「うーん……」
可愛らしく眉間に皺を寄せて、ティアは細く唸っていた。
その目の前には、きらきらと輝いて見える、数々の品。
小さな貴石をあしらった髪飾りや耳飾り。磨かれて曇りのない鏡面の裏側に、繊細な模様が描かれた手鏡。ちょっとした小物をいれておくための、木彫りの小箱。愛らしい鳥の刺繍が施されたハンカチ。見惚れながら、ほう、と息を零し。次いで吸い込んだ空気には、異国から持ち込んだという芳しい香の匂いが混じっている。
青空の下で開催されている市の片隅にある露店の上には、まだまだたくさんの商品が並べてある。そのどれもが、年頃の少女のために作られたもので、ティアの興味をそそってやまない。
その中でもとりわけティアが気にしているのは、おしろいや紅といった――いわゆる化粧品だ。容器も様々で、施された装飾が可愛い。
とくに目を引くのは、淡い薄紅の薔薇を思わせる色合いの口紅だ。手のひらにおさまるくらいの小さな円形の容器に、筆とおぼしきものが添えられ売られている。
ちらりと値札をみてみる。買えない価格では、ない。
どうしよう……と、ぼんやりと考えたとき。
「どう? 欲しいもの、あったかしら?」
さきほどから悩むティアの様子を見守っていたらしい女店主が、見透かしたような言葉とともに、くすくすと笑った。
その拍子に、みにつけた首飾りがしゃらりと鳴る。ふわりと漂ってくる甘い香水の匂いと、艶混じりの大人の笑みにあてられたように、ティアは頬を染めた。
「あ、えっと、どれも素敵で……全部、欲しいくらいです」
にこりと笑いつつ、本心を言葉にする。
諸国を回りながら商売をしているという、さきほど他のお客とのやりとりの合間に、耳に入ってきた話を思い出す。
行く先々で商売をしつつそこで仕入れをして、それをもってまた別の国に商売をしにいく――そんな商団の一員であるといっていった店主が、ころころと笑う。
「あら、ありがとう」
細い指の先に、綺麗に整えられた爪を持つ手が、店主の豊かな亜麻色の髪をかきあげる。ぱちん、と目配せをされて、ティアはさらに真っ赤になった。
「あなた可愛いわね」
その初心な様子がことさらおかしかったのか、店主の笑みはおさまらない。
「い、いえっ、そ、そんなことは……」
やや視線を下げて、ティアが腹の前で組み合わせた指先を、もじもじと動かすと。手のひらを頬に置いた店主が、楽しそうに目を細めて首をかしげた。
「でも、可愛いだけじゃ嫌なのよね?」
「!」
ティアは驚いて顔をあげた。
なんで? どうしてわかったの? そう思う心が、顔にそのままでていたのか、店主が噴出す。
さきほどから笑われっぱなしで、ティアは段々と恥ずかしくなってきた。なんだかもう、逃げ出したい気分だ。
「綺麗っていわれたいんじゃないの?」
「ど、どうし……」
掠れた声で、ようやくその言葉を搾り出す。
「だって、さっきからこればかり見ているでしょう?」
「っ、」
そういって店主が取り上げたのは、ティアが先ほどからみていた口紅。確かに、ティアはそれをずっと気にしていた。
くるくると器用にそれを指先で弄びながら、店主がティアの顔を覗き込んでくる。
「そうね。私の見立てでては――恋人のためね?」
どう? と、きらりと目を光らせ、ずばりと言いあててくる店主に、ティアは頬を引き攣らせた。この人、実は露店商じゃなくて占い師か何かなんだろうか。
「な、なんで……!?」
焦って上擦るティアの声を受け、店主はふふんと勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「だてに商売をしているわけじゃないもの。これまでだって、あなたみたいな女の子、たくさんみてきているのよ?」
「あ……!」
そうか、とティアは納得した。確かにこういった商品を扱うのなら、ありえることだ。まあ、そうでなくとも客の様子をしっかりとみることは、商売の基本なのだろうけど。
そして、こんな風に悩むのは自分だけではないのだと、ちょっと安心感を覚えたティアは、ほうと息をついた。
ならばもう、別に隠すようなこともないし、恥ずかしがることもないだろう。だって、ばれているんだし。きゅっと、細い指を絡めて結ぶ。
