生活用品を買い足して、なんとなく商店街を歩いていたティアは、ぴたりと足をとめた。
そこは、このローアンの街で一番の大きさを誇る本屋の前。本を読んだり、小説も多少書いてみたりするティアにとって馴染みのある場所だ。
いつもよりも綺麗な飾りつけに心惹かれ、店の大きな窓からひょいと中を覗きこむ。ガラスの向こうに、いくつもの絵本が展示されている。
「わあ……!」
それをみて、ティアは小さな声をあげた。
この本屋は現在絵本フェアをやっているらしい。カレイラ王国のものだけでなく帝国のものまで揃えられている。
昔から現代まで子供たちを楽しませてきた、鮮やかな色彩の絵本はどれも可愛らしく、ティアはゆっくりと視線を動かしていく。
その中に、一際ティアの目を引くものがあった。
ずっと昔。幼い頃に、ベッドの中で父がやけに臨場感たっぷりに読み上げてくれた絵本。それは仮面をつけた、正義の味方の物語。
「わ……、懐かしい……!」
ティアは、それが大好きだった。
堂々と名乗りを上げて、次から次へと悪を懲らしめていく姿を思い浮かべては、幼心を沸き立たせたものだ。
なんだかひさしぶりに、読みたくなってきた。
買っちゃおうかな……。
あの頃、父がお土産としてくれたものは、もうない。
ふとそのときのことを思い出し、ちょっとだけ悲しくなりかけるも、ティアは小さく頭をふってそれを追い払った。
もう一度、じっと絵本をみつめる。
幸いなことに、冒険から戻ってミスティックジュエルを換金した直後であるため、懐は暖かい。絵本の一冊くらいならば、大丈夫。
だが、この歳にもなって絵本なんて、笑われるだろうか。からかわれるだろうか。
いやいや、でもでも。
うーん、うーん、と可愛らしく眉をしかめて困り顔で悩んだのも束の間のこと。
結局、ティアは本屋に飛び込んでゆく。
そして、からんころんと本屋のドアベルを鳴らして出てきた満面の笑みのティアの腕には、荷物とともにしっかりと抱えられた紙袋がひとつ、あった。
スキップするような軽やかな足取りで、一人の少女が公園を歩いていく。
「――――ティア?」
ヴァルド皇子からの用件も終わり、遅めの昼食をとろうかと窮屈な城から街へと歩いていたヒースは、視界の端に捕らえた光景に足を止めた。
栗色の髪を靡かせて、大きなかばんを下げて歩いていくその姿はよく知っている。一見して、どこにでもいそうな普通の少女。
しかし、実のところ彼女はカレイラの英雄。帝国と王国間の戦争を終わらせ、ついこの間も和平条約の締結に一役かった。
この街に住むものならば、誰もがその名を知っている。
だが、本人はあまりそういった自覚がないらしい。気取ることもなく、畏まることもなく、かといって驕るわけでもない。そんな姿が、ヒースにはとても好ましい。自慢の弟子だ。
そして、感情が表に出やすい少女からは今、溢れんばかりに幸せオーラが流れ出していて、ヒースは噴出しそうになる。なにかよほどいいことでもあったのか。
どうしたら、ああも素直になれるんだろうな。
そんな風に思いながら視線を注ぐヒースに、ティアは気付いていない。
そのまま、てくてくと歩いて公園の片隅に設置されているベンチに近寄ると、すとんと腰を下ろした。
そして、手にした袋から何か取り出している。
それは、いつも持っている預言書とは違う。綺麗な色使いの表紙を持った、薄い本だった。
ぱらぱらとそれをめくり、真剣に読みはじめた姿に小さく笑い、ヒースはその場を後にした。
読書の邪魔をするのも気が引けるし、それになにより腹の虫がやかましいのだ。さっさとパンでも詰め込んでやりたい。
市場と屋台の立ち並ぶ一角に向けて、ヒースはゆっくりと公園を後にした。
が。
