星の大河の向こうから

 遠い遠い異国のお話。
 昇る太陽を求めれば辿りつく東の東。
 とあるところに、天を治める帝がいました。
 帝には、織物を織ることがとても上手な娘がいました。名を織姫といいました。
 娘には想い人がいました。彼は牛飼いで、名を夏彦といいました。
 帝は、二人の互いを想う心と、働き者であることに免じ、二人が夫婦となることを許しました。
 ところが、夫婦となった二人は、たいへん仲睦まじく、常に互いに寄り添い離れようとしません。
 やがて織る者がいなくなった機織り機には埃が積もり、世話をする者がいなくなった牛は野山へと逃げ出しました。
 己が勤めを果たすよう、帝は再三に渡り使者を遣わしましたが、二人は一向に働く様子はありません。
 とうとう怒った帝は、二人を大河の両岸に引き離しました。
 大河は広く、互いの顔はみえません。大河の流れは、声を届けることさえ許しません。
 夫に会えなくなった織姫は、家の中に篭もりきり、日々を泣いて暮らすようになりました。
 妻に会えなくなった夏彦は途方に暮れ、河辺に立ち尽くす日々が続きました。
 そんな二人をみかねた帝は、二人が勤勉に働くことを条件とし、一年に一度だけ、その大河にカササギの橋をかけることにしました。
 帝の許しを得た二人は大いに喜び、心を入れ替え、以前の働き者に戻りました。
 こうして、妻である織姫と、夫である夏彦は、互いに会えるその日を待ちわびながら、星流れる大河の向こうにいる愛しい人を、ずっと想い続けているのです。

 

「それが『たなばた』っていうお話ですか?」
 ヴァルドの話を神妙な顔つきで聞いていたティアが、小さく首を傾げながらいう。
 見知らぬことに興味を示す幼子のようなあどけない仕草をするティアに、ヴァルドは笑いかけた。
 それだけで、向かいあってソファに座る二人の間に、恋人同士にふさわしいまろやかな雰囲気が漂う。
「そう。七月七日の夕方に会えるようにした、ということらしいからね。ただ、その日に雨が降ってしまうと、二人は会えないそうだよ」
「ええ!? そんなの、かわいそうです……!」
 きゅ、とティアが眉根を寄せる。わずかに身を乗り出して、不条理を訴える。
「一年に一度だけの、大切な日なのに!」
「うん、私もそう思うけれど。雨が降ったら水かさが増すからね」
 あ、とティアが声を漏らす。
「そうですよね……。強い流れじゃ、鳥さんも大変ですもんね」
 うーんうーん、とティアは腕を組んだ。きっと脳内では、ごうごうと流れる河の両岸で、おろおろする一組の夫婦と白鷺のことでも思い浮かべているに違いない。
 本当かどうかもわからぬ異国の話に、ここまで真剣になられると話したかいがあるというものだ。
 くるくると変わるティアの愛くるしい表情に、ヴァルドが瞳を細めていると。
「皇子、そろそろ休憩時間は終わりということに……」
 そそくさとした事務的な口調で、傍らに控えていたヒースが耳打ちしてくる。
 高い位置にあるヒースの顔をみあげ、優雅に微笑んでみせる。
「まだ少し、あるようだけど?」
 ちらり、と部屋の壁にそってたつ豪奢な柱時計に視線を送る。
 執務中のヴァルドとヒースのもとへティアが着てから、十五分ほど経過している。だが、約束は二十分間だったはずだ。
「……」
 ぴくり、とヒースの眉が少しだけ跳ねた。そして、肩をやや落としながら息をつく。ため息が返ってくるのはいただけないが、許されたと思い、ヴァルドはティアに向き直る。
 そこには、きらきらと輝く大きな瞳があった。
「それにしても、皇子は遠い異国のお話にも詳しいんですね! いつもありがとうございます」
 楽しいお話をきかせてくれることに、感謝することしきりのティアは、素直で可愛いとつくづく思う。
「本を読むのが好きなだけだったけれど……ティアにそういってもらえて、私も嬉しいよ」
 民を治める立場にあるものとして、知識は重要なものだとヴァルドは考えている。だがこれがその一環だ、というには少々語弊があろう。しかし、あの頃は他国の民俗学的なものを知るのは純粋に楽しかったのだ。いい気分転換だった。それに、いまこうしてティアに喜んでもらえているのだから、知っておいて本当によかった。
 初めてこの物語を読んだときには、「なぜ真面目に働くことをやめてしまったのか」、「ちゃんと働いていればこのようなことにもならなかっただろうに」と、思ったものだ。
 だが、今ならわかる気がする。
 織姫と夏彦が、仕事を忘れるほどに互いだけをみていたという理由が。
 ふ、と勝手に笑みが漏れる。それをみたティアが目を瞬かせる。
「皇子?」
 可憐な声、さらりと流れる明るい髪、深い色の大きな瞳。そこにいる、ただそれだけなのにこんなにも愛おしい。
 いくら見つめても飽きることはない。どれだけ側においても疎ましく思うことはない。だから織姫と夏彦の二人は一緒にいたかったのだ。片時も離れたくない、と。
 今の自分も、そうだ。
 どうかしましたか? というティアの問いに、ヴァルドはそんなことを考えながら小さく笑って返した。
「いや、ちょっと考えていたんだ」
「なにをですか?」
 君のことだけ、と脳裏に過ぎった言葉は却下して。
「もし私たちがそうなってしまったら、ティアはどうするのだろうか――とね」
「え?」
 瞳を二度三度と瞬かせた後。ん~、とティアが軽く握った小さな手を口元に押し当て、睫を伏せた。
「私、だったら……ですか」
 見たこともない織姫という存在を、ティアに重ねながらヴァルドはいう。
「私はきっと、君の姿を思い浮かべては、川岸に立つと思う。もし七月七日に雨が降って会えないとなったら、君を想って涙するかもしれない」
 それは、帝によって引き離された夏彦のように。
 愛しい者の姿を、遠い川岸に探すだろう。
 小さな木の遠い影をみつけては、彼女かと思い。
 足元に揺れる花をみれば、彼女の笑顔を思い出す。
 そんな風に、ティアのことを想うだろう。
「ええっと、私……だったら、」
 にこ、とティアが笑う。光零れるように錯覚してしまうほど、清しく明るいその笑顔が眩しい。ぐぐっと両手が力強く握り締められる。

