Nerthus

「ごめんください」
 うららかなとあるの日の、午後。
 忙しいランチタイムも終わってほどなく、優しい声がポコリーヌキッチンに響いた。
 今日もポコリーヌの手から数々の料理を護りぬいた戦士、もとい、ウェイターのディラスは、常人とは異なる耳をわずかに動かし、振り向いた。
 ひらかれたドアの向こう、通りから差し込む穏やかな光に包まれて、小柄な女性が立っている。
 ディラスには女性の年のころを判断する器用さはないが、一目みた感じでは、若くはない。だが、老けすぎているわけでもない。痩せすぎてもいない。太りすぎてもいない。身に着けた服は華美ではない。かぶった帽子も流行りのものではない。
 だけれど、その立ち姿には、目を引かれる。もともと、本人がもつ雰囲気が、魅せる力をもっているのだろう。
 それにしても、見かけない女性である。手にさげた小さな旅行鞄から推察するに、このセルフィアの住人ではないのかもしれない。
 だが、どことなく、誰かに似ているような気がして、ディラスは思わず首を傾げた。
 すると、女性もまた同じように首を傾けて、微笑んだ。
 そうされると、表情がいっそうまろやかになる。見る者に安心感をあたえる、おだやかさ。
 かつて愛するひとに結婚指輪を作ろうと、そこに据える石を吟味していたときにみた、ペリドットという宝石によく似た瞳の色に、ディラスは一瞬みとれてしまった。
「休憩時間かしら?」
「……あ」
 そういわれて、ようやくこの女性が客であることに気づく。どうしてすぐに対応しなかったのかと己を恥じながら、ディラスは女性に近寄った。
「いいえ。大丈夫です、どうぞこちらへ」
「ありがとう」
 誰もいない店内の中から、景色がよくみえる窓際の席を選び、案内して椅子をひく。ゆったりと腰掛けた女性は帽子を外すと、ディラスを見上げた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったみたいね」
 とんでもないことですと、ディラスは頭を振った。メニューを差し出しながら、問いかける。
「何になさいますか」
「そうね……」
 ランチタイムは終わり、ディナータイムまでは間がある時間帯であるが、軽食やケーキなどを求めてくる客もいる。なのにどうして、いつものように反応できなかったのだろう。
 ディラスが内心いぶかんしんでいると、メニューに視線を走らせていた女性が笑った。
「じゃあ、あなたがおすすめのお菓子と、それにあう紅茶をいただける?」
「……! わ、わかりました」
 まさかそんなことをいわれるとは思っていなかったから、驚いた。
 ディラスは、軽く会釈をするとポコリーヌがいるキッチンへと足早に向かう。
 今日のデザート類にはなにがあっただろうか、それにあう紅茶はなにがあるだろうか、そんなことに思いを馳せて。

 

「おまたせしました」
「まあ、かわいい。食べるのがもったいなくなるわね」
 ポコリーヌと相談しつつ、散々悩んだディラスが選んだものは、ころん、とした形と色が可愛いと評判のマカロンと、アーサーの貿易関係で手に入れることのできた、遠い南の国の紅茶だった。
 ディラス自身は相当のダメージを受けるくらいに甘いものが苦手であるが、これはフレイやノエルがよろこんでくれた組み合わせである。食べやすい手ごろな大きさのマカロンは、おやつの時間にちょうどよい。
 マカロンが盛られた皿を置き、ポットからカップへと紅茶を注ぐ。マスカットによく似た芳醇な香りがあたりに広がる。
「ごゆっくりどうぞ」
 かつてはなかなかいうことができなかったお決まりの台詞を口にして、ディラスは席を離れようとする。
 と。
「ねえ、よければ、話し相手になってくださる?」
 ディラスをその場にひきとめる言葉に、体が硬直する。
「――え、えと、お、俺はその、」
 元来寡黙な自分に、話し相手を求めることは間違いですともいえるわけがなく、助けをもとめてキッチンに向けた視線は、ポコリーヌのウインクに跳ね返された。
 たらたらと汗を流しながら、顔をもとにもどせば、そこには笑顔が花開いている。うぐ、とディラスは低く呻いた。何の含みもないと感じさせる清廉さが、まぶしい。
「あなたと、お話がしたいのよ。お客がくるまででいいから、ね?」
「……はい」
 優しい口調であるはずなのに何故か逆らえなくて、ディラスは女性の向かい側の席に座った。