「いわれるとおり、なんですけど……いいのかなって」
おずおずと、言葉を重ねる。きょとん、と店主が切れ長の瞳を瞬かせた。
「どういうこと?」
「だって、私、子どもっぽいから」
ほっそりとした手足と身体は、少女らしい柔らかさはあっても、大人の女性には程遠い。顔立ちだって丸みを帯びていて、店主のような優美さはない。
それは、道端に咲くひっそりとした花と、観賞されるに値する大輪の花ぐらいの違いのように、ティアには思えるのだ。
少女と大人の境目にいる自分には、なにが相応しいのか相応しくないのか、なにが似合うのか似合わないのか。どうしたらいいのか、わからない。でも、なにかしたい。
そんな行き先の見えない熱意だけは伝わったのだろう。
「そんなことないわ。ようは、自分がどうしたいのかよ? 綺麗になりたいっていうのは、悪いことじゃないし、女の子ならそう思って当然だもの。子供も大人も関係ないわ」
微笑ましそうな顔をして、店主がティアの疑念を払拭するように言う。
「でも……」
むむむ、とティアは眉根を寄せる。
店主が持っているその口紅は欲しいけど、無理に背伸びをしたって似合わないかもしれない。似合わないものをつけて、あの人の前に立ちたくない。笑われてしまったら、立ち直れない。
そんな風に、心情を吐露しようとしたとき。
「随分と悩んでいるようだね」
突如、背後からかけられた声に、ティアは跳びあがりそうになった。
だって、それはよく知っている声だったから。
勢いよく振り返る。
そこには想像通りの人物が立っていた。
いつもの、その地位にふさわしい出で立ちではなく、街のどこにいてもおかしくはないような普通の格好で、帽子を少しだけ目深に被って。でも、滲み出る品や育ちのよさは隠しきれていない――ヴァイゼン帝国皇子、ヴァルド。
ティアの、恋しい人だ。
「っ、おう……!」
皇子! と叫びそうになったティアは、慌てて声を飲み込む。人々がたくさんいる市場でそんなことを入ったら、大きな騒動になるのは目に見えている。
「ちょ、ちょっとこっちに……!」
失礼かも、と思いつつヴァルドを隅にひっぱっていく。くすくすと店主が笑っているが、今は構う余裕がない。
「どうしてここに!?」
「今から、ティアに会いに行こうと思っていたんだ。こんなところで会えるなんて、やはり私たちは運命で結ばれているようだね」
と、そんなことを楽しそうに嬉しそうに言いながら、手をそっと持ち上げて挨拶のように指先に口づけを落とすヴァルドを、ティアは頬を染めつつ軽く睨んだ。
「もう。また抜け出してきたんですね?」
「大丈夫。ちゃんと仕事は終えている」
小声で、ひそひそと言葉を交わす。悪びれたところなど微塵もない。ヴァルドはティアに嘘をつかないし、己の責務をよくわかっているから、本当に大丈夫なのだろうと思うのだけれど。
ああ、またヒース将軍が叫んでいるんだろうなぁ――と、師匠想いのティアはそう思いつつ。もうどうにもならないことを知っているので、こっそりとため息をつく。
「ところで、ティアはあの店で何をみていたんだい?」
「あっ!」
すたすたと、先ほどとはまた違う理由で困っているティアの横をすり抜け、ヴァルドが露店へと近づいていく。慌てて後を追いかけるも、店主の手が伸ばされるほうがはやい。
「彼女がみていたのはこれよ」
ひょい、と店主がヴァルドに向かって差し出したのは、あの口紅だ。ティアが遮る前に、ヴァルドがそれを手にする。
まさか皇子から取り上げたり奪い上げたりする真似などできるわけもなく、おろおろとしている間にヴァルドがしげしげとそれを品定めしていく。
「これは……口紅?」
「ええ。男性からの贈り物にも最適よ?」
にこ、と意味ありげに笑う店主に、ヴァルドもまた同じような笑みを浮かべた。
「そうだね。では、これをいただけるかな」
「はぁい、ありがとうございます」
即、購入を決めてしまったヴァルドに、ティアは「きゃー!」と小さな悲鳴をあげた。
別に買ってもらいたいわけじゃなかったのに! どうしてこうなるの!