食べ終わったヒースが公園にもどってきても、ティアは同じ状態で熱心に手元に視線を落としていた。食事は早いほうだが、それにしたってそれなりに時間はたっている。
ティアがそこまで夢中になるものが、なんとなく気になったヒースは彼女の元へと足を向けた。
湧き上がる懐かしさに、ティアはにこにこと笑いながら幾度も絵本のページをめくる。
昔、読み聞かせてもらった本の内容を思い出しながら、ティアは幸せな気分に浸る。
お父さんがいて、お母さんがいて。
何の心配も憂いもなく暮らしていた頃の、優しくて大切な思い出たち。
そして、このローアンで出会った正義の味方の面影が、脳裏を過ぎっていく。
小さな頃だから、記憶もおぼろげでしかない。名前だって知らない。ほんの少しだけしか、時間を共にしなかったどこかの誰か。
彼は紛れもなく、子供の自分にとってヒーローだった。
もう顔も思い出せないのが残念だけれど、抱き上げてもらったときの空を飛ぶような感覚、頭を撫でてくれた大きな手の感触は、覚えている。
ただ、出会えたことと、与えられた彼の優しさはいつまでも消えることなく、これまでずっとティアの心の奥底で小さな宝石のように煌いていた。
それほど、彼と一緒にいたほんの僅かな時間が、楽しかった。
見ず知らずの子供に付き合ってくれたなんて、どれだけいい人だったのだろう。他愛もない自分の言葉に、彼はなんて答えてくれていただろう。
この街で暮らし始めた頃、またここで会えると固く信じていた自分が、懐かしい。
思えば、あれが私の初恋だったんだなぁ、などと考えつつ。
ティアは表紙を閉じた。そして、そっとその表を指先で撫でる。
まるで、大切なものを蘇らせてくれたこの絵本に、お礼をいうかのように。
ほう、と息をついてティアが現実に戻りかけた瞬間。
大きな影に包み込まれて、目を瞬かせながらティアは顔を上げた。
「よう、ティア。随分と熱心だな。何を読んでいるんだ? なになに……『ウルフ仮面と悪の魔法使い』?」
「っ!」
ティアとその手にある絵本を見下ろす背の高い人物の楽しそうな顔と声に、ティアは身体をこわばらせた。
「ヒ、ヒ、ヒース将軍……!」
かあっとティアの頬が熱をもっていく。まさか、よりによってこの人にみられるとは!
子供っぽいと思われただろうか。
「ええっと、あの、この絵本は、その……なんていうか」
しどろもどろになり、なんとか取り繕うとするもののうまくいかない。
同年代の少年たちに対するのとはわけが違う。感謝や尊敬だけでなく、ほんのりと不思議な感情を抱く相手の突然の登場に、ティアは焦った。
「……」
が、そんなティアとは対照的にヒースはふいに真面目な顔をした。じっと絵本を注視して、何かを思い出すように目を眇める。
そして。
「なあ、それをちょっと読ませてくれないか?」
太い指が指し示したものに、一度目を落とし。ヒースが求めているものを理解したティアは、目を見開いた。
「え!? こ、これですか?」
大人であるヒースが絵本に興味を示すとは思っていなかったティアは、素っ頓狂な声をあげる。
「ああ。いや、読んでいる最中ならば後でかまわんが」
「えっと、ちょうど読み終わったところだから……どうぞ」
「すまんな」
そういってヒースはさっさとティアの横に座り、大きな手を出してくる。その上に絵本を乗せると、ヒースはページをめくり始めた。
なんだか、変な感じだ。
恩人で、師匠でもあるヒースと公園で肩を並べてベンチに座っている。空は綺麗に晴れていて、降り注ぐ太陽の光も心地いい。公園の木々に住んでいる鳥の声が聞こえてくる。沈黙が、なんだかむず痒い。
修行のときだって二人一緒だったのに、妙に緊張する。
どうしてかなあ……?