 その間に、マカロンをひとつ食べた女性が、少女のように表情を輝かせる。「まあ、おいしい!」と感動する様子が、なんだか微笑ましい。
 次におっとりと紅茶に口をつけた女性が、ほう、と満足気に息をついた。どうやら気に入ってくれたらしい。
「お名前は? この街にはずっと?」
「……ええと、ディラスといいます。セルフィアには、昔から住んでいます」
 さすがにいえるわけがない。自分は、遠い昔のセルフィアで生まれた人間であるなどと。
「そう。この街はいいところね。なんていうのかしら、空気がとても優しい。初めて来た私も、なぜか懐かしくなる不思議な魅力がある。懐が深いっていうと、街の感想としてはおかしいのかしらね?」
「いいえ。俺も、そう思います」
 やはり旅行者だったのかと思いつつ、ディラスは深く頷いた。彼女の抱いたこのセルフィアの印象は、まさしくそのとおりだ。
「そういえば、竜の神様がしばらくいない時期があったときいたのだけれど、ほんとう?」
「はい。でも、あいつの友達が連れ戻しました」
 ほんのりと自然な笑み、ディラスのが口元に浮かぶ。いつも、どんなときも、友のために諦めることはなかったフレイ。こちらが止めても、こちらが心配しても、最後には世界の壁さえ、こえてしまった。
「まあ、神様なのに、まるで仲良しのようにいうのね」
「え、ええ」
 驚く女性に、いささか気まずい気持ちを抱く。自分もその神様と友達なんですといったら、信じてくれるだろうか。それとも冗談として笑われるだろうか。
 ディラスは、一瞬走った緊張を誤魔化すように、額にかかった髪をかきあげる。すると、「あら!」と、とても興味のそそられるものをみつけた少女のように、婦人は目を輝かせた。
「あなた、ご結婚されているのね」
「は、はい」
 どうやら左手をあげたせいで、ディラスの薬指におさまった指輪がよくみえたらしい。
「お相手はどんな方なの?」
「ど、どんなって……」
 テーブルの向こうから乗り出すような勢いでたたみかけられ、ディラスは肩を震わせる。適当にいってしまえばいいのだろうが、根が真面目すぎなうえ不器用なこともあって、それは難しい。
 ならば、素直に答えたほうがいいのかもしれない。ディラスは目を伏せながら、そっと自分の指輪に触れた。フレイがお返しにつくってくれたそれは、冷たい金属であるはずなのに、ディラスには温かく感じられる。
「――彼女は、ほんとうに優しくて、誰よりも強い意思を持っていて。ひとりでいた俺を、救ってくれました。それにとても、可愛い、し……」
 見ず知らずの女性相手に、妻のことを語るなど、ディラスにとっては半ば拷問だった。ごにょごにょと尻すぼみになっていったことは、せめて許して欲しい。
「奥様のこと、愛してらっしゃるのね?」
「……はい」
「素敵ね!」
 ディラスは、とうとう顔を伏せた。テーブルに突っ伏さなかっただけ頑張ったと誰かに褒められてもいいくらいである。頬が、どうしようもなく熱い。おそらく真っ赤だと思った。
 言わせるだけ言わせて満足したのか、女性はマカロンと紅茶に舌鼓をうっている。
 ゆったりとした時間がしばし流れて、ようやく血潮が落ち着いてきたディラスは、そろりと顔をあげた。
 なにか嬉しい言葉でももらったかのように、女性の顔は綻んでいる。話術が巧みではないというのに、さきほどの話はそんなに楽しかったのだろうか。
「えっと、あなたはどうしてこのセルフィアに?」
 これ以上、自分のことを訊ねられる前に、ディラスは自分から話題を変えることを試みる。竜の神が住むところとしてセルフィアは有名な場所だ。フレイが姫としての仕事をこなし、様々な祭りも開催されるので、年々観光客も増えつつある。だが、ここ数週間ほどはそういった行事は何もない。
 ディラスのほうから話しかけてくれたことに驚いたのか、マカロンに伸ばしてた指先をぴたりと止めて、女性が微かに震える唇を動かした。
「……探しものが、あって」
 ぽつりと、心に染み入るような声だった。食堂という静かな水盆に、美しい波紋を描いて消えていく。
 それはなにか、この女性にとって相当に思い入れのあるものなのだろうと、ディラスは感じた。そして同時に、みつけられていてほしいとも、思った。
 名前も知らない女性であるというのに、ディラスは同情したのだ。
「それは、みつかりましたか」
「ええ! 遠くからみただけだったけれど、とても大切にされているようで嬉しかったわ!」
 ぱあ、と女性の顔がひときわ輝く。そのときのことを思い出したのだろう。だがすぐに、その瞳が伏せられる。
