「アンワール!」
ローアンの街、裏通りの一角で風に吹かれて佇む恋人を見つけ、ティアは声をあげた。
その溌剌とした声に、ぱっと少年が振り返る。静かであった横顔は、少女を目にした瞬間に、嬉しそうにほころんだ。
その笑顔に、同じような笑顔を返しながら近づいて。
「はい、どうぞ!」
ティアは元気よく、綺麗な装飾紙に包まれた箱を差し出した。
それをみつめて、アンワールは小さく首をひねった。それでも、おずおずと伸びてきた手が、そっとティアの手の上にある箱を持ち上げる。
不思議に思っても素直に受け取ってくれるのが、彼らしいとティアは思う。
だが実のところ、こんなに風にアンワールがいうことをきくのは、ティア限定なのであるが……疑われたことのないティアが、それに気付くわけもない。
「なんだ、これは?」
かたかたと揺すってみた後、アンワールはティアと箱を交互にみた。見当もつかないらしい。
「アンワールへのプレゼント! 中はね、チョコレートだよ」
「チョコ……レート……?」
きっと砂漠の民にとっては馴染みないものなのだろう。大体、あんな熱いところにあったらすぐ溶けてしまうに違いない。
だから、ティアは最初から説明することにした。でも、聖者バレンタインの伝承云々の部分は省略することにする。肝心要の部分だけ、わかってもらえればいいのだ。
「あのね。今日は大好きな人にチョコレートを渡して、好きだよっていう日なの。一年のうち一回だけのお祭りなんだよ」
ティアの言葉に、アンワールは僅かに眉根を寄せた。
「……それは、この日でなければだめなのか? ティアはいつでもいってくれているし、オレとていつも伝えていると思うのだが……」
いつもそんなことしているのかと、ナナイあたりがいたら突っ込みをいれてくるだろう台詞を、淡々とアンワールは口にする。
そして、それがすでに日常になってしまっているティアは、何の疑問も抱くことなく、くすくすと笑った。
「うん、アンワールの言うとおり、私たちの場合は改めてって感じになっちゃうけど。でもね、私の気持ちをちゃんと伝えるには、いい機会だなって思うから。だから、アンワールのために作ってきたんだよ」
「そうか……!」
あなたのために、というティアの言葉に頬を染め、アンワールは包みをゆっくりと開いていく。そして蓋を開けて現れたものは、やはり彼にとって珍しいものであるらしく、じっと注視している。
「乾物……干物とか、そういったものではないのか」
確かめるように、そっと指先で押してみている。生チョコがちょっとだけへこんだ。
「思ったよりもやわらかいものなのだな」
未知の食べ物を前にしたアンワールの仕草は、まるで目の前にいきなり現れた獲物を吟味する野生動物のようで。
ティアは笑いを噛み殺しながら、小さく頭を振って干物ではないと否定する。
「ね、食べてみて?」
「ああ」
そういってぱくん、と口にひとつ生チョコレートをほうりこみ、アンワールはもごもごと口を動かした。
そして、ぴたっと動きをとめる。
僅かな間を挟み、また、もごもご再開。
さらに、もごもご。
そのたびごとに、ぱあぁぁぁっと輝いていく表情に、ティアは今度こそ素直に笑った。
わかりやすい。そして可愛い。
予想通りの反応だった。甘い物好きのアンワールなら、必ず喜んでくれると思ったのだ。
「おいしい?」
ごくんと喉を鳴らしたころあいを見計らって、ティアはわかりきった答えが帰ってくる問いをした。
「ああ――初めて食べるものだが……これは、お菓子なのだな。おいしい。ありがとう、ティア」
口の中に広がる甘さに蕩ける笑みを浮かべたアンワールに、ティアは満足そうに頷いた。ここまで喜んでくれるなら、作ったかいがあったというもの。
昨夜がんばった自分を褒めていると、かさかさと音を立てながらおぼつかない手つきでアンワールはチョコレートをしまっていく。
「あれ、もう食べないの?」
