「神子……どこだ?」
きょろ、と天鳥船の回廊で瞳を巡らせる遠夜の手には、白い花弁が美しい清楚可憐な花がある。玄草という、その根が薬にもなる野草だ。
別の薬草を採りにいった森の中、そっと咲いていたその白い花は、想い通わせた少女の清廉な姿を模したようで。彼女に似合うだろうと、ふと思った。だから、一輪だけ手折らせてもらったのだ。
きっと神子は、喜んでくれる。
そう考えれば、高揚する気持ちが心地よい。そして、人の心とはなんと温かいのだろうと、遠夜はまた嬉しく思うのだ。
「ここにもいない」
自室には先にいったが、いなかった。ならばと思い、回廊まで来てみたものの、その姿はない。
では、千尋はどこにいるのだろう。
天鳥船の外だろうかと、来た道筋を戻ろうとしたところで、探していた声が聞こえた気がした。聞き逃すはずのないその声に、振り向く。
「神子……!」
ぱっと顔を輝かせ、遠夜は回廊から入ることの出来る一室に向った。いつもは道臣がいる場所だ。細かな軍の進路などを協議する場でもある。今後のことを打ち合わせしていたのか。
開かれた扉の向こうから、やはり探し続けていた千尋の声が聞こえてくる。ただ、あまりにもそれが楽しそうだったので、不思議に思う。軍議ではないのだろうか。誰と話をしているのだろうと思いつつ、様子を伺うようにそっと覗き込んだ。
そこにいたのは、千尋と風早だった。
背の高い風早を見上げながら、千尋は輝くような笑顔を向けている。風早も、慈しむような柔らかな色を瞳に宿し、千尋を見つめている。親密そうなその雰囲気は、長い時間を彼らが供に過ごしてきた証のようだった。
すっと伸びた風早の長い指が、千尋の青い花飾りの位置をそっと直す。それを当たり前のように受け入れて、千尋が礼をいってまた笑う。
その光景を目にした瞬間、湧き上がった妙な感情に遠夜は目を瞬いた。瞳を伏せて、そっと氷のように冷たく軋む、自分の胸に手を当てる。
もやもやとするような、妙な焦りに似たこの感覚はなんだろう。覚えのないそれに戸惑う。ただわかるのは、これはよくないものだということだ。
千尋を考えるだけで胸の奥に湧き上がる温かいものとは全然違う。対極に位置するような、全身を苛む冷たい感情。今まで感じたことのないものに、不安を覚えながら助けを求めるように顔を上げる。
だが、やはりそこにいる仲睦まじげな二人をみると、宵闇が忍び寄るように心に影が落ちていく。
この気持ちの正体を見極めようと、じっと目の前の光景をみつめる。だが、微かな霧のようであった黒いものは、手に負えない速度で心を埋め尽くしていく。一際濃くなった場所がさきほどとは全く違って、焦げ付くように疼く。暗く湿っているのに、もたれるような熱をも孕んでいる。矛盾しているが、そうとしかいいようがない。
自分は一体、どうしたのだろう。千尋と風早が二人一緒にいるところなんて、見慣れているはずなのに。
どうしていいのかわからずに、呆然と立ち尽くす遠夜の気配に気付いたのか。風早が、振り向いた。その動きにつられて、千尋がこちらに顔を向けてくる。金糸の髪がさらりと流れ、肩の上で光を弾きながら踊る。
「っ!」
小さく身を震わせ、遠夜は息を飲んだ。
真っ直ぐに、こちらを見る青い瞳を前にしていたたまれない気分になる。
大きな瞳が何事か語ろうと揺れた瞬間に、慌てて視線を切った。
だめだ。
唐突にそう思った遠夜は、ゆっくりと後退して、身を翻した。「遠夜?」と呼びかける声を振り切るようにして、駆け去る。
暗く冷たいこの感情を、千尋に知られたくなかった。あのままあの場にいたら、きっと千尋をこの腕に囲んで風早を睨みつけてしまっただろう。千尋は自分の吾妹なのだと、低い声で威嚇してしまっただろう。
やはり、自分は土蜘蛛なのだ。
風早は、千尋をずっと守ってきた彼女にとっての家族――――兄代わり、親代わりであったと聞く。
