キスの仕方を教えて

「ねえ、ユカ」
 工房の隅に置いてある小さなテーブルセットの椅子に腰掛け、ジャーキーを美味しくいただきつつ、ようやく手に入れた古文書に目を通していたユカは、ん? と顔をあげた。
 声がした方向をみれば、工房の主である小柄な導刻術師が、こちらをじっとみつめている。
 どこかまだあどけないところもある顔立ちをしているが、一流の冒険者で術師でもあるノーラだ。
「なんだよ。いわれたとおりおとなしくしてるだろ」
 ダビーからのツケの催促を逃れ、本の解読をすることに集中できる場所を探していたユカが、ついふらふらと居心地のよいノーラの工房を訪ねたのは、太陽が中天を少しすぎたあたり。
 窓からはいりこむ光がつくる影の長さで、そこからおおよそどのくらいの時間を計りつつ、ユカは目を細める。
 場所借りるぜ、と訪れた際、術の邪魔にならないようおとなしくしていて、という、いつもとはどこか違う、強張ったような声が紡いだ言葉を忠実に守っていたというのに。
 心外であるといわんばかりに、やや不満げな表情をつくってみせる。
 まあ、実際のところ、古文書の内容に夢中になっていたので、結果として静かであっただけなのだが、それは秘密である。
「そうじゃなくて、あのね」
 ふるり、ノーラが小さな頭を左右にふれば、やわらかに髪が踊った。まるで、新緑の森を淡く輝かせる木漏れ日のよう。
 自分の黒髪とは正反対の色彩に、さきほどとは違う意味で、ユカはまた瞳を細める。綺麗だと、柄にもなく素直に思った。
 そのせいもあり。