いまだ自分の心を計りかねているティアは、頭に疑問符を浮かべながら膝の上で手を握り締めた。
「……これか」
顎に手をあてて、ヒースはぽつりとそう零した。
ようやく聞こえてきた声に、ティアの緊張が解れた。知られぬようにほっと息をついて、横にいるヒースを見上げる。
「この絵本がどうかしたんですか?」
「ん、ああ、いやな。ちょっとした思い出があってな」
くしゃり、と少年のように相好を崩してヒースがいう。
「もう十年も前になるか。オレが大会に出場したときのことだ。君には前に話したことがあるだろう?」
「ええっと、四大流派の人たちを負かしちゃって、その後グスタフ師匠に追い掛け回されたっていう?」
「あー……」
そのことは思い出したくないのか、触れられたくないのか、ヒースはなんともいえない表情で視線を斜め下に落とした。こんな顔をするのは珍しい。
グスタフ師匠って、何したんだろ……。
訊けばヒースは教えてくれるだろうけれど、あまり突っ込むべきじゃないようだ。
「あ、ご、ごめんなさいっ。ええっと、えーっと、それで……?」
漂い始めた重い空気を、ティアは手を振って追い払う。
そして続きを促せば、気を取り直したのかヒースは小さく笑って、ベンチの背もたれに大きな身体を預けた。
「このローアンに来て出場を明日に控えた日に、小さな女の子にあったんだ。どうやらこの絵本が好きだったらしくて、いろいろ話した」
遠い過去に思いを馳せる横顔に、ティアの心臓がちょっとだけはやくなる。
「道で派手に転んだのに泣きもしない強い子だった。たまたまその瞬間を目撃したんだが、ほうっておくのもなんだし、声をかけてみたらその子になぜか懐かれてな」
ははは、と笑い声を上げるヒースは楽しげで、その思い出がいいものであるようにみえた。
「それは、ヒース将軍が優しいからですよ」
ちょろちょろと小さな子にまとわりつかれる若かりし頃のヒースを思い浮かべて、ティアは笑った。きっと困った顔をしていただろうに。
そういえば、自分の正義の味方もずいぶん背が高かった。小さかったから、余計そう思うのかもしれないけれど。
「いや、あのときはずいぶんと粋がって、生意気だったと思うんだがなあ」
ティアの言葉が照れくさいのか、ばりばりと頭をかいてヒースは言う。
「んー、想像つかない……」
今はすっかり落ち着いた大人なヒースから、そんな血気盛んな頃があったとは思えない。
「ははは! 師匠のいいつけを破るような男だぞ、ろくなもんじゃない」
それをいってはおしまいだ。
「でもその子にとっては、ヒース将軍がものすごく頼もしかったんですよ、きっと」
「そういうものか」
「はい。私もそんな経験ありますから」
「ほお、君もそんなことがあったのか」
にやり、と笑われて。力いっぱい肯定してしまったティアは、いまさら己の過去を訂正できるわけもなく頬を染めた。
「で、どんなことをしでかしたんだ?」
「……小さい頃ですよ」
ティアは目を伏せて、ぽつりぽつりと零していく。
「すごい人ごみの中で迷子になっちゃって。でも、私をみつけて助けてくれた人がいたんです。顔とかは、もうよく覚えてないんですけど」
照れたようにはにかみながら、ティアは続ける。
「その人がすごく頼もしくて、一緒にいて安心できたんです。この絵本の主人公みたいでとっても、格好よかった」
初恋の人だという言葉は胸にしまう。さすがに恥ずかしすぎていえたものではない。
そういえばヒース将軍と一緒にいると、そわそわするけれど安心もする。どきどきするけど、ほっとする。それは、ティアの正義の味方と一緒にいた、あの頃の気持ちに似ている。
そんなことを、ふと思ったティアの頭を、ヒースはくしゃりと撫でた。
「まあ、子供のときはよくあることだ。そういえば、その子も迷子だったな」
「どんな子だったんですか?」
「ちょっと変わった子だったぞ」
ティアの膝の上へと手にしていた絵本を返したヒースは、顎に手をあて何か思い出すように空を見上げた。
「その絵本の正義の味方に憧れていたのかもしれんが、いきなり主人公の決め台詞を言い出したりな。あとは、オレのことを本物の正義の味方だと思い込んだらしくて、あれこれ訊かれた」
「よっぽど、気に入られたんですね」
なんだか見も知らぬその子に親近感が湧いてきて、ティアは微笑む。
迷子で、転んで、助けられて、この絵本の正義の味方が大好きな少女と。
そして、そんな少女の他愛ない話に付き合ってくれた、正義の味方にされてしまった少年。
本当に、よく似て――――
ん?
ティアは、ぱちぱちと心の奥が爆ぜるのを感じた。
なんだろう、なにかの蓋が開きそう。かたかたと慄き震える記憶に、笑顔が固まる。
「まあ、なにせ出会いと会話の印象が強すぎて、いまいちその子の顔は覚えていないんだが。迎えに来た母親は綺麗な人だったと思う」
「え、えーっと……」
ぽろぽろと、記憶の欠片が遙か彼方から流星のようにもどってくる。
「絵本の主人公と同じ仮面を持っていたせいで本物だと思い込まれたこともあって、一度読んでみたかったんだ。だが、機会がなかった。こんなところで君にみせてもらうことになるとは、思わなかったぞ」
ぱちぱちと、それがティアの中で組み合わされて、ひとつの塊となっていく。
「ええと、それは……ローアンの街で……?」
おずおずと問う。
「ああ、大会前日だったといっただろう? 街への橋があるだろう、あの辺りだな」
ティアの記憶も、ローアンだ。それも、街の入り口あたり。
「だがな……『がんばれ』と言ってくれたことは、よく覚えている」
確か、そんなことをいったような気がする。
「あの女の子――――、一体どうしているかな」
どこか遠い目をしたヒースの横顔を呆然と見上げる。
その姿に、重なる姿がある。それはティアだけの正義の味方。
たくさんおしゃべりしながら眺めた、遠い空をみつめていたあの人の横顔。
ああ、決定打。
一際大きな音をたて、最後のピースがはまる。
出来上がったのは眩く輝く星のような記憶。
それが鍵であったように、さらに深いところの扉が押し開かれていく。
そこから溢れる思い出に、背筋を震わせながらティアは思う。
この人だ。この人が、私のヒーローだ。
どうしてわからなかったんだろう!
