Sss.


責任問題

 暴星魔物は手ごわい。
 赤い目をぎらつかせ、屈強な体から繰り出される攻撃は、一撃で兵士のもつ武器を砕くこともあるほどだ。
 ただ、力を受け流すことを覚えれば、それを捌くくらいはできるだろう。
 いまの、ヒューバートのように。
 引き裂こうと迫る魔物の爪から視線をそらすことなく、剣を構える。
 だが、攻と守が激しくぶつかりあうことはなく。魔物の爪が、剣の上をなぞるように滑り、地面へと突き刺さる。
 それは、魔物が目標を見誤ったのではなく、ヒューバートがそうなるようにしただけのことだ。
 賢い魔物なら、そうなった瞬間に体勢を整え退くところであるが、どうやら今相手をしているのはそういう類ではないらしい。
 ただやみくもに力をふるうだけの、魔物。
 そう判断したヒューバートは、剣の切っ先で魔物の急所と思しき場所をひと撫でし、蝶のように身を翻した。
 どう、という重い何かが倒れる音が、数歩駆け出したあとで背後から響く。
 並みの兵士ならば五人がかりでやっと一体を倒せるかどうかという魔物を、簡単に倒してしまったのは、ヒューバートにソフィの光の力が宿っているという理由だけでなく、自身の血が滲むような努力で得た剣の技があるが故である。
 それを当然のこととは思いながら、自慢するつもりなどは毛頭ないヒューバートは、戦場になっている森に素早く視線を送る。
 木々の合間、仲間たちがそれぞれの武器をたずさえ戦っている。ヒューバートが「手ごたえがない」と感じたように、彼らにとってもまた、この魔物たちはさほど脅威ではないらしい。
 これならば、あといくばくもしないうちに、戦闘は終わるだろう。
 この付近にある街への危険も多少は緩和されるに違いない。
 ここ最近、ラムダの活動が活発になった証拠か、最近では人里近辺に暴星魔物はよく見受けられるようになっていた。人々は怯え、兵士たちは気の休まる時がない。
 そして、そんな事態になっていると知れば、自ら進んでその対応にあたろうとするのが、自分の兄であるアスベルをはじめとした仲間たちだ。
 旅をしている途中であり、ずっとそこにいられるわけではないけれど、少しでも人の役に立つことがあるのなら、その力を振るうことをためらわない仲間たちが、誇らしいと同時に、ひどく心配になる。いつか、なにかあるのではないか、と。
 とくに――――
 赤と銀の髪をなびかせ、銃杖を派手に取り回しているパスカル。
 彼女は接近戦が不得手である。そのくせ、術を発動させるには目標の近距離にいくという、ヒューバートにしてみたら、甚だ不可解な戦闘方法をとっている。
 しかしながら、パスカルの術は仲間うちでも随一のものであり、決まれば威力は高い。
 パスカルはそうして今まで戦ってきたわけだから、自身の弱点だってわかっているはずだ。わざわざヒューバートが心配する必要も、本来ならないのかもしれない。
 でも。
 そんな思考とは裏腹に、視線は心に忠実で、ついパスカルを追いかける。
 遠距離からの銃撃で、魔物が眩暈を起こしたのか動きが鈍くなる。それを見逃さず、駆け寄ったパスカルが、銃杖を手に言葉を紡ぐ。
 その背後に、ゆらりと影がひとつ、動いた。
「!?」
 ヒューバートは反射的に駆け出した。
 数回地面を蹴ったところで詠唱が終わり、パスカルの術が発動する。魔物が小さな嵐に包まれる。目の前にいるものにはそれでいいだろう。だが。
「パスカルさん、あぶないっ」
 ヒューバートの叫びに、細い肩がぴくりと揺れる。琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを向いた。
 その瞬間、奇声のような魔物の雄たけびが響く。
「え、」
 木に紛れるようにして近づいていたやや小さい魔物が、術の詠唱を終えて呼吸を整えていたパスカルに襲い掛かる。

 間に合え!

