16.現し世

 目を覚ます。
 やけに身体がだるい。
 私、どうしたんだっけ。
「千尋……! よかった、目が覚めたんですね」
「かざ……はや……」
 耳に馴染んだ声が聞こえる。その音を頼りにかすんだ視界を動かすと、ほっと息をついた優しい表情の風早が、覗き込んでいた。
「……あ、わたし……?」
「ちょっと待っていてくださいね。今、遠夜を呼んできます」
 そういって、ぱたぱたと珍しく慌てた様子で風早が部屋を出て行く。
 ぼんやりとそれを見送ってすぐに、熱を吐き出しながら千尋は目を閉じた。
 どうして、こんなに疲れているんだろう。
 千尋は、鈍い思考回路を懸命に動かして、記憶の糸を手繰り寄せる。
 そう、そうだ。
 次々と記憶の泡がはじけていく。
 倒れた人影、鮮やかな赤、白い殯宮、輝く太陽、闇色の世界、黒い女神、白い龍神――そして、光の中で微笑んだ忍人。
「あ……!」
 それらに突き動かされるように、身を起こそうとする。だが、体がついてこない。くらりと激しいめまいに襲われて、千尋は寝台の上に蹲った。
 思い出した。
 白い太陽と生太刀に導かれ、自分は殯宮で忍人を前に己の胸を貫いたのだ。最愛の人を黄泉から連れ戻すために。
 戻って、きたのか。
 千尋は鉛のように重い手をあげる。目の前に掲げたその手を幾度か握り締め、開く。
 ああ、わたし生きてる。
 そう、実感したとき。ぼろり、と涙が零れた。
 生太刀に導かれた根の国。真なる黄泉への旅路の果てに出会った、一人の神を思い出す。虚ろを抱え黄泉を支配していた最古の女神。千尋を贄として、忍人の黄泉還りの儀式がおこなわれたはずだ。そして、黄泉に現れた白龍が、この世界の行く末を人間たちに預けてくれると約束してくれたはずだ。
「おしひとさん……どこ……?」
 かすれた声で呼びかけても、誰も応えてくれはしない。
 もしかして。
 あれはすべて幻だったのだろうか。
 叶わぬ願いを抱き続けて迷い込んだ、飛沫の泡のごとき世界だったのだろうか。
 確かに、この手にあの人を取り戻したと思ったのに。
「お……おし、おしひと、さ……ひっく」
 小さく身を丸め、手の甲を瞼に押し付けて千尋は最愛の人の名を呼ぶ。
 もう、その呼びかけに応える声など永久にありはしないのかと、そう諦めかけた瞬間。
 ばたばたと、風早が出て行ったときの比ではない足音が聞こえてくる。数人が諌め、驚き、呆れた声で何か言っている。
「ちょっと、落ち着いて! そんな体で無茶をしないでください……!」
「はなせっ……!」
「うわっ! なんであんたがここにいるんだよ! 寝てろって言われてるだろ!」
「お、お待ちください! せめて上着を……!」
「どけ……! 俺がいかねば……」
 何事かと思わず顔を上げた千尋の視線の先、閉じられた扉が勢いよく開け放たれる。
 そうして、部屋へと雪崩れのように入ってきた見知った顔たちに、ぽかんと千尋は口を開けた。
 大騒ぎして飛び込んできたのは、先ほど出て行ったばかりの風早。そして連れられてこられた遠夜。近くにいたのか呆れた顔をした那岐もいる。おろおろと紺色の上着を手にした布都彦が、最後に姿を現した。
 だが千尋の瞳は、一番に部屋へ滑り込んできた男しか映していない。
「――っ!」
 涙が溢れる。
 息が止まった。
 大きな瞳を限界まで見開いて、千尋は震える手で口元を覆った。
 ふらつく足取りでこちらに向かってくる人物が、手を伸ばす。
「千尋……!」
 その声が己を呼ぶ奇跡に、千尋の全身が喜びに満ちた。同じように手を伸ばせば、その指先が包まれて、引き寄せられる。
 包帯がまかれた痛々しい腕に優しく抱きしめられる。その胸に寄り添い、そのぬくもりを感じたとき。
 千尋はようやく、愛しい男の名を口にした。
「お……おしひとさぁん……!」
 くしゃくしゃに顔を歪め、子供のように泣きながら力いっぱいすがり付く。
