「ティアのやつ、どこいったんだ……」
ぶつぶつと呟きつつ、レクスはローアンの街入り口から、西方面――すなわち、自宅のある占い横丁へと歩いていた。
手にはひとつの紙袋。中には、ティアが好きだといっていたパンがはいっている。この前「久しぶりに食べたいな」、などと呟いていたから、せっかく人が手に入れてきたというのに。ティアの家のある下町近辺も探してみたが、その姿は見当たらなかった。レクスが苦手とするグスタフの道場にもいなかった。もしかしたら、陽だまりの丘にでも、昼寝にいっているのかもしれない。
往々にして、探しているときに探しものがみつからないことは多いもの。
夕方ぐらいにでもなれば、さすがに戻ってくるだろう。
その間、釣りでもして晩飯の調達でもするか――、そんなことをレクスが考えつつ、ゆるい曲がり道に差し掛かった頃。
道の脇に生えている木から、何かが駆け下りてきた。
舞い落ちる木の葉を縫うようにして、ぴゅーっと小さな姿が道の向こうへ消えていく。
「あ?」
それは仔と呼ばれる範疇から少し抜け出したくらいの、黒猫だった。
レクスがその姿をなんとなく追うと、横手から同じような毛色の母親らしき猫が現れた。仔猫に駆けより、安心したように寄り添ってくる我が子を愛しげに舐めている。微笑ましい光景だ。
す、と母猫が顔をあげる。金色の瞳を細くして、レクスに向かって「にゃあ」とひとつ鳴くと、子を連れて茂みの向こうへと姿を消した。
「なんだ……?」
まるで礼でもいうようなその様子に、はて、自分は餌を与えたことでもあっただろうかと首を捻る。もちろんそんなことした覚えなんてない。心優しいティアならば、そうしたこともあるだろうが。
ったく、ほんとにどこいっちまったんだ。
ふと脳裏に浮かんだ親友の、こちらの力が抜けてしまうようなあの笑顔に、レクスは心の中で悪態をついた。
オレの手をここまで煩わせやがって、会ったらただじゃおかねえ。
ぶつぶつと呟くレクスが歩きだそうとしたとき。
はらり、木の葉がその視界を横切った。がさがさと、上から梢の揺れる重たげな音がする。まだ猫がいるのか、とレクスは頭上を振り仰ぎ――
「はあぁあ!?」
ぎょっと目を見開いて、思わず叫んだ。
「レ、レクス~……」
細い枝にしがみつき、消え入りそうな情けない声をあげているのは、レクスが探し回っていた少女――ティアだった。
「な、な……!」
思考が現状についていかない。なんでそんなところに、困り果てたような、今にも泣き出しそうな表情をしたティアがへばりついているのか。
ただわかるのは……へっぴり腰のティアが、そこから降りられなくなっている、ということだった。
「バ、バカっ! なにやってんだよティア!」
ようやく頭が理解したこの事態に、レクスは反射的に声を荒げた。むぅ、とティアが可愛らしい顔を羞恥に歪めた。
「なっ! バ、バカじゃないもん、鳴いてる猫がかわいそうだっただけだもん!」
やけくそ気味に樹上から落ちてくる声に、レクスはピンときた。おおかた、さきほど通りを走っていったあの猫が、今現在ティアのいる場所にいて。にゃあにゃあと心細そうに鳴いていたのだろう。それを助けようとしたに違いない。
「そんなこといったって、あいつ勝手に降りてったじゃねーかよ!」
お人好し過ぎるティアの行動は、レクスには計り知れない。どうして猫にまで身体を張って助けの手を伸ばそうとするのか。ほうっておけばいいものを!