ティアは自分自身に対して思う。
どうしてわかってくれないのだろう!
次に思ったのはヒースに対して。これは半ば八つ当たりに近い。大体、自分より年上であるのに、記憶があいまいとはどういうことだ。
自分自身とヒースに対して、ぐるぐると渦巻く思考でそんなことを投げかけつつ、ティアは熱くなっていく顔を隠すよう深く俯いた。
まるで心が明るく照らし出されていくような感覚に、ティアは浅い呼吸を繰り返す。胸の早鐘が痛い。
安堵と憧れと、僅かなときめき。
どうして、ヒースにそんな感情を抱くのかわからなかった。
でも、自分の正義の味方で初恋の人。それを前にして、何も思わないほうがおかしいような気もする。
意識していない自分のどこかが、きっとヒースを覚えていた。
幼い頃の記憶と今の自分の感情を持て余して、すっかり茹ってしまったティアを見て、ヒースが怪訝な顔をする。
「おい、どうかしたのか?」
かけられた心配そうな声に、思わずヒースを見てしまったティアは正面からぶつかりあった視線に、真っ赤な顔を引きつらせた。
そんなティアの顔をみて、ヒースが面食らったように目を見開く。
「ね、熱でもあるんじゃないのか?」
「あ、あの、」
もし、その女の子が自分だといったならば、あなたはどんな顔をみせてくれますか。
「そ、その女の子のことですけど……」
そんなことを思いながら、ティアは絵本を胸に抱いた。ぎゅっと抱きしめて、願う。
「思うんですけど……」
どうか、思い出して。私のこと。
「それ……たぶん、私です」
「…………………………」
そうして、ちらりと見上げた彼の初めてみるその表情を。
いつもとは違う、驚きに口をあけたヒースを。
今度こそ――――ティアは一生、忘れないだろう。
ヒースの口元がゆるゆると閉まっていく。そして、微かに震えた声が零される。
「……正義の味方の仮面、覚えているか」
こくん、とティアは頷いた。
「助けてくれたおにいちゃんが、持ってました……。それで、私その人が本物だと思って……」
「その他には?」
「綺麗な小瓶に入ったキャンディ、もらいましたよね。お母さんが迎えに来てくれるまで、たくさんお話して……どうやった正義の味方になれるのか、って訊いた気がします」
今までの会話で出なかったことを言えば、ヒースが息を呑んだ。
そして、わずかな沈黙の後。
「は、はははははっ! そうか、君か! 君だったのか!」
こくこくと頷くティアの頭を、ヒースは乱暴に撫でつけた。
「また会えるとは、思っていなかった……!」
「私もです……!」
そうし、互いに顔を見合わせた二人は、同時に笑い出す。
軽やかな声が、公園に吹く風にのって青空に舞い上がる。
「不思議なもんだな。ティア、ほかに何か思い出せるか?」
「はい! えっとですねー……――――」
お互いの思い出を小一時間ほど語りあい、やはり過去の出会いが間違いないことを確かめ合った後。
フランネル城へとゆっくりと去っていくヒースを、ティアは手を振って見送る。
その姿が見えなくなって。下げた視線の先には、正義の味方の絵本がひとつ。
これが運んでくれた不思議な縁は、過去だけでなく現在までも繋がっていた。
いつの日にかもっと深く結ばれたなら、ティアの一番大きな思い出を、彼に伝えられたらいいと思う。
あなたが――――私の初恋の人です、と。
そうしたら、今日みたいにヒースはすごく驚いた顔をするだろうか。
そのときのことを想像して、ティアは笑った。
そして。
きゅ、と思い出と自分の気持ちを抱きしめるように絵本と荷物を抱えて、ティアは我が家へと駆け出した。
ぴょこんと心に芽生えた、ヒースへの恋心にはいまだ気づかぬままで。