 もう、どこにもいかないで。
 そういいたいのに、喉から零れるのは忍人の名前だけ。
 忍人が、そっと背を撫でてくる。あの日、聞こえなかった鼓動が、今は耳に響いてくる。とくとくと、少し早い律動で千尋の鼓膜に命の音を伝えてくる。
 生きているのだと安堵した瞬間、膝の力が抜けていく。
 ずるずると、抱き合ったまま二人一緒に床に座り込む。
 もう一度零れ始めた千尋の涙に、忍人の頬を流れ零れた雫がひとつ――溶けた。

*****

 春の日差しは暖かく、開け放った窓から吹き込む風に髪をそよがせながら、狭井君はゆったりと微笑む。ほう、と零された息には、安堵の色が滲んでいた。
「そうですか、陛下がお目覚めになりましたか。ほんにようございましたこと」
「はっ、では私はこれにて失礼いたします」
「ああ、ご苦労さん。ほかの連中にも伝えてやっとくれ」
 報告に訪れた布都彦に岩長姫がそういうと、大きく頷いて答える。
「ご心配には及びませぬ。那岐がすでに向かっておりますゆえ」
「そうかい。手回しのいいこった」
「ありがとうございます。それでは」
 礼儀正しく一礼し、嬉しさを隠さぬまま部屋を辞していく布都彦を見送って、岩長姫はお茶をひとくちすすった。
「いかないのかい?」
 その言葉に、狭井君はわざとらしく驚いてみせる。
「まあ、せっかくの再会に水をさせというのですか?」
「……」
 そのあまりのしらじらしさに、岩長姫は頬を引きつらせた。その様子に、口元に手を当ててひとしきり笑ったあと、老女は言う。
「今しばらく、穏やかな時間があのお二方にあってもよいではありませんか。これからが大変になるのですから」
「ま、確かにそうなんだがねえ。どういう風の吹き回しなんだか……。何企んでるんだい?」
「いいえ、何も。ですが――これで豊葦原の女王に逆らおうという輩が、でることはないでしょうね」
 ゆるりといつもの笑みを貼り付けて、豊葦原の影となり日向となりその腕をふるってきた狭井君の含みのある言葉に、岩長姫は鼻を鳴らした。
「まあね。黄泉にいって惚れた男を連れ戻すなんざ、そうそうできるもんじゃない」
「奇跡を成した若く美しき女王と、黄泉からの帰還を果たした将軍の治めるこの国は、きっと繁栄と栄光の道を歩むことでしょう。それを見届けることが、私の最後の願いになりそうです」
「なんだか、全部あんたの望みどおりになってる感じがして癪だよ。ま、引退するあたしにはもう関係のないことだがね」
 そういって、岩長姫は一息にお茶を煽って飲み干した。
「すべて見通しているわけではありませんよ。すべては、我が陛下の御心の賜物でしょう」
「まあね。あんなことしでかすなんて、たいしたもんだよ。さて、やることやったら、その女王陛下の顔をそーっとみてから行くとするかねぇ。じゃ、馳走になったね」
「いいえ。……ああ、それから言い忘れていましたが、あなたの隠居先は景色のよい場所を用意いたしましょう。その他、何か不足があれば遠慮せずに仰ってくださいね」
「それはどうも。ありがたくって涙がでるね」
 にやり、と笑いながら岩長姫は席をたち、扉へ向かう。
「じゃあ早速だがひとつ注文だ。あたしの監視役の兵は鍛えがいのあるやつをよこしな。暇つぶしにしごいてやるよ」
「ええ、ではそのようにいたしましょう」
 振り返ることなく手をひらひらと振って、岩長姫は部屋をでていった。
 弟子たちの願いのために、己の首をかけて立ちはだかったその強さは、師として語り継がれることになるだろう。
 結果として、岩長姫は千尋も忍人も無事であったことから首を差し出すことは免れた。とはいえ、わかっていながら女王を危険な目に合わせた女将軍は、監視のついた隠居の身となることとなった。
 望むところだと、快活に笑いながらすべてを潔く引き払う段取りをはじめた岩長姫のありようは――とても、彼女らしい。
