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このままの自分 そのままの君

 ストラタは大蒼海石の影響下にあるため、乾燥した砂漠地帯である。だが同時に、その恩恵により、ユ・リベルテは豊富な水に守られており、それゆえ文化は絢爛豪華、学問は世界の最先端を牽引するまでに発展した。王政ではなく、国民から選ばれる大統領制度がしかれていることも、それに大きく起因しているだろう。
 一歩外にでれば、焼け焦げるような日差しと熱、そして砂とわずかな動植物しかないという不毛の地であるが、都市内にいるのならばこれほど居住しやすい国もないと、長年暮らすヒューバートは自負している。
 静かに清らかに水ゆく水路を横切り、色とりどりの花々が夜風に揺れる庭から漂う優しい香りをかいくぐり、ヒューバートは屋敷の扉に手をかけた。
 ここは、オズウェル家の別宅。住宅区と行政区の中間に位置し、商業区も近いため、重宝している――――ヒューバートの、新居、である。
 こほん、と小さく咳払いをし、呼吸を繰り返して、精神を落ち着ける。
 帰宅するたびこんなに胸を高鳴らせているけれど、いつになったら慣れるのだろう。
 自分のことなのに、どこか他人事のようにそう考えて、ノブへ添えていた手に力を入れる。
 軋む音などわずかにたつこともなく、扉は滑らかに開く。
「戻りました」
 それほど大きな声でないのに、なにかが反応するような気配を感じる。
 次いで、ばたばたとせわしない足音が遠くからものすごい勢いで近づいてくる。
「おっかえりー!」
 そうして、廊下の向こうから出現したのは小柄な人影。
 銀と赤の髪をなびかせて、満面の笑みでヒューバートを出迎えたのは――――パスカルだった。
「じゃっじゃーん! ヒューくん、きいてきいて〜!」
「……パスカルさん、落ち着いてください」
 帰って早々、二十台も半ばを過ぎた妻の、子供のような騒ぎように、ヒューバートはいつもの言葉を繰り返す。
 パスカルと結婚してからというもの、ヒューバートなりに家庭円満であれるよう努力しているのだが、こればかりはパスカルにどうにかしてもらうほかない。
 というか、結婚してから半年はたつのに、いまだ「くん」付けというのはどうなんだろう。
 自分が「さん」付けでいることは棚に上げ、ヒューバートはついつい呆れ顔をしてしまう。
 ふう、とヒューバートはため息をついた。
 そうしてあきれると同時に――――パスカルがこの家にいて、自分を出迎えてくれるという現実に、幸せをかみしめる。ついつい口元が緩みそうになるのを、懸命にこらえていることなど、パスカルは思いもしないだろう。
 フェンデルでの大紅蓮石を用いた研究もひと段落ついたとき、ヒューバートはどうにか恋人同士という関係までこぎつけていたパスカルに、言った。
 結婚してください、と。
 極度の緊張でガチガチになっていたけれど、あっけらかんと頷いてくれたパスカルにずいぶんと拍子抜けしたものだ。だが、嬉しいことには間違いがなかったので、気の迷いや聞き違いなどといわれぬうちに周囲を埋め、さっさと結婚の段取りをつけた。そのすばやさたるや、いまでも仲間内や同僚たちのあいだで語り草になっているくらいである。
 結局、そのまま何事もなく結婚できて、ユ・リベルテで共に暮らすにあたり、ヒューバートは発明・研究が大好きであるパスカルのために、この新居に研究室を用意した。つまり、パスカルは日がな一日、そこで思う存分研究に没頭できるというわけだ。
 そして、生活密着型の発明が得意だというパスカルは、いろんなものを作っては、それをおしげなくユ・リベルテの困った人たちに提供するようになった。ストラタの研究者との交流もあり、ストラタのW術研究にも大いに貢献している。本人にはあまりそういった意識はないようだが、それをパスカルらしいと、ヒューバートは思うのだ。
 今回の落ち着きのなさも、きっとなにか満足いくものを作り上げたことからくるものだろう。
 ちょろちょろと自分の周りを動いてはこちらの様子を伺うパスカルの肩をつかみ、真正面から見下ろす。
「で、今日は何をつくったんですか?」
 落ち着いて、ともう一度声をかけたあと、そう問いかける。よくぞきいてくれましたといわんばかりに嬉しそうに笑ったパスカルが、豊かな胸を誇るように、腰に手を当てやや身をそらす。
「なんとー! アンマルチア族に古くから伝わる秘薬をつくったんだよ〜! いや〜。苦労したよー」
「秘薬……ですか」
 このところ、ずっとなにやら作っているような気がしていたのだが、薬を作っていたとは。なんだか、ものすごく胡散くさく思えるのはなぜだろう。
 そんなことを思えば、それが声に滲み出ていたのか、パスカルがぱたぱたと手を振った。
「へーきへーき、そんなへんなものじゃないから」
「へえ……。どのような効能があるんですか?」
 パスカルが、こんなにも自信満々にいうくらいなのだ。なにかしらの有用な薬なのには間違いないだろう。
 もしかしたら、先日いっていたご近所に住む老人のための腰痛薬か? と、あれこれ予想をたててみる。
「えへへ〜、それはねー……えっと、たしかここに……あっれー?」
 ヒューバートが興味をもってくれたことが嬉しいらしく、パスカルがごそごそとポケットをあさる。
 そこから紙くずやら、読めない殴り書きのメモやら、お菓子の包み紙やらがこぼれてきて、ヒューバートのこめかみがぴくりと反射的に動いた。だがお説教はあとでもできる、と、ようやく丈夫になってきた堪忍袋の緒が切れぬよう気をつけながら待つ。
「あった!」
 喜色満面でパスカルが取り出したのは、小さな瓶。ずい、とヒューバートの鼻先につきつけられた透明なガラスの向こうに、飴色の液体がたゆたう。室内の明かりを照り返し、それはとても綺麗にみえた。
 で、これがいったいなんなのか。
 不思議そうな自分の顔が、ビンの表面に歪んで映っている。
 その後ろでパスカルが、にんまりと笑う。

