夜空を駆ける天鳥船の一室で、いつもほどの活気さがないサザキは床に座り込んでいた。
それもそのはず、その背の翼には大きな爪によって鋭く切り裂かれた、無残な傷が三本走っているのだ。それらは遠夜の治癒術を施されて、概ね塞がっているものの、残っている赤黒い筋はそれなりの深手であったことを伝えている。ゆえに、サザキはカリガネからの治療をおとなしく受けているのだ。
渡された土蜘蛛の薬の効果は高いときいている。体力に自信もある。さしたる時間もかからず、この傷は治るだろう……多少傷跡は残るかも知れないが。遠夜がいてくれて本当によかったとサザキは思う。
が、その薬の沁みること、沁みること。それに手当てをしているカリガネの指先が乱暴なせいもあって、サザキは始終眉を潜めっぱなしだった。こまめに傷を覆う布を交換するよういわれてはいるものの、かなり面倒だ。
「っ……、あー、もうちょっと優しく手当てしてくれよ」
「我慢しろ」
「あだっ!」
ばちん、とカリガネの平手が叩き降ろされて、サザキは情けない悲鳴を上げた。白い布の下で疼く傷が、燃えるような熱をもつ。
「てっめ、何しやがる」
身を丸めて痛みを堪え、軽く涙目になったサザキを冷たく見下ろしてカリガネは言う。
「そのくらいですんでよかったと思え。しばらくは飛ぶな、傷が開く」
「ったく、それくらいわかってるっての。……あー、まじで失敗しちまったぜ」
ゆるゆると動かしてみるが、傷を受けた翼の付根が軋むだけだった。わかっていたのに、思った以上に鈍い痛みが全身に響いて、サザキは眉を潜めた。
「それから」
「?」
道具一式をしまいながら、カリガネはサザキを見ずにさらに言葉を重ねる。
「行ってやったほうがいい。落ち込んでいた」
「あー……」
額に大きな手をあて、サザキは呻いた。誰が、どうして落ち込んでいるのか。心当たりがありすぎて、困ってしまう。そのまま、指先で頭を掻く。
脳裏に甦るのは、この傷を受けたあの瞬間。細部に渡って覚えている。
森の中で荒御魂を追い、わずかに自分たちから離れてしまった千尋の背後に忍び寄る、禍々しい爪の輝き。千尋が振り返って避けようとしても間に合わない。そう思ったときに、サザキの身体は勝手に動いていた。
抱きかかえるようにして庇った腕の中の千尋は、驚きに青い瞳を見開いていた。その頬に落ちる金の髪が綺麗だと場違いにも思った。
その千尋の顔がやがて泣き顔に変わっていくのを、申し訳なく思った。
己を庇って傷ついたサザキに対して涙を零す千尋に、ちゃんと大丈夫だといったのに。笑ったつもりだったが、もしかしたら引きつっていたのだろうか。
「――――よし、わかった。ちょっくらいってくるわ」
彼女に泣いてほしかったわけではない。ただ傷ついて欲しくなくて、咄嗟に身体が動いてしまっただけだ。これは自分が招いた結果だ。もっと強ければ荒御魂のあの爪が伸びる前に倒すことができただろう。冷静さを失わなければ、受け流すことだってできただろう。自分の未熟さゆえに、負ってしまった無様な傷なのだ。
ちゃんと、そのあたりを千尋に言おう。
よっ、と気合をいれて立ち上がり、サザキはゆっくりと扉へと向う。
振り返って、にっと笑ってみせればカリガネの瞳が僅かに綻んだ。それに見送られ、サザキはわずかに熱を帯びた身体を引きずりながら、廊下を歩き出した。
とはいったものの。
「さて、どうしたもんか……」
ウロウロと千尋の部屋の前で立ち往生してはやどのくらいの時間がたったのか。いまだ声をかけることさえできない。夜更けの廊下は静かすぎて、なんだか耳が痛くなってきた。これ以上遅くなると、もっと声をかけづらくなるとわかっていても、一歩が踏み出せない。情けない。
どんな顔をして会えばいい? 笑って大丈夫だといっても、千尋の表情が晴れることはないだろう。心優しい、少女だから。
あー、とか。うー、とか言いながら、右へ左へ動くさまは不審者以外の何者でもない。
「ちょっと」
思いっきり呆れた声が聞こえて、びくりと身体を震わせてサザキは振り返った。
巡らせた視線の先、涼やかな緑の瞳がサザキを無遠慮に見つめていた。
「なんだ、那岐じゃねーか。昼は世話になったな」