「いや……なんだか、もったいない」
ティアが目を瞬かせてそう尋ねると、アンワールは真面目な顔でそう返してくる。
「そんなに気に入った?」
こくん、と頷くアンワールはすっかりチョコレートの魅力にとりつかれているようだ。
食べたいけど、もったいない。でも、名残惜しい。そんな心の声が聞こえてくるような反応に、ティアはぽんと手を打ってひとつ提案する。
「じゃあ、また作ってあげる。だから、今日は好きなだけ食べていいよ? っていっても、ある分しかないけど」
これならば、アンワールも気兼ねせずにチョコレートを味わえるだろう。そう思った。
しかし、アンワールはまだ納得しかねるらしい。
「だが、一年待たなくてはならないのだろう?」
「へ?」
思ってもみなかった言葉に、ティアは口を開けた。次が一年後なんて言っていないのに。
驚くティアに対し、アンワールは手の中の箱を大事そうに見下ろした。
「これは、一年に一度の祭りの日に渡すものなのだと、さきほどティアは言った。だから、このチョコレートというものも、さぞかし貴重なものなのだろう?」
材料は使い切っているから、確かにすぐに作ることはできないけれど。さすがに一年も持たせるつもりなんてない。
もしかして、次のバレンタインデーまでこのチョコレートをとっておくつもりだったのだろうか。
アンワールってば勘違いしているなぁ、と思いながらティアは微笑んだ。自分の説明不足もあるし、これは仕方ない。
「いいの! 別にこの日じゃなくても、渡してもいいんだよ。だからね、ちゃんとアンワールにチョコレートのお菓子作るから。それにね、チョコレートだって、そこまで貴重なものってわけじゃないの」
「そうなのか……」
ティアの言葉に、アンワールはふむ、と頷いた。わかってくれたか、とティアはほっと胸をなでおろす。しかし、アンワールはまだ真面目な顔で言い募る。
「だが、これはティアがオレにくれたもの。お前の想いが宿っているのに、この場ですべて食べつくすわけには――やはりいかない」
結局、そこが一番心に引っかかっているらしい。特別な日に、特別な気持ちで、特別な人にあてた贈り物。それを汲み取って、大切にしたいというアンワールに、ティアは言葉に詰まった。
なんだか身体の芯から、ぽかぽかと温かくなってくるようだ。そんなにも、大事に思ってくれるなんて。すごく嬉しい。
「……大丈夫だよ。いつだって、今日よりもっとたくさんの気持ちをこめて、アンワールのために作るから。だから、ちゃんとおいしいってたべてくれたほうが、私は嬉しいな」
「――そうか。ティアは、そのほうが嬉しいのか」
ティアの言葉に、アンワールは目を輝かせた。そんな少年へとティアは幾度も、うんうんと頷く。
ならば、と早速チョコレートを取り出すアンワールに、ティアはふと思いついた。
「そうだ。今度は、一緒に作ってみるのもいいかもしれないね」
二人で作れば楽しいだろうという考えをもっての誘いに、アンワールは目を細めた。その優しい表情は、ティアだけに向けられるもの。
「オレでも、つくれるのか?」
「うん、大丈夫だよ! ちゃんと教えてあげる」
ティアの答えに、アンワールはふっと笑みを浮かべる。
「ではそのときには、お前にオレが作ったチョコレートを贈ろう。バレンタインデーではないが、受け取ってくれるか?」
「うん、もちろんだよ。じゃあ、約束ね!」
「ああ」
微笑みあい、恋人と小指を絡ませそんな可愛らしい約束をひとつ、交わして。
ぱくん、とチョコレートを再び口に入れたアンワールに、ティアはそっと胸を押さえて告げる。
そこから溢れ零れる想いを、言葉という形にする。
「大好きだよ、アンワール」
「……オレも、ティアが大好きだ」
アンワールが幸せそうに微笑んで、そう応えてくれたから。
ティアは澄み渡る青空、優しい陽射しの下、今日この日があることに心から感謝した。