ここ一週間ほど、王国と帝国間の会議開催の準備や書類作成のため執務室に詰めているヒースは、幻でもみているのかと思わず目をこすった。
ようやく終わりが見えてきた頃だから、気が緩んでしまったのだろうか。
「……ティア?」
名を呼べば消えてしまうかと思ったが、ヒースの恋しい人を写し取った幻影は、部屋の中央でぱあっと笑顔を花開かせた。
「ヒース!」
そして、そのままヒースの胸へと飛び込んでくる。
抱きとめて、腕を迷うことなく回した。
数日離れているだけなのに、こんな現実味を帯びた幻をみるなんて相当疲れているんだな、と思いながら、そのぬくもりと感触にため息を零した。
「い、痛い……」
胸へと押し付けるようにして抱きしめたそれが、もぞもぞと動いて小さな悲鳴をあげる。
「ん?」
慌てて腕の中の少女を覗き込む。
「もう、苦しいよ」
ほんの少し頬を膨らませて、でも滲む嬉しさは隠すことができていないティアの言葉に。
「……すまん」
ヒースはぼうっとしながら言葉短く謝罪することしかできなかった。
どうやら、本物らしい。
でもまだ信じられなくて、その頬を撫でる。髪を梳く。気持ちよさそうに目を細めてくれる仕草は、いつもの彼女のものだった。
現実だ、と。ヒースは、ようやくここで理解した。
「ティア?」
「うん」
「どうして、ここにいるんだ」
「前に言ったことあるでしょ? ヒースのお仕事しているところ、みてみたいって」
「あー、そういえば」
そんな可愛らしいお願いに、ヒースが面食らったのはずいぶんと前のこと。
祈るように胸の前で手を組み、背の高さが違うのだから当然だが、上目遣いで必死に見上げられ、かなり心が揺らいだのは秘密である。
だが、帝国の将軍として機密書類の扱いもしているため、部外者をそう易々と部屋に招きいれるわけにもいかないとして断ったはずだ。
そもそも、カレイラの英雄とはいえ帝国の者に与えられた城の一角にある、この部屋へくるにはいろいろと許可がいるはず。
そんなヒースの疑問が顔にでていたのか、ティアが笑った。
「皇子がね、いいよっていってくれて、ここまで連れてきてくれたんだよ」
「……」
それでいいのか、ヴァイゼン帝国。
確かに、いろいろとあるけれど、上司であるヴァルド皇子から許可が出てしまえばそれまでだ。
なるほどな、と心のうちで呟いてヒースはため息をついた。その様子を悪いほうに勘違いをしたらしいティアが、小さな唇をふるわせる。
「えっと……怒ってる?」
焦って眉を下げ、もぞもぞとしながらヒースを見上げるティアに頬が緩む。まるで小動物のようで可愛らしい。
「いいや、会えて嬉しい」
そう素直に想いを口にすると、ティアの表情から憂いが吹き飛んだ。
「私もね、ヒースに会いたかったよ」
「すまんな、碌にかまってやれなくて。もう少しで終わるところだ」
「ほんと?」
絡まることなく指を通す、絹糸のような髪ごと頭を撫でる。嬉しそうに笑ったティアの笑顔につられるように微笑んで、ヒースは言う。
「ああ、待っていてくれるか?」
そういって、室内のソファに座っているように促すが、ティアは小さく頭を振った。
「邪魔はしないから、側にいていい?」
きゅ、と握り締めた拳をヒースの胸に添えてティアは背伸びをしながらお願いをする。
その必死さと愛らしさに、ヒースは小さく噴出した。
「構わんが……つまらないぞ?」
「いいの!」
肩を震わせながら許可をだすと、ティアが飛び跳ねて喜んだ。
ヒースはそんなティアを名残惜しく離して、執務机へと向かう。トコトコと、ティアがその後をついてくる。
ヒースは、あまり座り慣れていない椅子へと、ゆっくりと腰掛ける。そして、ぽんぽんと膝を叩いて見せた。
「ほら」
不思議そうに目を瞬かせたティアだったがヒースの言いたいことがわかったらしく、ほんのり頬を染めながらヒースの膝の上へと腰を下ろした。
そして、きょろりと視線を動かす。