「ユカは、キスしたこと……ある?」

 そんな激堅黒パンを投げつけたときの衝撃並みの威力があるノーラの問いかけに、ユカはわずかに反応が遅れた。
「……は?」
 ぽろり、くわえていたジャーキーを落としそうになり、素早くそれを手でおさえながら、ユカは顔を歪める。
 正直なところ、なに言い出したんだこいつ、というのが偽らざる本音である。
「キスだよ、キス!」
 それを聴こえなかったと思ったととったらしいノーラが、ほんのりと頬を染めながら再度繰り返す。
「それとも、したことない?」
 探るような、縋るような、なんともいえないノーラの瞳は、ユカの思考を妙に焦らせる。
 悟られぬよう気をつけて、息を吸ってゆっくりとだす。そうすることでいくばくか落ち着いたあと、冷静であることを装い、ユカは皮肉気に笑ってみせる。
「そりゃまあ、ないわけねーだろ?」
 オレ様くらいのイイ男ならば当然、とそう言葉にせず伝える。
 みるみる、ノーラが瞳が零れ落ちそうなくらいに、目を見開いていく。
 惚れた女に、恋愛暦をきかれると意外と堪えるということを、ユカは今はじめて知った。これまでもなかったわけではないが、こんな気持ちになるのは、それを訊ねてきた相手がノーラであるせいだろう。
 ユカは、盛大につきたい溜息をなんとか普通レベルの吐息に変えて、わずかに肩を落とした。
 ふむふむと、あらかじめ答えはわかっていたというように、ノーラが頷く。
「じゃあ、教えて」
「……あ?」
 なんだ、何を教えろって?
 話の流れからなにをいっているのか察せられないほどユカは馬鹿ではない。
 馬鹿ではないが、自分の耳は馬鹿になったのではないかと、真剣に思った。もしくは耳垢でも溜まっているのだろうか。
 て、て、て、と軽やかな足取りで目の前にやってきたノーラが、わずかに高い位置から大きな緑色の瞳を向けてくる。
 怯む理由はないはずなのに、自然に上半身が後ろへと退く。ユカのそんな動きを阻むように、小さな手が伸びてる。
 まるでそれが、その心のうちすべてをみせろといわんばかりに、裁判にひきたてようとする糾弾者の手にみえた。
「おい、ちょっと待て」
 やや低い、聞く者によっては萎縮するような声音での制止に、ぴたり、とユカのコートを掴もうとしていたノーラの手が空中でとまる。
「なに?」
 きょとん、と目を瞬かせるノーラに、ユカは頭が痛くなってきた。がんがんと、鳴り響くそれは、警鐘のよう。
「いやまて、お前がなにだろうが――って、おい!」
 いそいそと自分の膝の上に腰掛けてくるノーラに、さすがのユカも、ぎょっと目を見開いて声を荒げる。
「あのね」
 ユカのことなど一切おかまいなしに、ノーラが語りだす。おい、こっちの話ききやがれ、と思わないでもないが、どこか思いつめたようなノーラの様子に、ひとまず黙って耳を傾けることにする。
「実は、エルシーのお茶会があって……。田舎ケーキをもっていっていろいろお話してたんだけど……」
 そういえば、昨日のお昼過ぎくらいに、エスポウの店に賑やかに入っていくのをみかけたな、とユカは思い出す。
 だからといって、それがこの事態とどう繋がるというのか。
 ぎゅ、とノーラが膝の上に置いた手を握り締める。うぐぐと、ノーラの顔がしかめられる。
「途中からアイラちゃんが好きな男の子がいるって話になって、どういうわけか『おねーちゃんは経験ある?』ってきかれたの! でもあたし、そんなのないし!」
 爆発したように必死に叫ぶノーラに対し、ぶ、とユカは噴出した。圧し掛かられているというのに、それを忘れそうになる。
「ああ、なーんもこたえらなかったのか!」
 ははは、とユカは指を差すような勢いで笑った。
 そのときの光景が、目に浮かぶようだ。
 きっとしどろもどろになって、なんとか誤魔化してはみたものの、聡いアイラやエルシーには未経験であることを察せられてしまった――それを恥ずかしいやら情けないやら、複雑な心境で考えているのだろう。
 そして、ユカはどうなのだろうと考えた結果、最初の質問に至ったということに違いない。
 なんというお子様発想。だけれど、その素直さ、真っ直ぐさが、ユカはノーラのいいところだと思う。
 それにしても、その場はきっと素晴らしく面白かったことだろう。できることなら、居合わせたかった。
 あまりにもユカが笑うせいか、ノーラがぷりぷりと怒り出す。
「もー! なんで笑うのよ!」
 胸元を叩かれても、ユカは笑うのをやめられない。けたけたと笑いたいままに笑う。
「いやいや、最近のガキはませてんなと思ってよー」
 決して、ノーラのあわてふためくところを想像したせいだとはいえないので、適当な言葉でお茶を濁す。
 笑いすぎて目に滲んだ涙を親指で拭い、ユカは言う。
「まあ、そんなに気にすることもねーだろ。オレのほうは、なんだほら、いろいろあったんだからよ」
 テンペリナに来る前、ノーラの知らない若い時代のことを暗に伝える。
 そのころのことを、ノーラから深く尋ねられたことはない。だから語ったことはない。むしろ、かつての仲間に裏切られたという話が、一番大事で重要なことだから、それ以外のことを言う必要もあまり感じていなかった。
「それはそうだろうけど」
 エルシーやアイラのいいお姉さんという立場を獲得しているノーラにとって、彼女たちの問いかけに答えられないというのは、己の位置を危うくするとでも思っているのだろうか。
 そんなこと、あるはずがないのに。
 自分にとって、そうであるように、あの子供達にとっても、ノーラは大切な存在だ。「大事」という感情の意味合いは、ずいぶんとまあ、違うだろうが。
「そのうちのためにとっとけばいいじゃねーか」
 子供をあやすようにノーラの頭を撫でると、ぺし、と手を払われた。どうやらご不興を買ったらしい。
「自称経験豊富なユカにいわれたくないよ」
「自称は余計だ」
 膨れた頬を摘みながら、ユカは本当に女にモテていたのだと抗議する。
 それなりに男と女の関係を経たからこその適切な助言のつもりであるのだが、初心者であろうノーラにしてみれば、えらそうにふんぞりかえりながらの余計なお世話という助言にしか聞こえないのだろう。
 さて、どういえば納得させられるか。ユカが表情を引き締めるとほぼ同時。ノーラの一撃のほうがはやかった。
「とにかく教えて!」
「とりあえず理由はわかったが、だからってなんで教えなきゃいけねーんだ! おちつけ!」
 ぐ、と身を乗り出してこようとするノーラの頭を、ユカは両手でがっしと掴んでおさえる。ん~! と、可愛らしく唸りながら、ノーラは対抗しようとしてくるが、それに負けるようでは男ではない。