 歯を食いしばり、足に力をこめる。必死に手を伸ばす。
 そして。
「ひゃあっ!」
「くっ!」
 パスカルを勢いのまま引き倒すようにして、ともに横へと転がる。その瞬間に、鋭い痛みが走った。
 ごろごろともつれあうようにして大地の上を数度行き、くらりとする頭を気力で押さえ、ヒューバートは身を起こした。
 地面に手をつき、顔をあげた先には、追撃をかける魔物の姿。
「!」
 魔物とまだ倒れたままのパスカルの間に割り込むようにし、ヒューバートは駆け寄りながら組み替えた双銃を突き出した。
 銃声が轟き、向かってきていた魔物が大きく震える。
 だが、まだ終わりではない。急所を狙った。あたってもいる。だが、その赤い瞳は、死んではいない。
 いかにしてパスカルを守りながら対処すべきか、一瞬のうちに様々な方策を脳裏に巡らせたとき。
 魔物が突如として現れた光の渦に巻き込まれ、後退した。不審げに眉を潜める間もなく、光が消え去った後――――魔物は、ゆっくりと倒れた。
 そうして開いた景色の向こうに、術を使ったとおぼしきマリクの姿がみえた。
 どうやら、発動しようとしていた術をこちらに使い、手助けをしてくれたらしい。
 本当なら使うはずだった魔物の攻撃をなんなく交わし、重く鋭く投刃を振るう姿に、さすがだと感じる。
 ほっと、ヒューバートは一息つく。
 と。
「弟くん!」
 響いた声に、視線を背後に向ける。
「パスカルさん!」
 ようやく体を起こしたパスカルの傍らに膝をつき、薄いその肩をつかむ。ざっとその姿を確かめる。どうやら大きな怪我はしていないようだ。転がった拍子についたのか、土や枯葉が頬や髪についている。
 無事を確認したヒューバートは、安心すると同時に、大きく口を開いた。
「いつも言っているでしょう!? あなたは詠唱のときも無防備ですが、詠唱後も隙が多いから気をつけるように、と! それなのに今日もまたあんなにふうに周囲に気を配らずに詠唱するなど……!」
 だがこの説教を、いつもなら微妙にずれた感覚をもってして、笑いながらきくはずのパスカルは、今日は今にも泣きだしそうな顔をした。
 ぎょっとしたとき、パスカルの手が伸び、ヒューバートに触れようとして――――おし留められる。
 パスカルの視線が、ヒューバートの顔からやや下がったところに、ぴたりと注がれる。
「血が、弟くん、血……!」
「え? あ……」
 必死な色を滲ませた声に導かれるように左腕を見下ろすと、服が破れその下から出血していた。一瞬感じた痛みは、これだったのかとどこか他人事のように認識したとき。
「ヒューバート!」
 赤い髪をなびかせて、シェリアが駆け寄ってきた。すぐさま白く綺麗な手が翳されて、暖かな光が傷口に触れる。その様は、天使と呼ばれるに相応しい神聖さだ。
 アスベルやマリク、ソフィもまた、自分が相手をしていた魔物を倒したらしく、慌てた様子で近づいてくる。
「大丈夫か!?」
「このくらい問題ありませんよ、兄さん」
 刀を鞘に納めたアスベルの血相に、ヒューバートはそういう。
「ヒューバート、血がいっぱい……!」
 自分が傷ついてもいつも平気そうな顔しかみせぬソフィが、眉を下げる。
「ソフィ、ぼくは平気ですから」
 その心配さ加減に、大丈夫だと安心させるように努めて優しく応える。
「しかし、よく間に合ったなヒューバート」
「いえ、マリク教官のおかげであの魔物を倒せました。ありがとうございます」
 投刃を背に戻しながら、マリクが感心したようにいう。だがしかし、それはこちらのほうだとヒューバートは思う。マリクの術がなければ、もっと自分は傷ついていただろう。
 ふ、とシェリアの光が消える。
「おかしいわ……。傷が、思ったように治らない」
「なんだって?!」
 困惑したシェリアの呟きに、アスベルがさらに顔色を変えた。
「とにかく、宿へ戻りましょう。そこできちんと処置をしないと」
「そうだな」
 シェリアの言葉に、アスベルがまわりを見渡す。仲間たちが一様に頷く。もうこのあたりに暴星魔物の気配はない。
 帰還しても問題ないと判断したらしいアスベルが、ヒューバートの顔を覗き込んだ。
「歩けるか? ヒューバート」
「ええ」
 地面についていた膝をあげ、身体を起こす。少々左腕に違和感と痛みはあるが、歩行に問題はなさそうだ。
 ゆっくりと足をふみ出すと、すぐそばにアスベルとソフィが寄り添うようにしてついてくる。
「ほら、パスカルも立て」
「大丈夫? 怪我していたら、遠慮なくいってちょうだいね?」
 その会話につられてわずかに振り返ると、俯いたままのパスカルの手をマリクがとり、シェリアが母のような優しい表情で声をかけていた。
「……」
 だが、パスカルは沈黙を保ったまま。いつもの彼女の雰囲気はそこにない。
「ヒューバート、そこ気をつけて」
「ありがとう、ソフィ」
 木の根が張り出していることを知らせてくれるソフィの優しさにわずかに笑みを浮かべ、ヒューバートは前に向き直った。
 心配ではあるものの、またすぐにいつもどおりになるだろうと、ヒューバートは考える。
 だが結局、街の宿へと帰るまでの間、パスカルは一言も喋らなかった。