「もうずいぶん前に私の手を離れていって……。その後、どうしているのかしらと、ずっと心配していたの」
 遠いところをみつめるように、窓からみえる景色に視線をおくる女性の横顔が、ひどく儚い。痛めた心が、滲みでているかのよう。
「きっと大丈夫だっていわれたけれど、どうしても気になってしまって。だからね、みんなには内緒で、ひとりで家を飛び出してきたの」
 しっとりとした声で紡がれるにはふさわしくない言葉が、最後にきこえた。ディラスは、思わず咳き込んだ。
「そ、それは、家出というのでは……」
「そうね、そういうかもしれないわね」
 数瞬前までみせていた寂しげな表情から一転、ころころと婦人が楽しそうに笑う。そのいっぽう、ディラスは頬を引きつらせた。どうやら、見た目どおりの女性ではないらしい。
「いままであまり外にでたことがなかったから、この街にくるまでも、新鮮な体験ばかりだったのよ」
「そうですか」
「ええ、そもそも飛行船に乗るまでが大変で――」
 そういって女性が語る冒険にも似た、はじめての一人旅の話に、ディラスは耳を傾けた。

 

「――あら、もうこんな時間。そろそろお暇いたしますわね。長い間ごめんなさい」
 壁にかけてある時計に気づいた女性が、口元に手を当てて驚きつつ、侘びの言葉を述べる。
「いえ、気にしないでください」
 新たに客がくることはなく、また、騒がしいことを苦手であるのに女性の会話は苦痛ではなかった。
 ディラスは女性から代金を受け取り会計を済ませると、小さな旅行鞄を手に取った。目を丸くする女性に、言う。
「送っていきます」
「まあ、よろしいの? ご親切にどうもありがとう」
 ディナータイムとなり客が増える時間まではまだ少しある。ディラスが抜けても、すぐにもどってくれば問題ないはずだ。
 キッチンであらたなメニューを考えつつ、試食という名のつまみぐいを繰り返しているポコリーヌに一言伝え、ディラスは女性と共に外へと出た。
 次の瞬間。
「あ! パパだー!」
 元気いっぱいの声とともに、ディラスの足に飛びついてくる小さな影。
 大切な存在の声とぬくもりに、ダグに仏頂面とからかわれるディラスの顔が、蕩けるようにゆるむ。
 そっと、足にじゃれつく小さな子供の頭をなでる。フレイ譲りの髪が、さらさらとしていて心地よい。
「ノエル。どうした?」
「おつかい!」
 ぎゅーっとディラスの足を抱きしめたまま、顔をあげたノエルが答える。
「そうか、えらいな」
「えへへ」
 ディラスが褒めると、ノエルが照れくさそうにはにかんだ。
 おそらく、フレイから雑貨屋に何か買いに行って欲しいと頼まれたのだろうが――ここにいる、ということはずいぶんな回り道をしているようだ。まあ、それもいいだろう。
 よしよしとノエルの頭をなでていると、傍らに立つ女性が呆然としているのに気づく。
「どうかしましたか」
 夢の世界から現実へと目覚めたものの、なにがほんとうのことなのか判別できないかのように、女性が目に見えてうろたえた。
 来店してからずっとまっすぐに向けられていた翠の瞳が、おろと世界を彷徨う。
「あ、いいえ、いいえ……なんでもないのよ」
 本人は平気だというけれど、とてもそんな風にみえなくて、急に具合でも悪くなったのだろうかとディラスは眉をさげる。
 しかし、女性はディラスの心配をよそに、ノエルばかりをみつめている。
「あの……この子は、あなたの……?」
「息子です」
 言いたいことを察したディラスは、大きく頷いた。自信をもって、我が子だと断言する。
「そう、この子が……」
 女性はゆっくりとしゃがみこんで、小さなノエルと目線を同じところまで下げた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
 ディラスの足から離れたノエルが、元気にあいさつをする。
 初対面の人に対しても、物怖じしないところはフレイに似たのだろう。そして、この街の住民とたくさん接しているからだろうとも、ディラスは思う。
「お名前は?」
「ノエル!」
「そう、いいお名前ね」
「ありがとう! ねえ、おばあちゃんはどこからきたの?」
「お、おい、ノエル!」
 女性とノエルが言葉を交わしているのを黙って眺めていたら、とんでもないことをいいだした。
 いきなり「おばあちゃん」呼ばわりはないだろう! そもそもそんなに老けているようにはみえないというのに!