 というか、冗談じゃねえぞ!

 そっちはどうかしらないが、というかまったくもってそんな気はないのだろうが、ユカはノーラに惚れているのだ。友人として、相棒として、そして一人の女としてノーラを好いている。
 これは絶好の機会だとは思う。だが――それはなにか、違う気がする。
「いいじゃないケチー!」
「ケチとかっていう話か?! なんでそんなに必死なんだよ!」
 はたから見たらみっともないと眉を潜められるか、仲がいいわねと生暖かく見守られるか。
 いずれにせよ、ぎゃあぎゃあと言い争ううちに、ノーラが肩で息をつきはじめる。疲れたらしい。やはり男と女では体力に差はあるものだ。
 これでようやく一段落ついたのかとその顔を覗き込むと、ノーラが長い睫をなかほどまで伏せて唇を引き結んでいた。
 それは、いまにも泣き出しそうで。
 どうにも様子がおかしいと声をかけようとする前に、腹の底から吐き出すようにノーラが言う。
「なによ、はっきりいえばいいじゃない! あたしなんかにはできないって、いえばいいじゃない……」
 最初の威勢はどこへやら。だんだんとしおらしくなっていくノーラに、ユカは焦る。
 自分が悪いわけでは決してないとわかっているのに、まるでノーラに手酷いことをしているような、そんな気分になる。
「……そうじゃ、ねえって」
 絞り出すようになんとか応える。
「でもよ。なんつーか、こういうもんじゃねえだろ?」
 好きだから、なかなか手を出せない男心を理解しようともしないノーラに苛立ち、きちんと心を伝えることもできず、ユカは長い髪の根本を乱暴に掻いた。
「ちゃんと惚れた男と、しろよ」
 それが自分でなくともいいとはいえない。
 想像するだけで、むかっ腹がたつが、思い出は綺麗なほうがいい。こんな、ただ教えてほしいという願いだけでそれを安易に奪うのは――やはり、違う。
 ぐ、とユカの胸に置いていた手を、ノーラが握り締める。
 俯いていたノーラが、顔をあげる。
「……なによ。結局は、あたしだから嫌なんでしょ……!」
「っ、」
 柔らかな頬を紅色に染めて、涙目で睨みつけてくるとか、その威力をわかっているのだろうか。
 意識が、くらりと揺らぐのがわかる。理性でなんとか踏みとどまるのも限界だ。
 もういいよ、と力なく呟いたノーラが、するりと膝の上から降りていく。
 そのまま背を向けて庭に向かって歩き出そうとするノーラの手を、ユカは無意識のうちに掴んでいた。
 いま、自分の顔はきっと強張っているだろう。でも、振り返ったノーラは恐れる様子もなく、見返してくる。からからになった口は、まだなんとか声を紡いでくれそうだ。
「そんなにいうなら教えてやろうか?」
 静かに、丸くなっていく緑色の瞳は、まるで古代遺跡の奥底に眠る宝玉のよう。
「……いいの?」
 その中心が揺れている。本当に? 嘘じゃない? と、大人の都合のいい嘘を訝しがる子供のよう。
 まっすぐに、それを見返しながら、ユカはいう。
「ノーラがいいってんならな」
 オレでいいと、ノーラがいうなら。
 そんな言葉は飲み込んで、ユカはノーラの答えを待つ。
 きゅっと、ノーラがその面に薄く緊張の色を浮かべた。甘そうな果実に似た赤味を帯びた小さな唇が、数度息を繰り返す。
「じゃあ――おねがい。おしえて」
 そうか、とユカは覚悟を決める。
「――目、つぶれ」
 低い声で命じれば、ん、とノーラが瞳を閉じる。
 なんでこんな素直なんだと思いながら、細い手首をそっと握る。自分の手が、やけに汗ばんでいることにここで気づくが、もう離すことはできない。
 顔をゆっくりとノーラへと近づけて、ふと思う。