 大げさだ。
 宿について早々、清潔な寝台へと押し込まれたヒューバートは、自分の傷の具合を見守る仲間たちにそんなことを思った。
 だが無碍にすることもできず、ヒューバートはじっとシェリアの診断を受けている。
「どうなんだ、シェリア」
 心配しきりというアスベルに、シェリアはヒューバートの腕に落としていた視線をあげた。
「大丈夫。命にかかわるようなものじゃないわ」
「でも、思ったように治らないって……」
 ソフィに向かって、シェリアは眉を下げて笑った。
「ええ、あの場所では気付かなかったけれど、あの爪に毒が混じっていたのかもしれなくて。傷口の治りだけが、異様に遅いのよ」
 これまでの魔物とはまったく違う暴星魔物である。シェリアが知らぬ症状を引き起こすものがいても、おかしくはない。
「なるほどな。怪我をおってすぐにシェリアが治療したおかげで、その毒が全身に回ることはおさえられたものの、直接ふれた傷口にはその影響が残っているのだろう」
 マリクの推測は、ほぼ当っているだろう。あれだけ出血する傷だった割に痛みが少なかったことを考えれば、麻痺性もあるのかもしれない。
 とはいえ、シェリアのおかげで、多少の痺れはあるものの指先まできちんと動く。
「今度あの魔物がでてきたら要注意ですね。この街の守備隊の方々にも、この件は伝えておくべきかと」
「そうだな。オレから連絡しておくよ」
 実際に怪我をしたヒューバートの提案に、アスベルがそのとおりだと顔を引き締めた。
「あのね、ヒューバート。少し、痕が残るかもしれないわ……。ごめんなさい」
 左手の感触を確かめるように、開いたり閉じたりしていたヒューバートに向かい、シェリアが申し訳なさそうに瞳を伏せる。
 シェリアが謝ることなどなにもない。心優しい幼馴染に対し、ヒューバートは頭を振る。
「いいえ、気にしないでください。大丈夫ですよ、これくらい」
 ヒューバートは何でもないことのようにいう。
「これまでに訓練などでついたものも、たくさんあります。そこにひとつ増えたところで、たいしたことではありません」
 それに自分は戦う者である。何かを守り、そうして負う傷に後悔をすることはない。
 それよりも。
 ちらと瞳を向けると、皆がしめしあわせたように同じ方向を向いた。
 そこには、部屋の窓辺に設えられた椅子に膝を抱えるようにして腰掛けた、パスカルがいる。
 いつもの明るすぎるくらいの存在感は薄れ、膝に押し付けられた頬にかかる赤と銀の髪が、その表情を覆い隠している。
「ほら、もう大丈夫よ、パスカル」
「そうだぞ、そんなに気にしなくても」
 シェリアとアスベルの言葉にも、まったく応える様子がない。
「パスカル? どこか、痛いの?」
 そっと近づいたソフィが、顔を覗き込むようにしゃがみこみ、パスカルに問うた。だがそれにも答えはない。
「これに学び、次からはもっと周囲に気を配ればいいことだ。違うか?」
 もっともなマリクの教えにも、ぴくりとも動かない。
 なんともいえない沈黙が落ちる。
 そこまで落ち込むようなことではないというのに。ヒューバートはなんと声をかけるべきか迷う。
 が。
「よし!」
 パスカルが、顔をあげる。立ち上がったと思ったら、ヒューバートのもとへと大股にまっすぐ歩いてきて――――がっしりと、ヒューバートの手を握った。
 そのあまりの勢いに思わずヒューバートが仰け反ると、パスカルが距離を詰める。