 だが、青ざめたディラスの心配を吹き飛ばすように、女性が笑う。
「あら! おばあちゃんって呼んでくれるの?」
「だめだった?」
 きょとん、と目を瞬かせるノエルの頭を女性は優しく撫でながら、頭を振る。
「いいえ、嬉しいわ」
「……いいのか」
 子供を傷つけないための気遣いというわけではなく、ほんとうに嬉しそうな婦人にディラスは戸惑う。思わず素の口調で突っ込みをいれてしまった。
 失礼な、と怒り出してもおかしくないと思うのだが、なぜだか女性とノエルはあっという間に距離をつめてしまったようで、やたらと和やかな空気を生み出している。手を握り合って、きゃっきゃと笑いあうさまは、なぜだかフレイとノエルの日常をみているような気持ちにさせた。
「ねえ、これからどこかいくの?」
「いいえ、残念だけれどもう帰るところなのよ」
「じゃあ、飛行船のところまで案内してあげる! こっちだよ!」
 おつかいはどうした、とディラスが問いかける間もなく、ノエルが駆け出す。
 その小さな後姿をみつめながら立ち上がった女性が、微笑みながらディラスを見遣った。
「ふふ、ディラスさんの子供ねぇ、とっても優しい子だわ」
「あ、いえ、俺じゃなくて……」
 咄嗟に否定してしまったディラスの言葉を受けて、女性は悪戯っぽく笑った。
「奥様似なのかしら?」
「はい」
「でも、私はディラスくんにも似ていると思うわ。ほんとうに優しい子」
 目を細め、詩の一部を朗読するような優しい声でそういいながら、女性がゆっくりと歩き出す。
「おばあちゃーん! こっち!」
「いまいくわ」
 少し先で、大きく手を振るノエルに、女性が手を振り返す。そうして、再び合流した二人は、まるでそれが自然なことであるかのように、手を繋いだ。
 話かけるノエルに相槌をうつ二人の後ろにディラスが追いつくと、いつの間にそういうことになったのか、どこか郷愁を帯びた歌を二人は口ずさみはじめた。
 フレイと結婚して、ノエルが生まれ、そうしてときおり我が家を満たすようになった歌だ。
 心地よい旋律に耳を傾けるうちに、三人は飛行船の発着場へと着いてしまった。だが、どうも荷物の積み下ろしに手間取っているのか、あたりが騒がしい。
「エスコートありがとう、ノエルちゃん」
「どういたしまして!」
 えっへん、と胸を張るノエルと女性を残し、様子を見に行ったディラスは現状を把握した。
 どうやら次の便にのせるべきでない荷物が紛れ込んでしまったらしく、それをみつけるため出発が少し遅れるとのことだった。
「どうやら、出発が遅れてるみたいです」
 楽しそうな二人のもとへともどりそう告げると、女性は頬に手をあてて首を傾けた。
「あらそうなの。じゃあノエルちゃん、おばあちゃんと少しお話ししてくれる?」
「うん、いいよ!」
 ディラスをポコリーヌキッチンでつかまえたときのように、女性はノエルをあっさりと引き込んで、ベンチへと向かった。
 ぽかぽかとした太陽の光と、北から吹いてくるほどよい風に身を任せるように、三人でそこに腰掛ける。大人二人に挟まれて座ったノエルに、女性が問う。
「ノエルちゃんは、パパが好きかしら?」
「うん、すきー!」
「じゃあ、ママは?」
「だいすき!」
「あらあら」
 くすくすと笑いながら、「負けていられないわね」といわんばかりの視線を向けられて、ディラスは苦笑する。
 できるだけ育児にかかわり、精一杯の愛情をノエルには注いでいるけれど、やはり接する時間の多い母親に子供の意識は向きがちになるものだ。
「ママのどこが好きなの?」
「えっとね、強くて、かっこよくて、かわいくて、おひめさまなとこ!」
 女性の膝に手を置いて、まるで我がことを誇るかのように、ノエルは身を乗り出しておしゃべりを続ける。