そう知っているのに、こんな風に憎しみや恨みに近い感情でその存在を羨むなんて。
なんて、自分勝手で浅ましいのだろう。自分が得た人の心はもっと、もっと優しいもののはずだったのに。
どこか、一人になれる場所に行きたくて遠夜は走った。
辿り付いたのは、風が心地よく吹き抜ける堅庭だった。千尋を探している間に、すっかり陽は翳っていた。西の端に明るい星がひとつ、あえかに瞬き始めている。刻々と複雑な色合いで変わりゆく空を見上げる。
僅かに森の匂いを含んだ風が、ふわりと身を包む。それは、人の穢れを連れて空へと還っていくような清浄さだった。身を委ねて、息を整えた。
ここで、静かにしていよう。この胸に渦巻く感情が、おさまるまで。
そう思いながら、ゆっくりと歩き堅庭の縁に立つ。
大地を覆う森は、夜の気配に色濃く深く広がっている。星が連鎖するように広がってゆく天の下、自分はどうしてこんな存在なのだろうと自問する。
遠い昔でさえ、こんな風に思い煩うことはなかったような気がする。
長い金の髪と蒼い目をした始まりの神子の遠い面影を、脳裏に描く。彼女といたときには、彼女は自分だけをみていて、自分も彼女だけしかみていなかったから、そんなことを思うことがなかっただけだろうか。
いくら記憶を探ってみても、この現状に該当しそうなものがない。
晴れぬ心を抱いたまま、渦巻く感情を探る。
手を取り寄り添って想いを交わした掛け替えのない幸福な時間がくれた、温かいものとは全く違う。
輝血の大蛇に立ち向かい、懸命に戦った辛く厳しい日々に疲弊したときと、多少は似ているが違う。
あえていうなら、月読としての最後の記憶がもたらす、彼女を失ったための深い絶望と彼女の犠牲の上に国を築いた人々への怨嗟が近い。
思い出すほどに、汚名を着せられ月読から土蜘蛛と呼ばれるようになった頃に、人でないものへと自身を変じさせた負の念が、今の感情に合致するような気がした。
一度、人から外れたものは人へと戻れないのかもしれない……。兎の声が聞こえたならば、彼はなんと言っただろう。友である妖の声も聞こえない。人にもなりきれていない自分は、一体なんというモノなのだろう。
渡すことのできなかった花を手に、遠夜は小さく息をついた。
「遠夜! ここにいたのね!」
背後から聞こえてきた千尋の声に、遠夜は驚いた。
「!」
暁色の目を瞬かせて、振り返る。そこには、すっかりあがった息を整えながら微笑む千尋がいた。闇が忍び寄る世界の中で、ほの光るようなその姿に目を細める。
「どうかしたの、遠夜? さっきはいきなり走っていくから、びっくりしちゃったよ」
「神子……」
「うん?」
当たり前のように寄ってきて、無垢な笑みを向けてくる千尋に対して、遠夜はなんだか泣きたくなった。視界が、熱い水に覆われてじんわりと歪んでいく。
彼女が自分をみてくれている。込み上げる愛しさと、まだ燻り続けるわけのわからない感情がごちゃまぜになって、どうしていいのかわからない。
「オレを、追いかけてきたのか?」
「うん! だって、何か私に用があったんでしょう?」
その言葉に、手にした花に視線を落とした。花は遠夜の心など知らず、相変わらずの可憐さで咲いている。無条件に己のことを信頼するその声音に後押しされるように、おずおずとそれを差し出す。
そう、もともとはこれを届けたかった。千尋に受け取って欲しいと思ったのだった。
「これを……神子に」
「わぁ、可愛い……! 私のために、摘んできてくれたの?」
こくり、と頷いて手渡す。そっと、千尋の小さな手に包まれた花は、風にそよと揺れた。
「深き森で、静かに強くあるその様が神子のようだった。みてもらいたくて、一輪だけ手折らせてもらった」
「ありがとう!」
嬉しそうに綻ぶ顔をみて、遠夜の心がふんわりと暖かく軽くなる。この感情こそが、人のものにふさわしい。だけど、自分はこの対極の思いも抱えてしまった。不完全で、頼りない自分が千尋の傍にいていいのだろうか。