「なんと! これを飲めば男の子が女の子に! 女の子が男の子になるんだよ! すごいでしょ?!」

「……」
 期待した自分の気持ちをかえせ。というかへんなものじゃないと言い切ったのはなんだったんだろう。そして無駄にすごいぞアンマルチア。
 腰痛の薬だろうかなどと考えた自分が、いかに可愛く生ぬるいものであるかを悟ったヒューバートは、深々と嘆息した。
 まだまだパスカルのしでかすことを把握できそうにない。それはそれで、まだ見ぬ世界があるということで楽しいことではあるのだが。まいった。
 人間を形成する源素に働きかけてその構成を云々といった、薬の作用についてパスカルが話しているが、衝撃のせいでまったく耳に入ってこない。
 生真面目に、パスカルのすべてに向き合うから疲れるのだとわかっている。だけれど、惚れた弱みか生来の性格ゆえか、それを見過ごすことのできないヒューバートが、もやもやとなんともいえない気持ちを抱え、どう反応すればよいのか悩んでいると。
「というわけで、はい、ヒューくん」
 手がとられ、そこへと小瓶が当たり前のように置かれた。
「はい?」
 なにが、「というわけで」なのだろうかと目を瞬かせると、パスカルの笑みが深くなった。

「飲んでみてよ〜」

 声も息も、血の流れさえも止まった。もちろん停止寸前でなんとか動いていた思考さえも。
 なにをあっさりと、とんでもないことをいってくれるんだこの人は!
「誰がそんな怪しいものを飲みますか!」
 ぐい、とパスカルの手へとそれを押し返しながら、ヒューバートは叫んだ。床に叩きつけなかっただけ、我慢したほうである。
 ぶーぶー、とパスカルが不満げな顔をする。
「あたし、ヒューくんの女の子姿みたいもん!」
「もん、じゃありません! そんなことを考えて、薬を作ったんですか?!」
 そんな顔も可愛いなと、こんな状態でも思ってしまうあたり、相当パスカルにまいっている。
 ヒューバートは、悲しいやら恥ずかしいやら悔しいやら情けないやらで、顔を真っ赤にしつつ叫ぶ。
 だが、そんなふうにいくら自分がパスカルを愛していても、今回の提案ばかりは受け入れられるわけがない。
「いいじゃん! せっかく頑張ったのに〜! 絶対可愛いよ、自信もって!」
「……」
 ふと、ヒューバートは自分が女になった姿を想像する。
 次の瞬間、ぞわわ、と背骨が震え、全身の肌がひっくりかえった気がした。
 どんな難敵をまえにしたときも、あのフォドラクィーンを相手にしたときでさえ感じることのなかった恐怖。
「と、とにかく、絶対飲みません!」
 鳥肌をなだめるように、ヒューバートは自分の身体に手をかけて、じりりと後退した。
 戦術的な意味合い以外で、ストラタの最年少少佐たるヒューバートをさがらせるなど、パスカルでなければできないだろう。
「ええー! どうしてー!」
 ずい、とその隙間を埋めるようにパスカルが前にでてくる。
「どうしてもこうしても……!」
 せっかく長年の想いを実らせ、パスカルと結婚し、夫婦になれたのだ。自分が女になったら、この夢のような現実が、それこそ泡沫のように弾けて消えるではないか!
 そんなことくらい、ちょっと考えればわかるだろうに、無頓着なパスカルに腹が立つ。自分が同姓になっても、ほんとうにいいと思っているのだろうか。
「ぼくは!」
 勢いついたまま、ヒューバートはパスカルの両腕を掴みあげた。
 驚いたらしいパスカルが、ぱちと目を瞬かせる。
 その、どうかしたの? といった顔を覗き込む。

