17.桜

「いやー、あんときはすごかったよなぁ! な、遠夜!」
 こくこくと遠夜が頷く。豪快に笑いながらその背を叩いているサザキは、すっかりできあがっている。桜を愛でるために設けた席であるのに、頭上に咲き誇る薄紅の花よりも酒のほうがいいらしい。
 ひらり、と花びらが一枚落ちてくる。不機嫌そうに眉をひそめる忍人が手にする杯に、それは浮かんだ。つ、と酒に波紋がはしる。だが、そんな風流さに心を動かす余裕が、今の忍人にはない。
「もう、その話はやめろと何度言えばわかる……」
 低く地の底から響いてくるような、忍人の声もなんのその。サザキは赤らんだ顔をしたまま、大げさに肩をすくめてみせた。
「あーあー、なんだよ。そう冷たいこというなって! 豊葦原が誇る女王陛下の伴侶になろうって男が、そんなに心が狭かったらだめだろうがー!」
 標的が移動したらしく、力加減一切なしに背を叩いてくるサザキに対して、忍人の目がすうっと細くなっていく。
「ははは、サザキそろそろやめたほうが……」
 風早が諌め終わるよりはやく、忍人が静かに立ち上がった。
 その姿を、「お?」と間の抜けた顔で見上げるサザキの目の前で、すらりと腰から太刀を抜き放った忍人が薄く笑う。
「お前には何度いっても通じないと、よくわかった。なればその減らず口、二度と利けぬようにしてやろう」
「ばっ……生太刀だしてんじゃねーよ! うわっ、やめろ馬鹿!」
「そういえばあのときもずいぶんといってくれたものだな!」
「なんだよ、もうするなとかいっておいて自分で蒸し返してるじゃねーか!」
「問答無用!」
「あは……あはは……」
 桜の下、どたどたと走り出したサザキとそれを追いかける忍人を見送りながら、千尋は乾いた笑いを浮かべた。
 それにしても、いつも冷静な忍人があんなにむきなるなんて。よほど恥ずかしいのか。酒のせいだけでなく、ほんのりと耳が紅に染まっているのをしっかりみていた仲間たちは顔を見合わせた。
「あー、でも。だめですね。思い出すと……俺も笑いが……」
 くつくつと口元を押さえて風早が笑う。
「ええ、あの時の忍人の必死な姿を、我が君にも是非みていただきたかったものです」
「そうなんだ? ちょっと残念かな」
 幾度も幾度も聞かされた、忍人の黄泉還りのあとの逸話。
「僕にはホラーにしか思えなかったけどね。死体が起き上がったと思ったら、流血しながら千尋、千尋って叫びだしてさ。千尋の目が覚めたときだってそうだよ。ミイラみたいな格好でよろよろ走ってくるし。どうかしてるね」
「『ほらー』や、『みいら』なるものはよくわからんが……まあ、そういうな、那岐。あのときは、葛城将軍も必死であられたのだ」
 一年という時間の中、少年から青年へと階段を一足飛びで駆け上がっていった布都彦が笑う。この輪の中で最年少であるというのに、背も伸び、細身の身体はさらに鍛えられ、立派な戦士の体躯になっている。だが、精悍なその笑みの中には、まだ少しのあどけなさが残っている。
「遠夜がいなかったら、あのまま黄泉に逆戻りだったかもね。出血多量でさ」
 那岐の言葉に、こくこくと遠夜がまた頷いた。那岐の言葉はどうやら正しいらしい。
「それにしても、千尋? もうあんな無茶なこと、しないでくださいね」
「わ、わかってる!」
 そっと風早に頭を撫でられながら、千尋は声を上げた。二度とあんなことはしない。する必要もない。
 いつか別れるときは必ずくるけれど、大切な人と悔いなく生きることができる時間は確かにここにあるのだから。
「私の我侭で皆に迷惑かけたこと、ちゃんとわかっているもの」
 きゅ、と唇を引き結び俯いた千尋に対して、風早が訂正する。
「迷惑をかけたというよりは、心配をかけた、が正しいと思いますよ。千尋」
「……ごめんなさい」
 もっともなその言葉に、さらに小さくなって謝る千尋に、柊が笑いかける。
「よいのです、我が君。私があなたのために尽力するのは当然のこと。それはこの上もない喜びなのですから」
「ちょっと、ちょっと、あんまりあまやかさないでくれる? 大体、この花見だって千尋の我侭だろ」
「うっ」
 那岐の言葉に、千尋はぎくりと肩を跳ねさせて視線をあさっての方向へ落とした。
 王として即位した日からちょうど一年が過ぎ、それを記念する式典が執り行われたのは七日ほどまえのこと。それが無事に終わった後、千尋は皆を集めて桜を見に行きたいと言い出したのだ。