「それからね、ごはんがとってもおいしい! えっとねあとね、お野菜をとっても元気につくれるんだよ! みんながほめてくれるの!」
「そうなの。すごいわねぇ」
「ぼくもね、いつかママみたいになるんだ!」
「ええ。ノエルちゃんなら、なれるわ」
 希望いっぱいなノエルの頭を、愛しそうに幾度も撫でながら、女性が微笑む。
「でもね、パパのほうが釣りは上手なの! こーんなに大きなマグロ釣ってきてくれたことあるんだよ! すごいでしょ!」
「まあ! そんなに大きかったの? 私もみてみたかったわ」
 小さな手と腕を精一杯にひろげて、そのときの興奮を少しでも伝えようとするノエルに、女性は目を大きくしている。
「ノ、ノエル……!」
 いきなり話題に持ち上げられたディラスは、わたわたと間にはいろうとしたが、小鳥が囀りあうかのごとき二人の会話は、その程度で止められるようなものではなかった。
 そのまま、今度はディラスを褒めちぎるようなノエルの一方的な会話がはじまった。女性はそれをひとつひとつ受け止めて微笑み、ディラスは純粋な子供の憧れにさらされて、恥しさで燃え尽きそうになった。
 そうこうしているうちに、準備は整ったらしい。
「お待たせいたしました! 間もなく出発いたします!」
 飛行船の出発を告げる係員の声が、あたりに響き渡る。待ち続けていた客たちが、一斉に動き出す。
「残念ね……もっと、お話をきかせて欲しかったのだけれど」
「おばあちゃん、いっちゃうの?」
 しゅん、と肩を落とし、表情を曇らせて落ち込むノエルの頬をひとつ撫で、女性が微笑む。
「ええ、名残惜しいけれど。ノエルちゃんとディラスさんのおかげで、最後にいい思い出ができたわ」
「こちらこそ、ノエルと遊んでくれてありがとうございました」
 ディラスはノエルとともに、飛行機の乗降のために取り付けられた階段まで付き添う。階段の下まできた女性が、振り返ってしゃがみこんだ。
 きらきらとした光が踊る翠の瞳が、心なしか潤んでいる。
「……ねえ、もう一度、おばあちゃんっていってくれる?」
 やや掠れたその声が紡ぐ、切実な響きを帯びた願いに、ノエルが応える。
「――おばあちゃん」
 その言葉を噛み締めるように、女性が目を閉じる。しばしその余韻に浸ったらしきあと、その瞳は開かれた。
 そこには、わずかにみせていた悲しみや寂しさといったものは、もうない。未来を見据えるような力強さだけが、あった。いつかどこかで、みたような――そんな気がした。
「ありがとう。元気でね、ノエルちゃん」
「おばあちゃんも!」
「ええ」
 立ち上がった女性が、ディラスから旅行鞄を受け取る。
「どうぞこれからもお幸せに。あなたがた家族の幸運を、ずっと祈っています――遠い、遠い場所から」
「ありがとう、ございます」
 旅のひとときに触れ合っただけの、自分たちには過分すぎるほどの言葉に、ディラスは思わず頭を下げていた。向けられた笑顔に、心が震える。
 顔をあげれば、女性が軽く会釈した。
「では、さようなら。お元気でいてね」
 そういって、女性は手を振りながら、飛行船への階段をあがっていく。その小さな後姿は、すぐに甲板の向こうへと消えてしまった。
「出発ー!」
 高らかな係員の声が幾度も繰り返される。ディラスはノエルを連れて、安全な位置までさがった。
 ふりかえれば、青空に向かってゆっくりと上昇していく飛行船。
 それを二人並んで見上げながら、ディラスは気になっていたことを口にする。
「なあ、ノエル。なんでいきなりおばあちゃんっていったんだ?」
「おばあちゃんだからだよ?」
「ああ、いやまあそうなんだろうがな……」
 これくらいの子供の感覚からすれば、あれくらいの女性でもおばあちゃんになってしまうのかもしれない。しかし、親という身としては、いささか心臓に悪いのでやめて欲しかった。