 つーか……――キスって、どうやってやるんだったっけ。

 ぶわっと、ユカの全身にいまさらながらに汗が噴出す。
 誰かオレに教えてくれ! と、ユカは真っ白になりつつある頭で考える。
 これまでに数えきれないほど経験してきたのに、なぜ、この肝心なときに少年じみたことになっている? 教える立場にたっているはずなのに、なんたることか!
 ぐるぐると、頭の中の記憶をひっかきまわしているうちに、長い黄金の睫毛に縁取られた瞼が震える。
「……ユカ?」
 不安そうな声に、鼓膜がささやかに擽られる。
 目蓋をあけていくノーラを、やけっぱちな気持ちで引き寄せる。
 いきなりの動きに、驚いて見開いていく瞳とは逆に、ユカは己の瞳を閉じていく。
 片方の手でノーラの小さな頭を支えるようにして掴みつつ、ユカは視覚を遮断した。

 もう、どうとでもなれ!

 

 

 

 

 

 心ここにあらずといった様子で、ユカはテンペリナの町並みを眺めつつ、力なくだらけきって歩いていく。
 夕焼け一歩手前の町並をみまわせば、夕食の準備をしているのか、家々の煙突からは煙がたちのぼっているのがみえる。
 それはとても平穏な風景で、尊いものであるのだが、ユカの心境はむしろそれとは真逆の大嵐である。
 あのあと、なにがおきたのかいまいち覚えていない。
 「きもちよかった」という感想はあるが、どうやわらかかったのか、どう温かかったのか。そういうのはさっぱりと記憶に残っていない。
 あげく、ノーラの無茶な願いに応えたというのに、教え終わった途端工房を追い出され――「なにしやがる」と抗議する気力も湧き上がらず、すこし我を取り戻したところで、ユカはテンペリナまで戻ってきたのである。
 はああ、とユカは深く息をついた。
 もうちょっとあじわっとけばよかったぜ……と、いまさらながらに男らしくなくそんなことを考える。
 できるならもう一度と、願わずにはいられない。
 ならばどうするか。これをうまく利用して、ノーラにこの気持ちを伝えるか? それともあちらの出方をみるか?
 つらつらとさまざまなことに思いを馳せる。
 と。
「あ、ユカさん、こんにちは!」
 エスポウが経営する店の前で、エルシーに遭遇した。どうやら今日届いた荷物の整理をしているようだ。
 ノーラのおかげで店を大きくすることができたのだが、そのぶん取り扱う品も増え、エルシーもこの歳でとても忙しそうに働いている。
 いつもは微笑ましく、頑張れよー、と自分の怠惰さを棚にあげて、適当な応援をするところだ。が、今はそれどころではない。
 この元凶がー! といってやりたいが、さすがに子供相手に叫べるわけもない。
「……」
 思わず、じっとりとした視線を投げかけてしまう。
 エルシーが、不思議そうに首を傾げる。
 まあ、当然だろう。ノーラとユカになにがあったかなんて、知るはずがないのだ。
 よう、とおっさんくさく声をかけつつ、ユカはしゃがむ。
 そうすると目線が近くなる。大きな瞳に、愛嬌のある顔立ち。にっこり笑えば商売にも有利に働くだろう。
 やっぱ父親に似てねぇなぁと、エスポウがきいたら嘆きそうな失礼なことを考えつつ、言う。
「おまえら、あんまりノーラにへんなこと吹き込むんじゃねーぞ? お茶会だかなんだか知らねえけどよ」
 日々忙しく、己の仕事に励む少女たちにとっては、心を休めるいい機会なのだろうが、またぞろへんなことでもしでかすような、情報提供の場となってはたまらない。
「なんのこと?」