「私は、ハンマーの奥義を使って、皇子にところに飛んでいきたいと思います!」

 いい考えでしょう?! といわんばかりに、胸をはっていわれた一言に、空間が固まった。
 一瞬の後。
 ぶふ、とあがる息漏れ。それは、ヴァルドが反応するより一足はやく、ヒースが噴出した音だ。
「……」
 想像だにしていなかった答えに、ヴァルドの思考が働かなくなる。
 ハンマー。ハンマーの奥義。
 北鎚と称される、四大流派の一派が伝える奥義は、空を駆け抜け、触れたものを粉砕するほどの威力がある――と、聞いたことがある。というか、魔王に乗っ取られるがまま、ヒドゥンメイヤの最下層で、ティアと対峙したときに使われたようなおぼろげな記憶がある。
 確かにあの勢いならば、河を渡るくらい造作もないかもしれない。いや、しかし、それにしても。
「だって、会いたいですもん! それに皇子に泣いてほしくなんて、ありませんから」
 ティアは当然といった顔をして、言葉を重ねる。しかし、はっと何かを思いついたように、口元に手をあてた。
「あ、でも星の川ってどのくらいあるんでしょうね?」
 大丈夫だとは思うんですけど……、とほんの少しだけ困った顔をして続けるティア。
 ふと、星が煌く大河の上を、凄い勢いでハンマーとともに飛ぶティアを想像してみる。
 きっと、ティアは輝く笑顔でヴァルドの元へと降り立つのだろう。そうして、元気よく手を振りながら、駆け寄ってくるのだろう。
 ふ、と肺から息が漏れた。
「でも無理なら、近くにある木でも切り倒して橋代わりにするのもいいですしー……」
 今度は、剣の奥義で回転しながら、川岸の木を片っ端から切り倒していくティアの姿が脳裏を過ぎった。
 もうだめだ。同じことを想像したらしいヒースと一緒に、ヴァルドもまた噴出した。
「あ、あれ? どうかしましたか?」
 横を向き、肩を震わせるそんな二人の反応に、ティアは目を瞬かせる。なにか変なことをいっただろうかと、おろおろする様は小動物のようで可愛いのだが、つい先ほど言った言葉は豪快すぎる。その差が、とても面白い。
「な、なんでもない、よ……!」
 ヴァルドの声の震えは止まらない。
 ちらりと見遣ったヒースは、顔を伏せて笑い声をなんとか抑えているようにみえた。
 その姿にまた笑いがこみあげる。
 こうして皇子という立場を忘れ、笑える相手がいること、笑える場所があることは、つくづく幸福なものだと、ヴァルドは思う。
 それもこれも、どうして二人が笑っているのかいまだにわからぬまま首を傾げるティアのおかげだ。