「えっと、私がみてもいいものなのかな?」
「まあ、あとはたいしたものは残っていないからな、かまわんさ」
実際、文官たちと作成した重要書類は午前の間に提出済みである。警備関係の書類も部下を通じて発行済み。あとは帝国から出席する人物の、名簿の突合せと宿泊場所の確認程度である。
それに和平交渉の立役者たるティアが、帝国に害を与えるなんてありえない。
左手をティアの腰に回して支えながら、右の手を伸ばして机上の書類から必要なものを的確に抜き出して目を通していく。
一見して無造作に散らばっているようにみえる書類の海であるが、ヒースはどこに何があるのか完璧に把握しているのである。
そうして、次々と確認をしていく。だが、思ったよりも多かった。
しばし時間は流れ――――あと数枚というところで、左腕にかかる重みが増したことに、ヒースは気付く。
ヒースは目線をおろし、その先にあるものを見て。ふ、と笑みを零した。
ついさきほどまで、もぞもぞとしながら珍しそうに書類をみたり、ヒースの横顔を見上げていたティアが、すやすやと寝息をたてて夢の世界に旅立っていた。
疲れていたのか、つまらなかったのか、人のぬくもりに誘われたのかはわからないが、あどけない寝顔に癒される。
そのまま、そーっと最後の書類を手にする。素早く左から右へ視線を移動させながら、読み込んでいく。
かく、と傾いたティアを自分の胸に寄りかかるように抱えなおす。
ふわりと少女から立ち上る香りに小さく息をついて、ヒースは手にしていた紙を机に放った。
これで終わり。
不備もなく、このまま明日の会議は無事に迎えられるだろう。あとは優秀な帝国兵士たちに任せてしまえば何の問題もない。もちろん、ヒースも出席しなければいけないが、明日までそれなりに自由な時間を得られる。
思いっきり伸びをして、凝り固まった身体を動かしたいが、そうもいかない。
ねむりこけるティアの膝裏に手を入れ、背を支えながら抱き上げる。そして、ヒースはその大きな身体に似合わぬ動作で、そろりそろりとソファへと向かう。
波に身を任せるようなその振動が心地よいのか、ふにゃ、とティアが微笑んだ。
いい夢でもみてるのだろうか。
くすくすと起こさぬ程度の小さな笑い声を喉の奥で転がして、ヒースはそっとティアをソファへと横たえた。クッションを引き寄せて小さな頭を乗せてやる。
「よく寝ているもんだ」
仕事ぶりを見学したいというのは結構だが、やはり退屈だったのかもしれないと思う。
だが、男の部屋でこれはない。無防備もいいところである。信頼されているのか、女としての危機感はないのか。
いろいろと複雑な心境のまま、ティアの寝顔をみつめる。やはり可愛い。気が緩んでくる。
そういえば、こんな風に眠るティアをみるのは牢から脱出してラウカの家で厄介になっていた頃以来だと思う。ともに生きて欲しいと愛を告げて、ティアがそれに応えてくれてからも、はじめてだ。
さら、と頬にかかった髪を落とす。
むにゃむにゃと、わずかに蠢いた淡い紅色の唇から目が逸らせない。
ソファの背もたれに片手をついて、ティアの顔をさらに覗き込む。長い睫、光をはじく白く滑らかな頬はほのかに色づいている。
まるで、砂糖菓子とかそんなもので、できているような少女だ。
ぼんやりと思考が白んでいく。
なんとなく、まずい予感がするけれど止まらない。
この唇は、どんな味だったろう。
普段のヒースならば、考えもしないことに意識が支配される。
口付けたい。
そう思ってしまったが最後。とん、と誰かに押されたようにヒースは首を傾け、顔を落とした。
触れる瞬間、まぶたは自然に落ちていた。
昼の明るい闇に閉ざされた視界は何にも伝えてこないけれど、唇はふわふわとして溶けてしまいそうな柔らかさと、ずぶずぶと溺れてしまいたいほどのぬくもりを感じている。
なんだか、やけに甘い。甘ったるいといえるほど。