目を伏せてそんなことを考えていると、ふわりと優しいぬくもりが手を包み込んだ。
「どうかしたの、遠夜? なにか悩んでいるなら、教えて。私、遠夜の力になりたいの」
「何故……?」
思わず零してしまった問いかけに、千尋ははにかむ。
「だって遠夜のこと、大好きだもの」
指先から、堅庭に吹く風よりもなお早く全身を駆け抜けた千尋の優しさに、限界だった堰が崩れる。ぽろり、と遠夜は涙を零した。その様子に驚いた様子もなく、千尋は細い指先で頬を拭ってくれる。
「神子……オレは、やはり土蜘蛛のままだ」
「どうして、そう思うの?」
幼子をあやす母のように、千尋は穏やかに問う。
「オレは、醜い。神子は風早と絆があると、知っている。なのに、よくない感情に捕われた」
眉を下げて、切ない声で心情をつづる遠夜を千尋はどう思っているのか。ぎゅ、と千尋の指先に力が込められる。
「オレは神子を守り続けた風早の存在を疎んでしまった。神子を抱き締めて、オレの我妹なのだと言いたかった。神子に近づいてほしくなかった。隣にいるのは、オレだけでいいとさえ思った。きっと、風早だけじゃない。那岐であったとしても、忍人であったとしてもオレは、同じことを思った。すまない、神子――――」
二人の姿に対して抱いた思いを吐露する。
千尋の顔をそっと盗み見るように伺う。呆れられただろうという予想は、違っていた。紅を掃いた頬で熱に浮かされたように青い目を潤ませる千尋は、どこか嬉しそうだったから。
「そ、そっか……。あのね、謝ることなんてないよ? ちょっとだけ、驚いたけど」
えへへ、と照れたように笑う千尋は一体どうしたのだろう。ここで見限られても仕方ないとさえ、思ったというのに。
「遠夜が焼きもちやいてくれるなんて思ってなかったから……ちょっと、嬉しい、かな」
千尋は何をいっているのだろう。自分がしていた話と、とんと繋がりの見えないその言葉に、遠夜は小さく首を傾げた。
「神子、オレは餅を焼いてはいない」
あっと大きく目を開いた千尋が、口元に手を当てた。
「えっと……、私が言ったのは本当のお餅のことじゃなくてね。何ていったらいいのかなぁ……嫉妬って言えばわかる?」
「しっと……?」
耳慣れない言葉だ。結局よくわからなくて、さらに首を傾げると、千尋も同じ方向に首を傾げて笑った。美しい孤を描く眉が、少しだけ下がっている。
「ん〜、簡単に言うと――――大好きな人が自分以外の人と仲良くしていたら、相手の人のことを羨ましく思ったり、腹が立ったり、悲しかったりすること、かな」
ぱちぱちと遠夜は目を瞬かせる。それは今の自分に確かに当てはまる。どうして、わかったのだろう。
だが。
「だがそれは、よくないものだ」
そっと悲しげに顔を伏せて、遠夜は辛そうに呟いた。それは、自分より優れたモノを妬み、嫉み、恨むという黒いもの。
「そんなことないよ? 私だって、その……遠夜が他の子と仲良くしてたら、すごく寂しいもの」
「神子も、なのか?」
純粋な驚きに目を見開いて、遠夜は問う。耳までも鮮やかな朱に染めて、千尋は小さく笑って頷く。
「自分だけを見ていて欲しいって気持ちは、悪いものじゃないと思う。それだけ、その人のことが、好きっていうことだから。恋をしたら、きっと誰もが持つ想いだよ。ただ、行き過ぎちゃったら、問題あるかもだけど……遠夜なら大丈夫よ。こうして悩むことができるくらいだもの」
「好き……」
そうだ。自分は千尋のことが大好きだ。それは、千尋への恋だと自覚している。そのためなのだろうか。その青い眼が映すのは自分だけでいいのだと、その傍らにあるのは自分だけでいいのだと思ってしまったのは。
「独占欲ともいうのかな。私だって、遠夜は自分のだって言いたいときあるんだよ?」
恥ずかしくて、言えないけど。