ほっと息をつく。傷を負った戦いの場に、那岐もいた。結局、千尋を襲おうとしてサザキに阻まれた荒御魂は、那岐が倒してくれていたはずだ。
「それは別にどうでもいいよ。それよりもあんた、千尋の部屋の前で何してんの? ものすごくあやしいんだけど。動物園の檻の中の熊じゃあるまいし、でかい図体でうろうろしないでよ」
「誰が熊だ、誰が! おまえなぁ、仮にも怪我人なんだぞ、オレは! ちっと優しくしたって罰はあたんねぇぞ」
『どうぶつえん』とはなんだと思うものの、あまりよろしくないことを言われているくらいは理解できる。そんなサザキの抗議を鼻で笑った那岐が、耳に髪をかけながら言う。
「なにいってんの。千尋を泣かせた奴のほうこそ罰があたって然るべきだろ」
「うっ」
口ごもったサザキを射抜く冷たい那岐の視線が、細くなる。
「で、どうしたの。千尋に会いにでもきたわけ?」
「あー……まあ、な。姫さんが悪いわけじゃないって、ちゃんと言わないといけないと思ってな。それにほら、この通り無事だってとこもみせとかないと、姫さんいつまでも気にしちまうだろ?」
「ふぅん――――だってさ、千尋」
「は?」
千尋、という単語に驚いて、那岐の視線を追う。
その先、那岐の言葉に促されたのか、廊下の角からおずおずと現れた千尋に、サザキはぎょっと目を剥いた。
「ひ、姫さん?! なんでそんなとこにっ!」
部屋にいたはずじゃなかったのか。いや、確かめたわけではなかったが、そんなところから現れるとは予想外だった。おろおろと、部屋の入り口と廊下に立つ千尋を交互にみやっていると、那岐がどうでもよさそうに息をついた。
「千尋が落ち着かないっていうから、ちょっと一緒に船の中ぶらついてたんだよ。じゃ、僕はいくから」
「いや、ちょ、那岐っ!」
するっとサザキの横を通り過ぎていこうとする那岐の肩をがっちりと掴む。ものっすごく嫌そうに眉を潜められたが、サザキは気にしていられなかった。へらり、と笑って見せれば、なお一層眉間に皺が寄せられる。
「何?」
「いや〜、その。もうちょっとここにいねぇか?」
「やだ」
ばしっとすげなくサザキの手を振り払い、那岐は去っていく。
「――――那岐! ありがとう!」
千尋の声にだけ軽く手を振って応え、あっという間にその姿は廊下の向こうへと消えていった。
あまりの薄情さに内心悪態をついていると、小さな足音が近づいてきて、サザキのすぐそばで止まった。
「……サザキ」
「お、おう……その……なんだ……あー……」
いつもとは違う沈んだ千尋の声に呼ばれて、胸が軋む。サザキは、しどろもどろに口を動かしてみたが、漏れた言葉はなんの意味も成さないただの音でしかなかった。
頭の中が真っ白だ。空に漂う濃い雲に突っ込んだって、こんなに見通しが利かないということはないだろう。
困り果てて、視線を足元に落とした次の瞬間。小さな手がサザキの手をとった。ぎゅ、と指先に力が込められる。
「な、なんだ?」
戸惑う問いに応えはなく、ぐいぐいと引っ張って千尋は自室にサザキを引きずり込んだ。
幾度か来た事のある千尋の部屋は、灯りがわずかにともされていて薄ぼんやりとしていた。持ち主が女の子だから、だろうか。柔らかな空気に満たされていて、心地よい空間だと思う。
部屋の中ほどまで来たところで、ぴたりと千尋は足を止めた。その細い身体が震えているのが、傍目にもわかってサザキは息を呑んだ。手を伸ばし、不安に駈られながら声をかけようとする。
「おい、どうかした……」
「どうして私を庇ったりしたの!?」
だが、サザキの手は小さな肩に触れることなかった。勢い良く振り返った千尋の前で、発せられた悲痛な叫びに押しとどめられたから。その大きさと声音に、サザキは驚いて目を見開く。
その姿に、焦っていただけの心が冷静さを取り戻していく。
「姫さん、落ち着け」
「私は落ち着いてるわっ! お、落ち着いて……いる……もの……っ、」
涙を零し、しゃくりあげ。頬を懸命に手で拭うその姿にサザキの胸が痛む。
「悪かった。心配してくれたんだよな」
手は重ねあわされたまま。サザキは千尋に一歩近づいた。そっと金色の髪を撫でて心から謝る。
「あんたを、泣かせたいわけじゃなかったんだ。これはオレの失敗だ。気にしなくていい」