「だって、降りられなくなってると思ったんだもん!」
「降りられなくなってるのはおまえのほうだろ!」
間髪いれずそう切り返す。本当にどうしてこんな状態になりえるのか。レクスは頭を抱えたくなった。
「うぅ~」
レクスの指摘がもっともだと思ったのか、それ以上反論できる余地がないのか、真っ赤な顔をしてティアは黙り込んだ。
ひゅうと乾いた風が吹く。間の抜けたこの場に、レクスは深々と息をついた。
「はあ、まったくなにやってんだか」
がしがしと頭をかいて、レクスは地面の上に手にした紙袋を下ろすと、ティアの下へと移動した。そして、「ほら」といいながら両手を広げてみせる。涙目になっているティアが、きょとん、と目を瞬かせた。
「そこで枝にぶら下がって手を離せ。ちゃんと受け止めてやるから」
促すように、広げた手を少し上にあげる。ティアの眉が、へにゃりと下がる。
「……お、落っことしたりしない?」
心配そうなその顔に、レクスは小さく笑った。
「親友を疑うってのか?」
「……ううん。私、レクスのこと信じてる」
ふるふるとティアが頭振って、そういう。僅かにだが浮かんだ笑みとその言葉に、レクスは照れくささを覚えた。
だが、それをティアには知られてなくなくて。わざとぶっきらぼうさを装って、レクスはティアを急かすように腕を動かした。
「じゃあ、さっさとやれよ。落としたりなんかしねぇから」
「う、うん……わかった」
のろのろとティアが動きだす。枝に縋り付いていた手を移動させ、滑らないように気をつけながら、ゆっくりと枝にぶら下がっていく。みしみしと、軋むような音が、不安を誘う。そうして、完全に足の先が地面を向いたとき。
「あ、スカートの中、みちゃだめだからね!」
はっと思い出したように、ティアが叫んだ内容に、レクスは疲れきったように肩を落とした。そんなことを心配するのは女の子らしいといえばらしいけれど、気にするほどのことだろうか。そもそも、真っ黒のタイツを穿いていれば、下からみあげてもほとんどわからない。すらりとした細い足の形は、わかるが――いやいや。そんなこといま考えてどうする。
「んなもんみねーよ! っていうか、そんなこというくらいならさっさと手ェ離せって。風が吹いたらスカートめくれるぞ? オレはそれでもいいけどな?」
からかうようにいうと、ティアの顔が強張った。あわせたように、みし、とひとつ音が聞こえる。細い枝では荷重に耐えるのも限度があるのか。
「うう……。でもやっぱり、怖いよ~」
半泣きになっているティアにいう。
「じゃあ、オレの合図で手を離せ。ちゃんと、オレはここにいる」
「う、うん」
きゅ、と唇を引き結んだティアと視線をあわせて頷きあう。
「よし、じゃあいくぞ? いち、にの――さ、――」
さん、と言葉を発する瞬間、
ばきん
と、乾いた音があたりに響く。もともと弱かったのか、腐っていたのかわからないが――ティアがすべてを預けているその枝が、根元から折れた。
「っ!」
もともと離すつもりであったティアの手が、がくりとさがった拍子に枝から外れる。急に支えを失ったティアの瞳に、驚きと恐怖が一瞬にして宿り。次いで、ぎゅうと閉じられるのを、レクスは確かにみた。
「ティア!」
手を伸ばす。待ち構えてはいたけれど、すっかり虚をつかれた。
でも、この距離ならばなんとかなる。レクスは足をふみ出し、顔をあげた。降る華奢なその身体を受け止める。ずしんと、腕に人一人分の重さが加わって、思わず奥歯を噛み締める。自分とティアを支えるために、レクスは足の裏に力を入れて踏ん張る。顔をあげる。
細い腕が肩から首にかけて纏わりついて。
――唇に、何かが触れた。
一瞬にして、頭の中が真っ白になる。近すぎて焦点の合わぬ視界の中、ティアの明るい髪の色だけがやけに鮮やかに揺れている。瞬きひとつほどの時間が、とてつもなく長かった。レクスの、身体の均衡が崩れる。
どしゃり、音をたててしりもちをつく。少女の全体重を受け止めながら、わずかに離れたものの、それでもなお間近にあるティアの顔を、レクスは限界までその赤い瞳を見開いて見上げた。
ティアもまた、大きな眼をさらに大きくして、レクスをみつめている。吐息が交じりあう。互いの瞳に、互いだけが映っているのが、確認できるその距離。
唇が、赤い。そんなことをぼんやりと考える。
そう、そして自分に触れたそれは、ひどく柔らかくて――
!?!?!