「男としてあなたを好きでいたいんです!」

 ヒューバートの声が、家中に響き渡った。
 ぜぇ、はぁ、と血圧が上がってしまったゆえの息の荒さだけが、静寂の廊下に落ちては消える。
 しばし、じーっとそんなヒューバートを見上げていたパスカルが、おもむろに動き出した。
 自分の手の中にあった小瓶を、無言のままポケットにしまう。
 そして。
 ぴょんと、パスカルはヒューバートに抱きついてきた。しっかりと腕をまわされて、やわらかく温かなパスカルが、隙間なく寄り添ってくる。
 突然のことに驚きつつも、ヒューバートがその華奢な身体を抱きしめかえせば、ふわり、昨日風呂で使ったシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐった。
 首に回ってきた腕がほんのりと緩み、視線をあわせられて息をのむ。
 柔らかな白い頬に、紅が優しく刷かれている。大きな瞳が、きらきらと輝いて綺麗。ひどく嬉しそうな顔が、そこにあった。
「うん、そだね」
 パスカルが、にひひ、と歯をみせる。満足そうに、機嫌よさそうに。

「あたしも、女の子としてヒューバートのこと、ずっと好きでいたいな」

 そういって、猫のようにパスカルが頬を寄せてくる。
 しなやかな背を撫でながら、ヒューバートはようやく身体の力を抜くことができた。
 よくわからないが、なんとか思いとどまらせることができたらしい。
「……まったく、人騒がせなこと言わないでください」
「えっへっへ〜、ごめんごめん〜」
 ぎゅう、と抱きしめれば、パスカルの腕の力が強くなる。
 まったく、玄関に入ってすぐのホールで、自分たちは何をしているのか。
 そう思うものの、こうした生活も悪くはない。小さく口の端を持ち上げたとき、地の底にいる魔物があげるようなうめき声に似た音が響いた。
 やれやれと、ぽん、とパスカルの背を叩いて、離れるよう促す。
「お腹がすいたんですね?」
「そういえば、今日何もたべてないな〜」
 顎に手をあて、今日の記憶を手繰り寄せるパスカルに、ヒューバートは肩をすくめた。
「研究も結構ですが、ちゃんと人間としてやるべきことはやってください」
 食事・睡眠、このあたりはきちんとこなしてほしい。でなければ、パスカルがいつか研究所内で倒れていそうだ。
 パスカルには自分がついてないと駄目だと、ヒューバートは意識を改める。常日頃思っていることではあるが、こうしたことがあるたびにその決意は固くなり、美しく磨かれていくばかりである。
「では食事にしましょうか。パスカルさん、なにが食べたいですか?」
「んーとね」
 ゆらゆらと頭を動かし、パスカルが眉根を可愛らしく寄せる。やがて、ぱっとその顔が輝いた。
「オムライス! ヒューくんがつくるのが、一番美味しいから!」
「……!」
 自分の好物と知っているから、そういってくれているのだろうか。否、本当にそう思ってくれているから、パスカルはそういってくれているのだろう。わかりづらいけれど確かな気遣いができる彼女は、決して嘘はつかないひとだから。
 ヒューバートは、目元を和ませ微笑んで、パスカルを引き寄せる。
「わかりました。少し待っていてください」
「うん! あとさ」
「?」
 ゆっくりと、パスカルをエスコートするように家の中へと歩を進めるヒューバートをみあげ、パスカルがやわらかに微笑む。子供が親になにかをねだるような、そんな仕草。自分の可愛らしさを存分に発揮するすべを、本能が知っているのだろう。
「今日もさ、一緒にお風呂はいろ?」
 なんとも色気のないお誘い。
 というか、色艶など関係なく、ほんとうにそうしようといっているだけなのだから、当然である。
 く、とヒューバートは、ほの苦く笑った。
「仕方ありませんね。そうしないと、あなたはちゃんとお風呂にはいりませんし」
「やった!」
 ぎゅ、とヒューバートの腕に、パスカルが飛びつく。
 シェリアが昔、アンマルチアの里でパスカルを風呂に入れようとしたときは、すこぶる苦労したという。それこそ戦闘に発展するくらいに。
 だが、こうして自分と二人でならばさほど我侭もいわなくなったことに、時間と信頼の積み重ねがみえるようで嬉しい。
 ごろごろと猫のように擦り寄るパスカルが、言う。
「薬は今度、教官にでも飲んでもらってみるね」
 ひっ、とヒューバートは小さく悲鳴をあげる。
「怖いことにしかならないので、やめてください!」
「えー、おもしろそうじゃん! 興味あるよ!」
「どこがですか?!」
 ぐっとこぶしを握り締め、きりりと決意の表情をみせながら、空恐ろしいことをのたまうパスカルのやる気をいかにしておさえるべきか。
 世話になったマリクの身の危険をなんとか回避させるべく、妻の暴走を抑える秘策を脳裏で練りながら――――ヒューバートはパスカルをつれ、ひとまず空腹を満たすべく厨房へ向った。