Sss.2周年企画作品 とと様よりのリクエスト
目の前の光景に、ヴァルドは何をするでもなく、ただ、立ち尽くした。
四大流派の一派である東剣のグスタフの道場の、さらに奥にある家の前に、ヴァルドの赤い瞳は釘付けだ。
そこにいるのは、白い花を帽子につけた少年と、ヴァルドが会いたいとその姿を探していた少女――ティアだ。
遠くからでもわかる。明るい笑顔で親しげに言葉を交わす様子から、二人がとても仲がいいのだろうということが。
彼は、確か道場主の息子だったはず。その名前を思い出そうとしたとき、ティアが彼に向かって何かを差し出した。
困ったような、照れたような顔を少し伏せて、何事かを少年に言っている。頬を染めたその姿は愛らしく、ヴァルドの記憶に鮮やかに焼きつく。
ティアの言葉に笑顔で頷いた少年が、差し出されたものを受け取る。ほ、とした様子で顔をあげ、また何か声をかけるティアに対し、少年は僅かに体をずらして家の扉をあけた。にこにことした笑顔のまま、ティアは当たり前のように家へとはいっていく。その後に少年が続き。
扉は、静かに閉じられた。
二人の姿が消えて、ヴァルドは自分がとても息苦しいことに気付いた。
ゆるゆると肺の中で固まっていた空気を、なんとか吐き出す。どうやら、呼吸することを忘れていたらしい。
それだけのせいだけではなく、ひどい眩暈がした。
ティアは、明るい。そして優しい。いつも一生懸命で、そんな姿が可愛らしい。いじらしい。だからこそ皆に慕われている。彼女もまた、慕ってくれる者たちに、分け隔てなく接する。
ヴァルドは、ティアにはそのままでいて欲しいと思う。それは素晴らしいことだから。
つい先日、恋人になったばかりのティアのよさを、潰したくはない。その行動を制限するようなことは、したくない。
だけれど、今のような姿をみれば――たとえようのない不安や焦燥に苛まれるのも、事実だった。自分以外の誰かと、ああして親しげにされると、つらい。
どろりと胸に込み上げるものを、ヴァルドは直視できない。それは汚く、醜いものだ。
ついつい、もしかして、ティアが自分のもとから去ってしまうのではないかと、彼女の気持ちを疑ってしまう愚かな考えが浮かぶ。ゆっくりと頭をめぐらせそれを振り払うものの、かわりに罪悪感が全身に広がっていく。
ふ、と息をつき、ヴァルドは変装用の帽子を目深に被りなおした。そうして、くるりと踵を返す。
当初の目的だったティアの家にいっても、彼女はいない。ならばもう下町に行く必要がない。
いつもの鎧を脱いで簡素な服に身を包んだヴァルドは、身軽に階段をあがっていく。それに反して心はひどく重いが、それを知る者はいない。
楽しげに人々が行き交うローアンの街並みの合間。
そこからみあげた夏の青空に、なんだか、泣きたい気分になった。
「――というわけなんだ、ヒース」
「はあ、そうですか」
せつせつとお昼近くに起きたことを情感一杯に語ってみるものの、信頼のおける優秀な部下は書類の束をめくる手を止めることなく、かつ、ヴァルドを一瞥することもなく、適当な相槌をうっている。なんのことわりもなく城を抜け出したことを棚に上げての発言なのだから、仕方がないかもしれない。しかし、もう少し親身になってくれてもいいのではなかろうか。
「つめたいな」
恨みがましいような色を滲ませて、ついそうこぼすと。
「……それ以外にどう返せとおっしゃるのですか」
なんかもう、どうしろと。
ようやく振り向いたヒースの精悍な顔には、そんな心の声がありありと書いてある。
主君と弟子の恋模様に巻き込まれた哀れな将軍は、困ったような顔をして頭をひとつ掻いたあと、次の書類を手に取りながら、おもむろに口を開いた。
「弟子の自慢をするようであれですが、ティアはとても優しい性分ですので、それは仕方のないことなのでは? 大体、ティアとてちゃんとわきまえていますよ。皇子もわかっておられるのでしょう?」
可愛くて優秀な弟子を持った師匠としては、ごく当たり前の回答。そういうティアだから、好きになったヴァルドの気持ちも、よくわかっているからこその言葉。
図星である。
子供の頃のように唇を尖らせたい衝動にかられるが、そこは帝王学を学び、民や貴族の模範たるべき存在として育てられてきた皇子である。