 どういえばいいかフレイに相談するか……、などと思っているディラスの服が、くいくいとひっぱられる。みれば、ノエルが背伸びをしながら、腕をこちらに差し出していた。
「パパ、肩車して!」
「ああ、いいぞ」
「わぁい!」
 歓声をあげるノエルを容易く抱え上げ、ディラスは自分の肩へと座らせる。いつもよりずっと高い位置に目線があがったノエルが、飛行船へと大きく手を振る。
「ばいばーい!」
 こちらからはみえないけれど、もしかしたらあちらからはみえているのかもしれない。そう思っての行動か、飛行船が見えなくなるまで、ノエルは手を振り続けた。
 そうして、もう影も形もみえなくなった頃。
 そろそろおろそうかと、ディラスが声をかけようとした瞬間、ノエルが覗き込んできた。にこにことしたその様子は、フレイによく似ている。
「ねー、パパ。あのおばあちゃん、ママとおんなじお歌、うたってたね!」
「……!」
 はっとディラスは息を飲む。脳裏には、二人が仲良く声をそろえて歌っていた光景が呼び起こされる。
 それは、記憶を無くしてしまったのに、フレイがノエルに歌って聞かせていた子守唄。
 歌っていたフレイ自身も、ディラスにきかれるまで、なんの歌かわかっていなかった。この街の誰も知らなかった不思議な旋律。もうすっかりききなれてしまっていたせいで、疑問が浮かばかなった。
 あの瞳。あの空気。どこか誰かに似ていると、ずっとずっとディラスの心にひっかかっていたなにかが、ぱちぱちと音をたてて繋がっていく。だけれど、肝心のところだけは、ぽっかりとあいたまま。
 まさかという思いを抱え、ディラスは飛び去った飛行船を、懸命に青空のなかに探す。だが、虚ろを埋めるはずの答えを持つ女性の姿は、もうどこにもみつけられなかった。

 

 小さな寝息を規則正しく繰り返すノエルの寝顔を覗き込み、ディラスはずり落ちかけた掛け布をひきあげる。
「ノエル、寝ちゃった?」
「ああ。おつかいに行って、疲れたんだろ」
 隣室から姿をみせたフレイの言葉に、ディラスは頷いた。
「そっか……」
 寝間着に着替えてきたフレイが、寝台の傍へとやってきて、安らかに眠る我が子をみつめて微笑む。その表情は、自分に向けられるものとはまた違う、母親としてのもの。
 何度もノエルの髪を梳くフレイを、ディラスは引き寄せた。寝台の縁に腰掛けるディラスの膝の上へと、フレイはいともたやすく落ちてくる。
「ディラス?」
 そのまま、一切逆らうことなく寄り添ってくる細い体をやんわりと抱きしめながら、ディラスは問う。
「フレイ、今、幸せか?」
 自分と出会い、家族となって、こうして暮らしている現状を、フレイはどう思っているのか。不幸せな思いをさせてはいないと思っているが、今日は、どうしても確かめたい。
「急にどうしたの?」
 くすくすと笑いながら、フレイがその腕をディラスの背へと回してくる。ぎゅっと抱きかえされて、ディラスの胸が溢れんばかりのあたたかな感情に満たされる。フレイに出会うまで知らなかった、きっとこれが――幸せ。
「……俺は、今、幸せだ。この幸せを失うのが、どうしようもなく怖いくらいだ」
 震えそうになる声を振り絞ってのディラスの言葉に、フレイが笑うのがわかる。細い肩が、揺れている。
「帰ってきてから、様子がおかしいなって思ってたんだけど、そんなこと考えてたの?」
「……」
 静かに頷くディラスの背を、フレイの小さな手が何度もなでる。それだけで、深い安堵に浸れた。わずかに強張っていた体から、力が抜けていく。
「私、幸せだよ。ディラスに出会って、恋して、結婚して、ノエルを授かって」
 甘えるように頬を摺り寄せてきながら、フレイがあの子守唄を歌うように、言葉を紡ぐ。
「この家に、この街に、私の大切な思い出がいっぱいにつまってる」