 そう思いながら、一足先に豊葦原の表舞台から去っていく友の後姿を、狭井君は目を細めて静かに見送った。
 滑り込んでくる柔らかな風を頬に感じながら、窓へと目を移す。
「明日も、よく晴れそうですこと」
 青空を見上げて、狭井君は小さく笑った。

*****

 千尋の状態を確かめていた遠夜が、ふわりと微笑む。
『大丈夫。悪いところはどこもない。神子は、ゆっくりと休むことが、必要だ』
「そっか……。ありがとう、遠夜」
 ほっとして礼を述べると、風早が白湯を差し出してきた。
「とりあえず、これを飲んでください。いきなりなにか食べると胃が驚くでしょうから。あとでおかゆでももってきますよ」
「うん」
 至れり尽くせりの状態のまま喉を潤した千尋は、椅子に腰掛けてじっとこちらを見つめている忍人に視線を向けた。
 感動の再会をしたばかりだというのに、なんだかその切れ長の瞳がどんどん険しくなっているような気がする。
 包帯だらけの上半身に、布都彦が持ってきた上着をひっかけただけの姿で腕を組んで座り込んだまま、一言も発しない。
「ええっと……その、忍人さんは大丈夫ですか?」
 おずおずとそう問いかけると、ぴくりと眉が跳ね上がる。一層、忍人から漏れ出す気が厳しさを増した。
「すまないが、二人とも部屋を出てくれないか?」
 静かに忍人が告げた言葉に、風早と遠夜は顔を見合わせ――頷いた。
「わかりました。でもほどほどにしておいてあげてくださいね」
『あとでまた、くる』
「え、ちょ、ちょっと待って……!」
 口々にそういって退室していく二人の背へ、嫌な予感を感じ取った千尋は声をかける。布都彦と那岐は、それぞれ千尋が目覚めたと報告するといって、連れ立って出て行ってしまった。今、風早と遠夜がいなくなれば忍人とふたりっきりになる。
 嬉しいはずだが、なんだか怖い気がするのはなぜだろう。
「感謝する」
「いえ。では失礼しますね」
 にっこりと笑った風早が、ぱたりと小さな音をたてて扉を閉める。二つの足音が遠ざかり聞こえなくなった頃。
「千尋」
 ゆっくりと立ち上がった忍人が、近づいてくる。
「は、はい……!」
 寝台の上に座り込んでいた千尋は、思わず背筋を正した。
 ぎしり、と音を立てて忍人が寝台に腰掛ける。
 まっすぐに見つめられて、なんだかいたたまれない気分になった千尋は目を伏せた。
 と、顎が捕まれて顔を上げさせられる。いつにない強引な仕草に戸惑う。
「あ、あの……」
「何故あんなことをした。君は自分をなんだと思っている」
 覗きこんでくる瞳の真剣さに、息を呑む。
「あんな危険を冒して、君になにかあったらどうするつもりだった? 君はこの豊葦原の王だぞ。代わりのきかぬ大切な身なのだと、どうしてわからない。軽率すぎるにもほどがある」
「っ……! そ、そんなの忍人さんだって、そうじゃないですか!」
 自分を叱る忍人に、かっと千尋の頭に血が上った。
「忍人さんだって、かわりなる人なんていないでしょう? それに、あんなことして……私の知らないところで勝手に死んで……! 残された私が、どんな気持ちだったか、わかりますか?! 私のために生きてみたいって言ってくれたくせに!」
 ああ、こんな言い合いをしたいわけじゃないのに。
 だが心に抑えていた気持ちが、ぼろぼろと溢れ出してくる。止まらない。
「俺は君を守るために戦っただけだ。たとえそれで死んだとしても、君が生きていてくれればそれでよかった」
「そんなの勝手だわ!」
「そうだ、俺の勝手だ。俺の我侭だ。君の気持ちなど露ほどにも考えていなかった。いや、考える余裕がなかった。あのとき、君が殺されると考えたら、目の前が暗くなった。なんとしてでも、それをとめなければと強く思った」
 あっと思う間もなく、忍人が顔を寄せてくる。