ため息をひとつつくだけに留めたヴァルドは、今度はヒースを静かにねめつけた。
「だいたい、君だってひどいだろう」
「は?」
いきなり矛先を突きつけられて、ヒースが間の抜けた声をあげ、ぽかんと口を開いた。まったくもって心あたりがないその様子に、ヴァルドは苛立ちを覚えた。
「忘れたとはいわせないよ。数日前にティアに抱きつかれていたじゃないか」
「はあ?!」
ヒースの頬が引き攣る。
「フランネル城の東側廊下で……」
そういって、ヴァルドは昨日に目撃したものを脳裏に描きつつ、語りだした。
それは昨日のお昼過ぎ。
カレイラ王ゼノンバートに謁見後。ヴァルドは自室にもどるとき、長く赤い絨毯の先、すこし遠くに愛しい少女の後姿をみつけた。
嬉しいと思うと同時に、それは自分がみせた都合のよい幻かと思った。いつでも想っている相手なのだ。そういうことがあってもおかしくはない。
「ティ……」
だからそれが本物なのかと確かめるべく、その名を口にしかけたとき。その姿が、一足飛びに遠ざかった。そして。
「ヒースしょうぐーん!」
そんな叫びとともにティアより先を歩いていた大きな人影に、抱きついていくのがみえた。
「ぅぐっ!?」
飛びつかれた瞬間にあがるくぐもった男の声。それを発した長身の男――ヒースが、仰け反る。すぐに体勢を整えたと思ったら、背にティアをぶら下げたまま叫ぶ。
「こらティア! いきなり飛びつくなと、何度言えば……!」
「会えてよかったー! ご相談があるんです!」
ぎゅううと、太い首に力いっぱい抱きつきながら、ヒースの言葉を遮って、大きな声でティアがいう。
「人の話を……!」
きけ、といいたいのだろうが、切羽詰ったようなティアには届かない。
「ここじゃ、ちょっとあれですから、こっちにきてください!」
するりとヒースの背から下りたティアが、小さな手のひらを大きな背に添えた。
「……」
何を言っても無駄だと悟ったのか。
肩を落としたヒースをぐいぐいとティアが押し、西回廊の方へと二人は去っていく。いつのまに、師匠と弟子の力関係が逆転したのだろう。
いや、それはどうでもいい。
湧き上がっていた嬉しい気持ちが急激にしぼんでいく。むしろこれをどうにかしてほしい。
しかし、それを癒せるたった一人の少女は、男と連れ立って去ってしまった。
それをただ見送った自分も、それを追いかけるだけの気力が湧かない自分にも、ヴァルドはなんともいえない気持ちを抱いた。意気地なし。
腹立たしいのか、悲しいのか。よくわからないまま――ヴァルドは当初の予定通り、自室への道をふらりふらりと、辿ったのだった。
ヴァルドが目撃した一部始終の話を、静かにきいていたヒースが、ゆっくりと目を瞬かせた。
「みておられたのですか」
ヴァルドはひとつ頷く。どうやら気付いていなかったらしい。
「とても仲がいいようでなによりだね」
にこりと笑いながらヴァルドがそういうと、ヒースが苦笑した。清らかな本心からでた言葉でないことを、見抜いているのだろう。
「あー、いや、なんというか……。そもそも、あれは抱きつかれたというより、飛びかかれたというのであって、そのあともとくにやましいことなどは……」
「わかっているよ。わかって、いるんだ」
喉元を撫でつつ、誤解だといいたげなヒースの言葉を遮って、ヴァルドは頭を振る。
ヒースは、ティアが預言書を失ったとき、徒手流派という戦う術を教えた師匠である。だから、あんな風に相談事をもちよられ頼られるのも当然。当然なはずだ。
わかっているのに。
なにもかも、わかっているのに。
ティアに抱きつかれたヒースという光景に、怒りに似た感情が生まれる。
自分には、あんな風にしてくれることもないし、相談だってしてくれない。
ああ、この腹の底からわきあがる暗い気持ちをどうしたらいいのだろう。
まだ自分は魔王の支配下にあるのだろうか。それとも、もともとこんな感情を抱く素養があったから、魔王につけいられたのだろうか。
ヴァルドは絶望ににじり寄られるような感覚を味わいながら、ゆっくりと執務椅子に身を預けた。なんだか二日たらずのうちに立て続けにこんなことばかりが起こって、ひどく心が疲れてしまった。
人を愛することは尊いことのはずなのに。誰かを愛し、また愛されることは、幸福なことのはずなのに。