ふるふると頭を振って、千尋は俯いた。零れる熱い雫が、床に次々と小さな跡を残す。
「もう……あんなことしないって約束して……! お願い……」
「姫さんの願いなら、なんでもかなえてやりたいと思うが――――それは、きけねぇなあ」
「どうして?!」
サザキの言葉に、千尋は顔をあげた。その拍子に、また涙が零れていく。眉を八の字に下げて、口を引き結び見上げてくる千尋が、愛おしくてたまらない。
大粒の真珠よりも、それはずっと価値がある。自分を思って、零されたのならば、なおのこと。泣かせたくないと思うのに、自分のためのものと思えば、胸が高鳴る。不謹慎だと思うが、嬉しい。
ああ、本当に――――この宝のためならば、この翼を失うことさえ惜しくない。何者からも自分の手で守りたい。
ふわり、とサザキは笑う。
「オレは姫さんが大事で大事で、仕方ないからな」
頬に張り付いた金の髪を、そっと払う。涙に溢れた瞳が、縋るようにサザキをみつめている。
「私だって……サザキに傷ついて欲しくないのに!」
千尋が一歩前に出る。その瞬間、わずかに身体が触れ合っただけなのに、サザキの身体が揺れた。いつもなら、なんなく千尋を受け止めてやることができるのに。思った以上に体力を消耗しているようだ。
だが、そんなこと千尋に気付かせるわけにはいかない。努めて明るい声で、いつもどおりの笑顔で、言葉を紡ぐ。
「ありがとな、姫さん。だけど大丈夫だ。次は、こんなヘマしねぇよ。ちゃんと姫さんを守って、自分も守ってみせるから心配しないでくれ」
あやすように、千尋の背を優しく叩く。でも、その悲しみは止まらない。
「ごめんなさい、私が周りをちゃんと見てなかったから……これからはちゃんと気をつけるから……ごめんなさい、ごめんなさい……」
幾度も、か細く唇から落とされる謝罪の言葉に、サザキは苦笑した。
ああ、やはり彼女はそう思うのか。そんなことばかり、言ってほしいわけじゃないのに。
「待った、待った! それ以上自分を責めないでくれ。こっちが悪いことをした気分になっちまう。それに、これはオレが好きでしたことだ。宝を守るために、身体を張るのは海賊として当然のことだろ? な?」
サザキの言葉に、ぱちぱちと青い瞳が瞬く。ほんのりと眦が、泣いて擦っただけじゃない鮮やかな紅に彩られていく。
「私って……」
「ん?」
くすん、と鼻を鳴らしてサザキを見上げる視線を受け止めながら、何か言いかける千尋の言葉の先を促す。
「サザキにとっての宝物なの?」
あ。
ぴしっと小さな音をたて、確かに自分の身体が凍りついたのをサザキは自覚した。
そして津波のように身の内から押し寄せてくる恥ずかしさに、この場から逃げ出したくなる。いや、さすがに格好悪くてできないが。
まずい。全身が火照ってきて、顔が熱い。きっと耳まで真っ赤になった間抜け面を千尋に晒しているのだろう。そう思えば、さらに顔が火を吹くようだ。
何もいえないまま、サザキは口元を押さえ赤い顔で黙り込むことしかできなかった。それをみて、千尋がくすぐったそうに笑った。
自分の希望が含まれているせいかもしれないが、その表情はどこか嬉しそうにサザキには見えた。
冷静だったはずの精神はもはや瓦解寸前だ。自分の迂闊さを呪いながら、繕おうと口を開く。
「ひ、姫さん……その、なんだ!」
「うん」
「いや、だから……!」
「うん」
「その……」
「うん」
互いに真っ赤な顔をして、わけのわからない会話を交わす。その内容は実になることは何もない。だけど、それは不思議と心地よくて、強い酒を煽ったときのように判断をおぼつかなくさせる。
そして、じっと言葉を待つ千尋の瞳に浮かぶ期待の光が、サザキに言い逃れを許してくれそうになかった。崩れて痺れた意識のままで、サザキが唇から漏らした言葉は、観念したような静かな声だった。
「オレは……姫さんのこと、何よりも誰よりも大事に想ってる。だから、」
一際大きく、千尋が頷く。ぽろ、と零れた雫がどんな玉より美しい。
「姫さんは間違いなくオレの、一番大切な――――宝だ」
好きだの愛してるだの、千尋に言ったことはない。だが、今の自分の台詞はそれよりも恥ずかしいもののような気がした。
穴があったらはいりたい!
