを、ノーラという存在はいとも簡単に鎮めてくれた。
 やはりもう、離れられない。ユカの心の平穏は、ノーラだ。
「なあ、一緒にいてくれよ。オレのそばにいてくれ」
 もし、このぬくもりを失ったら、自分はどうなるのか考えたくもない。どうして、いつのまに、こんなにも惚れてしまったのだろう。
 必至すぎるユカの言葉に、ふんわりとノーラが笑う。
「いいよ」
「……ノーラ」
 まるで神に罪を許された咎人のような心地で、ユカは肯定してくれた小さな唇へと、己の唇を近づける。
 が。
「……避けねえの?」
「……避けてほしいの?」
 互いの吐息がまじりあうような、あともうほんの少しだけでも前にでれば触れ合うことができる位置で、思わず確認すれば、間髪入れずに試すようなことをいわれた。
 む、と眉を顰めたあと、鼻先と鼻先を擦りあわせる。
「いんや。そのかわりっていうか、あとで怒るとかなしだからな?」
「……うん」
 ユカは、ノーラの言葉が聞こえたや否や、そのまま唇をくっつけてやった。
 それは、キスと呼ぶにはあまりにもつたなく幼い。
 キスの仕方をしらない思春期の少年でもあるまいし、とユカは心のなかで己の行為を笑った。でも、いまはこれが精一杯だった。
「……ね、ユカ」
 触れるだけのキスを解くと、ノーラが眦をとろけるような色に染めたまま、呼びかけてきた。
「置いていかれるのが嫌なら、一緒にいけばいいじゃない」
「……」
 思わぬ提案に、目を見開く。
 どうして置いていかれることばかり、考えてしまったのだろう。
 どうして追いかけることに、気付かなかったのだろう。
 離したくないのなら、離れたくないのなら、自分が動けばいいだけのこと。
 ノーラはそんなつもりでいっているのではないとわかりながらも、ぽろぽろと目から鱗を落としている気分である。
 そのまま、ノーラをじっとみつめれば、ばつが悪そうな、勢いでいってしまったことを恥じるような、そんな様子で目を伏せられた。
「あ、あのね、テンペリナの近くにも遺跡とかあるし、ケケもメロウも一緒にいくから、ちょっとした旅行みたいな感じで、いいでしょ? だから、その、」
 やたらと早口に、一息でそこまでいったノーラであったが、ゆっくりと頭を振った。
「……ううん、そうじゃないね。ユカが素直にいってくれたんだから、あたしも素直にならなきゃ」
 その部分だけは記憶から抹消してほしいくらいだが、もう取り繕えるようなものでもない。
 そっとユカの耳に唇を近づけたノーラが、内緒話をするようにいう。
「ユカに、あたしの故郷をみてほしいな」
 ぱっと離れて、はにかみながら「どう?」と上目使いにこちらをうかがうノーラが、眩暈を覚えるくらいに可愛いと思えるのは、惚れたひいき目のせいなのだろうか。
 いや。そんなことを差し引いても、ノーラは可愛い。
 く、と喉の奥を鳴らすように笑いながら、こつん、と額をくっつけあう。
「いいところなんだろうな」
「うん! いいとこだよ」
 自信たっぷりの答えに、それもそうかとユカはさらに笑う。ノーラが生まれ、ノーラが育った場所が、いいところでないわけがない。
「そりゃいい。のんびり昼寝でもすっか」
「もう、それじゃいつもと変わらないよ」
 ぎゅううっと抱きしめあって、二人で響きあうように笑う。
 ころころと眠ったはずのメロウとケケが様子をうかがいにくるくらいに、笑いあった。
 冷たい夜風はもう気にならない。
 このぬくもりがこの腕のなかにあるのなら、どこにいっても寒い思いをすることは、ないと知ったのだから。

 

 

 翌日、あわただしく賑やかに、それでいて楽しそうにテンペリナを出発した四人を、住民たちは皆、なごやかに見送ったという。