ティアに想いをうちあけ、受け入れてもらったときには、きっともっと幸せを知ることができると希望に満ちていたのに。
むしろ、今の自分は不幸のど真ん中。
そんなふうに己の現状を嘆いていると、なにかが動く気配がした。
物憂げに睫を震わせ視線をあげると、机の向こう側にヒースが立っていた。
「皇子が、自分にまでそう思われているとは……」
粗野ささえ滲むようなたたき上げの将軍は、丁寧な口調とは裏腹に、くく、と喉の奥で楽しげに声を震わせている。
少なくとも、ヴァルドのこの現状を馬鹿にしている風ではない。むしろその顔は、なにかを企む子供のよう。ヴァルドは、わずかに眉を潜めた。
「素直に言えばよろしいのではありませんか?」
なぜそんな顔をしているのか問いかける前に、ひょいとヒースが肩をすくめていう。
かまってもらえなくて。自分だけをみてくれないのが、寂しい――と。
ヴァルドは目を見開く。それはそのとおりの言葉だ。この現状を端的に表している。だけど。
「そんなのは、」
ヴァルドは口ごもる。
「そんなのは、格好悪いだろう?」
真実ではあるけれど、ティアにそんなところをみせたくなかった。
「そうですか? 気持ちはわからなくもないですが……」
ヴァルドの回答に、ますます楽しそうな気配を滲ませたヒースが笑う。
「まあ、不幸はいつまでも続きません。それは皇子が一番よくわかっておられるでしょう」
「……」
魔王に支配され、戦争を引き起こし、世界の滅びを加速させた。そんな自分にも、光はみえた。あたえられた。その導きが、すべて救ってくれた。
「それにティアはきっと、喜ぶと思いますがね」
ではこれが次の書類です、と問答無用にヴァルドへと突きつけながらも、ヒースがあまりにも嬉しそうに目を細めているので。
なにも言い返すことができなくなったヴァルドは、口を噤んだまま、その指を一枚の紙へとさし伸ばした。
それから数日間、どう過ごしていたかというと。
ひたすら仕事に打ち込んでいた。それ以外のことを、考える暇がないくらいに。
ちょうど、処理するべき案件や書類が多く重なり、事務仕事を苦手とするヒースも一生懸命だった。
それには、幾分か救われていた。そうでなければ、日がな一日ティアのことばかり考えて、ただただ時を過ごしていたことだろう。
ヴァルドは、今日もそんなふうに仕事漬けになるだろうと予想していた。そのほうがいいかもしれないとさえ、心のどこかで思っていた。
そうして執務室にきてみたものの。山のようにあった書類が――ひとつも、ない。
確かに昨日、ほとんど終わらせていたけれど、追加があるはずだった。
「おはようございます。ヴァルド皇子」
いつものように先に執務室につめているヒースが、いつものように言葉を発する。
ヴァルドは、その朝の挨拶に頷いて返した。
「ああ、おはよう。ところで、ヒース……」
応えながら執務机をしげしげと眺め、仕事のことを聞こうとした瞬間。
「今日の執務はありません」
それを遮るヒースの言葉に、ヴァルドは僅かに眉を潜めた。
「どういうことだい?」
「とりあえず、詳細はもうすぐ来る者からお聞きください」
至極当然なヴァルドの問いかけに、ヒースはなにもいわない。ただ、ちらりと部屋にある時計に視線を送るだけ。
追いかけるように、大きな時計の盤面を見遣る。かちり、と長針と短針が九時を指し示したところで、遠くから響いてくる足音。
「おはようございまーすっ!」
「!」
飛び切りの笑顔と、元気な挨拶。ノックも早々に飛び込んできたティアに、ヴァルドの心臓が跳ねる。ヒースがティアに礼儀を守るようお小言を零しているけれど、よく聞き取れない。それぐらい、一瞬のうちに混乱した。
会いたかったけど、会えないと思っていた。そうして、ついつい避けていた。
その相手である恋しい少女が、目の前にいるのだ。何も考えられなくなっても、当然。
「時間ぴったりだな」
「はいっ」
ひととおりティアを優しく諌めた後。よくできました、と親が子を褒めるように、ヒースがティアの頭をひとつ撫でた。照れたように、ティアがはにかむ。その手には可愛らしいバスケットがひとつ。
「では、これで失礼します。皇子、よい休暇を」
ヒースが一礼をする。
休暇?
今、ヒースは休暇といっただろうか?