「ちょ、ちょっとまってください! おう、じゃなくて……ええっと、えっと……!」
皇子、とも。ヴァルド、とも言えず。なんて呼ぶべきか、まず購入をとめるべきか、とティアが右往左往しているあいだに、さくさくと取引は成立していった。
「ああっ……」
貨幣のやりとりの後、口紅はヴァルドの手の中へ。
「はい、ティア」
「……あ、ありがとう、ございます……」
そして、それは当然というようにティアの手へと渡ってくる。
買ってもらった申し訳なさはあるけれど、欲しかったものを恋人から贈ってもらえるというのは、やはり嬉しい。素直に受け取ると、ふわりと温かい気持ちに包まれる。
ずっとずっと大事にしよう、と。ティアは感無量になりながら、それを握り締めた。
あ、そうそう、と店主が笑いながら手招きする。
「ちょっとこっちにいらっしゃい。せっかくだから口紅のひき方、教えてあげるわ」
「ティア、教えてもらうといい。さすがに私じゃ、わからないからね」
「あ、はいっ」
ティアは招きに応じ、露店の隅へとお邪魔する。荷物の合間があけられて、そこへ座る。ティアの顔をやや上向かせた店主が、にやりという表現がぴったりな様子で、笑う。
「いいわね、とっても素敵な恋人」
「はい!」
えへへ、とティアは蕩けるように笑う。だって本当にそのとおりなのだから。自分にはもったいないくらいの、素敵で格好良くて優しくて。ちょっとだけ我侭なところもあるけど、それは心を許した人にしか見せないことを知っている。
「あの彼のために、綺麗になりたいって思ってたのね」
こうして、こう。と、唇の輪郭をとり、そうして色を唇全体に筆で紅を乗せていくのだと教わりながら、ティアは頷いた。
「これ、私に似合うかな……」
心配そうにそう呟くと、店主が笑う。
「大丈夫。やり方は覚えたかしら? とりあえず今日は私がやってあげるわね」
「はい」
筆に紅をとった店主にすべて任せる。唇に触れる筆の感触が、ちょっとだけくすぐったい。
塗れたら、落ち着かせるために紙などでそっとおさえるのだという最後の仕上げについて教わり、ティアは店主から差し出された紙に唇を柔らかに押し付ける。ゆっくりと離すと、白い紙面には自分の唇の形をした淡い跡がついていた。
「恋する女の子はね、世界で一番可愛いものよ――そして、最高に綺麗なの」
ぱちん、と容器の蓋を閉じ、紅を返してくる店主の言葉に、ティアは目を細めた。
まるで、魔法にかけられたように、それをただ信じたくなる。そのとおりなのだと、なにも考えずに頷いて、自分の力にしたくなる。
「ほら」
手鏡が渡される。紅を上着のポケットにしまったティアは、恐る恐るそれを覗き込む。
「……!」
覗きこんだ鏡の中には、色づいた唇をした自分がいる。いつもよりずっとずっと鮮やかではあるけれど、いやな派手さではない。紅をただ塗っただけなのに。まるで、自分ではないみたいだった。なんとも不思議な心地がする。
「ふふ、頬紅はいらないくらいね」
「う~……」
頬を突かれたティアは、恥ずかしさに瞳を伏せた。興奮に頬が紅潮したのを、からかわれているのがわかったからだ。
「ほら、彼がお待ちかねよ」
ぐい、と店の奥から外へと連れ出される。
周囲の露店へ視線を向けていたヴァルドが、二人に気付く。
「あ、あの……どうでしょうか」
おずおずと、ティアは店主の背後から前へと出た。
紅玉をはめこんだような瞳が、わずかに開いたと思ったら、まろやかに微笑む。
「うん、似合っている。綺麗だ、ティア」
「……!」
素直な賞賛、言って欲しかった言葉に、ティアは顔を輝かせた。
ありがとうございます、とティアは消え入るような声でこたえた。ぷるぷると震える指で、嬉しくて弾けとびそうな心臓を抑えるように、胸元で手を重ねる。
初々しさ溢れる恋人たちのやりとりに、満足気な表情をしている店主へ、ヴァルドが視線を流す。
「では、私たちはこれで失礼するよ」