 ぎゅうと、ディラスは無言のまま、フレイをきつく抱きしめる。俺もだと、ディラスはフレイにだけきこえるような小さな声で伝えた。
「だから、幸せじゃないわけ、ないよ。世界のどこを探したってこんな素敵なところはない」
「……そうか」
 きっぱりといってのけるフレイの強さに、己の胸の内に抱く弱さが包まれていくようだと、ディラスは深く息を吐く。
 それにね、とフレイが続ける。
「最近よく考えるんだ。このセルフィアにきたアースマイトが、私でよかったって」
「どういうことだ?」
 ディラスのもっともな疑問に、ゆっくりとフレイが離れていく。同じ温度になっていた身体が離れて、少しだけ寂しさを覚えた。
 フレイが、ディラスの頬に手を添える。視線をまっすぐに絡めあって、フレイは微笑む。
「もし、私じゃないアースマイトがここにきて、セルザのお願いをきいて、守り人のみんなを解放していたら――もしかしたら、ディラスは私じゃないそのアースマイトに恋をしていたのかもしれない」
「……!」
 思わず声をあげそうになったディラスの唇を、そうっとフレイが唇で塞いだ。まだ私に言わせてほしいと、そう伝えられた気がして、ディラスは口を噤む。
「だから、私が何者でどこでどうやって生きていたのかを、思いだすことがもうできなくても、ディラスが私でない誰かに恋をしてしまうくらいなら、」
 フレイの指先が、愛しげにディラスの頬を撫でる。
「私でよかったって、そう、思うんだ」
 一拍おいて、フレイが囁く。心からそう思っていると吐露するように重く、だけれどひどく、幸せそうに。
 そんなことをいうフレイに、ディラスはゆっくりと瞳を閉じた。
 フレイがいうように、もしも、もしも、セルフィアにきたのが別のアースマイトだったら?
 たとえ守り人の役目から解放されたとしても、この広い世界のどこかにいるフレイに出会えないのだとしたら?
 自分は、どうなったのだろう。
「……もし」
 考えたのは一瞬のこと。それで結論は出た。否、最初から、ディラスの中にある答えはひとつしかない。
「もしも、フレイじゃないほかのヤツが俺を守り人から解放したとしても、俺はそいつとどうこうなんてならなかったと思う」
「……そうかな」
 目をあければ、フレイが小さく首を傾げていた。どこか困ったような、嬉しそうな、いろんな感情が入り交ざったその表情に、ディラスは唇の端を持ち上げた。
 自信がないのは、いつもこちらのほうだと思っていた。言葉を欲しているのは自分ばかりだと。でも、フレイもまた同じように、自分からの言葉を、本当はいつも求めているのかもしれない。
「そうだ」
 勘違いかもしれない。でも、ディラスは力強く頷いた。ほんとうのことを、たまに形にするくらい、いいじゃないか。恥しさをおしこめて、ディラスは続ける。
「たすけてくれたから、おまえを好きになったわけじゃねえ。アースマイトが、好きなんじゃねえ――俺の心ごと救ってくれたフレイだから、好きになった。愛したんだ……」
「……うん」
 そうして、額をすり合わせ、頬を寄せ、甘く唇を重ねる。互いの存在を確かめあって顔を離せば、フレイが泣きそうな顔で、それでも懸命に微笑んで言う。
「ディラス、今、幸せ?」
「……!」
 きっと、今自分はフレイと同じような顔してるんだろうと思いながら、ディラスは笑う。
「ああ――幸せだ」
 そして、フレイをきつく抱きしめる。言葉にできないほどの真実だと、触れ合うことで伝えたかった。
 ディラスは思う。
 自分たちの幸せを祈っているといってくれたあの女性は、フレイの母親だったのかもしれない。あまりにも不確かすぎて、それをフレイに伝えることは、きっとないけれど。
 やわらかくあたたかな愛しいひとの肩に顔を埋め、ディラスは少しだけ、涙をこぼした。
 穏やかな優しい笑顔で自分たちの幸福を願い、遠い空に消えていった彼の人に、感謝しながら。