そう呟いて、ごにょごにょと口を濁す千尋を見下ろしながら、遠夜は目の前が開けていく感覚に震えた。心を覆っていた霧が散っていく。
「これで、遠夜への答えになったなら嬉しいんだけど。どうかな?」
はにかみながら問う千尋に、遠夜はこくこくと頷いた。それを見て、よかったと安堵したように千尋は息をついた。
そうか。これは、悪いものではなかったのか。人には、当たり前にあるものなのか。
そして、千尋はこの負に沈んでいくようなこの想いすら肯定してくれた。許してくれた。それでいいのだと、いってくれた。
それは自分が自分のまま――――ありのままで千尋の傍に居ていいということだ。
そう思ったら、身体が自然に動いていた。
「だからね、あんまり気に病むようなことじゃ……っ、わわわっ」
「神子……!」
嬉しくて嬉しくて。間違っていなかった、自分は確かに人の心を持っているのだと実感した遠夜は、千尋をぎゅっと抱き締めた。
突然のことに何もできず、されるがままになっている千尋の名を、幾度も呼ぶ。
「大好きだ、神子。オレの、オレだけの神子」
「もう……いきなりなんだから」
結局、喜色満面で抱きついてきた遠夜を突き放すことはせず、千尋はその抱擁を苦笑いしながらも受け入れる。そよ風のようにそっと額に口付け落とせば、くすぐったそうに首を竦める千尋が愛らしかった。
「オレが生む、想いの名さえも神子は教えてくれた」
僅かに千尋との合間をあけて、遠夜は真正面から恋人を見つめて微笑んだ。頬を染めた千尋が、その視線をしっかりと受け止める。
強い心という意味を持つ花を手に、自分だけを見つめてくれる恋しい人。そんな存在があるなんて、なんて素晴らしいことなのだろう。
「神子の言葉は、蒼き天からの啓示。迷い人を導く灯のように、天が翳ろうともその先で煌めく貴きもの。地を這う存在にさえ届くその光を、オレは決して見失わない」
そう、それは、あの美しく強く輝く星のよう。
視界の端に、先ほどよりもなお一層輝きを増したそれを映しながら言葉を重ねた。
人の心というものは複雑だ。土蜘蛛であったころには、持ちえることはなかったものばかり。そして、人になったことによって、今回の嫉妬という名の感情のように、己が生みだしたものに戸惑い、思い悩むことがこれからもあるのだろう。
だけど、そのひとつひとつも必ず理解できるだろう。千尋の、もっとも近い場所にいることを、自分は許されたのだから。
先ほどの自分の言葉を違えることなく。繋がった想いを今度こそ失わせることなく。彼女の姿を見つめていよう。
それがすべての答えに繋がるのだと。遠夜は確信したのだから。
「ありがとう、神子。これからも、オレにたくさんのことを教えて? そのすべてを何があっても忘れはしない。そうすれば、きっとオレはもっと人になれる」
心のままに微笑んで、もう一度腕の中に千尋を誘う。
風に舞う羽のような軽さで、千尋はその胸に身を預けてくる。そして、ほんの少しだけ悪戯っぽく目を輝かせて、笑う。
「遠夜がずっと、私の傍で笑っていてくれるなら、いいよ?」
「もちろんだ。オレの居場所は、神子の……吾妹の傍以外にありはしないのだから」
そう答えれば、千尋は幸せそうに微笑んでくれる。額が触れ合うほどに顔を寄せ合い、くすくすと笑いあう。
穏やかに交わしたささやかなその声がふと止めば、間近に結んだ青い瞳と紫の瞳の視線がゆっくりと溶け合っていく。
僅かひと時。でもそれは、永遠になればいいと思うほどの、瞬間だった。
「遠夜、お花ありがとう――――大好きだよ」
「オレもだ――――オレの、愛しい吾妹」
千尋の瞳が閉じられていく。遠夜は瞳を閉じていく。
彼女が求めているのが自分という事実に胸震わせながら、うっとりと遠夜はその柔らかな唇に、万感の想いを込めて口付けた。
宵の明星は、そんな二人を高き空から見守りながら一際明るく瞬いた。