「弟くん、あたしと結婚しよう!」

 部屋一杯に満ちた言葉に、さきほどの沈黙よりもなお空気が固まった。
 とんでもない発言の余韻が、部屋とその場に居た人物すべてに馴染んだ頃――――かっ、とヒューバートは顔を赤らめた。
「は、はぁ?!」
 そして口から飛び出したのは、そんな驚きの言葉だけ。
 後悔しているのか、悩んでいるのか、落ち込んでいるかと思ったら。そんなことを考えていたのか!
 ぎょっとしたのは、ヒューバートだけではない。アスベルとシェリアが目を丸くしている。教官だけが、にやりと口の端を持ち上げた。
 立ち上がり、小さく首を傾げたソフィの髪が、さらりと流れる。ヒューバートとパスカルを交互に見比べながら、不思議そうにその小さな唇をひらく。
「ヒューバートとパスカル、ケッコンするの?」
 意味はわかっていないだろうが、淡々と確認しないで欲しい。
「いや、ちょ、そ……!」
 そんなわけないと言おうとしたヒューバートと、まったく悪気のない質問をしたソフィの間に、パスカルが割り込む。
「うん、そう! 弟くんを傷物にしちゃった原因はあたしだもん。ちゃんと責任取るよ!」
 えっへんと胸を張っていうな。と思ったら、くるりと振り返り、とびっきりの笑顔を浮かべてくる。
「ということで、よろしくね、弟くん! 幸せにしてね!」
 組み合わせた手を顔の横でしならせて、パスカルが無邪気に言う。
 いや、それなんか違う。
「責任をとってもらう側のぼくが幸せにするんですか?!」
 思わず口をついた言葉に、シェリアが肩を落とした。
「ヒューバート、つっこむべきところはそこじゃないと思うわ……」
「はっ!?」
 その呆れた声に、我に返る。
「じゃあ、今日からアスベルのことはお兄ちゃんと呼ぼう!」
 元気よく腕をあげ、さも当然のことのようにそう言ったパスカルに、アスベルが目を見開く。
「お、おにいちゃん……」
 その頬が、引き攣るのが見えた。
「ああもう、パスカルさん! くだらない冗談はやめてください! だいたい、そんなことは軽々しくいうべきことでは……!」
 拳を握り締め、声を荒げたヒューバートの顔を、ひょいとパスカルが覗きこむ。その近さに、さらに頬が赤くなるのがわかる。
「でも、自分のせいならちゃんと責任もたなきゃ」
 でしょ? と、可愛らしくパスカルが首を傾げてくるから。
 ぐ、とヒューバートは言葉に詰まる。
 それは、常日頃から自分の地位、それに付随する責務、己がとる行動に責任を持たなければいけないと、厳しく自分を律するヒューバートにとっては、至極当たり前の考えだ。
 それをパスカルに説かれるとは。
 最初は呆れていたシェリアなどは、すでに微笑ましいものを見守る母親のような、恋の話に瞳輝かせる年頃の娘らしいような、そんな瞳でこちらをみている。
 マリクにいたっては顎を撫でさすりながら、ひたすら楽しそうに傍観者を決め込んでいる。
 とても居心地悪い。嫌な汗が噴出しそうだ。
 ぶるぶるとシーツの上で握り締めた手を震わせていると、立ち直ったらしいアスベルが頭をひとつ掻いた。
「まあ、責任とるにしたってまだ先のことだろ? とりあえず今日はゆっくり休んで、明日またシェリアに様子をみてもらうんだ。いいな、ヒューバート」
「なぜパスカルさんが責任をとることが確定したような言い方をしているんですか、兄さん……」
「そうだな、まあラムダをどうにかしてから話をしても遅くはあるまい」
「いや、マリク教官。ですからぼくは……」
「そうねー、平和な世界を取り戻してから、よく話し合えばいいと思うわ」
「シェリア……」
「はやく傷、治るといいね」
「ソフィ……」
 ソフィの言葉と、頭をそっと撫でてくる手だけが、唯一の癒しだ。
 もうこの場ではどうにもならない。抵抗する気力が削がれてしまった。いけないとわかっているのに、どうしたらいいのかわからない。
 できるなら、頭を抱えて叫びだしたい。でもできない。
「じゃあ、俺たちは部屋に戻ることにしよう。何かあったら呼ぶんだぞ?」
「お心遣い痛み入りますよ、兄さん……」
 はあ、とため息をつきながら、そう返すので精一杯である。
 部屋の扉へ向かうアスベルに引きつれられるように、仲間たちがぞろぞろと退室していく。口々に「おやすみ」、「ゆっくりしてね」、とヒューバートに声をかけながら。
「じゃ、あたしも寝よっかな〜、じゃあね、弟くん!」
「……おやすみなさい」
 頭の後ろに手を回し、にかっと笑ったパスカルの言葉に、ヒューバートはこめかみを揉み解しながら、やる気なく答えた。
 酔っているのか踊っているのかと聞きたくなるような奇妙な動きで、パスカルが最後に部屋をでていく。
 それを見送り――――なんだか、どっと疲れたと思いつつ、ヒューバートが肩を落とした次の瞬間。
 見計らったかのように、大きな音とともに扉が開け放たれた。
「うわあっ!」
 びくーっと、今度は逆に肩を跳ねさせると、ぱたぱたとパスカルが駆け込んできた。
「ごめんごめん〜! ひとつ言い忘れてたことがあってさ!」
「迂闊ですね、なんですか一体」
 あのね、とまるで内緒話でもするように、こそこそとパスカルが耳元に顔を寄せてくる。
 またどんなくだらないことをきかされるのだろうかと思いつつ、ヒューバートは律儀に耳を傾ける。
 にこ、とパスカルが嬉しそうに笑った。ふわり、周囲の温度がまろやかになる。
 そんな表情もできるのかと、半ば感心半ば呆然としたヒューバートに向かって、パスカルはすっと目を伏せた。