 噛み付かれるように口付けられて、千尋は大きく目を見開いたあと、ぎゅっと瞳を閉じた。
「このぬくもりが、俺を呼ぶ君の声が、向けられる笑顔が失われるなど、我慢ならなかった」
「っ! おしひとさんっ」
 重ねられる唇の熱さに驚いて手を突っ張る。何をするのかと憤り、目をあける。
 初めて見る、忍人の泣き顔がそこにあった。
「君を愛しているから――――失いたくなかった」
 そう囁く忍人の声音の切なさに、千尋は言葉に詰まった。
 ああ、同じだったのだ。
 自分も忍人も。どちらも大切な人をなくしたくなかっただけ。
「それなのに、なんとか君を護れたと思ったら、わざわざ俺を追いかけて黄泉までくるなど……! いったい何を考えているんだ! 俺の気持ちも考えろ!」
「でもちゃんと二人とも還ってこれたでしょう!? それに、黄泉で忍人さん言ってくれたじゃないですか! 私が負けるはずないって!」
「俺がいいたいことはそこではない! なぜあんなことをしたのかと聞いているんだ!」
「だって、だって……! 私、忍人さんに置いてけぼりにされたくなかったんだもの……!」
 千尋だって、忍人の気持ちを考えていなかった。同じように、そんな余裕なんてなかった。
 ただ、もう一度会いたくて、名前を呼んで欲しくて、一緒に生きたくて。必死だった。ただそれだけだった。
 ぼろぼろと互いに涙を零しながら、どちらも一歩も引かずに睨み合う。
 その沈黙を破ったのは、忍人だった。
「……まったく、君のような無鉄砲で計画性がなくて、周囲のことを省みない粗忽者ははじめてだ」
「……私だって、忍人さんみたいな頑固で自己犠牲が激しくて、女心のわからない朴念仁ははじめてです」
 そして再び押し黙る。
 小さな息を吐き出しながら、またも忍人が口を開いた。
「だが、これほどまでに俺を想ってくれる者も……はじめてだ」
 これ以上ないというくらい、涙が溢れてくる。それをそっとぬぐう忍人の指先に宿る優しさに、千尋はしゃくりあげた。
 厳しい顔が、ふと和らぐ。深い色の瞳に、愛しげな光が宿る。
「泣かせて、すまなかった」
 ふるふると千尋は頭を振った。そんなこと、どうでもいい。自分の涙など、たいしたものじゃない。
「迎えにきてくれて、ありがとう。俺を生かしてくれて――ありがとう」
 この言葉が、きっと忍人が伝えたかったすべて。
 嗚咽をこらえ、千尋は言う。本当は、一番に忍人に言いたかった言葉を、懸命に音にする。
「忍人さん、おかえりなさい……おかえりなさい……っ!」
「ああ、ただいま。これからは、ずっと一緒にいる。もう離れない」
 何度も何度も頷いて、千尋は引き寄せられるまま忍人の胸に頬を寄せた。
 そっと額に降って来た柔らかな感触に、千尋は顔を上げる。
 じっと視線をあわせて、どちらからともなく顔を寄せた。先ほどとはまったく違う、優しい口付けに、また涙が零れた。
 触れ合った唇が、重なる肌の熱が、絡み溶けあっていく。
 その心地よさに、うっとりと目を細め幸福に浸っていると、ふいに身体が休息を訴えてくる。安堵したせいか、睡魔が付込んできたようだ。
 そんな千尋の様子に気づいたのか、忍人がそっと身を離した。
「さあ、そろそろ眠るがいい」
「でも」
 抗おうとしても、僅かな力しか出せないはずの忍人によって身体が横たえられる。
 もっと、お話がしたいのに。
 そう思っても、瞼が重くて仕方がない。
 するりと髪を撫でる忍人の手が、さらにまどろみの淵へと誘う。
「君が回復したあかつきには、」
 忍人の声が、全身を包み込む。ずるりと千尋の意識が落ちていく。
「必ず、桜を見に行こう」
「……はい」
 この季節では無理かもしれない。だけど、その次も、その次の季節もあるのだから。
 交わした約束を必ず果たそうと、そういってくれる忍人に微笑んで。
 千尋は穏やかな気持ちで、眠りについた。