ヒースにとって甘味なんて、さほど好ましく思わない味覚であるというのに。だが、これは際限なく求めたくなる。
もう少し、もう少しだけ。
そんなことをぼんやりと思いながら、わずかにそれを食んだ。
と。
ぴくりと小さな震えを感じ、ヒースは弾かれたように瞳を開いて顔を上げた。
「ヒース……」
首筋までゆっくりと赤に染め上げつつ、ティアが綺麗な瞳を向けている。
あ――――
蕩けていた意識が固まる。自分のやってしまったことに、さあっと血の気が引いていくのがわかる。
いくら恋人とはいえ、穏やかに眠る少女になんてことを。
半ば無意識とはいえ、いや無意識だからこそ性質が悪いのか。ティアを求める自分の男の部分を、押し付けてしまった。
口付けたいという欲望が顔を覗かせた瞬間は、悪魔の誘惑のようだった。それに乗ってしまった己の未熟さに、眩暈がする。
ふ、とティアが視線を逸らす。その瞬間、北の大地を支配する帝国の冬に荒ぶ風のように、ヒースの中を冷たいものが駆け巡った。
これは嫌われても仕方がない。こんないい歳をした大人が、なんとも情けない。
彫像のように身を強張らせたヒースは、せめて離れようとする。ぎこちなく動き出したものの、結局それはできなくて。
なぜならば。
するり、と細くしなやかな腕が、ヒースの首に絡まったから。
「……ティア?」
ぎゅっと震える身体を預けるように鼻先を摺り寄せてくるティアを、ヒースは焦りを薄くするような息を吐きながら抱きしめる。
「どうして、離れちゃうの……?」
ティアの言葉に面食らう。
「どうしてって……」
思わず口ごもる。大体こんな事態になったならば、謝罪を求めるべきだろう。それをそんな風にいかないでと引き止めるように言われても――――ん?
そこまで考えて、ヒースは僅かに眉を顰めた。
ティアは、もしかして。
ほんの少し、身体を離してティアを覗き込む。
「――――ヒース」
熱に浮かされたような顔で名を呼ばれ、ぞくりと背骨の髄が震える。制止する理性の自分が、どこかへ追いやられていくのがわかる。
「もっと――――」
ちょうだい?
そういって、潤んだ瞳を伏せるティアに思う。
ああ、そうか。ティアも、触れたいと思ってくれていたのか――――自分だけではなかったと、ほっと安堵しながらヒースはティアの額に口付ける。
瞼を縁取る長い睫、うっとりと閉じられた瞳の目尻、柔らかく紅に染まった頬、ここにもと誘うように突き出された鼻先、ありとあらゆるところに触れて、最後に顔を傾けその可憐な唇に己のそれを重ねた。
ティアを腕の檻に囲い込んで、望み望まれるままにキスをして、最後にぎゅうと抱きしめる。
幸せ。可愛い。好きだ。愛しい。
ぽんぽん、とそんな言葉が脳裏に浮かんで消えていく。
「お仕事してるとこも、みたかったけど……ほんとうは、ヒースにこうして欲しかったの」
だから、ここまで来たんだよ――――そう幸せそうに続けられて、喜ばない男なんてこの世にいるのだろうか。
ずいぶんと嬉しいことをいってくれるものだ。そう思いつつヒースがゆっくりと顔を離せば、「これ、夢じゃないよね?」と、色づいた空気に身を委ねたティアに問われる。
「ああ。幻でもないぞ……ほんとう、だ」
それをもっとわからせるために。自分もこの幸せをもう一度かみ締めるために。
もう一度、ヒースはティアに口付ける。
世界で唯一、ヒースを惹きつけてやまない甘味であるティアの唇を堪能すれば、仕事の疲れが確かに癒されていくのを感じる。
甘いものが疲れに効くというのは、自分には当てはまらないとばかり思っていたが――――どうやら、これは例外らしい。
くっとひとつ小さく笑ったヒースは、小さな恋人を連れてソファへと身を委ねた。
ひとまず、ティアのヒース仕事場見学はこれにて終了。
そしてここからは、二人身を寄せ合って会えなかった寂しさを埋めるように。
恋人同士が触れあう甘いひとときが、始まる。