「かばってくれた弟くんの背中、すっごく格好よかったよ」

 それに続く「ありがと」、という甘い声。
「〜〜〜っ!」
 おやすみの言葉を囁いて、いつもとは違う穏やかな笑顔を浮かべたまま、パスカルがするりと離れていく。マフラーの裾が、ゆらりと踊る。真っ赤な顔で、それをただ見送る。
 捕まえようと思えば捕まえられただろう。でもきっと、雲を掴むようにすり抜けてもいっただろう。パスカルは、そういう人だから。
 ぶるぶるとさきほど以上に震える手を握り締め、ヒューバートは軽い足取りで部屋をでていくパスカルを、眺めるしかできなかった。
 扉が閉まり、部屋にひとりきりになって、詰めていた呼吸をようやく再開する。
 そして、ふうっと意識が遠のくような感覚に身を任せ、そのまま仰向けに倒れこむ。柔らかな寝台と枕は、包み込むようにしてヒューバートを迎え入れてくれた。
「まったく、なんて人だ……」
 顔を隠すように、目元に手をあてる。
 とくとくと止まらぬ律動を刻む心臓は、きっと今宵一晩、自身を苛むのだろう。
 だがそれは、たまらなく心地よいものだとヒューバートは認識していた。
「いつか……この責任、とってもらいましょうか」
 ヒューバートが知らぬものを、不可避な嵐のように次から次へともたらすパスカルに。
 そうしたら、もっと楽しくなるに違いない。幸せをもらって、そうして幸せをわたすことができたなら、それ以上に喜ばしいことはないだろう。
 ふいに、小さな笑みが浮かぶ。

 ――――自分の言葉、ちゃんと覚えていてくださいね、パスカルさん――――

 ヒューバートはそう心の中で呟いて、蒼い瞳をゆるりと閉じた。