夢の中に突き落とされていたような感覚が、ぱちんと泡となって弾けて消えた。
「う、うわあっ!?」
「きゃあっ!」
同時に声をあげ、目の覚めた二人は磁石の両極を合わせたように、離れた。
ティアと距離をとったレクスは、いつの間にか大きな鼓動を打つ心臓を、服の上から無意識のうちにおさえた。
今のは、なんだ。
触れた。くっついた。その感触が、まだ残っている。
やけにあたたかかったそれの記憶が、くるくると螺旋を描いて心の大切なところにしまわれていく。それを自覚したレクスは、かあああっと頬を染めた。
みれば、ティアの顔も真っ赤だ。
「い……いま……」
視線が、何かいおうとするティアの唇にしかとどまらない。艶めいた、あの可愛らしいものが、ついさっき、自分のものに触れた。
間違いない。
ぶわぁっと顔だけでなく、全身が熱を帯びた。手の平に汗が噴出す。
とてつもないいたたまれなさに、自分が小さくなって世界から消えてしまいそうだった。それを振り払うように、レクスは、がばっと身を起こして立ち上がる。
「――は、はははは! ほ、ほんと鈍くさいな!」
せわしない仕草で、ズボンについた土を払う。おいていた紙袋を拾って、ぎこちなく視線を向ける。まだ地面に座っているティアが、なんともいえない顔でみあげていた。
「あ、うん、ほんとごめんねっ……、私ってばほんとだめだよね――あ、あは、あははは!」
そして、ティアもまた、勢いよくたちあがる。わずかにめくれたスカートを整え、乱れた髪を手ぐしで梳いておろす。
そうして、不自然なほど明るく笑いあい――二人は、ふいに沈黙すると互いに視線を別方向に逸らした。
ちらと横目にみたティアは、もじもじと、手をすり合わせている。眦を彩る紅色が美しいと、ふと思った。
ああ――間違いない。キスをしたのだ。この、少女と。
いやいやいやいや!
否、キスといえるようなものじゃない! あれは事故だ。そう、単なる事故だ!
レクスは、必死に自分へとそういいきかせた。
だが思考が茹っていく。ぼこぼこと粟立つ蒸気が、頭の天辺から噴出しているような気がした。
そんなことを考えていると、視線に気づいたのか、顔をあげたティアと目が合った。
「「!」」
ぎくり、互いに身体を震わせる。
もう一度触れてみたいと思う心は心から蹴りだし押し出し振り払い、レクスはぎくしゃくと歩き出した。
「じゃ、じゃあな、ティア。もう余計なことに首突っ込むなよ!」
「あ……!」
何か後ろ髪を引くような声をティアが漏らす。さっさと家に帰って、冷たい水にでも顔を突っ込みたいというのに!
なのに、どうして。
「レ、レクス待って!」
なんでここで呼び止めるんだよ!
縋るような声で名を紡がれて、そのまま立ち去ることなどできようはずもない。
ぎぎぎ、と油の切れたからくり細工のように振り返ると、表情の抜け落ちたようなティアが立っていた。
だが、それも一瞬のこと。ふわりとその顔が綻んでいく。淡く色づいた蕾が花開いていくような、そんな錯覚に陥って、レクスの思考はさらに多様な糸が絡み合うように混乱をきたす。何もいえずに黙っていると。ティアの、レクスに触れたあの唇がやんわりと開いた。
「たすけてくれて、ありがとう」
そういって、はにかむように微笑んだティアが、色づいた空気を纏ったまま、くるり背を向けて駆けだす。ティアの後姿が、あの猫のように曲がり角の先に消えて、ひゅうと風が吹いたあと。
レクスは口元に手を当てた。
「なんなんだよ……」
抑えた唇には、まだ、あのぬくもりが残っているような気がして、ただ息を吐き出す。
霞むように消えていく感触が、なぜか惜しいと思った。
ただ、幻でないことだけは、確かなことだった。
そして、意識せずに力のこもった手がぶら下げる紙袋から、パンの芳しい香りが立ち上ってくる。そうだった。そもそもこれを渡すためにティアを探していたのではないか。だが、いまさらどうしたらいい。追いかけるなんて、もう無理だ。そんな精神力は残っていない。なんだかもう、この場所で膝を抱えて黄昏てしまいたい。
自分の迂闊さを呪えばいいのか、幸運に感謝すればいいのか。
梢を揺らし、ローアンの街の片隅を駆ける風の中、立ち尽くす哀れな少年に、それを判断する術はない。
どこかから「にゃあ」と小さな鳴き声がひとつ、聞こえた気がした。