 戦の終わった今、普段ばらばらに過ごすことの多くなった仲間たちと一緒に、堅苦しいこと一切なしに花見をしたいと思ったのだ。
 結局、王の行幸となる場合、あれやこれやと仰々しくなりかけるところを風早と柊の連携で回避し、千尋の身代わりを那岐が鬼道で用意したり、布都彦と遠夜が橿原宮から抜け出す道順を調べたり。貿易にでかけようとしていたサザキが出航を遅らせたり。皆がいろいろ奔走させられた。
 これを我侭といわずなんといおう。
 だが、今日一日をなんとかあけるために、千尋だって仕事を頑張ってきた。ちょっと大目にみてほしいと思う。
「でも、みんなとこうして、一緒に桜をみたかったし……」
「そういえば、俺たちも一緒でよかったのですか?」
「?」
 風早の言葉に千尋が首を傾げる。自分が言い出したことなのに、どうしてそういう風にいわれるのだろう。
「あいつとふたりっきりがよかったんじゃないか、ってこと」
 補完するような那岐の言葉をかみ締めて、千尋はさっと頬を染めた。そして、蕩けるように笑う。
 その表情に、ああ、と風早が納得したように頷いた。
「もしかして、二人で先にここにきたことあるんですか?」
「えへへ。うん、実はそうなんだ」
 狭井君とかには内緒ね、と人差し指を唇にあてる。
 忍人と二人だけで来たときのことを思い出して、千尋はふわりと笑う。
 あの日があったから、この美しさをみんなで分かち合えたらと、千尋は思ったのだ。
「なんか、何もかも馬鹿馬鹿しくなってきた……」
「おい、那岐。そのようなことをいうな」
 やたらと幸せな空気を振りまく千尋に、那岐はものすごく遠い目をして。それを布都彦が小声で諌める。
「まあまあ、我が君の願いを持てる力のすべてで叶えるように勤めるのが、よき臣下というもの。そして、そのご厚情を賜ることができるのは、臣下にとって栄誉なこと。私は、我が君とこうして花見ができて、この上もない喜びを感じておりますよ」
「あいにく、俺は臣下ではないぞ」
 急に上からかけられた声に、全員が顔を上げる。
 青い空を背景に、黒麒麟に跨った常世の皇がそこいた。
「アシュヴィン! きてくれたのね!」
 きらきらと瞳を輝かせて、立ち上がった千尋は手を振る。その高貴なものらしからぬ仕草に苦笑いして、黒い外套を靡かせながらアシュヴィンは少し離れた場所へと降り立つ。
「まったく、常世の皇を呼びつけておいてその台詞はなんだ。あいかわらず破天荒な女だな。ほら、みやげだ」
 皆の輪に近づいてきたアシュヴィンが、手にした瓶を掲げた。
「ほう、これはめずらしい常世の酒ですね……しかも上物だ」
 柊の言葉に、アシュヴィンがにやりと笑う。
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
 そういって風早にそれを押し付けると、アシュヴィンは千尋に向かって手を伸ばした。
「さて……改めて豊葦原の女王におかれましてはご機嫌麗しゅう。あいも変わらず、いい女だ」
 ぱちぱちと目を瞬かせている間に、あっという間に千尋は手をとられた。流れるような動作で、そっとその白い肌が覆う手の甲に口付けが落とされる――その瞬間に、千尋は何者かにぐいっと引き寄せられていた。
 そのせいで、優しく捕らえていたアシュヴィンの手から千尋の指先はあっさりとすり抜けてしまい。むっとアシュヴィンは眉をひそめた。
「貴様、何をしている。千尋から離れろ」
 いつの間に戻ってきていたのか。忍人が千尋の腰をしっかりと抱きしめたまま、アシュヴィンを睨んだ。ちなみに、サザキはむこうでへろへろになって地に倒れ伏している。
「やれやれ。独占欲丸出しな男は嫌われるぞ」
 肩をすくめたアシュヴィンに、どこか馬鹿にしたようにそういわれ、忍人はぴくりと眉を動かした。
「余計なお世話だ」
 じりじりと視線で火花を散らしている二人を交互に見上げ――千尋は噴出した。
 笑われた二人が、毒気を抜かれたような顔をする。なぜ、千尋が笑っているのか、きっとわかっていない。
「ふ、ふふ……あはははっ」
 千尋は嬉しかったのだ。
 仲間たちのやりとりが、とても楽しくて。この平和が尊くて。
 千尋は咲き誇る桜に負けぬような幸福な笑みを浮かべ、風よりもなお軽やかな声をあげた。