顔をあげたヒースに、ヴァルドがその言葉を確かめようとした瞬間、にこりと微笑まれて言葉に詰まる。
「将軍、ありがとうございました!」
対して、それにお返しをするように、ティアが元気に頭を下げた。
「ああ。ではな」
ぽん、とそんなティアの頭をもう一度撫で、ヒースは悠々とヴァルドの執務室をあとにした。
残されたのは、ヴァルドとティアの二人だけ。なんだかわけのわからないうちに、おいていかれた。どういうことかわからない。
軽く混乱しているヴァルドの目の前で、執務机の隅にバスケットを置いたティアが、髪をなびかせ振り返る。
「えへへ。皇子、びっくりしました?」
そこにあるのは、期待を滲ませた満面の笑み。ヴァルドの心臓が、それをみただけで煩く跳ねた。
それを知る由もないティアが、軽い足取りで近寄り、見上げてくる。
ふいに、ヒースの言葉が脳裏に木霊した。
素直に言えばよろしいのではありませんか? ――寂しい、と。
これは好機かもしれない。こうして二人きりで、誰も居ない静かな場所で、向き合っている今ならば、自分のすべてを吐露できるような気がした。
意を決するように、一度奥歯を噛み締めたヴァルドは、ティアを真摯に見つめた。
「ティア、君に伝えなければいけないことがあるんだ」
「なんですか?」
視線を絡ませながら、ヴァルドは息を吸い込んだ。
「私はこれから、その、――格好つけるのを、やめようと思う」
精一杯の勇気をもってしての言葉に、大きな瞳がゆっくりと瞬く。
「ええっと。皇子、かっこつけてたんですか?」
一呼吸おいて、ティアが鸚鵡返しに問うてくる。深く重く、ヴァルドは頷いた。
どこがですか? と言いたげな、ティアの瞳を覗き込む。
「君が私の想いを受け入れてくれたとき、これからも君にはいつもどおりでいてほしいといったのに……。君がいろんな人と親しくしているのをみると……悲しくなる。寂しくなるんだ」
そうして、ローアンの街で見た、ティアと少年のやりとりや、城内でみかけたヒースとのことを、ヴァルドは罪人が懺悔するかのように語った。そのときに抱いた気持ちもすべて。すべて。
「――君の心を少しでも疑った私は、君にふさわしくないかもしれない。でも、こうしているとやはり私には、君が必要なんだと強く思う」
胸が苦しくて、ヴァルドは眉を下げた。
「みっともないけれど、そんなことをしないで欲しいと、君に言ってしまうときがあると思う。でも、それでも……」
どうかどうか。これからも自分のそばにいてほしい。
切々と訴える。
ぽかーんと口をわずかにあけていたティアが、はっと意識を取り戻したように瞳を揺らす。頬に朱を散らしながら、いう。
「……皇子、もしかして、その、」
「?」
「やきもち、やいてくださったのですか?」
「……うん。そういうことに、なるね」
ティアの指摘に頬が赤くなるのが、わかった。こういうとき、自分の白い肌が恨めしい。ティアに、雪のようだとほめられたことを思い出しながら、ヴァルドは睫を震わせた。
上手ないい訳など思いつかずに目を伏せると、ティアの顔が輝いた。
「~~っ! 皇子、可愛い!」
「か……?!」
そんな言葉とともに、ぎゅう、と力いっぱいにティアに抱きつかれ、ヴァルドは絶句した。
可愛い可愛いと、感極まったようにティアは繰り返すが、男であるヴァルドにしてみれば複雑極まりない。
どう反応するべきなのか思考をめぐらせるも、ふさわしいものは出てこない。そうしているうちに、ティアが離れた。
にこにこと、先ほどの比ではないくらいの笑顔で、いう。
「ええっと、デュランには確かにお菓子を渡しましたけど、いつもお世話になってるからとかそういうんじゃなくて……」
ちらりと、ティアが机上のバスケットに視線を送る。
「実は、皇子に食べてもらおうって、帝国のお菓子を練習していて。でもなかなか上手にできなくて……だから、お菓子好きな人に、試食をして感想をきいていたんです」
それが、ヴァルドが目撃したあの光景の真相なのだという。その他にも、女友達や幼馴染に手伝ってもらったこともあると、ティアは笑った。
「でも、おかげでちゃんとできたんですよ? あとで一緒に食べましょうね!」
みんなが応援してくれたから、おいしくできたと自信満々にティアは言い切る。
「全部自分で作りたかったから……ちょっと頑張ってみました」