 ユカの心境など塵ほどもわからぬエルシーが、瞳を瞬かせる。
「おまえとアイラだろ? ノーラに……――キスがどうたらとか質問したのは」
 わかってんだぞ、というものの、エルシーの疑問符はますます増えていくだけのようで。
「そんなことしてないよ?」
「……」
 純真無垢で、汚れを知らぬ少女の輝きを前にして、ユカは頬を引き攣らせた。
 じゃあ、あれは一体なんだったのか。
 どうしてノーラはあんなことをいいだしたのか、したのか。
 今度はユカの頭の中を、疑問符が仲良くてを繋いで行進し始めた。
 どうしようもなくなり固まったユカの前で、「あ」とエルシーが小さく声をあげた。
「アドバイスならしたよ! おねーちゃんの恋が、うまくいきますようにって!」
 それだ。
 ぴく、とユカは肩を震わせた。古代遺跡で遺物のありかを探り、侵入者用の罠を見破るときにいかんなく発揮される勘が、間違いないと告げている。
「どんなだ?」
 ノーラは、何と言っていたのか。ノーラに、何を言ったのか。
 短い問いかけであったが、聡明なエルシーには十分に伝わったらしい。
「えっとね、ずっと好きだけど気づいてくれなくて困ってて、どうしたらいいかわかないって、ノーラおねえちゃんがいうから、なら自分からいっちゃえばいいんだよって! アイラちゃんも本でそうするといいって読んだって言ってたよ!」
 えっへんと、素晴らしい助言をしたと疑わぬエルシーの様子に、いまどきの子供は、本当に空恐ろしいとユカは思う。
 というか、アイラは何の本を読んでいるんだ。あの町長の家に、そんな恋愛関係の書物があるのかと思うと薄ら寒いなにかがこみあげた。
 ひとまずそれは横へと置いておくとして。
 はー、と息を吐きながら、ユカは額から口元までを手で撫でた。まるで、悩みや戸惑いすべてを拭うように。
「……っとに、マセガキどもが」
「わ、わ?!」
 そうして、に、と笑ったユカは、エルシーの頭をやや乱暴に撫でた。
 急なことに、細い首では対抗できず、エルジーが頭を動かし目を白黒させる。
 撫でまわして感謝の意を伝えたユカは、はやる心のままに立ち上がる。ぱん、とコートの裾を払って身を翻す。
「どこいくの?」
 目が回ったのか、ふらふらとするエルシーの頭を人差し指でおさえる。
 そろそろ夜も近い。酒場の屋根裏をちゃっかり拝借しているユカが帰るところはそこだと知っているから、そちらとは違う方向へ行こうとすることを疑問に思ったようだ。
「ノーラんとこ。ちぃっと大事なもん忘れてきたみてーだから、とりにいってくるわ」
 その言葉に、エルシーがはっと我を取り戻したように、眉をきりりと顰める。
「んもー! ノーラおねえちゃんに迷惑かけちゃいけないんだからね!」
 ぷんぷんと、大好きなノーラのために年上の男を叱ってくるエルシーに、ユカは苦笑した。
 まったくもってそのとおりだ。
 ノーラの懸命さ、健気さに、これっぽっちも気づかなかったのだから。
 今、ノーラはあの工房でどうしているのだろう。
 真っ赤な顔のままだろうか、それとも恥ずかしすぎて突っ伏しているだろうか。それとも――泣いているのだろうか。
 考えるだけで、たまらない気持ちになる。いますぐに、あの瞳をみつめて、力いっぱい抱きしめたい。どんな気持ちで、ノーラにできる精一杯で誘ってくれたのか、訊いてみたい。
 くつくつと、喉の奥が自然と震えた。
「じゃあ、またな」
「うん、またね!」
 エルシーに笑いながら見送られ、ユカは少し赤くなり始めた空の下、霧の森へと走り出した。