「ええ、またご贔屓に」
「はい! ありがとうございました!」
会釈する女店主の声にティアは元気に手を振って、ヴァルドの後を追う。
そのまま市が開かれている場所を抜けて、下町へと向かう。
市に行くもの、市から帰るもの。様々な人が行きかう路地で、ティアは隣を歩くヴァルドへ、ちらちらと視線を送る。
「……あの、ありがとうございました。結局、プレゼントしていただいて……」
「いや、いいんだよ。気にしないでほしい」
にこ、とティアと視線をあわせたヴァルドが微笑む。
「そんなティアをみられたのだから、私のほうが得をしているようなものだよ」
綺麗だと、そういってもらえた自分のほうが、よほど得をしているとティアは思うのだが。ヴァルドがそういうのなら、そういうことにしておくべきだ。
ティアは、心からの笑みで、ヴァルドの気持ちに応える。
そうして、ごく自然に手を繋いだ二人は、ゆっくりと道を歩いていく。静かで甘い恋人同士の空気が二人の間に生まれる。こうした時間が、ティアはとても好きだ。
「そうそう。ティアは、男が口紅を贈る理由って知っているかい?」
「えっと、理由ですか? そんなものが、あるんですか?」
そういえば、店主と皇子はなんだか意味ありげな様子で、ティアにはよくわからぬことを言っていた。もしかしてそのことだろうか?
「その様子じゃ、やはり知らないみたいだね」
小さく笑ったヴァルドが、秘密を語りたくて仕方のない子供のような顔をする。
「知りたい?」
「はい」
贈ってもらった自分が知らないというのも、それはそれでおかしな話だ。仲間はずれにされるのは嫌なので、ティアは頷いた。
それはね、といいながらヴァルドが手を伸ばしてくる。腰に手が回る。ぐっと引き寄せられる。ヴァルドの腕は細いのに、やはり男の人なのだと意識させるような、力強さ。
綺麗な顔が当たり前のように近づいてきて、かあ、とティアは頭に血を昇らせた。
「あ……!」
だめ、と言う間もなく、ふわりと唇が重なった。優しくて強引な口付けに、息が詰まる。頭の中が真っ白になる。数秒、思考が停止する。
こんな、誰がみているかわからぬ場所で、こんなことをするなんて!
なんとか遠い彼方に意識を放り出すことを堪えたティアが、咎めるように押し返す前に、ヴァルドがあっさりと離れていく。
一気に空気を吸い込みながら見上げたヴァルドの唇が、ほんのり色づいている。ティアのそれと、同じ色。
「な、なに、なにを……!」
理由を教えてくれるといったくせに、なぜこんなところでこんなことをしてくるのか、意味がわからず、ティアは頬に朱を散らしながら、ぽかぽかとヴァルドの胸の力のはいっていない拳で叩く。大した効果もないその攻撃を受けながら、ヴァルドが楽しげに笑う。
「理由が知りたいと、ティアがいったんじゃないか」
「っ、」
すい、と耳に寄せられたヴァルドの唇が吐息混じりに言う。
「男が口紅を贈る理由は、『少しずつ返してほしい』っていうことなんだ。こういう風にしてね」
これからもティアから返してもらえるのを、楽しみにしているよ――と。上機嫌にヴァルドが言う。
「お、おう、おう、じっ……!!」
その艶めいた声と視線に危機感を感じたティアは、ぱっと自分の唇を両手で隠した。
ははは、とヴァルドがその様子を見て、珍しく声をあげて笑う。
「さ、いこうか」
「もうっ!」
何事もなかったように、ティアの腰を抱いたまま歩き出すヴァルドに流される。寄り添い、言葉を交わしながら歩いていく。
真っ赤になった顔を俯かせながら、しばらく口紅は使わないようにしようと、ティアは心に誓う。
でも、でも。
この口紅をひけば、ヴァルドから口付けをしてもらえるのは――ちょっと、いいかも。
ティアが、とろりと熱く胸を満たす感情を持て余しながら、そんなことを考えた瞬間。
ポケットに入った約束の赤い証拠が、冷めない熱を、帯びたような気がした。