ティアがはにかむ。眦を薄紅に染め、ヴァルドへの恋しさを多分に含んだ瞳が細くなる。
「ヒース将軍への相談はですね。あ、えーと、相談っていうか……お願いです。皇子にお休みをくださいって」
物凄く渋られたけど、おしきりました! と、やはり二人の力関係が逆転していることを示唆する言葉を、笑顔でいう。
「私には国同士のことってよくわからないですけれど、皇子が一生懸命なのは、わかります。だから少しでも、気分転換になるように」
頑張るあなたへ、私ができる精一杯のことを。
そんなティアのあたたかな心に触れて、ヴァルドは呆然とした。
「全部、私のためだったのかい?」
「はい」
あのすべては、自分想ってくれているが故だったのだ。それをみて、嫉妬心を呼び起こしたなんて。滑稽だ。
「でも結局、お仕事よけいに大変になっちゃったかもしれないですし……ご迷惑かけちゃったかな、って」
ティアが、しょんぼりと肩を落とす。
ふいに、数日前ついつい不満を口にしたときの、ヒースのあの笑みが脳裏を過ぎった。考えてみたら、あの日から仕事の量が増えていた。
あのときすでにヒースはティアからの相談を受けている。つまり、全部知っていたのだ。だから、あんなことを言った。あんな笑顔をみせていた。
ヒースがいつもよりなお熱心に書類と戦っていたのも、すべては今日のために仕事を前倒ししていたのだろう。
手のひらの上で転がされたというよりも、微笑ましく見守られていたのだろうと思う。なんだか気恥ずかしい。
だけど、それもいいだろう。今この瞬間が、あるから。
沈黙の中、互いの顔をみつめる。ヴァルドは、幼い頃のように顔をくしゃりと歪めた。
「そんなことはないよ、ティア。ありがとう、すごく嬉しい……!」
「わ、よかったぁ!」
二人同時に笑い出し、声を上げながら抱きしめあう。
やがて肩の揺れがおさまり笑い声が途切れ、ティアが甘えるように頬を摺り寄せる。
「でも、皇子がそんな風に思ってくれて……。私、嬉しいです」
「なぜ?」
瞳を閉じてそう呟くティアに、ヴァルドは問い返した。
あんな感情、忌避されるのが当然で、歓迎などされるはずかないと思っていたのに。
「……それだけ、好きでいてくれてるんだなぁ、ってそう思えます、から」
戸惑いと恥らいに、熱い吐息を零しながら、ヴァルドだけに聞こえるような小さな声で、ティアはいう。
その可愛らしさに、胸が悲鳴をあげる。せわしない心臓の旋律は、今日一日鎮まることはないかもしれない。
ティアに負けず劣らず、肺から甘い空気を吐き出しながら、ヴァルドはその小さな耳に唇を寄せる。
「うん。それくらい、君を取り巻くものすべてを羨ましく、そして憎らしく思うくらい――好きだよ、ティア」
ヴァルドもまた、ティアだけに聞こえるようにそう告げる。
「……皇子」
くすぐったいのか、首をすくめながらティアが嬉しそうに声を転がす。
「ティア、今日は二人きりなのだから、どうかヴァルドと」
名を呼んで欲しい。その可憐な声で、呼んで欲しい。
ヴァルドの求めに応じて、ティアが動く。顔があがり、淡く色づいた唇が震える。ほんの少し、頭を傾げたティアの髪が、さらりと流れた。
「ヴァルド」
空が青いと、風が心地よいと。そんな風に当たり前のものをさししめすように、静かな声でティアが紡いだものは、自分の名とは思えぬくらいに美しい響きだった。
それがとても嬉しい。
ゆっくりと距離を縮める。ヴァルドの意図を察し、長い睫を伏せるティアに、やわらかに唇を重ねる。
触れるだけのそれを繰り返し、角度を変えて甘さを味わう狭間に、囁く。
「君は私のものだ」
「はい」
唇がわずかに離れた瞬間に応えが返る。
「私も君のものだ」
この愛しい気持ちは、君だけのもの。
「……はい!」
互いの両頬にそっと手を添えて、祈るように誓うように、想いを絡ませる。
ティアが、幸せそうに笑み崩れる。
その表情に、ヴァルドの胸のうちにある淀みで、くるくると回り続けていたものが、するりと抜け出した。それは、自分からティアへと、素直に真っ直ぐに、どこかに囚われることなく、流れていく。
それはきっと、すぐにティアから自分へとかえってくるのだろう。何倍も美しく、そして輝かしく、なによりも愛おしいものとして。
互いの間で流れ流れて、くるくる巡る。
その音、その心地よさに目を閉じて、ヴァルドはティアの額に口付けをひとつ、贈った。