サザキの告白めいた台詞に、頬を染めた千尋が蕩けるように笑う。涙のせいもあって潤む青い瞳に見上げられて、心臓が痛いほどに跳ねる。
「あのね、サザキ……私も、」
「あああー! じゃ、もうこんな時間だし、そろそろオレは部屋に戻るわ!」
何事か言いかけた千尋の言葉を強引に遮って、サザキは早口にまくしたて、すたすたと部屋の入り口に向う。
恥ずかしくて、恥ずかしくて。もうどうにかなってしまいそうだ。これ以上千尋の言葉を聞いたら、心臓がもたない自信がある。
「待って!」
廊下に出たサザキを千尋が追いかけてくる。ぎゅ、と衣の裾を握られて、サザキはぴたりと足を止めざるを得なくなった。
かといって振り返ることも躊躇われる。どうするべきか悩む暇は、哀れな男に与えられなかった。
そっと、温かなものが羽に触れる。それは、ゆっくりと労わるように、翼の根元を辿ってゆく。傷を覆う布の上に、ためらいがちに優しく優しく落とされるものが千尋の指先だと気付いて、サザキは慌てた。
「ちょっ……!」
その微妙な感覚がこそばゆくて、声をあげる。とん、と千尋がサザキの広い背に額を押し当てる。
小さく零される言葉は、とても聞き取りづらい。だけど、サザキの耳はその音を拾った。好いた女の声を落とすようには、男の耳はできてはいないのだ。
「私も、ね。サザキのことすごく大事だよ……。まだ、お礼いってなかったよね――――助けてくれて、ありがとう」
そう囁いて、千尋が翼に触れる。サザキの背筋を快感に近いものが駆け上がる。
「ひ、姫さん!」
それは柔らかく、そして熱い千尋の唇。切なげな重い吐息が、翼の根元をかすめていく。生え際の細かな羽毛が、そよ、と蠢いた。
「こ、今度はほんとに気をつけるから! サザキも無茶しないでね!」
これだけはどうしても言いたかったらしいことを、千尋は宣言するように声を張り上げて告げた。
「それじゃ、おやすみなさいっ!」
そして、真っ赤な顔をした千尋は自分の部屋へと凄い勢いで引っ込んでいく。
口付けを落とされた翼を背に固まったサザキが、ぎこちなく振り返る。だが、そこにはもう愛しい少女はいない。
しばらくそのままで動きを止めた後。傷のせいだけでない熱をもてあましつつ、ふらり、ふらりとサザキは歩き出した。
どうしよう、どうしよう。
自分の世界があの少女でいっぱいになってしまいそうだ。いや、とっくの昔にそうなってしまっていたんだ。
わかっていたようでわかっていなかったその事実を噛み締める。海賊の頭を捕らえる姫なんて聞いたことがない。
だけど、それでも。こんなに幸せな気分になれるのならば。
まあ、いいか。
なんだか無性に笑いたくなったサザキは、声をあげようと息を吸い込み――――身体を震わせた拍子に響いた鈍い痛みに、低く呻くのであった。