 

 

 同門の風早と柊は、一本の桜の下に陣取って静かに酒を酌み交わしていた。
 酒に弱い風早がつぶれない程度に、ゆっくりとこの平穏を一緒に飲み込むように、味わう。
「ですが――正直、驚きました」
「何がです?」
 ぽつり、と零された言葉に風早は首をかしげた。
 だが、柊はただ謎めいた笑みを浮かべるだけで、素直に風早の問いに答えるつもりはないようにみえた。
「また、だんまりですか。あなたはもう少し俺たちを頼ってもいいと思いますよ」
「ふふふ、いえいえ。そんなつもりはないですよ。ただ、」
「ただ?」
「こうして伝承の終わりに立ち会うとは……ほんとうに夢のようだ」
 千尋と忍人から、黄泉での出来事を聴かされたときは、にわかには信じがたかった。しかし伝承にない忍人の黄泉からの帰還は、確かに成された。それは間違いなく、永劫回帰にあった世界が終わったことを意味している。
 龍神の神子たる千尋が掴んだもの――無限の未来が、この豊葦原に開かれた。
 それは、柊が願い続けたことだった。
「おや、知らなかったんですか。俺がお育てした姫は、どんな奇蹟だって起こすことのできる最高の女の子なんですよ」
 そういって笑う風早の視線の先には、桜の下で寄り添い笑い会う、千尋と忍人の姿がある。
 風早の言葉にちょっとだけ目を見開いた柊は、同じ景色に視線を流して、小さく笑う。
「ええ、ほんとうに貴方のお育てした姫に間違いはありませんね」
「もちろんです」
 そういって誇らしげに大きく頷いた風早に、「もう立派に父親の心境ですね」という言葉は、胸の内にしまう。
 ただ、労いの言葉くらいは許されるだろうと考えて、ありきたりな言葉を口にする。
「長い間お疲れ様でした、風早」
 優しく見守り、ときには身を削り、千尋を守り通した元神に対しては、あまりにも簡素な言葉だ。だが、柊はそこに万感の思いをこめた。
「いいえ――すべては、姫のためならば」
 それを確かに受け取って、風早は笑う。千尋の幸せが、自分の幸せだとその表情は物語っている。
 その微笑に目を細めた柊の、閉ざされた瞳が未来を視る。
 忍人との婚儀のときに、ぐすぐすと泣く風早とそれを呆れた目で眺める仲間、慰める仲間の未来が、ちらりと星の瞬きのように右目を過ぎった。
 その幸福な光景に、柊は笑う。
 龍の手によってめぐりめぐる世界は幕を閉じた。
 これからは、この地を生きるものたちがそれぞれの想いを抱え、未来へと懸命に生きていくことができる。それがようやく許された世界は、さてどんなものになるのだろう。
「みんなー! ちょっとこっちに来てくれるー?」
 その奇跡を成しえた千尋が、手を振って皆を呼ぶ。
「どうかしましたか、千尋」
 隣に座っていた風早が、さっさと立ち上がって駆けていく。千尋のためならば酔いもふっとぶ現金さが彼らしい。
 なんだなんだと自分以外の全員が、そのもとへと集う光景を静かに見つめつつ。柊は、もうひとつ未来を垣間見る。
 それは、数瞬前にみたものとは違うもの。近い未来より、もっともっと、遠い遠い果ての果て。
 これより後の世、伝承が伝説となるころに。
 この豊葦原に在った自分たちは、こう呼ばれるようになるらしい。

 龍神の神子の下に集いし八つの木の葉――すなわち八葉と。

「柊ー! こっちこっち、はやくー!」
 満面の笑みで、千尋がこちらをみている。七人の仲間たちが、それぞれに満たされた様子で、その周りに立っている。
 穏やかな笑みを浮かべた者。
 皇らしい威厳を滲ませながら笑う者。
 楽しげに口をあけて笑っている者。
 どこか呆れたように笑っている者。
 月のように静かに微笑む者。
 少年のあどけなさを滲ませて笑う者。
 そして――愛しげに、千尋に微笑みかける者。
 祝福するような、花の下。皆がよき表情で微笑みあう、それは涙がでるような幸福な一場面。
「……いま、参ります。我が君」
 そして。
 柊は最後の一葉として龍神の神子の傍らに立つべく、ゆっくりと歩き出す。

 ここから確かな未来へと続く、花咲く旅路をゆく人に、幸あれと願いながら。