 ああ、ああ――なんて、楽しい子なのだろう。

 いつもいつも、彼女は自然と自分を楽しませてくれる。
 彼女にかかれば、二人の間に大河が横たわる障害など、ないに等しいのかもしれない。
 伝授されることさえ難しく、使いこなすことさえ常人にはあやうい奥義を利用するなど。その発想が、素晴らしく凄いと思う。静かに、一年にただ一度の約束された日を待ち、雨が降ったら泣くのだろうと考える自分とは大違いだ。
 やがて、笑いをおさめたのはヒースの方が先だった。その後を追いかけるように、目尻にかすかに滲んだ涙を拭いつつ、ヴァルドは言う。
「まあ、私たちならばそんなことにはならないはずだよ」
 ね、ティア? と、美しい瞳を真正面から見据えて囁けば、柔らかな頬を朱に染めてティアが大きく頷いた。
 互いに互いを想いあってはいるけれど、果たさねばならぬことを忘れることは決してない。どちらも大事に、大切にして、後悔することなく二人は生きていきたいと、願っていると知っている。
「……はいっ」
 そうして、にこにこと笑いあっていると、ずいと大きな影が二人の間に差した。ごほん、と咳払いが降ってくる。
「まったくもってそのとおりです。それでは、そろそろちゃんと執務をいたしましょうか」
 ほらほら、とヒースが二人を追い立てる。さながら、織姫と夏彦を引き裂く帝のようだ。
 ふとみれば、約束した休憩時間の終わりがきていた。若干、時計の針が行き過ぎているようだが、ヒースからのお目こぼしなのだろう。弟子と主君には甘いらしい。
 ティアもわかっているのか、不平不満もなく、ひょいとソファから立ち上がる。くす、と頬を緩ませたヴァルドもまた、優雅に席を立った。
「皇子、書類に目を通してサインをお願いします」
「わかった」
 それは、さきほどのまでの続きである。
 帝国から王国あてのもの、逆に王国から帝国におくられるものがある。一通り目を通した後、正式な書面であることの証明として、ヴァルドのサインを添えた書類をつけなければならない。ここ最近、活発になってきたやりとりで、こういった事務作業が増えていた。
 ぐりぐりと、ヒースがティアの頭を撫でる。
「ティア、二時間くらいでおわるだろうから、またあとでくるといい」
 言外に、それ以降ならば好きにしていいといっているのだ。逆をいえば、二時間ですべての処理を終えてください、ということでもある。
「はぁい!」
 師匠の言葉をそのまま受け取るよい弟子のティアは、素直に手をあげた。ヴァルドは小さく息をついた。妙な圧力を受けた気分である。ヒースにしてやられた。
「皇子! また後で」
「またあとで、ティア」
 ぎゅ、と別れを惜しむようにティアがヴァルドに抱きつく。そっと抱擁を返すと、嬉しそうな顔をしてティアは離れた。
「ヒース将軍もお仕事頑張ってくださいね!」
「ああ」
 ひょい、とヒースが手をあげる。
「お仕事終わったら、三人でご飯食べましょうね!」
 そういって笑ったティアは、執務室を飛び出していった。ぱたぱたと、小さな足音が遠ざかっていく。
 ティアという存在が消えただけで、世界の色調がひとつ落ちてしまったような味気無さ、寂しさを覚える。
 でも、ちゃんと後で胸を張って会えるよう、執務に取り掛からなければ。
 執務机の椅子に腰掛けると、横手からヒースが一枚書類を差し出す。
 ざっと目を通す。穀物の関税に関するもののようだ。
 するすると文字を追いかけ、内容を頭に羅列しながら、ヴァルドは唇を動かす。
「ヒース」
「はい。なんでしょうか皇子」
 書類に問題でもあっただろうかと、真面目な顔をしたヒースが一歩近づく。ヴァルドは近くに置いてあったペンをとる。
「今度、北鎚の伝承者に会いたいと思うのだが、ヒースは彼を知っているかい?」
「は? ……存じては、おります……ですが、」
 なんとも歯切れの悪い言い方に、なにかあるのだろうかと思いつつヒースの言葉の先を待つ。
「――かの人物にお会いしたいという理由を、お聞きしても?」
 急な発言をいぶかしむのも当然だ。ヴァルドは書類からは目を離さず、サインをしつつ、いう。
「ああ。その人物から奥義を伝授してもらえないものかな、と思ってね」
 キッ、とかすかな音をたて、ペンをとめたヴァルドはヒースを見上げ、紙を差し出しながら微笑む。
「だって、ティアばかりに会いに来てもらうわけにはいかないだろう?」
 視線をおくった相手は、青灰色の瞳を精一杯に見開いている。頬が引き攣っている。
「……」
 本気か冗談か、どちらですか……。
 そんなヒースの心の声が、沈黙の狭間から聞こえてくるようだ。
 ヴァルドはもちろん本気である。
 愛しいティアと引き離されるなんてことは御免だが、念には念を、である。ありとあらゆる可能性を考慮して、自分にできる準備をしたところで、悪いことはなにもあるまい。
 珍しく驚きの表情をみせるヒースを横目に、どのくらいで奥義を習得できるものなのだろうか、と――そう真剣に悩みながら、ヴァルドはもう一枚、書類を引き寄せた。